補1
  石黒と鵜川の民家について〔草稿〕
         
 1 中門造りについて
 
数年前に市民大学の講座で、柏崎地区における農村の昔の住宅建築様式についての講義を受けたことがある。
 その講座で取り上げられたテーマは、石黒地区の「中門づくり」と呼ばれるL字型の建築様式と鵜川地区の「町屋造り」といわれるТ字型の建築様式であった。
石黒のL字造り

 1時間余りの短い講座であったので、その起源等については触れることはなかったが、私にとって、峠一つで隔てられた石黒村と鵜川村の建築様式が昔からこのように異なっていた事実に注目する契機となった。
 私が、講義後半の質疑の時間に「鵜川地区にはL字型家屋は一軒もないのか」と確認の質問したところ「一軒もない」という答えであった。
 昔から石黒村と女谷村は、塩の道と呼ばれた二本の街道で結ばれ、石黒村が女谷村の兼帯庄屋によって支配された時代も長く、密接な交流があった。にもかかわらず両村の建築様式がかくも歴然と異なることが私には不思議に思われた。
 それで、このことについて講師に「どのように考えますか」と質問したのであるが、それについての講師の考えは聞くことができなかった。

 以来、このことについて一度、実地に確かめたいと思っていたが、そのまま今日にいたった。
 とくに中門造りは、昔の農作業で重要な役割を果たした牛馬の飼育にも適し、かつ、豪雪地の除雪対策から考えても明らかに適した造りである。にもかかわらず鵜川地区には一軒も中門造りの家がないことがとても不思議に思われた。
 実際、中門造りは、石黒のみならず、豪雪地帯である近隣の門出、漆島村方面、また莇平村方面、嶺村から大島村方面の集落でも圧倒的に多い建築様式であったからである。

 幸い、先日(2009.12.10)、石黒に動植物の撮影に行った折に、実際に鵜川の中心部の集落を歩いて建築様式をこの目で確かめて見た。幸いこの日は師走の中旬にしては温かく終日穏やかな快晴であった。
 車を降りて宮原から入り、元鵜川小学校跡に建てられた綾子舞会館と静雅園、鵜川神社に立ち寄り、そこから下野集落から上野集落まで行き、高原田へと現存の家屋を見て歩いた。
上野集落から黒姫方面を望む

 鵜川地区のこの一帯はかなり広い平野であり、その周辺にこれらの集落が点在している。(左写真)
 とくに上野集落からの眺望は雄大である。西より兜巾山、桜峠、そして黒姫山が連なり、さらに上野集落から高原田集落に向けて歩いてくると、西方の兜巾山と桔梗峠との間から尾神岳の頂上付近も見える。

 この上野集落で私は、密かに期待を持って探していた中門造りらしき家屋に出会った。(下写真) この地区に見られる家屋の構えは総じて石黒に比べて大きいと思われるが、その家も大きな家であった。
鵜川地区に見られる中門造りらしき家

 それまで車以外に人に出会うことがなかったが、幸いなことに、その家の近くの畑で農作業をしておられた方に出会い、話を聞くことができた。
 私はその人に自分の抱いている疑問について説明してから、その家が元々中門造りに建てられたことを確かめ、他にもこのような造りの家はあるか尋ねた。すると、「馬を飼っていた家で中門造りの家が数軒ありますよ」との答えであった。具体的に何軒ほどあったかまでは聞くことができなかった。ただ、私は3軒までそれらしい家を確認できた。「それらしい」と言う訳は、後年、改造されて中門が造られた家もありうるからだ。
 いずれにしても、これで中門造りと思われる家が、現在も鵜川地区にもあることが分かった。〔※今後、聞き取りをして詳しく調べてみたい〕


2 中門造りと曲がり屋の比較
 石黒では、自分たちの家の造りを「中門造り」または「馬屋造り」と呼んでいた。
 一般的には「曲がり屋」などと呼ばれたり「L字形民家」などとも呼ばれることもあり、その言葉の定義が明確にされることなく使われることが多いようだ。

 建築学や住宅史の分野で、これらをどう分類して扱うものかは分からないが、国史大事典では両者について次のように記してある。
 中門造りについては「主屋の棟方向に対して直角に中門の棟を取り付ける。中門の内部には、主屋への通路、馬屋、便所などを設けるのが通常である。積雪時の便宜を考慮してこの形式が生まれたと考えられる。秋田・山形・福島会津地方・新潟県などの豪雪地帯に分布する。また、中門は主屋の前面に設けられるだけではなく背面に座敷、台所などとして突出する場合もある」とある。
 そして、曲がり屋については「江戸時代の農家の形式の一つ。馬屋と土間の一部を主屋から突出させるためにL字形となった形式。主屋にも土間があり、入り口を突出部の入隅部近くに設けるのが普通である。突出部と主屋との規模の差が少なく、突出部が小さくてその妻面に入口を設ける中門造りと区別されている。岩手県に分布しているものは「南部の曲がり屋」としてよく知られているがその他茨城県・栃木県東部にもみられる」とある。
 この解説によれば、中門造りと曲がり屋はいずれも主屋から突出したL字形の建築様式であるが次の点で区別されることになる。
@中門造りでは突出部の前側〔つま下〕に出入口があるが、曲がり屋では突出部の内側隅近くにある。
A中門造りでは、突出部は主屋に比べて小さいが、曲がり屋は大きさはほとんど変わらない。
 以上のことから、石黒の民家の造りは、やはり「中門造り」ないしは「馬屋づくり」と呼ぶべきであろう。

 では、鵜川地区の民家の造りはどう呼んだらよいであろうか。先述の民家の講座では「町屋造り」と聞いた記憶があるが、現在資料がなく確かなことは言えない。 仮に、「町屋造り」であるとして、一般的に「町屋造り」という言葉から我々が連想するのは間口が狭く奥行きの長い造りの家屋である。
 高橋義宗著「鵜川の話」によると鵜川の民家の原形は今から300年ほど前の「天領造り」〔上図〕にあるということだ。
 そして、これは昭和の前半まで多く見られた家の間取り、右の間取り図の赤線で示した基本となる間取りとほとんど同じである。
 ただ、天領造りの家屋の前面に主に玄関として使われたであろう小規模の中門をつけた造りと言ってよい。
 このことから、鵜川に現在多く見られる民家も一種の中門をもった家屋と見ることができ、中門造りと分類上別種のものとするには無理があるようにも思われる。特に現在では写真のような大きな二階玄関中門のある家も多い。
大きな玄関中門のある家

 であるなら、石黒の家屋の造りを「馬屋中門づくり」と呼び、鵜川地区の民家の造りは「天領造り」と呼んだらどうであろうか。〔石黒も同様に天領の時代が長かったのだが・・・〕

 先日、清水谷の旧家の知人にも聞いてみたが、馬屋中門づくりの家は昔から集落に一軒もないとのことであった。やはり私には、このテーマは大変興味あるものに思われる。

以下、鵜川の民家の造りを「天領造り」と呼び、記述を進めたい。

3 多雪地帯の家屋としての考察
 中門造りは、もともと日本海側の多雪地帯に発達した民家形式であるといわれる。いわば、雪が深く積雪期も長い雪国の人々の生活の知恵から生まれた家屋と言ってよい。
石黒の馬屋中門造りの家〔1960頃〕

 では、具体的にこの家屋にはどのような利点があるのか考えてみたい。
 まず、馬屋中門造りは冬季の出入口の確保という点で、前方に突出した中門の前面に出入り口がある点で有利である。中門の前面の屋根の雪が落下するが、その下に簡単なユキダナ〔雪棚〕をかけておけば落下した雪が出入り口を塞ぐことはない。〔上写真参照〕
 しかし、向かって左の主屋と中門の屋根のつなぎ目はいわゆる「ダキ」となり、沢山の雪が積もるが反対側の雪は側面に落下するので入口の障害とはならない。
石黒の馬屋中門造り間取り〔1945頃〕

この点は、天領造りはどうであろうか。出入口用の中門は主屋のほぼ中央にあり小形のものが多い。主屋の屋根の雪は出入口の中門の両側にダキをつくり出入口をふさいでしまうことが推測される。
 勿論、出入口には雪だなをかけて雪の進入を防ぐ必要があるが、出入口の確保という点では石黒の馬屋中門造りの方が有利であると思われる。
 次に、屋内の暖房という面から見ると、馬屋中門造りは出入口から三重に戸で仕切られるため、冬季の寒気の侵入を防ぐ利点もある。〔上図筆者生家間取参照〕。
 その他、馬屋中門は天領造りの玄関中門に比べて大きいので二階が利用できたという利点もあろう。
 このように、考えてみると多雪地帯の家屋としては馬屋中門造りの方が有利のように思われる。

4 まとめ
 先述のとおり、冬季間の両者の家屋の利便性について比較してみる限り、馬屋中門造りの家屋の方が多雪地帯には適しているということができよう。
 だが、家の造りを考える上では、冬季のみに片寄らず、春から秋にかけての利便性や快適性の比較も忘れてはならない。日当たり、採光、風通し、その他、茅葺き屋根の維持なども昔から家屋の形式を決める要点となったであろう。
 また、石黒に比べて鵜川地区は水が豊かであり、清水谷地区などでは、昔から家の周りに水を溜めて消雪に利用したという事実も考慮すべきことであろう。
 更に広く考えれば、鵜川地区の天領造りは300年も前から唯一の民家の建築文化として伝承されてきた形式であり、当地での家づくりでは当然のものとして受け継がれてきたものであろう
 また、現在とは異なり大工などの職人も少ない時代であり、且つ家普請は村中の共同作業に頼るところが多かった事も、異なる造り方を選ぶ余裕を与えなかったのではなかろうか。

※実地調査や聞き取りが不十分なまま、書きつづってみたが当然のことながら内容表現ともに価値の乏しい文になった。
 このことを承知してあえてHPにアップしたのは両村に住まわれた方々や民家について興味をお持ちの方々にご覧いただき御指導を仰ぐと共に今後、継続して実地調査や聞き取り調査をしたいと思ったからである。

2009.12.19
文責 大橋寿一郎
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補2
        石黒の馬頭観音について

 もともと、馬頭観音は、頭上に馬頭をつけた忿怒の相をなした観音で、馬の保護神として特に江戸時代から広く信仰されてきたという。
 現在、石黒で見られる馬頭観音は、昔の街道や農道脇に祀られたものが多い。そのほとんどが馬の遭難場所である。細い山道を重い荷をつけて通る馬の転落事故は珍しくなかったと聞いている。事故発生の場所に馬頭観音を祀り、死んだ馬の霊を弔うとともに、交通の安全を祈願したものであろう。
  (写真 2020.5.23 上石黒 地名-高床)
 馬頭観音が高柳町では石黒に最も多く見られるのは、地形的に昔の農道が山の斜面や尾根に作られていたことによるものと思われる。また、地蔵峠などに多く見られるのは、俗称松之山街道の脇街道が松代から石黒経由で鵜川に通じて馬の往来が盛んであったこともあろう。
 また、事故死した馬の他に病死した馬を埋葬した場所に立てられた馬頭観音も見られる。右の写真の馬頭観音は上石黒で七歳で事故死した馬を埋めたところに立てたものであるという。
 飼い主の話によると、「この碑の近くの道を荷を積んで下りるときに足を滑らせて倒れた。夕暮れも迫っていたが、近所の人に手伝ってもらい縄で倒れた馬を引き起こし、松の木を利用して上から吊り下げて体を立ててやったが一晩中苦しそうにもがいて、翌朝息が絶えた」という。
〔石黒中学校郷土クラブの聞き取り〕
 石黒では現在、上石黒集落に3基、寄合に2基、居谷、板畑に各1基の馬頭観音が確認できる。(
文責 大橋寿一郎)
→参考画像

特に注目されることは、石黒地区に圧倒的に多いことである。現在のように道路整備が成されない往事、重い荷物の運搬は牛馬に依らざるを得なかった。また、当時は牛より馬が多かったことが人別宗門改帳から知ることが出来る。馬頭観音の殆どが、昔の交通路かその周辺に祀らている。そしてその多くが人馬の遭難場所であったと聞いている。即ち、馬頭観音の位置を連ねることで昔の交通路を探ることが出来るであろう。(高柳町史 宗教と文化〕

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補3
     ツケギについて

 昔から石黒でも、祝いの赤飯やご馳走のお裾分けをもらったときには、その入れ物(重箱など)にツケギを入れて返す習慣があった。
 赤飯などを貰った時に入れ物を返しに行くのはいつも子どもの役目であった。子ども心にも重箱とツケギは似合わない感じがしたものだ。
 先日、昔の暮らしについての本を読んで、この習慣が、単に入れ物を空で返すことが失礼ということばかりではなく、祝いの赤飯など、幸せのお返しをする意味があったことを知った。つまり、幸せを循環させる願いが込められたものであるという。
 また、地方によってはツケギを硫黄木と呼び「祝い木」に語呂が通じることから、お裾分けのご馳走のお返しに使ったものといわれる。

 ツケギは、筆者の子ども時代(1945年ころ)には日常的に使われていた。囲炉裏近くのムシロ(座敷の敷物)の下に入れて置いて、朝、起きて囲炉裏の火を焚き付ける時に適当な幅に割いたツケギの一片を取り出す。そして、囲炉裏のホド(火床)の灰の中から昨夜の残り火を掻き出す。掻き出した残り火にツケギの硫黄のついた部分を近づけると発火して炎となる。それをあらかじめ用意した杉の枯葉に移し、更にボイ(乾燥した芝木)に移してようやく囲炉裏の火が燃え始めるのであった。
 硫黄が燃えるときに鼻にツンとくる強い匂いがしたことを今も覚えている。
 マッチもあったが、ツケギの方が安価な上に炎が大きく杉の枯葉に点火し易かったので、どこの家でも使われたのであろう。

(
文責 大橋寿一郎) 
 
補4
 タネ〔家の脇の小さな池〕について

 タネは、ほとんどの家にあった。それだけ当時の暮らしには欠くことのできないものであったのであろう。私の子どもの頃の記憶ではその利用には次のようなものがあった。
@野良仕事から帰って手足を洗う。
A鍬などの農具を洗ったり、漬けておいて柄を固定する。
B洗濯の水として使う。
C防火用水としての役目。
D融雪を促進する。
E鯉を飼う。
F草木の繊維をとるときに浸ける。

※子どもの遊び場としても忘れられない場所であった。また、カエル、ヘビや水生昆虫などの観察の場としても貴重なものであった。
 一方、タネに落ちて幼児が水死する事故も希には発生したために、子守りをする子どもはとくに気をつけた。
 (文責 大橋寿一郎)

資料→タネと土壁

補5  茅葺き屋の縁の下の利用

 ミンジョ(台所)の床板やシモベヤの前の床板は簡単に開けられるようになっていて、夏も涼しい縁の下で酒や醤油などを保管していた。
 茅葺き屋の縁の下は子どもが入って坐って遊べるほどの高さがあり、物の置き場としても様々に利用された。茶碗の欠けたものなども村の危険物入れに棄てることはなく、縁の下に入れて保管しておいて、細かく砕いて鶏に食べさせた(砂嚢の中の消化を助けるためであったか)。また、ゴム長靴の破れたものなども棄てずに縁の下に入れて置いて、使用しているゴム長靴が破れた時には、縁の下のゴム長靴の一部を切り取ってゴムのりで貼り付けて修理した。この様に、昔は、不要になったものも安易に棄てることなく保存しておいて利用した。
 また、白菜を保管しておく場所に使う家もあった。冬は、家のすべての縁の下の入り口を稲ワラの束を押し込んで覆って寒風の進入を防いだため一定の保温が出来たためだ。
 その他、幼いこどもの遊び場ともなったり、秋など昼間鶏を放し飼いにしておくと縁の下の一場所に沢山の卵を産むこともあった。
   (文責 大橋寿一郎)