0.

 
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     徘徊   はいかい
うろうろと歩きまわること。うろつくこと
 卯より辰両歳御年貢皆済目録拝見証文
  拝見証文   はいけんしょうもん    
稀に古文書に見受けられるが正確な解説ができない。ご指導を乞う
卯より辰両歳御年貢皆済目録拝見証文  
   拝晤  はいご  面会することをへりくだって言う語。 拝光-はいこう  
   廃疾  はいしつ
 不治の病。またはその病人
 
   拝借米  はいしゃくまい  
幕府から借り受けた米。  
拝借金石黒村善光寺地震の被害を受け拝借金願い資料→ 
 恐れ乍ら書付を以て御拝借願い奉り候
   拝受  はいじゅ  謹んでお受けするという意味。受けるの謙譲語。  
   陪臣  ばいしん  家来の家来。  
  拝趨   はいすう  出向くことの謙譲語。  
  灰爪村   はいづめむら  
鯖石川支流別山川上流に位置する。
明治22年別山村の大字となる。その後、明治34年には内郷村、昭和31年には朝日村、同34年からは西山町の大字となる。現在は柏崎市。
 
   灰吹法  はいふきほう  
昔から行われて来た金や銀を精錬する方法。炉の下面にくぼみをつ
年けて灰を詰めて、その上に載せた金・銀と鉛との混合物を加熱して鉛を溶かし出し灰に吸収させ,金・銀だけを採取する工法。
 
   灰吹銀    はいふきぎん  
灰を使用し精錬してできた銀。 
灰吹   灰吹法
 
   廃仏毀釈   はいぶつきしゃく  
仏教寺院・仏像・経巻を破棄、破壊し、僧尼など出家者や寺院が受けていた特権を廃することを指す。「廃仏」は仏を廃すこと。「毀釈」は、釈尊の教えを壊(毀)すという意味。
 日本においては、神仏習合を廃して神仏分離を押し進める、明治維新後に発生した一連の動きを指す。日本史上最悪の文化破壊との見方もある。
 その一因として寺請制度による寺院を通じた民衆管理が法制化され、権力から与えられた特権に安住した仏教界の腐敗に対する民衆の反発によるものという一面もある。

※筆者には、まさに狂気というべき国家的行動に思われるが、とりもなおさず明治維新そのものが、それを看過するような急速過激な転換であったということではなかろうか。且つ又、その背景には国内外の切迫した情勢があったことも忘れてはなるまい。        
社寺建立停止
 御掟條目-明治3年
   拝領地   はいりょうち  大名や旗本が将軍から給付された領地。  拝領高  
   歯固  はがため  寿命が延びると言伝えられ正月三が日は餅とともに大根、芋などを食べる行事。
※石黒では元日に神社に供えた餅を食べる餅を歯固めと呼んだ。→石黒の年中行事-歯固め
 
   秤改  はかりあらため   
 江戸時代、秤の精度保持と「にせ秤」を取り締まるために行われた制度。
 明暦元年(1655)幕府は秤改めの定を出して古秤の秤座による検査を命じ、以来、秤改めは、明治6年(2873)まで行なわれた。ほぼ10年に1回くらいの割りで実施したという。
 秤改めは、町方は1丁毎に町年寄が、村方では村ごとに庄屋が秤を集めて秤改役所に持参し検査を受けた。
 不良品は没収し、修理を要する秤は修理し合格した秤は改印の印費を徴収した。また、秤を隠蔽し検査を受けなかった場合は厳罰に処した。
※秤御改員数書上帳(田辺重順家文書) 


※石黒の民具-斗枡
   計立   はかりたて
年貢米を計るとき、1俵3斗5升に付き2升ずつ余米を加えること。 
斗立-とだて 
 
   博奕  ばくえき・ばくち
 
 金品を賭けて勝負を争うものの総称。
 賭博禁止の歴史は古くは持統天皇3年(689)には双六禁止令を発している。以来いつの時代でも博奕は為政者を悩ましてきた。
 江戸幕府もは博徒改を設けるなどしてその撲滅に腐心するが種々の賭博が流行して止まなかった。寛政6年(1794)の幕府令には「博奕、賭けの類は片端から召し捕り、奉行、代官にて処断せよ」とある。こうした禁止令を次々に発令して、現代にまで至るが賭博行為は根絶できない。
 ちなみに、現代の日本では競輪競馬、競艇、宝くじなど公然と行われ、最近では政府が積極的にカジノを含む統合型リゾートの整備法案を提出している。
※現在、大衆の遊戯としてパチンコが認められているのは世界中で日本くらいのもの。
 
博奕打
   白山大権現  はくさんだいごんげん  
白山権現は白山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神であり、十一面観音菩薩を本地仏とする。白山妙理権現とも呼ばれた。
 
   莫大  ばくだい・ばくたい  
この上なく大きい事。非常に。大変に。
 
   薄地  はくち   地味の悪い土地。  
  幕藩体制  ばくはんたいせい  
  江戸幕府と諸藩とによって構成された政治的・社会的な体制。近世の日本の社会構造の特質を表わす言葉で、それは、地方分権的な中央集権的な国家体制といえよう。
 一般には「徳川封建制」あるいは「近世封建制」と呼ばれたが、戦後、
近世社会の構造に関心が向けられ研究が行われるようになると「幕藩体制」という呼称が多く用いられるようになった。
 以来、近世社会構造の研究は継続して行われており、今日では「幕藩体制」の呼称は客観的に近世日本の政治的経済的な国家構造を表わす言語として定着したものとみてよいであろう。
 
   白布  はくふ  
 カラムシからとった青苧を原料とした機模様のない織物を「白布」と呼ぶ。魚沼郡全域と頸城郡・刈羽郡などで、広く織られていた。寛文年間(1661~1673)のころに、この白布に大きな改良が加えられた。播州明石の人が新しい技術を伝え縮を織り始めたと伝えられる。
 その技法は、従来の白布の製織技術を元に、緯糸に強い撚りを加えて皺を作って縮布とし、清涼感を一層高めたのである。越後
縮(えちごちぢみ)の特徴として皺のことが協調されるが、この頃の技法上の改革としては、何より忘れてならないのが、白布という後染めから、先染め(糸の段階で文様を想定して糸を染め、模様を織りだす技法)の織物に転換したという事である。  小白布→糸が太く安価の麻織物
※石黒村も白布の生産が盛んであり、「越佐郷古文書」に天和検地帳に記された26戸で3石6升の白布高が紹介されている。→右欄参照
 越後国刈羽郡石黒村御検地水帳
   羽倉左門   はくらさもん

  江戸時代後期の儒学者、代官。大阪で生まれる。文化5年(1808)より父の代官職を継ぎ各地を歴任する。左門は、文化5年(1808)に父権九郎が61歳で没した翌文化6年に初めて代官として越後国脇野町へ赴任。
 
1842年に(天保13年)天保の改革の原案作成をめぐり御納戸頭の窪田清音と論争を起こすが、水野忠邦は清音に替えて左門を御納戸頭に抜擢する。
 翌年には生野銀山を視察し、大坂の米倉を検査して鴻池らの豪商に献金を求めるなど、幕府財政の立て直しに貢献し、勘定吟味役に昇格している。水野の失脚により職を追われ閉居し、赦された後は家督を弟の内記(紹)に譲り隠居、読書と著述に専念する日々を過ごす

  ※石黒村庄屋文書の秤御改員数書上げ帳に「羽倉左門御代官」の名前が見られる。→右欄の資料参照。
※土倉左門の名前が見られる文書 -秤御改員数書上げ帳-石黒村庄屋文書
   博労・馬喰   ばくろう  牛馬の売買・斡旋などを商売とする人。または牛馬の病気を治療する人→伯楽-はくらく  
  幕領   ばくりょう  
江戸時代における江戸幕府の直轄領・幕府領のこと。
天領ともいうが、これは明治以降に天皇の直轄地として引き継がれたために付けられた呼び名であり江戸時代にはない言葉であると思われる。
 
   箱訴  はこそ  八代将軍吉宗の発案と伝えられ、享保6年(1721)に評定所前に供えたのが始まり、後に毎月2日、11日、21日の3日に置かれた訴状箱。目安箱  
   鋏箱  はさみばこ  衣類や手回り品などを入れ、棒を通して従者に担がせた箱。  
   端書  はしがき  
手紙などで右端の空白部分に書き添えること。
 
   端村  ばそん・はしむら  
古文書辞典等には見当たらないが、文書ではしばしば目にする言葉。その意味は「端郷-はごう」と同意味で、独立した一村を形成せず、行政上本村に付随する村を指す言葉であろう。
 
※古老の話では石黒村の大野集落は下石黒集落の端村であったと説もある。
 
   橋爪・橋詰  はしづめ  
橋の終わっている土の道と接合点。
 
   馬借  ばしゃく  馬に荷を乗せて輸送する業者。  
   走百姓  はしりひゃくしょう  
貧困などのために他領や他村に逃亡した百姓。
 
     はぜ  →※石黒の樹木
 
   馬耕  ばこう  馬を使って田畑を耕すこと。またはその道具。※石黒の民具→馬耕  
   機稼  はたかせぎ  副業として機織りなどに携わること。
※石黒村では白布の生産は天和の頃にはすでに盛んであったことが分かる。
越後国刈羽郡石黒村御検地水帳 
  畑方  はたかた  
耕地の内の畑のこと。   対語→田方(たかた)
 
   畑請   はたけうけ  検地帳に畑として記載された場所。  
    畑田成    
 畑を田に転換すること。
 寛政元年より文化5年迄御割付写□本 石黒村 
   旅籠  はたご 宿屋。旅行者が食事をし宿泊する施設。 旅籠屋  旅籠代   
  畑高  はただか  
検地により決められた畑の石高。 対語→田高
 
   旗本  はたもと
 江戸時代、将軍直属の家臣団であり、多くは三河・駿河以来の武士の子孫で1万石未満で、お目見以上の家柄の上級武士。お目見以下は御家人と称した。
 
   八石山  はちこくさん  
長岡市小国町と柏崎市との境にある山。標高517m。鯖石川と渋海川の谷を分けている。この山の南方の黒姫山(890m)との間には国道252号線が柏崎市街地から同市高柳町を通り十日町市に通じている。渋海川は信濃川の支流であり。八石山は信濃川の分水界の一つである。
また、不動滝(ふどうたき)、屏風滝(びょうぶたき)、十三ケ滝(じゅうさがたき)といった名瀑(めいばく)を抱き、その山嶺は「大仏の寝姿」に例えられている。
 昔から市内の米山、黒姫山と八石三を刈羽三山と呼び昔から市民に親しまれて来た。
文政4年「柏崎町御案内帳では「八谷山」と記されている。

ビデオ資料→刈羽三山

 大仏の寝姿(八石山)
   幡持山  はたもちやま
 この山が古文書に登場するのは、天正6年(1578年)「御館の乱」からだという。西の春日山城、東の与板城山と相まって狼煙をあげた、上杉勢にとっては北信、牟礼の北国街道脇の髻山(もとどりやま)とともに最重要位置の砦であった。
柏崎市史年表には天正6年(1578年)10月7日「村上国清、北条高広の府中入りを聞き、遠藤・富所・上野・林部の4氏に旗持山の備えを固めさせる」とある
 場所-柏崎市米山トンネルの上に位置し標高366m。
 
   八木  はちぼく
柏(かしわ)・棗(なつめ)・橘(たちばな)・柘(つげ)・楡(にれ)の呼び名。
米の異名でもある。
 
 
   初午   はつうま  2月初めの午の日。  
   八海山  はっかいさん  
 八海山は、新潟県南魚沼市にある岩峰群。最高峰は標高1,778mの入道岳で、古くから霊山として崇められてきた。越後駒ヶ岳、中ノ岳とともに越後三山(魚沼三山)の一つで、日本200名山のひとつで修験道場として知られる。
 
  葉月   はづき
8月の異名の一つ。
 
 
   八州廻り  はっしゅうまわり  
 関東取締出役ともいい関東にのみあった組織。関東地方を管する代官の手附・手代の中から選ばれて代官に付属のまま常の任務を離れて関東8カ国(水戸を除く)を巡回して広域の警察の役目をはたした。人数は8〜16人ほど。  
八州様
 
   法度  はっと
掟(おきて)。法令。禁令。処罰。  
→御法度  
 
   服部半蔵  はっとりはんぞう
  伊勢桑名藩の家老、のちに日本の政治家、軍人。服部半蔵家第12代当主(大服部家当主)。戊辰戦争では旧幕府軍として桑名藩全軍を率い、西南戦争では政府軍新撰旅団中隊長として参戦した。
 
   八丁堀  はっちょうぼり   江戸京橋川の下流で、その沿岸一帯の呼び名。そこに町奉行配下の与力・同心の組屋敷があった。  
   法度  はっと  
禁止・禁制。掟・法令。  
法度書
 
   法度筋  はっとすじ  法令で禁止されている事柄。  
   八百刈  はっぴょうがり  
石黒村の地名。800束(千束→1ha)の稲を刈り取ることができるという意味であろう。筆者は子どもの頃から耳にした作場の名前である。→石黒村の地名
 
    初穂  はつほ   
その年初めて実った稲穂。神仏に供えるその年初めて収穫した農作物。
 
   伴天連  ばてれん  キリスト教および宣教師・神父の俗称。  
   花坂新田  はなさかしんでん  →石黒の歴史→花坂新田  
   花田村  はなだはん  
 鯖石川支流別山川左岸に位置する。刈羽郡に属す。
 村高は、正保国絵図では110石余、天和高帳では227石余、新田69石余、天保郷帳307石余。明治22年、曽地村の大字となる。
 江戸道中入用日記
   刎銭  はねせん  宿駅の問屋場の経費とするため人馬賃銭の一部を課徴金として徴収したもの。  
   刎俵   はねだわら  年貢米を納める際の検査で不合格となった米俵。 刎米-はねまい

※筆者の子ども時代(1945年ごろ)「供出米検査で刎ねられる」という言葉は一般に使われていた。
 
   刎毛  はねげ  検見の時、あまり良く出来過ぎた田や余りにも出来の悪い田は歩刈りの対象にしないことを言う。  
   刎札  はねふだ  入札の際、所定の印判のない札→無効票。  
   憚る はばかる   
差し障りを覚えてためらう。 遠慮する。気がねする。
※乍憚
→はばかりながら。憚入→遠慮する、慎む。無憚→はばかりなく→遠慮せずに。
 
   脛巾   はばき  →石黒の民具-はばき  
  馬踏   ばふみ  
川の堤防の上の平らにしてある所で人馬の通行ができる。
 
  破免   はめん
 災害による凶作の年に限り定免を検見取りに変えて年貢率を下げること。
破免御検地   破免御検地入り
 
   早鐘 はやがね   火事など緊急な事態の発生を知らせるために連続して早打ちする。
 石黒の民具-半鐘
  払米   はらいまい  
浅草御藏や大阪の蔵屋敷に収納した年貢米を払下げること。
 
   腹帯  はらおび  妊婦が腹に巻いた布。※石黒の昔の暮らし-出生  
     はりつけ    
死刑罰の一つでね。罪人を罪木に縛り付けておいて槍で突き殺す刑。  
磔仕置  磔罪-はりつけざい
 
   針縄  はりなわ  
かや葺き屋の屋根葺きでカヤにナル(2~3mの低木)を当てて天井裏の横木に縄をかけて絞めて取り付けるときに使う縄のこと。

※筆者は高校を卒業した年に村で最後のカヤ普請の作業に参加し、屋根の上でナルを締める役と屋根裏で長さ1.5mの針の先の穴に横木にかけた縄を通す役を経験したことがある。屋根の上から針を通すときには事故の無いようよう「上-カミ!、下-シモ!」と声をかけて針を刺した。こうして、昔の暮らしを記録に残すことになってみると貴重な経験であった。

資料→家普請の思い出

※衣食住-住-屋根普請
家普請-石黒の昔の暮らし


昔の家普請
   梁間  はりま  
住宅などの建物は大概は長方形をしているが、この短い辺の方向を梁間と呼ぶ。(長い辺の方は桁行-けたゆき)  

中門造り-石黒と鵜川の民家について  
 ※石黒の民家
  磨国  はりまのくに  現在の兵庫県頭部。  
     はん
 近世大名領の呼び名。または明治政府成立当初の地方行政区の一つ。
もともと、中国で諸侯を指して藩輔、藩屏などと称したことによる。
 とくに、江戸時代の中期以降、「藩」の呼称が新井白石など儒者の著述に散見されるようになった。
※ 
しかし、江戸幕府が「藩」の公称を採用したことは一度もなく、旗本領は「知行所」、1万石以上の大名の所領は「領分」と呼ばれた。したがって、「藩」が公称として使われたのは明治政府が明治元年4月旧幕府領を府・県・と改め元将軍家を含む旧大名の領分を行政区画として「藩」と呼んだときから明治4年の廃藩置県までの短い間だけである。その後、歴史的記述には「藩」の呼称が一般的に用いられ今日に至っている。
 
   半襟  はんえり
 装飾や汚れを防ぐために襟の上に付ける布。
 石黒の昔の暮らし-衣服₋夜着
   半季据  はんきすわり・はんきすえ  半年間の短期奉公。  
   判形  はんぎょう  
印形。印鑑。書き判、花押など。
 
   半切  はんぎり  図解  
   領行  はんこう  
法令などを発表し行き渡らせること。
 
   半紙 はんし   縦24.2㎝、横33.8㎝に漉いた和紙。  
  番所 ばんしょ
交通の要所に設けられた通行人など監視・税の徴収などをおこなった番人の詰所。あるいは町奉行所のこと。   ※口留め番所→石黒では上石黒「屋号-隠居」の近く現在の簡易郵便局のあたりにあったといわれている。
 石黒の昔の集落地図
   半鐘  はんしょう  ※石黒の昔の暮らし-民具
 
   番船  ばんせん  河口・港・関所などで警備や見張りを行う船。  
   蛮船  ばんせん  
外国船。外国の船。
 
   半田村    はんだむら  
○位置 
東→茨目・佐藤が新田 西→岩上村、枇杷島村 南→横山村、軽井川村、
北→比角村 ※東西2町程、南北9町ほど。
○支配 
 慶長3-12  堀氏 春日山藩  寛永元-天和元   松平氏  高田藩
 慶長12-15  堀氏  福島藩  天和元-貞享2    幕府領
 慶長15-19  松平氏 高田藩  貞享2-元禄14  稲葉氏  高田藩
 慶長19-元和2  松平氏  高田藩  元禄14-幕末    幕府領
○石高 
正保→437石 光長→523石 元禄→548石 天保→571石
○戸数
家数103戸・人口424人、馬17匹。
○用水
佐藤が池の水を利用していたが、同池の新田化によって用水不足で損地となり、肥料を多分に入れても悪作が続くという状況であった。その後、藤井大堰の田尻、茨目の落水を用いたがそれでは足らず明和3年には村の3分の1が藤井大堰下組合になるが、それでもしばしば旱損となり堤を設けたり茨目村用水の落水を引いたりしてきた。また、枇杷島、岩上・茨目などの村へ250石も出作が行われた。
○道
・柏崎町~小千谷、妻有、上田通りの街道いわゆる魚沼街道筋に当たる。
○その他
 ・寛保2年、当村をはじめ幕府領約20カ村を管轄する陣屋が置かれ、約30年間存続した。
・氏神は八幡・六社・十二社・天神の4社。
・嘉永5年庄屋阿部新左エ門の宅地内に原油蒸留所を創設。 
・明治初年、小池新田を合併し、明治22年鏡里村の大字となる。

 (参考文献-柏崎市史)
 
   万端  ばんたん  
すべての物事。色々な手段。
 
    藩廳  はんちょう   明治維新のときに藩知事が政務を行った場所  
   番頭  ばんとう  
商家における使用人の頭。
 
   半成  はんなり  年貢の半分。  
   半袴  はんはかま  足首までの丈で裾にくくり紐のない袴。 対語→長袴  
    飯米  はんまい  
 食用とするための米。※石黒の昔の暮らし-食事
 
   半股引  はんももひき  
膝の上までしかない短い股引。昔の旅の装束に見られる脚絆と組み合わせて使った。
 書簡-嶋田宿での行倒れ者の処理について(嶋田宿での行倒れ人関連文書)
   番屋  ばんや  
番人が詰める場所。 番所。農村で田んぼに藁で小屋をつくり稲盗人の監視をした所。  
 
         
用水を通す木製の通路。
とひ ※石黒では「とよ」と呼んだ。
 
   ひえ
 主に恐慌作物としてつい倍されたイネ科の一年草。
 縄文時代に中国から伝来した説、また日本起源説もあり、粟と並んで日本最古の穀物とされている。名前は「冷え」によるとの説もあるほど寒さに強く昔から救荒作物としても利用されてきた。石黒村の古文書にも多く「稗」はよく見られる。
 自然界にあるのは、うるち種のみであるが、最近はもち種が育成され、健康食材として今後、流通していくと予想される。
 稗(ひえ)-写真
追補→ 原産地は東アジアとインドの原産地が考えられるが東南アジアの稗は日本で栽培化されて朝鮮半島から中国に伝わったものと考えられている。日本の稗は粟とともに稲作の渡来以前からすでに栽培されていたものと見られている。
 稗の特性は
①生育期間が短い事。
②低温・湿地・旱魃や酸性土壌・塩害などに強い事。
③肥料がをそれほど与えなくとも収穫が期待できること。
④長期の貯蔵が可能であること。
⑤タンパク質や脂肪分などが多く栄養価が高く消化がよいこと。
など長所が多いが味の劣ることが難点とされる。

 稗の栽培は古代・中世の文献からも確認でき、近世の「農業全書」では稗は最も下等な穀物であるが貧民を救い農家に利益をもたらす植物とされている。また、稗には100種を超える品種があったという。

  稗(ひえ)
   稗田  ひえだ  
稗を栽培した田。※古文書には稗田の売渡証文が見られる。
丑暮より二年季に売渡申稗田之事
   日送り  ひおくり  
延期すること。順延。
 
     ひかえ →控え  引得-ひかえ   扣帳  控帳  
   扣居  ひかえおり  待機している。  
   菱垣廻船  ひがきかいせん  江戸・大阪間の主要幹線航路に就航して大量の日常消費物資を運んだ廻船。  
   日影  ひかげ 日光、陽ざし。昼間の時間。※日影が日陰と混乱して使われることが少なくない
※石黒の地名にも屋号にもこの言葉が見られる。 
 
  僻事    ひがごと  心得違いの事柄。  
   東頸城丘陵  ひがしくびききゅうりょう  新潟・長野県境の関田山塊(海抜1000メートル超)から北へ延びる丘陵で、上越市、十日町市から柏崎市、小千谷市および長岡市南部に至る。さらに北は長岡市西部の西山丘陵に連なる。
 海抜500メートルを超える山も多く、北西端には993メートルの米山がある。山は南西-北東方向にいくつかの列をなし、間に渋海川、鯖石川などの川が流れる。
 第三紀層からなり、特に地すべり地帯として知られる。この周辺は構造運動が激しく活断層が多い(中越地震・中越沖地震も東頸城丘陵の北端近くで起きた)。東側には十日町盆地をはさんで魚沼丘陵が南北に走っているが、ともに東西方向の圧縮を受けて隆起した褶曲帯である。
 (引用-Wikipedia)
 
   日柄  ひがら  その日の吉凶。一定の日数。  
   日勘定  ひかんじょう   一日ごとに収支を計算すること。
     ひき
 織物の長さの単位。寛文5年、鯨尺2丈6尺(約7.9m)を1反、5丈2尺(約15.8m)を1疋と定められた。
の単位では1疋は鳥目10文。金100疋→銭100文→青銅100疋
その他、動物の数の単位→
 
   非議   ひぎ  
道義に背くこと。不正。
 
 引合  ひきあい
 
訴訟事件の関係者として法廷に召喚されること。 関わり合い。
 
   引当   ひきあて   
金を借りる時に抵当にあたるものを一時渡しておくこと。
 
    引方  ひきかた  
 年貢の減免。  用水などを引くこと。
 
   挽代  ひきしろ  検地の水縄の縄頭の部分をいい、計測時、間数に入れない部分。  
   引合  ひきあう  割に合う。釣り合う。  引逢  
   引宛・引当  ひきあて  
抵当・担保。
 
    引当米  ひきあてまい   
将来の支出のために計算してして準備した米。抵当に入れた米
 
引当金  
 
   引請一札  ひきうけいっさつ  身元を保証するための証文。
   挽臼  ひきうす  穀物を粉にする道具。石臼 ※石黒の民具-石臼
   引負  ひきおい     
 負債。使用人が主人の金を使い込むこと。
取引、契約により相手の納入義務などを引き受けるという意味にも使われているように思われる。高反別預かり支配小作水入証文之事
 
   引高  ひきだか  
災害などで年貢納入が出来なくなった土地の分を村高から差し引くこと。
 
   引付 ひきつけ   
後日のため詳細に書き留めておくこと。判例として詳細に書き留めておく訴訟記録や文書。
与板御引渡後より諸事御用留 
   引橋   ひきはし 城などで緊急時に取り外せる造りの橋。  
  引廻  ひきまわし  
死刑以上の重罪に付加した刑で処刑まえに馬にのせて犯人を府中または犯罪地を引き廻すこと。  袖のない雨合羽。
 
   引纏め  ひきまとめ  
集めまとめる。とりまとめる。
 
  飛脚   ひきゃく  
手紙や書類、金銀や為替などを配送する人夫。  
飛脚賃  飛脚問屋 飛脚船
 
   飛脚宿  ひきゃくやど  飛脚を業とする飛脚屋。  
   日切・日限   ひぎり  
日数の限り。日限。  対語→日延    日限証文
 
   日限尋  ひぎりたずね  
欠落などで行方不明のものを探索期限を決めて探させること。
 
  非公事   ひくじ   
道理に反した訴訟
 
    非公事  ひくじ   道理に反した訴訟。勝ち目のない訴訟。  
    比丘尼 びくに    
出家して定められた戒律をうけた女性。※江戸時代初期には下級売女を勧進比丘尼・売女比丘尼などとも呼んだ。
 
   披見  ひけん
 手紙や文書を開いて見せること。
 
   非業  ひごう  前世よりの定命ではなく現世の災難による運命。
 
対語→定業-じょうごう
 
   肥後国  ひごのくに  現在の熊本県  
   火先  ひさき  
火の燃えひろがる先の方。 燃えている火の先端。ほさき。
 
   飛札  ひさつ  飛脚に持たせて送った急便。  
  菱田村   ひしだむら   
 保倉川中流域に位置する。明治22年からは東頸城郡に所属。同21年の戸数19戸、人口153人。同22年下保倉村の大字となる。昭和30年からは浦川原村の大字。現在は上越市浦川原区の字。 
※石黒村に檀家のある円重寺の所在地

参考文献 角川地名大辞典 上越市史
  差上申す一札之事石黒村へ柏崎町からの転居願い
   日〆帳  ひじめちょう  宿問屋で、その日ごとの助郷人馬数や収支を集計し記録する帳面。日締帳  
   毘沙門 びしゃもん   日本では七福人の一人で福や財をもたらす神とされている。
毘沙門天王-びしゃもんてんのう
 
   尾州  びしゅう  
尾張国の別称。現在の愛知県西部
 
   聖中 ひじりちゅう   僧侶仲間のこと。  
   比角村  ひすみむら
 東は長浜村、柏崎に街続き、南は岩上村、北は春日村。
 
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い刈羽郡比角村が村制施行し、比角村が発足。
1926年(大正15年)9月10日 - 刈羽郡柏崎町に編入され消滅。
 昭和初期に理研が進出して第2次世界大戦末期には1万人近い従業員が就業していた。同22年、理研青年学校跡に柏崎市経済専門学校が開校。同校は同25年に柏崎短期大学となり、同33年新潟短期大学と改称。付属高校を設置。
 昭和40年、越後線と国道8号の間が比角1~2丁目、四谷1~3丁目、日吉町、北斗町、豊町、扇町、長浜町、同41年越後線以西が東本町1~3丁目、西本町1~3丁目、栄町、駅前1~2丁目、新橋、錦町、鏡町、小倉町、大和町、同49年残りの国道以東が北半田1~2丁目、三和町、東長浜町となる。昭和42年に長浜町北側(旧だんご山)に松美町ができる。
 比角は昭和40年から現在の柏崎市の町名、現在は1~2丁目まである。
(参考文献-角川地名大辞典・柏崎市史)

   肥前国  びぜんのくに  現在の佐賀県及び長崎県  
  日損場  ひそんば  日照りの害を受けやすい場所。  
   飛騨国  ひだのくに  現在の岐阜県北部  
      びた
  日本では、鎌倉時代後期ごろから貨幣の流通が盛んになったが、主に中国で鋳造された中国銭が使われていた。これらの中国銭は、中国との貿易を
通じて日本にもたらされたが、日本でもこれらの貨幣を私的に鋳造する者が現れた。これを
私鋳銭-しちゅうせんと呼んだが銭貨の一部が欠落したもの、穴が空いていないもの、字が潰れて判読できないものなど粗悪なものが多かったので鐚銭(粗悪な銭貨)とされた。永楽銭1貫文に鐚4貫文が公定換算率であったことからも評価の低さがうかがえる。永楽銭いがいの銭の総称。鐚銭
 
   常陸国 ひたちのくに  現在の茨城県の大部分。   
   肥立つ  ひだつ  病気・出産のあと体が本の状態に戻ること。※石黒の方言では、出産後の回復の悪い事を「ひだちがわるい」言った。  
   緋縮緬  ひちりめん  女性の長襦袢や腰巻などに用いられた緋色の縮緬。  
   畢竟  ひっきょう
 つまり つまるところ 結局 ついには。
 
     ひつじ  
時刻として、今日の午後2時を中心とした前後2 時間を「未の刻」「羊の時」という。方角としては南から西へ30度寄った方向で、南南西にあたる。
昔の時刻表
 
   火付盗賊改  ひつけとうぞくあらため   江戸幕府の職制の一つで盗賊火付改の呼び名もある。
 火付盗賊改方(ひつけとうぞくあらためかた)は、江戸時代に主に重罪である火付け(放火)、盗賊(押し込み強盗団)、賭博を取り締まった役職。本来、臨時の役職で、幕府常備軍の御先手弓・筒之頭から選ばれた。御先手頭の職務との兼役なため「加役」(かやく)とも呼ばれ、時代劇などでは「火盗改」(かとうあらため)、或いは「火盗」(かとう)と略して呼ばれることがある。
 明暦の大火以後、放火犯に加えて盗賊が江戸に多く現れたため、幕府はそれら凶悪犯を取り締まる専任の役所を設けることにし、「盗賊改」を1665年(寛文5年)に設置。その後「火付改」を1683年(天和3年)に設けた。一方の治安機関たる町奉行が役方(文官)であるのに対し、火付盗賊改方は番方(武官)である。この理由として、殊に江戸前期における盗賊が武装盗賊団であることが多く、それらが抵抗を行った場合に非武装の町奉行では手に負えなかった[1]。また捜査撹乱を狙って犯行後に家屋に火を放ち逃走する手口も横行したことから、これらを武力制圧することの出来る、現代でいう警察軍として設置されたものである。
 初代の頭(かしら。長官)として「鬼勘解由」と恐れられた中山勘解由が知られるが、当時は火付改と盗賊改は統合されておらず、初代火付改の中山直房のこととも同日に盗賊改(初代ではない)に任じられた父の中山直守とも言われる。
 決められた役所は無く、先手頭などの役宅を臨時の役所として利用した。任命された先手組の組織(与力(5-10騎)、同心(30-50人))がそのまま使われるが、取り締まりに熟練した者が、火付盗賊改方頭が代わってもそのまま同職に残ることもあった。町奉行所と同じように目明しも使った。1787年(天明7年)から1795年(寛政7年)まで長官を務め、池波正太郎の小説「鬼平犯科帳」の主人公となった長谷川宣以が有名である。
 火付盗賊改方は窃盗・強盗・放火などにおける捜査権こそ持つものの裁判権はほとんど認められておらず、敲き(たたき)刑以上の刑罰に問うべき容疑者の裁定に際しては老中の裁可を仰ぐ必要があった。
 なお、火付盗賊改方長官は矯正授産施設である人足寄場も所管したが、初代の人足寄場管理者である長谷川宣以以外は、火付盗賊改方とは別組織の長である寄場奉行として、町奉行の管轄下に置かれた。
 火付盗賊改方は番方であるが故に取り締まりは乱暴になる傾向があり、町人に限らず、武士、僧侶であっても疑わしい者を容赦無く検挙することが認められていたことから、苛烈な取り締まりによる誤認逮捕等の冤罪も多かった。市井の人々は町奉行を「檜舞台」と呼んだのに対し、火付盗賊改方を「乞食芝居」と呼び、一方の捜査機関たる町奉行所の同心・与力からも嫌われていた記録が見られる。このためか、時代劇において悪役として扱われることも少なくない。
 これらの弊害により、1699年(元禄12年)、盗賊改と火付改は廃止され、三奉行(寺社奉行、勘定奉行、町奉行)の管轄になるが、赤穂事件があった1702年(元禄15年)に盗賊改が復活し、博打改が加わる。翌年、火付改が復活した。1718年(享保3年)には、盗賊改と火付改は、「火付盗賊改」に一本化されて先手頭の加役となり、1862年(文久2年)には先手頭兼任から独立、加役から専任制になった。博打改は火付盗賊改ができた年に、町奉行の下に移管されている。
 本役加役(任期1年)2名、当分加役(任期半年)2名が通例であったという。当分加役は火災の多い秋冬(9月 - 3月)に任命されていた。この他、江戸市中で打ちこわしが多発した際など、騒然とした状況下において増役として同役が増員された例がある。
 火付盗賊改は、幕末の文久2年(1862)以前は専任の役ではなく先手頭や持頭からの加役を命じることは他の役職にもあるが、江戸時代に単に「加役」といえば火付盗賊改を意味した。江戸市中の巡回は、町奉行のほか大番・書院番・新番・小姓組番などの番方、徒目付や小人目付なども行っていたが、火付盗賊改その一つであった。 この職はもとは一つのものではなく盗賊改・火付改・賭博改と個別の職であった。先手組が江戸市中警備に関与したのは明暦元年(1655)12月15日に「先手頭坪内惣兵衛定仍、安藤彦四郎直政所属の史、町奉行とともに市井を巡察して不法の輩を召取るべしと命ぜられた」(徳川実紀)が初見と思われる。しかし、先手頭の盗賊改任命は、寛文5年(1665)11月1日先手頭水野小左衛門守正に「関東強盗追補の事」を命じたのが最初であるとされている。
 火付改は天和3年(1683)1月23日先手頭中山勘解由直守の任命が最初とされるが元禄12年(1699)11月25日には盗賊改・火付改の両加役はともに一旦停止され従来両職のもとへ訴え出た盗賊・放火・賭博の案件は、寺社奉行・町奉行・勘定奉行、私領はその領主など本来の行政管轄役所で取り扱うよう12月1日令せられている。
 しかし、やはり治安維持には手不足であったらしく4年後の元禄15年(1702)には先手頭徳山五兵衛重俊が盗賊改に、同年閏8月9日に先手頭赤井七郎兵衛正幸が初めて賭博改に、ついで翌年の16年には先手頭佐野与八郎政信が火付改めに任命されて加役が復活し三分科となった。
 宝永6年(1709)3月2日持弓中坊(なかもり)長左衛門秀広が火付・盗賊改の兼職を命ぜられたが、さらに享保3年(1718)12月10日先手頭阿部式部信旨が盗賊改に、同じく山川安左衛門忠義が賭博改に任命されると、同時に従来の三分科の専職を改めて両人合議により火付・盗賊・賭博すべてを打ち込みで取り扱うように命じられた。
 火付盗賊改には、本役・助役・増役の三種があった。助役は火災など多い冬季10月から3月までの半年だけ本役を助ける。また増役は本役・助役でも手不足の時は先手組頭から短期に手助けするものである。若年寄支配に属し、はじめ役料はなかったが享保4年以降40人扶持が給された。付属の与力・同心の数は時代に依り異なるが与力は5〜10騎、同心は30~50人ほどであった。
 安永2年(2773)11月巡察区域の分担が定まり一組はおおむね日本橋以北、神田・浜町・矢ノ倉・浅草・下谷・本郷・谷中・駒込・巣鴨・大塚・雑司
谷・大久保の近辺であった。
 他の一組は、通町筋・八丁堀・鉄砲洲・築地・芝・三田・目黒・麻布・赤坂・青山・渋谷・麹町・深川・本所・番町とその近辺、そして幕府普請小屋場見廻り場所として神田橋外・上野・桜田御用屋敷・書替所・御厩2ケ所、溜め地から火消屋敷辺は両組相談の持合区域とし以後これを受持ち区域の準拠とした。
 江戸市中の警察・裁判権の行使にあたって火付盗賊改は町奉行に協力する立場で本来は犯人の操作や逮捕にあたり逮捕した犯人は町奉行所に引き渡されるべきものであり、事実引き渡しも行われた。しかし、自分の屋敷内に白洲・仮牢を設け、拷問の道具なども備わっていた逮捕者を吟味することも多く、町奉行所の権限とは境界が分明ではない。
 しかし、役所は町奉行所の取り調所に比べると遥かに小規模で、逮捕者に給食する設備もないところから、吟味が数日以上に及ぶ時には小伝馬町の牢屋敷に送り牢屋敷から役宅に送らせた。拷問その他吟味の方法はすべて町奉行所の仕方に準じて念入りに行うこととされていたが実際は手荒なことも多く、町人からは恐れられた存在であった。
 幕末の文久2年12月18日、火付盗賊改はこれまでの加役を止めて専任の役職となり、老中支配、役高1500石、役扶持60人扶持の2人役となり、ついで同3年8月14日2人役の組人数を1組にまとめて1人役、役扶持100人扶持に改められた。
そして、慶応2年(1866)8月4日に廃職となった。

※長谷川平蔵について
江戸後期(1745-)の幕臣。名は宣以-のぶため、幼名銕三郎(てつさぶろう)、平蔵と称す。
延享2年(1745)火付盗賊改役長谷川宣雄の子として江戸に生まれる。明和5年(1768)に将軍徳川家治に謁し、安永3年(1774)に西ノ丸書院番士となる。天明4年(1784)に同徒頭となり世禄400石に足高600石を加えられる。同6年に同先手弓頭となり、同7年9月に火付盗賊改の加役を命ぜられた。若年の小普請入り時代には遊里に通い、「本所の鉄」という異名があり、下情に通じていたため盗賊逮捕に実績を上げた。寛政の改革にあたり、老中松平定信に無宿者収容の寄場建設策を建議し、寛政2年(1790)から同4年まで人足寄場取り扱いを兼務した。石川島の6000坪余の寄場は無宿者に職業訓練を行うなど、明治以後の近代的監獄制度に連なる、我が国独特の形態を生み出した社会政策上の所産であった。寛政7年5月19日没。51歳。墓は東京都新宿区須賀町の戒行寺にある。

(参考文献-ウェキペディア・国史大辞典)
 
     ひつじさる  未と申の中間の方向→南西→図解  
   櫃数   ひつすう   お櫃など蓋のついた木製の入れ物をを数える名称  
  逼塞   っそく  武士や僧に科せられた謹慎刑で昼間の出入りが禁じられた。  
   備中国  びっちゅうのくに  現在の岡山県西部  
    必々 ひつひつ    必ずや。  
   悲田宗・非田宗  ひでんしゅう  日蓮宗の一派で、信者以外からは布施を受けず、施さない宗派。  
   人請  ひとうけ  奉公人などの身元を保証すること。人主-ひとぬし-保証する人  
   単物  ひとえもの
裏布のない一重の着物。夏季の着物。
 
 書簡-嶋田宿での行倒れ者の処理について(嶋田宿での行倒れ人関連文書)
   人返しの法  ひとかえしのほう
  江戸の人口を減らし農村の人口を確保しようとした天保の改革の一つ。
 当時の江戸は町人の半分以上を「その日稼ぎ」と呼ばれた下層町人が占める都市構造となった。
 天明飢饉と下層町人主体の打ちこわしの発生を契機として、寛政の改革で下層町人対策が建てられた。その一環として寛政2年(1790)11月に彼らの帰村を奨励する触書が出された。だが強制力もなくほとんど効果はなかった。
 その後も農村人口の江戸流入は続き、関東以北の農村は人口が減少し荒廃した。さらに、江戸では下層町民が増加し、飢饉になればすぐに救済の対象となり、有効な救済を講じなければ打ちこわしなどの騒動の主体となるなど不安定さが増大していた。
 この事態は特に天保の飢饉により一層に深刻化した。そこで天保9年(1839)に幕府は、放置すれば飢饉の際の救済が出来ないと憂慮し、農村人口を増やし江戸人口を減らすための政策の評議をした。町奉行は、江戸の生活に慣れ親しんだ者を帰村させるのは現実的ではないと回答し、人別改めを強化することで対処したいと答え、強制的帰村退散に反対した。
 これを受けて老中は、帰村作を当面撤回し厳しい人別改めの方法の検討を命じた。この結果、天保14年3月にいわゆる人返しの法が出された。
 この法の内容は、
○新規に在方の農民が江戸に移住し江戸の人別帳に入ることを禁止する。
○出稼ぎや奉公稼ぎ(他所稼ぎ)で江戸に短期間出る者は、村役人連印の願書に領主の奥印を捺した免許状を必要とし、この免許状を携帯しないものには江戸で住居を貸すことも奉公させることも禁止、そして出稼ぎ者などを江戸の人別帳に記載することを禁止する。
○江戸の町では毎年4月に人別改めを実施し、人別帳1冊ずつ南北町奉行所に提出し、1冊は町名主方に保管し、9月にそのあいだの移動を報告させる。など5箇条に及ぶものであった。
 しかし、その社会不安の要因である下層町人の人口減少を目指す法令の効果については疑問視する評価もある。

参考文献-日本国史大辞典
旅稼ぎ取り締まりについての廻文 (居谷)






 ○差出申す一札の事
   人品   ひとしな  身分や家柄。  
   一入  ひとしお 前より一層に。一段と。   
   一つ書  ひとつがき  
箇条書き。
 新建手板図
   人々御中  ひとびとおんおんなか  
書簡の宛名に付す脇書。
※明治から大正期御に「御中」は音読みで「おんちゅう」となり、現代も団体、会社宛名などに使われている。
 文例→書簡-石黒村庄屋宛て
    人宿 ひとやど    雇い人の周旋の仕事をする人で奉公人の請人にもなった。旅人宿のこともいう。  
   日済  ひなし  毎日少しずつ借金を返済する。  
   鄙人   ひなびと  田舎に住む人。  
   非人   ひにん   
身分制度のもとで士農工商の下に置かれた身分の人々。
婚姻や丁稚奉公などで村を離れる際には人別送り証文をもって移転先で新たな改帳へ記載することが決まりであった。こうした手続きをせずに移動(逃散や逃など)をすると、改帳の記載から漏れて帳外れ・無宿人扱いになる。これらの人間を非人と呼んだ。 
悲人
 
   非人手下  ひにんてか  刑罰の一つで非人の身分ら落とすこと。  
   非人番   ひにんばん  
江戸時代、村内の治安維持のほか、火の用心などの雑役にあたった者。その報酬として米や麦を与えられていた。これを
非人番給と呼んだ。
 
   陳米  ひねまい・ひねごめ  古くなった米。  
   雲雀  ひばり  →柏崎の野鳥  
   火吹竹   ひふきだけ  →石黒の民具-写真  
   非分   ひぶん  
道理に反すること。また、そのさま。不正。分不相応のこと。
 
   暇乞  ひまごい  休暇をもらうこと。  
   暇遣  ひまつかわす  休暇をあたえる。解雇すること。  
   百姓   ひゃくしょう
 百姓=農民との考え方が日本人の中に浸透し始めたのは江戸時代だった。江戸中期の儒者伊藤東涯はその著書の中で「農ハ百姓ノコト也」と記し、農夫に「ヒヤクセウ」という訓をつけている。
 江戸時代には、田畑と家屋敷地を所持し、年貢と諸役の両方を負担する者を百姓(本百姓)とした。なお、百姓は戦時においては小荷駄などを運搬する陣夫役を負担する者とされた。
 幕府をはじめとした領主は、このような本百姓数の維持増加に努め、平和が続いたことによる社会の安定化によって耕地の開発も進んでいった。次第に本百姓の分家や隷属民の「自立」化が進み、17世紀の半ば以降には、村請制村落が確立していき、田畑や家屋敷地を所持する高持百姓が本百姓であると観念されるようになった。初期本百姓が村内で持つ影響力に依拠しなければ年貢諸役を集めることが難しかったが、村請制に依拠できる体制が完成したと評価することもできる。
 山村や海付村落には田畑のない村落(集落)も存在した。そのような村でも家屋敷地は必ずあり、それらを所持する高持百姓が本百姓とされた。
 江戸時代中後期の社会変動によって、百姓内部での貧富の差が拡大していくようになる(「農民層分解」)。高持から転落した百姓は水呑百姓や借家などと呼ぶようになった。その一方で富を蓄積した百姓は、村方地主から豪農に成長していった。また、村役人を勤める百姓を大前百姓、そのような役職に就かない百姓を小前百姓と呼ぶようになった。
 実際の村落には多様な生業を持つ者が住んでいた。百姓=農民というイメージは江戸時代から続く古い俗説であるが、実際には現代の「兼業農家」よりも広い生業を含んでいる。
 明治時代初期の農民たち諸職人 大工・鍛冶は、職人身分に属する者が営む場合、水呑・借家あるいは百姓が営む場合、があった。
木挽・屋根屋・左官・髪結い・畳屋は、水呑・借家あるいは百姓が営んだ。
 宗教者 神職:江戸時代においては、吉田家と白川家(伯家)が本所として全国の神社・神職を配下にしようと争奪しあう状況にあった。しかし、幕末に至っても両家による全国編成は完了せず、百姓身分のまま神職を勤める「百姓神主」がかなりの割合で存在していた。神職身分を獲得したい百姓神主と百姓身分に留めたい村落側との意向が異なる場合があり、百姓神主と村落とが裁判を繰り返すこともあった。その一方で、本所の配下になることを忌避する百姓神主も存在した。
 医者:水呑・借家あるいは百姓が営むことが多かった。しかし、領主との関係、あるいは出自などの由緒によって「浪人」として扱われる場合もあった。
商人:水呑・借家あるいは百姓が営んだ。江戸時代には商人身分は存在せず、士農工商の「商」は町人を指した。
漁民:水呑・借家あるいは百姓が営んだ。江戸時代には「漁民」身分は成立しなかった。
 以上のように、村落にはさまざまな生業で生計を立てている者たちが存在していた。彼らがどの身分集団に属するのかは、身分集団を編成する本所の動向、身分集団自体の成熟度に左右されることがわかる。その生業の種類とともに、時期と地域による差も大きかったのである。

(参照-ウェキペディア)
 
   百姓一揆  ひゃくしょういっき
  一揆(いっき)とは、日本において何らかの理由により心を共にした共同体が心と行動を一つにして目的を達成しようとすること、またはそのために盟約、契約を結んで、政治的共同体を結成した集団及び、これを基盤とした既成の支配体制に対する武力行使を含む抵抗運動のこと。
 『孟子』に由来する言葉で、本来は
揆(やり方、手段)をひとつにするという意味で、平安時代後期から鎌倉時代には武家が団結する意志や集団行動を表す言葉として使われているが、同時代には易占の結果や意見が一致するという用例も見られた。
 江戸時代になると、幕府に公認された既存の秩序以外の形で、こうした一揆の盟約による政治的共同体を結成すること自体が禁じられるようになるため、
近現代の日本では一揆自体があたかも反乱、暴動を意味する語であるかのように誤解されるようになった。確かに一揆が反乱的、暴動的武力行使に踏み切ることもあるが、こうした武力行使が一揆なのではなく、これを行使する「盟約に基づく政治的共同体」そのものが一揆なのである。
 室町時代・戦国時代を中心とした中世後期の日本社会は、下は庶民から上は大名クラスの領主達に至るまで、ほとんど全ての階層が、自ら同等な階層の者と考える者同士で一揆契約を結ぶことにより、自らの権利行使の基礎を確保しており、正に一揆こそが社会秩序であったと言っても過言ではない。戦国大名の領国組織も、正に一揆の盟約の積み重ねによって経営されていたのである。例えば戦国大名毛利氏の領国組織は、唐傘連判状による安芸国人の一揆以外の何者でもなかった。そのため、一揆が原因になることもあるが、政権の転覆を図る反乱、暴動、クーデターなどとは本来ははっきりと区別されるべき語である。
 いわゆる暴動に該当するのは、一揆の形態のひとつに過ぎない、土一揆である。その最初の例である正長の土一揆については、尋尊の『大乗院日記目録』において、「日本開白以来、土民の蜂起之初めなり。」と記載されており、土一揆というのは極めて特異なものであった事がうかがえる。

 このように、実際に一揆の盟約によって秩序が達成されていた中世後期から、表向きは一揆が禁止されていた中で実際には百姓身分の権利行使運動として恒例化していた江戸時代のいわゆる百姓一揆の時期を経ることで、
現代では一揆の本来の意味は忘れられ、理解されがたくなってしまっている。そのため、戦国大名毛利氏を成立させた毛利元就の生涯を描いたNHK大河ドラマ『毛利元就』において、元就が安芸国人の国人一揆を結ぶ場面で一揆の語の使用が避けられて、「国人領主連合」なる一種の現代語訳が用いられた例もある。逆の例として『水戸黄門』第22部 第26話 では、がめつい商人に対して職人たちが共謀して反抗した行為(本来の一揆とは全く異なる行為である)が、作中の人物によって「一揆まがいの行動」と解説された。また、中世後期の一揆の盟約による政治的共同体が武装していたことから武装勢力の蜂起の意味合いを強く想起する向きもあるが、この時代、自検断権に基づいて、ほとんど全ての階層の共同体が軍事警察力と司法権の行使を認められ、その達成のための保障となる武装は当然であったことを忘れてはならない。
 特に日本が明治期以降の近代に入り、江戸時代が最も近い前近代の「歴史」となってからは、一揆は「百姓一揆」を指すような印象があるが、前述のように表向きは一揆の盟約が禁止されていながらも、百姓身分の権利行使の慣例として現実的には認めざるを得なかったという、
現実と建前の著しく乖離した構図を持っていたこの時代の一揆をもって、日本の歴史的一揆の典型とみなすべきではないであろう。この表向きの一揆の盟約の禁止下で行われた百姓一揆は、その建前上の性格ゆえに土寇(どこう)とも漢語表記された。

 日本ではこのような狭義の一揆(百姓一揆)が一般市民レベルでは普及しているが、上記のような事情に鑑みると、その一揆観は一揆のごく一部の相を見て創られたものに過ぎない。
実際の一揆は、大名層からの抑圧に関係なく結ばれることも多く、また、一揆内での主導権を巡る派閥抗争も絶えなかった。こうした一揆内の派閥抗争を一揆内一揆と呼ぶことがあり、越前一向一揆におけるものが有名である(下間頼照を参照)。
一揆の盟約を結ぶに際しては、神前で宣言内容や罰則などを記す起請文を書いて誓約を行い、紙を焼いた灰を飲む一味神水と呼ばれる儀式が行われた。

 江戸時代には幕府が一揆を禁止し、1637年(寛永14年)の島原の乱以降は一揆は沈静化し、強訴や逃散など百姓一揆と呼ばれる闘争の形態が主流となる。豊臣政権時代より領内の騒擾を理由とした大名改易のケースが現れたため、「領内が治まっていない」ことを公然と示すことができれば、領主側に匹敵する武力を集めずとも、責任問題を恐れる領主や代官への重大な圧力となった。百姓一揆の闘争形態の分類として、代表越訴、惣百姓一揆、村方騒動、国訴などが挙げられる。

 江戸時代後期の天明・天保年間には再び広域の一揆が多発し、この頃には無宿など「悪党」と呼ばれる集団に主導され、武器を携行し打ち壊しのみならず、強盗や放火など百姓一揆の作法から逸脱行為を行う形態の一揆も見られ、幕末には世直し一揆、明治には新政府の政策に反対する徴兵令反対一揆や解放令反対一揆、地租改正反対一揆が起こった。
 
(参考文献-ウェキペディア)
車連判状(または傘連判)
   百姓講   ひゃくしょうこう
 元来、講は、仏典の講義、議論の場、あるいは神仏を祀り参詣するための組織であったが、時代とともに金銭の融通や貯蓄などなどを目的にする互助組織、いわゆる頼母子講を主とするものに変化した。
 昭和中期までは、石黒でも念仏講や庚申講または菩提寺が行う御講などの行事は見られた。一方茅葺屋の家(村のほとんどの家)によるカヤ講なども長く行われて来た。
 ここ(五人組仕置き帳-石黒の古文書)でいう、百姓講とは古文書辞典等には見られない言葉であるが、後文の「商いに事よせ賭博に似たる儀・・」のとおり賭博まがいの講であったものであろう。
 
    百姓株  ひゃくしょうかぶ   
田畑や屋敷を持っていて年貢や諸役を負担する本百姓の身分。
 
   百姓代  ひゃくしょうだい
 村方三役の一つ。正式な村役人ではないが、名主や組頭とともに村政に関与した。小前惣代
 
   百姓林  ひゃくしょうばやし  
百姓個人の所有する林。   
対語→御林
 
   百姓前   ひゃくしょうまえ  百姓が負担すべきもの、または受け持つもの。  
   百姓役  ひゃくしょうやく
 ○本百姓の負担は、本途物成・高掛物・小物成・伝馬役・国役の5つ

本途物成(本年貢)。田畑・屋敷にかかる年貢。村高の4~5割りで米納が原則。

高掛物→村高に応じて課される付加税の総称。幕府領に課せられたものは3種(高掛三役)。米納から金納に変わった。
天領では、本陣給米、宿場入用などにあてられる
伝馬宿入用、雑人夫給米にあてる六尺給米、浅草御蔵の維持費にあてる御蔵前入用の役がある。

小物成→副業や山野・川からの収益にかかる雑税。

伝馬役は、宿場町の労役負担。助郷役とは参勤交代などで人馬不足のときに、周辺の農民に対して課された労役。子の労役に指定された村を助郷村・助郷という。遠方で村が人馬を提供できない場合は金銭で代納した。

国役は、幕府が国を指定して、河川堤防の修築などの賦役、または各種経費の負担を命ずる臨時の税で領地の石高に準じて課した。
 
   百姓宿  ひゃくしょうやど  訴訟のため江戸に出てきたものが宿泊するところ。  
   百束刈  ひゃくそくかり
 稲を百束を収穫できる田の広さを表わした。約、1反・10aの田の広さを表わした。※石黒では、昭和中期までは、生活用語として使われていた。
 
   百敲  ひゃくたたき  重敲-じゅうたたきの刑罰のことで鞭で100回叩く。  
   日向国  ひゅうがのくに  現在の長崎県。  
  俵   ひょう
江戸時代一般的には、  米1表→ 2斗6升5合(玄米)  籾1俵→5斗2升1合。
年貢米は普通は籾でであるが玄米の場合もあった。
 
 
   評定   ひょうじょう  集団の意志を評議して決定すること。相談すること。   
    評定所  ひょうじょうしょ  
 評定所一座と呼ばれた寺社・町・勘定の三奉行が重要な裁判や評議を行った幕府の最高裁判所。またはその場所。  評定所一座
 
   俵取  ひょうどり  知行所を持ちそこから米の納租を受け取る旗本。知行取  
    兵糧  ひょうろう   将兵の食糧。 武家の食糧に当てる米。  兵糧米  
   平井村  ひらいむら   
 明治22年市町村制施行にともない平井村となる。
 以後明治34年まで刈羽郡の自治体名であり、大字を編成なかった。明治34年に田尻村平井となる。昭和34年からは柏崎市の大字。

 
    平証文 ひらしょうもん    普通の個人同士の貸し借りの証文。  
   平城 ひらじょう  山地ではなく平地に築いた城  対語→山城  
   平百姓  ひらびゃくしょう
 役人ではない一般の百姓。  小前
 
   広小舞  ひろこまい  
軒先、先端の垂木の上に取り付ける板状の材。垂木は細長い角材であるため変形しやすく、屋根面にデコボコが生じやすくなります。広小舞は、上下の凹凸を慣らし、軒先を揃えるためのもの。
 写真資料
   広田村   ひろたむら
  かつて新潟県刈羽郡にあった村。
 年明治22年1889)4月1日に町村制施行に伴い刈羽郡大広田村、小広田村が合併し、広田村が発足した。
 明治34年1901)11月1日 には、刈羽郡北条村、南条村、小澗村、長鳥村と合併、北条村を新設して消滅した。
 
    枇杷島村   びわじまむら
 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い刈羽郡枇杷島村、剣野村が合併し、枇杷島村が発足。
1901年(明治34年)11月1日 - 刈羽郡鏡里村(一部)と合併して、枇杷島村を新設。
1928年(昭和3年)12月1日 - 刈羽郡柏崎町に編入され消滅。

 
   備後国 びんごのくに   現在の広島県  
  憫察   びんさつ  
憐れんで思いやること。愍察
 
     
 江戸時代には6尺(約180㎝)平方を1歩とし,明治にいたった。歩を坪ともいうようになった。
 
   分一   ぶいち  
十分の一。一分。  
歩一
 
   不乙  ふいつ 手紙の結びに添える言葉。 不一  
   風儀 ふうぎ   
不行儀、作法、風習、風紀、節度、様子。
 
   風説  ふうせつ
 世間に広まっているうわさ。風評。
 
   風俗   ふうぞく   
しきたり。風習。 身なりや装い。
 
   風損  ふうそん  大風による被害。  
   風聞  ふうぶん  
世間のうわさに伝え聞くこと。 うわさ。さまざまに取りざたすること。
 
   夫役   ふえき   
領主が領民に課した労働課役のちには多くは金銭で負担した。 
賦役 
 
   府下  ふか
 府の行政下にある地域のこと。 明治から昭和にかけて京都府と大阪府の外に東京府(1868~1943)があった。
 
   深田  ふかだ  泥深い田。沼田。  
   武鑑  ぶかん  武家人名録というべき民間の出版物。  
   奉行  ぶぎょう  
主君の命をうけて他を指揮して事を執行すること、またはその人。
 寺社・町・勘定奉行のうち、特に町奉行を指す。江戸時代初期では幕府老中を指す。  
奉行所
 
   分銀   ぶぎん  両替えや取引の際の手数料。  
   夫銀  ぶぎん  領主へ領地から夫役の代わりに納められた銀。  
   武家  ぶけ  
一般の武士の総称。
 
  ふけ米   ふけまい
水漏れ、湿気、虫食いなどにより傷んだ米。

※江戸時代には、年貢米廻送の際にはふけ米が生じるとその分は正米と取り換えるか金納としなければならなかった。これらを見込んで加えて送ったのが欠米である。
 
   布告  ふこく  
 明治時代前期の法令形式の一つ。明治政府が最初に法令の形式を定めたのは、明治元年(1868)8月13日の行政官の布告によってであった。
 これにより、それまでの「被仰出・・・」「被仰下・・・」「御沙汰」などの使用を廃止し、「申付」「申達」などの語を使用することになった。
 太政官については、「布告」、各官省については「布達」の語を用いることとなったが徹底せず、明治14年の太政官達により法律・規則は布告の形式で発せられることとなった。
 また太政官、諸省より一時交付するにとどまるものは告示を以ってし諸省卿から府県長官への達はこれまで通りとされた。こうして諸官庁より発せられる法令には、
布告、布達、達(たっし)、告示の4形式が認められるようになった。
 
   布告留  ふこくとめ  
布告留書帳。御布告留。
 ※御布告留 明治4年-田辺重順家文書
   不参  ふさん  
参加しないこと。欠席。
 
   不時   ふじ  
時を極めないこと。予期せず。急に。
 
    武士   ぶし  武家身分の者。ふつう、主君に仕え苗字帯刀を許された身分の者。               
   藤尾村  ふじおむら
 かつては嶺村の一集落。現在は新潟県上越市大島区嶺藤尾。嶺村は石黒村に隣接していたため昔から交流があった。江戸時代の廻状なども石黒村→嶺村の村順のものが圧倒的に多い。
 ・当酉伝馬人足帳(石黒村)
   藤井堰  ふじいせき   
 柏崎市の鯖石川下流域に造られた堰。
 文禄4年(1595)2月9日の直江兼続黒印状には「藤井堰掟」という表題の文書に「此の旨相守り、彼の地急度開作致すべきもの也」とあり、このころに新田開発のために藤井堰が設置されたことが分かる。
 この掟には、
①田畠・屋敷の新開地の5年間免税、②堰の水で灌漑を受ける地域への譜代百姓の入墾禁止、③開墾中の食料の1年間無利子援助の3条からなる。
 開墾のための優遇策とともに既存の田地の保護政策が取られていることは注目に値する。
 なお、この政策は、慶長3年(1598)に上杉景勝が会津に移った後も継承された。
 同年卯月(4月)14日の石田三成条書によれば、「
最前直江(兼続)申し付けられしごとく」「最前のごとくなすべき」等という言葉が見られる。
 石黒村にも、藤井堰の修復に関する廻文が残されている。
→右欄外-藤井堰-関連資料
 
 藤井堰 →関連資料
   藤井城址   ふじいじょうし   
元和元年(1615年)、稲垣重綱が大坂の陣で戦功を挙げたことにより、翌年に上野国〔現在の群馬県〕伊勢崎藩1万石から藤井2万石に加増移封され藤井藩領主となった。
 藤井は鯖石川中流域の平野部にあり、初めてそこに城郭と城下町建設が着手されたが、その4年後の天和6年に重綱は蒲原郡三条城に移封となり藤井城〔別名-豊岡城→※富岡は地名〕は完成をみることはなかった。現在も。城下町の名ごりとして、大手門、鍛冶屋敷、足軽屋敷、うまやなどの地名にのこり、碁盤目状の区画が当時の面影を伝えている。また、城址には堀の跡が見られ、周囲の水田より一段と高くなっていて、サクラの木が植えられ、戦死者の慰霊碑が建っている
 藤井城址
   藤井村  ふじいむら  
  元和元年(1615年)、稲垣重綱が大坂の陣で戦功を挙げたことにより、翌年に上野国伊勢崎藩1万石から藤井2万石に加増移封されたことにより立藩。
 藤井2万石領主として元和2年藤井城(豊岡城)の築城に着手。元和6年三条へ移封で築城半ばで廃城となる。その跡が今に伝わる。→
(右ビデオ資料参照)
  明治34年北鯖石村の一部となり、当村の4大字は北鯖石村の大字に継承される。 昭和30年からは柏崎市の大字となる。平地の純農村として発展したが鯖石川出水により度々被害を受けた。昭和40年土地改良事業を開始同44年完了。
昭和40代後半に西部に工場が進出(現在の田塚工業団地)。昭和49年に一部が田塚2・3丁目となる。
  
 ※藤井城址の桜-ビデオ資料
 夫食

(夫喰・扶食)
 ぶじき
 百姓の食料、主に雑穀を指す。 夫食 扶食  夫喰米  扶喰代 扶喰拝借

 凶年や災害じに飢え人を助けるための食糧、つまり夫食貸しの糧食。
 18世紀末に大石久敬が表した「地方(じかた)凡例集」によれば、夫食貸与の条件を次のように記している。飢え人が夫食貸与を申し出た場合、
役人を派遣して家々軒別に米穀・家財などの蓄えの有無を調べる。そして農具以外に売り渡す物がない難渋者に限りこれを認める。親類縁者の助力があるものはこれを除く。
 貸与の場合は、15歳以下、60歳以上の男は一日玄米1合、16歳から59歳までの男は一日玄米2合、女は1合とする。
 
   富士降灰  ふじのこうかい  宝永4年11月の富士山噴火の際の降灰は12月初旬まで続き、売り渡すものがないと灰の量は「原・吉原の地を埋めること、高さ5~6尺、江戸で5~6寸」の記録がある。  
   不悉   ふしつ  手紙の最後に添える言葉。  
  不日   ふじつ  日ならずして。  
   武州国  ぶしゅうのくに  武蔵の国の別称。現在の埼玉県・東京都・神奈川県東部。  
   不受布施派  ふじゅふせは  
法華宗以外の信徒からは布施も受けず、施しもしないという日蓮宗一派。寛文5年(1664)には禁制となり、宗門改の対象となる。   →日蓮宗
 
   扶助  ふじょ  
援助すること。助けること。
 
   不定地  ふじょうち  
田畑のうち水害等で一定の収穫を得られない土地、または、そのため年貢高が定められていなかった土地。
 
   普請  ふしん  
道や橋、堰などの工事。家を建てること。(元々の意味は禅寺で大衆を集めること。あまねく諸人の他力に頼ってことをなすこと、即ち寄進、寄付などを得て堂、塔、寺社などを修造すること)。 
 
御普請(幕府や領主が費用を出す大掛かりの普請)  自普請(自村の負担で行う小規模の工事)
※石黒では昭和30年以前には個人の家普請も、親類をはじめ当該集落は勿論全村が労力奉仕をして行う習慣であった。日常の暮らし-家普請
 
   不仁  ふじん
仁の道にはんすること。  慈しみのないこと。
 
 
   不筋  ふすじ  道理にはずれること。  
     ふすま  木綿・麻・紙などで縫った体にかける寝具。  
   伏樋   ふせひ・ふせどい  土中に埋めた樋  
  夫銭  ぶせん  
領主から割り当てられた夫役(ぶやくの代わりに納める金銭)。
 
   布施  ふせ  僧や貧しい人に金品を与えること。  
   賦税  ふぜい  税を課すこと。  
   伏稲   ふせいね  災害や害虫のために稲が倒れること。  
    浮説  ふせつ  根拠のない説。   
   不宣  ふせん  手紙の末尾に添える言葉。  
   夫銭  ふせん  
領主より課せられた夫役の代わりに納める金銭のこと。
 
   夫銭  ふせん  領主から課せられた夫役の代わりに納める金銭。 夫銭帳  
   豊前国 ぶぜんのくに   現在の福岡県東部から大分県北部。  
   譜代  ふだい  代々その家に仕えてきた者。代々、徳川氏に臣従してきた者。  
   札入  ふだいれ  村役人の選出などで投票すること。  
  二田村   ふただむら
かつて新潟県刈羽郡にあった村。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い刈羽郡二田村、坂田村、新保村、和田村、黒部村、鬼王村が合併し、二田村が発足。
1899年(明治32年)4月14日 - 刈羽郡長谷村と合併して、二田村を新設。
1901年(明治34年)11月1日 - 刈羽郡長原村、妙法寺村と合併して、二田村を新設。
1959年(昭和34年)4月10日 - 村域を二分割し、次のように隣接自治体と合併、編入して消滅。 大字二田・坂田・新保・和田・黒部・鬼王・長嶺・後谷・五日市・内方・大坪・北野・妙法寺 → 刈羽郡朝日町と合併して西山町となる
大字井岡→ 刈羽郡刈羽村に編入
2005年(平成17年)5月1日 高柳町と共に柏崎市に編入され柏崎市西山町二田となる。
出身著名人に田中角栄がいる。


(引用-ウェキペディア)

 
   布達  ふたつ  明治4年〜19年まで、行政官が発布した法令。 扶持方  扶持米  
   二手詰め八把一束  ふたてつめはちわいっそく  
大人の手でつかめる量2つ分を一把としてそれを8把をまとめて1束とする刈り稲のまとめ方。
※石黒ではこのようなまとめ方をした。
 
   扶持  ふち  
援助すること。  俸禄を与えて家臣を抱えること、1人扶持は1日米5合、1年で1石8斗。 扶持米の略。
 
  扶持米   ふちまい
 扶持として給与される米。俸米 (ほうまい)。明治の文書には自分の食い扶持の意味で用いられているものも見られる。→岡野町学校之規則
 
   府廳  ふちょう 明治新政以降に府知事が行政事務を取り扱った役所。  
   普廣寺  ふっこうじ
 新潟県柏崎市北条にある曹洞宗の寺院。文亀4年創立。開基北条村の内深沢の城主村山安芸守正勝。現在の伽藍は天保2年に焼失し嘉永2年に再建されたもの。
 
   仏餉  ぶっしょう  仏前に供える米飯。  仏餉米₋仏前に供える米。
※石黒では「御飯-おめし」と呼んだ。   参照-石黒の昔の暮らし-食事  
 
   歩詰  ぶづめ  検地で1歩-1間に満たない端数を四捨五入すること。  
   不束  ふつつか
軽率、行き届かない、無骨。

 
  不定地   ふていち  
江戸時代、田畑のうち水害などで一定の収穫を得られず、年貢高が定められていなかった土地のこと。
・与板御引渡後より諸事御用留 
   不図・風与  ふと  突然。急に。とっさに。 風と 与風 風斗 不斗 風得 付与  
   不当  ふとう  
正当または適当でないこと。道理に合わないこと
 
  太織   ふとおり  太い糸を使って平織した絹織物。麻織物・綿織物の総称。  
   太物  ふともの  絹織物に対しての麻・綿織物類のこと。  
  船子    ふなご  
船頭(船長-ふなおさ))の指揮下にある人。水夫。船方。
 
   船廻し  ふなまわし
荷物などを船に積んで送り届けること。
 
 
   府内  ふない  江戸あるいは江戸城を中心とする地域を指す。   御府内  
   船會所  ふなかいしょ  船の渡航や廻漕に関する事務をする所。  
   船株  ふなかぶ  船を所有する権利。  
    船手  ふなて   船乗り。乗船代。航路。幕府の役職名。  
   船役永  ふなやくえい  船に課せられた小物成のひとつ。  
   不便  ふびん  不都合。気の毒。面倒をみること。 不憫 不愍  
   不文  ふぶん
文章が下手なこと。また、その文章。文字を知らないこと。学問のないこと
 
   不如意  ふにょい  金銭がないこと。思い通りにならないこと。  
   不念  ぶねん
気づかないこと、不注意なこと。
 
 
   扶米  ぶまい  大名・旗本領で夫役の代わりに上納した米。  
   踏絵  ふみえ  マリヤ像やキリスト像を踏ませてキリシタン信徒でない事を証明させたこと。      蹈絵  
   文月 ふみづき 
 7月の異名の一つ。
 
   夫免 ふめん   夫役を負担する代わりに控除された年貢のこと。  
   夫役 ぶやく   領主が領民に課した労働課役。 賦役  
   不埒 ふらち   
法に外れている事。  不届き  決着しないこと。
 
   振合  ふりあい
他とのバランス。状況。具合。
 
   古田  ふるた
 荒れはてた田。
 
     ふれ  
役所からの通達・命令・通知など。またこれを書き記した文書のこと。 触状 触文
※この言葉は、石黒では昭和の半ばまで使われた。村人が順番に主に区長から連絡を各戸に伝えた。この仕事を「コワリキ」または「フレ」と呼んだ。その輪番帳を触れ帳と呼んだ。→村の組織
 ・当酉伝馬人足帳(石黒村)
   振人  ふれにん・ふれびと〔?〕  
伝馬継立の采配人のことで、必要に応じて人馬を徴発する触れを出す役人のことであろう。
 
   触渡す  ふれわたす  
一般に触れ知らせ伝えること。
 
   振廻   ふるまい  →振舞い  
   振舞間敷
ふるまいがましく   もてなしの様な。  
   古町村  ふるまちむら  
  明治22年に上条村の大字となる。昭和31年黒姫村、同32年からは柏崎市の大字。
 
 
      ふれ   
告げ知らせること   幕府、領主から発せられた法令や禁令など。
 
   触当  ふれあて  村々に人馬の負担を割り当てること。  
    触書  ふれがき   幕府や領主から庶民に向け公布された文書、法令、法度。触書写  
   分家 ぶんけ   
家族の一人がその家から離れて家を構えること。
※ふつう、田畑も譲渡を受けて出るので、昔から石黒では集落によっては分家を出すことを禁止した村きめのある集落もあった。
 
    触事  ふれごと   人々へ広く告げ知らせること。  
   分間絵図  ぶんけんえず  実測をもとに作成した絵図。  
   豊後国  ぶんごのくに  現在の大分県の北部を除く全域。  
   分郷  ぶんごう・わけごう  
相給知行などにより村をいくつかに分けること。
 
   分郷蔵所  ぶんごうくらしょ
複数の村で蔵組を組織し、年貢米を保管する郷蔵所を作った。年貢米は秋から12月ころまで郷蔵に運ばれ取立役人の検査を受け蔵に納められた。そして、時期をみて城米や廻米として運ばれた。とくに冬季の降雪の多い刈羽郡では郷蔵所は大切な存在であったであろう。
 
 与板御引渡後諸事御
用留
    分地  ぶんち   百姓が土地を分割して相続させること。  
   分付 ぶんつけ   永小作百姓は検地帳記載の際、自分の名の脇に「何某分」と地主の名を傍書した。この何某を分付け主と呼び、この永小作人を分付百姓と呼んだ。  
   分米  ぶんまい・ぶまい  
検地によって定められた田畑の等級別石高。
※いうまでもなく、総村高を分米とは言わない。一村内の所々の畝歩についての高を分米という。いわば、一村の惣高(村高)を構成する所々の田畑の広さと品等の
に比例した公定生産高を米の容積に換算してつける石高のこと。
帳簿に記載する場合は、本行に反別を書き、その脇に「分米○石○斗」と書く。
例「上上田、拾一町一畝歩
 此の分米百六十五石一斗五升 石盛十五

 
 
   幣牛馬  へいぎゅうば
明治4年以前は、牛馬の持主はその死体を売却したり利用したりする権利をもたず、死んだ牛馬は無償で賤民の身分の者に引きわたさなければならなかった。しかし、明治4年 3月の太政官布告以降は、持主が自由に処分してもよいことになった。
弘化4年 大地震 
   平座  へいざ  楽な姿勢で座ること、胡坐をかくこと。  
   弊習  へいしゅう  
弊害のある習慣。好ましくないしきたり
 
   米銭  べいせん  米と銭。  
    米納  べいのう    米で年貢を納めること。  
   兵賦金  へいぶきん  幕府が幕末に500石以下の旗本に兵役の代わりに課した金。  
   平民  へいみん  
明治維新から太平洋戦争敗戦後の1947年まで一般庶民に用いられた身分の呼び名。明治2 (1869) 年の版籍奉還により従来の公卿諸侯が華族,同4年の廃藩置県により武士が士族と呼ばれることになったのに対応されて出来たもので,四民平等と唱えながら,平民は最下級の身分として温存されたのであった。
 参考資料-文例
   閉門  へいもん  武士・僧侶・社人に科せられた刑で逼塞より重く蟄居より軽い刑で、50日・100日間門を閉じて出入りを禁じた刑罰。  
   米廩  べいりん  米を籾で貯える藏。この蔵で保存されている米を廩米と呼ぶ。  
   片木  へぎ  ヒノキスギ等の材を薄く削いで屋根葺き材にしたり曲げ物の材料とした。  
   別廉  べつかど  特別に。とくに。  
   別小作  べつこさく  質にとった地所を、金主から質入れ主以外の百姓に小作されること。  
   別而   べっして  とりわけ。特に。殊に。  
   別手組   べってぐみ  幕末に幕府が日本に滞在する外国公使護衛するために設けた隊。  
   別俣郷  べつまたごう
野田村・女谷村・折居村・木沢村・久米村・細越村・水上村・田屋村・市野新田村・清水谷村・石黒村・嶺村  (天和検地帳記述から)
※こうした区分け(庄・保・郷など)は、中世の支配関係がその成立の要因と言われている。
 
 
   別山新田   べつやましんでん  
刈羽郡に属す。鯖石川支流別山川上流域。幕府領。村高は天和高帳ではこ8石余。天和郷帳では別山村枝郷とあり8石余。明治8年別山村の一部となる。
 
   変地  へんち  
災害などを受けて耕地が荒れて変ること。
 
   辺地  へんち
 僻地。
 
   弁納   べんのう  
村人が逃散・欠落した場合、その者の代わりに、親類や五人組・村役人などがその年貢を代って納めること。   年貢弁納
 
  偏波  へんぱ  不公平。  
   辨米  べんまい  年貢米の不足になった分を弁償させる米をいう。  
   遍路  へんろ  弘法大師の霊場四国88所を巡礼すること。巡礼者を御遍路と呼ぶ。  
   弁利 べんり
 物事をわきまえること。。都合がよい事。役立つこと。
 
     奉加   ほうが  多くの人の力を借りて神仏などに財物を寄付すること。奉加帳  
 芳簡・芳翰  うかん   相手の手紙を敬っていう語。   芳札   芳書  
  謀計  ぼうけい 
 謀略。 たくらみ。謀判。
 
   奉公稼   うこうかせぎ  
他家に雇われ住み込みで働いて賃金を得ること。
 
   奉公人  うこうにん  
奉公人の元の意味は主君に奉仕する従者を意味するが、一般には他人の家に雇われてその家事・家業に従事する下男・下女、あるいは商家における丁稚や手代のこと。
 
   法坂村  ほうさかむら  
刈羽郡に属し、江戸時代から明治22年までの村名。明治22年中里村の大字となる。現在は長岡市小国町法坂。
〇支配
元和2 長嶺藩 天和 幕府領
元和4 高田藩 文久2 長岡藩
〇石高 
天和高帳→371石・新田9石。 
天保郷帳→415石。
元禄年間以降渋海川による水害が多く、地割制を取り入れ地割は7年毎に行った。
南条の藍沢熟の第2代塾長朴斎は当地出身。

 
   方正廉直  ほうせいれんちょく
明治維新において江藤新平は司法事務を制定して行政と裁判を分離し、裁判への政治干渉を排除するとともに、司法に携わる官員が守るべき誓約を定めて示した。その1章に「
一、方正廉直ニシテ職掌ヲ奉ジ、民ノ司直タルベキコト」とある。
 
   疱瘡  ほうそう  
天然痘(てんねんとう)のこと。天然痘ウイルスを病原体とし、感染すると全身に膿疱を生ずる。感染力は非常に強い。日本国内における発生は1955年の患者を最後にその後確認されず根絶されたとされている。
 
   謀計 ぼうりゃく   
たくらみ  謀略をめぐらした犯罪。
 
   朋僚  ほうりょう  
同僚。友達。
 
    奉公稼  ほうこうかせぎ   他家に住みこんで働き賃金を得ること。 奉公人  奉公人給金  
   亡所 ぼうしょ   生産力を失った土地。 不毛な土地。  
   奉書紙  ほうしょがみ  を原料とした厚く白い高級紙。  
   北陸道  ほくりくどう  中山道から分かれ近江・越前・加賀・越中・越後の諸国を通る街道。  
   星野藤兵衛  ほしのとうべえ  
 幕末の戊辰戦争で全財産をかけて、柏崎を官軍の焼き打ちから守った郷土の偉人。藤兵衛は代々酒屋や質屋を営む商人の9代目で柏崎の町政を動かせる実力者であった。幕末の戊辰戦争では会津藩、桑名藩、新選組を主力とする幕府軍と薩摩、長州の同盟軍との戦いであった。この戦いで柏崎でも一日間だけであったが、鯨波で戦争が行われた。
 しかし、戦いから撤退したはずの桑名藩士の残党が反乱を起こしたために、これを制するために官軍が柏崎全域を焼き払う作戦を計画した。この際、藤兵衛は攻め込んだ官軍の困窮の様子を見て、食料や物資を提供することで柏崎町の焼き打ち作戦の中止を願い出た。こうして、戦禍は鯨波村のみで留めることができた。
 藤兵衛が官軍 に与えた食事は100万食に近く、その他、草履、縄など現在の金額に換算すると10億円を超えるといわれている。
 
   旱割  ほしわれ  
旱魃により田や畑に割れ目が走ること。田の場合は翌年の水持ちにも影響がでるので石黒のように天水田の多い地域では被害が深刻であった。
 
   戊辰戦争  ぼしんせんそう  
 戊辰戦争とは、明治元年(1868)年1月に始まった鳥羽伏見の戦いから上野戦争、そして北越戦争・東北戦争、さらに翌2年5月に終える函館戦争までの16カ月余の内乱の総称。「戊辰戦争」の呼び名は戦いが始まった年が干支で戊辰(ツチノエノタツ)にあたることによる。
 慶応3(1867)年12月の王政復古の雄藩によるクーデターによって成立した新政府は、総裁、議定、参与の三職によって構成された政府であったが、実質的にはクーデターに参加した薩摩、土佐、安芸(広島県)、尾張、越前などによって構成された連合政権であった。そして、この新政府は大政奉還をした徳川慶喜に辞官、納地を要求した。
 一方、徳川慶喜の方は、大政奉還後も政権を担当する意欲をもっていたが、クーデター後は大阪城に退いた。
 慶喜は大阪にあって、諸外国行使と会うなど対外的には自分が主権者であることを声明していた。慶喜の幕臣の中には新政府に対し反撃に出ることを進言するものもあったが慶喜は応じなかった。それは政府内でも、内戦は回避しようという公儀政体派(
議会制度を導入して合意を形成すること)の発言力が強くなり慶喜が政府の一員として復活できる途も見えていたからであった。
 そんな情勢の中で薩摩、長州の討幕派は次第に孤立していった。このままでは、再び幕府側が勢力を強めて自分たちの孤立は深まるばかりと危機感をもった。そしてこの状況を打開するために新政府が選んだのが戦争であった。一方の幕府側も江戸市中騒乱する討幕派の挑発に対して反発があったため翌正月3日、鳥羽、伏見において両勢力の武力衝突(内乱)が発生したのである。
 鳥羽、伏見の戦争(桑名・会津藩×薩摩、長州藩)では、討幕派の薩摩、長州軍が勝利した。幕府の敗因は武器の旧式などもあげられるが、もともと、幕府軍の大将であった徳川慶喜に強い戦意がなかった事が最大の原因との見方が多い。いまも、よく知られエピソードてある戦いが不利になると、慶喜は早々大阪城を引き上げ江戸城に帰ったことからもうなずけることである。
 こうして討幕派が勝利すると局面は一変した。天皇の親政・親征をたてまえにして、討幕派が新政権の主導権を手にしたのである。
 これにより、近畿以西の諸侯は急速に新政府に忠誠を誓い、西日本の大商人層も新政府に協力することになった。政府内では公議政体論的権力構想は急速に衰え、討幕派の主導権が成立した。
 その結果、新政府は、天皇親政の名のもとに少数の専制的政治家が国家の最高意志を決定する方向に変わっていった。また、近畿以西の諸侯は急速に新政府に忠誠を誓うようになり、西日本の大商人層も新政府に協力することになった。
 まさに、明治元年(1868)年3月14日の五か条の誓文は、このような新政府の成立を内外に宣言するものであったが、それは公議政体論構想に反する一部の政治家が強力な指導力を発揮する専制政府であった。
 一方、鳥羽・伏見の戦いの後、江戸に帰った慶喜は、大勢を鑑みて新政府に自己の恭順を訴える工作を行ったが効果なく、ついに上野寛永寺に蟄居謹慎した。
 新政府軍は3月末に江戸城攻撃をめざして江戸に集結したが、西郷隆盛と勝海舟の話合いによって4月1日に江戸城無血開城が実現した。その間、主戦派の募兵が脱走して政府軍に対しゲリラ的に抗戦した。とくに古屋作左衛門の 衝峰隊や近藤勇の甲陽鎮撫隊は、折から関東各地で発生した一揆、打ちこわしなどともに政府軍を苦しめた。
 そして、5月15日にいたって彰義隊をせん滅した上野戦争を最後に関東全域が政府軍によって平定された。ついで5月24日に徳川家達(いえさと)を駿河府中藩75万石の城主にすることが決まり徳川氏処分が決着した。こうして、徳川家の駿河移封により、新政府が江戸を中心にして関東のみならず東北地方にも支配を浸透させ、名実ともに全国に君臨する基礎が固められた。
 そしてついに、7月江戸を東京とし、10月天皇の東京行幸が実現する。
 実に、鳥羽伏見の戦いは新政権の成立には不可欠の戦いであって政治的な見地から戊辰戦争の中で最も重要な戦いであった。
 一方、朝敵とされた会津・庄内両藩の降伏謝罪条件について、両藩と新政府との間の斡旋に尽力していた東北諸藩は、かたくなな政府軍に不満不信を募らせ、ついに5月3日、25藩が同盟を結んだ。さらに越後の長岡藩など6藩が加盟して奥羽越列藩同盟を結成した。同盟は7月に仙台藩領白石(しろいし)に公議府を設け輪王寺宮(皇族-りんのうじのみや)を盟主に擁立して仙台。米沢両藩主を総督として加盟諸藩重臣が参加して同盟組織を築いた。これは奥羽越の地に成立した諸藩連合政権とみることができよう。
 当初、奥羽越列藩同盟は、問題の平和解決を目指していたが北越、東北の戦いが本格化するとともに軍事同盟へと変貌せざるを得なかった。6月からは、白河、平、会津、庄内の各地で激戦が繰り広げられた。しかし、同盟軍は苦戦を強いられて、同盟から脱退する藩が続出し9月22日の会津落城を前に、仙台、米沢両藩が降伏し同盟は崩壊した。
 また、主として長岡城攻防をめぐる北越戦争も7月末には決着がつき8月初めには越後地方はすべて政府軍によって平定された。12月には。奥羽越諸藩の処分が決定。藩主の幽閉、謹慎、削封、転封、重臣処分、贖罪金(しょくざいきん)賦課などが行われた。
 しかし、この東北戦争は、戦いの期間、死傷者の数、兵器物量の投入等から見ていずれも戊辰戦争の中で最大規模の戦いであったと言える。
 また、8月に徳川方海軍を率いて脱走した榎本武揚(たけあき)らは、北海道函館を攻略してこの地に新政権を樹立したが、69年5月五稜郭(ごりょうかく)において新政府軍に降伏し、戊辰戦争は終了した。
 ちなみに、北海道函館に樹立した政権は榎本が政府に送った手紙を見る限り政府に敵対して全国制覇を目指したものではなく地方の領国(駿河府中藩の分領のような地方領国)を求めたものであるとのされている。
 いはば、戊辰戦争はそれまでの幕藩制国家に代わる国造りの異なる構想を持った政治勢力が衝突した戦いであったともいえよう。
 また、この戦争は封建領主層全体を決定的に弱体化して領有制を解体に追い込んだ。この結果、廃藩置県に象徴される封建制度の終焉と近代的中央集権国家樹立に向けて急速に進展する道を開いたともいえる。それとともに政治的、社会的秩序も次第に回復し、幕末以来の外国の諸列強の圧力に対抗し得る体制を形成することができた。
 戊辰戦争の総括は歴史研究者によって種々の論説があろう。新政府の雄藩が得た政治的優位性は明治以後、政界に根強く残ったことは事実ではあるが、それによって驚くべき短期間で政治、経済の躍進をとげることができたことも事実であろう。

 
参考文献-国史大辞典・ウェキペディア・柏崎市史他
 
 
   細越村  ほそごえむら  
 明治12年久米、水上、細越,佐水の4カ村組合立回谷分校を開校、同16年廃校、各村に小学校を設置。同22年別俣村の大字。初め別俣郷、明治34年には上条村。昭和31年黒姫村、同34年には柏崎市の大字。
 
 
   菩提寺 ほだいじ   
代々その寺の宗旨に帰依し葬儀や法要を依頼する寺
 
   北海道開拓使 ほっかいどうかいたくし
 明治政府は、ロシアの南下に対する危機感をもち、北方の防備のため北海道の開拓を急務とした。そして、明治2年(1869)、北海道ならびにその属島の行政・開拓をつかさどる中央官庁である「北海道開拓使」(省と同格)を新設した。
 その目的は、国力増強につながる札幌の開発、道路・鉄道・港湾の整備、鉱山の開発、官営工場の建設、札幌農学校などの設立と、集団移住者と屯田兵による開拓にあった。
 明治4年(1871年)5月に開拓使庁が札幌に移り、黒田清隆による10年間1000万円という大規模予算による「開拓使10年計画」が決定され、本格的な開発が始まった。
 黒田は、さまざまな官営工場の設立、幌内炭山の開発、石炭輸送用の鉄道の敷設した。また、アメリカの農務局長ケプロンら顧問の招聘して、西洋式農業の移入も図った。さらに、クラーク博士を招いて設立した札幌農学校や東京、函館、札幌の農事試験場などで開拓技術者の養成と洋式農法の導入をはかり、西洋式農業の移入を行なった。
 そして明治6年(1872)、明治政府は北方警備と開拓を兼任させる屯田兵(とんでんへい)制度を開始し北海道の人口増加とともに廃止。北海道開拓使は明治15年(1882)に廃止される。
 センヨウタンポポ






布告-北海道開拓-関税免除策
   法花宗・法華宗  ほっけしゅう  
 法華宗のことで日蓮宗の別称。
 
敢えて区分するなら、法華宗は隋代の智顗を開祖とし平安時代に最澄が日本に伝来させた宗派。別名「天台宗」または「天台法華宗」。総本山は比叡山延暦寺。  これに対し、日蓮宗は日蓮上人を開祖とす宗派で、天台法華宗の分派で総本山は身延山久遠寺。
 
   北國街道  ほっこくかいどう  
江戸幕府によって整備された脇街道で、北国脇往還
-ほっこくわきおうかんと呼び五街道に次ぐ脇往還の地位にあった。善光寺街道などとも呼ばれた。本道は、追分で中山道の追分宿で分かれ、善光寺を経て直江津で北陸道に合流し柏崎~出雲崎~弥彦~新潟に至る街道。
 本道は、善光寺への参拝のために整備され、佐渡の金を江戸に運ぶ道として五街道に次ぐ重要な役割を果たした。軽井沢町から上越市までの区間は現在の国道18号にほぼ相当する。
 善光寺平の入り口屋代宿(矢代宿)を過ぎて雨宮の渡しで千曲川を渡るが、川を渡らずに東岸の松代宿や福島宿を経由して、牟礼宿で本道と合流する松代道と呼ばれる脇道があり、谷街道の一部と重なる。この路は、犀川の川止めで本道が足止めされた場合、布施の渡しで千曲川を渡って福島宿へと迂回し、足止めを回避することを目的としている。
  参考文献-Wikipedia
 元長野県上田の北國街道-現在

   堀切  ほりきり  地面を掘って通した水路。※下石黒に太野原からの排水路(石黒川へ)「ホリキリ沢」がある。  伝説-怖い話-堀切沢
   堀田 ほりた 
 開発した田。新田。※石黒では「ほった」と呼んだ。→朴の木山(名所)の堀田(新田)
 
   堀割・掘割  ほりわり  
地面を掘って水を通したところ。
 記-田辺重順家文書
   本意  ほんい・ほい  本当の考え。本心。  
    本街道  ほんかいどう   
江戸時代、脇街道に対して五街道をいう。また、中山道にたいて東海道をそう呼ぶこともある。転じて本道、公道を指すこともある。
 
   本家  ほんけ
 一族の主となる家。分家した元の家。石黒では「おやけ」とも呼ぶ
 
 対語→分家(石黒では家持とも呼ぶ)
 
   本寺  ほんじ   
本家に当たる寺。 本山。
※安住寺の本寺は北条の普広寺。高尾の広済寺の本寺は善根の浄広寺。
石黒村浄土真宗人別御改帳
   本宿 ほんじゅく   もともと宿駅として成り立って来た所。 対語→加宿-かしゅく  
   本村  ほんそん  
枝村・枝郷に対して元の村。親村。
※石黒村では上石黒を本村とする文書が見られる。(石黒村→上石黒、下石黒、落合、寄合、大野-板畑、居谷を併合前)
  
対語→枝村
 覚-御用金-居谷村
   本尊  ほんぞん  
寺院や仏壇などで、礼拝の対象として安置される、最も主要な仏・菩薩 像。画像・曼荼羅 (まんだら) ・名号などのこと。
 
   本帳    ほんちょう    
正式の帳面。  元帳。  この帳面。
 
 本百姓   ほんびゃくしょう  
田畑・屋敷を持ち、年貢・諸役の 負担者として検地帳に登録された農民。農耕のための用水権・入会(いりあい)権を持ち、 近世村落の基本階層であった。江戸後期には高持百姓とも呼ぶ。
 
   本田  ほんでん  
検地帳に記載されいる古くからの田地。  本田高  本田田高
本田→新田
 
   本途物成  ほんとものなり  
田、畑、屋敷に課した本年貢のこと。
単に
本途物成ともいい、取箇(とりか)本免本途取米(とりまい)とも呼ぶ。
対語→小物成
卯より辰両歳御年貢皆済目録拝見証文 
   本畑  ほんはた
検地帳に記載されいる古くからの田地。  本畑高  
 
   本百姓  ほんびゃくしょう  
検地帳に記載され田地屋敷を年貢及び諸役を負担する百姓。
 
   本坊  ほんぼう  

末寺から本寺をいうときの呼び名。 寺院で 住職の住む僧坊のこと。
 
   本免   ほんめん  耕地に課された本来の年貢率。  
   本領  ほんりょう
 特に中世において、幕府や有力大名によって公式に領有権を認められた土地。御本領
 
    前書  まえがき
前述した文章。 
※五人組帳などは前書に本文にあたる条項が書かれ、そのあとに村人署名捺印がある。
本文の前に書き添える文章。 はしがき。   
  五人組仕置き帳-石黒村
   麻苧   まお  →カラムシ 石黒の植物-カラムシ  真麻 真苧  
 罷在  まかりあり  
あり、おり、の謙譲語。 →あります、おります。罷立
 
      まき  たきぎ。石黒では主にブナナラなどが用いられた。石黒の方言では「わっつえ」「わっつぇぼ」と呼んだ。
 はり木→四季の農作業
 石黒の方言-音声版
   真木・槇・柀  まき  
スギヒノキなどのこと。
 
   牧野備前守様  まきのびぜのかみさま

牧野 忠恭(まきの ただゆき)
文政7年(1824)に三河西尾藩主松平乗寛の三男として江戸に生まれる。越後長岡藩の第10代藩主・牧野忠雅の養子となり、安政5年(1858年)10月25日、養父忠雅の死去により、家督を継いで
第11代藩主となる。
 文久3年(1863年)6月11日、「当時の京都は騒動続きであり、長岡藩のような小藩では対応できない」として辞職した。
 同年9月13日老中に就任し、12月24日外国事務を取り扱うことを命じられた。元治元年(1864年)7月22日勝手用掛を命じられた。慶応元年年)4月13日、政局に難題が積まれるに及んで老中職を退いた。京都所司代、老中の辞任はいずれも河井の進言によるものだった。
 慶応3年(67年)7月11日、隠居し、養子忠訓に家督を譲った。隠居後、雪堂と号した。北越戦争を経て謹慎し、明治に入ってから許される。明治8年(1875年)2月、四男忠毅の隠居により、家督を再び相続した。明治11年(1878年)9月1日、55歳で死去した。
 廻状-山中村・高尾村長岡藩に村替え通知
   槇原村  まきはらむら
 かつて新潟県刈羽郡にあった村。
西側は日本海に面する。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い刈羽郡悪田村、春日村、橋場村、上原村、下原村、山本村が村制施行し、槇原村が発足。
1901年(明治34年)11月1日 - 刈羽郡日吉村と合併し、西中通村となり消滅。

(ウェキペディア)
 
   薪山  まきやま
薪やボイ(柴木)がとれる雑木の山。
  槇山    真木山  
 はり木→四季の農作業
  秣場  まぐさば
 牛馬の飼料や田畑の堆肥にするための草場。  →秣刈り 秣刈取り 秣山 秣場
 
   馬鍬  まぐわ  石黒の民具-まんぐわ 万鍬 馬耙  
    まぎらかす     
ごまかすこと。
 
   孫男  まごおとこ(?)
 人別帳における孫男はは当主の孫に当たる男子のこと。
 
   真菰  まこも  葉を敷物に編んだり花芽を食用にする多年草。→石黒の植物-マコモ  
   間敷く  まじく
 ~しない、~させない、~してはならい、~すべきではない。
 
   増高  ましだか  新たに検地して従来よりも増した石高。  
   増歩  ましぶ
 一定の手数料にさらに加えること。  増歩金 
 
     ます
 織田信長は当時京都で通用していた十合枡に奉行の印を押させて公定の枡と定め、豊臣政権もこれを継承した(京枡)。
 江戸幕府は1669年に京枡を元にして新たな枡の統一規格を制定(新京枡)し、これが現在まで続く枡の規格の基礎となっている。
 ただし、各地の領主は少しでも多く年貢を徴収することを目的として、小売商は販売量を少なくごまかす事を目的として、規格に適合しない枡を恒常的に利用していたと言われている。
 しかし江戸時代に入ると、枡を含めた不正な計量器の製作や使用は江戸幕府によって厳しく禁止され、違反者は獄門の極刑にされることになった。
(ウェキペディア)
 
民具補説-斗升


  1升桝
   桝座  ますざ  幕府の許可を得て江戸・京都で公定桝の製造、販売、検査、修理などを独占的に行ったところ。民具補説-斗升←文章後半参照
 石黒の民具-5合枡


   桝取  ますどり  
桝をを使って量ることこと又は、その人。
※廻し俵→年貢米全体からの抜き取り検査であるため、そこでの不足分は全体量に直されて追徴されたので村にとって重大であったといわれる。
 
   桝目  ますめ
枡で計る分量  
※桝は誤字
 
 
   又候  またぞろ  
またもや。 再び(こりもせず)。 もう一度。
 
   町方  まちかた  
村方、山方、浦方に対し町方とくに行政単位としての町を指す。   町方分
 
対語→村方、山方、浦方。

 
   町同心  まちどうしん  江戸町奉行所にぞくしている同心。  
   町年寄  まちどしより  
江戸時代の町役人の役名。江戸や大坂以外の諸都市にも町年寄もしくはこれに相当するものがおかれたが,呼び名はそれぞれ地方によって異なっていた一つ。村方における名主,庄屋に相当する。
 
   松代藩  まつしろはん
  1622年(元和8年)に信濃国上田藩より真田信之が13万石で入封した後、明暦4年(1658年)に3代幸道の相続時に分地の沼田領3万石が独立( 1680年改易)し、以後10万石として幕末までこの地は真田家の所領として続く。
 真田家はその出自から外様大名とされることが多いが、幕府における席次は帝鑑間詰(譜代大名待遇)であった。理由として、8代藩主真田幸貫が8代将軍徳川吉宗の孫である松平定信の実子であること、信之の妻小松姫が徳川家康の養女(本多忠勝の実娘、一説によると徳川秀忠の養女)であること等の理由による。なお、支藩(分地)としては沼田藩以外に埴科藩もあったが、後年断絶している。
 信之は上田藩時代より蓄財した20万両という大金をもって入封した。このため当初は裕福であったが、3代幸道の時代、幕府による度重なる手伝普請などの賦役により信之の遺産を使い果たした。また、1717年(享保2年)松代城下は大火に見舞われ復興に幕府より1万両を借り受け、逆に借財を抱えるようになった。
 4代信弘は質素倹約を旨とし財政は持ち直した。5代信安の時代の1742年(寛保2年)松代城下を襲う水害に見舞われた(戌の満水 )。この際、再び幕府より1万両を借財し千曲川の河川改修が行われた。これにより松代城下は水害に見舞われなくなった。しかし、再び財政は悪化した。信安は河川改修の中心となった原八郎五郎を家老に抜擢し、家臣給与の半知借上、年貢の前倒し徴収を行うなどの財政再建に努めた。しかしこれが家臣の反発を招き、1744年(延享元年)足軽によるストライキという全国的にも極めて稀な事態となった。1751年(宝暦元年)には不正を行った原八郎五郎を罷免し、代わって赤穂藩浪人と称する田村半右衛門(浅野家の家老であった大野知房の子・大野群右衛門と同一人物ともいわれる)を勝手方として召し抱え財政再建に当たらせた。しかし、性急な改革は農民の反発を招き、同年には「田村騒動」と呼ばれる藩内初の一揆が起こった。田村もまた汚職を行ったとして、同年に江戸に逃亡したところを捕らえられた。
 信安の後、藩主となった幸弘は、1757年(宝暦7年)家老の恩田木工を勝手方に据え財政再建に当たらせた。木工の5年間の在任中、めざましい成果は得られなかった。しかし、藩士・領民の財政再建に対する意識を改革したということでは、ある程度の功績を得られたといえる。幸弘は1758年(宝暦8年)藩校「文学館」を開いている。
 幕末期には8代幸貫が老中として幕政に関与している。幸貫は寛政の改革を主導した松平定信の子(第8代将軍徳川吉宗の曾孫に当たる)であり、幸貫以降真田家は国主以外で自分の領地の国主名を名乗れるという特権を得ている。また、幕末の奇才佐久間象山を登用した。1847年(弘化4年)善光寺地震が起こり復旧資金の借り入れにより、藩債は10万両に達した。
 9代幸教は、ペリーの浦賀来航時に横浜の応接場の警備を命じられ、その後も江戸湾の第六台場等の警備などを務めたことで、藩財政は破綻寸前となった。先代幸貫が計画した新たな藩校「文武学校」を1855年(安政2年)に開校した。1864年(元治元年)、朝廷から京都南門の警衛を命じられ藩兵を率いて上洛し、禁門の変が起こると参内して朝廷の守りについた。
 明治維新の際、松代藩は比較的早くから倒幕で藩論が一致し、朝廷から信濃全藩の触れ頭役を命じられた。戊辰戦争には新政府軍に参加して多大な軍功を挙げた。1871年(明治4年)廃藩置県により松代県となり、その後、長野県に編入された。
1884年(明治17年)華族令施行に伴い、藩主家は子爵を授けられた。(のちに伯爵に陞爵)
(ウェキペディア)
 
   松代村  まつだいむら
 松代町(まつだいまち)は、新潟県の南西にあった東頸城郡の東端に位置していた町である。2005年4月1日に十日町市および東頸城郡松之山町、中魚沼郡川西町・中里村と合併し新設の十日町市となったため消滅した。
〇河川→ 渋海川、鯖石川、越道川
〇隣接していた自治体
東:十日町市
西:上越市
南:松之山町
北:高柳町、川西町
〇歴史
 古くは、松之山町と松代町をあわせて、松山保(まつやまほ)と呼ばれていた。保は、都の官人の主導で開発された国の直轄地。
 寛治3年(1189年)「寛治の古絵図」(往昔越後国之図)に松埜山次郎の名があり、「松埜山が領する所方20里大沼郡とす」と記載されている。つまり、松埜山家はおおぬま(魚沼)郡20里四方を支配した地方豪族でだったと考えられる。
 建武4年(1337年)仁木義有が足利尊氏から松山保の地頭に任じられる。その補任状では、松山保は、右馬権守義時の跡と記載されている(「仁木文書」「新潟県史」資料編5)。
 但し、右馬権守義時に該当する人物は特定できない(東京大学史料編纂所で仁木文書を確認したところ、右馬権守北条茂時と記載されているようである)。興国2年(1341年)ころ当時の松山保の中心地と考えられる犬伏城に北朝方の原田喜太郎が居住。貞治(1362-1368年)ころ越後守護、上杉憲顕の家臣、丸山弾正が犬伏城に居住。
 貞治(1362-1368年)ころ室野城主、南朝方の渡辺民部太夫、館を攻められ敗死。長禄2年(1458年)足利将軍の近習中次之衆、伊勢盛種が松山保を所有。長禄4年(1460年)松之山高館城主、伊勢盛富、盛種父子が、松之山上川手に観音寺建立。このころ松山保が伊勢氏の所領であったことが伺える。
 明応6年(1494年)松苧大権現本殿建立永正4年(1507年)越後守護上杉房能、守護代長尾為景に攻められ、兄の上杉顕定を頼り関東へ逃亡中に、上ノ山(現在、松代小学校付近)で合戦。退却し、松之山天水越で自刃。犬伏城主、清水采女正も房能とともに自刃永正ころ房能の後の越後守護上杉定実の推挙で松山将監が犬伏城主になる。
 後に上杉謙信の意に沿わずに除かれて仏門に入る。永正6年(1509年)幕府から長尾為景に、横領している上杉憲房方の伊勢盛正(盛種の子)の旧領・越後松山の返還を命じる御内書が送られる(小田原北条記)。天文21年(1552年)ころ上杉政虎が、春日山から松代を経て三国峠に抜ける軍道(江戸時代の松之山街道)を整備し、宿営地である犬伏城を整備。
 この頃、犬伏城には箕冠城主の大熊備前守朝秀が赴任し、代官として家臣の針生藤兵衛久吉が常駐。大熊備前守朝秀は犬伏に林蔵寺を建立し、先の城主松山将監を林蔵寺の別当に迎える。永禄4年(1561年)上杉政虎が関東管領を拝命し、松苧大権現に短刀と軍配を奉納。
 天正6年(1578年)御館の乱勃発。犬伏城では、上杉景勝方の小森沢政英、毛利秀広、吉益伯耆守、荻田与三衛門、長尾筑後守らが集結。慶長10年(1610年)
松平忠輝が福島城(上越市)に封ぜられる。このころにはすでに、松之山町と松代町をあわせて松之山郷と呼ぶようになっており、松之山郷は北組と南組に分けられていた。北組がほぼ松代町、南組がほぼ松之山町に相当する。
 伝承では、北組の中心の松代地区はもともと松平と呼ばれていたが、江戸時代に松平氏に遠慮して松代と改称した。寛永元年(1624年)松平光長が高田に入封。松代地区に代官陣屋が置かれ松代地区が栄え始める。松之山街道も整備され往来も多くなった。
 延宝5年(1677年)代官、鳴海九エ門が、松苧大権現中院の脇立および本殿の大般若経600巻を持ち去る。訴訴に発展天和元年(1681年)越後騒動により松平光長は伊予松山藩に配流。天和2年(1682年)松代の陣屋廃止。六斎市(観音祭り)も廃止。
〇沿革
1901年(明治34年)11月1日 - 東頸城郡峰方村、松平村、伊沢村が合併し、松代村(まつだいむら)を新設。
1954年(昭和29年) 3月31日 - 東頸城郡山平村と合併し松代村を新設。
10月1日 - 町制施行し松代町となる。
1956年(昭和31年) 1月1日 - 大字清水の一部を分離し刈羽郡高柳町に編入。
4月1日 - 大字荒瀬(一部)・苧島(一部)・滝沢(一部)を分離し中魚沼郡仙田村に編入。
1959年(昭和34年)1月1日 - 東頸城郡奴奈川村を編入。
1967年(昭和42年)4月1日 - 中魚沼郡川西町の一部を編入。
1985年(昭和60年)4月1日 - 大字田代を分離し刈羽郡高柳町に編入。
2005年(平成17年)4月1日- 十日町市および東頸城郡松之山町、中魚沼郡川西町・中里村と合併し、十日町市を新設して消滅した。
※松代村は昔から石黒との経済的な関係は深かった。特に明治22年に門出村から石黒村に編入した居谷集落とは地理的にも近く濃密であった。
(ウェキペディア)
 
   松平上総亮(介)
(松平忠輝)

 まつだらかずさのすけ
  徳川家康の6男、松平忠輝(1592-1682)。家康は支族の松平家を継がせ、信州川中島城主から1610年に越後福島城主として75万石を領し1614年に高田城を築き移させた。
 その後、忠輝は大阪冬の陣には江戸城の留守居を命ぜられ、夏の陣には先陣に遅れ、途中で秀忠の家来を切ったこともあり1616年城地を没収の上。伊勢朝熊へ流された。また、忠輝は幕府が禁じていてキリシタンとの関係があったとされ飛騨へ移され更に信州諏訪へ送られ91歳で死去。悲運の生涯と言われている。
 
   松平定敬  
まつだいらさ
だあき

 幕末の伊勢桑名藩の藩主(藩主在任→安政6年~慶応4年)。京都所司代。定綱系久松松平家13代。 兄に尾張藩主 徳川慶勝(よしかつ)、一橋家当主徳川茂栄(もちなが)、会津藩主松平容保(かたもり)などがいる。
 許状-石黒村文書
   松之山村  まつのやまむら   
近世以来、松之山郷南組の中心であった。明治22年から昭和33年の東頚城郡の自治体名。
松之山町(まつのやままち)は、新潟県の南西にあった東頸城郡の東端に位置していた町である。2005年4月1日に十日町市および東頸城郡松代町、中魚沼郡川西町・中里村と合併し新設の十日町市となったため消滅した。
役所での年間平均最大積雪深が国内で唯一、3mを超える特別豪雪地帯。

沿革[編集]
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い東頸城郡浦田口村、橋詰村、藤内名村、猪野名村、東山村、観音寺村、古戸村、三桶村、沢口村、松口村、湯山村、光間村、新山村、大荒戸村、小谷村、水梨村が合併し、松之山村(まつのやまむら)が発足。
1901年(明治34年)11月1日 - 東頸城郡松里村、布川村と合併し、松之山村を新設。
1955年(昭和30年)3月31日 - 東頸城郡浦田村と合併し、松之山村を新設。
1958年(昭和33年)11月1日 - 町制施行し松之山町となる。
2005年(平成17年)4月1日 - 十日町市および東頸城郡松代町、中魚沼郡川西町・中里村と合併し、新設の十日町市となり消滅。

(ウェキペディア)
 
   松之山温泉  まつのやまおんせん

 松之山温泉(まつのやまおんせん)は、新潟県十日町市松之山(旧国越後国)にある温泉。
 ナトリウム・カルシウム-塩化物泉(弱アルカリ性)ホウ酸含有量は日本一で、1Lあたりの含有量は349.5mg。メタケイ酸も豊富に含む。2011年の長野県北部地震の影響で源泉の湯量が減少し新たな掘削も行っている。 山間の温泉ながら塩分濃度が高く、太平洋戦争中は塩の採取も行われていた。新潟大学の大木、佐藤らは、約1000万年前の化石海水が、地圧によって湧出してくる「ジオプレッシャー型温泉」である、としている。
 群馬県の草津温泉、兵庫県の有馬温泉とともに「日本三大薬湯」としている。

 また、山深い豪雪地帯に位置し松之山温泉スキー場などもあるが、歓楽的要素は皆無で、「美人林」と呼ばれるブナ林や棚田など里山の自然美を訴求している。 また、小正月には婿投げ・墨塗りの奇祭が行われることでも知られる。
 温泉街から離れた場所にある兎口源泉は松之山温泉と同質の源泉が湧出することから、松之山温泉に含めて紹介される場合が多い。兎口地区には一軒宿の旅館がある。 かつては、市営の共同露天風呂の「翠(みどり)の湯」が営業していたが、近年老朽化により廃止となった。
 開湯伝説によれば、約700年前の南北朝時代に鷹が温泉で傷を癒していたところを発見したとされる。温泉地にある源泉の1つはこの開湯伝説に因んで「鷹ノ湯」を名乗る。上杉謙信の隠し湯とも言われている。江戸時代の諸国温泉功能鑑にも記されている。

※松之山温泉にまつわる伝説が石黒の板畑に伝えられている。→クリック

(ウェキペディア)
 
 石黒の伝説
  松之山街道   まつのやまかいどう
 松之山街道 高田と魚沼郡を結ぶ街道で、三国街道塩沢宿に連絡し、頸城郡の人々が三国街道に出るのに利用した。この区間の宿場は魚沼郡が高田領であった江戸前期に設置され、経路は、高田~川浦~番町~井の口~今保(いまぶ)~安塚~細野~大島~蒲生~松代~犬伏-名ケ山を経て信濃川に至り~十日町-栃掘峠を越えて~塩沢とをつないだ。
 塩沢からは中世には清水峠を越えて、近世には三国街道で関東に達する。戦国期、上杉氏の居城春日山から関東へ出陣する道として利用された。

※昔から石黒で呼称された「松之山街道」とは、松代から岡野町を経て柏崎に至る道のことである。いわば通称「松之山街道」とでいうべきか。なおまた、松代から石黒を経て地蔵峠を越えて折居から野田を通り柏崎に至る道を「松之山脇街道」と呼んだ。(次項と重複)
 民具-馬の鈴-参考資料
   松之山街道の脇街道  まつのやまかいどうのわきかいどう  
昔は、松代方面から石黒を経て地蔵峠を越えて柏崎に至る街道があった。現在、この道を「松之山街道の脇街道」と呼んでいるが、正確には「
通称松之山街道の脇街道」とよぶべきであろう。通称松之山街道は松代から岡田、小清水を経て柏崎にいたる古道を指した。〔※一般に松之山街道とは、高田(上越市)と三国街道の塩沢宿(塩沢町)を結ぶ街道を指す〕
 この松之山街道の脇街道を、松代方面から柏崎に向かう米俵をつけた馬が石黒から大野を経て地蔵峠へと列をなして通ったという。→石黒の民具-馬の鈴
 
     松本  まつもと
   長野県中信地方に位置する市。国際会議観光都市に指定されている。日本で最も古い小学校のひとつ開智学校の開校、改正高等学校令に基づく全国9番目の官立旧制高等学校である松本高等学校の招致など、教育に熱心な都市として知られている。
 江戸時代には小藩の乱立に加えて天領が細かく入り組む信州に於いて、最大の商業都市であった。明治時代のはじめには筑摩県(長野県の南半分が該当)と旧長野県(長野県の北半分が該当)が統合され旧信濃国が一つの県になった。これにより松本は一県の県庁所在地としての地位は失ったが、大正末期から昭和初期までは長野県の商業の中心地であった。
 参考文献-wikipedia
 
   真平御免  まっぴらごめん  
許しを請うときの言葉。全くいやであること。   
例-乱筆真平御免
 
    俎板直  まないたなおし   真宗のてらで報恩講のときに終わりに精進落としの意味で、鯉を俎板の上に乗せ、料理して参詣人に振る舞う行事のこと。
※石黒では、結婚式の披露宴などの本膳の後で賄方を慰労する宴席を「俎板直し」と呼んだ。→石黒の昔の暮らし₋祝言
 
   守札  まもりふだ  
明治4(1871))年に太政官布告第322 号「大小神社氏子取調」に基づき「氏子改」を行い, 氏子としての証明手段として守札-氏子札が 考案された。
御布告留-石黒村文書 
     まぶし  スグリ藁を折り曲げて作った蚕にマユを組ませる場所。石黒の昔の暮らし-四季の農作業-蚕  
   満会  まんかい  頼母子講で最後の会合をいう。  頼母子取極儀定帳 大橋一成家文
    満講   まんこう   
頼母子講で、参加者全員が講金を取得して、講を解散すること。
 
   満能一心  まんのういっしん  諸芸に達していても、一つの真心がなければ役に立たない。→「万能足りて一心足らず」  
   万石  まんごく  →石黒の民具  
   満水  まんすい
川や沼が増水していっぱいになり氾濫の恐れが出るほどになること。
 
 
   右体  みぎてい  
右に述べた事柄のありさま。   右のような状態。
 
   三笠附   みかさづけ
選者が前句である冠の五文字を3題出して、これにそれぞれが七・五の文字をつけて三句とする。江戸時代、点の多いものを勝ちとして賞品をあたえたりした。後にギャンブル化して賭博取締の対象となり、遠島5年の罰が課せられた。
 
    見掠  みかすむ   軽蔑する。さげすむ。侮る。  
   三河国  みかわのくに  現在の三重県の中東部。  
   右之寄  みぎのよせ  右の合計  
   右様   みぎよう  右に述べた事柄の様子。    右様之儀  
     みぎり  
その頃。その時節。その折。  
 ~之砌
 
   巫女・神子  みこ
 巫女(みこ、ふじょ)は、主として日本の神に仕える女性のこと。神子(みこ)、舞姫(まいひめ)、御神子(みかんこ)と呼称される場合もある。
 
   未進  みしん  年貢などを日限までに納入しないこと。  味進   未進金  
   水入証文  みずいりしょうもん
 小作証文のこと。    ※請作申す田地水入れ証文の事
 請作申田地証文之事-田辺重順家文書
   水押   みずおし  
田や畑が、河川の氾濫などで押し流され被害を受けること。 
 
   水腐 みずくさり   水害のため作物が育たないこと。  
   水下 みずしも   
河川や用水路の下流。
※田の用水に恵まれなった石黒では、用水路の水下では、用水を引き込むには大変であった。夜水引き・ぬっすと(盗人)水などの方言が今にその苦労を伝えている。
夜水引の思い出
   水帳  みずちょう  
近世における検地帳の別称。語源は、律令時代の民部省図帳を御図帳(みずちよう) といった事によるといわれる。  
御図帳-みずちょう
  越後国刈羽郡石黒村御検地水帳
   水湛える  みずたたえ  
水がいっぱいに満ちていること。
 
   見捨地   みすてち  道、川、堂宮、火葬場、墓地など高の付かない無年貢の場所。  
   水番  みずばん  田畑に引く水の番をすること。またはその人。
※天水田が多かった石黒では、、乏しい用水をめぐり水番は渇水期には夜通し行われ、厳しい仕事であった。
※石黒の昔の暮らし- 夜水引き①
   夜水引②
 
   水縄  みずなわ  検地のときに土地を測る(縄測)に用いる測り用縄。  
    水呑百姓  みずのみびゃくしょう
 田畑を所有しない無高の百姓を水呑とか水呑百姓とよんだ。だが、小作人ばかりでなく、農地を必要としない生業を営む者も制度上は水呑に含まれるので必ずしも貧農とは限らない。  水呑
対語=本百姓 
 
   水元  みずもと
水源。田の水の引き込み口。
 
   水屋  みずや  
神社・寺院などで,参詣人が手などを清めるための水を入れた鉢を据え,屋根などを設けた所。 ② 水を扱う所。台所。→石黒では「みんじょ」と呼んだ。
 
  水除け   みずよけ  
主として水による災害を防ぐための設備や道具。
 
   水論  みずろん 田の用水に関する争い。  
   溝敷引  みぞしきひけ
溝堀を作ったため耕地が潰れたとき、その分だけ年貢を免除すること。
※石黒村の年貢割付帳には江敷引とある
 
寛政元年より文化5年迄御割付写本-石黒村 
   味噌部屋 みそべや   味噌などを保存しておく部屋 ※石黒の昔の鞍ー食₋味噌藏  
   見立  みたて  
見込み。判断すること。選択すること。
 
   道普請  みちぶしん  道の工事。 村々で昔から年に3~3回定期的に行われた来た、村内や農道の点検と修復。現在(2018年)も続いているが極限に達した過疎化で継続が難しくなっている。
※石黒の年中行事-道普請-農道
 石黒通信
   三つ鍬  みつくわ  備中鍬。※石黒では三本鍬-さんぽんぐわ、と呼んだ。
※石黒の民具-三本鍬
 
   見付田  みつけだ
 普通の耕地は検地により上中下の等級がきまるが、見付田は石盛も決められない程の劣悪な田の中で、少しは増しな田で等級は下下より低く、1斗、2斗の石盛で生産性の著しく低い田のこと。※「見つけ田」は「めっけもの」の意味があったといわれる。   見付畑    
 
   密蔵院  みつぞういん  
本寺院は日本三薬師の一つ米山薬師の別当寺であり米山寺とも称す。
 江戸時代創建の護摩堂の彫刻は極めて巧みな技法により柏崎市の文化財に指定されている。
 また、寺院には高田城主三代目松平忠昌公が天和9年(1623年)に米山薬師に奉納した県文化財指定の太刀が所蔵されている。

所在地:新潟県上越市柿崎区米山寺970

 
   見取  みとり・みどり                                     
 河畔、山裾、原野などの空き地を小規模な開墾をして作物を仕付けた時には高に入れず、毎年の出来具合によって年貢米(見取米)を取ること。
 ※
年数がたって地味がよくなると検見して高に入れた。大規模な開発の場合は別。 また、常に水損する場所なども見取によった。
見取場  関連→鍬下年季
 
   見取米  みとりまい
 新田などで生産性が低いために見取によって率で課しその土地から納入させた米。  
 
   皆川成  みなかわなり  河川の氾濫によって全ての田畑が耕作不能になること。  
  水無月   みなづき  
6月の異名の一つ。
 
     みや  
神社、神宮のこと。天皇の住まわれる場所。
※石黒では神社を「御宮」「御宮様」と呼んだ
 
   宮川村  みやがわむら
 東は長嶺村、西は海、南は寺尾村、北は椎谷海辺。
 明治22から34年の刈羽郡の自治体名で宮川・大湊の2ケ村が合併して成立。明治34年には高浜町の一部となる。初め宮川町、明治34年には高浜町、昭和32年からは柏崎市の大字。明治27年宮川油田が採掘されこれが西山油田の始まりとなる。
 大火で大正14年21戸、昭和32年114戸を焼失。昭和20年代から昭和30年代を中心に砂鉄採掘。海岸浸食が進み昭和20年代より護岸工事を進めている。

  
 
   宮川四郎兵衛  みやがわしろうべえ  
宮川四郎兵衛は、1653-1740 江戸時代前期-中期の開拓者。
承応(じょうおう)2年生まれ。越後国柏崎町の豪商。測量、土木に詳しく越後全域で新田開発をおこなう。新村52村を開き、世に越後瑞賢(ずいけん)と称された。高田藩より名字帯刀をゆるされ、大肝煎格となる。元文5年1月16日死去。88歳。
 元禄13年(1700年)、宮川四郎兵衛は柏崎市野田にある宮川新田や柏崎市上条口の郷原新田など、柏崎や高柳の各地で開墾したばかりか県内各地で開墾し、多くの土地を豊かにした。
 その業績は、県内各地、52か村、4万余石もの新田開発を行ったとされている。
 なお、四郎兵衛の長男将矩・次男儀右衛門も多くの新田開発を行い業績を残した。とくに次男儀右衛門は、紫雲寺潟の埋め立てを行い48ケ村を新たにつくったと伝えられる。
 ※宮川四郎兵衛は享保5年に石黒から下流の門出に用水路(宮川堰)をつくり新田開発をしている。
 証文の御事-
宮川堰
    宮田  みやた   
神社に属する田。
 
   宮平村   みやだいら  
 明治14年岩野分が石曽根村に編入。同22年秋津村の大字となる。初め秋津村、明治34年中鯖石村、昭和32年からは柏崎市の大字。
 
    冥加   みょうが   
神仏の加護、またはそれに対する御礼。
冥加金。冥加永 
 
   冥加永  みょうがえい  
冥加金として納める銭 
冥加金  ※永は永楽銭のこと  
 
   冥加金  みょうがきん  
農業以外の営業にたいして領主が利益の一部を上納させた雑税のひとつ。商人がその事業の認可を得たときに謝礼の意味で上納する金。
神仏の加護を受けるために社寺に奉納する金銭。  
冥加米 冥加永
 
   苗字  みょうじ
明治3年(1870年)に戸籍制度による近代化を重視し名字政策は転換された。9月19日の平民苗字許可令、明治8年(1875年)2月13日の平民苗字必称義務令により、国民は皆が名字を持つことになった。
 だが、現在と同じ
夫婦同氏の原則に転換したのは明治31年(1898年)に明治民法が成立してからである。
 
明治9年(1876年)3月17日の太政官指令においては他家に嫁いだ婦女の苗字は婚前の名字とされた。つまり明治31年までは、夫婦別姓であった。

 
   苗字御免  みょじごめん  町人や百姓に苗字が許可されること。 名字帯刀 苗字帯刀御免  
   名所  みょうしょ・などころ  
字より小さな地所の地名。古文書では田畑の場所の地名を記す項目名として見られる。
※「みようしょ」より「などころ」が一般的であろう。田畑証文には普通に見られる言葉であるが下石黒では「たきのふち」「あらや」「はなさか」「みずあなぐち」「ほうのきやま」「しもっぱら」「へりくろぜ」「どうしんだ」「とまりやま」「おせしみず」「まんぞうがわ」「へ(ひ)がしもろ」などがある。
石黒の作場の名所集落別一覧表 
   嶺村  みねむら
 鯖石川支流石黒川の最上流の山間地。地名は地形からつけられたものと思われる。昔から石黒村に隣接して密接な関係にあった。
 明治2年以来、クリ外を植林することを命じられたが、山間まで田畑を開田しているため空き地が一切ないことを出雲崎代官所に願でている。石黒村にも同じ文書がある。
(高栁町史)。鎮守は黒姫神社3社・松苧神社。寺院は真宗大谷派照源寺
 明治12年からは東頸城郡に所属。同22年市制町村制施行により嶺村となる。明治33年の戸数135・人口902。同34年旭村嶺となる。(大正10年の世帯数133・人口835) さらに昭和30からは大島村の大字となる。
 大正12年に地内竹平に配電され電燈がつく。昭和32年田麦~石黒~柏崎間にバスが運行さたこともあった。昭和40年代より過疎化が進む。
 
古文書の廻文などは女谷~石黒~嶺の順に順達された。
 古文書には「峯村」と書かれたものも見られる。
  参考文献 角川地名辞典 上越市史
嶺尾神嶽雪崩遭難の欅の伐り出し場所について 
    美濃国  みののくに   現在の岐阜県南部 東山道の一国  
   民政局  みんせいきょく  
一般民治を掌さどる組織。柏崎に設置は明治元年。
 柏崎県発行-石黒村分
   民部省  みんぶしょう
明治維新政府の太政官制の1つ。明治2 (1869) 年民部官を廃し設置され、駅逓、土木、地理の3司を管し,土、鉱山、駅逓、通商、聴訴の5司、製鉄、鉄道、灯台、社寺、電話の5掛をおいた。同4年に官制改革で廃止、その職掌は大蔵省、その後内務省に引継がれた。
 
   向寄  むくより・むより  最寄り。  
   武蔵国  むさしのくに  現在の埼玉県・東京都・神奈川県  ※江戸時代に下総国から葛飾郡西部が移動  
   むさと・むざと    不注意に、うっかり。 惜しげもなく。  
   無筭  むさん  思慮に欠けること。数の多いこと。  
   虫送り  むしおくり → 石黒の昔の暮らし→年中行事-稲虫おくり  
   虫気  むしけ  腹の病気。幼児の腹痛・引きつけ。※石黒村の方言で「みしやみ-虫病」があり慢性的な腹痛のこと。  
   無地高  むじだか  
古検地より新検地の村高が減少した場合の差額。実際の検地より村高が多い場合。
 
   虫付(稲)  むしつき
 DТTやBHCなどの殺虫剤が普及するまでは、イナゴやニカメイチュウやウンカなどがすさまじい勢いで発生した。その被害は半端なものではなかった。
 筆者が子どもの頃(1945年ころ)は、登校時に全員が田の畔を手分けをして回り布袋に竹筒を取り付けた入れ物をもってイナゴを捕獲した。とくに捕まえるには努力は要らなかった。手を出せば即座捕まえられるほどの数であった。全校て捕らえた100kg近くのイナゴは学校で大鍋で煮て乾燥して、食糧として売って金にかえた。ニカメイガの被害もウンカの被害もイナゴに劣らない深刻な被害を及ぼした。
 稲虫おくり


イナゴ捕り
   無住  むじゅう  住職のいない寺。  
   無宿  むしゅく  
住む家も職業も持たないこと。人別帳から除かれた者。 無宿者
 
     むしろ   藁やイ(草)などで編んだ敷物。 石黒の民具→むしろ
※昭和30年代までは、石黒では居間に敷いた。
 
    無尽  むじん   
無尽講の略称。講員が一定の金を出し合い、籤や入れ札で希望者が、まとまった金を借りる庶民金融ともいうべきもの。
 頼母子取極儀定帳 大橋一成家文書
   無尽(盡)金  むじんきん  無尽講の掛け金  
   無足  むそく  知行所をもたない家来。禄高がなく扶持米をもらっている身分の低い武士。  
   無体   むたい・むだい
 無理、無法
 
   無高  むだか  
無高の百姓のこと。水呑百姓。 知行高が決まっていないこと。
 
  無反別   むたんべつ  原野、山深い林野の未開の土地に多い、また開墾したばかりで高も反別もない土地。  
   無賃人馬  むちんじんば
 公用で伝馬手形を持っている者に限り、宿駅において無賃で利用できる人馬のこと。
 
    睦月  むつき   
1月の異名の一つ。
 
   陸奥国  むつのくに  現在の青森・岩手・宮城・福島4県にあたる。  
   無田  むでん  無高、水呑の百姓のこと。  
   棟札  むねふだ・むなふだ  新築の際、年月や、棟梁、屋根屋、てん木職人名などを記して棟裏に納めた木板。神社などによく見られる。※石黒の昔の暮らし-家普請  
   無年貢地  むねんぐち  徐地以外の公用の土地で検地帳外書に記載され徐税される土地。
道敷、堤敷、寺屋敷、用水路、悪水堀、高札場、一里塚、神屋敷等。
 
    無筆  むひつ  文字の読み書きができないこと、またはその人。  
   無役  むやく  
田畑を持たず賦役を負担しない百姓。
 用語例文-石黒村浄土真宗人別御改帳
   村入用割  むらいりようわり  
村の運営のための費用を軒割り又は高割りで決めること。
 
   村入用割帳  むらいりようちょう  
  村入用割を記入した帳簿。
 
   村請制  むらうけせい
 
租税年貢は村請制、つまり個人宛ではなく村全体で請け負う制度であった。
 
   村絵図  むらえず
村境、耕地、その他村落概況図。これをもとに
領内図が作られる。 
 
   村送り  むらおくり  婚姻などで他村に人別を移すこと。  所請状の事

一札-宗旨切証文
   村替 むらがえ 
 幕府の許可を得て、知行内の村を他の村と取り替えること。
 ・廻状-山中村・高尾村長岡藩に村替え通知
   村鑑  むらかがみ  村明細帳をもとに村高・反別・石盛・人数・戸数など村の概況を1冊にまとめた帳面。 村明細村鑑大概帳    村明細村鑑帳
   村方  むらかた
行政単位の村をさす。→在方、→農村、漁村。

※時には、村に関する物事の意味で使われる
 
   村方文書  むらかたぶんしょ  
村方文書関連表
 
   村柄  むらがら
村の習慣や人々の気風。村の状況。村立

※昭和の前期のころの石黒村は7集落があったが、それぞれの集落にも、気風や習慣の違いがあった。門出や嶺、女谷など隣接した村々の比較は筆者には分からなかったが、当時○○部落と呼んだ石黒の7集落の村柄は歴然としたものがあったと思う。 
 
   村議定  むらぎじょう  村人が自ら決めお互いに守るべき規則、決まりのこと。
 
村極(むらぎめ)・村定・村法  村定書き
 
   村差出帳  むらさしだしちょう 村差出明細帳のこと。  村明細帳  
   村方三役  むらさんやく
名主(庄屋・肝煎)、組頭(年寄)、百姓代という村政を担う3種の村役人全体を指す。一般的には、名主が村政全体を代表し、組頭はその補佐役、百姓代は監査役とされるが、地方、さらに村により多様である。
また、江戸時代後期にはいると、経済情勢の変化に巻き込まれた既存の名主の中には没落して職務が行えなくなる者も現われるようになり、代わって入札(いれふだ)などによる選出も行われるようになった。
 地方三役(じたかさんやく)
※明治になると村方三役は廃止されて戸長・副戸長となる。
 
   村高  むらだか  
村高とは、1村内の1筆ごとの田畑の高を集計したもの。藩はこの村高により年貢の納入を求め、藩から村々に下した年貢割付状には「村高」が明記されている。
 
   村役人  むらやくにん
 本百姓より村政に携わった役人、一般には名主(庄屋) 組頭。
 
   村山藤右衛門  むらやまとうえもん
 岡野町の村山家(現在の貞観園)当主では、鯖石郷きっての豪農で近郷の村々に多く田畑を持っていた。山中村では田畑の2割以上が村山家の所有地であった。開祖村山正信は寛文年間松之山から当地に移住し、代々庄屋を務めた。田畑の開発も盛んにおこなったが、年貢米にも厳しく、明治初期に山中騒動、岡野町騒動が起きている。
※村山藤右衛門の文書は山中庄屋文書にも多く見られる。
 
   村下  むらした  廻状などの回覧順を記した村名の下。  
   村高   むらだか  
村全体の総石高。
 石高
 
   村継  むらつぎ  文書や品物ときには旅行中の病人を村から村へ継送ること。  
   村並  むらなみ  他村と同程度。  
   村入用  むらにゅうよう・むらいりよう
 村の運営に必要な経費で百姓から戸割り・持高割りなどの方法で徴収した。
 
   村入用帳   むらにゅうようちょう  村の諸経費を記入した帳簿。幕領では代官所への提出が義務づけられていた。  
   村八分  むらはちぶ  村内で申し合わせた私罰。 八分  
   村明細帳  むらめいさい
 領主・代官の交替の時に、村側から村の状況を記して提出した帳簿。帳簿の記載内容は、村高・年貢高・戸数・人口・年貢高など。これをもとに郷帳が作られる
また、巡検使などが來村のばあいも提出した。
村明細差出帳
 
   村持山  むらもちやま  
村全体で管理利用した山。
※石黒では入山(いりやま)と呼んだ。共同カヤ場も村持ち山に含まれる。
 
   村役  むらやく  道路や堤、橋などの工事などで百姓持ち高に応じて出す人足あるいは金銭。  
   村役所  むらやくしょ  
たいていは
名主(庄屋)の私宅が充てられた。
常備の書類は水帳・名寄帳・村差出明細帳・宗門人別帳・小入用夫銭帳・五人組前書など。
連絡等の仕事に常使いが専属で働いていた。
 
   村役人   むらやくにん  本百姓のうちから村政に携わった役人。名主(庄屋)、組頭のこと。  
   村割  むらわり  村全体に割り付けた米と永諸役。つまり全村でうけもつ支出。  
    目明シ  めあかし  岡っ引きとも呼び、与力・同心の下で犯人の捜索逮捕に協力させるために私的または藩により正式に雇った使用人。与力は200石、同心は30俵2人扶持。  
   名月  めいげつ  陰暦8月15日の月と9月13日の月のこと。前者を芋名月、後者を栗名月とも呼ぶ。  
   明細書上帳  めいさいかきあげちょう  →村明細帳  
   明治節 めいじせつ   
11月3日で明治天皇の誕生日。1927年(昭和2年)に制定され、敗戦後に廃止。
 
   召出  めしいだす 出頭させる。呼び寄せる。  召呼  
   召搦  めしからめ  搦め捕ること。  召捕  
   飯盛女  めしもりおんな
 飯盛女(めしもりおんな)または飯売女(めしうりおんな)は、近世(主に江戸時代を中心とする)日本の宿場に存在した私娼である。宿場女郎・
飯売女・飯売・飯売下女・飯盛・おじゃれなどとも呼ばれた。

江戸時代、娼婦は江戸の吉原遊郭ほか、為政者が定めた遊郭の中のみで営業が許されていたが、飯盛り女に限っては「宿場の奉公人」という名目で半ば黙認されていた。飯盛女はその名の通り給仕を行う現在の仲居と同じ内容の仕事に従事している者]も指しており、一概に「売春婦」のみを指すわけではない。
また「飯盛女」の名は俗称であり、1718年以降の幕府法令(触書)では「食売女(めしうりおんな)」と表記されている。

17世紀に宿駅が設置されて以降、交通量の増大とともに旅籠屋が発達した。これらの宿は旅人のために給仕をする下女(下女中)を置いた。やがて宿場は無償の公役や商売競争の激化により、財政難に陥る。そこで客集めの目玉として、飯盛女の黙認を再三幕府に求めた。当初は公娼制度を敷き、私娼を厳格に取り締まっていた幕府だったが、公儀への差し障りを案じて飯盛女を黙認せざるを得なくなった。しかし、各宿屋における人数を制限するなどの処置を執り、際限のない拡大は未然に防いだ。1772年には千住宿、板橋宿に150人、品川宿に500人、内藤新宿に250人の制限をかけている[2]。

また、都市においては芝居小屋など娯楽施設に近接する料理屋などにおいても飯盛女を雇用している。料理屋は博徒など無法者の集団が出入りし、犯罪の発生もしくは犯罪に関係する情報が集中しやすい。その一方で、目明かし(岡っ引)などが料理屋に出入りし、公権力との関わりをもっていた。この料理屋には飯盛女が雇用されていたが、これは公権力への貢献のために黙認されていたと考えられる[3]。

飯盛女が亡くなると投げ込み寺に捨てられ無縁仏となるのが常であったが、府中宿 (甲州街道)の称名寺には珍しく飯盛女の墓がある[

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   目付  めつけ  
幕府の役職名で若年寄の支配に属す。旗本・御家人の観察をはじめ江戸城内の巡検にもあたった。同様の役は各藩にもあった。
目付衆 目付役
 
   目通り   めどおり  
 立っている人間の目の高 さの位置で,立ち木の周囲長をはかり直径を割出す方法。日本で昔から用いられてきたもの。約1.2mの高さ。
 願い上げ奉り候-西方寺
   目安  めやす  
訴状のこと。 元の意味は箇条書にした文書のこと。 目安箱
 
   目安箱  めやすばこ  
 (※中世にもあったが)一般的に目安箱といえば江戸時代の1721年(享保6年)に徳川吉宗が設置したものを指すことが多い。目安とは訴状のことであり、政治・経済から日常の問題まで、町人や百姓などの要望や不満を人々に直訴させた。
 幕臣の投書は当初許可されていたが間もなく禁止され、投書は住所・氏名記入式で、それの無い訴状は破棄された。箱は鍵が掛けられた状態で江戸城辰ノ口の評定所前(現在の東京駅北口付近)に毎月2日、11日、21日の月3回設置され、回収された投書は将軍自ら検分した。
 評定所の式日(しきじつ)の翌日、本丸に差し出された。すなわち、老中の用部屋まで目付が付添い、老中が受け取って御側御用取次に渡す。取次は用部屋坊主に箱を持たせ談部屋に持込み、ここから時計間坊主肝煎が取次ぐ。
 さらに途中から張常坊主が付添い、小納戸頭取の部屋に持込むと、この先は御側用取次自身で持ち、休息間の下段中央に箱を置き両手をつき、小姓はいずれも起って次に下った後、将軍は守袋から目安箱の鍵を取出して手ずから箱を開くという流れであった。
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     めん  
年貢の率。許可。免除。職を解かれること。厘付(りんづけ)ともいう。石高に応じて賦課した税率 
1ツは1割をさす 3ツ6歩3厘といえば36.3%の税率である

※免四ツ→収穫高の四割を年貢に納めること。
 
   合(相)  めんあい  
年貢率のこと。  
免合
 
   免上ケ  めんあげ  年貢率を上げること。  
   免幾ツ  めんいくつ  年貢率のこと。例→免五ツとは、収穫高の五割を年貢におさめること。  
   面謁  めんえつ  身分の高い人にあうこと。  
   免許  めんきょ  特定のことを行うことを公儀より許されること。免除の意味にも用いられる。免許調→免許更新のようなもの。免許札-現代の免許状のようなもので奉行が交代すると更新が必要。  
   面唔   めんご  面会。 例→「期→めんごにごす」 手紙文に使われる語。  
    免札  めんさつ  
 年貢の割札。  ※免→年貢の賦課率
 
   免定  めんさだめ  年貢割付状の略称。 検見によってその年の租率を定めること。
免状  割付(わりつけ・わっぷ)
 
    面積の単位    →町   
    免通   めんつう 一人ずつ飯を盛って配る曲げ物。→石黒の民具→「わっぱ、めんつ」のような作りのものであろう。   
   面体  めんてい
 顔かたち。面相。
 
   免状  めんじょう  
年貢割り付状。
 
 
   免定  めんじょう 検見によって年貢率を決定すること、またはその文書。
 
 
   免田畑  めんたはた  租を除かれている田畑。  
   面体   めんてい  顔の形。 面躰  面軆  面體  
 免引
めんひき 
 水検地の時に村高から神仏免として例えば、天神免 八幡免などと5畝、3畝分の高を引くこと。
 
   免扶持  めんふち  江戸時代、家族の人数に応じて給された扶持米。口米  
   面々   めんめん  
一人一人。  各自。
 
 
   免割  めんわり
納租額を記して領主から村方に交付する文書を「免定-めんじよう」と呼び,また各百姓への割付けを免割(めんわり)と呼んだ。
 
     催合  もあい・もやい  共同で物事を行ったり所持したりする。またはその組織。 茂合  
   孟夏  もうか  
夏の初め
 
   申掠   もうしかすむ  ごまかす。申口-もうしぐち→言い分 申含-もうしふくむ→詳しく述べて分からせる。申談-もうしだんず→話し合う。❍申答-もうしこたえる→答える 申立-もうしたつ→強く申上げる  
   申募  もうしつのる  
言い張る。
 
   申渡  もうしわたし  
申し渡す命令や決定事項。またはそれを記した文書。地方文書には農民の風紀を正すための申渡し文書がしばしば見られる。
御渡-文化8 
   毛利氏  もうりし  
佐橋荘(柏崎市-
)の豪族。先祖は大江広元()の四男の毛利季光(すえみつ)。宝治1年(1247)季光の子の経光(つねみつ)が毛利荘(神奈川県から佐橋荘に移り、ここに越後毛利が始まる。
 そして建武2年(1335)時親(ときちか-
)とその祖孫の元春が吉田荘(広島県)に移り、西国毛利が始まる。越後残留の一族は南条(南条城)・安田(安田城)・石曽根(石曽根城)・善根(善根城)に分かれる。その後、北条・安田の両毛利が栄える。大江広春、安田景元は長尾為景の重臣。北条高広は前橋城代となり、謙信第一の家老と称す。
 御館の乱では、北条は景虎に組して12代で廃絶となる。安田は景勝に組し、8代能元(よしもと)は会津の城代家老となる。

大江広元
 平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての朝臣。はじめは朝廷に仕える下級貴族(官人)だったが、鎌倉に下って源頼朝の側近となり、鎌倉幕府の政所初代別当を務め、幕府創設に貢献した。

※毛利時親
文永7年(1270年)、父より越後佐橋荘南条、安芸吉田荘の地頭職を譲り受ける。六波羅評定衆を務め、河内に邸宅を持った。当時の執権・北条時宗の偏諱を受けて時親と名乗ったとみられるが、この時期の活動については不詳。

佐橋荘
鯖石川の下流域とその支流である長鳥川流域。その所有者は京都六条院領を初め室町院領、亀山上皇領等々、万寿寺領に至るまですべて皇室関連。

 
   萌稲  もえいね

 冠水して腐った稲。 萌腐-もえくさり  
   目銭 もくせん   付課税のひとつで年貢徴収にかかわる手数料。  
   目論見  もくろみ  
計画すること。設計すること。   
目論見帳
 
   餅草  もちぐさ  ヨモギのこと。  石黒の野草→ヨモギ  
   持添  もちぞえ  従来からある田畑の周辺を耕作地に開拓して広げること。持添田地  
   持添地  もちぞえち  昔より寺院が境内以外に所有する土地で、高反別もあり、検地帳に記載されている有税地。  
   持高  もちだか
個人が所有する田畑・屋敷の石高の総計。いはば、高持百姓がもつ石高の量を指す。この持高に応じて年貢・諸役の負担が決められた。また5〜10石ほどの持高がないと一戸前の百姓として経営が成り立たない場合もあり、百姓の間の重要な指標となった。
 
 
   持夫   もちふ  荷物を運搬する人夫。  
   持分    
全体の中で各人や村などが所有や負担をしている部分。
 
   元締  もとじめ  仕事や人を総括する地位にある人。  
   元銭  もとせん  
貸し借りした元の金。 元金。
 
   元高  もとだか  初期の検地により定められた石高。  
   元村  もとむら  
新開地や枝村に対して昔からある村のこと。
 
   戻馬・戻駕籠   もどりうま  人や荷物を送って行ってからの帰る途中の馬、または駕籠。  
   尺度    ものさし  かねじゃく〔曲尺〕、呉服じゃく(鯨尺)、靴ざし(靴座視)の3種があった。※「靴ざし」については意味不明(筆者)  
 者共  ものども
多くの人。 複数の人々
。 
 
   物成  ものなり  
本年貢のこと。  
取箇(とりか)   成箇(なりか)
 
    籾納  もみおさめ   籾で年貢を納めること。  
   籾高  もみだか  籾で表わした石高。  
      もみ  
脱穀していない米。※長年保存するには籾の方が劣化を防げる
 
    籾糠  もみぬか   
米を包んでいるもみがら。
もみがら
 
  木綿  もめん 
 綿の種子からとった繊維、またはそれで織った布。   綿布。
 
   股引 ももひき 
 昔から農村で男子の作業ズボンのような使われ方をした衣服。石黒では昭和中期まで使われた石黒の昔の暮らし→写真 

 ※筆者も使った経験があるが、軽く動きやすく、且つ脱着が簡単で快適な衣服である。
 
    森近村  もりちかむら   
 明治21年の戸数72戸・人口413人。同22年市制町村制施行による森近村となる。明治34年南鯖石村森近となる。昭和32年から柏崎市の大字。
 
   門前町  もんぜんまち
  神社や寺院の参道沿いに発達した町。もともと、社寺の祭礼や法会などで設けられた祭礼市が常設化し,それに飲食施設 などが加わってできた経済集落。
 神社・寺院の信徒が近隣に集落を形成した社家町や寺内町も含めて門前町という
。→大規模のものとしては、奈良市、伊勢市、長野市など。
 門前家
 
   門徒  もんと  
 一般には、一門のともがらのことを指す呼び方。ことに同じ門流に属して信仰を共にする人びとのことを言う。
 また、一寺に属する檀徒(檀家)のことを言うこともある。 ことに浄土真宗の檀徒・信者を「門徒」と呼ぶことが一般的であり、「浄土真宗」を門徒宗と呼ぶこともある。
 また、「門徒もの知らず」などよく聞くことばである。門徒宗ではひたすら南無阿弥陀仏と唱えるのを他宗の者が無知であると見下した言葉。筆者は、石黒の浄土真宗の家で育ったが、この意味をは門徒は他に比べ儀式や行事が簡略であること指すものと思っていた。
 
   門徒衆  もんとしゅう  浄土真宗の信徒たち。  
   門長屋  もんながや  
武家屋敷などの前面に家臣の住居として造った長屋。または、その一部が門になっている。
御門長屋。
 
   文部省  もんぶしょう  
文部省は、廃藩置県直後の明治4年7月18日に設置された。「大学ヲ廃シ文部省ヲ被レ 置候事」という太政官布告が発せられている。(この時まで大学が教育行政の機能をもっていた)
 
      もんめ 重さの単位→1貫の千分の一で約3.75g。
秤量貨幣である銀貨の単位→元禄14年には金1両=銀60匁(時代の相場に左右される)
 
 
      やから  →ともがら  
      やから   
同族。 仲間。 連中。    
 
     やく  
諸役のこと。村内の各種普請など、その村に割り当てられる公役。
※鍛冶役・大工役・船役・鮭役などが柏崎町の古文書では見られる
 
   役永  やくえい  検地帳に記載されていない土地に課した雑税の一種  
   役儀  やくぎ
 役目、任務。    年貢、諸役。
 
   役銀  やくぎん
 小物成を銀で代納すること。  手数料。
 
    薬師   やくし   薬師如来の略称。衆生を病苦から救い安楽を得させる仏。薬師堂  
   役者  やくしゃ  役目に当たる人。役人。 能楽・芝居などで演技をする者。  廻文-西方寺 
   役所  
やくしょ
 
役人が公務をとる所。
 
   役銭 やくせん   労働力負担の代わりに上納した金銭。 商工業者に課せられた雑税。  
   役高  やくだか  村高から引高を差し引いた年貢・諸役の課税基準となる高。 役職に応じて支給される禄高。  
   焼畑  やきばた  
雑草や雑木を焼き払ってそこにソバや豆、小豆などを作る畑。
 切畑ともいう。
石黒では「かんのばたけ」と呼んだ。
    
※→参考資料→ソバの種まき
 
   役頭  やくがしら  
役人の筆頭。
 
   役金  やくきん  
 江戸幕府が幕臣に支給した役職手当の1種。 概要[編集]. 遠国奉行をはじめとする一部の役職に対して、役料とは別個に支給された。役料の代替とする見解もあるが、役料と役金が併給されている例もあり、別系統に属する手当であったと考えられている。
 主に地方勤務の役人に支給され、奉行だけではなく中級の組頭などにも給されていた。『吏徴』によれば、長崎奉行には3000両、長崎・浦賀・佐渡の各奉行支配組頭には100両、新潟奉行支配組頭には70両、摂河州堤奉行兼廻船改役には80両など。
(ウェキペディア)
 
   約諾  やくだく  契約を承認すること。  
   役人  やくにん  
役職についている者、村役人や町役人など。役者。
廻文-西方寺  
   役前  やくまえ  
担当する役目、役職。    役前筋
 
   役家・役屋  やくや
 江戸前期、検地帳登録者のうち、屋敷を持ち、一人前の夫役を負担をする農民のこと。本百姓。
 
   屋敷四壁  やしきしへき
 屋敷や、その周り。
 
   屋敷畑  やしきはた  
古文書字典はにみあたらないが、山畑に対して屋敷内あるいは屋敷周りにある畑のことか。安永2年の石黒村明細帳をみると山畑が石盛り2つに対して屋敷畑は10つになっている。このことから山畑とは焼き畑-カンノ畑を指すものであったか。調べてみたい。
ちなみに石黒には「屋敷田」という屋号があった。
 
   野州 やしゅう   下野国の別名。  
   安石代  やすこくだい  
土地の事情で低率の石代納が認められること。
 
   安田村  やすだむら   
安田村は、かつて新潟県刈羽郡にあった村。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い刈羽郡安田村が村制施行し、安田村が発足。
1901年(明治34年)11月1日 - 刈羽郡田尻村、平井村、鏡里村(一部)と合併し、田尻村を新設して消滅。

 
   休役  やすみやく  役務を休むこと。  
   耶蘇宗門  やそしゅうもん  キリスト教。キリシタン宗門。  
    やな   川に木の杭を打って堰き止め一か所のみ開けておき魚を捕る仕掛け。
 
簗場-やなば
 
   柳樽  やなぎだる  柳の木で作った酒を入れる樽。婚礼等の祝儀に使う酒樽。  
  矢田村    やたむら  
明治22年に吉井村の大字となる。昭和31年からは柏崎市の大字。明治22年の戸数109戸、人口688人。
 
   野帳  やちょう  
検地の際に野外で記入した仮の帳簿。これを清書したものを清野帳(せいのちょう)といい、検地帳作成の際の基礎帳簿とした。そのあと、天正12年3月28日
 
   八ツ時   やつどき  
現在の午前2時頃、または、午後虹ごろ。
 
   弥彦村  やひこむら
 弥彦村(やひこむら)は、新潟県西蒲原郡にある村である。燕市への通勤率は34.1%・新潟市への通勤率は14.6%(いずれも平成22年国勢調査)。
 越後国一の宮、彌彦神社の鳥居前町。弥彦山や弥彦温泉とあわせて観光客が多く訪れる。弥彦競輪場は、日本で唯一の村営開催による公営競技が行われることでも有名である。
 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行にともなう合併により、弥彦村、桜井郷村、矢作村が発足。
 
弥彦村
上泉村、弥彦村、走出村、井田村、山岸村
 
桜井郷村
観音寺村、村山村、麓村、境江村、麓村新田
 
矢作村
大戸村、川崎村、浜首村、矢作村、田中新田、萩野村、魵穴村、平野村、山崎村、中山村
 1901年(明治34年)11月1日 - 弥彦村、桜井郷村、矢作村が合併し、弥彦村となる。
 1951年(昭和26年)4月1日 - 大字矢作の一部、浜首の一部を吉田町へ分離。

(ウェキペディア)
 
   やひつ山    
門出村との入会地争議の土地の一つ。下石黒中央から東側の山並みにあり、下石黒では「ヤブツ」と呼んだ。   ※→絵地図と現地写真
 
   山駕籠  やまかご  山中などで用いられた粗末な竹編み底で周囲の覆いはない駕籠。  
   山稼ぎ  やまかせぎ
山で、伐木・採薪・狩猟などをして生計を立てること。

※石黒村などでは、村の戸数の少なかった江戸時代初期までは山境なども緩やかで、比較的に山での焚き木の伐採などは自由であったであろうが、中期より明治以降昭和20年代までは戸数、人口が増えるにつれて私有の山を持たない人にとっては焚き木取りなどは次第に厳しいものとなった。燃料としての薪は食糧と並ぶ生活必需品であり、4㎞も離れた共有地で柴木を伐り中継地にニオをつくり、秋に家まで背負って運ぶという厳しい仕事であった。また、村中や周囲の私有林では落ちた枯枝やスギの葉(焚きつけ用)などは持ち主に依頼して拾わせてもらうのが常識とされた。こうした事情は近隣の村々でも同様であり、村同士の入会地の争議の原因ともなった。

※関連資料→門出村と石黒寄合の山争議

 
   山方  やまかた  
山よりの村。山沿いの村。
 
   山崩れ  やまくずれ  大雨等による山崩れ。
※地すべり地帯が大半を占める石黒村は、昔から山崩れが多かった。現在でも作場に「おおぬげ」などという呼び名(地名)として残っている。HP-石黒の地勢
 寛政元年酉年より文化五辰年まで御割付帳-石黒村
  山縣狂介  やまがたきょうすけ  
山縣有朋の別名。その由来は吉田松陰の松下村塾で「自分でも持て余すほどの情熱を持て」と教えられたいう。生徒等はそれを「狂」の文字に託し、高杉晋作は「東洋の一狂生」と称し、山縣有朋は狂介と名乗ったと伝えられる。
 
   山崩れ引き  やまくずれびき  大雨・地震などで小石・砂などが田畑に押し入り潰れた土地の分を連連引にすること。  
   山境(堺)   やまざかい  村や国(藩)などの境界にされている山。  
   山里蝋実  やまさとろうみ  
日本の蝋燭の歴史は仏教の伝来とともに始まったといわれてる。そしてその原料には櫨(はぜ)漆(うるし)の果実が使われた。これらの木の実を原料とした蝋燭の生産が始まったのは室町時代後期であり江戸時代には「木蝋」として急速に普及した。
 さて、ここで山里蝋実とあるが、山蝋・里蝋という言葉を山中村庄屋文書で見たことがある。
山と里に分けるとしたら、櫨は里、漆は山ではなかろうか。今後、調べてみたい。いずれにせよ、ここでは両者を合わせて蝋実として表現した言葉であることは間違いはない。
 →漆の記載のある古文書写真
   山芝  やましば  
野生のカヤ科の植物。堆肥に使った草。 
 差し上げ申す一札の事-荻野島村
   山城  やまじろ  
山に築いた城   ※山城国の略→
やましろ
 
    山城国  やましろのくに
 現在の京都府南・東部。
近世以降の沿革
「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での国内の支配は以下の通り(221,054石余)。太字は当該郡内に藩庁が所在。国名のあるものは飛地領。幕府領は京都代官が管轄。下記のほか、個人の領地や寺社領も点在した。 乙訓郡(25,792石余) - 皇室領、宮家領、門跡領、公家領、女官領、地下役人領、北面衆領、幕府領、京都守護職役知、旗本領
葛野郡(35,656石余) - 皇室領、宮家領、門跡領、公家領、女官領、雑色領、地下役人領、幕府領、京都守護職役知、旗本領、社家領
愛宕郡(26,258石余) - 皇室領、宮家領、門跡領、公家領、女官領、地下役人領、幕府領、京都守護職役知、旗本領、社家領
紀伊郡(27,632石余) - 皇室領、宮家領、門跡領、公家領、女官領、地下役人領、北面衆領、幕府領、京都守護職役知、旗本領、
淀藩
宇治郡(15,153石余) - 皇室領、門跡領、公家領、女官領、幕府領、旗本領
久世郡(28,420石余) - 皇室領、門跡領、公家領、幕府領、京都守護職役知、旗本領、淀藩、大和小泉藩
綴喜郡(24,804石余) - 皇室領、門跡領、公家領、女官領、幕府領、旗本領、
淀藩
相楽郡(37,337石余) - 皇室領、門跡領、公家領、女官領、幕府領、京都守護職役知、旗本領、
淀藩、武蔵岩槻藩、伊勢津藩、伊勢久居藩、大和柳生藩、大和小泉藩

慶応4年 2月19日(1868年3月12日) - 藩領を除く各領地が京都裁判所の管轄となる。
閏4月25日(1868年6月15日) - 京都裁判所の管轄地域が京都府の管轄となる。

明治3年5月20日(1870年6月18日) - 岩槻藩の管轄地域が京都府の管轄となる。
明治4年 7月14日(1871年8月29日) - 廃藩置県により、藩領が淀県および岩槻県、津県、久居県、小泉県、柳生県の飛地となる。
11月22日(1872年1月2日) - 第1次府県統合により、全域が京都府の管轄となる
(ウェキペディア)
 
   山銭  やません  山の小物成で百姓が薪炭材や下草の採取料として銭納した。  
   山高  やまだか  
高付(年貢の対象とされた)された山林
 
   山田茂左衛門  やまだしげざえもん

寛政3年(1791)から享和元年(1801)まで脇野町代官との記録が見える。
寛政3年に脇野町代官として山田茂左衛門、元締田伏忠兵衛が赴任したことで三島、刈羽、魚沼、古志四郡の222カ村、5万石は脇野町陣屋が支配する本御料所となり、脇野町代官所が確立した。 寛政9年に陣屋を、翌10年に牢屋を再建した。
 申し渡し-田辺重順家文書


酉御年貢可納割付之事  
   山田爲四郎  やまだためしろう  
山田氏の祖は鋳物屋で、転じて薬種商となり、財を蓄え、4代嘉十郎に至り始めて町年寄となった。安永元年に大庄屋となった。
 5代爲四郎は寛政年間に大肝煎となり、さらに御用達となり、文化7年には郷士を兼ねた。これより代々大肝煎、御用達、郷士として他を凌いで高い地位を占めた。
 爲四郎の子、甚次郎兄弟等はいずれも傑出した人物で、家産をなした。
 また、一方で風流を好み文学に長じ、文化文政時代から幕末にかけて柏崎風流人の第一人者の地位を保った。
 しかし、慶応2年爲四郎の孫禎助の没後衰退に向かい、さらに戊辰の役の桑名藩柏崎陣屋の廃止とともに、奉誠講等の立替金の取り立て不能となり、ついに破産に至った。(参照資料-柏崎編年誌)
 ※文政4年の「柏崎町御案内帳」に、記述にあたった大庄屋3名のうちの一人として名前が見られる。
(市史資料9-56)
※日本棚田百選に選ばれた石黒の花坂新田は、山田為四郎とその子である甚四郎によって開拓された。石黒の歴史-花坂新田
    
 
   山田甚四郎 やまだじんしろう   
   山田八十八郎  やまだやそはちろう
 明治期の柏崎を代表する行政官、漢学者。原修斎の門下で漢学を学び松村文次郎、西巻永一郎と共に三秀才と称される。15歳より縮布行商をして十数年間縮布旅稼ぎをする。維新の大変革で明治元年に36歳で民政局御用取次雇などから、柏崎県柏崎校の会計幹事となり、また町内では戸長扱いとなる。
 明治6年には柏崎刈羽を治める第五大区長に抜擢。明治12年初代の刈羽郡長をはじめ、南蒲原、北魚沼の郡長を歴任。明治30年退任後は小出で魚沼塾を開設し、『魚沼郡誌』を執筆する。刈羽郡会は郷土誌編纂を決め、八十八郎は妙行寺の付近に居を移し、『刈羽郡旧蹟志』を著す。本書には各地の村落、旧家、名蹟、神社仏閣を訪問した正確な古記録が残されており、今でも高い評価を受けている。
 80歳の大正4年、法花堂下町で没し、その墓所は極楽寺にある

 願い上げ立間去り候-西方寺
    山手  やまて   山手米、山手役の略。 山に近い地域。   山手役  山手米永  
   山手米  やまてまい  
他村や他人の山に入り草や芝木、落ち葉などを採取する代価として納める代金や米。
※石黒寄合と門出村との250年余にもわたった山争議はこの山年貢に始まった→石黒の歴史-入山争議
 覚-山手米請求書
   山手冥加米  やまてみょうがまい  
山野や河海の利用などに対しての課税。
卯御年貢割付の事 石黒村 
   山津波  やまつなみ
 山の斜面が崩壊し河川が堰き止められて湖ができ満水に達すると堰き止 
 恐れながら書付を以って願い上げ奉り候
    山留  やまどめ   山に入ることを禁ずること。  
    山鳥  やまどり   →石黒の野鳥-ヤマドリ  
   山中村  やまなかむら  
 山中村(やまなかむら)は、かつて新潟県刈羽郡にあった村。
 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い刈羽郡山中村が村制施行し、山中村が発足。
1901年(明治34年)11月1日 - 刈羽郡岡田村、岡野町村、高尾村、漆島村、荻ノ島村、門出村、栃ヶ原村と合併し、高柳村となり消滅。

 地内上村に住んだ石塚家は代々庄屋を勤めたが徳兵衛の代-慶応元年年貢代金徴収が不当であるとして、さらに石塚家の跡目相続がからんで小作民の一揆、いわゆる山中騒動が起きた。一揆解決のため長岡藩家老
河井継之助が調停に当たったことは有名である。

○山中村近世年表及び庄屋文書年代表←クリック

 
   山中騒動  やまなかそうどう   
山中村は、文久2年(1862)までは幕府の直轄領であったが、この年から長岡藩領となった。(岡野町、石黒は幕領桑名領所、高尾、山中は長岡領、岡田、漆島、荻ノ島、栃ケ原、門出は桑名領)
 村の気風からも私領地となることを好まない傾向があり、さらに耕地に恵まれないことから、少しでも負担の軽い幕府領を望んだものであろう。
 また、村の田畑の2割以上は、他村の地主が所有していた。特に、岡野町村豪農村山家(現在の貞観園の先祖)は、山中村に越石を多く持ち、その地主であったが米相場は常に村山家が決定し高値であった。
 年貢の金納が多かったこの時代、山中村民は、長岡領に変わった機械に、年貢の引き下げと米相場の軽減を実現しようと行動を起こした。
 また、この村人の動きを利用して、庄屋の石塚徳兵衛の継母ノワが、自分の子である「長平」に跡目を継がせようと画策した。そこに付け込み庄屋徳兵衛と継母の関係悪化させ徳兵衛から庄屋職職を奪おうとする者が現れた。こうして、村の騒動は徳兵衛・ノワ両者の一族を巻き込み険悪化し3年たっても解決を見なかった。両者からの訴状をうけた郡奉行は双方を長岡に呼んで説得、徳兵衛の継母ノワと、その子を分家させ、訴訟を取り下げさせた。
 徳兵衛には蟄居を命じ、13歳の息子大五郎に叔父の初衛門が後見人となり、庄屋職を継がせることになった。
 こうして3年に及ぶ騒動は落着したかに見えたが、その実、肝心の米相場については解決を見ず、村人の庄屋と藤衛門への不満は改善されることはなかったのである。
 その年、村人は実力行使として全員が毎年行われる宗門改帳への捺印の拒否を決めいたが、庄屋との親類関係にあった人であろうか定かではないが3名の村人が捺印をしたのである。
 それを知った村人は3名の家に押しかけて乱暴を繰り返したため、ついにその3人は近くの山中に逃れて首をつったのである。幸いにも2人は命を取り留めたが1人は死亡した。
 この事件により、長岡藩は事の重大さを知り、捕吏30名を山中村に派遣、首謀者4名を捕縛して長岡に連行することになった。そして一隊が野田峠に差し掛かる頃、捕縛された村人を取りかえそうと竹槍で武装した大勢の村人たちが追いついた。
 捕吏の隊長は、ここで戦うことが更に重大な結果を招くと判断したものであろうか、ひとまず4名を解放して村に返した。
 長岡藩主、河合継之助は、このいきさつを知ると激怒し、一人でも山中村へ説得に行くことを決意した。一人で行くのは危険であると親類が止めるのも聞かずに「武士が百姓を恐れては、武士道に背く」と従僕の彦助一人を供として長岡を出発した。
 長岡から小千谷、小国を経て山中まで9里半(約38㎞)を夜半に、村人知られることもなく、庄屋宅に直行して宿所とした。慶応元年(1865)11月15日のことであった。
 一方、村人は、継之助が庄屋宅へ宿泊するのは、えこひいきが生じると宿替えを願ったが、継之助は大いに怒り、「おみんしゃんたちは、慮外の事を言いやる。継之助が公職に在って、公事を行うに差し出がましいことを言えやる。庄屋にはこのような時のために普段から広大な家屋敷を許しておくのだ。自分は、庄屋に泊まってもえこひいきなどすることはないと、村人の不当を諭したので、村人は返す言葉もなくその日は退散したという。そして、継之助は庄屋家族を別室に退去させ11月半ばの寒夜にもかかわらず、戸を取り払って外から見えるように灯火をともし、駆け付けた捕吏と雑談して一夜を過ごしたという。これを村人はそっとのぞき見して驚いたという。
 翌、15日は吟味、広間に捕吏を整列させ、首謀者たちを叱り、その罪の重さを諭し、判決後の罪は特別に問わないこととし「この内容に不服あらば、我一人裏山にいく。汝ら何なりと持ち来たり我と勝負せよ」と言ったという。その気迫に静まりかえった一同にあらかじめ用意した塾談書を読み聞かせ、ようやく調印にこぎつけた。
 判決の中で村民の首つりと、特定村民の庄屋交代要求に触れなかったのは、村民の中から罪人を出すことを心配した苦渋の決断であったと思われる。
 なお、かねて村民から届けられていた金を持参して当日宴会の費用とした。そして今後は賄賂は無用と説得したという。
※山中村庄屋石塚家系譜


 参考文献 石塚家文書・新潟県の合戦・その他







山中庄屋文書 廻状





徒党一件 (6点)

(市立図書館所蔵)
 



山中騒動に関する願書 

(市立図書館所蔵)
   山抜   やまぬけ  
山崩れ。地すべり。
石黒では「ぬげる」という言葉は、山などの斜面が地すべりを起すことを意味した。石黒には「大抜げ→おおぬげ」という地名があり、そこは昔、大大規模の地すべりのあった場所と伝えられている。
 石黒地区は、地すべり地帯の多い新潟県の中でも、特に地すべりの多い地区である。→参考資料
「大ぬげ」の作場写真
(2010頃に過疎化になり、原野に還った。
   山芋  やまのいも  →石黒の野草-ヤマノイモ  
  山年貢    やまねんぐ 村持ち、あるいは百姓持の、反別があって山高として納める年貢。
石黒の石黒の昔の暮らし-入山地争議
 
 
   山畑永 やまはたえい   山畑に課せられる税。  
   山畑  やまはた
 山間にある日当たりの悪い畑。
 
   山伏   やまぶし  
山中で生活して仏道修行する僧。  修験者。
 
   山札米  やまふだまい  山林への入山、伐採などの際に納める税。  
   山室村  やまむろむら  
 山室村(やまむろむら)は、かつて新潟県刈羽郡にあった村。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い刈羽郡山室村が村制施行し、山室村が発足。
1901年(明治34年)11月1日 - 刈羽郡森近村、石曽根村、大沢村と合併し、南鯖石村となり消滅。
 
   山元0 やまもと   山のふもと。山の持ち主。  
   山蝋  やまろう  
故郷石黒の古文書には、「里蝋」「山蝋」の文字がしばしば見られるが、これは、ウルシのことで、里蝋はウルシ、山蝋はヤマウルシの実と思われるが、如何であろうか。なお、「里蝋」にはハゼの実も0はいるのではなかろうか。
 
   不得止事  やむことをえず  
仕方がない事。  
不得止→やむをえず
 
  弥生  やよい  
3月の異名の一つ。
 
     ゆい
 頼母子取極儀定帳 大橋一成家文書古来から伝わってきた「労働力の相互扶助」システム。「手間換え」などと呼れる。特に農村を中心に広まっていたシステムで、お互いに労働力を融通しあうもの。また、結では労働力の貸し借りであり、金銭やモノでの相殺はできないのが原則であった。
 ※石黒では、主に田植えや稲刈り時に行われた。「えい」、「ええ」などと呼ばれたが「ゆい」が訛ったものであろう。
 
また、茅葺屋の材料であるカヤは集落ごとにカヤ場を持っていて村中でカヤ場草なぎ、カヤ刈りカヤ背負い(運び出す)などを共同作業でおこなった。そして、その年に屋根普請をする1~3軒に与えられ、カヤ場からの運搬、また葺き替え作業の手伝いを村中で行なった。
 「カヤ講」などとよばれたことからも、夏のカヤ場の草刈り、秋のカヤ刈りと村中の労働力を結集して得た膨大な量のカヤを順番に受け取るシステムは「頼母子講」に近く、作業時に互いに労働力を貸し借りすることは「結」に近い。
 石黒では、昭和30年代前半までは続いていて、筆者もカヤ場なぎ、カヤ背負い(運搬)、そして、屋根普請の作業にも参加したことがある。その年の屋号「稲場」の屋根普請(昭和33年)が下石黒集落での最後の共同作業であった。廃止になった 理由は高度成長期に入り、各戸の経済も豊かになり、茅葺屋根をトタンで覆う改築が盛んとなり、大々的に屋根の葺き替えをする家が急激に減少したことであった。




四季の農作業




頼母子取極儀定帳 大橋一成家文書
   由緒  ゆいしょ  
物事の由来や起こり 特別な歴史的な関係。
 
   由緒書  ゆいしょがき  その家の来歴や系譜などを書き記した文書。  
   結麻   ゆいそ  刈り草や薪を束ねる藁しべ。※石黒で呼ぶ「つなぎ」ではないか  

 遊芸  ゆうげい  
歌舞伎、茶の湯、生け花、三味線などの遊びの芸能。
 
  結城紬 ゆうきつむぎ   常陸の結城地方に産する紬の一種で真綿を紡いだ手紡糸で織った絹織物。柄が絣や縞であったことから結城縞とも呼んだ。  
   遊興 ゆうきょう   
遊び興じること。特に、酒色に興じること。
 
   宥恕  ゆうじょ  大目に見てゆるすこと。  優恕  優如  
   遊女奉公  ゆうじょぼうこう  遊女として客を接待する仕事に従事すること。(その多くは身売りなどで奉公を強いられた。)  
   遊女屋  ゆうじょや  遊女を雇って客を遊興させることを生業とする店。女郎屋 娼家   
   由縁  ゆえん  ゆかり。由来。わけ。  
   行暮   ゆきくれ  
 途中で日が暮れること。
 ○往来一通の事
   雪代水  ゆきしろみず  
雪解け水。 
雪代  
 
   行倒  ゆきだおれ  行倒れ人のことで、病気や飢えなどで路上で倒れること。  
   行倒    ゆきだおれ   
 旅人などが、道中で病気などで倒れたり死亡したりすること。
 元禄の頃には交通網の発達により旅行者の数は多くなっていた。
また、生類憐みの令が契機となって、元禄元年(1688)には、その者を
①勝手に宿送りをせずに治療を加え、国元や親類縁者を調べて道中奉行へ届けて指図を得ること。
②回復して旅を続けるなら証文をとり、死亡したらその所の役人を呼び、宿役人立ち合いの上、埋葬して所の領主から報告させる、こととした。
 翌年には、その者の回復が10日以上を要するか、急病以外は報告に及ばすとし、在所も2日以内の距離に限り飛脚で知らせた。

 享保18年(1733)には在所が遠くとも知らせ、在所不明の時には3日間晒して埋葬させた。明和4年(1767)それが五街道の場合は道中奉行、その他は所の領主へ届けさせた。
 また、死亡したら埋葬を願う書付があれば在所への知らせは不要とした。こうした費用は本人か在所で払えなかったら宿村持ちであった。
(参考文献-国史大辞典)
○行倒れ人-三島宿-北条文書 
   遊行  ゆぎょう  遊びに行くこと。 僧侶が修行のために諸国をまわること。  
   行衛  ゆくえ  →行方  
   行々・往々  ゆくゆく  のちのち。やがて。  
   油座 ゆざ   
鎌倉~室町時代に灯油用の油をエゴマ (荏胡麻)から製造,販売した商人の座組織。荘園領主や寺社,大名などがその特権を与え保護していた。
 
   譲り状  ゆずりじょう  所領や財産などを譲渡する趣旨を書いた文書。家屋敷の贈与は生存中に作成して年寄五人組に提出しておき手元においてはならない決まりになっていた。(享保4)  
   油団  ゆとん・ゆたん  
和紙を厚く張り合わし油を塗った夏に用いられる敷物。座るとひんやりと心地よいのが特徴。昔、夏の暑さを凌ぐために使われていた。
 
   努・努々   ゆめゆめ  強い否定に用いて→努めて・決して。必ず。  
   百合根  ゆりね  ユリの根(食用にする) ※石黒の植物→ヤマユリ  高柳産百合根の譲受依頼の書簡(抜粋)
    与板村   よいたむら  
 同22年秋津村の大字となる。明治34年に中鯖石村、昭和32年からは柏崎市の大字となる。
 
   与板町(村)  よいたまち
 与板町(よいたまち)は、新潟県三島郡に所在していた町。長岡市への通勤率は40.5%(平成17年国勢調査)。2006年1月1日、隣接する長岡市に編入された。
市街地には雁木が連なり、国道・県道・町道や公共施設の敷地内に至るまで消雪パイプが整備されている。
江戸時代は与板陣屋が存在する城下町・川港町として、明治時代以降も三島郡の中心地として栄え、市街地の町並みの様子から加茂市等と共に越後の小京都と呼ばれている。
 町北部の丘陵地帯には、縄文中期からの生活の跡があり、平安時代にはすでに集落が形成されていたといわれる。
 新潟県のほぼ中部に位置し、郡役所や警察署が置かれた事から三島郡の中心地であった。西部の三島丘陵と東部の信濃川左岸に挟まれる形で、その中央部に市街地が発達し、城下町特有の鍵形の道路が南北を縦断している。
 
文政11年の三条大地震の古文書には、「与板の儀は山付き少し残り、外皆潰れ、死者50人、負傷者数知れず」とある。(石黒地区資料館)

(参考-ウェキペデア)
  覚-三条大地震(石黒資料館文書)
   与板藩
(井伊家時代)
   
〇牧野家時代
越後長岡藩初代藩主・牧野忠成の次男康成が1634年(寛永11年)に三島郡与板に1万石を分与され、長岡藩の支藩として立藩した。正しくは與板と称する。藩主の政庁は上杉氏の家老・直江兼続の居城として知られ、廃城となった与板城址の麓に陣屋を置いて、与板近辺を支配した(現長岡市与板支所)。しかし、康成は領地を賜ってから陣屋には23年間移らなかった。
第2代藩主・牧野康道の上級家臣として、牧野・野口・加藤・木俣・諏訪・真木・稲垣・平井・甲谷・小川・太田の惣士があった。1667年(寛文7年)、突如として、家老の野口氏が改易となり、一族は召し放ち処分(解雇)となり、牧野氏の家中から根刮ぎ追放された。野口氏は、家老のほかに2人が要職にあった。改易の理由は、江戸城からの下城するにあたって、幼い藩主であった康道の後詰めの不備を責められたものである。藩主は、幼くその父も他界していたので、藩主の強い意思でなされた懲戒処分とは想像できない[誰?]。改易及び、一族の事実上の追放は、明らかに厳科すぎるものであり、野口氏が権力闘争に敗れたか、謀略によるものであると考えられている[誰?]。

1702年(元禄15年)信濃小諸藩1万5,000石に転封された。内実は3万石の領地が与えられたのであったが、公称(表高)は、1万5,000石に抑えられたのであった。これは、当時の藩主である3代目の康重が将軍・徳川綱吉の母・桂昌院の実弟・本庄宗資の実子であるという縁から綱吉に引き立てられ、小藩ながら城持ちで格式の高い小諸に栄転させられたものである。

〇井伊家時代
その後天領を経て、1705年(宝永2年)近江彦根藩井伊氏の嫡流筋にあたる井伊直矩は、義父で遠江掛川藩主であった直朝が精神疾患を理由に改易となった後、家名存続が許され2万石で再び立藩し彦根藩の支藩として廃藩置県まで存続した。掛川時代は城主大名であったが無城大名に降格し、参勤交代を行わない江戸定府となった。1804年(文化元年)6代直朗は若年寄(就任:1781年 - 1812年)としての功績により城主格となり、参勤交代が認められた。それを機に与板城の建設が行われ、1823年(文政6年)、7代井伊直暉の時に完成した。なお、最後の藩主・直安は養子であって、大老・井伊直弼の四男である。東京都世田谷区の豪徳寺にある裃着用の直弼の肖像画は、実子である直安が後年記憶を頼りに描いたものである。

〇幕末から明治へ
慶応4年(1868年)、鳥羽・伏見の戦いに於いてその火蓋を切った戊辰戦争は、それまで政争の中心から遠かった小藩の与板藩をも、妥協を許さぬ対立抗争へと引き込んだのである。大政奉還後、井伊家宗家の彦根藩が譜代筆頭にも関わらず新政府側に藩論を転向させたことから(井伊家は代々勤皇を是としていた点も有り)、支藩である与板藩もそれに従った。近隣の諸藩は陸奥会津藩の影響もあり、佐幕色を強めて新政府軍と戦ったが、与板藩は前記の事情から新政府軍側に就く構図となり、孤立した存在となっていた。また当時中立を表明していた長岡藩とは接触し藩の事情を説明していたが、その後長岡藩は一転して同盟軍に加盟している。

藩主の直安は2月まで江戸藩邸に所在したがその後国許入りする。4月に入り新政府軍の先発隊が進出すると直安は高田で新政府軍総督と会見し、恭順の意を示した。4月5日に新政府軍の命を受けて京都御所警備の為に上洛した。4月11日には古屋佐久左衛門が率いる衝鋒隊が今井信郎を派遣して与板藩に1万両と兵糧米500俵を要求したが、7000両余しか蓄えがない与板藩はそのほぼすべてを供出した。無一文になった与板藩は長岡藩家老の河井継之助に泣き付いて同藩から7000両の貸付を得ている。北陸道軍が天領だった出雲崎に進駐すると、5月14日にはこれに応じて出雲崎口に出兵した。

5月19日早朝、新政府軍は膠着した戦況を打開するために三島郡本大島村(現長岡市大島新町)から信濃川を渡河し、長岡城を急襲し落城させた。

その後、奥羽越列藩同盟軍は与板城を攻撃するために会津藩・桑名藩・上山藩兵で組織された軍を地蔵堂(燕市)・大河津(長岡市)経由で与板へ進めた。与板藩家老も藩兵を率いて進軍し、新政府軍に援軍を要請した。5月27日、与板手前の金ヶ崎で両軍が衝突。一斉射撃を掛けるが会津藩兵の応戦に遭い退却した。5月28日早朝には援軍が到着。軍議が開かれ、金ヶ崎へは長州・須坂藩兵を配置、塩之入峠口には薩摩・長州・飯山・戸山・与板藩兵を配置した。同盟軍の3倍の兵力である。塩之入方面では一斉射撃により善戦するが、金ヶ崎では戦況は不利となった。塩之入方面が突出すれば退路を断たれる為、新政府軍は至急退却を始めた。しかし同盟軍の勢いは強く、驚いた新政府軍は与板城に火を付け、大手門・切手門以外が焼失した。このため城下は混乱に陥った。その後も6月まで与板周辺で攻防戦が続いたが、同盟軍から与板城下を守り抜いたのである。

近隣の三根山藩は1回目の長岡城落城後新政府軍に参加すべく、家老・神戸十郎右衛門を与板藩に送り援軍を求めた。しかし与板藩では援軍を出す余裕が全く無く、直接長岡の新政府軍との交渉を勧めたが、結局三根山藩は新政府軍と交渉出来なかった。その為三根山藩は奥羽越列藩同盟の一員である庄内藩軍の要求に応じ、出兵せざるを得なかった。以後庄内藩軍と行動を共にし、野積、寺泊、出雲崎と戦闘を繰り広げた。しかし、新潟・長岡が新政府軍の手に落ちると三根山藩は南北から挟撃される形となり、新政府軍に恭順の意を示した。その後は与板藩他3藩と連合して庄内への進撃を命ぜられ、一度は共に戦った庄内藩を敵に回して戦う形となった。

結果として与板藩は新政府軍の前進拠点としての役割を果たすこととなった。この戦いでの総出兵数は166名、戦死者5名、負傷者20名である。なお当時の藩士数は士族253名、卒族1203名と記録されている。

明治2年(1869年)に戊辰戦争の功労を顕彰して明治政府より賞典金2000両が給与された。同年版籍奉還が行われ、藩主直安は知藩事となり華族に列している。明治4年(1871年)7月14日の廃藩置県により与板県となり、同年11月20日には柏崎県に編入、更に1873年(明治6年)6月10日には新潟県に編入された。1884年(明治17年)藩主家は子爵となっている。

(引用- ウェキペディア)
 
 宵宮   よいみや 本祭りの前日の夜に行われる祭り。 よいまつり   
   養家  ようか  養子に入った家。  
   用掛  ようがかり  
明治5年に戸籍法が施行され、庄屋の名称は「戸長」と改められた。 明治6年7月柏崎県が新潟県に統合されると、新潟県では全県で23大区(同9月には25大区に改正)の大小区制が敷かれた。 各小区には戸長が置かれ、各小区は各組に分けられて、それぞれに用掛が置かれた。 のちに戸長の名称は小区長に、用掛の名称は戸長に改称された
嗣子改籍願之事 
   洋算早学 ようさんそうがく   
明治時代の初め、吉田庸徳(つねのり)著による初等教育向け洋算の教科書。
 
   用捨・容赦  ようしゃ  
許すこと。大目にみること。手加減。
 
   容赦引  ようしゃびき  定免の村が凶作のとき、内証で年貢を減免すること。→手当引  
   養女  ようじょ  養子縁組で自分の子にした子女。  
   用水掘  ようすいぼり  用水路。  
    用人 ようにん    江戸時代、旗本や武家で色々な雑事出納などの仕事をした者。  
   遙拝式  ようはいしき  
太平洋戦争前、宮城に向かって遙拝した儀式。
皇居遙拝
 
   用弁  ようべん  用事をすますこと。用が足りること。  
   容積単位  ようせきうたんい
 1→10斗 1→10升 1→10合 1→10勺(しゃく) 1→10才(さい) 1→10弗(ふつ)
 
  用達  ようたし  
近世、幕府・諸藩の役所や屋敷に出入りし,その需要を賄った特権を与えられた商人。
御用聞・御用商人
 
   要用  ようよう  どうしても必要な事または金銭。  
   世柄  よがら  世の中の様子。世情。  
   余寒  よかん  立春後も続く寒さ。手紙文によく使われる語。  
   夜着  よぎ  →石黒の無化の暮らし-民具→夜着  
   余技  よぎ  他の事。他の方法。   無余儀→よぎなく  
   除帳  よけちょう  他村に住居を替えたり、欠け落ち人が出た時など人別帳から名前をのぞくこと。  
    横合より  よこあいより   他から。脇より。 質入れ証文などに多く見られる語。 →脇より  
   横帳  よこちょう  図解  
   横町・横丁 よこちょう   
表通りから脇に入った道筋にある町。
 
   横目 よこめ   
 元は織田信長の時代に置かれた役職で「目付」と呼ばれた。江戸幕府でも目付と呼ばれたが諸藩によっては横目の呼び名が存続した。
 横目付の略で目付・監察ともいい、庄屋の上にあり村民への法度の徹底、宗門改め、年貢徴収、作柄豊凶の書上げなどにあたった。そのため、横目の巡回となると村々では待遇に気を使ったことが文書から読み取れる。
○ 廻状-御横目様御儀・・(田辺重順文書)
   豫参  よさん   集会に参加すること。参列すること。  
     よし  イネ科のアシのこと。 石黒の野草→ヨシ   葦簀 葦簀張 葦畑  
   よいぐい    下石黒~大野にかけて広がる土地の地名。幕末から明治にかけて草生水(石油)各所に掘られた。※作場の名所や屋号にも「よしぐい」見られる
→石黒地め位置図
 参考資料→石黒村産油地図
   吉井村  よしいむら
 吉井村(よしいむら)は、かつて新潟県刈羽郡にあった村。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い刈羽郡吉井村、矢田村が合併し、吉井村が発足。
 1901年(明治34年)11月1日 - 刈羽郡油田村、曽地村、東城村(一部)と合併し、
中通村となり消滅。

 
   好身  よしみ  親しい交わり。因縁。  
   吉原  よしわら  
 周囲にお歯黒溝(どぶ)と呼ばれる大溝があり、新吉原初期の頃には幅5間(約9m)、江戸末期から明治初期には縮小され幅2間(約3.6m)、明治36年頃には3尺(約90cm)程の堀が巡らされ、出入口は正面を山谷堀沿い日本堤側のみと、外界から隔絶されていた。遊女には花魁(おいらん)・新造・禿(かむろ)などの身分があり、店にも茶屋を通さないと上がれない格式ある総籬(そうまがき:大店)から、路地裏にある小店までの序列があった。
 大店は社交場としての機能もあり、大名や文化人も集まるサロン的な役割を果たしたこともある。江戸前期の一流の遊女は和歌や茶道など教養を身に付けており、初めて上がった客と一緒に寝ることはなく、2度目の登楼で裏を返し、3度目で馴染みになり、ようやく枕を交わすことができるようになったという。遊女や吉原風俗は浮世絵や黄表紙・洒落本等の題材にもなった。吉原が女性を前借金で縛る人身売買の場所であったことは疑いもないが、文化の発信地という側面も持っていた。
 遊客には武士や町人らがいたが、遊廓の中では身分差はなく、かえって武士は野暮だとして笑われることもあった。よく知られた川柳にも「人は武士 なぜ傾城(けいせい)に嫌がられ」とある(傾城とは国を傾けるような美女のことで、ここでは遊女を指す)。武士は編み笠をかぶり顔を隠していた。時代が下がるに従って、武士は経済的に困窮したため、町人が客層の中心になっていった。木材の商いで巨万の富を築いた紀伊國屋文左衛門や、十八大通などと呼ばれた札差(金貸し)たちの豪遊が知られ、語り草にもなっている。
 1765年、品川、板橋、千住の宿場町で飯盛女の規制がおこなわれ、各宿場が衰退し、あわせて、吉原の増員が許可された。
 また、しばしば大火に見舞われた。主な大火は1768年、1787年、1816年、1835年、1845年、1862年、1864年、1866年である。吉原が再建されるまでの間、浅草周辺などに仮宅が設けられることがあった
 (ウェキペディア)
 
   寄場  よせば 無宿者などを人足として収容した場所→人足寄場。客の寄る場所。大火の際に番衆の集合場所の意味。  寄場人足   
   仍如件  よってくだんのごとし  「前記のとおりです」の意味。※「くだんのごとし」と共に多くの文書の締めくくり使われる言葉。  
   世詰  よづめ  夜間に勤務すること。  
   余内  よない  
割増金。余分な負担。
 余荷 与荷  与荷合
 
   余内銀 よないぎん   宿駅の伝馬役や御用宿の過重の負担に対する助成金。  
   世直し  よなおし  江戸中期から明治の初めにかけておきた民衆運動。  
   米山  よねやま  
柏崎市と上越市柿崎区との境界にある山。海岸からそそり立つようにそびえる山で標高993m。かつては、火山とされたが海底から地層隆起の結果の古火山である。
民謡の「三階節」や「米山甚句」で有名。
頂上からは遠く頚城三山や弥、佐渡方面が見わたせる。また、昔からは、信仰の山として近在はもとより各地から多数の登山客が訪れた。現在では八石山、黒姫山とともに登山愛好者に人気がある。
 
    米山講  よねやまとう  
上記の米山は泰澄(たいちょう-奈良時代の山岳修験者。越前の人 。通称、越(こし)の大徳。加賀国白山を開創したと伝えられる)が開いた信仰の山として知られて来た。山とそこに祀られている雨乞いに霊験あると伝えられる米山薬師を信仰するのが米山講。とくに農業の神様として崇拝されてきたことを周辺各地に見られる「米山塔」が物語っている。
 
   米山村  よねやまむら  
 明治43年柏崎市の一部となり、当村の大字は柏崎市の大字に継承された。
 
 
   呼状  よびじょう 出頭を命ずる書状。 呼出状  
   余歩  よぶ  検地の場合、余分の面積1割5分くらい出るように緩く測る。この余った面積のこと。  縄心  
   蓬平村   よもぎひら   
渋海川上流域にある村。江戸期から明治22年までの村名。
 頚城郡の内はじめは高田藩領。天和元年から幕府領。村高は天和年間31石、天保年間87石。十二神社、庵堂があった。元禄2年万覚帳によれば,庄屋の他、高持7、高不持3とある。
 天明3、天保8年に飢え民扶食拝借願いを出している。文久元年には松之山百姓騒動に参加した農民に犠牲者が出ている。慶応4年には戊辰戦争時に松代宿助郷として人足を出している。
 江戸初期より縮布を生産してきたが、さらに明治20年代には青苧をクワに植え替えて養蚕に励んだ。昭和29年からは松代町の大字となる。
 蓬平古城山がある。
(参考文献-角川日本地名大辞典)
 
   与力  よりき  
諸奉行・所司代などに属し、同心を指揮し事務をつかさどる役。
与力同心→与力と同心
 
  寄々   よりより  時々。おりおり。  
   鎧堰  よろいぜき
 その工法は川底に多くの杭を並べ打ち、その間に多くの伐木やソダ木さし渡し、さらにその上手に同工法で何段もの小堰を組み合わせ、堰を何十段も重ねる工法でその姿がちょうど鎧(よろい)のように見えるので「鎧堰」と呼ばれた。
藤井堰(柏崎)は今から約400年前、与板城主であった直江兼続によって造られた。
当時の堰は草堰と呼ばれ、木の杭とそだ木と土俵を積んで造られていたが、洪水で壊れ易く、より頑丈な堰が望まれていた。正保元年(1644年)、刈羽郡奉行の青山瀬兵衛は、それまでの堰から1kmほど上流の平井地区に、新工法による頑丈な堰を造った。完成までの堰の工事は何度も大水で流失したり犠牲者が出るなど難航したが10年ほどかけてようやく完成した。
出来上がった鎧堰の土手の高さが4.5m、長さ1278mと当時のものとしては非常に巨大なもので、その様子が武士の鎧に似ていたため、「鎧堰(よろいぜき)」と呼ばれた。また、同時に川の左右両方に東江・西江と呼ぶ用水路の開削工事も行われた。
対語→草堰(※木の杭とそだ木と土俵を積んで造られた堰)
 藤井堰修復についての廻状
   無拠(據)  よんどころなく  
やむをえず。 仕方なく。余儀なく。
 
   来駕  らいが  
他人の来訪を敬って言う語。
 
   礼盤   らいばん  
僧侶が着座して礼拝読経する仏前の高座のこと。 
礼盤座
 
   来陽  らいよう  来春のこと  
   羅漢  らかん  
釈迦の直弟子のうちでも位の高いものは阿羅漢で、弟子の中でも最高の階位とされた。羅漢とは、煩悩をすべて超克した人のことで、小乗の悟りを得た者のこと。
但し、大乗仏教では、小乗の修行者という意味で否定的に使うこともある。
 
   落手 らくしゅ   受けとること。手に入れること。  落掌  
   落着  らくちゃく 決着すること。裁判で判決がくだること。   
   洛中洛外  らくちゅうらくがい  京都市中および郊外。  
   落莫   らくばく  さびしいこと。  
   埒明  
らちあけ
 
解決すること。結末をつけること。決まりが付くこと。
 
   乱俵  らんぴょう  
俵が乱れ隙間ができ米粒がこぼれ出てしまうこと。
※文例-
「乱俵脱粒減少に依る利益は勿論・・・」
 
     る・らる  (返読文字)
被下候・・・下され候(そうろう)
②被致候・・・致され候
③被申候・・・申され候
④被仰付候・・・仰せ付けられ候
⑤被遊候・・・遊ばれ候
 
   り    
長さの単位。1里は約4㎞(3.927㎞)    ※1里=36町
※日本では、計量法により、1958年12月31日限り、但し土地と建物の計量については1966年3月31日限りで取引や証明に尺貫法を用いることは禁止された。
しかし、現在も思考上では建築関係等で使われている。また、筆者の世代(1938生まれ)は「4キロメートル」より「一里」の方が感覚的に距離を理解できる。
 
 
   理合  りあい  
わけあい、理由、道理
 
 離縁状  りえんじょう  妻や養子との縁を切った証明の書状、俗には三行半(みくだりはん)と呼ぶ。
去状-さりじょう  隙状-ひまじょう
 
   利解  りかい
説得すること 道理 
 →理解 
 
    陸軍恤兵部  りくぐんしゅっぺいぶ  
 太平洋戦争の頃の陸軍省内の部署の一つ。長は恤兵監。 戦地への慰問、或は慰問で送られるものを「恤兵」と呼んだが、この部署では主にその恤兵の管理などを行っていた。
子どもの暮らし- 慰問袋
   陸軍大輔  りくぐんたいふ
 少輔・少副の上に位する官位。→明治5年2月28日、兵部省は廃され、陸軍省・海軍省が設置された。それに伴い兵部大輔だった山県有朋が陸軍大輔となった。
 
   陸前国  りくぜんのくに 現在の南部を除く宮城県と岩手県南部。※明治より前は陸奥   
   離散
 りさん
一つにまとまっていた人々が、互いに離れ離れになること。 
 
 両(貨幣)  りょう
一両小判→二分金2枚・一分金4枚 二朱金8枚・一朱金16枚 寛永通宝金(一文銭) 4000枚、(4貫文)。 
 
   領主  りょうしゅ  
土地を所有し人民を支配する権力を持つ大名または小名や旗本などのこと。
 
   料所  りょうしょ  
近世では,江戸幕府の直轄領をさすこともあるが、おもに幕府が皇室に献上した土地をさす。  御領所
 
   両度  りょうど  
二度。
 
   慮外  りょがい  
無礼・ぶしつけであること。また、そのさま。

思いがけないこと。また、その様子。
 
    隣郷  りんごう
 隣り合っている村々。
 
   林鐘  りんしょう
陰暦6月の異名
 
   臨時もの  りんじもの  
定期的でない。  一時的な。  (税) 
 
 
   綸子   りんず
繻子織の地に裏を組織で紋様を織り出した絹織物。 
 
   稟米   りんまい  蔵に保存して在る米。蔵米。転じて扶持米を指す。  
   類火  るいか  他から燃え移った火。類焼。  
   類族  るいぞく  親族。一族。同類。 切支丹信徒及びその者の一族7代までの呼称。  
   類地  るいち  検地上の用語。1筆の土地を野帳に分割して記載する際の2筆目以降の土地のこと。1筆には地番が記されたが2筆以降、つまり類地には「之内」として地番が付されなかった。  
   累年  るいねん  毎年。何年も年を重ねること。  
   流罪  るざい  刑罰のひとつ。江戸時代には遠島-おんとうと呼んだ。  
   留守居  るすい  主人の不在時に家をまもること。 幕府の職名の一つ。
諸大名が江戸屋敷に置いた職名-
留守居役で江戸屋敷にあって、幕府との連絡や諸藩の留守居役との交流にあたった。
 
   留守居番  るすいばん  幕府職名の一つ。大奥の警備にあたった。昼は大奥の玄関を守り、夜は宿衛をした。また、御台所、姫君の外出に従った。  
   流帳  るちょう  遠島の刑に処せられた者の名前を記した帳面。  
   流人   るにん  流罪に処せられた者。  
   流人船  るにんぶね  流人を流刑地に運ぶ船。  
    令愛  れいあい   他人の娘の敬称。  
   例格  れいかく  格式・法則。  
   令月  れいげつ  陰暦2月の別称。 良い月。  
   霊験  れいげん  神仏の通力にあらわれる不思議な力。  
  令嗣   れいし  他人の子の敬称。  
   令正  れいせい  他人の妻の敬称。  
   令尊  れいそん  他人の父の敬称。  
   暦前・暦然  れきぜん  →歴然。はっきりとして明白なこと。。  
   歴々  れきれき  次々と並ぶ様。格式や由緒のあること。明確にみえること。  
   連印・聯印  れんいん
 1通の書面に2人以上が責任を連帯し姓名を列記して捺印すること。連判
 
    連印  れんいんしょうもん   連印による証文。    文例→差上申連印証文之事 熟談証文の事
   連合軍の占領政策  れんごうぐんのせんりょうせいさく  
 太平洋戦争で連合軍に敗北し、ポツダム宣言を受諾した日本に最初に到着したのは主にアメリカによって組織された連合国軍であった。そして、連合軍は同年8月から進駐を開始しアメリカが主導で改革を行った。(最高司令官はダグラス・マッカーサー)
 進駐当座はは、まず、日本の外交権の停止、日本人の海外渡航を制限、貿易、交通を管理、さらに漁業活動の海の範囲をきめることなどを行った。
 そして、次の占領政策の目標は「非軍事化」と「民主化」であり、これによって日本社会を改造し、アメリカや東アジアにとっての脅威とならない国にすることであった。
 主な改革としては、
○選挙権賦与による婦人の解放
○労働の組合化促進
○検察・警察制度の改革
○経済機構の民主主義化
○自由主義的教育を行うための諸学校の開設、
などがあげられる。
 さらに、これらの目標が達成されると、経済を復興させ東アジアに強力なアメリカの同盟国としての資本主義国日本をつくることを目指した。
 そして、1951年(昭和26年)9月8日、日本政府はサンフランシスコ講和条約に調印した。こうして昭和27年4月28日より、日本は正式に国家としての全権を回復した。
 
   憐察  れんさつ  あわれみ思い遣ること。賢明な考え。  
   連中  れんじゅう  
仲間。組の者。 ※頼母子講では講の組合員を指す。講衆。
 
   廉直  れんちょく  正直なこと。安易なこと。安い値段。手軽なこと。  
   連俳  れんばい  連歌と俳諧。  
    連判状 れんぱんじょう   
 連判状の狭義の意味で、志を同じくする者が集まって相互に盟約・誓約しあるいは支配者に嘆願・強訴などを行う場合連判で作成した文書のこと。百姓一揆などでの連判状がその代表的なもので首謀者名を伏せるために円形の放射状に署名した傘連判形式をとっているものが多い。
 
   蓮如   れんにょ   
 
蓮如は、室町時代のの僧侶で応永22年(1415)に本願寺第7世存如の長男として生まれる。6才で母親と生別。
 永享3年(1431)17歳で得度、当時の本願寺は経済的に苦しく不遇の中、父親存如について宗学の研鑽を積む。
 28歳で結婚するがやがて死別、以後、4回結婚するが何れも死別する。長禄元年(1457)父存如が没して本願寺第8世を継職し以後、近江、摂津、三河などで活発な布教活動を行う。
 寛正6年に比叡山延暦寺衆徒の本願寺破却に遭い南近江の諸方を遍歴し文明3年(1471)ようやく越前吉崎に坊舎-吉崎御坊を建立する。吉崎御坊には多くの門徒が集まり繁栄し、その周囲には宿坊が軒をつらねて、吉崎は一大佛教都市となった。
 文明7年(1475)蓮如は周囲の権力者や他宗との軋轢を避け吉崎を後にし、以後河内出口・和泉堺などに移り山城山科に本願寺を再興した。
 「寺中は広大無辺、荘厳ただ佛国のごとし」とまで言われた山科本願寺の建立以後、真宗他派が相次ぎ門徒と共に本願寺に帰参し、本願寺は全国的な教団へと発展した。
 延徳元年(1489)隠居するが明応5年(1496)には大坂石山に坊舎を建て、山科との間を往復して、晩年も教化に勤めた。そして明応8年(1499)、山科本願寺で多数の弟子や門徒たちに見守られて85年のご生涯を閉じた。子女は13男14女。
 その生涯は荘園制が崩壊して惣村制が進展する戦国時代前期にあたり道場設立や講組織による地方門徒の結合を足場にして本願寺教団を急速に発展させた。
 布教では教理を平易に説いた「御文」を用い、また父存如が親鸞の「教行信証」の行巻から別出した「正信偈」と親鸞作「三帖和賛」を重視して勤行形式を定め、文明5年はじめて開版し「正信偈大意」を著述した。まさに「浄土真宗開立(かいりゅう)の祖」と言うにふさわしい存在である。
(参照-国史大辞典)
 
   憐憫  れんびん  
憐れむこと。情けをかけること。
 
  連綿   れんめん  長く続くこと。連なること。  
 
連々
れんれん  
度々。何度も。長い間。
 
    臘月  ろうげつ  
陰暦12月の別称。→現在の12月下旬から2月上旬ごろ
 恐れながら書付を以って嘆願奉り候-明治3年-1行目
   浪士  ろうし  仕える主人のいない無禄の武士。浪人。  
   牢舎  ろうしゃ  牢屋。牢獄。  籠舎  
   老中  ろうじゅう 幕府の職名の一つ。将軍に直属し、幕政全般を掌握した。   
   老職  ろうしょく 幕府の大老・老中または、大名の家来の呼び名。  
  狼藉   ろうぜき  乱暴なふるまい。暴行。無礼。  
   蝋実  ろうみ-(?)  
和蝋燭の原料にするためのハゼまたはウルシの実のこと。古文書に「里蝋」と「山蝋という言葉が出てくるが、筆者は山蝋はウルシの実、里蝋はハゼの木の実ではないかと思っている。    
蝋実穂代
 卯より辰両歳御年貢皆済目録拝見証文
    蝋実穂代 ろうみほだい  
蝋実はウルシハゼの穂状の果実から、粒状の実を外したものを指し、蝋穂は穂状のままのものを指したのではなかろうか。古文書には、年貢定納について蝋実の量の単位は斗、升、合が使われ、蝋穂は貫、匁が使われている。 (※私見)
 卯御年貢割付の事
   老輩  ろうはい
 年をとった人々。老人たち。また、老人が 自らをへりくだっていう語。
 
   牢人  ろうにん  →浪人.仕官指定ない武士。職のない者。浪人衆  浪人体  
   牢番給  ろうばんきゅう
 牢番人に与えられる手当。 例文-牢番給 割合之 事 
 覚-(牢番給について)
  路金  ろきん  旅行の費用。  路銀→ろぎん  路銭  路用  
  六斎   ろくさい 六斎日の略。在家のものが身をつつしみ八戒を守ること。 六斎市  
   六斎市  ろくさいいち
仏教の思想に基づく斎日のひとつ。この斎日は1か月のうち8 日・14日・15日・23日・29日・30日の6日で、前半の3日と後半の3日に分け、それぞれ の3日を三斎日と称した。
 
   六尺  ろくしゃく  駕篭や輿を担ぐ人足。→六尺給米  
   六尺給米  ろくしゃくきゅうまい  
 江戸時代、江戸城台所の
六尺と呼ばれる人夫の給米 として、幕領(天領)にのみ課せられた高掛物と呼ばれる付加税の一種で、村高100石につき米2斗の割合で徴収した六尺給 
 卯より辰両歳御年貢皆済目録拝見証文

六尺給



寛政元年より文化5年迄御割付写本-石黒村 
   六尺間竿  ろくしゃくけんざお  坪数や間数をはかるための6尺-約180㎝ほどの長さの竿。  
   六尺一分間竿  ろくしゃくいちぶけんざお
検地にあたって間数を計るために使う竿。江戸時代の検地竿は6尺1分を1間としていた。※太閤検地では6尺3寸を1間としていた。
※1寸=10分→1分=10分の1寸 
 
   六道  ろくどう  全ての衆生が生死を繰り返す6つの迷いの世界。六道餞  
   露顕  ろけん  隠しごとが明らかになること。  
   路次  ろじ  →路地。 道筋。道中。  
   露路  ろじ  建物と建物の間の狭い道。  
   路用金  ろようきん  旅行にかかる費用。  路金 路銀   
  論所   ろんしょ  論争の対象となっている場所。山論・水論・入会論・堺論の場所。
論地
 
  わ  
 1~2つかみほどの束。
※石黒では、稲1束(そく)は稲8把であった。
 
    若狭国  わかさのくに  現在の福井県南西部  
   若黨(党)  わかとう  若い従者。年若い侍。 武家で士分の最低の位の軽輩の従者。  
   若年寄   わかとしより  江戸幕府で老中に次ぐ重職で旗本・御家人の監督にあたった。
 少老
 
   若水迎  わかみずむかえ  正月に年男が水をくむ行事。  
  和漢
わかん   日本と中国。和文と漢文。 倭漢  
   脇往還  わきおうかん  
幕府の道中奉行支配の五街道およびその付属街道以外の勘定奉行支配の街道を指す。具体的には伊勢路・中国路・佐渡路などで5街道に次いで通行量は多かったが、これら以外の脇街道は宿駅も小規模で人馬継立や休泊の施設も不十分なものが少なくなかった。
 
   脇書  わきがき  脇に書き添えること。  
    脇差  わきざし
  腰に差す小刀、刃渡り2尺(60㎝ほど)以下。庶民が旅の際腰に差した小刀。
 
   脇付  わきづけ  書面で宛名の左下に書き添えて敬意を表わす語→秘書・侍従(侍史)や机下。  
   脇百姓 わきひゃくしょう   
本百姓より身分の低い百姓。または村役人以外の百姓のこと
 
   脇野町代官所  わきのまちだいかんしょ  
幕府の脇野町代官所(役所、陣屋)は天明6年(1786)設立し、支配は三島、刈羽、頚城、魚沼の広大な地を所轄(222村)としていた。〔新潟県三島郡三島町(現長岡市)大字脇野町
 
    脇本陣  わきほんじん   宿駅の本陣の補助的な宿舎。  
     わきまう・べんず 見分ける。理解する。処理する。返済する。用意する。   
    脇より  わきより
他所から。 他から。   脇々より  
 
     わく   竿、枠竿、歩竿、枠竹ともいい検見の坪刈りの時に用いる道具。  
   訳合  わけあい  
わけ。事情。筋道。
 
     わけかぶ  商権・財産・名跡などを分割すること。  
   訳柄  わけ  理由や事情。    
   訳立  わけだて  筋道をわきまえて処理すること。 仲裁すること。  
     わざと  わざわざ。故意に。とりわけ。少しばかり。   態々  
   和讃  わさん  七五調四句を基調する仏教賛歌の一種で、仏・菩薩などの功徳を湛えるもの、教義や教法を説いたものなどがある。浄土和賛-親鸞や高僧和賛-親鸞など。  
   和州  わしゅう  大和の国の別称。   
   和熟  わじゅく 仲よくすること。農作物の実りが良いこと。   
   早稲  わせ  
早く成熟する稲。   
中稲   晩稲
 
   綿入  わたいれ  着物の表と裏地の間に綿をいれた冬用の着物。※石黒では「ノノコ」と呼んだ。  
   綿打  わたうち  古く硬くなった綿をほぐして保温効果を高めること。綿打屋→※昭和20年代には高柳村では漆島に綿打屋があり、石黒でもそこを利用した。  
   私儀(義)  わたくしぎ  私に関して。私は。  
   渡切   わたしきり  金銭や物を渡したままにすること。  
   渡徒 わたまし   身分の高い人の転居。※石黒では家を新築して屋移りするときに仏壇の移動に伴い僧侶を呼んで「わたませ」という行事をしたが、多分おなじ意味で行われたものであろう。  
    和談内済  わだんないさい  
 内々で話合い和睦すること、または和睦のための相談。 
和談
 差し上げ申す一札の事(寄合山争議文書)
    割合  わりあい
   割り当てる。  配分する
 
   割方  わりかた
 割前勘定。  ※石黒の古文書では年貢の負担を割り当てる話し合いの意味で使われているものが見られる。
 
 割符  わりふ  
年貢割付帳のこと。後日の証拠となるために、文書や木片などに書き証印をおし二つ割にしたもの。 
「わっぷ」とも読む割符状
 
   割賦  っぷ  
割り付けること。割り当てる。支払いを月賦や年賦にすること。
割賦皆済目録→年貢を完納 したときに、領主側から地方 (じかた) に交付した請取書。地方三帳の一
   詫一札  わびいっさつ 詫状・侘証文ともいう。謝り状。詫書   
  詫人  わびにん  詫びをいう人。  
   和融  わゆう  和解して仲直りすること。  
     わら  稲や麦などの茎を干したもの。 藁細工  
   草鞋  わらじ →石黒の民具→わらじ  
   藁葺 わらぶき   藁で葺いた屋根。  
   藁筵  わらむしろ  藁で編んだムシロ。※石黒の民具→ムシロ  
  割替   わのかえ 分割しなおすこと。→割地→村の田畑を百姓の人数によって割り当て一定の期間後に場所を替えて公平を期す制度。   
  割掛   わりがけ
費用など分割して配分すること。
 
 
  割方   わりかた  
割前勘定  ※「割方取斗候間」→御用所門出庄屋より居谷組頭宛て
 
  割地  わりち  
村の田畑を百姓の人数によって割り当て、一定の期間後に交換して公平にする制度。
割替
 
   割付  わりつけ  
年貢割付状のこと。 年貢・諸役を個々に割り当てる事。
 
   割元  わりもと 郡代・代官の支配下で数か村の庄屋・名主を統括し、法令の伝達や諸役の割り当て、訴訟の調停にあてた役。  割元役   
   割目  われめ  
さけ目。割れた箇所。
 
参考文献 

国史大辞典-吉川弘文社   日本国語大辞典₋小学館   古文書字典₋柏書房   古文書のことば-柏書房  
古語大辞典-小学館  古文書用字用語大事典₋新人物往来社  広辞苑₋岩波書店  角川地名大辞典-角川書店 新潟県県民百科事典    高柳町史   柏崎市史   新潟県史  図解農民生活史事典 WEB-ウェキペディア他