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       さい
歳や年を数えるときにつかわれる言葉。
 
   西雲寺   さいうんじ  
新潟県柏崎市にある 浄土宗の寺院。
 
    再應  さいおう   
再度。 ふたたび。 度々。
 
   才覚  さいかく
 金を工面すること。工夫すること。 機知。機転。
 
    在方  ざいかた  
 田舎。 農村。   対語→町方
 
 在々  ざいざい  
あちらこちらの村里。
 
   在所  ざいしょ  
住居する場所。  故郷。  自領。
 
   在邑  ざいおう  村に住むこと。  
   在家  ざいけ  
田舎の家。農民の家。人家。
 
    西国三十三か所  さいごくさんじゅうさんかしょ  
 近畿2府4県と岐阜県にわたって点在し、和歌山県青岸渡寺に始まり岐阜県華厳寺の33か所の観音信仰の霊場の総称。これらの霊場を札所とした巡礼は日本で最も歴史がある巡礼行であり、現在も多くの参拝者が訪れている。
 西国三十三所の観音菩薩を巡礼参拝すると、現世で犯したあらゆる罪業が消滅し、極楽往生できるとされ、江戸時代初期からは「巡礼講」が各地で組まれ団体の巡礼が盛んに行われた。
 往来一通の事
   西方寺  さいほうじ  
新潟県柏崎市にある真宗 大谷派の寺院。 ホームページ→西方寺
  天明5年西方寺再建願書
   犀川   さいかわ  
長野県内を流れる信濃川水系の一級河川。一般に、松本市島内で奈良井川を合流させて以降の下流部から長野市での千曲川との合流部までを指し、 上流部は梓川(あずさがわ)と呼ばれる。
 
   裁許  さいきょ
訴訟で裁決すること。   はんけつ。  幕府の裁決。   
 
   采地  さいち
 知行所、官職にある者に与えられた領地のこと。  采邑
 
   在府  ざいふ  
大名や家臣が江戸に役宅、あるいは上屋敷に居ること。
 
   宰領 さいりょう
多くの人を取り締まり監督すること。 または、荷物運搬などの仕事をする者を監督し取り締まること.  
宰料・才料
 
  菜料  さいりょう
 飯のおかずの材料。またはその購入費。
 
   竿入  さおいれ
 検地の俗称。  竿打   
 
   竿外  さおがい  
堂宮、稲干場、墓地、火葬場、仕置場などの無年貢地。  
見捨場
 
    境目番所   さかいめばんしょ   口留番所  
   境論  さかいろん  
土地や屋敷などの境界についての争い・裁判。
 
     さかき  神事に用いる樹木。→石黒の植物-サカキ  
  榊原式部大輔
榊原政敦
 さかきばらしきぶたゆう


さかきばらまさあつ

江戸時代後期の大名。越後高田藩第2代藩主。榊原家10代当主
先代藩主・榊原政永の次男。寛政元年(1789)、父の隠居により家督を相続した。文化7年(1810)家督を長男の政令に譲って隠居した。文政2年(1819)死去、享年65。
参考文献-ウェキペディア 
・ 寛政元年酉年より文化5年辰年まで御割付諜写し-石黒村
   榊原政永  さかきばらまさなが  
 榊原政永は久松松平に代わって姫路から高田に15万石で入った。榊原氏の移動は左遷であったという。その理由は、政永の父政岑が芸事にはまり遊里に通い、その程度は、遊女の落籍などで30万両にも及ぶ莫大な借財となっていた。とくに時は享保の改革の最中であり言語道断の行ないであり本来改易となるところであったが、先祖の遺徳により越後高田への転封となった。
 寛政元年(1789)5月10日に隠居し、跡を次男の政敦に譲る。隠居後、右京大夫を称する。文化4年(1808)死去。
 
 参考文献-ウェキペディア 
 
   盃事  さかずきごと  約束を確かなものにするために盃を取り交わすこと。  
   坂田村  さかたむら  
 江戸期から明治22年までの村名。刈羽郡に属し、元和2年旗本堀氏知行、寛永19年苅谷藩(後は八幡藩)領。元禄11年椎谷藩領。寛政4年、幕府・椎谷藩の相給。
 村高は寛永2年543石。天保郷帳では554石。寛政4年の一部幕府領化は天明義民事件によるもので、木の下新田、麹屋新田など10
所あまりの地所の281石余が幕府領となった。この事件は後に幕府側と村側の対立として尾を引き裁判沙汰となり現在に語り継がれている。
 明治7年二田小学校を村内に開校。のち椎谷校付属坂田校となり同9年校舎新築。同18年坂田小学校となる。
 油田は文化11年に字柳清水の水田の中に発見。天保年間の初めから手堀りで採油、明治16年採油高73石余。後同28年坂田石油協同組合ができる。

 明治22年から現在の大字名。はじめ二田村、昭和34年から西山町の大字。明治35年組合立内郷高等小学校を開校。同42年二田尋常小学校開設。昭和23年県立柏崎農業高等学校二田分校を開設。昭和59年一部が中央台となる。
 
     さかな  酒を飲むときの副食物。  
   酒林  さかばやし  現在造り酒屋が門口にとりつける杉の葉で作った球状の飾り。 酒箒  石黒の動植物-木-スギ→石塚酒造の杉玉画像
   酒奉行  さかぶぎょう  幕府の職名のひとつ。 主に大奥の酒についての役目。  
   相模国  さがみのくに  現在の神奈川県中・西部。  
  月代    さかやき  
江戸時代以前の日本にみられた成人男性の髪型で、前頭部から頭頂部にかけての、髪の毛を剃りあげた部分を指す。元々は冠や烏帽子まはた甲冑を着用した場合に蒸れることを防ぐためのものであったという。天正のころまでは剃るのではなく頭髪を抜き去った。また、月代を剃った髪型のことは半髪と呼ぶ。
 
 
 先触 さきぶれ  
あらかじめ通知すること。またはその文書。特に、大名や役人または公卿、高位の僧侶などの公用の旅行にあたっては、前もって街道や宿駅に準備を命ずること。また、役人の廻村にあたって道順を前もって村々に通知すること。  
先触箱
 
   柵戸 さくこ・きのへ   (奈良時代) 辺境の開拓・経営と防備のために移住させられた戸(人々)
蝦夷 に備えて陸奥・出羽・越後に設けた城柵 (じょうさく) に配置した民戸。
 
   作食米  さくじきまい  
百姓の生活のための飯米や穀類。
 
   作事奉行  さくじぶぎょう  城の造営や修理その他土木工事全般を受け持つ役職。  
   作徳  
さくとく
 
百姓が年貢を納めた後に残った分、または小作人より地主が小作料として得る米。  
対語→納徳    作徳米   作徳金
 
   作取  さくどり  
年貢を納めずに収穫物のすべてを自分のものにすること。
 
   作扶喰  さくふじき   
古文書字典には見当たらないが→作食米-さくじきまい同意味であろう。 作食

※ちなみに、WEB上には、「作食米は、百姓の出作(デサク)する頃より食糧として要する米にして、藩は春季に於いて之を貸附し、その年内に返還せしめて藏納し、翌年春に至れば又貸附せらる」との解説も見られる。
  与板御引渡後諸事御
用留
   作毛  さくもう・さくげ  農作物 またはその出来具合。  
   鮭御役銀  さけおやくぎん
 「柏崎町御手鑑下帳」-貞享2年(1685)には家数806、寺39、人数6161人、出稼人149、馬51(うち宿場役馬24)、牛9。漁労を主生業とする納屋町には大小の廻船12隻、猟船25隻あり、各々役銀を納めるほか「鮭5尺の役銀も納める」とある。
※白川風土記の鵜川橋の項に、「黒姫山の下、折居村より出で申し候、鮎、□、その外色々の川魚取り上も取り上げ申し候」とある。
 
   鎖国  さこく
 1639(寛永16)の南蛮船入港禁止から1854年(嘉永7)の日米和親条約締結までの215年の期間を鎖国と呼ぷ。しかし「鎖国」という用語が使われたのは明治以降で近世では制度としての「鎖国」はなかったという見方が一般的である。
 江戸時代、長崎でオランダや中国との貿易は行われ、その他、薩摩や対馬や松前でも貿易が行われていたことから、当時の実態に即して表記するとしている。
 ちなみに、幕末に開国を主導した井伊直弼は鎖国のことを「閉洋之御法」と呼ぴ、籠城のようなものとの認識をもっていたといわれている。
 2017の小学校指導要領の改訂では「鎖国」は「幕府の対外政策」と改められるとのことである。
参考文献 ウェキペディア
 
  左候得バ  さそうらえば  そのようであれば。 そうしたならば。  
   笹板  ささいた  屋根を葺くための薄い杉板。   石黒では「コバ」と呼んだ。  石黒の民具-コバ作り道具
   大角豆  ささげ  
ササゲ  (野菜)
 
     さし
木造建築で,上階と下階の境界に用いる横架材。柱を連結し,上階の床梁を支える役目をする。石黒の昔の茅葺屋では一般にケヤキの幅広い材がつかわれ漆を塗り室内部の装飾的な価値もあった。
 サシと定家柱
   差・指
 さし  動詞の上に付けて強調したり語調を整えるための接頭語で差出・ 差加・差発(さしおこる)・差上置・差急など。
 
   差合  さしあい  
差支え。 差支 。 支障。
 文例- 恐れながら書付を以って願い上げ奉り候
   差綺  さしいろう  干渉する。争う。
   差置   さしおく  
放っておく。 無視する。 逗留する。 置く。
 
   差起   さしおこし
 かやぶき屋根の修理。※石黒では腐食の著しい所にはカヤを差して修理したことから、こう呼ばれたものであろうか。
 石黒の昔の暮らし-屋根普請
   差重  さしおもる  病気が重くなる。 目方が重くなる。  
   差構  さしかまえ  差支え。 さまたげ。 干渉。  
   差紙・指紙  さしがみ  
訴訟関係者に召喚するために出される命令書。
 
   差越  さしこす
 手順を踏まずに行うこと。他を指し置く事。送ってよこすこと。
 
   差添  さしぞい  
人を助け守るために付き添うこと、またその人。つきそい。さ しぞえ
 
   差詰まる さしつまる   
行き詰まる。金や品が足りなくて困る。
※→借金証文に「年貢に差し詰まり・・・」などと使われる言葉
 
   差引  さしひき  
指図すること。  指示すること。過不足を計算すること。
 
   佐州 さしゅう
佐渡国の異称。
 
   座席(明治時代学校) ざせき 
明治時代の日本の学校教育では、学業成績による順位が重視され、教室の座席も成績順で決められることが多かった。
 
 
   左候得者  さそうらえば  そうであれば。 そうしたならば。  
   沙汰  さた
 物事の善悪・是非などを定めること  裁定または、裁決・ 裁判、決定したことなどを知らせること。通知・命令・指示
 
      さだめ  
きまり、掟、江戸時代に幕府が発した法令規則。高札書上に「定」と書かれる。
 定-石黒村庄屋古文書
   皐月 さつき   
5月の異名の一つ。
 
  査当   さっとう・さっと 違法行為や過失をとがめること   →非難・糾弾   
   さて
 「さて」、「ところで」と同意味であろう。 文献によれば日本語の「さて」を表す文字として、「撦」→「奢+扌」が用いられたが、のち誤って「偖」の字となったと言われている。
※筆者は高校生の頃、夏目漱石の「文学論」か「文学評論」-自分には読解不可」でこの言葉に出会い、その後、手紙文などで得意になって使った時期があり、今にして思うと恥かしい限りである。出所場所は、難解で三分の一も読めなかったので書き出しに近い部分であろう。
 
  佐藤が池  さとうがいけ  
 柏崎市佐藤が池新田にあった灌漑用水池。
 当時の池の周囲は湿地植物の種類に富み、タシギ・コサギ・アマサギアオサギダイサギチュウサギを・カルガモマガモコガモはじめ渡り鳥の宝庫であった。
 現在、野球場・テニスコート・サッカーコートに駐車場を備えた計54haの佐藤が池運動広場が作れらている。
 池は昭和59年には湛水面積1.7ha・受益面積24ha・貯水量1.7㎥・堤長300mに縮小された。
 
   佐藤が池新田   さとうがいけしんでん   
明治22年鏡里村の大字となる。明治34年に田尻村。昭和30年からは柏崎市の大字。
※石黒村の門出村との入山争議の扱い人として佐藤が池村 庄屋の新吾という名前が見られる。→右文書参照
 
出入り内熟済み口絵図表書き証文の事
   座頭  ざとう  
あんま・はりを生業とした盲人。元の意味は琵琶法師の座の頭。
 
   里方  ざとかた  
嫁や養子などの実家。また、その親類。
 
   佐渡国   さどのくに  現在の新潟県佐渡島全島。慶長6(1601)年より幕府直轄領。  
   里蝋  さとろう  
主にハゼ、ウルシの実を指すものと思われる。 対語→山蝋
文化8年御割付 帳写-石黒村
  讃岐国   さぬきのくに  現在の香川県。  
   差配  さはい
とりあつかうこと 世話をすること。 また、指図することまたはその人。  差配人
 
   鯖石川 さぱいしがわ 
 →石黒の地形-鯖石川
 
  鯖石組  さばいしぐみ  
高田藩時代の刈羽郡の支配組織の一つ。柏崎町・小国西組・小国東組・枇杷島組・上条組・鯖石組・藤井組にへ分けられていた。
鯖石組は、比角村・長浜村・半田村など70以上の村数があつた。
 
※石黒は上条組に属していた。
 
   佐幕   さばく
幕末期に反幕勢力たる勤王派に対して幕府政策を擁護する勢力。幕臣および譜代大名が中心であった。
 
   佐橋(鯖石)庄  さばしのしょう
鎌倉期から戦国期にかけて、柏崎地方には三つの荘園があったとされる。その一が佐橋荘で鯖石川の流域にあったものとされている。他には比角荘、宇(鵜)荘があるが、これら何れも、白河・鳥羽上皇院政時代に寄進された荘園とされる。領主は白河上皇の内親王の御所名であるが後に歴代上皇に伝承されていく。そうして南北朝期には万寿寺(前六条院)領となっている。
 その後、室町初期には毛利氏が幕府から佐橋荘の地頭に補任される。毛利氏は、鎌倉幕府公文書別当大江広元の四男経光(すえみつ)に始まる。経光は安芸(広島県)吉田荘と越後佐橋荘の地頭職を得て南条に居館を構え定住した。その後一族から安芸毛利が派生するが越後の毛利は北条城を要害として北条に居館を移し、佐橋荘一円の在所を支配する豪族となり北条氏を名乗った。
戦国期11代北条丹後守高広は謙信軍団の一翼を担い、関東経営の先鋒として永禄6年(1563)厩橋(群馬県前橋)城代に任ぜられた。
 御館の乱では上杉景勝に反したため天正7年(1579)赤田城主斎藤氏等に攻められ高広の子景広が守る北条城は落城した。その結果、佐橋荘は斎藤氏をはじめ、景勝の臣下に分与された。
「白河風土記」によれば、佐橋荘を称する村は計28カ村で、現在の高柳町を含む鯖石川
岸谷筋及び平野部の両岸村々と東部の山沿いの村、長鳥川全流域及び別山川の一部含むとされている。
※室町時代の北条毛利氏の動向は史料がなく不明の点が多いとのこと。
 
   紗綾  さや
 平織り地に、稲妻や菱垣あるいは卍などの模様を斜文織りで表した光沢のある絹織物。中世末ごろから江戸初期にかけて多く用いられた。
 
    去丑  さるうし   前の丑年。  
   猿楽  さるがく  
平安時代に成立した日本の伝統芸能。江戸時代までの能の呼称、また、狂言とともに能楽(のうがく)と総称されるようになったのは明治以降。
柏崎を舞台とした能「柏崎」は、榎並左衛門五郎の作を世阿弥が改作したものとされ広く知られている。
※能楽 
「柏崎」
作者 原作:榎並左衛門五郎
改作:世阿弥
場所 前場:越後国柏崎
後場:信濃国善光寺

※現在も銕仙会で上演されていて、今年(2018)は、9月14日に東京銀座の観世能楽堂で上演される予定
 銕仙会
    然方・然る方  さるかた  
 しかるべき所。そういう方面。
 
   去り状 さりじょう  
離縁状、暇の状、三行半(みくだりはん
)などとも呼ばれた。「去り状一札の事」などの表題で現存するものも多い。また、江戸時代には、原則としては離別の権利は夫のみにあった。(儒学の影響下の慣例であろう)
 しかし、実際には妻が夫に書かせた離縁状もあったであろうと推察される。のみならず、妻の名義で書かれた離縁状も希には見られるとのことである。
 ちなみに、離婚の場合は嫁婿の持参金は5割の利息をつけて返還する決まりであったとこと。
 
   三ケ一  さんがいち  
三分の一のこと。 
※石黒では日常語として使われていた
 
   参勤交代  さんきんこうたい
 各藩の藩主を原則として1年交代で江戸に出仕させる江戸幕府の法令のこと。
 江戸時代,大名が一定期間交代で江戸に参勤した制度。1635年の武家諸法度改定により制度化された。幕府のが大名統制策の一つで戦国大名の行なった城下在番と人質徴収の政策に取入れ、制度化したもの。
 この制度による諸大名の地方割拠の形成を抑制する効果は絶大であった。また、交通の発達や文化のみならず経済の全国的な交流をうながすなど各方面に大きな影響を与えた。
参勤交替、参覲交代、参覲交替
 
   三卿  さんきょう  
 江戸時代、将軍家一門である、田安・一橋(祖は8代吉宗の次男・4男)・清水家(祖は9代家重次男)のこと。御三家の次席にあたるが、
御三家が大名であるのに対し三卿はいわば将軍家の家族であって分家独立したものではない。 8代将軍吉宗の時代に創設される。
 
   参宮  さんぐう  
神社、とくに伊勢神宮に参拝すること。
 
   参事  さんじ  
参事官は、明治期から日本の行政機関にみられるポスト。待遇は、今日の参事官が多くの場合課長級であった。
   三条御坊  さんじょうごぼう 真宗大谷派の三条別院のこと。浄土真宗の宗派のひとつである「真宗大谷派」は、全国をいくつかの「教区」に分け、それぞれの寺院を運営している。新潟県中越・下越・佐渡地方をまとめた教区を「三条教区」と呼び、それらの中心となって運営に当たる寺院が「三条別院」です。   覚-三条大地震(石黒資料館文書)
   三条地震  さんじょうじしん
 三条地震(さんじょうじしん)とは、文政11年11月12日(1828年12月18日)に、新潟県三条市付近で発生した地震である。想定される震央は、北緯37.6度、東経138.9度(三条市芹山付近)と推定され、想定されるマグニチュードは6.9と推定されている。
 当時の記録によれば、朝五ツ時上刻(およそ午前9時前[1])に発生したとされる。現在の新潟県三条市、燕市、見附市などで、現在の震度7相当の揺れがあったと推定されている。「越後三条地震」または「文政三条地震」とも呼ばれる。なお、ほぼ同じ位置で、1670年寛文西蒲原(四万石)地震が発生している。
 全体で全潰12,859軒、半潰8,275軒、焼失1,204軒、死者1,559人、けが人2,666人(『三条市史』)など、被害の実数は出典により異同が多い。
いち早く発行された瓦版は、「弥彦山は大きく崩れ、海の中へ押し出し、三条町・燕町・東御門ぜき御堂・大門など残らず揺り倒れ、田畑・山川が崩れ、人馬・けが人はその数知れず、余震が十四日まで頻発した古今稀なる大地震」と報じたという。
 地震当日の三条は、二・七の市が三ノ町(現在の三条市本町5丁目。以下同)で開かれていて、早朝からかまどに鍋をかけて煮炊きをしている最中に揺れは襲い、大町(本町2丁目)・三ノ町・四ノ町(本町5丁目)・五ノ町(本町6丁目)、隣の裏館村など13ヶ所から火の手が上がった。その火は瓦礫と化した家屋に次々に燃え広がり、町全体を覆った。三条町では、1,742棟のうち1,202棟(約70%)が全潰した。

※1964年(昭和39年)の新潟地震で注目された「液状化現象」が、三条地震でも発生していたことが最近の調査でわかってきた(三条城址遺跡:三条市元町、石塚遺跡:三条市茅原)。当時の文献に砂・水の噴出した記録が残っており、地質調査でもそのことが裏付けられている。液状化現象はかつて河道であった箇所で多く発生している。

()ウェキペディアより
 
 覚 (三条地震関連 石黒地区資料館文書) 
   三千世界  さんぜんせかい
仏教において、一人の仏が教化する世界のことであり、仏教の世界観における全宇宙のこと。仏教の世界観では、須弥山を中心として日・月・四大州・六欲天・梵天などを含む世界を一世界(または小世界)とし、一世界が1000個集まったものを小千世界といい、小千世界が1000個集まったものを中千世界といい、中千世界が1000個集まったものを大千世界といい、これらを総括して三千大千世界という。
(
ウェキペディア)
 
   三草   さんそう
 江戸時代に栽培された特に有用な3種の草。 麻、藍、紅花、又は
麻、藍、木棉「農業全書」には三草の類として次の11種が挙げられている。木綿・カリヤス・麻・・たばこ・麻・・藍・席草(イまたはウキヤガラのことか?)・紅花・菅・アカネ
 
    三尊  さんぞん     主君・父・師。   仏・法・僧。  本尊と二脇待の菩薩。  
   参内  さんだい  朝廷へ出仕すること    
   散田  さんでん  
百姓の死亡・逃散などによって耕作する者がいなくなった田地  荒廃した田地。 こうした場合は荒れた田に課せられた年貢を肩代わりを五人組または村がすることになっていた。
 
   三島郡  さんとうぐん   
 かつては三島郡の地域は古志郡の一部であったが、中世に信濃川左岸が分離して山東郡(さんとうぐん)と呼ばれるようになり、近世(江戸時代)初期には三島郡と表記するようになった。そのため西古志などと呼ばれることもあった。なお、三島郡が古志郡から分離される以前は、現・刈羽郡が三島郡(みしまぐん)と呼ばれていた。
 慶応4年、戊辰戦争で新政府軍が桑名藩の陣屋がある刈羽郡柏崎を制圧し幕府領・旗本領・桑名藩領が柏崎県(第1次)の管轄となる。
 明治元年 9月22日、会津戦争で会津藩が新政府軍に降伏して領地を没収され、領地が柏崎県の管轄となる。
明治2年 2月22日(1869年4月3日) - 再度柏崎県を廃止する布達が出され、越後府(第2次)に合併。
 8月25日(1869年9月30日) - 旧・柏崎県の管轄地が柏崎県(第2次)の管轄となる。
明治4年 7月14日(1871年8月29日) - 廃藩置県により藩領が与板県、上山県の管轄となる。
 11月20日(1871年12月31日) - 第1次府県統合により全域が柏崎県の管轄となる。
明治12年(1879年)(4町223村) 4月9日 - 郡区町村編制法の新潟県での施行により行政区画としての三島郡が発足。郡役所を与板城下に設置。
          
(以下中略)
 大正12年(1923年)3月31日 - 郡会が廃止。郡役所は存続。
 大正15年(1926年)6月30日 - 郡役所が廃止。以降は地域区分名称となる。
 昭和9年(1934年) 4月1日 - 関原村が町制施行して関原町となる。(4町17村)
11月1日 - 脇野町村が町制施行して脇野町となる。(5町16村)
 昭和22年(1947年)11月3日 - 片貝村が町制施行して片貝町となる。(6町15村)
 昭和23年(1948年)4月1日 - 深才村の一部(本大島・岡村古新田および北山古新田の一部)が長岡市に編入。
 昭和29年(1954年) 5月1日 - 深才村が長岡市に編入。(6町14村)
11月1日 - 日越村・王寺川村が長岡市に編入。(6町12村)
 昭和30年(1955年)3月31日(7町6村) 脇野町および大津村の一部(蓮花寺・中永・逆谷・上条・気比宮・藤川・宮沢)が合併して三島町が発足。
 与板町・黒川村および大津村の一部(槇原・山沢)が合併し、改めて与板町が発足。
桐島村・島田村が合併して和島村が発足。来迎寺村・岩塚村・塚山村および古志郡石津村が合併して越路町が発足。片貝町が小千谷市の一部(鴻巣町)を編入。
 昭和31年(1956年) 3月31日 - 片貝町が小千谷市に編入。(6町6村)。9月30日(6町4村) 宮本村と大積村が合併して二和村が発足。日吉村の一部(七日市・鳥越)が三島町、残部(雲出)が関原町に分割編入。
 昭和32年(1957年) 6月20日(6町2村) 出雲崎町・西越村が合併して出雲町が発足。即日出雲崎町に改称。越路町が刈羽郡千谷沢村の一部(菅沼・小坂・袴沢)を編入。
大河津村の一部(馬越)が与板町、一部(馬越・野中才・五千石・大川津を除く)が寺泊町、残部(野中才・五千石・大川津)が西蒲原郡分水町に分割編入。10月1日 - 関原町が長岡市に編入。(5町2村)
 昭和33年(1958年)1月1日 - 和島村が出雲崎町の一部(高畑)を編入。
 昭和35年(1960年) 4月1日 - 与板町の一部(成沢)が長岡市に編入。
9月1日 - 二和村が長岡市に編入。(5町1村)
 平成17年(2005年)4月1日 - 越路町・三島町が長岡市に編入。(3町1村)
 平成18年(2006年)1月1日 - 与板町・寺泊町・和島村が長岡市に編入。(1町)

(ウエキペディア引用)
 
   三分の一銀納  さんぶんのいちぎんのう  
年貢の三分の一を銀納、残りを米納にすること。 
三分の一金納
 与板御引渡後諸事御
用留
    残米   ざんまい   
残米とは、口屋番・蔵番など郡中在住の役人に、翌年6月払い切りで村方から直接給付することになっていた扶持米分のこと。つまり、これは藩が年貢徴収に努めたが「残ってしまった米(未進米)」ではなく、わざと現地に「残した米」であり、口屋番・蔵番など郡中在住の役人に、翌年六月払い切りで村方から直接給付するもの。
御残米
 御廻米本欠諸賃仕訳帳-石黒村控
   山門・三門  さんもん
寺院の門を「山門」と呼ぶのは、もともとお寺が山に建てられていた事による。(高野山・ 比叡山延暦寺など等)現在、また、三門というのは「三解脱門(さんげだつもん)」の略語。
※善光寺の山門は、高さ、間口は約20メートル、奥行きが約8mの大きさ。

 弘化4年 大地震(善

光寺地震)
   三役  さんやく  
村方三役。  村役人すなわち名主(庄屋)、与頭(組頭)、百姓代(小前惣代)。  
地方三役(じかたさんやく)
幕府領では、御伝馬宿入用、六尺給米、御藏前入用の3税を三役と呼ぶ。

 
   山論 さんろん 
 山林原野の利害関係をめぐっての争いや裁判。→石黒村と門出村との入山争議
 差し上げ申す一札の事
      しいな  
籾や穀物の不成熟のもの。       
 石黒の民具-トウミ
   椎谷陣屋跡   しいなじんやあと  
史跡→
椎谷陣屋跡
 
   シーボルト  
ドイツ人。オランダ商館付医官として1823(文政6年)来日した。長崎の鳴滝塾で多くの門人に西洋医学、博物学を伝授した。日本における科学的調査は、シーボルトに課せられた任務でもあったが個人的関心もあった。門人に日本に関するオランダ語論文の提出を課すなど、様々な方法で広い分野の調査研究、とくに動植物などに関する資料を収集した。その成果は「日本」「日本植物誌」「日本動物誌」等にまとめた。
日本地図持ち出しなどで国外追放になったが、1859年(安政6)には再来日している。1827年文政10)には日本人の妻、楠本滝と結婚。
 
   椎谷町
(椎谷村)
 しいやまち
 江戸時代から明治22年の呼び名。
 かつて新潟県刈羽郡にあった町。 1889 年(明治22年)4月1日の町村制施行に伴い刈羽郡椎谷町が町制施行し、椎谷町が発足。 1901年(明治34年)11月1日 刈羽郡宮川町と合併し、高浜町となり消滅する。
〇支配
 慶長3-12  堀氏 春日山藩  慶長12-15 堀氏 福島藩
 慶長15-19 松平氏 高田藩 慶長19-元和2 松平氏 高田藩
元和2-幕末 堀氏 椎谷藩
〇石高
正保 239石余
元禄 260石余
天保 284石余
 天明7年から寛政2年の天明義民騒動は、前納金を中心とする藩の悪政に対し庄屋層を中心にした領民が幕府評定所に訴えたもので遠流・死罪などの犠牲者も出したが、寛政2年領主は隠居、信州の一部と領地替えとなった。
 嘉永4年には海岸整備のため台場設置。
戊辰戦争では政府軍につき幕府側の放火に遭い、陣屋、役所、士族家屋、民家が焼失。明治4年士族長屋建設。旧藩主鄭は椎谷学校として高浜小学校設立まで使用される。
 寺院は真言宗花蔵院とその境外仏堂の観音堂、西禅寺、不動堂。神社は石上社、香取社、諏訪社。

  参考文献-ウェキペディア・柏崎市史
 
   椎谷藩  しいやはん
  藩祖は名臣として名高い堀直政の四男・堀直之である。元和2年(1616年)7月、直之は大坂の陣による軍功が認められて、越後国沼垂郡に5500石を与えられ、椎谷に陣屋を置いた。直之の後を継いだ堀直景の時代、関東の地に1万石を与えられ、大名となった。元禄11年(1698年)、第4代当主・堀直宥が越後の沼垂・三島・蒲原三郡内において1万石を領し、椎谷に居住したのが正式な椎谷藩の始まりである。歴代藩主は江戸定府だった(江戸時代初期、幕府は現在の刈羽郡(旧三島郡)を沼垂郡と呼んでいたことがあり、ここでいう「沼垂郡」とは刈羽郡のことである)。

 椎谷藩では第8代藩主・堀著朝の頃になると財政が逼迫した。このため、領民に厳しい御用金や米祖前納金などを命じた。ところが著朝は病弱で、分家の堀直基が実際の政務を代行する。直基は天明の大飢饉が起こったことによる米価の高騰を背景にして、蔵米を競争入札にかける。これに激怒した百姓たちが騒動を起こし、天明義民事件に発展した。この事件は数年間にわたって農民の直訴と藩の弾圧が繰り返され、遂には幕府の裁定を仰ぐに至った。幕府は5回に及ぶ評定の結果、寛政4年(1792年)に藩主・著朝の隠居と嗣子として三河西尾藩主・松平乗祐の七男・堀直起を擁立すること、領地5000石の半知替え処分が下された。このとき、信濃国高井郡六川村に六川陣屋が設けられている。

 その後、藩内では藩政改革なども行なわれた。しかし嘉永4年(1851年)、家老の斎藤八百四郎による藩主・堀之敏暗殺未遂事件が起こるなど、藩政は常に不安定であった。明治元年(1868年)の戊辰戦争において、椎谷は北越戦争における激戦の舞台となり、戦禍による甚大な被害を受けた。翌年、藩主・堀之美は版籍奉還により椎谷藩知事となり華族に列した。そして明治4年(1871年)の廃藩置県により椎谷藩は廃され、椎谷県が置かれる。藩主家は明治17年(1884年)の華族令で子爵に叙されている。

 
ウェキペディア・柏崎市史

 
   仕置   しおき
刑罰に処すること。特に死刑にすること。 取り締まって秩序を保つこと。
 
   地押  じおし  
田畑の等級や石盛は従来のままとし、反別を測量して修正すること。地押さえ。地詰め
 
   師家  しけ  
元来は禅宗で修行僧を指導する力量を具えた者をさす尊称。 明治の布告に見られる師家は私塾における先生。指導者のことであろう。  
師家と弟子
 
 地方  じかた
農山漁村の経済、法律、産業、民生慣習などをまとめた総称、狭義には田畑の諸租税法、諸帳簿の取り調べ、河川道路の改修などの村の一般事務を指す。    
町方に対して村方を表わす。   地方三帳
 
   地方三帳  じかたさんちょう  
成箇郷帳または取箇郷帳年貢割付(免状・免定)・年貢皆済目録の三つの書類。なお、呼び方としては、それぞれに「御」をつけた。
 
  地方三役   じかたさんやく  三役  
   地方知行  じかたちぎょう  江戸時代、旗本御家人の俸禄として土地を与えられること。また、その土地を知行所と呼んだ。
対語→蔵前知行
 
   地方文書   じかたぶんしょ
 江戸時代、村において行政上の必要から作成された文書・記録類。この時代には村単位に大量の文書・記録類が作成され、旧名主・庄屋など村役人を務めた旧家などに保管されて今日に伝えられている。
 
 然ば しからば  
それならば、そうであるならば、だから。

 
   然らば  しかれば
 さて。ところで。

※書簡ではこの言葉から以降に要旨が書かれている。
 文例→書簡-石黒村庄屋宛て
   雖然  しかりといえども  そうではあるが。  しかし。   そうはいっても。  
   然ル所  しかるところ  ところが。しかし。  
   可然哉  しかるべきや  それてよいだろうか。  
   祠官  しかん
 
神社の祭礼・社務に携わる人。かんぬし。神官
 
   直売   じきうり  
生産者が問屋を通さずに消費者に売ること。  
対語→直買
 
   直小作   じきこさく  
質入れした者が質入れした田畑を小作すること。
 
   直参  じきさん  将軍直属の家臣で禄高が1万未満の旗本・御家人。  対語→陪臣  
   直訴  じきそ  
通常農民が訴える順序は名主→代官→郡方奉行(こうりがたぶぎょう)→家老→藩主→老中→将軍であるが、この決まりを無視して直接、奉行所や将軍や藩主の行列に直接訴えること。  越訴
 
   仕来り  しきたり  
慣例。 先例。 これまで行って来た。
 
  直判   じきはん  取次者の署名がなく差出者が直接押し印して相手に渡した文書。  
  式部大輔  しきぶたゆう  
日本の律令制の官職の1つで、式部省の式部卿に次ぐ地位。
 
   試業  しぎょう  
課業について確かめてみる事。 学業や業務についての試験。
(明治初期の学区制、小学教則などにこの言葉が見られる)
・ 小学教則 
   執行  しぎょう・しゅぎょう  命令を実行すること。  命令をつたえること。 神事祈祷をすること。  
   地形  じぎょう  
家屋を建てる時に地を堅くすること。 地突き  石黒ではイシバカチと呼んだ。
 
   試業  しぎょう
 明治学制・教則で使われている進級、専門学校等の入学試験のこと。
・ 小学教則
  私曲   しきょく  
不正な手段で自分だけの利益をはかること。  利己 心があって正しくないこと。
 
   仕切金   しきりきん  
売主が買主から受け取る金額の総額。  仕切→決算
 
   仕切書   しきりがき・しきりしょ  
売買の決まった商品の受け渡しの際に数量や品質を確認したうえで商品名や代金を詳しく書いた書類。  
仕切状
 
   地組  じぐみ  
村の中をいくつかに分けた組。  物事の基本。
 
   師家  しけ  
学徳あって師としてふさわしい僧。 老師。 江戸時代の寺子屋の教師の呼び名。
 
   四公六民  しこうろくみん  その年の収穫米の4割を年貢、6割を百姓の所得とすること。  
   而して  しこうして
そして。それに加えて。 
※中世では→しこうじて
 
   四国八十八か所  しこくはちじゅうはちかしょ  
四国にある弘法大師(空海)にゆかりのある88か所の寺院の総称で、四国霊場の最も代表的な札所のこと「八十八箇所」ともいう。
 また、そこを巡拝することを「四国巡礼・四国遍路・四国巡拝」などと呼ぶ。
 近世の通行手形に見られる旅の目的に四国八十八か所が多く見られる。
 往来一通の事(
    時刻法  じこくほう  時刻法には定時法と不定時法があったが、江戸時代には不定時法が用いられた。朝明け方を六ツ(明け六ツ)として、日没頃を暮れ六ツとして、昼夜の境目とした。そうして、明け六ツから暮れ六ツの間、および、暮れ六ツから明け六ツまでの時間を6等分して一刻(いっとき)とした。正午と午前0時の九ツから、ほぼ2時間ごとに「いっとき」ずつ減らして10時ごろには「四ツ」となり、さらに進むと九ツとなる。
 しかし、夏季と冬季の昼夜の長さが異なるため。一刻の長さが変化することになる。そこで二十四節気ごと、つまり半月に一度くらい明け六ツと暮れ六ツの時刻を調節する習慣になっていた。その後、西洋から時計が伝わり、それを不定時法の時計に改良したのは延宝元(1673)頃とされる。そして、この時計をもとにして鐘や太鼓で時を知らせたのであった。
 また、一日を12等分して十二支に対応させて呼んだり、さらに一刻を4つに区切り1刻~4刻と呼んだ。「丑三つ時」などの呼び方がそれである。この時刻法は元々は定時法をもとにしたものであるが庶民はこれを不定時法的に使ったのであった。
  →図解参照
 時刻の指定のある文書例-石黒村居谷文書
   自今  じこん  
今後。  今よりのち。   自今已後 自今以後  自今以来  
 
   信濃国  しなののくに  現在の長野県。  
   死米  しにごめ
 粒の大部分が粉状質で光沢がなく充実していない不完全米
 
   式目  しきもく  
決められている規則。  もとは中世における法規の集成に対する名称。
 
   死罪   しざい  
 死罪は、江戸時代、罪状に応じて定められたていた6種類の死刑(鋸引き・磔・獄門・火罪・斬罪・死罪)の内の一つ。死罪は、斬首により命を絶ち、死骸を試し斬りにする斬首刑の刑罰のこと。付加刑として財産が没収され、死体の埋葬や弔いも許されなかった。
 
   地境  じざかい  土地の境。  
  嗣子   しし  
家を継ぐべき子。 あととり。 あとつぎ。
 嗣子改籍願之事
   地子  じし・ちし
 室町時代以降,都市の屋敷地に対する宅地税。原則として銭納であった。
 土地の使用料  地子米(使用料の米)   御蔵地子-安永2石黒村指出明細帳
 
  寺社奉行    じしゃぶぎょう  
室町時代から江戸時代にかけての武家政権や江戸時代 の諸藩における職制の1つの宗教行政機関。鎌倉・江戸時代には寺社の領地・建物・僧侶・ 神官のことを担当した。江戸幕府では将軍直属で三奉行の最上位に位置 した。それは、寺社奉行はいわゆる三奉行の1つではあるが、主に旗本であり、老中所轄に過ぎない勘定奉行・町奉行などとは別格であったからである。
 
   時宗  じしゅう  
鎌倉時代末期に興った浄土教の一宗派。開祖は一遍。総本山は神奈川県藤沢市の清浄光寺(遊行寺)。また、開祖とされる一遍には新たな宗派を立宗しようという意図はなく、その教団・成員も「時衆」と呼ばれた。一遍亡き後、彼が率いた時衆は自然消滅したが、後に門弟の他阿真教によって再結成された。近世に至り、江戸幕府の意向により、様々な念仏勧進聖が一遍の流派を中心とする「時宗」という単一の宗派に統合された。

※宝暦11年の御巡幸に付き覚書によれば、柏崎町には寺数40ケ寺の内、地宗は2ケ寺とある。(市史資料9-71)
 
   止宿 ししゅく   
宿泊まること。
 
   私塾   しじゅく  
私設の教育機関。近世では有名な儒者たちが開設した私塾は教育機関として重要な役割を果した。明治維新のころにも、漢学塾、洋学塾など多くの私塾があったが、近代学校制度の発達とともに改編され、その中に吸収された。
 私塾は、知名度の高い知識人の元に、教えを請う人が集まり、自然発生的に出来た学校のような形が一般的で成人が入学する私学。子どもたちを対象した寺子屋とは区別される。教育内容は儒学を教える私塾もあれば、本居宣長の国学を教える私塾、または、福沢諭吉が学んだ緒方塾のように西欧医学や西欧文化を教える私塾など色々なものがあった。    ※藍沢南城 三餘堂
 
   次序  じじょ
順序をつけること。
 
   祠掌
 ししょう  
府県社および郷社では社司の下に置かれ、村社・無格社では一切の社務を司った。
 
   時鐘  じしょう
時刻を知らせるために打ち鳴らす鐘のこと。  
時の鐘。 
 
   治定  じじょう  
決定すること。たしかに定まること。
 
   師職 ししょく
御師(おし・おんし)の職のこと。→御師
 
   時辰儀 じしんぎ 
時計の古い呼び名。
 
 
   自身番  じしんばん  
江戸市中警備のために町の四ツ辻に置かれた町内持ちの番所で町内家主が交代でここに詰め町内の出来事を処理した。
 
   時節柄   じせつがら  
このような時期。 このような状況の中。
 
   地蔵(地蔵菩薩)  じぞう(じぞうぼさつ)
 地蔵菩薩は、釈迦が亡くなってから弥勒菩薩が現れるまでの無仏の間、すべての生き物を救うために現れた菩薩といわれ、道端などに多く祀られた地蔵様のこと。
 「地」つまり大地のような広大無比の慈悲をもって生きるものたちを慈しみ救って下さる菩薩(神)として昔から信仰されてきた。
 像は出家僧の姿が多く、子どもを抱いた姿、子どもと並んだ姿の像なども多い。これは道祖神と習合したため、その姿も多様となり日本全国の路傍に多く祀られたのであろう。
 
石黒でも大野と下石黒の道沿いや居谷入口にあった親子地蔵地蔵峠の峠の地蔵様(身代わり地蔵)など子どもの頃から慣れ親しんだ地蔵である。
※石黒の伝説→身代わり地蔵
 
   下草銭   したくさせん
 御料、私料の山林・原野の草を刈ること許可された村や百姓が納める税の一つ。
 
   下作  したさく  地主から土地を借りうけて耕作すること  小作  
  下帳   したちょう  
古文書字典・国語辞典では見当たらないが、下書き、または控え帳の意味であろうか。→例 石黒村切支丹人別・家別・五人組御改下帳
 
   下直  したね
 →げじき(下直)  
   地中 じちゅう
 有力寺院の境内にある小寺庵で,本尊・本堂を有する独立寺院の形態をもつが,本坊 に従属し,法務を補佐する役割をもつ寺。東日本に多くみられ、 地域により「前寺、脇寺」などの呼称がある。
 
   質地証文  しっちしょうもん  金銭貸借の担保として入れた田畑、屋敷などの質入れの証文。この担保の大半は質流れとなり貸主の金持ちや地主のものとなり、大地主が成立した。
 新潟県では大正時代1000町歩以上所有の大地主は現在の北方博物館など5軒あったという。
 宝永4年(1707)10月令に田畑を質にして金子を借りることを停禁としている。従ってこの後に田畑質入証文があればその年代にはこの令が解除されたものと見てよいであろう。
 
   質入値段  しちいれねだん  
その品物や田畑を質入れする時の値段。
 
   質入奉公人  しちいれほうこうにん  
借金の利子にあてるために出す奉公人。
 奉公人質入れ証の事
   質手形  しちてがた  
質入れ主から質屋などに差し出された証文。  →
質物証文
 
   質物  しちもつ  
質としして預ける品物。   
質物証文
 
  地中   じちゅう  
本寺に付属して境内にある小寺。前寺ともいう。
 
  十干   じっかん  
甲・乙・丙・丁・戊・己・庚・辛・壬・癸の10の要素の順列。古代中国でうまれた数字のようなもので、10日を1区切りにするという考え方。その後日本にも伝わり1か月を10日ずつに分けて上・中・下旬と言い方をする。
 またの
十二支と合わせて干支→かんし、または干支→えとと呼ばれ暦の表示などに使われている。
 
   実々  じつじつ  
まことに。実に。
 
   実正  じっしょう  
間違いない事実。 真実。
 
   地詰  じづめ  
江戸時代、田畑の等級・高・石盛は従前どおりとし、単に反別を丈量して広狭を改め、修正すること。→ 地押地坪(じならし)
廻文写し-善根村発 
    実以  じつもって   
実に。  甚だ。
 
   仕当   しとう・しあて
期待した結果にかなうこと。思い通りの好結果を得ること。(※辞書にはないが文例から考えておおよそ、このくらいの意味であろう)
 
  地頭   じとう   
もともと、地頭は鎌倉幕府・室町幕府が荘園・国衙領(公領)を管理支配するために設置した職。地頭職のことで守護とともに設置された。
 江戸期においては、知行所をもつ幕府の旗本や御家人といった大名に至らない小領主のことを指す。
また、私領の領主の命令で、その土地を管理して徴租税の役にあたった藩士のこと。藩によっては代官を随時派遣してこれにあてたところもある。
地頭所  地頭役所  地頭屋敷
 
   歯徳   しとく  
年齢と徳行。 年長で徳が高いこと
 
   品ニ寄  しなにより  
事情により。  場合により。  
依品 
 
   信濃国  しなののくに  現在の長野県。  
    信濃川掘割入用  しなのがわほりわりにゅう
明治元年に未曾有の大洪水が発生し、新発田藩ら6つ の藩が越後府に分水事業を建白し、明治2年に国は大河 津分水路第一期工事に着手した。
この時の工事の負担金のことであろう。
※右の石黒村文書は年月日に未とあることから明治4年のものであろう。
・記-掘割人夫
(ここでの人夫とはこの工事に関するものであろう)
 記-柏崎県庁発行文書
   死米 しまい・しにごめ   白く乾燥して品質の劣る米。
※昭和の頃まで、「死米-しにご」は石黒では普通に使われていた」
 
   地祭  じまつり  
地鎮祭のこと・
新建手板図 
     しば  
山野に生える低木。昔の石黒では主に薪(たきぎ)として使われた。また、茅葺のナルや川の堰を作る材料としても使われた。 →柴木
※石黒では「ボイ」と呼んだ。 石黒で薪として使われた低木は、オオバクロモジタニウツギツリバナツノハシバミマルバマンサクオクチョウジザクラ・ リョウブサワフタギタムシバミヤマカワラハンノキヤマモミジどがあげられる。
 昭和30年代までは木が唯一の燃料であったので山腹の樹木を数年間隔で切り取ったので、低木のみならずブナコナラミズナラなどの高木も脇芽が成長したものを低木とともに切り取った。
参考資料→四季の農作業₋春木
 
      しば  
堆肥の肥料にするイネ科の植物。
 
   支配  しはい  
地域や組織を統治すること。差配すること。 
※小作支配仕り    仕配
 ※高反別預かり支配小作証文の事
   芝銭 しばせん   
寛永13年に江戸幕府によって銭座が設置された際に、最初に鋳造された寛永通宝で、古寛永と呼ばれる物の一種。→※資料-寛永通宝
 
   芝地   しばち  
芝草(主にイネ科の植物)が生えている土地。
※石黒村の文書に見られる「芝地」は「柴地→焚き木にする低木のはえた土地」の意味に解読したいが・・・・。
 芝地高
 ※家督相続譲り証文の事(田辺重順家文書)
   支配替   しはいがえ  大名などの支配している所領を変更すること。  
   師範学校  しはんがっこう  
小学校及び国民学校の教員を養成した旧制の学校。明治5 (1872) 年、東京に官立師範学校が創設され、その後、次第に各府県に公立師範学校が設けられた。明治19年(1886)に師範学校令が公布されて師範教育の基礎が確立された。
  また、明治40年(1907)に、「2部」課程が設けられて従前の高等小学校からの進学のほか,中等学校卒業後に入学する道も開かれた。 明治43年には専門学校程度の3年制の官立 の学校に昇格した。
 太平洋戦争敗戦後は学制改革による学芸学部や教育学部設置の母体となった。
 資料→師範学校の創設
   自反  じはん
自己の行為などをみずからかえりみること。自分で反省すること
 
 
   地引帳  じびきちょう 
検地の前に、検地すべき土地の小名、地目、等級、面積、持ち主などを一筆ごとに書き上げて検地奉行に提出した帳簿。
 
   自普請  じふしん  
水路開鑿や瀬直し、道路修理など小規模の土木工事を自村の負担で行うこと。
 
    四壁  しへき   
家の周囲の境界。   四方の壁。
 
   四壁引  しへきびき  
江戸時代、検地を行うときに屋敷の周囲(四方)に一定の余地を与えて、土地面積の測量の対象としなかったこと。→四方引き
 
   事変  じへん  天災などの異変な出来事。  
   自普請  じふしん  
堤防、用水、道路などの小規模の工事を自村の負担で行うこと。
 
   渋海川   しぶみがわ  
自渋海川(しぶみがわ)は、新潟県十日町市および長岡市を流れる一級河川で信濃川水系の支流。
新潟県十日町市浦田の長野県との境界に位置する三方岳に源を発し、東頚城丘陵を穿ちながら北流、十日町市松代地区を過ぎるあたりから激しく蛇行を繰り返し、長岡市下山にて信濃川と合流する。
上中流域に見られる激しい蛇行は、元は平野の中を蛇行していたものが周囲の隆起により山間部を穿つようになったと考えられており(穿入蛇行)、谷底での沖積面(谷底平野)の発達は悪い。流域は地すべり地帯であり、また豪雪地域でもあるため融雪による崩壊も多く、崩落によって形成された山腹の緩斜面に集落や棚田が散在する。長岡市南西部の小国地区では幅2kmほどの盆地(小国盆地)が形成され、まとまった水田地帯となっている。旧越路町の塚山地区で再び山間部を流れた後、飯塚地区から沖積面が広がり始め、信濃川沿いの氾濫原に出て下山付近で信濃川に合流する。
「渋海川奇蝶之図」。『北越雪譜』初編 巻之下(鈴木牧之著、天保8年(1837年)刊)より瀬替え渋海川流域の旧松代町室野地区、松代地区、旧川西町仙田地区など多くの地域では、蛇行した川を、山を削って直線的な流れに変え、もとの流路を耕地にする方法が古くから取られていた。この「瀬替え」によってできた耕作地は、「新田」と呼ばれているところが多い。北越雪譜江戸時代の商人、鈴木牧之の書籍『北越雪譜』には、渋海川についての記述がある。初編『巻之中』には「渋海川ざい渉り」の題で、凍った渋海川の氷が割れて轟々と流れる様を花見の様に観賞した、とあり、初編『巻之下』には「渋海川さかべつたう」の題で、春に何百万の蝶(さかべつたう)が川下から川上へと川沿いに上っていく様が記されている。
支流[編集]
越道川 - 十日町市松之山天水越の天水山や、十日町市松之山天水島の留山ダムを源流とし、十日町市(旧松代町)犬伏で渋海川に合流する。

 参考文献-ウエキペディア
 
   時分柄  じぶんがら  
時節柄。その時分にふさわしいこと。
 
   自分味噌   
じぶんみそ

昔はすべての家で自家用の味噌をつくった。そのため大豆はどこの家でも栽培された。 
※日常の暮らし-自家用味噌 
 
   自坊   じぼう
 自分の住んでいる寺。
 
  四木   しぼく  
・茶の四種の植物。  四木三草
 
  四木三草  しぼくさんそう  
四木→楮(こうぞ)漆(うるし)・茶。   三草→紅花・麻・藍(あい)
 
   始末  しまつ   
事の次第。事情。処理。
 
   島田宿   しまだじゅく  
多くの他の宿と同じ1601(慶長6)年に、東海道の宿駅に定められた。1604(慶長9)年に、大井川の大氾濫により宿が流出し北の方へ移ったが、1616(元和元)年から元の地に復帰し、護岸工事も進められた。
 宿は川越で賑わい、1696(元禄9)年に川越制度が確率してからは旅人も安心して川越ができるようになったが、かつては。「箱根八里は馬でも越すが 越すに越されぬ 大井川」と詠われたほどの東海道における難所の一つであった。(東海道五十三次の23番目の宿場)
 現在の静岡県島田市。大井川の左岸(江戸側)にあるため、増水で大井川の川越が禁止されると、お伊勢詣りなどの江戸から京都方面へ上る旅客が足止めされ、さながら江戸のような賑わいをみせたと伝えられる。
 島田宿
   志摩国  しまのくに  現在の志摩半島東端。  
   地味  じみ  
作物を栽培するための地質の良し悪し。
 
   清水谷村   しみずだにむら   
 明治22年女谷村の大字となる。明治22年の戸数83戸、人口442人。明治34年鵜川村、昭和31年黒姫村、同43年から柏崎市の大字。

 
     しむ  〜させる。   ~し申上げる  
   〆買〆売 しめかいしめうり   値が安い時に買い、子が上がった時に売ること  
      しめて   
「合計して」の意味。主に勘定書(年貢勘定書等)に使用される。
 免割御年貢取立帳-石黒村
   下総国  しもうさ  現在の千葉県北部及び茨城県南西部。   ※江戸時代に葛飾郡西部が武蔵国に移動  
    下宿村  しもじゅくむら
 
 東隣の中浜村とは家続き、西と南は鯨波村、北は海。
明治22年から大正13年の刈羽郡の自治体名。当時の戸数は256戸、人口は1,464人。大正13年柏崎町の一部となり消滅。

※沿革
・1924年(大正13年)8月10日 - 刈羽郡柏崎町に編入され消滅。同町の大字下宿となる。
・1924年(大正13年)11月1日 - 下宿は岬町と改称。
・1965年(昭和40年)10月1日 - 住居表示実施による町名変更により、岬町は番神(鯨波の一部、中浜の一部を編入)と東の輪町(鯨波の一部を編入)の一部となる。
 
   下高町村   しもたかまちむら
 刈羽郡に属す。元和2年長峰藩と旗本安西氏の相給。その後、長峰藩領分は元和4年高田藩領、天和元年幕府領、貞享2年高田藩領、のち再び幕領。
大正末年から昭和初期は出油の全盛時代。割町新田までの砂丘地と水田に開発された油田を高町油田と呼んだ。昭和6年出油井134本をピークに乱掘により漸減し消滅した。
明治29年高町小学校が上高町から移転、昭和54年刈羽小学校に統合され廃校となる。
 
   霜月  しもつき   
11月の異名の一つ
 
   下帯  したおび  
ふんどし。または、腰巻き。
 往来一通の事(三島宿での行倒れ人関連文書)
  下野国   しもつけのくに  現在の栃木県。  
   下機   しもばた  主に麻布・綿布を織る機。  
   下原  しもはら  石黒地内の大野から下石黒の旧道に祀られた親子地蔵から南西に広がる耕地名。村人は「しもっぱら」と呼んだ。この一帯は十数軒の耕地があったが現在(2018年)では小さな棚田を耕地整理をして一人によって耕作されている。地滑り地帯で若干地盤が動き耕作者を悩ませている。  
   下屋敷  しもやしき  大名などが江戸に住む屋敷以外にもつ屋敷。  
     しゃ・うすぎぬ  
紗の衣装の模様の部分だけを平織で織り出した布。生地が 厚くなっている模様の部分が紗の地から浮き上がって見える。
 
   釈迦堂  しゃかどう  
釈迦如来像を本尊とする仏堂または寺院に付せられる名称。
柏崎市では、天保3年(1832)に創建された浄土寺の末庵。とくに、良寛と親交の深かった貞心尼が住んでいた釈迦堂が有名。市内学校町に史跡として保存されている。
 釈迦堂-柏崎市史跡
   勺・夕(勺のくずし字)   しゃく・(夕-せき)     
容積→1石=10升
          1升=10合 
                
1合=10勺 
                     1勺=10才


 (1勺=1升の100分の1、1合の10分の1→約0.018ℓ) 

漢字としては「夕」には容積を表す意味はないようだが、呉音では「ジャク」、漢音では「せき」の読み方が見られる。ただ、古文書では「勺」崩し字が「夕」と酷似するので便宜的に「勺」の字と同意味に用いられているようになったのではないか。(乞う御指導)

免割御年貢取立帳元禄4年 石黒村 
   邪曲  じゃきょく  よこしまで不正なこと。 非道なこと。  
     しゃく  
長さの単位。1尺→約30.3㎝。 6尺→1間(約180㎝)  10尺→1丈 1尺→10寸
 
   尺丈  しゃくじょう  
長さ。寸法。 →
丈尺
 ・覚 縮布寸法についての文書
   尺素   しゃくそ
手紙。書簡。 
 
   地役人   じやくにん  
郡代・代官の下役などで、転任などなくその土地に土着して執務している者。
 
   社家   しゃけ  
代々特定神社の神職や社僧の職を世襲してきた家(氏族)のこと。明治維新後、現代まで世襲している神職家のことをいう。
 
   奢侈  しゃし
 身分不相応に金を費やすこと。
 
  邪宗門   じゃしゅうもん  
江戸時代、信仰が禁止された宗教。 キリスト教等。  (江戸幕府が用いた政治的用語)
 
   社人 しゃじん(しゃにん)  
神社に奉仕する下級の神官。
 
  示諭   しゆ  
理を示してさとし説得すること。 言いまかせること。
 
   朱(金銭単位)  しゅ  
金1両=4分=16朱。  
※現代(2019)の5千円程度か。
 
   趣意  しゅい   
理由。 趣旨。 目的。 考え。 意見。    ※
「御趣意」で頻出する用語
 
  終戦直後の教科書(昭和21)   
昭和21年、筆者が小学2年生のとき、配布された教科書は、誰が見ても間に合わせの教科書であった。いわば、GHQの指令により急遽、作られ間に教科書であった。内容は新しく加えられたものもあったが、いままだの教科書の不適切(軍国的なもの)を削除したものが使われていたという。
新聞大の粗末なザラ紙(藁の繊維のみえるような紙)に印刷されたものを折りたたみ母から綴じてもらって使用した。お世辞にも教科書には見えない代物で、75年過ぎた今も忘れることが出来ない。→HP石黒の昔の暮らし-子どもの暮らし
 
  朱印   しゅいん  
朱色の印。  朱印が押された公的な文章。  江戸時代領地宛行状に使用された将軍の印。  
 
   朱印地   しゅいんち  
寺社の境内やその所有地に対する年貢諸役免除された寺社領。朱印地は検地帳外書に除地・見捨地とともに記載されている。
 
      じゅう・ちゅう  
関係する人々全員を指す。 
役人衆中
 
   祝儀  しゅうぎ  
祝いの儀式。祝いのために贈る金品。  ※意外使われ方→蚊帳の祝儀
 
   十二支    しゅうにし  
子・丑・寅・卯・辰・巳・午・未・申・酉・戌・亥の総称。
 
   十三夜  じゅうさんや  陰暦9月13日の夜 十五夜に次ぎ月が美しいと言われ宴を催して月をめでた。  
   宗旨    しゅうし  
 一つの宗教の中の流派。宗門。宗派。 宗門の信仰内容の主旨として説くところ。  宗教の教えの中心教義。
 
   宗旨切り証文    しゅうしきりしょうもん  
寺替え証文
 
   宗旨手形  しゅうしてがた  
旦那寺がその寺院の檀徒であり切支丹信徒でないことを証明する書。  

宗旨証文  寺請証文  寺請状
 
   愁訴  しゅうそ  
為政者側の不合理な仕打に対して嘆き訴えること。百姓の合法的な訴願を指す。
 
   衆中  しゅうちゅう・しゅちゅう  
大勢の人々。   ※書簡のあて名に、「〇〇衆中」など見られる。  
 
   什物  じゅうもつ・じゅうぶつ  
日常使っている器具類。什器。 寺院 の所有する種々の器財。資財。
 書簡-西方寺~佐藤様
   宗門改  しゅうもんあらため  
 江戸幕府がキリシタンを摘発するために、キリシタンでない事を旦那寺に証明させた寺請け制度。
 初めは局地的、臨時的に行われていたが寛永12年(1635)に幕府が「武家諸法度」にキリシタン厳禁の一条をくわえた事により全国的に行われるようになった。
 とくに、寛永14年(1637)からその翌年にかけて起きた島原の乱の後、寛永17年(1640)に幕府は宗門改役を設置する。さらに寛文4年(1664)に諸藩に宗門改制度と専任の役人を設置するよう命じ、以後、宗門改帳が各地で作成されるようになる。
 宗門改帳はやがて人別帳に宗旨を記載する宗門人別改帳(宗旨人別帳)に変移し、寛文11年(1671)に法的に整備されて幕府は諸藩にも作成を義務付ける。ここで宗門改は寺請制度として完成した。これにより、民衆はすべて寺院に把握され且つ宗門人別帳作成を通して幕藩体制の中に組み込まれた。
 そして、寺院は政治権力の奉仕者となり寺と檀家との関係を堅固なものにしたが、仏教本来の活動は停滞し僧侶の世俗化を招いたこと事実であろう。
 この寺請制は、明治6年(1873)キリスト教の禁制が解除されるまで続いた。
 石黒村切支丹人別・家別・五人組御改下帳
  宗門人別改帳  しゅうもんにんべつあらためちょう   
江戸時代、宗門改に基づいて作成された帳簿。同時に現在で言う戸籍原簿や租税台帳の役割も果たした(明治4年に戸籍法がつくられ受け継がれる)。宗門改帳とも呼ばれる。
 このように、宗門改めと人別改めが複合し、さらに人馬改めをも含む内容に変化したものといえよう。
 なお、藩に提出された本帳は破棄されるため現在残っているものは殆どすべては村用の控えである。→
宗門帳 宗門改帳 宗門人別帳 宗門御改帳
 元禄14年石黒村宗門人別御改帳
   重追放 じゅうついほう   江戸幕府の刑罰の一つで重・中・軽の3追放刑の内最も重い刑。  
   衆徒・堂衆  しゅと・しゅうと・どうしゅう  
 衆徒は、堂衆とも呼ばれ、もともとは平安時代以後に大寺院に居住して学問・修行の他に寺内の運営実務にあたった僧侶の身分のこと。大衆の主力であり、衆徒のみを指して「大衆」と呼ぶ場合もある
 一般的に学侶よりも下位、行人よりも上位とされ、寺院内の警備や管理運営などの実務なども扱った。中下級の貴族や武家・荘官などの出身者が多かったため、武術などの心得を持つものもあり、武装化して僧兵を構成したのもこの身分が中心であった。(延暦寺の場合は別)
 善光寺では大きな寺院のためか、
「衆徒」「中衆」「妻戸」という三つの勢力があり、それぞれが異なる起原を主張していた。おそらく、「衆徒」が元々の仏教徒の集団であろう。
「中衆」は「寺内の事を司る」、つまり神社でいうところの「神人」(雑務を司った下級神職)のような役であったであろう。
 「妻戸」の起源は不明だが、現在も本堂には「妻戸台」という入口に近い場所が残っているのでそれなりの役割が有ったのであろう。
参考文献-ウィキペディア 
弘化4年 大地震
    重便 じゅうびん    重ねて出す手紙。  
    手簡  しゅかん   
手紙。
 
   熟談  じゅくだん   
双方で納得のいくまで話合い問題を解決すること。  
熟談内済
 
    宿人馬  しゅくじんば  
宿駅が人馬継立のために常に置いた人馬。
 
   宿駅  しゅくえき  
交通の要所で宿泊や人馬継ぎたての施設のあるところ。
 
   宿駕籠  しゅくかご  
宿駅におかれた簡略な駕籠。 雲助駕籠とも呼ばれる。
 
   宿方  しゅくかた  
宿方あるいはその関係者。
 
    祝詞  しゅくし・しゅうし  
祝いの言葉や書簡。 
 
   熟談  じゅくだん  
よくよく話し合うこと。
 
   熟談内済 じゅくだんないさい 
熟談して和解すること。
 
 
   宿継   しゅくつぎ  
人馬を継ぎ替えて宿駅から宿駅へと移動すること。 
 宿次
 
   宿継人馬  しゅくつぎじんば  
宿駅で人や荷物を継送るために常駐する人馬。
 
   宿勤人馬  しゅくつとめじんば  宿駅の人や荷物の運搬のために動員された人馬。または助郷村々から徴発された人馬。  
   熟得内済  じゅくとくないさい  
塾談内済と同意味であろう。※石黒村・門出村文書にしばしば見られる言葉。
 
   宿入用  しゅくにゅうよう  
宿駅を運用するための経費。
 
   宿役   しゅくやく  
宿場周辺の村に課される助郷役を負担すること、または宿役人のこと。
 
   宿役人  しゅくやくにん
各街道の宿場におかれた、助郷や人馬継立を管理する役人(名主、組頭なとの行政上の役人とは別)。 →問屋
 
  趣意   しゅい  
物事を始めるときの考え・動機・目的などのこと。  
御趣意
 
  受神霊主   じゅしんれいしゅ  
神葬祭で、死者の姓名や享年を記した木札に移霊し、これを御霊代(みたましろ)として祭壇に安置し、まつるもの。仏教の位牌にあたるもの。
 御布告留-石黒村文書
   酒造鑑札免許制度  しゅぞうかんさつめんきょせいど  
明治政府は、明治4年(1871)には、株鑑札を廃止し免許鑑札制度を定めた「清酒、濁酒、 醤油鑑札収与並ニ収税方法規則」を定め
酒造免許鑑札制度が誕生した。 これは、同年5月に施行された廃藩置県による中央集権体制の確立に合わせて、酒税制度の全国画一化を図ったもの。
 
    種痘局   しゅとうきょく  
明治政府が明治4年(1871)、大学東校(現在の東京大学医学部)に、種痘医免許状の交付と天然痘の予防接種を行う部門として種痘局が設けられた。
 ※種痘局に関する古文書
   種痘免許    しゅとうめんきょ  
明治7年(1874)10月種痘医の免許に関する規則が制定された。同8年(1875)1月25日に布達 された「種痘順序」によると,各地の種痘所は共立病院に所属し、また種痘医となるための技術講習を共立病院で受けることが定められている。共立 病院における臨床医学教育の始まりである。種痘所 は県内各地2~5の小区に1箇所ずつ設けられたのであった。
 
   出水  しゅっすい  
洪水。大水。※石黒の昔の暮らし-災害
※石黒の文書には「出水-でみず」(湧き水)の意味で使われている言葉があるようだ。→石黒村指出明細帳p.16
  
   酒造株  しゅぞうかぶ  米価調節や課税のために設けられた酒造権利。  酒株  酒屋株  
   出金   しゅっきん  
金銭を出すこと、またはその金銭。   
諸出金
 
   出訴   しゅっそ  
訴え出ること  訴訟を起こすこと。 
 
   出府  しゅっぷ  
武士が地方から江戸へ出ること。
 
    出奔  しゅっぽん
逃げて姿をくらますこと。欠落
 
   出役  しゅつやく  
本役以外の役を兼任すること。出張すること。 
 
  十帝古銭   じゅっていこせん
清の時代の10人の皇帝によって造られた「順治通寶」「康煕通寶」、「雍正通寶」、「乾隆通寶」、「嘉慶通寶」、「道光通寶」、「咸豊通寶」、「同治通寶」、「光緒通寶」、「宣統通寶」のこと。これらの多くは日本に輸入されて使用された。 
 
  襦袢   しゅばん・じばん  
和服用の肌着のこと。
※16世紀後半に導入されたポルトガル語 gibãoの転訛語。本来,素肌に着る肌着をさしたが現在ではシャツ類などの普及によって下着や合着などをも指すようになった。
 
   巡検・巡見・順検  じゅんけん  
役人が村々を視察して回ること。巡見使の略
 
   巡検使   じゅんけんし  
 幕府が将軍の代が替わるごとに、幕領、私領の施政や民情などを調べさせるために派遣した特使。 
 巡検使を迎えるための準備は、村役人にとっては重大事であったであろう。巡見使到来予定の数カ月前から準備を始め、庄屋などの村役人が巡見使に村の実状をありのままに述べると藩政の問題点などが幕府に知られる恐れあり、藩の指示どおりに回答するように、想定問答集のようなものを作って対処した。  
 
   巡行   じゅんこう  
ある目的で方々を巡り歩くこと。
 
   順村  じゅんそん  
廻状の村々の順番。  
例 女谷村→石黒村→嶺村など
 
   順達 じゅんたつ   
廻状などを順送りすること。
 
   順拝・巡拝  じゅんぱい  
各地の寺社を礼拝してまわること。
 
   順路  じゅんろ  
正しい道理。道順。順序正しい道筋。
 
   条・條  じょう
 ~条→~によって、~ゆえに。
 
   承引  しょういん
 承知して引き受けること。  承諾すること。
 
   上意  じょうい  
将軍や主君の考えまたは命令。  
 
   状送り   じょうおくり  
古文書用語辞典には見当たらないが、文字通り、手紙(公文書-廻状-御用留に多く見られる文書)を指定されている村に届けることであろう。
 
   定杭  じょうくい  
境界線に打たれた杭。
 
   定請山・定受山  じょううけやま  
入会地(いりあいち)である山林を所有する村が、他の村に対して一定の条件(期限・採取量・料金等)を定めて入会(いりあい)としての利用を認めること。普通、一定の期限が定められこの山林を請山と呼んだ。また、期限を定めないものは卸山(おろしやま)あるいは定請山・永請山と呼んだ。    ※石黒村と門出村との入山争議
 
   定卸山  じょうおろしやま  
卸山
 書簡 門出村庄屋より石黒村庄屋宛
   小学  しょうがく  
江戸時代の藩校などで使われた教科書の一つ。他に、四書の「大学」、「論語」、「孟子」、「中庸」等。
※ 中国,宋代の修身、作法書。「小学書」とも呼ぶ。全6巻。1187年成立。初学者のために朱子が編纂した書物であり、古聖人の善行や箴言および人倫の実践的教訓などを集めた啓蒙的な書物。
 
  勝願寺  しょうがんじ
 浄土真宗、京都東本願寺の末寺で大藤道信、蓮如の弟子となり僧となる。天正2年顕如より「大藤山勝願寺」という山号寺号と授かる。
 鳥羽伏見の戦いで桑名藩主定敬は敗れ、慶応4年3月30日、この勝願寺で謹慎、後に主戦派となる。
 寺入本堂の扁額「大藤山」は、慶応3(1867)年左近衛権中将定敬の筆。
また、境内には桑名藩士戦没墓がある。墓の裏面は東北各地での死者、および北越戦争での死者28名の死に哀悼の言葉が刻まれている。
 また、桑名藩士の碑主として越後各地の桑名藩士戦病者の碑もある。
 〇勝願寺
   定石代   じょうこくだい  
定則(米の平均相場等)に従って石代納すること。江戸時代に石代納のときの換算米価は、
一定地域での米穀市場の平均相場に準拠して決められた。
定石納
 与板引渡後諸事用留
   小区・大区   しょうく・だいく  
明治時代に施行された地方制度。府県の下に大区を置き、大区の下に小区を置いた。大区には区長、副区長を、小区には戸長と副戸長を置いた。これには江戸時代の庄屋や組頭などの経験者を任命した。→
大区小区制
 書簡-区内戸長と収穫増米の件₋石塚大五郎宛て
   将軍宣下  じょうぐんせいげ
 朝廷により征夷大将軍に任命されること。
 
   浄広寺  じょうこうじ
曹洞宗。文明17年、刈羽郡善根村八石城主毛利浄広公帰依により魚沼郡桜町村吉蔵寺三代の文奝和尚をもって開祖とする。文明17年建立。
 石黒村浄土真宗人別御改帳
  上戸  じょうご  酒を飲むこと、またはたくさん飲むこと。  対語→下戸  
   定石代  じょうこくだい  その土地の定則により、租税を米の代わりに貨幣で納入すること。  
   上旨  じょうし  
天子(天皇)の思し召し。
 
   定式   じょうしき
きまったやり方。決まった方式。きまり。
 御廻米諸入用割賦長-文政6 
   上秋  じょうしゅう  陰暦7月の呼び方の一つ。  
   上条組  じょうじょうぐみ
近世、石黒は西隣の鵜川とともに上条郷の組村(上条組)としての支配をうけた。(各村高田藩の時代)
※高田藩の支配組織は、柏崎町・小国東組・小国西組・枇杷島組・上条組・鯖石組・藤井組の7組に分けられた。
上条組には鯨波村から剣野村・久米村・細越村・水上村・野田村・女谷村・折居村・石黒村・嶺村など70近い村数があった。
 ちなみに高柳村は、鯖石組に属し、比角村・長浜村・半田村などの上条組とほぼ同数の村数があった。
 
    上条村  じょうじょうむら  
かつて新潟県刈羽郡にあった村。戦国期に見える村名。
•明治22年(1889年)4月1日 - 町村制施行に伴い刈羽郡上条村、宮ノ窪村、山口村、古町村、芋川村、小田山新田、佐水村が合併し、上条村が発足。
•明治34年(1901年)11月1日 - 刈羽郡別俣村と合併し、上条村を新設。
•昭和31年(1956年)9月30日 - 刈羽郡野田村、鵜川村と合併し、黒姫村となり消滅。
※上条組→上欄参照   ※上条城址-柏崎市黒滝
 
   定助郷 じょうすけごう 
江戸時代、宿駅の継立ての人馬が不足する場合に、それを補充させるために宿駅近隣の村々に課された夫役 。また、それを課された郷村。      
定助郷   代助郷   定助 
 
   城代  じょうだい  
城主の代わりに城を守り諸事を司る役職。   幕府の職名-大阪城代など。
 
   上知  じょうち  
幕府または領主に知行を返すこと。 
上地
廻状-山中村・高尾村長岡藩に村替え通知 
   定使  じょうつかい  
村役人の下で走り使いなどの連絡係りなどの役目を担った者。
 
   上田  じょうでん  
検地により最も生産力が高いと評価された田地。石黒では上田は少なかった。 
中田 下田 下々田
 
   聖徳太子  
しょうとくたいし
 
厩戸王(うまやとおう)。「聖徳太子」という呼び名は、この人の功績を称える人々が後世になり彼に贈った名前でであり、実名は「厩戸王」。
 また、実在しなかったとの説もあり、「聖徳太子とされている人」などと書いている教科書もみられる。
 
  浄土宗   じょうどしゅう  
 阿弥陀仏の本願を信じ、その仏の名号をとなえることによって、すべての人が極楽浄土に往生することができると説く宗派。
 宗祖は
法念房源空。総本山は京都市東山区知恩院。安元願念(1175)3月、比叡山で修行中の源空は、善導の「観無量寿経疏」を読んで確信を得て専修念仏に帰一したといわれる。
 源空は叡山を下りて西山広谷に移り間もなく洛陽吉水に移って布教に専心した。建久9年(1198)「選択本願念仏集」を撰述して凡夫救済の立場を示し「無量寿経」「観無量寿経」「阿弥陀経」の3経と、世親「往生論」を正依の経論とし、安心、起行、作業を修行のための方法とした。
 源空の教えは当時の社会に大きな影響を与えた。特に旧仏教の諸法を刺激したため念仏支持者の増加に伴って白眼視された。住蓮、安楽房遵西の一件から弾圧は厳しくなり、念仏の停止問題に発展し、承元元年(1207)源空以下親鸞らの弟子が流罪となった。ところが、この事が武士や農民の間に多くの支持者を得る起因となった。
 建暦2年(1212)源空の没後は門下の長老法蓮房信空が後継者となって教団の統制をはかり、対外的には長楽寺義の祖隆寛が源空の主張を貫き専修念仏を強制して論難に対抗した。
 このため嘉禄の法難にあい、源空の廟は破壊され、隆寛は陸奥に流罪となったが結果的には関東浄土教の発展に大きな刺激を与えた。多念義を主張した隆寛の流れは智慶等によつて受け継がれ一念義を主張した光西は嘉禄の法難の際に壱岐に流罪となったが明信等によってなお弘通された。諸行本願義を長西の流れも一時隆盛であったが次第に衰えた。
 一方柴野門徒の祖源智は源空に対する報恩活動を展開して勧進し、阿弥陀仏像を作って結縁をさせ、知恩院を復興して信者を獲得したが西山義の祖証空も慈円の勢力を背景として活動し貴族や武士の間に浄土宗を浸透させていった。
 こうして源空没後の専修念仏教団は各自が後継者であるという自信をもって分裂し政治的にも教義的にも不統一な時代となった。九州を本拠として活動した鎮西義の祖辨長の弟子良忠は京都信濃を経て関東に下り千葉氏一族の帰依を得て諸方を強化したが、経済的問題から不和となり、鎌倉に進出して大仏朝直の帰依を得て悟真寺を建立して基盤を確立した。他宗の僧侶にも信任されて有名なったが浄土真宗の不統一を是正するため、高齢をおして京都に上り、源智の弟子信慧と会合した。
 その結果柴野門徒と合流して鎮西流正統の下地をつくった。良忠没後門下は白旗派良暁・藤田派性心・名越派尊観、一条派然空・三条派道光・木幡派慈心が分裂して教線り拡大につとめたが、この主張が強まるほど「源空-辨長-良忠」という浄土宗三代が確立され、鎮西流が浄土宗の本流となっていった。とりわけ名越派と白旗派の論争は明治時代まで続いたが名越派は福島県いわき地方を本拠にして東北に教線を伸ばし、白旗派は関東を中心に教線を拡張した。 
 特に室町時代になると学僧西蓮社了誉聖冏が出て五重相伝を作り上げ、血脈や教義などを組織し他宗に対する権威づけまで行った。その弟子大蓮社酉誉聖聡は増上寺を創建して人材を育成した。  聖聡の弟子のうち行蓮社大誉慶竺は京都に上って知恩院に入り飯沼に弘経寺を開いた総蓮社嘆誉良肇の弟子たちは、三河に進出して大恩寺や大樹寺・信光寺を創建し、ここを足場として京都へ進出しやがては分裂気味の京都の主勢力を白旗派で占めるようになった。
 この後、知恩院と知恩寺は本家争いを起こした。一条流の根拠地浄華院は万里小路氏を檀越として隆盛となったが、貴族化していった。これに対して同派の教法の弟子良如は越前に、定玄の弟子良尭は近江地方に布教して庶民救済に尽力し、大いに教線を拡張していった。こうして浄土宗は教義的には組織化されて充実していったが教団的には各地にそれぞれの本末圏が形成されて不統一であった。この散在した勢力圏を統合したのが、徳川家康の力を背景とした貞蓮社源誉存応である。存応は檀林制度を作り、元和法度にもとづいて本末制度を確立し有機的な教団を作り上げた。
 しかし、
幕藩体制で世の中が落ち着くと惰性に任せて俗化していった。そこで江戸時代中期になると弾誓・存易らの捨世僧があらわれ、霊潭等の持律運動も起こって教団に改革的性格を与えた。
 教学の面でも良定・文雄らが出て注目を集めたが後期には振るわなくなった。
 維新政府が起こると廃仏毀釈の荒波を受けた。知恩院門跡制度は廃止され、他宗と同様多くの試練を受けたが福田行誠らの活躍で混乱期を乗り越え、明治時代後半には近代教団としての体制を確立し学問面でも望月信了・渡辺海旭らの仏教界をリードする学者が出て、海外でも高く評価された。そして大正から昭和にかけての浄土宗はその黄金時代を築いた。さらに椎尾弁匡の共生会、山崎弁栄の光明会など新しい信仰運動が起こって注目を集めた。
 第二次世界大戦後、本派浄土宗の分派独立問題が起こったが昭和36年一体となりより充実した歩を進めた。

      (参考文献 国史大辞典)
 
   浄土真宗  じょうどしんしゅう
 現在では親鸞を開祖とする浄土教の一宗派を指す。親鸞は法念房源空のもとで1201年(建仁元年)自力聖道教を脱却して他力浄土教に帰依した。
 以来、源空によって明らかにされた専修念仏を聞信し、自ら一宗を開く意図はなかった。浄土真宗とは、源空の樹立した宗旨に親鸞が名付けた呼称である。即ち「
智慧光のちからより、本師源空あらわれて、浄土真宗ひらきつつ、選択本願のべたまう-高僧和賛」といっている。
 源空から受け継いだ教えではあるが親鸞自身の宗教的立場を主著「教行信証」に示し、阿弥陀仏の本願を信じることによって救われることを強調した。そして「
善人なをもて往生をとく、いわんや悪人をや-歎異抄」と、悪人こそ阿弥陀仏の救い主の対象であるといった。この悪人を武士・商人あるいは漁夫・猟師など特定の社会階層にあてて理解しようと試みる場合がある。
 しかし、親鸞は「浄土真宗に帰すれども、真実の心はありがたし、虚仮不実(こけふじつ)のわが身にて清浄心さらになし-正像末和賛」と、みずからを清浄心なき悪人であるとし、さらには「
よろづのこと、みなもて、そらごと、たわごと、まことあることなき-歎異抄」と、現実世界のあらゆる存在・行為はすべて虚仮であるとする。
 こうした自覚は、そこに真実なるものを強く求め、この要請にこたえて真実者阿弥陀仏が現れる。これを歎異抄には「煩悩具足のわれらはいづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あわれみたまひて、願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば他力をたのみたてまつる悪人、もともと往生の正因なり、よて善人だに往生すれ、まして悪人はと、おぼせ候ひき」と悪人正機の趣旨を説く。
 この親鸞の所説と人格とを中心に集まった念仏者は次第に増加して教団形成へ胎動が始まった。しかし、「
親鸞は弟子一人ももたずそうろう-歎異抄」と師匠と弟子の関係を否定し「弥陀の御催しにあづかりて、念仏申し候人を、わが弟子と申すこと、きわめたる荒涼のことなり-歎異抄」といった。そして自分にとっては、共に念仏を唱えるものは同行同朋であると称し、弟子上下関係による教団構成には否定的であった。ところが、親鸞の晩年に、その後継者と目された息男善鸞が教えに背き東国教団を大混乱におとしいれる事件が発生した。
 
親鸞はこれを契機に念仏者は正法をまもるため連携を強化するよう提唱した。いらい正統信仰の保持と他教団の避難への対応などから次第に教団体制を整えるに至る。親鸞は越後流罪放免の後は関東へ移住し常陸国を中心に20年間野の伝道に従った。
 そのため親鸞の教えを受けた念仏者は東国地方に多い。親鸞門弟の名前を記した「親鸞聖人入門侶交名牒」に常陸20、下総4、下野6、武蔵1、陸奥7、越後1、遠江1、京都8の計48人とある。しかし、「交名牒」以外に親鸞の書状などに30人ほどの名前が見えるので、それを合算すると100人近くなる。しかもこれら門弟は親鸞から直接に教えをうけた人たちで、その人たちは又それぞれ数十人の門徒をもち、それらを合わせると、かなりの多人数にのぼる。
 親鸞が東国伝道を終えて京都に帰った後は、東国の念仏者たちは有力門弟を中心に結集し、やがてその所有地名をつけた門徒名によって呼ばれた。例えば、下野国高田の真仏・顕智を中心とする集団は高田門徒と称した。親鸞没後、東国門弟は親鸞の末娘覚信尼とともに京都東山に墓所大谷廟堂を造営した。廟堂の第3代留守職覚如は廟堂を本願寺と称して寺院化し、ここを中心に教団の統括を図った。
 しかし、各地門徒は覚如の企画に反対し、それぞれ親鸞以後の独自の法脈系譜をたて、自立教団的色彩が濃くなった。そうした地方教団のうち高田門徒(専修派)は最も有力で、後に武蔵国荒木門徒や三河国和田門徒を分岐している。和田門徒は信寂・寂静を中心に結集していたがここから如道が出て越前国へ念仏を伝えた(山本派・三門派・誠照寺派)。また荒木門徒の系統をひく了源は京都山科に一寺を造立して仏光寺派の基を開き、この教団は近畿から中国・四国に発展した。
 同じころ、近江国木辺の慈空の錦織寺(木辺派)も近江から大和国にかけて展開した。本願寺第八世蓮如の時、其の教団は全国にのび各地の門徒を吸収した。中でも仏光寺から興正寺が分派して、その大半の末寺をひきいて本願寺へ加わった(のち明治9年興正派独立)、江戸時代初期、本願寺は東西に分派した。
 ここに真宗十派の基が形成された。それまで教団の呼称は一向宗・門徒宗など一様でなかったので、安永3年(1774)に浄土真宗という宗名の公称を江戸幕府に願った。しかし、浄土宗(増上寺)の反対に会い実現しなかった。
 明治5年に真宗と称することを許され、
昭和21年(1946)に本願寺派が浄土真宗と称することになった。

    (参考文献-国史大辞典)
 
   定納  じょうのう  
一定の年貢率、年貢高で上納すること。
 
   商売渡世  しょうばいとせい  
商売を渡世とすること。青物商売・酒商売・篭細工・瀬戸物商売渡世等々。
 
   定飛脚 じょうびきゃく  
定期ら出す飛脚。  定飛脚問屋のこと。
 
   定府大名  じょうふだいみょう
定府大名は領国には赴かず江戸屋敷に居住し、領国には家臣が派遣されたのみの大名。中には藩主でありながら、領国を一度も訪れたことのない大名もいたという。
 
 
  小分・少分   しょうぶん  
小さく分けること。少しの部分。少しの量。一部分。
 
   定法   じょうほう
とり決められている規則、方法、 しきたり。
 
 
   正法  しょうぼう・しょうほう  仏の教え。  
   正米  しょうまい  
現に在る米。    
対語→空米
 
  城米   じょうまい
 幕府、諸藩が軍事や飢餓などに備えて城中に蓄えた藏米。
 
   條目  じょうもく  
箇条書きした決まりや規則。  条書き。 
 御掟條目-明治3年
   定見取   じょうみとり
小区画を開墾して作物を作るときは、高にいれず毎年の出来方を調べて見取米をとること。
 
 
   小民   しょうみん  
小百姓。下々の者。
 
   定免  じょうめん
 原則として豊凶に拘わらず一定の年限を限って定率の年貢を納めさせる徴税法。

 
定免地-じょうめんち
 
   証文  しょうもん  
後々の証明とする文書。     
手形   一札    御証文
  一札
   庄屋  しょうや
  庄屋(しょうや)・名主(なぬし)・肝煎(きもいり)は、江戸時代の村役人である地方三役の一つ、郡代・代官のもとで村政を担当した村の首長。身分は百姓(薩摩藩以外)
 村請制村落の下で年貢諸役や行政的な業務を村請する下請けなどを中心に、村民の法令遵守・上意下達・人別支配・土地の管理などの支配に関わる諸業務を下請けした。社会の支配機構の末端機関に奉仕する立場上、年貢の減免など、村民の請願を奉上する御役目もあった。このような村民側に位置する機能を「惣代機能」と呼ぶ。このように支配階級の末端としての面と被支配階級の代表者としての面を共に持つのが庄屋であり、かかる蝙蝠的性格が近世を通じて庄屋・名主の立場を曖昧なものとし、その社会的機能を不明朗なものとした。
用水路など土木工事を発注し監督もした。
庄屋の身分は百姓であったが、地元の有力な豪農が多く、戦国大名の家臣だった者も少なくない。したがって初期の庄屋には勝手気ままな振る舞いをすることがあり、村方騒動のなかには庄屋の年貢・村入用不正や村民に対する私的夫役を原因としたものが多い。しかし庄屋の私的権力は領主によって規制され、その力には一定の制約があった。基本的に豪農・富農・大地主など、村の有力者が庄屋となった。 近世後期に至り領主権力が弱体化すると、幕藩領主は庄屋・名主の惣代機能を否定しようと試みるが、「取締役」などの新たな役職を設置する場合があり、近世を通じて庄屋・名主の惣代機能を払拭することはできず、明治政府の課題として持ち越されることになった。
身分としては百姓ではあるものの、一般農民よりは一段高い階層に属し、その屋敷に門を構えたり、母屋に式台を設けることができ、着衣や履物にも特例が許されていた(絹物や雪駄の着用)。 日常業務を自宅で行い、庄屋宅には組頭等の村役人が集まり、年貢・村入用の割当てをしたり、領主から命ぜられる諸帳簿や、村より領主への願書類等の作成に当った。

また
領主から触書、廻状類は、それを帳面に書き写したうえで、原文を定使に命じて隣村へ持って行かせた。ほとんどの公文書には庄屋の署名・捺印が必要とされ、村人相互の土地移動(主として質地)にも庄屋の証印が必要とする場合が多く、それゆえ最低限の読み書き算盤の能力が必要だった。
庄屋・名主の選出方法は、個々の村々の慣習に委ねられることが多い。(1)代々同じ家が就任する世襲名主制、(2)一年ごとに交代する年番名主制、(3)その中間型(世襲ではないがある者が複数年務める形)の3つがあった。また、庄屋・名主の選出には、村民による「入札」(いれふだ)と呼ばれる選挙が実施される場合[要出典]。そのあり方は、地域差があるばかりではなく、同じ地域内でも村ごとに多様である。
役職を務めることによって得られる役給は、(1)領主から支給される場合、(2)「村入用」と呼ばれる村の財政から支給される場合、(3)「役給田」などと決められた土地が支給される場合の3つがあった。そのあり方は、地域差があるばかりではなく、同じ地域内でも村ごとに多様である。
また、庄屋・名主と異なり、数か村から10数か村の範囲を管轄する大庄屋という役職が置かれた場合もある。なお地域によって呼称は多様であり、大名主・割元・大肝煎・十村・郷頭・割番庄屋などとも呼ばれた。
(ウェキペディア)
 庄屋年暦書上帳届下書き
   庄屋給米  しょうやきゅうまい  
庄屋の手当として与えられる米。   庄屋給→米代として金銭で取り集めることも

ある。    
組頭給   中使給
 去戌年庄屋給米取立帳
田辺重順家文書

   庄屋所 しょうやどころ   
庄屋の事務を行う場所-一般には庄屋の家   庄屋処 庄屋處
 
   状屋  じょうや  書状などを送り届けることを職業とする者。  
    定家柱  じょうやばしら   
家屋の骨組みで中心となり家を支える柱。   
 手板図
   庄屋所  しょうやどころ  
→庄屋
 覚-安静6年-居谷村
   浄瑠璃  じょうるり
 室町時代の末に流行った琵琶や扇拍子(扇子で手や台をたたいて拍子をとること)を用いておこなう物語。後に三味線を伴奏につかって語るようになり江戸時代に人形芝居と結びついて成立した音曲。
 
   定例  じょうれい

決まっている習わし。  
常例 
 
  諸掛   しょかかり  必要な費用。  
  諸色    しょしき  
年貢の対象となる諸作物。    様々な品物。
  生類憐みの令   しょうるいあわれみのれい
 
 5代将軍綱吉の時代に発せられた生類憐みに法律。天和2年に諸国に立てた高札で忠孝を奨励し夫婦兄弟仲よく、召使などを憐れむよう命じている。また、この年に幕府御鷹役人が削減されている。生類憐みの令はこの延長上に位置するものと見られよう。
 生類憐みの令は、その3年後の貞享2年にはじまり次々に発令されている。とくに牛、馬、犬、鳥に対する保護は過度とも言えるものであった。野犬収容の小屋は増え続け中野の小屋の総面積は29万坪にも及び、の収容数は10万疋にも達したという。また、違反した者は厳しく処罰されそのため流離散亡した者は数十万人に及ぶとも言われている。
 しかし、生類憐みの令が捨て子、旅中の病人、囚人などにも及んでいることも見逃してはならないであろう。
 6代将軍家宣は、綱吉の継続すべしの遺言にもかかわらず直ちにこの法を廃した。
(参考文献-国史大辞典) 
 文例-1
   定成   じょうなり  
一定の年貢率のこと。
 
    上人   しょうにん  智得を供えた高僧のこと。  
   定納  じょうのう  
一定の年貢率または年貢高で上納すること。常に決まっている年貢高。損耗などを差し引いた残りの決まった年貢高。  
上納高
 
    聖人  しょうにん   
悟りを開いた人・高僧。
 
   諸懸   しょかかり  
必要とする費用。 
諸掛
 
   諸技芸師   しょぎげいし   
明治5年の「学制」発布に関わる布達に「諸技芸師家 私塾相開候て生徒入塾節地方官添え書これなき者入塾相成らず云々」が見られる。
(石黒村庄屋文書)
 この文章から諸技芸師とは単に技術、芸能を教える者に留まらず、読み書き算盤から国学、漢学などの学問を教える教師を含めた教師等を指す言葉のように思われる。
 ちなみに明治の教育制度概略をみると、明治5年の学制の発布により、明治政府は中央集権主義の国家として教育を国の管理下に置くという方針を明確にした。それに対して各地ではそれまであった寺子屋や私塾を全廃したり或いは存属して小学校を設け生徒を移行吸収させる、または、寺子屋や私塾を学区制に基づいて合併統合して小学校として再編成させるなどで対応した。勿論私塾として存続させていくもののみならず新たに私塾を開くものもあったのであろう。
 教育の内容も、それまで寺子屋で使われていた往来物ではなく福沢諭吉などの啓蒙書などが採用され、合理主義的な思想による教育の刷新を目指した。
 しかし、明治12年には新しい「教育令」を発布し明治5年の学制は廃止となった。そして国から県市町村に教育行政事務移行された。この教育令は明治5年の学制とは異なり、教育が地方分権的な自由な教育行政を可能にしたものと言えよう。
 その後、明治18年には初代文部大臣森有礼が教育制度の一大改革を行い、明治 19年には帝国大学令、師範学校令、小学校令、中学校令制定 各学校種別の規程を整備し我が国学校制度の基礎が確立される。さらに明治23年には教育勅語の制定され、明治30年代に入ると小学校の義務化、近代産業、の発展に伴い中等学校や専門学校が急速に発展した。
 
 
   触示  しょくじ  
布告等を立札などにより一般に知らしめること。
※例文-従公儀邪宗門御触示
 
   諸作   しょさく  
様々な作物。
 
   諸色  しょしき  
様々な品物。品物の値段。物価。年貢の対象となる諸作物。
 
   女子挺身隊  じょしていしんたい

日本が第二次世界大戦中に創設した勤労奉仕団体のひとつ。主に未婚女性によって構成されていた。戦時日本の労働力が逼迫する中で、強制的に職場を配置換えする国家総動員法下の国民総動員体制の補助として行われ、工場などでの勤労労働に従事した。1944年8月の女子挺身勤労令によって12歳〜40歳の内地(日本)の女性が動員された。日本統治下の朝鮮の女性への適用は検討されたが、適用されることはなかった。1945年の国民勤労動員令によって女子挺身隊は国民義勇隊として改組され、敗戦とともに消滅した。
(ウェキペディア)
終戦の頃の思い出 
   諸勝負   しょしょうぶ  
様々な賭け事。様々な勝負事。
 
   諸生  しょせい

 参考文
中国明朝及び清朝において国子監の入試(院試)に合格し、科挙制度の郷試の受験資格を得たもののことをいう。生員となったものは、府学・県学などに配属される。また、秀才と美称され、実質的に士大夫の仲間入りをしたことになり、徭役免除などの特権を得た。なお、
諸生(しょせい)とは童試の中の最初の二つの試験である県試・府試に合格したもののことを差すが、院試には合格していないので科挙の受験資格は得られていない。
郷試に合格するのは毎回400人程度であるのに対して、諸生は50万人もいたとされている。
(ウェキペディア)
 刈羽郡岡野町学校之規則
※ここでは一般の生徒の意味で使われているように思われるが。
   徐地   じょち・よけち・のけち・のぞけち  
朱印地以外で年貢諸役を免除された寺社境内や田畑・屋敷地など。
 
   徐帳   じょちょう  家出や犯罪などのため人別帳から名前を覗かれること。 帳外 無宿  
   書牘  しょとく
手紙や書状のことで、明治時代初期の学制における尋常小学校の教科の一つ。文字通り手紙や証文の文例を通して文章力を習得する学習。また、寺子屋時代の教科書であった往来物の伝統を色濃く残していた学習といえよう。
 
   諸入用  しょにゅうよう
様々な必要経費。  幕府が代官に支給した諸費用。
 
 
   諸役  しょやく  
本年貢以外の色々な雑役や夫役→ 道普請 堀さらえ、堰や橋の普請、助郷人馬など。
 
   白河藩   しらかわはん  
白河の地は、古代より奥羽地方への出入り口として要衝の地となっていた。江戸時代になっても白河藩の占める地位は奥羽の外様大名の抑えの要であり、有力な親藩・譜代大名が頻繁に入れ替わった。三方領知替えが3度も行われたことでもよく知られている。
 戦国時代後期からは一時会津藩領となっている。江戸時代初頭の寛永4年(1627)、陸奥国棚倉藩(福島県東白川郡)より丹羽〔にわ〕長重が10万石余で入り、白河藩が成立する。長重は白河城とその城下町を建設した。寛永20年(1643)、第2代藩主・光重のとき、丹羽氏は陸奥国二本松藩に転封となった。
 同年、上野国館林藩より榊原忠次が14万石で入部した。忠次は母が徳川家康の姪にあたることから一代に限って松平姓を許されていた。慶安2年(1649年)、白河在城6年で播磨国姫路藩に転封となった。
かわって、越後国村上藩より本多忠義が譜代12万石で入部する。忠義は新田開発に力を注いで実高1万5千石を加え、慶安3年から4年(1650~1651)には検地を行ってさらに実高3万7千石を加えた。さらに付加税の別俵を徴して増収に努めたが、年貢増に喘ぐ領民が反発、減免を求めて幕府への直訴を招いた。
 第2代藩主の忠平のとき、天和元年(1681年)に下野国宇都宮藩へ転封となった。
 入れ替わりに同地より奥平松平家の松平忠弘が15万石で入部する。病に伏した松平忠弘は、家老・奥平金弥と黒屋数馬の対立を治めきれず、元禄5年(1692年)、お家騒動のため藩主閉門の上、出羽国山形藩に転封となった。
 入れ替わりに同地より越前松平家の松平直矩が15万石で入部した。苦しい藩財政の中、家臣の禄高を減じるなど財政改革を断行したが、これに反対する土岐派により中断を余儀なくされた。享保5年(1720年)には土岐派が進めた強引な増税が大規模な農民一揆を引き起こした。第3代藩主・義知は目安箱を設置して藩政改革に努めたが、寛保元年(1741年)に姫路藩へ転封となった。
 
替わって越後国高田藩より久松松平家の松平定賢が、高田藩領だった越後国柏崎の所領と共に都合11万石で入部する。この久松松平家は徳川家康の異父弟久松定勝の三男・定綱の系統であるが、第2代藩主の定邦の跡に御三卿田安徳川家初代当主・徳川宗武の七男定信が入った。そして天明の飢饉に際しては迅速な対応を行い一人の餓死者も出さなかった伝えられている。後に老中首座に進み寛政の改革を行なった第3代藩主はこの人、定信である。文政6年(1823年)、次の定永のときに久松松平家は旧領の伊勢国桑名藩に転封となった。
 かわって武蔵国忍藩より阿部正権が10万石で入部する。以後は幕末まで阿部家が8代44年間在封した。
 幕末に分家の旗本から本家を相続して第7代藩主となった正外は間もなく老中となり、攘夷派の反対を押し切って兵庫開港を決定したが、結果的にこれが仇となって老中を罷免され、4万石を減封された。
 慶応2年(1866年)、第8代藩主の正静のとき棚倉藩に転封、白河藩領は二本松藩の預かり地となったため、戊辰戦争時は藩主不在で係争の地となり、白河城は激しい攻防の場となり、廃墟と化した。
 慶応4年(1868年)2月、正静は白河藩に復帰したが、同じ年の明治元年12月、再び棚倉藩に転封となり白河藩は廃藩となった。以後天領(天皇御料地)となり、明治2年(1869年)8月に白河県が設置された。明治4年(1871年)7月の廃藩置県をはさんで同年11月に二本松県となったが、後に二本松県は福島県へ編入された。
※福島県白河市[陸奥国白川郡白川 〔参考文献 国史大辞典・Wikipedia〕
 卯より辰両歳御年貢皆済目録拝見証文
   白洲   しらす  罪人の取り調べ、訴訟の審理をする所。  御白洲  
   白河風土記  しらかわふうどき  江戸後期に広瀬典(広瀬蒙斎)よって書かれた地誌。
 
   私領  しりょう
 自分の領地  御領(天領)に対し大小名領、旗本領、寺社領のこと。
 
   寺領  じりょう  
寺院の領地。 中世、寺へ逃げ込み謹慎すること。 近世、罪人に対する刑罰としての寺預け。謹慎。    御寺領町→寺院の領地内の町
 
    白割  しろわれ   
 旱魃により田に白い割れ目ができる事。※白い割れ目のことで、乾燥して白く見えることから黒割より深刻な被害を指すものと思われる〔編者〕 対語→黒割
例「白割二三寸程、相見得、 大痛、罷成申候」
 
   地論  じろん  土地に関する争い  
  師走   しわす  
12月の異名の一つ。
 
   地割 じわり   
土地を一定の基準で区画すること。 
地割制 
 
   心願  しんがん
神仏などを心から願うこと。  念願。
 
 
   人気  じんき  
その地域の気風。人々の受け取りよう。気受け。評判。
 
   神祇官   じんぎかん  
 律令制で、太政官 と並ぶ中央最高官庁。朝廷の祭祀 (さいし) をつかさどり、諸国の官社を総轄した。明治の維新政府は明治1 (1868) 年神祇官を復興したが,明治4 (1871) 年には神祇省に,明治5 (1872) 年には教部省とした。
かみづかさ
※日本書紀の天武天皇紀に「神官」とみえるが,これは神職の意味ではなく,神祇官の前身のこと。
 
 
  神祇省   じんぎしょう  
明治維新政府の官庁。慶応4年(1868)閏4月、太政官 七官の一として設置し、神祇・祭祀 (さいし) をつかさどった。明治4年(1871)神祇省と改称する。
 
   仁恵  じんけい   
情けをかけること。憐み思いやりをもつこと。
 
   真言宗 しんごんしゅう  
 日本仏教8宗のひとつ。真言陀羅尼を重視することから真言陀羅尼宗、顕密教判上から密教、または台密に対して東密ともいう。
 開祖は
弘法大師空海。教主を大日如来とし、所依の経典は「大日経」と「金剛頂経」の両部大経の両部大経のほか「蘇悉地経」「瑜祇経」「略出経」があり、合わせて5部の秘経という。
 律では「蘇婆子童子経」。論では『釈経魔訶衍論」「菩提心論』以上を所依の三藏とする。密教は大乗仏教の流れの一つで、6・7世紀の間に整備され8世紀に体系化されたが、8世紀に体系化されたが8世紀の初め金剛智・善無畏・一行らによって中国に流伝された。
 空海は延暦23年(804)入唐し、翌年恵果から付法を受けて密教の正嫡となった。
 密教の正統を示す灌頂の血脈として大日如来・金剛薩埵・竜猛・竜智・金剛智・不空・恵果・空海を付法の8祖といい、密教を護持流伝した竜猛・竜智・金剛智・不空・善無畏・一行・恵果・空海を傳持の8祖という。
 真言宗が祖としての独立を公認された時期については見方によって異説があり、教理史上からは空海の主著「十住心論」の成立したとされる天長7年(830)説、事相史上からは弘化3年(812)・4年の高雄山灌頂と遺誠の成立を重視する説、教団史上からは弘仁7年の高野山開創時とする説、同14年の東寺勅賜と「三学禄」進献の時点を取る説、あるいは、承知2年(835)の真言宗年分度者の勅許に至って完成したとする説など様々である。

 最澄は、すでに弘仁4年の書状で真言宗、同2年に秘密宗の名称を使用している。空海時代の真言宗は高雄山寺・高野山金剛峯寺・東寺を中心として形成されたが、空海は金剛峯寺・東寺が未完のまま高野山で生涯を終えた。
 承和4年8月、真言の法教が辺境にまで普及していないため、真言宗諸国講読師選任の勅許を得て、諸国に宗分講読師を常置して宗の伝導が公認された。一方、承和3年の山城額安寺をはじめとして各地に真言別院が設置され本末体制の基礎ができた。
 空海の直弟子時代は東寺(実恵)・貞観寺(真雅)・神護寺(真済)・安祥寺(恵運)・海印寺(道雄)・修禅寺(杲隣)・禅林寺(真紹)・金剛峯寺(真然)などが、それぞれ檀越を擁して独立寺院箇したため宗としての組織的発展は見られず、特に真然は極端な高野山中心主義をとったため、東寺・神護寺との間に年分度者の設置や「三十帖策子」の帰属をめぐる紛争を起こした。
 東寺長者観賢は「三十帖策子」事件を利用し策子を東寺に取り戻すとともに東寺中心の真言宗本末体制を確立して金剛峯寺・神護寺・禅林寺・円堂院・醍醐寺・円成寺・勧修寺・遍照寺・曼荼羅寺などを東寺末寺に組織化した。一方、『東大寺要録」によれば東大寺末寺として石山寺・長谷寺・東寺・海印寺・仁和寺・醍醐寺・勸修寺・金剛峯寺などが挙げられている。
 これは空海が東大寺で具足戒を受け、のちに真言院を建立したことと、真言宗僧の東大寺別当就任をはじめ東大寺真言化とが最大の原因であろう。真言宗僧侶の本貫は明治初年まで東大寺真言宗が圧倒的に多かったことも注目される。真言宗の本寺となった東寺は代々
貴族出身の僧が長者を独占した一種の事務所であった。
 これに対して弘法大師諡号以後は大師入定信仰の普及とともに信仰上の中心は高野山が占めた。昌泰2年(899)宇多上皇が益信について落飾、延喜元年(901)東寺で両部の灌頂を受けて以来、仁和寺は法親王を中心とした後続出身者が相次ぎ、御室と称して貴族化し、一方、聖宝は小野の醍醐寺によって山岳信仰を吸収して真言宗の二大潮流の基を形成した。
 これらは元来教義や法流との関係はなかったが、広沢遍照寺の寛朝、小野曼荼羅寺の仁海が出るに及んで、両者の住所に因んで、事相史上、いわゆる野沢二流(小野流・広沢流)が生まれた。この根本二流は、師伝の相異に基づてそれぞれ6派に分かれて、野沢根本十二流を形成した。広沢六流とは仁和御流・西院流・保寿院流・華蔵院流・忍辱山流・傳法院流をいい小野六流とは安祥寺流・勧修寺流・髄心院流(小野三流)、三宝院流・理性院流・金剛王院流(醍醐三流)で伝法院流は覚鑁を流祖として新義真言豊山派本流となる。高野山の明算は小野流から分かれて中院流を創めた。
 鎌倉時代には36派、室町時代には70余派を数えるに至ったが実相上の分派は教団上の派閥たり得なかった。
 院政期に覚鑁が高野山に金剛峯寺末寺大伝法院を開き、座主職を東寺長者より奪い返して東寺に対して高野山の独立を企てたが失脚して根來寺に退いた。のちに新義真言宗の祖と称されたが、古義に対する信義の確立は、豊臣秀吉の根來寺征伐の後、天正45年(1587)長谷寺に入った専誉、慶長5年(1600)洛東に智積院を開いた玄宥の時代で、両山を本寺として豊山・智山派と称する。古義は関西、新義は東日本に多い。
 大師信仰の伝播、寺領荘園の成立に伴い真言宗は全国に普及し、本末組織の基礎の上に真言宗教団が樹立したが明治維新以降は分派独立と聯合を繰り返して現在に至っている。

(引用・参考文献-国史大辞典)
 
   信州  しんしゅう  
信濃国の別称。現在 の長野県。
 
   壬申地券  じんしんちけん  
 明治5(1872年)6月租税頭〔そぜいのかみ〕に就任した陸奥宗光は、翌7月かねての抱負にもとづき全国すべての土地について地券を発行すべき大蔵省達を発した。これにより1872年から1873年にかけては発行交付された地券が1872年の干支にちなんで壬申地券とよばれた。
 
 
   仁政  じんせい  
思いやりのある優れた政治。
 
   新造  しんぞう  新しく作ること  武家や裕福な町家の妻。
 
   神葬祭  しんそうさい  
神道式で行われるお葬式のこと。
 
    進退  しんたい・しんだい    
意のままに取り扱うこと。身の処置の仕方。立ち居振る舞い。
 
   新田   しんでん  
江戸時代に開発した田地。それ以前は墾田という。  対語→本田

※参考資料→田堀りの思い出
   新田開発  しんでんかいはつ  
江戸時代、原野・山林などに新しく耕地を開発したこと。幕府、諸藩は、増収収策として積極的に奨励した。しかし、寛文期には開発は、山崩れや川欠けの原因になるという理由で禁止したこともある。
新田開発は、土豪開発新田・代官見立新田、村請新田、町人請負新田などがある。
石黒の花坂新田や板畑の雪積もりの新田開発は町人請負新田にあたるものと思われる。

石黒村花坂新田の開発
 
   新田畑村  しんでんはたむら   
 江戸期から明治22年の村名。。
 また、明和年間代官風祭甚三郎によりグミが植えられた。天保8年明細帳では家和24戸・人口108人。
 諏訪神社は、天正2年上杉景勝の命により信州より勧請と伝えられる。明治22年藤井村の大字となる。 藤井堰西江の分水を用いる。
参考文献 角川地名大辞典・柏崎市史
 
   神道  しんとう   神道(しんとう)は、日本の宗教。山や川などの自然や自然現象、また神話に残る祖霊たる神、怨念を残して死んだ者などを敬い、それらに八百万の神を見いだす多神教。自然と神とは一体的に認識され、神と人間とを取り結ぶ具体的作法が祭祀であり、その祭祀を行う場所が神社であり、聖域とされた。
神道は古代日本に起源を辿ることができるとされる宗教である。宗教名の多くは日本語では何教と呼称するが、宗教名は神教ではなく「神道」である。伝統的な民俗信仰・自然信仰を基盤に、豪族層による中央や地方の政治体制と関連しながら徐々に成立した。また、日本国家の形成に影響を与えたとされている宗教である。
 神道には確定した教祖、創始者がおらず、キリスト教の聖書、イスラム教のコーランにあたるような公式に定められた「正典」も存在しないとされるが、『古事記』、『日本書紀』、『古語拾遺』、『宣命』といった「神典」と称される古典群が神道の聖典とされている。森羅万象に神が宿ると考え、天津神・国津神や祖霊をまつり、祭祀を重視する。浄明正直(浄く明るく正しく直く)を徳目とする。他宗教と比べて現世主義的といった特徴がみられる。神道とは森羅万象を神々の体現として享受する「惟神の道(かんながらのみち、神と共にあるの意)」であるといわれる。教えや内実は神社と祭りの中に伝えられている。『五箇条の御誓文』や、よく知られている童歌〔わらべうた〕『通りゃんせ』など、日本社会の広範囲に渡って神道の影響が見受けられる。
 神道は奈良時代以降の長い間、仏教信仰と混淆し一つの宗教体系として再構成されてきた(神仏習合)。一方で伊勢神宮のように早くから神仏分離して神事のみを行ってきた神社もある。明治時代には天皇を中心とした国民統合をはかるため、全ての神社で神仏分離が行われた。

神道と仏教の違いについては、神道は地縁・血縁などで結ばれた共同体(部族や村など)を守ることを目的に信仰されてきたのに対し、仏教はおもに人々の安心立命や魂の救済、国家鎮護を求める目的で信仰されてきたという点で大きく相違する。
 神道は日本国内で約85,000の神社が登録され約1億600万人の支持者がいると『宗教年鑑』(文化庁)には記載があるが、支持者は神社側の自己申告に基づく数字であり、地域住民をすべて氏子とみなす例、初詣の参拝者も信徒数に含める例、御守りや御札等の呪具の売上数や頒布数から算出した想定信徒数を計算に入れる例があるためである。このため、日本人の7割程度が無信仰を自称するという多くの調査結果とは矛盾する。
(ウェキペディア)
 石黒村の神社
   身上潰れ  しんしょうつぶれ  
財産を失い暮らしが成り立たなくなること。
 
   神水  じんずい・しんすい
誓い 神聖な水を飲んで同心の誓をたてること。
 
 
   仁政 じんせい  思いやりのある情け深い政治。  
   身代限り
 しんだいかぎり

負債返済に全財産を当てること。
 
 
   新宅の広め しんたくのひろめ
住宅を新築した時の祝い。
 
 
   新田 しんでん 
 江戸時代に開発した田地、それ以前は墾田(こんでん)と呼んだ。新田開発で成立した村→谷川新田、市野新田など。
 新田には村高に加算される「持ち添え新田」と新開の耕地によって新しい村をつくる「村立新田」の2種がある。後者は「新田村」と呼ばれたが、享保15の令によりそれ以後の開墾の地に新たに村を立てた場合、これを村と称せず「〇〇新田」と称することにした。
 ・新田御高入書上帳
  人馬賃銭  しんばちんせん  
街道の宿場で人馬を継ぎたてた時に支払う代金。
 
   人馬継立 しんばつぎたて 
宿場から宿場へ人馬を代えながら公用の貨物や旅客を送ること。
 
 
    人馬触当  じんばふれあて   
宿の問屋などが先触れに従って宿内、または助郷村に人馬の提供を割り当てること。   →
人馬割り
 
   人馬役  じんばやく  
宿場から宿場へ公用の貨物や旅客を継ぎたてる仕事にあたる役。
 
   真筆  しんぴつ  その人の本当の筆跡。   
  神木   しんぼく  神社の境内にある木。  
   新掘  しんぼり  
新たにつくった掘割り   新たに道などつくること。
 
   陣屋   じんや  
郡代・代官・地頭などの事務所。戦時に軍兵が駐屯するところ。
 
    新暦  しんれき   

明治維新後に、太陰太陽暦に替わって太陽暦の暦。グレコリウス暦 
対語-旧暦
 
   す・さす・たり
 使役の助動詞として→例 為差出→さしださせ。
断定・指定を表わす助動詞として→例 為禁制→きんせいたり
                        可為曲事→くせごとたるべし
 
   水旱  すいかん  
洪水と旱魃または、それによって起こる作物の被害。
 
   水車稼  すいしゃかせぎ  水車を利用して粉を挽いたりして生計を立てること。 水車渡世  
   水損  すいそん  
豪雨や台風などで水害をこうむること。  
水損場
 
   水腐  すいふ
水害で稲が成熟しないこと。
 
   水腐場  すいふば   
江戸時代、水腐によって年貢を免除された場所。
 
   随分  ずいぶん  
極力 できる限り。
 
    水論   すいろん   
灌漑用水の配分をめぐり起こる争い。   水あらそい。
→石黒の昔の暮らし-四季の農作業
 
   末々至迄  すえずえにいたるまで  身分の低い者も含めて 末々迄  
   周防国 すおうのくに   現在の山口県東部。  
      すき   
土地を掘り起こす農具の一つ     
鋤鍬(すきくわ)
 
   杉木  すぎき  スギの木  杉皮(石黒では昔から仮小屋の屋根材などに使われた)杉林  杉丸太
 
     すき
場所の隙間。  暇。  油断。         
 
   数寄屋  すきや  
茶の湯のための小さな建物
 
   救米  すくいまい  
飢饉などで困窮している人々に施す米。
 
   救籾  すくいもみ
救い米に同じ。籾ので保存する方が劣化を防ぐことができる。 
 
  撰立   すぐりたて     
よりすぐって揃える。 撰びぬく。
 
※古文書では年貢米の選別に使われる場合が多いが千石どおし」などのなかった時代では大変な作業であったに違いない。 
 ※百姓往来
「年貢は、年貢米の付加税ともに米のもみ等がないよう吟味して納めること。
米のよしあしを見分け、升を使って正しくはかり、名主が立合って、縄・俵は注意深く蔵に納め、(それから)年貢米を港へ輸送する。とりわけ滞納ないよう心懸けるべきこと(意訳)」
 百姓往来
    菅笠  すげがさ  
カサスゲを主な材として作った笠。スゲガサ、ヤマガサ、三度笠など。
 
 
   助郷  すけごう   
宿場に常備の人馬が不足した場合に近郷の村々に人馬を負担させる制度。またはその課役や村々のこと。  
助合   助郷村々
※僻村の石黒村では金納で代替えしたものであろう。
 
   助郷人馬  すけごうてんま  
助郷村が負担する人足と伝馬。
 
 助番  すけばん  
当番の者に代わって勤めること。またはその人。
 
   生業  すぎわい  
宿業。世渡りの手段。
 
   宿生  すくせ  過去の世。前生。  
     すじ  
その方面の事柄・関係者。  様子。 
 
   筋合  すじあい
物事の根拠・道理。 
 
   煤掃  すすはらい  正月前にする大掃除→参照 石黒の年中行事-すすはき  煤籠  
  裾花川   すそばながわ  
長野県と新潟県との境にそびえる高妻山(標高 2,353m)に源を発し、長野県長野市を流れる信濃川水系の一級河川。江戸時代には、「煤鼻川」「煤花川」とも表記された。
現在では長野市中心市街地の西縁を流れ間もなく、丹波島橋近くで犀川へ合流する。
 
   頭陀袋  ずだぶくろ  
本来の用途は僧衣を入れるための袋であったが、時代を経ると、衣だけでなく托鉢で供養してもらった物などや仏具なども入れるようになった。今日では、雑多な物を入れて持ち歩く袋を「ズタ袋」と呼ぶようになった。

 
      
 の解説へ
 
   聖王   せいおう  
徳があり立派な政治を行う王・君主のこと。
 
   生業  せいぎょう
 生計をたてるための職業のこと。  なりわい。
 
   制度  せいど  
制定された決まり。 規則。
 
   政道  せいどう
政治の道。   
制道-せいとう。 
 
   拙方   せっぽう  自分方をヘリ下って呼ぶ語。   藍沢南城書簡-1
   生民 せいみん   
国民。人民。
 
   瀬下平七  せじもへいはち  
幕末の頃の上条組の大肝煎。白河藩の時代に刈羽五組制度が成立し五大肝煎が各組に置かれた。上条組は、明和期(1764~1772)の記録で下組は関矢で変わらないが、上組は早くも飯塚弥兵衛に代わって宮川四郎兵衛となり、さらに文化期(1804~1818)には上組は山田健介(下山田)、下組は山田甚三郎(山甚・やまじん)が大肝煎となり幕末に至ったが、慶応四年に山田甚三郎が瀬下平七に代わっている。
(参考WEBSITE-「柏崎通信」)
 
   専門学校

(※明治5年の布告に記載される名称の専門学校)
  せんもんがっこう  
 明治年初期、洋学系の大学南校・大学東校は独立し、次第に洋学者が国学者・漢学者を圧倒するようになった。ついで明治4年7月18日(1871年9月2日)文部省設置とともに「大学」自体が廃止され、7月21日に文部省の管轄下に入った大学南校・東校はそれぞれ「南校」・「東校」と改称、明治5年8月(1872年9月)の学制により両校は「中学校」ついで「専門学校」と規定された。
(その後南校→開成学校(のち東京開成学校)、東校は→東京医学校と改称され、明治10年に発足する「東京大学」(旧称)後の東京帝国大学の前身となる)。

 
  捨子   すてご  
江戸時代には堕胎間引きとともに捨て子が多かった。捨て子は、特に生活が不安定な都市部の下層民の間に多く見られ、その要因が多くは生活の困窮や不安定化、家族・人間関係のつながりの弱さなど外部環境の変化にあった。
綱吉の悪法といわれる生類憐みの令のねらいのひとつは捨て子対策であったとする説もある。
 
  捨牛馬   すてぎゅうば  
病気に罹り回復の見込みのない馬や牛を飼主が遺棄すること。当時は死んだ牛馬の処理は、被差別部落の仕事となっていて革製品となり重要な収入源でもあった。(当時は牛馬の肉を食する習慣はなかった)
 
  捨札   すてふだ  
罪人の処刑にあたって氏名・年齢・罪状を記して刑執行後30日間立てておいた高札。
 
   捨文  すてぶみ  評定所などの門前に訴状を密かに置くこと。挨拶程度の手紙。  
   砂田起  すなだおこし  
砂が入り耕作できなくなった田畑を復元すること。 
砂田起免
 卯御年貢割付の事-石黒村
     すなわち  
その時、当時、そこで、それゆえ、そうして、言い換えれば、さて、等の意味。
 
    砂入 すないり    
砂が入り、耕作できなくなった田畑。
 
   済方   すましかた  清算すること。仕事をやり遂げること。  
     すます  
成し終える。返済する。解決する。    
済方-すましかた
 
   墨印  すみいん・ぼくいん  
黒色で押した印。
 
   済口  すみくち  
訴訟等で和解が成立し訴えの取り下げを願い出ること。和解成立。
済口證文
 
  墨付   すみつき  
文書の丁数。幕府や諸大名が家臣に下付した文書。手紙₋自筆の手紙
 
   住吉社  よししゃ  
住吉大神を源の祭神とし全国に見られる神社。総本社である大阪の住吉大社を筆頭に、下関市の住吉神社、福岡市博多区の住吉神社の三社を指す。この3社を日本三大住吉とも呼ぶ。。
 
   炭年貢  すみねんぐ  炭の生産にかかわる人に課した雑税の一種。  
   巣山  すやま  タカの巣を保護するために出入りを禁じた山。  
  受領  ずりょう  江戸時代,職人や商人が、その道で優れていることを認められて、御所表より国名をつけた一種の位階を名乗ることを許されること。  
   駿河国  するがのくに  
  現在の静岡県中・東部。
 1192年に源頼朝が鎌倉幕府を開き、畿内の朝廷と東国の幕府二つの政権が並立する時代では、両地域を結ぶ東海道の要衝。また、鎌倉時代には、円爾が安倍川流域で緑茶栽培を広めた。
 戦国時代には、今川氏の地盤となる。義元の時代には、駿府(静岡市)には、戦乱を逃れた京の都の公家や文化人が転入し「東(国)の都」、あるいは「東(国)の京」、と呼ばれる繁盛を見せた。
 義元が桶狭間の戦いで戦死すると、武田信玄や徳川家康の統治下に置かれた。駿府の今川館は、家康の時代に駿府城として改修された。1590年に家康が駿府から江戸に移ると、中村一氏が入った。
 江戸時代初期には、江戸幕府を開いた家康が、大御所として再び駿府で過ごした。江戸時代には、直轄地である駿府の西の守りとして田中藩が、東の守りとして小島藩が置かれた。この他にも、東海道の宿場町が多く誕生した。中でも、大井川は架橋や渡船が禁止されたため、旅人は川越によって渡川するほかなく、両岸に位置する島田宿と金谷宿は、川越で盛えた。
(
ウェキペデア)
 
   
 
 すん  
長さの単位で1尺の十分の一(約3.03㎝)※6尺→1間 10尺→1丈。
 
   寸紙   すんし  
短い手紙、または自分の手紙の謙譲語。小さな紙や紙の切れ端。
 
    寸楮  すんちょ   
自分の手紙をへりくだって呼ぶ語。
 
    征夷代将軍  せいいだいしょうぐん  
武家政権での最高権力者。 将軍   大樹
 
   制禁  せいきん  
制度として禁ずること。
 
 誓紙  せいし  
誓の言葉を書き記した紙。 →
起請文  誓文
 
   誓詞  せいし  神仏などに誓う言葉。  
  勢州   せいしゅう
→伊勢国。 現在の三重県の大半、桑名藩を含む。
 
   政体書   せいたいしょ  
 明治新政府が五箇条の御誓文に基づいて,慶応4 (1868) 年に発布した政体組織法のこと。15ヵ条から成り,政権を太政官に集中し,その太政官の下に議政,行政,神祇,会計,軍務,外国,刑法の七官をおき,三権分立主義の立場から,議政官に立法を,刑法官に司法を,そして他の五官に行政をそれぞれ担当させ組織を示したもの。
 
   正路  せいろ・しょうろ
 正しい道。  正しい方法。   正直。        
 
     せき
 
用水を取り入れるため川をせき止めたりして水位を調節する仕掛け、構造物。
※石黒川から取水し門出に通じる、宮川四郎兵衛によって享保5年に造られた「宮川堰」は郷内では有名であった。ごく最近まで使用されていた。
 
   堰揚  せきあげ
 川の流れをせき止めて水位を上げたり、逆流をさせたりして用水としての使うこと。堰上
 
    関川村  せきかわむら   
江戸時代から明治22年の村名。頚城郡に属す。初め高田藩領。天和元年幕府領、貞享2年からは再び高田藩領。
 村高は正保国絵図では27石余、天和高帳75石余、天保郷帳97石余。天和検地では反別田6反余・畑3町余。文化8年村明細帳によれば家数62軒、人口357人。
 豪雪の土地柄にで農業の他は街道の宿場稼ぎで生計を立てる者が多かった。
江戸時代初期、北國街道(追分~直江津)は佐渡から産する金の輸送路として重きをなし、当村に関所があった。江戸前期は高田藩支配の口留め番所であったが、元禄年幕府支配の関所となった。関所付けの村として関川宿は北に隣接する上原村と合宿をなした。文化8年村明細帳によれば家数62(うち問屋2、旅籠屋10)。人数357、馬31、また、関所を通って川向かいの野良仕事に出る女のために関川・上原・田口新田の3カ村には女通札100枚を配布してあった。
 寺社は赤沢入りの天神社、南の真宗大谷派浄善寺。寺子屋は浄善寺庫裏を借りて関山小学校付属関川校が開校。同10年に北林に校舎を新築移転。同17年独立して関川小学校となる。
 明治12年からは中頸城郡に所属。同17年連合戸長役場を置く。同21年の戸数195軒、人口911人。同22年市制町村制施行により関川村となる。
 明治26年碓永トンネルが開削竣工し国鉄直江津~上野間が全通。同34年名香山村関川となる。昭和30年妙高高原村。同31年か妙高高原村の大字。昭和33年田口から役場が移転。大正11年妙高温泉と改称。
   参考文献-角川地名大辞典・上越市史
 一札
   堰口  せきぐち
 堰から水を流す所。堰から用水路の水を取る所。
※石黒~門出までの、宮川堰(宮川四郎兵衛によって作られた堰)の堰口は石黒寄合地内にあった。
証文の御事-田辺₋重順文書

 
取り替わし申す川瀬違い取極め一札の事-石黒側
   堰浚  せきざらい  
堰に溜まった砂やゴミを取り除き流れをスムーズにすること。
 ※石黒では「えまるさらい」と呼び、村の共同作業の一つであった。
 
   関所  せきしょ
国境などに設けられた、通行人や荷物などを検査し違法の侵入や脱出を取り締まる施設。
特に厳しい関所(重関所)としては、箱根・新居・木曽福島・碓氷の関所が有名。
越後国では関川の関所がある。
 一札
   関所女手形  せきしょおんなてがた  関所を通るために婦女子が必要とした手形。  
   尺素  せきそ  
短い手紙。尺書。
 文例-明治初期の書簡
   関札

関所手形
 せきふだ

せきしょてがた
 
関所を通行するために必要な札・手形。身分証明書。
※関所手形は原則として一関所1通で関所の数だけ必要ということになる。関所では全文を写し次の関所で使う手形を作成してくれた。また、関所によっては差し出した手形に通過月日を記入しそのまま次の関所でも使えるように取り計らう所もあったという。
 
関所手形 関所札
※箱根・新居・木曽福島・碓氷といった検査が厳しい関所を通る時に携帯していなければならない手形。越後では信越国境の要路にある関川の関所は、越後5ケ所の関所の内で唯一つ重関所(対語‐軽関所)であった。
   女衒  ぜげん  女を遊女屋にうる斡旋屋。  
   善根村  ぜごんむら  
。明治22~34年の刈羽郡の自治体名。大字は編制せず。明治34年中鯖石村善根となる。昭和32年から柏崎市の大字となる。
 
   施主  せしゅ  布施を行う人。仏教上の善行として、寺院・僧侶や困窮している人に金品を与える人。 または、葬式・法事などの供養をする主人役。  
   剰水  せせなぎ  台所の流しの直接入る溝。※資料「石黒の昔の暮らし」住居  
   瀬地替え せちがえ   
川の流れる場所を変え、蛇行した所に新田開発をしたり、山に隧道を堀り川に連結して橋の要らない農道や村道にすること。
 取り替わし申す川瀬違い取極め一札の事-石黒側
   雪陰  せついん・せっちん  便所のこと。かわや。※石黒では「せんち」と呼んだ。→資料-石黒の昔の暮らし-せんち  
   節季  せっき  
一年の終わり。歳暮。商家では収支決算の日。
※昭和時代までは石黒では普通に使われた言葉。
 
    摂津国  せっつのくに   
現在の大阪府西部と兵庫県東部→摂州国の別称
 
   畝引検見   せびきけみ   
不作により収穫量が平年より減った場合は減少分を反別に換算して総反別から差し引く検見法。
 
   畝歩  せぶ  
田畑の面積を表す→反別と同じ
 
   拙方  せっぽう  
自分方をへりくだっていう語。
 
   瀬取  せどり  
洋上において船から船へ船荷を積み替えることを言う。一般的には親船から小船へ移動の形で行われる
 
     ぜに  
江戸 時代における、銅、鉄製の貨幣のこと。金、銀製の貨幣に対して銭といった。
一銭六十四貫二百文
一金三両二分一朱也
 
   世話人   せわにん
縁談や取引の仲介者。 面倒をよく見る人。
 
 
   鑃立   せりたて
 急がせる。催促すること。 迫立
 
   遷延  せんえん  
のびのびにすること。
 
      ぜん   料理を載せる台。    石黒の民具→箱膳  皆朱膳  内朱膳   
  
膳椀-ぜんわん
 
  無詮方    せんかたなし   なすべき方法がない。仕方がない。  
    先規  せんき   
以前の規則。 先だって。
 
   鮮魚御役銀 せんぎょおやくぎん
 海に面した柏崎町においては魚商いは、古くからの重要な生業として継続してきたものであろう。当時、考えられる村は宮川、荒浜、中浜、下宿、鯨波、笠島村、その他柏崎浦浜(納町)があげられる。柏崎市史によれば役金は下宿が15両、三両一分が中浜、四両三分が納屋町から出されている。
 
   善光寺地震  ぜんこうじじしん  
善光寺地震は、弘化4年3月24日(1847.5.8)、午後10時ごろ信州の善光寺平を震源とし直下型地震で、付近に多大の損害をもたらした。規模はマグニチュード7.3~7.4。死者8千~1万数千人(大半は善光寺御開帳に集まった参詣人)、家屋の倒壊焼失約1万5千。また、5日後には現在の上越市高田付近でM6.5の誘発地震があった。
 山崩れで長野盆地は大洪水となった。とくに、犀川で生じた河道閉塞と閉塞箇所の決壊による洪水は、新潟県の信濃川流域でも大きな被害をもたらした。
 詳しくは、岩倉山、現在の国道19号線水篠橋付近で岩倉山の斜面の大規模な崩落で犀川がせき止められて出来た堰き止めダムの規模は実に、高さ65m、幅650m、長さ32㎞で琵琶湖の1,2倍の面積であるという。(推定水量3,5億㎥)これにより上流の村々は水没し、下流の川は歩いて渡られるほどとなる。しかし、ダムの水量が限界に達すると決壊することは明らかで19日で満水となりついに決壊した。この時の洪水の高さは長野盆地に出る前の地点である小市村で20m、洪水が流れ込んだ千曲川で6m、新潟県の長岡でも1,5mに及んだ。この決壊による被害は流失家屋は3千余軒、死者は77人(あらかじめ予想されたため死者は少ない)。また、これによる川的な中島の穀倉地帯は壊滅的な被害をうけた。
 江戸時代には
「信濃大地震」、「信越大地震」、「弘化大地震」などと記録されたが、今日では一般に「善光寺地震」と呼ばれている。
※石黒村の大野でも14戸の家が壊れて住居できなくなる。古文書によれば1mほどの割目や段差が出来た。

 
資料-1恐れ乍ら書付を以て御拝借願い奉り候


大地震-弘化4年


乍恐以書付御注進申上候
    先規  せんき   
以前からの決まり、仕来たり。 先例。
 
   詮議  せんぎ
 罪人の取り調べ。  評議によって物事を明らかにすること。僉議
 
    前顕  ぜんけん  
 以前から書き記したこと。以前に明白にしたこと。
 
   千古  せんこ   太古から現在にいたるまで。大昔のこと。  
   善光寺   ぜんこうじ
 千善光寺(ぜんこうじ)は、長野県長野市元善町にある無宗派の単立寺院で、住職は「大勧進貫主」と「大本願上人」の両名が務める。日本最古と伝わる一光三尊阿弥陀如来を本尊とし、善光寺聖の勧進や出開帳などによって、江戸時代末には、「一生に一度は善光寺詣り」と言われるようになった。今日では御開帳が行われる丑年と未年に、より多くの参拝者が訪れる。

①概要
山号は「定額山」(じょうがくさん)で、山内にある天台宗の「大勧進」と25院、浄土宗の「大本願」と14坊によって護持・運営されている。「大勧進」の住職は「貫主」(かんす)と呼ばれ、天台宗の名刹から推挙された僧侶が務めている。「大本願」は、大寺院としては珍しい尼寺である。住職は「善光寺上人」(しょうにん)と呼ばれ、門跡寺院ではないが代々公家出身者から住職を迎えている(浄土宗では大本山善光寺大本願の法主)。2014年(平成26年)現在の「善光寺上人」(「大本願上人」)は鷹司家出身の121世鷹司誓玉である。

古えより、「四門四額」(しもんしがく)と称して、東門を「定額山善光寺」、南門を「南命山無量寿寺」(なんみょうさんむりょうじゅじ)、北門を「北空山雲上寺」(ほくくうさんうんじょうじ)、西門を「不捨山浄土寺」(ふしゃさんじょうどじ)と称する。

特徴として、日本において仏教が諸宗派に分かれる以前からの寺院であることから、宗派の別なく宿願が可能な霊場と位置づけられている。また女人禁制があった旧来の仏教の中では稀な女性の救済[2]が挙げられる。

三国渡来の絶対秘仏の霊像と伝承される丈一尺五寸の本尊・一光三尊阿弥陀如来像が本堂「瑠璃壇」厨子内に安置されている[3]。その姿は寺の住職ですら目にすることはできないとされ、朝の勤行や正午に行なわれる法要などの限られた時間に金色に彩られた瑠璃壇の戸張が上がり、瑠璃壇と厨子までを拝することが通例とされる。数えで七年に一度の御開帳には、金銅阿弥陀如来及両脇侍立像(前立本尊)が絶対秘仏の本尊の分身として公開される。

また、日本百観音(西国三十三所、坂東三十三箇所、秩父三十四箇所)の番外札所となっており、その結願寺の秩父三十四箇所の三十四番水潜寺で、「結願したら、長野の善光寺に参る」といわれている。

②伽藍
本尊の阿弥陀三尊像(一光三尊阿弥陀如来像)を安置する。1953年に国宝に指定された。現存する本堂は宝永4年(1707年)の竣工。設計は甲良宗賀(幕府大棟梁甲良氏3代)が担当した。二階建のように見えるが、建築形式的には一重裳階付(いちじゅうもこしつき)である。屋根は檜皮葺きで、屋根形式は撞木造(しゅもくづくり)という特異なものである。これは入母屋造の屋根を丁字形に組み合わせたもので、堂の手前の部分は南北棟、奥の部分は東西棟になり、上方から見ると大棟の線が丁字状になっている。平面構成は正面5間、側面14間の身舎(もや)の周囲に幅1間の裳階をめぐらした形になり、裳階部分を含めた平面規模は正面7間、側面16間となる(以上の説明文中の「間」は長さの単位ではなく柱間の数を表す)。実長は間口24メートル、奥行54メートル、棟高26メートルで、間口に比して奥行の深い、日本の仏堂には特異な平面である。建物南正面の奥行1間分は壁や扉を設けない「吹き抜けの間」とし、その先の奥行4間分が外陣、その次の奥行5間分が内陣、建物のもっとも奥が内々陣となる。内々陣は西(向かって左)に秘仏本尊の阿弥陀三尊像を安置する瑠璃壇があり、その前に常燈明(不滅の法燈)がある。東(向かって右)は開山像を安置する「御三卿の間」である。「御三卿の間」には開山の本田善光と妻の弥生御前、子の善佐の像を安置する。このほか、外陣に閻魔王像、内陣に地蔵菩薩像と弥勒菩薩像などを安置する[4]。国宝の附(つけたり)指定となっている厨子は「御三卿の間」にあるもので、寄棟造、本瓦形板葺きとする[5]。[6]

③他の建物
かつては南大門、五重塔、中門・回廊、本堂と一直線に並んだ配置であった『一遍聖絵』。また、長野県立歴史館は、現在より南側に善光寺があったと展示・解説する。
山門
経蔵
日本忠霊殿・善光寺史料館 - 日本忠霊殿は、戊辰戦争から第二次世界大戦に至るまでの戦没者を祀る慰霊塔。
仁王門
鐘楼・梵鐘
雲上殿
大勧進
大本願
釈迦堂
宝物館
ぬれ仏(延命地蔵尊) 享保7年、善光寺聖・法誉円信が全国から喜捨を集めて造立した延命地蔵尊で、明暦の大火を出したといわれる八百屋お七の霊を慰めたものという伝承が伝えられているため、俗に「八百屋お七のぬれ仏」とも呼ばれている。
六地蔵
爪彫如来
御供所 仏に献ずる供物を調理したり、寺僧が集まったりする[7]。
法然堂 法然が宿泊したと言われ、法然の像を安置[8]。
六字名号碑 融通念仏を血脈に加えた時の石碑[9]。
 弘化4年 大地震
   千石  せんごく  臼で挽いた米を小糠や砕け米、不稔米などと分ける農機具。
 →石黒の民具-資料  
千石とおし  千穀 
 
   千石船  せんごくぶね  
一般に、江戸時代の大型船のこと。
 
    銭座  ぜんざ   銭貨を鋳て発行した役所  
   前栽  せんさい  農家の家の周りに植えた作物、またはその場所。※石黒では「せんぜぇ」と呼んだ。  
   禅宗  ぜんしゅう  
禅を説く教えの宗派の総称。 日本の禅宗 は、臨済宗・曹洞宗・黄檗宗(おうばくしゅう)の三宗を指す。
 
   前書  ぜんしょ  →まえがき  
   先負日 せんぷにち   陰陽道にて、訴訟急用において忌む日。  
   仙納 せんのう   
鯖石川源流に位置する。
 同22年北山村大字となる。明治34年山平村、昭和29年松代村。同年10月からは松代町の大字。仙納小学校は田野倉に移転し北山尋常小学校となる。
 
    草鞋  そうあい・わらじ  石黒の民具-わらじ  
   雑木  ぞうき  けやき等以外の用材とならない木。主に燃料として使われた木々。→ブナコナラミズナラナラガシワなど。  
   僧玄恵  そう げんえ  
南北朝時代の天台宗の僧・儒学者。玄慧-ゲンネともいう。
儒学や漢詩文にも通じ、後醍醐天皇や公卿に宋学や古典を講じたとある。また、代表的な往来物「庭訓往来」の作者とされている。
 ※往来物5種-大橋一成家文書
 造作 ぞうさく  
 主に天井、床、階段、敷居、 鴨居、長押など大工による工事部位のほか、造り付け家具、出窓のカウンター、ドア枠など現場で加工、取付する工事のこと。(柱、梁などの主要構造部以外の仕上げ工事のこと)
 
   惣じて  そうじて  
一般に。概して。すべて。
 
   造酒役銀  ぞうしゅやくぎん  
江戸時代,酒造業に対して課せられた酒造税のこと。江戸時代、諸藩では初期から酒運上,酒役銀などの名目で課税された。幕府は元禄10年に売上額の3分の1の酒運上を課している。
 
   宗匠  そうしゅう  
文芸・技芸などの道に熟達しており、人に教える 立場にある人。特に、和歌・連歌・俳諧・茶道・花道などの師匠。
 
   惣水流通  そうすいりゅうつう〔?〕  
各辞書にはみあたらないが、ここでの意味は村の本流である石黒川の流れる方向を示す言葉であろう。石黒川は鯖石川の支流であり源流の一つである。鯖石川
 
   草創  そうそう  
新しく物事を始めること。 神社・寺院などを初めて建てること。創建
 
   怱々頓首  そうそうとんしゅ
手紙の末尾に添える言葉の早々に同じ。 
※「怱々」は急ぐという意味。 
 
   相続  そうぞく  
続けて行うこと。先代に変わって跡目を継ぐこと。
 
   惣村  そうそん  
村全体。全部の村。
 
   惣代・総代   そうだい
 集団の代表者。→郡中総代等。   ※惣代所-惣代の事務所
 仮直段(山中村文書)
    壮丁  そうてい  
 成年に達した男子。一人前の男子
 
   惣入用  そうにゅうよう  必要経費の総額。  
    惣百姓  そうひゃくしょう   
年貢・諸役の負担義務を持つ百姓。高持百姓。
 
    惣百姓代  そうひゃくしょうだい   
村方3役人の一つ。3役では最下位であるが庄屋、組頭に対する監査役として重要な役職。→百姓代
 刈羽郡石黒村御本田御損地書上帳
   惣別 そうべつ   惣じて。およそ。すべてのこと。  
   雑物   ぞうもつ・ぞうぶつ   
こまごました雑多なもの。   臓物。 
 
   惣寄  そうよせ  
 総寄せ。 合計。
 
   僧俗  そうりょとぞくじん  
僧侶と俗人
 
   候間   そうろうあいだ ~ので、~によって 
 
例-風はけしき節ニ罷成候間火之元別而. 念入大切可仕候 
 
候趣   そうろうおもむき  ~する趣旨(言わんとする事柄)は。
       
例-御取締之儀ニ付勘弁仕候趣申上候
 
  候段  そうろうだん  前に述べたことを受け「~したことは」「~したくだり」
  例-宜敷御伝声可被下候段、御厚情被下

 
   上ハ  そうろううえは ~した上は。  例-尤実意ニ対談仕候上ハ、已来順直ニ相守  
   候得共  そうらえども  ~しましたけれど、~といえども
    
例-残念ニ奉存候得共無致方種々差縺罷在
 
  候得バ   そうらえば ~したら、 ~ので、~から   例-立服致候 候得バ 上京致候   
   候刻  そうろうきざみ  ~した折、~した時   例-久申隔候刻得好便、令啓達候  
   候条  そうろうじょう  
~したことは、  ~したという廉  ~した段  ~したこと。
 
例-助郷申付候条問屋方 より相觸次第人馬 遅參不致無滯差出し
 
   候節・候節ハ  そうろうせつ・ハ ~するときは、~する折は、~する節は。  
    
例-城米積出候節名主長百姓立合俵拵相改 
 
   候テハ そうらえては   ~しては、~したら。  
  総連印  そうれんいん  
全員が連印すること。
 
   候通  そうろうとおり  ~したとおり  
   候処・所  そうろうところ  ~したところ、~したところ、~したことは。  
   争論  そうろん 主張して争うこと。言い争う。  
   惣割 そうわり   全員に割り当てること。  
   添書 そえがき   
書画などにその由緒・由来を書き添えること。
 
   添簡 そえかん   
訴状に添えられる、頌主や代官あるいは村役人の口上書や書付。
 
   添証文  そえしょうもん  正式な証文の内容を補訂するために作成された証文。  
   麁絵図   そえず   願書や届書などに添えて提出する簡単な地図や見取り図。粗絵図  
  添状   そえじょう  人や物を送るときに、その趣旨を書き添えて送る書状。 →添簡  
   添役  そえやく  本役の者について補佐する役。  
   束刈  そくかり  
中世から近世にかけて、おもに奥羽・北陸地方にみられた田積を刈り取る束数によって示す単位。
※石黒では筆者が子どもの頃にはこの単位が主に使われた。時には「50束6把刈り」などと細かく表すこともある。
 請け作申す田地見水入証文の事 田辺重順家文書
   束修  そくしゅう
 入学・入門の際に弟子・生徒が師匠に対して納めた金銭や飲食物 のこと。 「脩」とは、元は干し肉の束10組のことで古代中国において入門 時に師匠に謝礼として納めたことに依る。
 
   齟齬  そご  
かみ合わないこと。 くいちがい。
 
   其許  そこもと  
武士が相手を格式ばって呼ぶ語。 そのあたり。 
其元 其許様
 
   麁酒  そしゅ  へりくだって酒のことを呼ぶ語。 →粗酒。  麁膳  麁食  麁地  
   訴訟方・訴詔方 そしょうかた  訴訟を起こす側。 訴訟人
 
   訴状  そじょう
領主などに願事を書いて提出した書状。訴訟の趣旨を記して裁判所に提出した文書。 
 
   租税方(明治4年)  そぜいかた
明治4)年の廃藩置県直後から、廃藩置県という中央集権への動きに対応した租税改革が大蔵省を中心にして本格化した。その動きの基本線は藩体制の解体を前提にし、領主的土地所有を否定して私的土所有権の確認に基づく租税改革を目ざすものであった。具体的には、地所永代売買解禁・私的土地所有権の確認・地券交付・租税賦課により旧貢租(現物形態)を地租(貨幣形態)として集中統一することであった。
  御布告留
   麁相・粗相  そそう  
過失 粗末な事 失礼 無礼 あやまち。
 
   麁朶   そだ  
切り取った低木や樹木の枝を薪(たきぎ)堰や堤などの用材にしたもの。→
石黒の昔の暮らし資料
 
   卒爾  そつじ  失礼。軽率。突然。にわか。 卒爾  
   袖乞い  そでごい 
こじきをすること。また、こじき。ものもらい
 
   外山  そとやま-「そでやま」と呼んだ  
県道「板高柳-板山線」の上石黒から嶺集落入口までの中間あたりから東側に入る農道がある。この道は落合集落入口で国道353号線と繋がる。この道路沿い頂上付近一帯を指す。  
 石黒村地名図
   素読  そどく  
漢字、漢文を声をあげて読みこなす学習
 
   訴人  そにん  
訴え出た人。 密告者。
 
    得其意  そのいをえ   以上の内容を了解して。納得して。  
    任其意ニ  そのいにまかせ   そちらの望み通り。  
   其段  そのだん  そのこと。その件。  
   其方義  そのほうぎ  あなたは。  
   其砌 そのみぎり   
その時。その折。
 
   其元  そのもと  →そこもと。  其下  其許  
     そも
 木の茂った山。 スギマツヒノキなどの有用な樹木の生えている山。 柚山   
   柚師 そまし   柚山で材木を切り出すことを仕事とする職人。 柚職人  
   存意  ぞんい   思っていること。本心  
  尊君   そんくん  
尊公→下項目に同じ↓
 書簡-庄屋重左衛門宛て-御用向
    尊公   そんこう
 男性が、相手の男性を敬っていう二人称の人代名詞。貴公。貴君。尊君    御尊公  
※文例→御尊公様御始皆々様御揃益御安康之筈奉賀候
 書簡 門出村庄屋より石黒村庄屋宛 
    損地  そんち
  山崩れや川欠け(洪水)などの災害で農作物が損害を被った田地。
御損地書上帳    損地改方(幕府の職名の一つ)
刈羽郡石黒村御本田御損地書上帳

石黒村御損地御改書上帳