食事と食事の作法

 生活様式の変化により、今日では、家族全員がそろって食事をすることがままならない世の中になってしまったが、当時は、朝晩、全員そろって食事をするのが当然の事であった。
 10人以上の家族も珍しくなかったが、食事は、常に全員が席に着くのを待って始めた。
 食事の席順は下の図が一般的であり、大人はもちろん、子どもも正座した。

 食事中、家長の言葉には全員が耳を澄ました。
 家長は、その日の仕事のはかどり具合、明日の予定、また、関係が濃密であればこそ多かった他家とのもめ事(トラブル)も話題とした。
 時には、家長の意見に家族がそれとなく異議を唱え、それに対して家長が反論することもあった。
 子どもは、毎日、そういう場面を見聞きしながら世間を見る目を養い、判断力を培って、その時代を生きる力を身につけた。
 仏壇には毎日オメシ(お供え飯)を供えた。ご飯が炊きあがると、まず最初にオメシをよそい、それから家長から順によそうことが常識であった。下げたオメシは、ありがたいものとして頂いた。また、カテ飯が普通であった昔は「のうのうさ様鍋」あるいは「御飯鍋」と呼ばれたごく小さな鍋がありそれで仏壇や神棚に供えるご飯を炊いた。
 お盆や大晦日には、遠地で働いていて帰省できない家族の陰膳(かげぜん)を神棚の下に必ず据えた。戦争中には一軒でいくつもの陰膳を作ったものだという。
 子どもに対する食事作法のしつけは、どこの家でも厳しかった。とくに、食べ物を粗末に扱うことは許さなかった。
資料→仏壇と神棚



 
      食事の用具

      おぜん

 日常の食事には箱ぜん(写真下)が使われた。家長のおぜんは一回り大きく、作りも立派であった。(脚注1)

 
箱膳・右は子供用

 また、毎回食器を洗う習慣はなく、食後にお湯を飲む時タクアンや漬け菜できれいにすすぎ、そのまま箱ぜんに納めた。
 また、夕飯で残したおかずを箱ぜんに入れておき、翌朝食べることもあったが、夏場は、ねぐさく(腐ったような臭い)なることもあった。
 食器は1週間に1度ほど水洗いした。

 
       皆朱膳〔かいしゅぜん〕

 油などの頑固な汚れはイロリの灰を使って落とした。
 客膳には、内側は朱色、外側は黒色のナイシュゼン(内朱膳・写真下)、

 
        内朱膳〔ないしゅぜん〕

とカイシュゼン(皆朱膳・写真上)(脚注2)があったが、皆朱膳を所蔵している家はごく少なかった。
 どの膳も客用であるが、カイシュゼンは祝儀に、ナイシュゼンは祝儀・不祝儀の両用に使った。客膳は本膳と二の膳がセットになっていて結婚式では二の膳も使われた。

 
 黒膳・主に葬式のオトキの膳として使われた

 膳は、飯椀、汁碗、壺(坪)椀、大平椀、皿で1式となっていた。坪椀には酢の物や煮豆、大平椀には煮しめ、皿には焼き物や揚げ物が盛られることが多かった。

 
   冠婚葬祭用の特大のお櫃とお汁入れ

 20客分、30客分とまとまった客膳はどこの家にもあるというものではなく、フルメェゴト(冠婚葬祭など振る舞い事)には、本家などから借りて使った。

  
    お膳の収納・和紙で包んだ

 ちなみに、当時、客膳を家族のみで使うことは一年を通して年取りの日くらいなのもであった。

 
    お膳の収納箱

 その他、フルメェゴトには特大のオヒツやお汁入れ(上写真)が使われた。(参照→民具)
 おぜんは、フルメェゴトが終わると数人の女衆によって、ぬるま湯で洗いカラ拭きをして、和紙や布に包んで木箱に入れて丁寧に土蔵などに収納した。
 客ぜんの塗りは輪島塗りや会津塗りが多かった。
資料→箱膳の思い出
資料→箱膳と家族の席順



   
    ワッパ(めんつ)  
          
 ワッパは、ヒノキや杉の正目のへぎ板を曲げて作られた弁当入れで、どこの家にも幾組かはあった。
 ワッパには大と小があり、大にも何段かのサイズがあった。おかず入れは直径10センチほどで、ご飯を入れる大の方は、15〜20センチほどのものが多く使われた。 
 ワッパには、楕円形(下写真)のものもあったが、石黒では円形のもの(下写真)が多く用いられていた。
 ワッパは通気性があり、現在の合成樹脂の容器に比べおいしくご飯を保存できる。
 ワッパ飯をよりおいしく食べるには、大型のものに御飯を押し詰めないように盛ることがコツだったが、できるだけ多く詰めたい時にはフタにもご飯を入れて合わせたものだという。
 特に山で食べるワッパメシの味は格別であった。
 山で食べるワッパメシと言えば誰もが即席料理の「冷やし汁」を思い出すだろう。

 
     わっぱ〔めんつう〕丸型

 秋の冷やし汁は、石黒では次のようにして作った。
 まず、畑からナスとネギをとってきてナスの皮をむき、ワッパの上に鎌を伏せるように置いて細かくスライスする、同じ方法でネギも細かく切り、ナスと混ぜて生味噌を入れ、山の冷たい湧き水を加えてかき混ぜる。カヤの茎を折って箸とする。

 
   わっぱ〔横めんつう〕楕円形型

 冷たい湧き水が、秋ナスと味噌の味をよく馴染ませて、絶妙な味となる。カヤ箸のあの仄かな香りもまた、忘れがたいという人もいるだろう。
 大根を用いた冷やし汁も、ナスの冷やし汁に勝るとも劣らない味であった。 
 また、ワッパには、フタの方も本体と同じ容積の入れ物として使えるという便利さもあった。
資料→ワッパご飯の思い出

  
 

     ツバガマとカマシキ

 当時、ご飯は、カマドを使ってツバガマ(写真)で炊く家と、イロリでナベを使って炊く家があった。

 
      ツバガマ

 ナベ炊きに比べ、ツバガマは分厚く重量のあるフタによって、米を良く蒸らすことが出来たのでおいしく炊くことが出来た。(フタに付いた2本の分厚い取っ手は木のソリを防ぐと共にフタの重さとしての効果もあった)とはいえ、ナベ飯にはナベ飯ならでの味わいもあった。   

 
    カマシキ〔釜敷き〕

カマシキ(右写真)と呼ばれた鍋敷きは、ワラを使って作られたもので、どこの家にもあった。タキギを燃料としているため鍋釜の底の煤がついてしまうので、写真のようにきれいではなく黒く汚れていた。そのためカマシキには手を汚さず持つためのヒモが付いていた(上写真)。木の板で作った鍋敷を使う家もあった。

 
  ジュラルミン製ツバガマ

 太平洋戦争後、航空機産業の禁止で余剰となったジュラルミン材で作られた軽い釜も普及した。

資料→古文書に見る昔の日常生活諸用具



  
   オヒツとオツヨジャクシ

 

 
       おひつ〔地びつ〕

 石黒で使われたおひつは、一般によく見られるフタをかぶせる江戸ビツではなく、ふたをのせる地ビツ(上写真)が多かった。
 冬季には、おひつを布で包んでコタツに入れて保温した。

 
    おつゆしゃもじ

 オツヨジャクシは、木製でくぼみの浅いもの(左写真)が使われた。具が多く汁の少ない当時のお汁やゾウスイを盛りつけるに適した作りであった。

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