補 記 №1 



        コワリキ

 電話の普及していなかった当時、歩いて連絡することを「フレ」と言った。 また、順番に村の雑用をすることを「コワリキ手間」と呼んだ。割り当ての順番を記した帳面を石黒では、「フレ帳」あるいは「戸割帳-こわりきちょう」(下写真)と呼んだ。コワリキという言葉は「戸割」の意味である。
 
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板畑地区文書











           飼いウサギ

 当時は、飼いウサギの肉が正月用の食肉として最も多く用いられた。どこの家でも飼いウサギを2~3羽は飼育していた。正月が近づくと栄養のある餌を食べさせて太らせてから料理した。ヤマウサギも食用にしたが、食味が著しく劣った。
 鶏の肉は、もっぱら廃鶏(産卵しなくなった鶏)が用いられた。
 ヤマドリの肉は、美味であったがヤマウサギと異なり生息数が少ないため獲れる数が少なくめったに口に入らなかった。
 ヤマウサギやヤマドリは、年の暮れのうちに村の猟師に予約をしておく家が多かった。

資料→飼いウサギについて
資料→飼いウサギの思い出
資料→鉄砲うちのこと


















 昭和20年豪雪と日本一の積雪について

 昭和20年の豪雪は、昭和史上、他に例のない大豪雪で、上越高田で積雪が377cmの記録がある。
 この年の石黒の積雪の記録はないが、古老の話から察するに6mに近い積雪であったと推測される。(雪消えが遅れ、田植えが7月にずれ込んだ家も少なくなかったという)
 ちなみに、この年は、夏には大水害、秋には風害があり、その上、太平洋戦争の戦禍が日本中をを覆い遂に敗戦、アメリカの占領国となるという怒涛疾風ともいうべき年であった。
(この年、筆者は石黒村国民学校に入学したが、学用品など無いに等しい状態であった。七十余年経った今にして思うことは、このような中、親類を頼って疎開してきた多くの仲間たちの苦労がいかばかりであったかということだ。)

 ※日本一の積雪は、人の住むところでは、上越地区の柄山集落の昭和2年の818cm、また、山岳地帯の積雪では、1927年滋賀県の伊吹山の1,1821cmの記録とのこと。ちなみに、どちらも世界一の記録であるということだ。
 ※高田の豪雪では、寛延2年(1749)の1丈6尺(約485cm)の記録もある。














    石黒の菩提寺〔昭和30年代〕

菩提寺名 家数 所  在   地
西方寺  133 柏崎市北条
円重寺   32 大平村浦川原
安住寺   17 柏崎市西之入
聞光寺   11 柏崎市西本町
クリック→石黒の菩提寺紹介















代官所に提出した凶作による難渋者救済願〔田辺重順文書

        乍恐以書付奉願上候


石黒村難渋者別紙小帳之通
1 家数五十軒 此人別百五拾人
右者当村の義兼而奉申上候通去秋凶作ニ付小前一同難渋仕、
飯米手当一切無御座当二月御米御拝借奉願候処、厚御仁恵を
以御聞済被下置是迄取続難有奉存候、随而此度別紙小帳を以
申上候右人別之義、極難渋者ニ而家内多有之父母妻子養育も
出来不申、日々木葉ノ芽等食用仕候躰ニ而誠ニ嘆ケ敷義奉存
候、当村義ハ御承知被為在候通り山地小高人別多ニ御座候上、
重毛立無御座銘々救合も行届兼誠ニ当惑仕候、依之御時節柄
重々奉恐入候得共何卒書面之難渋者共江、御救之御手当被成
下置様仕度偏奉願上候、此段格別之御慈悲を以御救方被下置
候ハハ、大勢之者露命相続仕重々難有仕合存候、以上
                         刈羽村 石黒村
文政六年午五月
御代官所















 通称松之山街道の脇街道〔塩の道〕

 通称「松之山街道」は松之山から岡野町、小清水を経て柏崎に至る道を指すが松代~石黒~地蔵峠~鵜川~柏崎の道を「松之山脇街道」呼んだ。
 古老の話によれば、この街道を米俵を荷鞍につけた馬が鈴の音を響かせながら列をなして柏崎へ向けて通り、帰りにはカマスに詰めた塩をつけて通ったものだという。大野から地蔵峠までの街道沿いに大きなアカマツ並木があったが昭和56年(1981)の松食い虫の大発生でほぼ枯死した。

  板畑の嶽から俗称松之山街道の脇街道(大野~地蔵峠)あたりを望む

 撮影2007.2.26
















         幟〔のぼり〕
     (関矢政一書)  上石黒の黒姫神社の幟は現在資料館「えにしの館」に保存されている。書かれている文字は下写真の通りである。

 「幟と称して一反の白布にをつけ竿にとおして、国土安全だの五穀成就などという祈願の文字を大きく書いたもの、それが稲田を吹き渡る秋の風にはたはたと揺らめく光景は、祭礼の最も思い出ではあるが、この幟が盛んになったのはそう古い事ではないと見えて、絵巻や中世の記録の中には、まだ私は見たことはない。」
柳田国男著 「祭りから祭礼へ」 

 














    年取り

 石黒では大晦日の晩を「年取り」と呼んだ。この日のお膳が正月でもっとも豪奢なものであり、神棚や仏壇に供えお参りをした。あたかも正月は、この大晦日の夜から始まるような印象を子ども時代から持っていて、今日までそれを不思議にも思わなかった。
 しかし、最近、柳田国男全集(第10巻)の「先祖の話」の中に次のような文章があることを知って釈然とするものがあった。
 「即ち我々日本人の一昼夜は、もとは夜昼の順序になっていて、朝の日の出に始まるのではなく、真夜中の零時に始まるのでは尚更なく、今いう前日の日没時、いわゆる夕日のくだちをもって境としていた。(中略) だから一年の境の年越し御節というのも支那では除夜という夕飯時のことでこの刻限に神棚に御灯明をあげ最も念の入ったお膳と神酒とを備えて、その前で一家総員が居並んで本式の食事をしたのである。(以下略)」
 この事から、年取りの夜、分家が本家に挨拶に訪れるという慣習も理解できる。













     
虫送りと盆踊りの起源

 「(前文略)農作物を損ずる旱魃暴風、稲の虫なども亡霊のわざといわれた。伝染病の中でも疱瘡の神だけは爺婆や若い男女の姿で独りで歩いているが、疫病はいつも群霊のわざと考えられたらしい。
 腸チフスを「ボ」または「ボウ」の方言があるのは、その作為者を「ボの神」「ボウの神」と言ったことが元で、東北には近い頃までこのボの神送りが行われていた。暴だの棒だの字をあてているけれども、これも実際は「盆の神」だったと思うのは今でも諸処の村に「盆神」という小さな祠がある。
 ホカイ(無縁の霊に供物の余りなどを与える供養)しただけでは未だ十分でないと感じた場合に、これを祭りもすれば追い払いもした。そうしてこれが盆踊りの本来の目的でもあったのである。」
柳田国男著「先祖の話」














       盆草刈りと盆道つくり

 「(前文略)盆には常のような仕事をしてはならないこと、即ち休みは単なる労働の免除ではなくて、物忌の一つの慎みであった。(中略)牛馬を飼う家でも早くから草を刈りためて、盆中は刈りに出なかった。
 精霊様の足を傷つけるといけないからと、十三日の魂迎へに先だって、もう里近くに来ていられるようなことを言う人もある。
 そうかと思うと一方には盆草刈り又は盆道づくりということがあった。大抵は七日またはそれ以前に山から下りてくる一筋の小径を、村中が共に出て刈り払うので、それと同時に墓薙ぎということもするから、これが高いところから石塔のあるあたりまで、御霊の通り道をきれいにしておく趣旨であったことが分かる。(以下略)」
柳田国男著 「無意識の伝承」














         宵宮について

「我々日本人の昔の一日が、今日の午後6時頃、いわゆる夕日のくだちから始まっていたことはもう多くの学者が説いている。
 (中略)我々の祭の日もその日の境、即ち今なら前日という夕御饌(ゆうみけ)から始めて次の朝御饌をもって完成したのであった。つまり、この夕から朝までの間の一夜が、我々の祭りの大切な部分であって、主として屋内において,庭に庭燎(にわひ)を焚いて奉仕せられたのであった。
 (中略)それでも所謂宵宮の方が重いと感じている年寄りも未だ多いのだが、(今日では)二日に渡る祭りだと思い二度参ればよいこととし、晩に参って帰ってきて、もう寝間着を着て寝てしまうのが当たり前になってきた。(中略)
 都市では御通夜という言葉が、現在では凶事の場合のみに限られているが、これも夜通しの意味であり,いまでも祭りにおいてもそう呼ぶ地方がある。祭りに徹夜をする行事がなくなったので、それが不幸の夜だけに限られているのである。」
柳田国男著 「日本の祭り」
















       奉納相撲の由来

 「(前文略)日本の祭りに最も例の多いのは、趣向を様々にかえた庭上の催し物であるが、これもまた貴賓款待の大切な手段であった。
 中世の文芸記録には幾つともなく証拠がある。伊豆の奥野の狩倉に、源氏の若君を招請して酒宴を催し、お慰みに相撲をとってお目にかけたという曽我の物語なども、うそであろうがあの時代の常識であった。
 神来臨の日に亦それをせずには居られなかったのである。それをまた余念もなく見て楽しんだ人々が、神様も同じように悦んで御盃を重ねたうべしと、類推したことは、なつかしい素朴な考え方であった。
 (中略)我が国在来の運動競技は、ほとんどその全部がこの種祭の日の催しに始まっている。後に相撲や競馬のように信仰行事のほかに出てしまったものもあるが、その痕跡はなお幽かに、たとえば角力場の太鼓やボンデン、さては、トウザイ、トウザイの言葉の中にも見出さるるのみか、他の一方には各地の小さな御社の祭りの行事として、やや零落した形で残留している。」
柳田国男著 「日本の祭り 神幸と神態」














         炭置き

 「(前文略)いわゆる年占いの種類は土地の慣例によって、これ以外にもなお数々あった。最も簡単なものは世ためしの神事というもので、これにも水のためし、氷のためし、飯のためし、また炭置きの神事というものもある。 
 東北あたりの農民が小正月の宵に、今も家々に行うところの豆占や胡桃占というのは、まず囲炉裏の清い火を掻きならして、豆や胡桃のようなものをその上に十二並べ、これをその年の十二月に配当して、主として一年の天候を伺うのである。
 白く灰になるのは其の月は晴多く、黒くなるのは雨、ふうと吹くのは風の多い月と見るのである。月々の天候が大体にこれで分かればそれに応じて作物の種下し時を加減し、また品種や数量も決められたのである。(以下略)」
柳田国男著 「神幸と神態」

※筆者の祖母は毎年小正月15日には(1950年のころ)、囲炉裏の火を、大きな薪から出たオキ(熾き)を餅焼きのワタシの上に12個並べて、白くなるか、黒くなるかで一年の気候を占っていたことを憶えている。
















      山の神の供物について

 「(前文略)山の神の餅を烏に持ち去らしめ、また若水迎えの餅を少年が後からまわって刺して返る(原文のまま)というのも、単なる慰みではなかったことが、他の例との比較によって推測し得られる。
 神が現実に我々のささぐる食物を召し上がることを、日本人はいろいろな方法によって、啄み行かれる形を見届けようとする祭式が今でもある。小さい里々の類例までを数えるならば十指を屈しても足らぬほど多い。それをトレパミの神事又はオトグヒの祭りなどと呼ぶことがどの地方に行っても話題になっている。
 大隅の百引村などのは、これをミサキドン祭と謂って、日は4月8日になっているが、餅を藁包(※ツトッコであろう)包んで高い枝に懸けることは東北の正月4日のヌサカケも同じである。(以下略)」
柳田国男著 「供物と神主」
 ※石黒の上寄合にも山の神の日にツトッコに食べ物を入れて竿につけ、門先につるし鳥が食べると縁起がよいとする慣習があったという。→本文参照




















  
ションガイヤ(しょんがいな)の言葉の由来

 「(前文略)ションガイナは今の「しょうがないな」と同じ意味の言葉で、もう今から300年前の流行歌の囃子文句であった。宮城県などでは伊達政宗に始まったという「さんさしぐれか」という歌にもこの囃子がついている。
 九州の方では長崎県の島々にも、また鹿児島県で開聞嶽を詠じたという「雲の帯してなよなよと」という歌にもこの囃子があり、更に南にいって沖縄県の八重山群島などにも「しょんがいな」をもって終わる哀れな別れ歌があった(以下略)。」
柳田国男著 「村と学童 母の手毬歌」
 石黒の村人で九州の炭坑に出稼ぎに行った人の話だが、九州出身の人が故郷の盆踊りとして披露した唄と踊りが石黒に伝わるションガイヤとそっくりであったことに驚いたという。














         古代の正月

 「 遠い昔の人達は正月の満月の夜をもって1年の始まりとし、その日より諸行事を始めた。現在の建国記念日は昔の紀元節で、神武天皇が御即位になられ国を建てられたのが2月11日で、その時代の正月元旦であったといわれる。
 推古天皇の御代に初めて暦日が用いられた。それにより今までの満月の日から行われた正月が2つに分けられ正月朔日を大正月と呼び、表向きに満月の時の正月を小正月と呼んで、内輪向けにそれぞれの正月行事を行われるようになったと伝えられる。」

茂野寅一・茂野宗平編-「ふるさとの記録 藤井の里より」

 抜粋掲載させてもらった川西町郷土史「藤井の里」の上記の文にあるとおり、大正月が正式の正月となると、自然、小正月は、今日に伝わる各行事が行われる正月としての位置を占めてきたのであろう。また、そのほとんどは、豊作祈願と悪霊払い行事と言ってよい。
 石黒での小正月行事には、鳥追い、花木づくり、成木責め、モグラ追い、どんど焼き、などがある。また、炭置きなども吉凶占いというより一年の気候を占い豊作を祈願したものといってよいであろう。筆者の祖母は炭置きを毎年欠かすことなく行なっていた。

 筆者が小6の頃であろうか、先輩の発案で、正月15日、未明というには早い3時半ころに、仲間と藁を一束ずつ持ち寄って、それに火をつけて、その周りで古い金箕等をたたいて鳥追いをしたことがある。
 声を張り上げて鳥追いをした肝心な部分の記憶はおぼろげだが、炎をあげて藁が燃える様子と、その夜は快晴であったらしく煌々たる満月が出ていた光景は今も実に鮮明に憶えている。まさに、それは太古の一年の始まり(元旦)の満月であったということになる。
 それ以後に、藁を焚いての楽しい鳥追いをした記憶がないのは、火災の危険があるため大人に堅く禁じられたからだった。
 以来、各自が自家の庭先で鳥追いすることになり、筆者など家人に催促されて仕方なく朝の明るくなった頃に形ばかりで済まして来たものである。
 そんなわけで、その後は、太古の正月の満月を拝む機会もなく今日に至ったが、再び、眺めてみたいとも思わないほどに、65年前のその満月の印象は鮮明である。それは、夜明けに近い時間で月が西に傾いて子どもの視界に自然と入る位置にあったせいかもしれない。





                 

         
 コウセン

 小豆をなべの中で煎って石臼で挽いて粉にしたもの。小豆の皮の赤が混じって見た目も美しい。
 食べ方は粉をご飯茶碗に入れて熱湯をかけて箸でよくかき混ぜ、粘りをだして食べる。塩を少々と砂糖を入れて食べると美味しいが、敗戦前後は砂糖がなく塩だけ入れて食べた。
 その後、砂糖が豊富になってからは、子ども達は粉に砂糖を混ぜてそのままなめた。これを「なめこうせん」と呼んだ。
 コウセンは煎った小豆の香りがして味もよく昭和30年代までは好んで食べられた。













             

          
鳥追いについて

 小正月行事のひとつで、1年の初めにあたって田畑の害鳥を追い払っておくことを願う呪(まじない)的行事。主として東日本で行われ、西日本に比較的多いキツネ狩り、モグラ送りと対応している。
 行い方は、子ども達が手に手に鳥追い棒をもち、その地方独特の鳥追い唄を歌いながら集団で地域を巡る。また、自家の門先で歌う。
地方によっては、鳥追い小屋を設けて共同飲食をし、そこを拠点として巡遊をする。
 鳥追いは、田遊-たあそび(社寺の境内で行う稲の豊作を祈る神事芸能)田楽-でんがく(日本芸能の一。平安時代から行われ、鎌倉時代から南北朝時代にかけて、猿楽と同様に歌舞劇である能をも演ずるようになり、後に衰え、寺社の行事だけに伝えられて今にいたる)の中に往事の鳥追いの様子を求めることができることからも相当古くから伝えられた農村行事であろう。
 江戸時代の様子は鈴木牧之「北越雪譜」や管江真澄の旅日記にも詳細に記されている。
 また、編み笠姿の女性芸人が三味線や鼓弓を持って歌いながら門付けする鳥追いが出現したが、これは農村行事の鳥追いが芸能化したものといえる。
 参照 国史大事典他

資料→旧高柳町の鳥追い行事について
                    









              


          
節分について

 春夏秋冬の季節の変わり目を節分といい、立春、立夏、立秋、立冬をもって季節の節目とした。暦ではこの前日を節分として記載する。つまり、2月4日が立春であれば3日が節分というわけである。
 元来節分は一年に四回あるのだが、一般に「節分」とは冬から春になる立春の前日を指す。(立春は旧暦では24節気が一巡して、旧年を越して新しい年を迎えるときであり、節分の夜を年越しともいう)
 節分の日は陰邪の悪鬼を追い払って陽神の福を迎える「ついな₋追儺」の行事が行われる。社寺や民間では「福は内、鬼は外」と唱えて煎った豆をまく。もとは、宮中行事であって大晦日の夜に行われたが近世になり民間で節分の夜に行われるようになった。
 また、節分には「やいかがし」といって戸口に焼いたイワシの頭やヒイラギの小枝を飾る風習もある。
                    参照 国史大事典他











             


           針供養について

 2月8日・12月8日のどちらか一日仕事を休み、折れ針や古針を供養し処分する行事。不要になった針を豆腐かこんにゃくに刺して川や海に流すのが一般的で、この日に豆腐・こんにゃく・ふろふき大根を食べる地方も多い。
 また、使い古した針を淡島祠や淡島堂に納める地方もある。これは、江戸時代に、婦人病や安産に効験ありとされた淡島神社(和歌山市加太)の信仰が広まる過程で、この神社の祭神を「はりさいじょ」する俗説が信じられるようになり、針供養が女性の間に広まったといわれる。

                  参考資料 国史大事典他


















            
   

           戦後の生活改善運動

太平洋戦争敗戦直後は、まさに日本中がどん底生活からの脱出を目標に食糧増産をはじめ、農村の民主化や合理化に取り組んだ。

石黒でも、国の施策のもとに婦人会や青年団等が推進役となり、生活改良普及員と農業改良普及員の指導のもとにその実現に向けて努力した。
 生活改良普及員は主に農村女性を対象に農家・農村生活の向上を目指し、農業改良普及員は、農業技術の向上による食糧増産を目指した。
 昭和28年頃と思うが、筆者は区長をしていた父親に頼まれて県から派遣された保健婦らしき女性を村の各家に道案内をした記憶がある。主に台所と便所を見て回ったのだが、今日では想像できないような非衛生的な実情であった。

 当時の青年団活動の生活改善をテーマとした座談会の記録がある。→参考資料












        

       
蔵開き - 正月の年中行事

 近世、宮廷では10~15日の吉日を選んで行われるとするが、一般では11日が多い。蔵開きも新年の仕事始めの行事である。特に商家では正月の目出度い慣例として盛んに行われた。この日は、正月初めて倉を開き在庫の金品を調べ商売の繁栄を祝ったものであろう。
 宝暦時代に生まれた子どものてまり歌には「十一とや、十二とや、蔵開き、蔵開き、お倉を開いて祝ひましょ という歌詞があり蔵開きを今に伝えているといわれる。

参照文献-国大辞典・その他