旧暦1803年1月28日→新暦1803年2月19日 
  


享和三亥年

江戸道中入用日記

正月二十八日出立
  

  
Ö

わらじの購入














花田村
  

  


地改紛争になっている土地を見聞すること


多七家出についての文書
   →112-  

太助一件雑用帳→112-


 花田村→現在の曽地地区の一村

  -1-
 閏正月
十二日 大黒屋へ見候類
至急地改め申し召し付け候一通
多七家出候尋ねの書かき揚げ一冊
史改め村決め  一冊
太助一件雑用帳 七冊






正月二十二日夜長殿□
花田村小左衛門方へ泊まり
一〃
佐野吉左衛門様へ手紙
小林金五郎様へ同断
  〃月三十日
一 銭四百文 預かる
  二月朔日
一 金四両  預かる
  

 山中発
28日



与板


2月
 1日
 







出雲崎


2日








荒浜


3日

 Ö
   

1月28日に山中を


 つまかけわらシブガラミのことではなかろうか



















記載はないが出雲崎代官所を訪れたものであろう。








2月1日は荒浜で一泊

  -2-
  

正月二十八日
一〃 百三十四文 はな宿
一〃 二十四文   茶屋酒共
一〃 六文     同所与板
▲二月朔日
一〃 七十五文  □□□□
一〃 四十五文   手ないつ□代
一〃 八文    □つ□し一
一〃 五文    □け粉
一〃 九文    くし 一枚

一〃 十二文   はながみ代
一〃 十三文   つまかけわら代
一〃 十文    からかけ
一〃 十二文   酒代 山田にて出会
一〃 十八文   出雲崎
            茶屋
▲ (文字抹消)
一〃 百五十文  荒浜村仁左衛門
             宿払
▲三日
一〃 六文    わらぢ一
  
  上輪






柿崎

Ö


潟町




4日
 Ö



黒井







高田







荒井


 Ö
  
 ※高田へ向かい北国街道に入る。

北国街道(北国脇往還)→中山道追分と北陸道高田を結ぶ35里(140km)、信州を横断する道。
道筋は
高田→荒井→二本木→関山→野尻湖→牟礼→善光寺→丹波→坂城→上田→田中→追分
この道は、裏日本と表日本を結ぶ重要な道で、佐渡の金山からの金の輸送、関東と北陸の物資の輸送路、善光寺参拝の信仰の道として利用された.→現在の国道18号線がほぼ本筋に沿って通じている.

高田宿→北国街道-中山道追分宿から分岐点。

  -3-
  
一〃 三文     さいせん
一〃 五十文   不動院
           みやげ
一〃 十八文   上輪 茶代
一〃 五十文   柿崎にて
             あめ
一〃 三文    くわんばし三
一〃 七文    わらぢ一
一〃 二十八文  かみゆえせん
一〃 百五十文  宿払い
一〃 六十五文  こざ一枚
 
 
        潟町
          渡辺源七
銀一つ
一〃 八百拾文  
▲四月
一〃 八文   わらぢ一
一〃 五文   黒井おこし
一〃 廿文   高田 ひる
一〃 八文   荒井
         わらぢ一       
  Ö
  



二本木

5日


Ö



関山






牟礼

6日




丹波島

Ö



善光寺







坂城
  
 







 
野尻宿は信越 国境に位置する重要な宿場。

 ※
牟礼宿→上越市 旧・牟礼村(むれむら)


丹波島宿→慶長16年に設立された宿場町。善光寺詣での最期の宿場で犀川を控え「丹波島の渡し」があったことなどで参拝者や旅人達が多く利用した。


坂城宿(坂城町)。
ゆるやかな坂の上に鍵の手状に町が続き、旅籠や 遊郭が軒を連ねたと伝えられるが 現在は道筋や民家にかすかな面影を残すのみ。
  -4-
 一〃 七文   くわし代
       二本木宿
一〃 百五十文 木屋
▲五日     并右衛門
一〃 八文   つまかけ一
一〃 十文   わらぢ
一〃 十七文  せき山
一〃 廿五文  の尻こ 昼
             めし
        牟礼宿
一〃 百五十文  亀屋与三衛門
▲六日       小やすみ
一〃 二拾文  善光寺 三銭共
一〃 弐十四文   丹波島  昼
一〃 拾弐文  わらぢ代
一〃 善光寺
       し□□一れん
一〃 壱五〇文 さかき宿 
  
 
7日
 
上田





田中




Ö



追分





8日

沓掛







臼井



Ö

9日

安中











倉賀野

  
追分から中山道に入る


中山道→中山道は江戸日本橋から京都三条大橋まで結ぶ。草津では東海道で合流する。道中67あるいは69宿とする。追分で北国街道に分け入る

中山道  追分→安中→倉掛→高崎→深谷→上尾→大宮→浦和→本郷

上田町→長野県東部にある市。県内では長野市、松本市に次ぐ規模の都市。

田中宿→田中宿(たなかじゅく)とは、長野県東御市にあった北国街道の宿場

追分宿→北国街道との分岐点で「追分」の名の由来。旅籠屋、茶屋、商店も多く栄えた宿場。民謡追分節の発祥地。

 ※
真田紐→帯びをはじめいろいろな荷物を結わえるために使われた。

安中宿→中山道六十九次のうち江戸から数えて15番目の宿場。現在の群馬県安中市

倉賀野宿→倉賀野宿は、江戸日本橋から12番目の宿
江戸時代、京都(朝廷)から日光東照宮へ幣帛を奉納する勅使が通った道として発展する。
  -5-
 銀一□両がえ いづみ屋
         善兵衛
八百三十二文
七日
一〃 二十文 上田町
           茶や
一〃 十六文   田中宿 昼
一〃 十二文   わらぢ一
一〃 三十二文  さなだ一筋
一〃 百六四文  追分宿
         近江屋 藤五郎
▲八日
           ふごき(意味不明)
一〃 十弐文   沓かけ  やすみ
一〃 十弐文   うすい  峠中茶屋昼
                 めし
 上下(※左文字の上下書き違い)
一〃 弐拾文   つまかけ一
一〃 拾六文   はな紙 二
         安中宿
一〃 百六十四文 九屋 九郎左衛門
▲九日
一〃 十六文    くらかの宿 
           やすみ  
 
   
  




新町


Ö



本庄


Ö



深谷

10日





坂下




Ö


熊谷




(馬代)




鴻巣







上尾




11日

戸田





 新町宿→現在の群馬県高崎市新町にあたる。最も遅くできた宿であったが天保の頃旅籠43軒もあった。

本庄(宿)→現在の埼玉県本庄市に当たる。中山道の宿場の中で最も人口の多い宿場。利根川の水運の集積地として栄えた。

深谷宿→現在の埼玉県深谷市にあたる。深谷宿は中山道で最も大きな宿場、旅籠が80余あり遊郭もあった。

武州→武蔵国の略。現在の東京都、埼玉県及び神奈川県東部。

坂下(宿)→現在の地番は三重県亀山市関町坂下。かつて難所・鈴鹿峠を控えた宿場町として賑わった。

榛沢郡→(はんざわぐん)武蔵国にあった郡。かつて埼玉県にあった郡だが大里郡と統合して消滅。

熊谷宿→現在の埼玉県熊谷市にあたる。昭和20年の太平洋戦争熊谷空襲で焼け往時の面影は少ない。
※熊谷のことを「くまがえ」とも呼ぶ。

鴻巣宿→現在の埼玉県鴻巣市に当たる。旅籠58軒。雛人形特産地として有名。

上尾宿→現在の埼玉県上尾市にあたる。江戸から約10里、最初の泊まりの宿場として栄えたがが安政7年の大火等で往時の面影は少ない。

戸田(宿)→戸田の渡しとして有名。幕府は架橋を禁じ明治8年に初めて橋が架かった。


  -6-
 

一〃 拾弐文   新町宿 昼      
            めし
一〃拾弐文    わらぢ
一〃 拾六文  本庄小休
一〃 拾六文  深谷にて
           あんま
銀壱丁 三十弐文(※左□字)
   八百□□文 武州 深谷宿
一〃百五十四文 坂下 与三右衛門
        榛沢郡
十日
一〃 十弐文     わらぢ一

一〃 十六文    くまかえ休
一〃 十弐文    こうのす
             昼休
一〃 百六拾四文   くまかえより
          こうのす馬代
          四里八丁
一〃 三拾二文   かみゆえ代
一〃 百五十文   上尾宿
       中食なし 井上五郎右衛門
十一日
一〃 三拾弐文  戸田宿
           昼飯休
一〃 十弐文   はながみ

   
 
  
    Ö 

11日夕
到着






 
板橋宿→中山道1番目の宿場同時に川越街道の起点でもある。現在の所在地は、東京都板橋区本町、および、新宿、板橋1丁目、3丁目にあたる。
  

五つ半午前9時ごろ

四つ→午前10時ごろ

九つ半→午後1時ごろ




※「十三日四つ時地頭へ・・・」からの文意から見て折角上京したが初日はすげない対応を受けているようだ。

こしかけ待合所。城中や藩邸などで供回り物の控え所

  -7-
 一〃 十弐文     わらぢ一
一〃 七拾五文   戸田より
           板橋迄
             馬代
一〃 八文    ゆや
十一日暮れ方に源左衛門へ
着き仕り候
十二日五つ時より地頭
御屋敷へ罷り出、八つ半時
着届相済まし申し候宿付
に八人金之助殿両人
昼飯代
一 百文  薬代共
十三日四っ時地頭へ罷り出で
九つ半に城田様御差出□仰せ
候はば山中村多助三左衛門と
申され候ばかりにて
今日何の用事はなし
追って呼び出すべし、下がれと
仰せ附けられ候
一 百七拾文 城田様こしかけ
中飯代茶代共 
  
    

七つ半→今の午前5時および 午後5時ごろ。 



出茶屋→宿場および峠やその前後で見られ、これらを「水茶屋(みずぢゃや)」「掛茶屋(かけぢゃや)」と言い、街道筋の所定の休憩所であった


ばん五つ時→午後8時ころ


四つ時→午前10頃

七つ時→今の午前4時および午後4時ころ。

祝儀→使用人などへの心づけ。


※呼び出しを受けて登城したが、その件については既に内済と聞いていると、こ日も軽くあしらわれたようだ。




  -8-
 

一〃 二十四文 これは水戸様脇
宿へ七つ半時  出茶屋へ与市殿
  かえる   両人休み茶ばかり
        呑みてかくのごとくに候
一〃 十六文  ぞうり一束
十三日
一〃 金三両弐歩 孫左衛門方へ渡す

一〃 弐拾弐文 はおり、たびも
十三日ばん五つ時城田様より御呼び出し
参り候

十四日四っより罷り登り候
一〃 百七十四文 こしかけ□や
         中飯代酒代共
一〃 四十八文 げた一束□共
一〃 六十四文 これこしかけや
        祝儀三方共斯くの如し
八日七つ時三方共呼び出し申し
仰せ渡され候双方共内済趣
聞き済みだと仰せ申し候のみ計り
十五日 
        これは吉左衛門様御□よ
        り御下り無く町と茶屋へ
一〃 弐百四文 参何□□中飯出来内四文
 内四文紙代  □□□御所紙一枚共
        かくの如し 
 
  
  


































Ö
  


※湯銭が8文

※中飯代14文



※人形を3個買い求めているが代金は12文で1個の値段は湯銭の半額ほどのつつましいもの。


※髪ゆえ代が28文



こも→こも編みの雨具であろう。
  -9-
  一 金一両  吉左衛門様
       肴代つかい
一〃 八文  ゆせん
十五日
一〃 二十四文  中飯代
一〃 百二十四文 御屋敷にとまり
         与之助泊代
一〃 拾弐文   人形三つ

十七日
一〃 三拾六文 中飯代
一〃 八文   ゆせん
一〃 二十八文 かみゆえ

十八日
一  六十八文 これは内□□殿
         (以下不明)
十九日      
一 八十六文  これ山口屋にて三合
        出し合酒肴代かくのごとく
一 二十四文  深川へ参り候節  
        雨ふりこも代
一 十五文   □にて
          わらぢ一
二十日  
         

   
  




Ö




板橋
  







浦和







大宮






鴻巣

















  





※2月23日に帰途、板橋で昼代を払った記録がある。
  -10-
 一 八文    ゆせん
一 弐百文   岡吉左衛門義衛門殿
一 四十八文  昼食代
二十一日
一 銀一□   与市へ遣わし
一 弐百文   孫左衛門一泊り
一 十六文   わらぢ一
一 二十八文  かみゆえ
一 五拾文   □茶代
一 十弐文   ちゃわん一
 二十二日
一 四十八文 中喰代
 二十三日
一 四十六文  板橋昼代
一 十六文   浦和休み
一 百五十文  大宮宿
二十四日    加藤六左衛門
一 四十文   こうのす昼
一 十六文   小休
一 四文    同断 

     
  





       


深谷



吹上


倉賀野



高崎


金古


布施


Ö



浅貝



二井



三つ又
 













高崎より三国海道に入る


三国街道
長岡-摂田屋-榎峠-小千谷-浦佐-五日町-六日町-塩沢-関-湯沢-三俣)-二居峠-二居-浅貝-三国峠-永井-猿ヶ京-相俣-須川-布施-塚原-中山-横堀-北牧(きたもく)-金井-渋川-金古-高崎→中山道に合流






ふせい宿→布施宿であろう。
  -11-
         深谷宿
一 百五十文 松本与三衛門
二十五日
一 十弐文  ふきあげ 小休
一 三十六文 くらがの 昼
一 二十四文  高崎 休
一 百五十文 金古宿
        鈴木幸蔵
一 三十二文 新町にてだら□
      目薬
一 百五拾文 金古宿(抹消であろう)
      鈴木幸蔵(抹消)
 ※前項は重複のため抹消棒腺り
二十六日
一 六十四文 中飯代 小休共
       ふせい宿(※ふせ)
一 百五十文 関善右衛門
二十七日
一 十弐文  わらぢ一
一 十八文  小休
一 十六文  浅貝宿 昼
一 百五十文 ふたい宿
       関屋清左衛門
二十八日
一 十二文   三つ又 小休
 
  
 




 Ö

湯沢







六日町







長岡






小出






小千谷


Ö


与板
  









長岡迄舟代→六日町から長岡まで下り船を利用するのが常であった。長岡-六日町間15里の街道を半日間で下ることができた。




越手村→小出村であろうか。















  -12-
 一 八文   わらぢ一
一 十六文  ゆ沢 昼休          昼休
一 三文   子□□□□□
         三銭
一 百五十文 六日町
        村松屋
          幸衛門
一 弐百文  長岡迄舟代
一 十三文  こ屋代
一 二十三文 越手村舟付
        もちにしめ代
一 十七文  小千谷同断
二月一日
一 七文     わらぢ一
一 二百文   東屋へ脇指
           □□
一 百五十文 与板 さるや仁兵衛
一 八文    役人付 
       
  
     







かげすずり→かけ(欠け)硯か。





かうかけ→こうかけ→手足の甲に掛けて日光やほこりを避ける布で旅装具として用いた。
  -13-
     かい物 覚
一 三十二文   さなだ一筋
一 十二文    人形三つ
一 十五文    三つ目きり□
一 十六文    すずり一丁
一 十二文    いかけ
一 二十六文   徳利二つ
一 二十四文   こうかけ古
一 二十四文   さかづき一
一 二文     さら一つ
一 二十四文   かげすずり□
 
  
  
     





水かんな→意味不明



ちょうな民具編参照←クリック



かとり→意味不明
 -14-
  一 四百文    のこぎり□□
一 三百六十四文 かとり一類
一 百三十二文  ちょうな一丁
一 五百文    まがりかね
一 五拾文    水かんな(意味不明)
一 二百八十文  古かんな 二□
一 百文     くぎぬき
一 八十文    のみ一丁
一 五十文    小刀
一 四十四文   きり四本
一 五十文    け引
一 三十六文   ざうり 三束
一 七十二文   さか袋 二つ
一 十弐文    古はさみ一丁
一 四六文    くし一□
一 二十文    百人一首 
  
    









  
本郷→現在の文京区
  -15-
         くり原権左衛門
      □川江戸屋十次郎
本郷二丁目春木町
         横丁□町
   大宮宿□□六左衛門 
 制作中                                                 読み下し・備考文責 大橋寿一郎