尾神嶽雪崩遭難の欅の伐り出し場所について

 私たちは(石黒では)、尾神嶽雪崩事故に遭った献木が、隣村の嶺村の神社の神木であったと子供の頃から伝え聞いて来た。
 遭難の時に使われていた巨大なダイモチゾリが石黒村から寄進されたことも、用材の伐採地が隣村の嶺村であったことと関連があると信じて来た。
 
 このことは、渡辺慶一氏の「本山再建と知られざる越後尾神嶽遭難記」にも下のように記述されている。
(前略)さて、この献木の寄進人は旧刈羽郡嶺村の松沢周平で、同村黒姫神社境内にあった巨大なケヤキであった。松沢はこれを買って、本山の矢来差しにと献納したという。木の長さ、太さも、2本か3本かの記録はない。前年度秋に伐採しておいた。
 これを奥山から引き出して、直江津の木場場へ届けようというのであるが、深雪を踏み分けて、橇を利用する以外に方法手段がない。その橇も普通雪国の民家で使用する橇では間に合わない。
 刈羽郡石黒村(現在高柳町)の田辺重栄・同重五郎の2人がこれを寄進することになり、村民50戸が総出で、数日間刻んで、とてつもない大橇ができた(現在これは東本願寺高廊下な展示され、橇正面に寄進者の名が刻まれている)
 
 しかし、平成19年(2007)に発刊された上野実英著「いのち いしずえ」には、その時の用材は嶺村ではなく、川谷村である可能性が高いと記されている。
 その根拠となったものの一つは、柿崎区の米山寺の「木村文書」である。その文書には
「東本願寺大モチニテ、嶽ノ腰ニテ雪頽ノ為死人。川谷村黒姫神社境内木伐採シ大物ニシ、三本之内ショウ方ハ無難ニテ、横山上ヘ迄引出、大方壱本川谷向へ坂、三月九日朝ヨリ三日モカカリ漸引上、翌十二日不暁ヨリ大勢寄集リ、午後二時頃迄ニ嶽ノ吹切トイウトコロへ来リシニ、突如嶽ヨリ雪頽一時推来リ・・・・・・・・・・」とある。
 この文書は当日大橇引きの様子を見物に出かけていって雪崩事故を目撃した木村左一郎氏が書き残した文書である。
 もう一つは、その頃、川谷校の教員であった若井政夫氏が、教員退職後、川谷地区の古文書や川谷の故事来歴を写して記録した文書である。そこにはつぎのような文が見られる。
「黒姫神社、字平坪に鎮座、境内に欅の老木多かりし、民有地、土豪長島小左衛門先祖の勧進せしものなりと伝う、明治十六年東本願寺堂宇建立の際老欅を寄進す、他は明治三十年頃伐採、金にかふ」

 上野氏によれば、その他の古文書を調べても、嶺村で伐採の文字は見あたらないという。
 このように、伐採地が川谷村であるとする上野実英氏の持論は複数の古文書に基づいたものであり、それなりに信憑性の高いものにはちがいない。
 しかし、上記掲載の二つの文書のどちらも、その作成由来から見て確たる根拠を持ったものとは断言できない

 一方、嶺村の方は、「献木願」と「献木届」の文書は現存するが、
伐採地についての文書は残っていない。しかし、村から数名の犠牲者を出した大事故に関する史実が誤って伝えられてきたとも考えられない。ましては、明治の事件であり、多くの当事者が四、五十年前まで生きて語ってきた事であるから尚さらのことである。
 また、東本願寺御影堂の巽〔たつみ-東南〕の隅柱にも松沢氏の名前が刻まれていることも事実である。
 
 いずれにせよ、上野氏の調査研究は価値あるものであるが、これによって嶺村神社神木説を誤りとすることはできないであろう。

                          
(文責 大橋寿一郎)