春
春到来と山遊び
春は、石黒の子どもたちにとって冬が長く厳しいだけに、とくに待ち遠しいものだった。
春到来の最初の兆しは、3月の下旬、村の周りの山々で次々と起こる雪崩だった。
雪崩は、気温の上がる昼間に限らず、夜中にもあり、寝床で耳にするその音は、遠い雷鳴のようであった。
この雪崩が山々を覆った雪をかき落とし、そこから待ちこがれた春がやって来る。
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城山から早春の落合集落を望む 撮影日2005.3.30 |
子どもたちは、暖気でしまった残雪の上を歩いて近くの山に春を探しに出かけた。
山腹には、すでに花をつけた草木がある。
もっとも早く春の山を彩るのは、ネズミザクラ(マルバマンサク)やユキツバキ、そしてジザクラ(ミスミソウ)の花だ。
朽ち葉に覆われた地面をよく見ると、すでに、様々な野草の芽がのぞいている。
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カタクリ 撮影日2004.4.24 上石黒高床 |
カタコ(カタクリ)、トリアシ(トリアシショウマ)、ウルイ(オオバギボウシ)、エンレイソウなどだ。
あたりには、土の甘い香りが漂い、様々な小鳥のさえずりが聞こえる。そんな時、子どもたちは、春を全身で感じこの上ない幸せな気分になった。
※春の山の様子
土の上で遊ぶ喜び
雪解けを待ちきれず、子どもたちは、庭先の残雪を掘って地面を出し、男の子はビー玉(補記-ビー玉)や釘立てを、女の子は輪っ跳び(石けり)などをして遊んだ。
地面に頬をつけんばかりにして、ねらいをつけて指で弾いたあのビー玉の鮮やかな色と、ベト(土)の香りを思い出すとき、懐かしさに胸の熱くならない人はいないだろう。
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ビー玉 |
子どもたちには、こうして半年ぶりにベト〔土〕の上で遊ぶということが、いかにも新鮮な気持ちであり、待ち焦がれた人に再会したようにうれしいことに思われた。
資料→子どもの頃の遊びの思い出
資料→学校の帰り道の思い出
資料→男の子の遊び
4月に入ると、暖かい日が続き、残雪も目に見えて減っていく。ふと気がつくと、褐色だった山肌の一部がうっすらと緑色を帯びている。それが、日に日に濃さを増しながら山全体に広がっていく。
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木々の芽吹き−下石黒から望む城山 |
大雪の年の石黒のブナ林は、1メートル余りの残雪の中で鮮やかな新緑に変わる。
山遊びに行く子どもたちは、そのブナ林の残雪の上を歩いて山へ向かう。土と若葉と雪の香りを含んだ心地よい春風が渡る。頭上のブナの若葉がサワサワと鳴る。それは、まるで子どもたちに呼びかけるような優しい音だ。ブナの芽を包んでいた苞(ほう)が雪のように舞い降りる。見上げると、青い空から降り注ぐ陽光を浴びて風に揺れる若葉が一斉に歓喜しているように見える。
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残雪の中のブナ撮影日2005.5.3 板畑嶽 |
まもなく、ツバメが南方から帰って来て、家の玄関に巣作りを始める。村人は昔からツバメを縁起のよい鳥として、家族の一員のような親しみを抱いてきた。
半年ぶりの帰巣を喜び
「ネラ、けぇって来たか、よう来た、よう来た」
などとやさしく声をかけてやる。夜に玄関の戸は少し開けておいてやることも忘れなかった。
資料→ツバメ
資料→ツバメとヘビ
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ツバメの巣 2007.5.22 大野の西隣さん宅 |
この頃になると、さまざまな野鳥のさえずりで一日が始まる。耳を澄ますと、ウグイス、ヤマガラ、コゲラ、シジュウカラなどの鳴き声の中から
「やっとこ、春が来たねぇ。いいあんべぇだえねぇ。」
「んだすけのう。んだでも、また山仕事が忙しくなるのう」
などという生き生きとした、人の声も聞こえてくる。
村人の言葉や表情にも、長い冬から解放された安堵と喜びが感じられる。
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残雪の黒姫山 撮影日2005.5.3板畑 嶽 |
そして、いよいよ春の農作業が始まる。
大人たちは、箱モッコを使って、田んぼの中に新土を敷き込んだり、薪やボイにする木を山から切り出すハリキ(春木)仕事に精を出す。気の早い人は苗代の雪消しを始める。
この頃、子どもたちは5、6人で山遊びによく出かけた。ケイマ(雪が早く消えた場所)には、センコウバナ(ショウジョウバカマ)やスミレ、キクザキイチリンソウが咲いている。林の中では、薄い残雪を突き破ってカタコ(カタクリ)が槍のように尖った芽を出している。
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ショウジョウバカマ |
雪解け水が滴る暗い沢の水辺には、ネコノメソウが黄金色の葉を光らせている。杉林のへりには、オオウバユリが艶やかな葉を広げている。
子どもたちは、それらには目もくれないで、アサヅキやフキノトウ、ノノバ(ツリガネニンジン)などを探して摘んでくる。
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ホクリクネコノメソウ |
その日のおかずになるものを取って帰れば、夕飯に家族で春の味覚を楽しめるからだ。
5月に入ると山の木々は一斉に芽吹き始める。様々な木が独特の芽吹きの彩りを見せ、深緑への過程で山々に幽玄な模様を織りなす。その山の奥からカッコウの鳴き声がする。
こうして、新緑は一日一日と深みを増し、山桜が散る頃になると、広葉樹の多い石黒は鬱蒼とした深緑に覆われてしまう。
所々に白く見えるのは、イツキ(ヤマボウシ)やダンゴノキ(ミズキ)の花だ。この頃は昼夜を通してホトトギスの鳴き声が聞こえる。
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ヤマボウシの花 |
子どもたちは、学校から帰ると村道や神社の境内に集まって遊び、家々に明かりが灯ると驚いて家路についた。
当時の子どもの遊びとして主なものをあげるなら、男の子は、ビー玉、釘立て、パッチ 、輪回し、鬼ごっこ、かくれんぼ、戦争ごっこ、十六武蔵、竹馬など。女の子は、輪っ跳び、なんご、きしゃご、てんまりなどがあげられよう。
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庭先の小路で遊ぶ子供たち (高柳-懐想) |
また、遊び道具もいろいろ作った。竹とんぼ、水鉄砲、弓、紙鉄砲、竹馬、パチンコ、杉鉄砲、輪回し、木ぞり、竹スケートなどのほか、野球のバットやグローブまで作った。今の子供からみたら気の毒なほど貧しいことに思われるかもしれないが、遊び道具を作る過程のワクワクするような気持ちは、現代の子どもにはなかなか経験できない喜びであったかも知れない。
資料→ままごとの思い出
資料→トウトウベロベロ−動画
当時は、子どもにとって山や川など自然のすべてが良き遊び相手であったと言えよう。
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ホウノキの葉で作った風車 |
山道の脇に生えている低木に上ってゆらゆらと揺らして遊ぶ、チマキ笹の葉で笹舟を作って小川を流して競う、ホウノキの葉で風車を作る、クズの蔓で大縄跳びをするなどいくらでもあげることができる。
たった1本の草を使った「トウトウベロベロ」という遊びもあった。「とうとうベロベロ、トウトウベロベロ、屁した方へチョンと向け」と唱えながら両手の平で茎を回して遊んだ。
資料→ササ舟の作り方−動画
資料→ホウノキの風車の作り方-動画
田植えの手伝い
6月に入ると、ようやく田植えが始まる。学校も1週間ほどの田植え休みとなり、子どもの手伝いも一家の仕事の段取りに組み込まれる。
女の子は、子守や苗取り、男の子はハナットリ(写真・田かきの牛馬の誘導)、苗運び、コネェブチ(苗うち)などがあり、逃れることのできない仕事であった。
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苗取り作業(高柳-懐想) |
特に、ハナットリは田かきには欠かせない役で、きつい仕事だった。
ハナットリは、馬や牛のひくマングワがまんべんなく田をならすことが出来るように誘導する仕事である。ところが、田には、子どもの膝上までの水が張られいるのでマングワの跡は見えない。
ただ、頼りになるのは前方の畦の草だけである。仕方なく畦草から目を離さないで進むのだが、どうしても進路がずれて掻きにむらが出来る。すると尻取り(マングワを持つ人)に怒鳴られる。時には、馬よりもハナットリの方が多く叱られることもあった。
馬の方も疲れてくると様々な手を使って休む。その一つは、糞や尿を小出しにして何回にも分けてすることだ。このときは尻取りも叱るわけにもいかず、ただ苦笑している。
もちろん、ハナットリも、夕方にもなると疲れてしまって、馬に遅れず歩くがやっと、という状態だった。
おまけに、馬の方は歩き方が乱暴になり、やけに泥水を蹴散らすので、ハナットリは頭から泥をかぶることになる。
馬は利口な動物だから、その他いろいろ反抗的な行動をする。たとえば、隣の田に移るときにわざと、畦を前足で踏みつけて更に後ろ足で踏むというような乱暴な事をする。柳の鞭でたたかれることが分かっていてやるのだから口の利けない動物の精一杯の反抗にちがいない。(中には、田んぼの真ん中で仰向けに寝てしまう馬もいた)
こんな仕事が2日も3日も続くのだから、子どもにとってハナットリは大変つらい仕事だった。3日目ともなると疲れきって夕方、家に帰って夕飯も待てずに、あり合わせのものを食べて眠ってしまうほどだった。
資料→田かきの思い出
資料→子守りの思い出
資料→子守りと駄賃の思い出
田かきが終わるといよいよ田植えが始まる。田植えは、5、6人の手伝い(トウドやエエ−結い)を頼んで行われることが多かった。
田植えは5月の下旬から始まり6月の中旬まで行われた。
子どもの手伝いと言えば、女の子は苗取り、男の子は、植え手に苗を投げ渡す「コネェブチ」と呼ぶ仕事が主だった。コネエブチは広い田になると、それなりの技と力を要した。とくに植え手の前方に落ちると跳ねた泥がかかるのでよく注意して投げなければならなかった。
田植えの女衆は、常ににぎやかだった。話題は、子どもには分からないが、なにか卑猥なものが多かったようだ。話の種はなかなか尽きることなく暮れ方まで春の山に明るい笑い声がこだましたものだ。
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タニウツギの花 |
田植えで忘れられないのが「朴の葉ごはん」だ。これは、午後のコビリ(おやつ)に食べたものだが、朴の木の葉を十字に重ね黄な粉を敷いて、ご飯を乗せ堅く握りスゲで結わえたものだ。
コビリ時になるとみんなで田の畦に腰を下ろして朴の葉ご飯を食べていると、どこかでタウエドリ(アカショウビン)のいかにものどかな鳴き声がする。
その時の、朴の葉と黄な粉の香りのするご飯と塩のきいたタクアンの味は絶妙であった。
咲き乱れるヘバシノ木(タニウツギ)の花に囲まれてのコビリのひとときは、誰もが忘れることが出来ないだろう。
梅雨の頃
こうして、田植えも終わり、大人も子どももほっとするころには梅雨に入る。
雨の日が続き子どもたちが戸外で思い切り遊べない日が続く。子どもの遊び場だった村の道はぬかるみ、石黒川は濁流となる。
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雨の日に遊んだ 村の神社の床下 |
子どもたちは、村の神社に集まり薄暗い社殿の中で遊んだ。社殿は狭く大勢では遊べないが床下が高いのでそこも格好の遊び場となる。かくれんぼをしたり、ハッコ(アリジゴク)の巣にアリを入れたり、乾いた土を山にして真ん中に棒を立てて、交互に周りの砂を少しずつ取り払う「陣とり遊び」などをして遊んだ。
くらのとま〔土蔵入り口の土間〕も、格好の遊び場であった。
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土蔵のサヤ〔周りの木造部分の建物〕 |
蔵のサヤ〔白壁と外壁板のとの間〕は人一人入れるほどの幅があった。そこにはいると、真っ白な白壁に外の景色が逆さまに写っていた。外壁板の節穴が針孔写真機の孔の役目を果たしていたのだが、その原理を知らない子どもには不思議な現象であった。
また、土蔵の入口の黒塗りの土壁に釘で落書きをして叱られた。
また、数人で、新聞を購読している友達の家に集まって、新聞紙で紙鉄砲を作って遊んだ。パンパンという賑やかな音に抑えきれないほど気持ちが高ぶったことを憶えている。
資料→紙鉄砲の作り方
また、この時期は、野鳥の雛が巣立つ頃で、雛鳥を捕まえて飼うことに興味を持つ子が多かった。石黒は、今でも野鳥の宝庫ともいえるほど多くの鳥が生息しているが、当時はもっと種類も数も多かったであろう。
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イヌワシ |
すぐに思い出せるものでも、ウグイス、シジュウカラ、カケス、ヤマガラ、アカショウビン、カワセミ、ヤマセミ、キセキレイ
、サンコウチョウ、ヨタカ、フクロウ、ミソサザイ、カッコウ、ホトトギス、カモ、オシドリ、キジバトなど幾らでもあげることが出来る。(当時は、現在、天然記念物に指定されているイヌワシを見かけることも珍しいことではなかった)(補記-イヌワシ)
子どもたちは、主に家の回りに巣をかけるスズメ、シジュウカラ、ヤマガラなどの幼鳥を捕まえて飼った。フクロウやアカショウビン、カラス、カモなどの大型の鳥を飼う者もいた。
しかし、野鳥を飼育すること、特に成鳥を飼うことは難しく、幼鳥とて馴らしやすいが弱くて、結局は死なせてしまうことが多かった。
スッカンボや桑いちご
また、春の石黒は、山菜の宝庫でもあった。春先に採れるのがフキノトウで、次は、雪消えの早いところにノノバ(ツリガネニンジン)が芽を出す。それから、トリアシ、ウド、ゼンマイ、ウルイ(オオバギボウシ)、ミズナ、ワラビ、など様々な山菜が豊富に採れた。とくに、石黒のウドは、苦みが少なくおいしいと好まれた。
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子どもたちが好んで食べたイタドリの芽 |
しかし、子どもの心を引きつけたのは、スッカンボ(オオイタドリ)やスッカシ(スイバ)などのその場で生で食べられる植物だった。スッカンボは、できるだけ太いものを折って皮をむいて食べると適度の酸味がありおいしかった。また、山遊びに行ったとき、スッカンボの節に溜まっている水を飲んだ。なま温かく青臭いが少しはノドの渇きを止める足しになった。
スッカシは、道端のどこにでも生えていて簡単に採れた。少し甘みを含んだ強い酸味が子どもたちの好みにあったのかよく食べた。束にして抱えて食べている子もいた。
この酸味はスイバに含まれる蓚酸によるもので多量に食べると中毒を起こすといわれるが当時、中毒になったという話は聞かなかった。
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スイバ |
だが、塩水に数時間つけて食べる子どももいたのでその辺のことを考慮した食べ方であったのかもしれない。
このほか、「天与のおやつ」と呼ぶべきものはたくさんあった。どこか遠くでハルゼミの鳴き声がする6月の下旬になると木イチゴ〔モミジイチゴ〕の実が黄色く熟した。木は棘があって嫌われたが、その果実ときたら見た目も味も野生のイチゴとは思えないほど上品であった。
クワイチゴは家の周りや道端にもあり容易に採れた。果実は、未熟のうちは青く、熟すにつれて赤から深紫に変わる。甘みは抜群であったが、ときどき実にカメムシがついていることと、果汁が衣服に付くと洗濯しても取れないので子どもたちは用心して採った。
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クワの実 |
また、7月になると草むらでナワシロイチゴが熟す。果実は赤く、香りが良く甘味もあった。
そのほかタウエグミ(ナツグミ)も忘れられないが、これは野生ではなく田の縁などに植えられたもので勝手に採ることはできなかった。
フキの葉に包んだ木イチゴやナワシロイチゴを野良帰りの母からもらった幼い日の記憶がよみがえる人もいるかもしれない。
資料→山の自然の恵み
ホタル狩り
ホタルブクロの白い花が咲く頃になると夕闇をたくさんのホタルが飛び交う。
ほとんどはヘイケボタルでゲンジボタルは、数少なく期間も短かく、捕まえると子ども同士の自慢のタネになるほどだった。
子どもたちは、竹の棒先に長いスゲをつけてホタルを追い回して捕まえた。当時は、自分の家の回りで容易に捕れたので遠くまで出かけることもなかった。
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ホタルブクロの花 |
ようやくにして訪れた初夏の宵闇の中を兄弟姉妹で夢中で走りまわって蛍を追ったものだ。
初夏の暗闇を飛び交うホタルの乱舞には、なぜか子ども心をかきたてるものがあった。
捕らえた蛍を蚊帳の中に放して遊んだ、父母も祖父母も元気だった遠い昔の我が家を懐かしく思い出す人もいることだろう。
夏
川遊び
子どもの夏の遊びといえば、まず川遊びであろう。
石黒川は鯖石川の上流にあり、その源流といってよい。川は深い渓谷をなし急流で且つ変化に富んでいる。特に水量が少なくなる夏の川は子どもにとって絶好の遊び場であった。
当時は、現在に比べて水もきれいで、様々な水生動物が見られた。カジカ、ドジョウ、ウグイ、コイ、フナ、スナヤツメ、川エビ、サワガニなど何処にでも見られた。
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石黒川 下寄合集落 |
古い竹ザルを岸辺の川柳の根元に差込んですくい上げると、ザルの中には様々な水生生物が入っていた。ハヨ(ウグイ)、ドジョウ、ババッカチ(カジカ)、カワエビ、フナ、カニ、などだ。とくに、ざるの水が引いて獲物が姿を現わす一瞬の胸の高鳴りは今も忘れられない。
魚釣りも盛んだった。下校時、川沿いの道を歩きながら、川底をのぞき込むとハヤが群れて泳いでいる。夏の日差しに銀色の腹を光らせて水面から跳ね上がる。そんな光景に出会うと、もう矢も楯もたまらぬ気持ちで急いで家に帰り釣り竿を持ってやってくる。
参考資料→石黒川のウグイ YouTube
しかし、当時は、つり道具といっても粗末なもので、竹は篠竹を切って作り、糸は木綿糸、沈みは適当な小石を使い、浮きは枯れススキの茎を折って使った。
粗末と言えばそれまでであるが木綿糸はともかく、見方によっては、篠竹の竿も小石の沈みもススキの浮きも、その環境にあった最高の道具であったのかも知れない。
餌は、ミミズ、タニシ、アシナガバチの幼虫、たまには、柳虫も使った。ミミズは手に入りやすいが、魚の食いがいまいちであり、タニシは雄の内臓の一部(私たちはオスの生殖器と決め込んでいたが不明)しか使えなかった。蜂の子は、魚の食いはよいが1回で傷んでしまうという欠点がある。柳虫は最高だが、簡単には採れないうえに川端の柳は護岸の役目もあったため、枝を裂いて探しているところを見つかるとひどく叱られたものである。
中学生になると、スナンタロウ(体長10pほどのクスサンの幼虫)からテグス糸を作ることを知った。
作り方は、まず栗の木に上って枝を揺すってスナンタロウを落とす(体が重いために容易に落下する)。大きめのものを選んで、指先で中央の皮をつまんで左右に引き裂き、ハルサメのような絹糸腺をとり出す。
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石黒川のウグイ |
用意した酢に浸し、中心から左右に指でしごくようにして伸ばすとおよそ80pほどのテグス糸がとれる。時には1m近いものが取れることもある。この糸を数本つないで使うと正真正銘のテグスの釣り糸ができた。
また、魚を釣るばかりではなく、手で捕まえること(「ヨ(魚)をネジル」と言った)にも非常な興味をもった。水中の石の下の隙間に両手を入れて、そこに潜んでいるアカバ(ウグイ−上写真)をねじる(素手で捕らえる)感触のよさは、経験しない者には想像もできないだろう。
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川遊びに興じる子どもたち(昭和40年頃) |
中には、大きなカワガニに手を挟まれてケガをする子もいたが、それも釣りの外道の様なもので子どもに一層の興奮とスリルを味あわせてくれた。
ババッカチ(カジカ)は、流れの速い浅瀬の石の下に隠れていて、下流側にザルをあてがい石を動かすと簡単に捕れたものだった。
美しいカワトンボやハグロトンボが川面を飛び交いカジカガエルの鳴き声がせせらぎの音に混じって聞こえたことを今も忘れることが出来ない。対岸の木の枝ではカワセミが、子どもたちに負けじと川魚をねらっていた。
→カジカガエルの鳴き声
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オオカワトンボ |
時には、水量の減った真夏に川の流れを人工的に変えて(川回し)小さい淵を干し上げて魚を一挙に捕ることもした。しかし、これは子どもにとって、河川工事のごとき壮大な漁法で、ガキ大将を中心に大勢で時間を掛けなければできなかった。
このように、子どもたちの遊ぶ川辺には、魚類のほかにカワセミ、ヤマセミ、カワガラスやカワトンボ(写真上)、ハグロトンボなどの美しい動物が普通に見られたものだ。
また、当時は、学校にプールなどはなく川が水浴び場でもあった。下石黒では「釜淵-かまふち」(下写真)と呼ばれる滝壺があり格好の水浴び場となっていた。
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夏の子どもたちの遊び場 釜淵 下石黒 |
子どもたちは、昼食後、三々五々やってきて岩場の木にシャツとパンツをつり下げて、素っ裸で水に入った。男子は全員そのスタイルだから恥ずかしいという気持ちは少しもなかった。
遊び疲れて3時近くに滝壺から山道を上っていくと、滝の音が忽然と蝉時雨に変わった。子どもたちは、我に返ったような気持ちになり急に午後の手伝いを思いだした。
落合集落の子どもは、寄合集落との間にある寄合川の「くぐり」まで出かけて泳いだ。(下写真) また、寄合の子どもは「くぐり」の下流で「ほりきり」という滝があ
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夏の子どもたちの遊び場 くぐり 落合集落 |
った場所(今では川底が削られ滝はない)で泳いだものだという。
居谷集落にも、中の坪への道沿いに「くぐり」と呼ぶ川の隧道がありそこの近くで泳いだという。(現在では隧道の上部が崩落)
板畑や大野には川がなかったので、子ども達は、水田の用水池で泳いだ。ド〔用水池〕での水泳は禁止されていたが、子ども達は我慢できず用水池をプール代わりにしたのだった。
昭和25年頃から、夏休みに入るとすぐに、高学年の臨海教育が鯨波海岸で行われた。当時は、車道開通の前であり、地蔵峠を越えて鵜川に行き、そこから貸し切りバスで鯨波まで行った。2泊3日で宿は鯨波のお寺であった。経費はいくらであったか憶えていないが全員が米2升とジャガイモを数個持参したように記憶する。
資料→下校途中の水泳の思い出
資料→ドジョウ取りの思いで
資料→ブールのなかった昔の水遊び場
資料→臨海教育と鯨波海岸の思い出
タネで遊ぶ
また、どこの家にも家の周りにタネと呼ばれる池があった。これは、もともと、雪を融かすためや防火用水として作られものであるが、子どもにとっては格好の遊び場であった。
タネには、実に様々な水生生物がいて子どもたちを楽しませた。春の頃にはカエルがしきりに鳴いた。夜、フトンの中で子守歌のように聴いたことを思い出す人もいることだろう。
→カエルの鳴き声〔音声が出るまでしばらくお待ちください〕
夏の朝には、トンボの羽化が見られた。マツモムシが長い足をオールのように動かして沈んだり浮いたりしている。捕まえて日向におくと、しばらくしてから起きあがり羽を広げて飛び立つ。捕まえると梅のような臭いがした。口についた針で指を刺されると思いのほか痛かった。
ジイカキミシ(ミズスマシ)が水面をぐるぐると回りながら泳いでいる。体は黒光りがしていて捕まえると、これもゲンゴロウのような臭いがした。
スズンコ(アメンボ)が水面を忍者のように飛び回る様子を、子どもたちは羨望のまなざしで眺めた。
水中には、アカヘロ(イモリ)がいた。春には、クロサンショウウオがアケビの実に似た白い卵(写真)をたくさん産み付けた。親は、じっと卵のそばで見張りをしていた。ミンジョのミズブネ(飲料水槽)のあふれた水が流れ込む所には小さなシジミ(マメシジミ)もいた。
その他、タニシ、タイコウチ、ミズカマキリ、ゲンゴロウ、ドジョウ、フナ、コイなど様々な生き物がいた。
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クロサンショウウオの卵 |
また、池の周りには、シマガエル(トノサマガエル)やクソガエル(ツチガエル)が、寄ってくる昆虫を待ちかまえていて、池の周りを歩くと水音を立てて飛び込んだ。モリアオガエルが池の縁につきたての餅のような卵をつけた。
これらの蛙をねらってシマヘビやヤマカガシやアオダイショウなどがやってきた。運悪く子どもたちに見つかり追いつめられたヘビは、池に逃げ込み向こう岸へ巧みに泳いで渡る。子どもは追いかけて棒で叩いてなぶり殺しにする。当時の男の子どもはヘビに対して、一種本能的ともいえる敵愾心のようなものをもっていたのか見つけるとただではおかなかった。
アオダイショウやシマヘビはおとなしかったが、ヤマカガシだけは、闘争心旺盛で鎌首を立てて向かってきた。当時のヘビにとって、子どもは恐ろしい敵であったに違いない。
しかし、大抵の家ではタネはオオベヤ(寝室)の裏庭に作られているため、大人の昼寝時に遊んでいると「うるさい」と叱られる。仕方なく子供たちは家の周りから離れ、川や神社などへ出かけた。
このように、夏の午後1時頃から2時頃までは村中の大人が昼寝をする時間で、正に「子どもの天下」とでもいうべきゴールデンタイム(黄金の時間)であった。
ブナ林でセミとり
夏の山は、繁茂した草いきれで息苦しいほどで、春秋とは異なり子どもたちの遊び場とはならない。
しかし、石黒一帯に広がっているブナ林は、夏になっても下草が少なく風通しもよいので子どもたちの快適な遊び場だった。
子どもたちは、朝のまだ薄暗いうちに数人でそのブナ林にセミとりに出かけた。暗い林の中に入るとカナカナ(ヒグラシ)の大合唱が迎える。
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夏のブナ林 下石黒つまきだ(大野への旧道) |
ヒグラシは、近くで一斉に鳴くと遠くででそれに呼応して鳴く習性がある。その呼応する間にしばしの静寂がある。その数秒間は、自分たちが落ち葉を踏むカサカサという音だけが聞こえる。そんなとき、子どもたちは、日常の世界から神秘の世界に迷い込んだような気持ちになったものだ。→ヒグラシの鳴き声
朝陽がブナ林の奥まで差し込んでくる頃、子どもたちは、ブナの幹で今まさに孵化しつつある蝉の幼虫に時々出会った。
子どもたちが「モゾモゾ」と呼ぶ、幼虫の背中が割れて成虫が現れる姿には、まさに神秘的な世界というにふさわしい不可思議な美しさがあった。
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セミの羽化 |
幼虫の殻から出た成虫の小さく折り畳まれた羽が、まるで一輪の花が開くように拡がり、頭や胸の緑や茶色の紋様が浮かび上がってくる。
子どもたちは、息を潜めてその様子を見ている。手で触りたい気にもなるが、少しでも羽に触ろうものなら、そこが水膨れとなり飛び立つことができない羽になってしまうことを知っているので誰も手を出さない。
こうして、子どもたちがブナ林を出るころには、夏の太陽はすでに高く、ひときわ甲高いミヤマ(エゾゼミ)の鳴き声が聞こえ頃になっていた。
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エゾゼミ |
また、当時の子どももクワガタやカブトムシには特別の興味を持った。ナラの木の幹に、黒光りのするミヤマクワガタを見つけたときの胸の高鳴りに覚えのない人はいないであろう。
捕まえたクワガタは、雄同士を戦わせたり、カブトムシの雄と戦わせて遊んだ。時々指を挟まれることもあったが、雄のはさみは大きいわりに痛くなかった。痛いのは雌の方で、卵を産むために木をかじるくらいの顎だから噛まれると血が出ることもあった。
そのほか、遊びの天才である子どもは、夏の山遊びをいろいろ考え出した。ススキの葉を巧みに指を使って飛ばして距離を競ったり、木陰のエマル(用水路)で笹舟の競争をしたり、オオバコの葉柄でひっぱりっこをしたり、遊びには不自由しなかった。
ビデオ資料→ササ舟の作り方
ビデオ資料→カヤの葉飛ばし
ビデオ資料→葉っぱ鳴らし
ビデオ資料→紙でっぼうの作り方
ビデオ資料→水鉄砲の作り方
家の手伝い
夏は、家の手伝いも多かった。主な仕事は、子守り、田の畦草取り、豆畑の草取り、蚕の桑とりなどだった。
当時は、子どもも一家の労働力として常に当てにされていたので、家族の一員としての自覚と責任感は今の子ども比べ強かったであろう。
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村の子どもたち〔懐想-高柳〕 |
しかし、遊び盛りの子どもにとって、半日でも拘束され、畦草取りのようにノルマを与えられる仕事はありがたくなかった。
当時の田の畦には必ず大豆が植えられていた。その大豆を傷つけず残して雑草を鎌で根こそぎとる作業は、決して簡単ではなかった。
特に、大豆の茎の短い頃は、よほど注意してとらないと、つい雑草と一緒に切り取ってしまう。豆畑の草取りではたとえ雑草と間違って切っても分からないが、畦豆はそうはいかない。
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あぜ豆 |
等間隔で整然と一列に植えらているから〔右下写真〕、ごまかしが利かない上に、ノルマが果たされたかどうかも一目瞭然である。それだけに子どもたちは神経を尖らせて仕事をした
畦に密生したカヤツリグサと汗を流しながら悪戦苦闘した遠い夏の日を今も忘れられない人が多いだろう。
お盆が近づくと家の回りの草取りもあったが、これは、大体どこの家でも年寄りの仕事であった。時には子どもも手伝わされて一緒に仕事をした。
年寄りの草取りを見ているとその仕事の進め方が、子どもの目には不思議であった。第一、取った草をあたかも貴重品のようにきちんと揃えてまとめておく。
どんな小さな草も見逃さずに引き抜く。そして端から丁寧に着々と取り進んでいく。少し大げさな言い方をするなら、その姿は、まるで荘厳なる儀式を進めているかのようであった。
同じ草取りをしているにもかかわらず、年寄りの草取りは、自分が嫌々ながらしている草取りとは全く別の高貴な仕事であるようにも見えた。
こうして、どこの家の周りもきれいになるころ、都会から盆客がやって来る。子どもにとっては、同年輩の従兄弟がやって来るのが待ち遠しいものだった。
資料 畔草取りの思い出
資料 お盆客の思い出
資料 昭和のはじめ頃の夏休みの思い出
サマータイム
また、昭和23年から26年までサマータイム(5月2日〜9月12日まで時間を1時間くりあげる制度)が実施された。子どもにとっては放課後から日没までの時間が長くなり、多く遊べてよいようなものの、1時間早くなるのだから、切り替え当座は朝起きるのがつらかった。サマータイムは4年後には廃止となった。
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寄合分校(下寄合) |
ラジオ体操は、各集落の神社や分校が会場であった。はん(板木)を叩くカンカンという集合の合図が聞こえると、眠い目をこすりながら急いで会場に向かったもである。
資料→板畑分校の思い出
石黒村の集落の多くは谷間に点在しているため地形的に朝霧が発生しやすく、夏の朝は毎日のように霧に覆われた。日が昇るとようやく、霧があがって青空が現れる。小学校唱歌「牧場の朝」の光景さながらの夏の朝であった。
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夏の朝 上石黒 |
資料→夏の朝、上石黒から釜坂峠へ
夏休みの宿題
当時の夏休みの宿題は、桑の皮集めや薬草取りなどの作業課題が多かった。
集めた桑の皮は繊維を取り出して衣料を作るのだと学校で説明があった。
桑の皮は強靱なので、野山で結わえヒモに用いた経験がある子供たちは、なるほどと納得した。天日で乾燥した皮一握りを1束として、低学年でも1人2束の割り当てであったと記憶するから、相当の量が集まったものであろう。
ちなみに農商務省は昭和19年4月に、これらの桑皮を使い70万着の衣料品を製造したと発表している。→昭和の年表S19
薬草はオンバコ、ヨモギ、ゲンノショウコ、ドクダミなどであった。これらの中で石黒に最も豊富にあるのはヨモギであった。オンバコやドクダミもいたるところにあったが、ゲンノショウコは少なかった。採った薬草は藁でつるしてよく乾かした。〔下写真〕乾燥がよくないとカビが発生してしまう。
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夏休みの薬草取り 乾燥の様子 |
また、カタクリの球根堀りもあった。言うまでもなく片栗粉の原料にするためだ。カタクリは、春に群生して美しい花を開くが、花が終わってしばらくすると地上部が枯れてしまう。その寸前に球根が充実しきったところで掘り起こさなければならなかった。
登校時のイナゴ捕り
夏休みが終わると、全校でイナゴ捕りをした。班ごとにまとまって、田んぼの畔を通りイナゴを捕りながら登校するのだ。
各自が、家で布袋を作ってもらい、口に竹筒を差し込んで糸で縛る。捕まえたイナゴは竹筒から袋に押し込むという仕掛けだった。 当時の田んぼのイナゴの発生はすさまじいもので、畔を歩くとおびただしい数のイナゴが飛び立ったものだった。イナゴは、とらえると口から強い臭いのする褐色の汁を出した。
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コバネイナゴ |
これらは、コバネイナゴという種で、卵で冬越しをして5月頃に孵り、8月頃に成虫になった。
当時、このイナゴはニカメイガやウンカと並ぶ、稲作の大害虫であった。
高学年の生徒は、一人が1回に1キロ以上のイナゴを捕獲した。全校生徒数が400人近い頃であったから集められたイナゴの量は相当なものであった。何度かに分けて大釜で煮て校庭にむしろを敷きその上に広げて干した。近づくとイナゴの臭いが鼻を突いたことを覚えている人もいるだろう。
イナゴ捕りは、イネの害虫駆除と、売った代金でオルガンなどの備品を購入できるという一挙両得の活動であったとも言える。
また、学校田や小豆畑もあり、高学年が中心になって植え付けから収穫までおこなった。小豆畑は今日の小岩トンネルの入り口あたりにあったと伝えられている。
資料→昭和初めの学校の思い出
参考画像→学校の小豆畑付近の現在
参考資料→コバネイナゴ-YouTube
ナトコ映写会
昭和22年頃からナトコ映写会が毎月1回学校で行われるようになった。
これは、進駐軍が映写機を貸し出して社会教育の一環として行った大人向けの映画が主であったが、ニュースや漫画もあり、当時の子どもには最上の楽しみだった。
映写会のある日は、祭りの日のように朝からうきうきとしていた。特に、グラウンドで行われる夏の野外映写会には、夕方早いうちに家を出て仲間数人で会場に向かったものだ。
校庭に着くと暮れなずむ夏空の下で、鬼ごっこやかくれんぼをして遊ぶ。目をこらすと一番星が見える頃になってようやく、映写機や映写幕などが持ち込まれて準備が始まる。子どもたちは、胸の高鳴りをおぼえながら映写の開始を待った。
映画の内容は「日本ニュース」や、肺結核の予防、民主主義の話、松食い虫被害など子ども向けのものではなかったが、当時は映画そのものが珍しくて面白かった。
興行師による劇映画も1年に1度か2度は上映された。「母三人」「暁の脱走」「カルメン故郷に帰る」、「愛染かつら」「酔いどれ天使」「ひめゆりの塔」「銀嶺の果て」などの映画が上映されたことを覚えている人も多いに違いない。
映写の始まりと終わりには、会場から盛大な拍手があった。映写機は1台であったため、1本の映画が終わると次のフィルムをセットするまでしばらく待たなければならない。会場が明るくなるとあたりは急にぎやかになり、子どもたちも仲間とふざけあって騒ぐ、この時がまた楽しかった。
映画が終わって、帰りの観客が通る学校から役場前までの道はひどく混雑した。
降るような満天の星のもと、下駄の音と人の話し声がにぎやかであった。
資料→活動写真の思い出
資料→ナトコ映画について
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