娯 楽 当時、村人のおもな娯楽はラジオであった。しかし、ほぼ全戸に普及したのは戦後数年がたってからである。 終戦と同時に大本営発表の臨時ニュースは消え、相撲放送や天気予報が復活した。
同時に番組も一層充実し、ラジオは家庭の娯楽の中心としての役割を果たすようになった。「6球スーパー」と呼ぶ真空管を多く使った性能のよいラジオ受信機が発売されたのもこの頃である。
戦後まもなく、子供向けの人気番組「鐘の鳴る丘」が始まったが、その時間になると、子供たちは遊びをやめてラジオの回りに集まって聴いた。 子供の番組では「鐘の鳴る丘」「お話玉手箱」「紅孔雀」「笛吹童子」などがあった。 大人向けの娯楽番組では、「今週の明星」や「アチャコ青春手帳」「20の扉」「君の名は」「とんち教室」「向こう3軒両隣」「陽気な喫茶店」「話の泉」などがある。 娯楽番組以外にも「私たちのことば」「街頭録音」「尋ね人」などがあった。 紅白歌合戦も終戦の年から始まった。当時活躍した代表的な歌手としては、東海林太郎、藤山一郎、灰田勝彦、霧島昇、渡辺はま子、二葉あき子、淡谷のり子などがあげられよう。 当時の流行歌の主なものをあげれば、「異国の丘」「長崎の鐘」「上海帰りのリル」「リンゴの歌」「東京ブギブキ」「サンフランシスコのチャイナタウン」「白い花の咲く頃」などがある。(昭和の年表参照) また、映画も年数回、学校の体育館で上映された。
資料→子どもの頃の思い出 その他、村祭りに村の青年団主催で旅回りの劇団の公演が行われることもあったし、青年団自身による演芸会(写真)も行われ、素人楽団の演奏による歌や踊りや劇もあった。 また、小中学校の学芸会も当時は村人の娯楽としての役割が大きかった。 その他、岡野町の興行師により、大相撲が招致され当時の大関若乃花など一行70名の力士がやって来たこともある。大相撲は、バス2代仕立ててやって来た。
力士は、下石黒、上石黒の民家に分散して宿泊した。 その他、農協を通して「家の光」などの雑誌が購読されるようになった。 近くに本屋などなかった石黒では本を買うには郵便局で振り替えで送金して購入するより他なかった。 しかし、昭和30年代になると役場の二階に設置された公民館図書が年々充実し利用者も多くなった。 また、テレビが普及したのは、昭和30年代後半から40年代にかけてであった。 資料→ラジオの思い出 資料→テレビジョンの思い出 資料→ラジオが村に入った頃のこと 資料→蓄音機と浪花節 |
|||||||||
当時の村は、区長、重立(おもだち→理事)、組親(班長)の役員構成で運営された。(補記資料→重立) 区長は、ほとんどの集落で理事の互選で選ばれ、任期は1年であった。理事会は6〜10人で構成され区長の補佐にあたった。 また、集落を5、6戸単位に分けて、組(班)を作りクミオヤ(班長)が決められて、班長会で村の様々な案件を協議した。その組に属する各戸を組子(クミコ)と呼んだ。このような近隣組織である隣組(となりぐみ)は、それまでもあったが、昭和15年(1940)、内務省の「部落會町内會等調整整備要綱」の布告により制度化された。 そして、太平洋戦争中の住民の動員や物資の供出、統制物の配給等を行った。また、思想統制や住民同士の相互監視の役目も担うことになった。 当時は「隣組」という歌まで作られてラジオで盛んに放送された。 この要綱は敗戦後の昭和22年(1947)GHQにより廃止されたが、隣組は村組織としてその後も存続して今日に至った。) また、フレ(コワリキ)は、理事、班長を除いた家が輪番で行い、その順番を記録するフレチョウ(触帳・戸割帳)と呼ばれる帳簿があった。 総会は、春、秋の年2回の例会の他、必要に応じて臨時総会が開かれた。総会では、春には、決算と予算、行事計画などが話し合われ、秋には秋祭りのことや村普請のことなどが話し合われた。総会の開始はホラ貝で知ららせた。 村予算の主な財源である各戸のカスウの割り当ては、毎年最も難航する議題であった。 カスウ割は、前もって理事会で各戸のその年の経済状態をもとに算出したミタテカスウ(割り当て案)が提案されたが異議申し立てが続出してもめることが多かった。 カスウ割りは寺割りなど他の経費の基準とされるため、もともと簡単にはいかない議案であった。 下石黒では、例年、この審議に2日はかかり、年によっては4日もかかったこともあったという。 その他、農協や森林組合の出資金の割り当ても手間取る議題であった。 カスウ割りで徴収される部落費は、各戸が班長に持参し班長が区長に納めた。 また、7集落の区長会が役場を会場に定期的に開かれ、石黒村全体の案件の審議や連絡調整が行われた。 その他の組織としては、青年団、婦人会、在郷軍人会があったが、いずれも、太平洋戦争中は大政翼賛会、国民義勇隊などの傘下にあったために敗戦と共にGHQにより解散させられた。その後、青年団は昭和22年、婦人会は25年ごろに再結成された(※参照-昭和の年表)。 それから、消防団(写真)組織は、災害時には重要な役割を果たした。当時は各集落に分団が設置され、各村には消防小屋があって腕用ポンプが備えられていた。毎年、春と秋には消火訓練が行われ、7分団で競い合った。 火災のみならず、水害、地すべり、台風等の災害時や当時はしばしば起きた子どもの等の川流れ事故発生時の消防団の活動は欠くことのできないものであった。 資料→落合の火事のこと 資料→高柳町寄合調査報告 法政大学 1975(昭和50年) 資料→高柳町大野調査報告 法政大学1975(昭和50年) 資料→高柳町板畑調査報告 法政大学1975(昭和50年) 資料→半鐘(民具補説) 資料→腕用ポンプ(民具補説) |
|||||||||
戦後、新しく石黒村に青年団が結成されたのは、昭和22年ごろであろうか。
当時の青年団は、昭和20年代には、15〜25歳の男女によって組織され、女性は結婚すると脱退する集落が多かった。特に終戦直後は1戸に数人の団員が居るという時代で、どこの青年団も大所帯であり活動も盛んであった。 補記→昭和27年石黒村青年団団員数 青年団の主な活動としては次のようなものがあった。 お盆と神社の祭礼の運営、演芸会、劇団興行、体育など村民の娯楽に関する事業。当時、最大プロジェクトであった車道開通工事への協力(上写真)、学校グランウド拡張工事への協力〔下写真〕
このように、青年団は年間を通して村人の暮らしを支える仕事を担っていたため、どこの集落でも強い発言権を持った組織であったと言えよう。 資料→昭和28年度の石黒村連合青年団事業概要 資料→1952青年団討論会筆記録 論題 生活改善 資料→石黒青年団団歌 |
|||||||||
行 商 . 富山の薬売り たいていの家には富山の置き薬があり、毎年、夏のころ薬売りがやって来た。 大きなヤナギ行李を重ねて風呂敷で背負って、得意先を回った。 ヤナギ行李の最上段には筆記用具と算盤や帳面などが桐箱にきちんと納まっていた。その下の行李には子どもたちが待っていた紙風船などの土産物が入っていた。 三段目からの行李には薬が入っていて、使用した分を清算し、新しい薬を補充する商法であった。 薬の種類は風邪薬のトンプク薬、胃腸薬の六神丸、毒消し、百草丹。痛み止めのケロリン、神薬。傷薬のメンソレータム。その他目薬、などがあった。 富山の置き薬(下写真)は当時の石黒では単な
そればかりか、薬屋は外部の情報に乏しい村人にとっては得難い情報の運び屋でもあった。 縁側で薬屋を囲んでお茶を飲みながら遠い他郷の話を聞くことは家族にとっては物珍しく楽しいことであったに違いない。 また子供たちにとっても紙風船などをおまけとしてくれる薬売りは心待ちにしている行商人であった。 資料→薬売りの思い出 民具補説→矢立と富山の薬売り |
|||||||||
お茶売り お茶は、どこの家でも毎日数回飲む習慣があったため年間をとおすとかなりの消
高柳村の栃が原ではお茶の栽培が行われていたが、当時、石黒では栽培している家はなかった。(茶畑という屋号があることから昔は栽培された時代もあったのであろうか) お茶は、松代町の御茶屋(高橋園)が上石黒の屋号ハツカブロウを宿にして石黒全村を回った その後、東頸城郡大平村の御茶屋(山佐屋)が大きな茶箱を背負って、村々を回って売って歩いた。ガンギの上がり口に荷を下ろして、大きな茶箱(写左下)の蓋を開けるとお茶の香りがしたものだ。 お茶は1斤(600グラム)入りの大袋に詰められていた。 また、上石黒の屋号インキョが大平の御茶屋の宿であり、その家には常時商品があったのでそこで購入することも出来た。 |
|||||||||
下駄は、門出の下駄屋が、お盆前に村中を回って売り歩いた。当時、下駄は家族の人数分は揃えておいたので、ほとんどの家で買った。
鼻緒もいろいろな柄が揃えてあって、希望のものをその場ですげてくれた。 新品で鼻緒がきつい下駄を履いて墓参りに行ったことを懐かしく思い起こす人もいることであろう。 また、下駄屋は下駄材の桐の木の買い付けにも村を回ってきた。 反物売り(写真)は、大きな風呂敷に様々な衣服や反物を背負って東頸城や岡野町からやって来た。当時、衣類を売る店は、石黒にはなかったので肌着から、花嫁の打掛やフトンに止まらずタンスまで売ったものだという。 魚の行商は、バスが運行されるようなった昭和26年ごろ荒浜から数人(女性)でやって来て、それぞれのお得意さんを決めて村々を回った。 ブリキの箱に一塩ものを入れて売って歩き、主に米と交換した。頼まれれば台どころに入って魚を3枚おろしにするなど下ごしらえまでしてくれた。また、魚に限らず、ちょっとした台所用具なども買い求めて届けてくれた。 魚の行商は、生魚など、1年に何度も食べることのなかった村人の食生活を一変した。 その後、昭和40年ごろ、門出の魚屋の移動販売車が入り、柏崎からも入って来るようになると食生活は町並みとなり、ついには、味噌さえも買って食べることが当たり前となってしまった。 この移動販売車の出現の後、間もなく魚売りの行商は姿を消した。 また、昭和30年代になると長野県からリンゴ売りが来て、米と交換した。リンゴの種類は、保存のできる国光が主であった。どこの家でも、数十キロのリンゴを買って籾殻の中にいれて保存して春まで食べた。リンゴ売りも、毎年やって来るので村人と顔なじみになっていた。 古老の話では、昭和の初めの頃までは、古着屋やゴムひも売りなどもやって来たものだという。 資料→ゴムひも売り 資料→下駄屋と桐の買いつけ 資料→物々交換の思い出 資料→行商 |
|||||||||
ごぜ〔瞽女〕 昭和の10年頃までは、石黒にも瞽女が村に毎年やってきたという。 桐の花が咲く頃と、稲刈りが終わる頃に、3〜5人の集団でやって来た。紺色の着物を着て裾まくりをして菅笠をかぶって、いくらか目の見える瞽女が先頭になって三味線をひき瞽女唄を歌いながら家々を回ったものだという。家々では所望された唄を歌い、米一合ほどもらったものだという。〔もらった米は瞽女宿がまとめて東頸城の田麦まで背負って運んでくれたと伝えられる〕 また、毎年、村での瞽女宿は決まっており、夜には宿で唄や芸を披露したという。途中にザルがまわってくると見物人は小銭を入れたという。人気のあった唄は、「葛の葉の子別れ」「山椒大夫」「曽我兄弟」などの物語であったという。 県内には高田瞽女と長岡瞽女の二大組織があったといわれるが柏崎周辺には刈羽瞽女の集団もあっと伝えられる。しかし、石黒にやって来たのは嶺村や松代経由でやって来た高田瞽女であろう。 音声資料→瞽女唄 録音時間約40分-※呼び込みまで15秒ほどかかりますので表示の時間を見てお待ちください。 資料→瞽女唄への郷愁と 資料→瞽女のこと 補記→ゴゼの生活 |
|||||||||
男性の喫煙人口は、今日〔2001〕とほぼ同じ割合であったと思われる。 (女性の喫煙者はほとんど居なかった) タバコは、きざみタバコをキセルで吸う人がほとんどであった。 腰に差したズンギリをはずして、「ポン」という音とともに鞘を抜きキセルを取り出す、右手でタバコ入れから刻みタバコをつまみ出してキセルの火皿に詰める。 イロリの熾きから火をつけて吸うと、かすかにメリメリという音がしてタバコが赤く熾る。肺の中まで吸い込んだ煙を鼻から静かに吐き出す。吸い終わると雁首でイロリの縁を叩くようにして、吸い殻を落とす。
屋外でタバコを吸うときには、手のひらに吹き出した吸い殻を巧みに転がしながら火種とし、もう一方の手で素早くタバコを詰めて手のひらの火種で着火した。見事な手さばきであった。 きざみタバコは、「みのり」(写真)が最も多く吸われていた。
タバコ入れは、桐材をえぐって作ったもの、キセル差しは牛皮を2つ折りにして縫い合わせたもの(写真)が多かった。中には凝った道具を持った人もいた。 また、キセル掃除は、稲ワラのヌイゴを吸い口から差込み火皿の口に出して引き抜き、ヌイゴの穂の部分でラウ(管の部分)のヤニを取り除くという方法で行った。 当時、きざみタバコには、「ききよう」「はぎ」「なでしこ」「みのり」などがあり、紙巻きタバコには、「ゴールデンバット」「朝日」「霧島」等があった。
家に煙草をすう行商人などが来たときは、よく子どもが頼まれて煙草盆を持ってきて差し出した。 資料−タバコボン−民具補説 |
|||||||||
はしかは、現在ではワクチンの定期接種で(昭和53年から)ほとんどの人は生涯免疫が得られるが、当時は、一生に1度は罹らなければならない病気とされていた。
当時の石黒では、はしかに罹り無事に治ると、サンベェシ(サンダワラ)に笹の葉を敷き小豆ご飯を盛って、家の近くの三叉路に供えた。集落によっては橋の上におくところもあった。(上写真) 板畑集落では、罹患してから12日目に笹の葉で頭をなでるお呪いをした後、サンベェシに笹を敷き小豆ご飯を盛って三叉路に置いたという。 これは、疫病よけのまじないに起源を持つ風習と思われるが、無事に病が治り免疫を得た祝いの気持ちも込められて行われたものであろう。 資料→ハシカの思い出 |
|||||||||
頭刈り(散髪) 当時、家で散髪をするのは、ごく普通の事だった。 主に、男の子は、たいてい父親が、女の子は母親がした。男の子はバリカンで坊主刈りにし、女の子は裁ちばさみを使って髪を切りそろえてもらった。 男の子は大きな風呂敷を首に巻いて、屋内では床に敷いた新聞紙の上に腹這いになって、屋外では台に腰を下ろして刈ってもらった。 バリカンの調子が悪いと、歯が毛を挟み込んでしまい涙が出るほど痛かった。悲鳴を上げると父親はそのままの状態でネジをゆるめて毛を歯からはずす。そして分解してきれいに掃除してからもう1度組み立ててやり直す。1度で直ることもあればなかなか直らない事もある。 父親は何とか子どもをなだめて刈り終わろうと色々話しかける。そこは、かけがえのない親子の対話の場ともなった。特に、普段、父親と話す事の少なかった男の子にとっては、貴重な対話の場であったと言えよう。 資料→散髪の思い出 |
|||||||||
真綿とり 売り物にならない、シミの出た繭や双子繭(1つの繭の中に2のさなぎが入った繭)は、家で真綿にして布団作りなどに使った。 真綿取りは、灰汁などで精製したものを水の中で広げて引き伸ばし、ゲバという枠に掛けて広げてから乾燥させた。 真綿は、白くて光沢があり、保温性にも優れていた。子どもの袖無しの中に入れたり、布団作りで綿があたけないように包み込むためにも使われた。繭から出てきた蛹は鯉の餌などにした。 子どもの頃に見た真綿取りをしている母や祖母の姿を、煮た繭の一種独特の香りと共に思い起こす人もあるだろう 。 |
|||||||||
夜道を歩くときに使われたものは、
(写真) 戦後、懐中電灯が普及するとともに提灯は
また、特に冬季には、雪のため停電することがしばしぱあり、その折りに使うロウソク立て(写真)がどこの家にもあった。ロウソク立てには、このほか仏間用のものもあった。 |