実家からは、ハラオビの他に、うぶ着とツグラ巻き、おしめなどが贈られた。 隣近所に赤飯や餅を配る家もあった。オビャアキブルマイは初子だけという家がほとんどだった。 当時は、ツグラも使われた。
何しろ、当時は、赤ん坊をツグラに入れて家に置いて野良仕事に出かけなければならないような時代であった。
途中子どものことを思うと乳があふれ出て足まで伝わり落ちたものだと語る人もいる。こうしてようやく家の小路まで帰って来て、子どもの泣き声が聞こえるとホッとしたものだという。「何事もなく元気でいたことを知ってホッとした」という意味である。 |
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嫁取り (しょうげん) 当時、男女の結びつきはほとんどの場合、親が決めた後に本人の承諾で決まることが多かった。恋愛結婚もあったが極く希であった。 仲人には、一般に本家などの親類代表がなったが、実際に縁談をまとめるのは下仲人(下取り持ち)で、「したばなし(下話)」を通して話を進めることが多かった。 下話がまとまると、男の方から仲人を立てて申込み、婚約が決まると「決まり酒」をくみ交わし茶納め(結納)の日取りを決めた。 嫁取りは、農繁期を避け、3月頃に行われることが多かったという。 茶納めの日は仲人が婿の親を伴い嫁の家を訪れた。嫁の家も親類代表を招いて応対した。茶納めは大安の日の午前中に行われ、持参する品は普通、お茶と清酒2本であった。お茶は200匁(約700グラム)の大袋を2本持参したという。 婚礼の日取りが決まると、その数日前に吉日を選び荷送りをした。荷送り人足には荷渡しの後で祝儀と酒が出た。 いよいよ、祝言の日になると、朝、仲人が花嫁の家に迎えに出向き「出しょうげん」が行われた。 この席で結納が行われることが石黒の一般的な慣例であった。また、結納の帯料の半額は袴料として返されるのが普通であった。 結納が済むと、出しょうげんの宴が開かれた。 宴が終わると、花嫁は仏壇に参ってから両親に別れの挨拶をして家を出た。途中、花嫁の受け渡し場が決まっていて、そこでは両家がそれぞれ持ち寄ったご馳走や酒が見物人にも振る舞われた。祝い歌も出てにぎやかであった。 花嫁を受け取った婿方の人たちは、一杯機嫌で花婿の家に向かった。新郎の家では近所の人も集まってこれを出迎えた。 花嫁と付きの者は、婚家に入るとあらかじめ用意された小部屋に入り一休みした。これを「オッツキ」といった。 そのあとは、いよいよ披露宴である。座敷には、ご馳走の盛りつけられた皆朱または内朱のおぜんが並んだ。 本ぜんの他に二のぜん、三のぜん(引き出物)まで出されることもあった。その他、十品以上の大皿料理〔白和え、のっぺ、ゼンマイの煮しめ、松葉なます等〕と吸い物が次々と出された。 亭主役には、親類代表がなることが多かった。 座席は、デエ(客間)の正面の真ん中に花嫁、両脇に仲人夫婦が座った。その両脇には、花嫁の親と花婿の親、そして仏壇側の側面に親類総代から順に座った。 ※席順は集落によって異なった。板畑集落では花嫁は側面に座った。 当時冠婚葬祭の席順には、口うるさい人が多く、席順決めは重要事で頭を悩ます所であった。 全員が着座すると、亭主役は挨拶の中で、必ず酒の献数(こんすう)について知らせた。酒は3献で納杯となるのが一般であるが、石黒では3献と言いながら実際には5献であった。 まず、亭主役が下座中央に出て「お酒は、3献であずからしてもらいますので、親椀でどうか、お上がりください。」と述べて、席に戻り「それでは、お燗を見て差し上げたいと思います」といって親椀に酒をついでもらい一口飲んだ。
給仕が自分の席の前に座ると御客は、まず亭主役に「それではちょうだいいたします」と言い、上座の人には、「お控えなすって」と、下座の人に「お先にいただきます」と断ってから酒をついでもらうことが作法であった。 1献から3献の間に、祝い歌や踊りなどが出されにぎやかに宴が進められる。3献の後、時を見はからって亭主役は「ここでシンコン(親献)を差し上げたいと思います、どうか、みなさん召し上がってください」と言って、給仕が注ぎに回った。その後、「献あわせ(4献)がよくありませんでもう1献」ということになり、結局、5献で納めることになった。 この間、花婿は裏方にあって、もっぱら、酒の燗番に専念し、昔から「燗太郎」と呼ばれ、披露宴の座敷には出ないのがしきたりであった。 庭に集まった大勢の嫁取り見物人にも庭酒が振る舞われた。時には何斗(1斗は約18リットル)も出されることもあった。当時の若い衆の中には庭酒が足りないと雁木柱をはずすなどして催促をする威勢のいい者もいた。 こうして、嫁取りの本ぜん、いわゆる披露宴は盛大に夜遅くまで行われた。 また、本ぜんが終わったあと、給仕人、料理人、手伝いの人や家族など、本ぜんにつけなかった人たちをねぎらう「ニバゼン」(二番膳)と呼ぶ宴が行われた。本膳の終了は遅かったので二番膳は夜更けになるのが常であった。 また、翌日は、「ばばよび」「茶よび」、その他「まないたなおし」といって、親戚や近所の女衆を呼んでもてなした。この席では花嫁も酌をして仲間入りの挨拶をした。 ※資料 昭和7年婚礼ノ御客人数控ヘ 嫁は、祝言後の3日目に里帰りで生家に帰った。その後は、初子が生まれる時の他、正月と盆に婿と一緒に帰った。集落によっては4月6日の節句泊まり、秋の洗濯泊まりなどで帰る習慣もあった。 祝言に使うおぜんやお盆、大皿等は自家用として所持している家は少なく、本家など所持している家から借用した。 漆器の膳椀類は、後始末が大切であるため女衆数人で丁寧に手入れをして木箱に入れて土蔵に収納した。 当時、嫁取りの披露宴がどこの家でもこのように大々的に行われたわけではなかった。ほんの内輪で他には知らせず密やかに行われる嫁取りも多かった。これを石黒では「ヌッストヨメ」と呼んだ。盗人が他家から物を盗むように、そっと嫁をもらうという意味であろうか。 終戦後、生活改善運動が起こり祝言の簡素化も進んだが、高度成長期に入ると若者の村からの流出に歯止めがかからず村で行われる結婚式も激減してしまった。 さらに、昭和も後期に入ると過疎化が進み若者の姿は村から消え、村での結婚式は絶えたと言ってよいだろう。 資料→結婚式の改善について https://www.youtube.com/watch?v=5FpeTkyga-Y→民俗調査板畑 1975(昭和50年)法政大学 資料→スライドショー「石黒の昔の祝言」(YouTube) |
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石黒村の通婚圏 昔は、集落内での縁組みが多かった。しかし、集落が小さく適齢期の若者が少なかったり、家の格などの問題(昔から、嫁は格下の家からもらい、ムコは格上の家からもらえと言われた)もあり、他集落間の婚姻も少なくなかった。 さらに出稼ぎ先(公務員の単身赴任も含む)で知り合った女性と結婚するという例もあり、数は少ないが、その範囲は遠く県外まで広がっている。 後に示す婚姻圏図(昭和20~30年代の嫁姑)を見ると、集落内での婚姻の割合は、全体的に見て嫁の時代よりも姑の時代が若干高い。 しかし個別では、上石黒や大野などのように著しく姑時代の集落内婚が高い集落に対して、居谷、寄合のように嫁時代の方が多い集落もある。 嫁の時代に他集落との婚姻が増えたのは、交通が便利になるに伴って通婚圏が広がったことが考えられるが、その反対はいかなる理由によるものであろうか。 その他、居谷と高柳町の田代との通婚が多いのは、昔は同じ行政区内であり、川づたいの旧道もあり、耕地も入り組んでいたからであろう。 また、落合と東頸城郡の嶺集落や居谷と東頸城郡の莇平集落とは地理的に耕地が入り組んでいるため、昔から交流があったことに因ることは明らかである。 しかし、同一村にあり隣接しているにもかかわらず、居谷と落合は通婚例はない。 これは、おらく、居谷と行政区が異なった時代が長かったことと、居谷集落が隣接している小貫、莇平との昔から特に親密な交流関係にあったためであろう。 また、板畑や上石黒のような戸数の多い集落では集落内の婚姻率が高かったことは当然のことである。 ※板畑、居谷集落(82戸)は、明治22年に門出村より分離し石黒村に併合した。 参考資料→石黒の歴史 しかし 昔から石黒村以外の近郷との通婚は盛んに行われたことは元禄十四年の「宗門改五人帳」からも分る。特に東頚城郡(当時頚城郡)との通婚が多い。
別紙資料・集落別通婚図→クリック 各集落の通婚の多い集落
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葬 式 (浄土真宗の場合) 当時は、ほとんどの人が自分の家で亡くなった。 病人が危篤状態になると「死に水」と称して、箸の先にガーゼを巻いて水を含ませて唇をぬらしてやる。これを「死に水をとる」と言った。死に水は、最も病人に近い人が行った。 病人が息を引き取ると、北枕にして寝かせ、体が硬直しない内に両手を組ませ、膝を折り曲げ棺箱(座棺)に入るように体形を整え、さらしを顔にかぶせた。 枕元に、小さな台を据えて、1杯のご飯と、枕団子、灯明、線香などを供えた。神棚には神隠しの白い紙を下げた。 菩提寺は遠くにあったので、東頸城の角間の京徳寺や嶺村の照源寺から僧侶に来てもらい枕経を上げてもらった。 また、村に医者がいなかったので、死亡診断書は、東頸城郡の蒲生の室岡医院まで行かなければならなかった。その後(昭和13年頃)同じ東頸城の竹平の内山医師が開業され、少しは近くなった集落もあったが冬場は大変であった。 石黒の菩提寺と檀家数と所在地〔昭和30年頃〕
同時に、まず、寺に連絡して葬儀の日取りを決めてから親類縁者に知らした。これを「ツゲ」といった。石黒では「ツゲ」をするのは、近い親類縁者で葬式後の「おとき」に出席してもらう人であった。 当時は電話など普及していない頃であり、他県など遠いところの親類縁者へは電報が使われたが、近郷の村へは徒歩で出向いて知らされた。夜、ツゲのために地蔵峠越えをしたなどという話はよく聞くことであった。 とくに冬季のツゲは苦労であった。4メートル余の雪の中、釜坂峠や小岩峠、地蔵峠を越えて行き来をしなければならない。 石黒村には寺はなく、菩提寺は遠方にあったのでツゲとともにお坊さんの送り迎えもあった。これを「寺迎い」「寺送り」と呼んだ。
村外から来たツゲには、「クチヌラシ」といって、ご飯やお酒を出す習慣があった。
資料→昭和17年ごろの香典帳 湯灌は、葬式の前日行うことが多く、身内の人が数人で行い、その人たちを「裸人足」と呼んだ。湯灌に用いる半切り桶は自家用のものを使うこともあったが、葬式の後1週間はその半切りを使用しないのがしきたりであった。 集落によっては、共有の大半切りが「シンダンボウ小屋」(葬儀用具格納庫)に保管されており、それを使ったという。
茶釜で涌かしたお湯を半切りに注ぎ入れ水を足してぬるめのお湯で死人の体をきれいに洗い丁寧に拭いた。
通夜を「ヨトギ」と呼び、死者の霊を守って寝ずの番をするのが当たり前のことであった。今日に比べ交通機関が発達していない当時は、冬季に遠くから帰省する縁者が多い家では四晩もヨトギが行われることもあった。 (昭和2年の大豪雪の冬、葬式を終えるまでに1週間かかったことがあったという) 葬儀の前日には本通夜が行われた。 葬式の準備は、村の全戸が何らかの形で関わった。大部落は2つに分けて準備にあたった。祭壇に飾る金銀のハスの造花は村に技術に長けた人がいてその場で作った。(下写真ハスの花作り方元図) 棺箱は、村の大工や器用な人が受け持ちで作った。この手間も共同作業の内であったが材料の杉板は喪主の家で用意した。
昔は集落によっては専用のコシ(輿)があったという 当時は各集落に火葬場があり(集落図参照)そこで遺体を荼毘に付したため、焼き場の準備は「ノゴシラエ」と呼ばれ重要な仕事であった。 石黒では、ノゴシラエは熟練の人を中心に親類縁者以外の人々で行なった。ヤマ(焼きヤマ)の材料である薪やワラは、全戸が火葬場の通り道に置いてこれを集めた。 特に冬季のノゴシラエは雪堀りや道づくりなどで苦労が多かった。 出棺は、便所が隣接する玄関を避け、ガンギ(縁側)から出した。冬季の豪雪時は、ガンギを開けるために6m余の雪を堀らなければならなかった。 出棺の合図のホラ貝が鳴ると村人が集まりノオクリに参加した。 行列の順序、持ち物などは集落、宗派により多少の違いはあったが、四角提灯を持った先導、鐘、僧侶と長柄(唐傘)持ち、棺、遺族、親類、一般の村人の順であった。ノオクリの行列に参加できない年寄りなどは、自分の家の庭先に出て合掌して見送った。
納めた棺は4本柱(生木)から編んだヨシズを半分に折り山形にして吊って覆いをした。 そして血縁の者が、火のついた1束のワラで点火した。 会葬者は、そこでもう1度合掌してから焼き場を後にした。また、身内の者は、履いて来たノオクリ草履(降雪期にはワラグツ)は、後で捨てる習慣があった。 その後、ヤマバン(ノミマイ)といって火の燃え具合を親戚の者が何度も見に行った。 場合によっては、薪を家から持って行って足すなどして完全に燃えて、きれいな骨になるように注意を払った。この仕事を「ヤマミ」と呼んだ。 お斎は、野辺送りの後に自家で行われたが家が狭いなどの理由で本家などの広い家が使われることもあった。 料理は精進料理の5、6品で酒はなかった。献立は豆腐、麩、切り干し、大根、里芋、干瓢などが主に使われた。(図下) 引き出物には粉菓子(落雁)が使われた。粉菓子は門出や東頸城などの菓子屋に注文した。 ぜん椀は黒塗りのお膳が使われた。 また、集落によっては、餅をついて御斎米のお返しにトギブクロに入れて餅を入れて返す習慣もあった。 葬式が終わると、お布施とお明しをもって、僧侶を寺まで送った。これを「寺参り」と呼んだ。 骨拾いは、翌日の朝早く血縁の親戚で行った。骨は箸わたしで拾われ、箸には石黒ではヨシの茎が使われた。 板畑や寄合など禅宗の集落では、翌日、葬式のあった家に念仏講の人たちが集まって念仏を唱えた。 納骨は初七日で段払いして行う集落が多かった。しかし、積雪の多い冬は雪消えを待って行った。 死後、7日、49日には肉親を招き、僧侶に読経をしてもらった。ただし冬季は、葬式時にまとめて読んでもらうか、春回檀の時に読んでもらうことが多かった。また、年忌法要は、1周忌、3年、7年、13年、17年、23年、27年、33年に行い、33年忌を年忌納めとした。 資料→33回忌法要のお斎の献立表 資料→昔の葬式 資料→祖父の死 資料→高柳町大野調査報告 法政大学1975(昭和50年) 資料→昔の葬式(板畑) |