○文書の時代的背景
これは、明治4年(1871)に出された布告で、開拓使の10ケ年計画の一環であり、海運振興と流通の促進を目的としたものである。要旨は、「これから北海道の開拓に本格的に取り組む、ついては来る明治5~7年の間、外国貿易以外の海関輸出入品は免税にする」という意味である。
さて、ここで「海関輸出入品免税」という言葉が出てくるが、「税」とは、いわば江戸時代からの「沖之口口銭→港に積み下ろされる品物に掛ける税金」を引き継いだものと思われる。
WEB上で調べてみるに、その課税の取立は、明治元年に商法司のもとに設置された「函館生産組合」が行い、その後、明治3年に「北海道生産会所」が業務にあたった。
そして、本文書に記載のように、明治5~7年まで免税となったために、会所は主たる課税徴収の仕事を失い休業状態となる。
函館市の資料によれば、この免税期間は、会所を「函館郵便役所」と改めて主に郵便の仕事にあたったとある。そして免税期間の終わった3年後の明治8年には「函館船改所」に改め、再び元の課税取立の業務に戻った。
ところが、免税期間が明けた明治8年に、新時代に対応した船改規則の公布がなされ、船改所の主な仕事は消滅し船改め所は突如廃止となったのであった。ここにも明治初期の激動の一端が見られるといえよう。
次に、この文書の時代的な背景はいかなるものであったであろうか。
まず、明治政府が北海道開拓に早急に取り組んだ理由の一つにはロシアの南下があったであろう。ロシアは江戸中期からカムチャッカ半島および千島列島方面に進出し、1797年(寛政9)には択捉島に上陸している。幕府は、この事態を重視し、翌年に松前藩を内地に移封し、幕府直轄地とし警備を強めた。
しかし、1806年と1807年には樺太や択捉の運上屋や番所がロシアに襲撃される事件が起こったため、さらに西蝦夷地も幕府直轄地とした。その後高田屋嘉兵衛の尽力により日露関係は安定するが、幕末になると1853年(嘉永6)にロシアは和親条約と境界画定を要求してきた。
幕府は、翌年の1854年に伊豆国下田で日露和親条約を結び、千島列島は択捉と得撫(ウルップ)島の間に境界を定めた。とはいえ、樺太は特に境界を決めず両国雑居の地とされたため、ロシアに対する警戒心が幕府方に強く残った。
こうした情勢下、蝦夷=日本国の領地という認識が強まると同時に、北海道に移民を送り込み開拓する政策の実現が望まれた。しかし、農民が土地にしばられ自由な移動が禁じられていた江戸時代の北海道開拓は思うようには進まなかった。
それを本格的に進めることができたのは明治維新後であり、明治政府は明治2年(1869)には蝦夷地を「北海道」と改称し開拓使を設置している。その翌年には「開拓使10年計画」を定めて本格的な北海道開発にとりかかった。この後、明治政府は朝敵士族の北海道への移民、屯田兵制など次々と対策を打ち出した。本古文書の三年間の海関輸出入免税もその一つである。
さて、もう一つの理由を挙げるとすれば、日本国領地とした北海道 に対るナショナリズムの外に、北海道の豊かな資源があったと思われる。
清国など西洋列強による植民地化する姿を目の当たりにして、自国日本を守ることが明治政府に課せられた最大の課題であった。そのためには富国強兵を実現する必要があるが、北海道には、そのため必要な、石炭をはじめ、木材、硫黄など無尽蔵とも思われた豊かな資源があった。そこで、明治政府は莫大な予算を用いて様々な開拓事業を北海道で展開したのであった。
ちなみに、故郷石黒村でも明治時代の北海道に移民として渡った人は決して少なくない。50軒足らずの筆者の集落でも4軒ほどを確認している。7集落を合わせるとまとまった数になろう。聞くところによると柏崎からの移住者も多く「荒浜村」など集団入植者によって郷土の名前を付けられた村が、今に伝えられているところも少なくないという。
最後に、北海道開拓により、アイヌ民族への支配が強まり、日本に取り込まれ同化を強制されるという苦難の歴史がここから始まることを我々は忘れてはならいと思う。
参考文献-函館市史
http://archives.c.fun.ac.jp/hakodateshishi/tsuusetsu_02/shishi_04-02/shishi_04-02-01-02-02.htm
読み下し・用語手引き・文書の時代的背景文責 大橋寿一郎
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