身代わり地蔵 昔、旅の女が、地蔵峠の頂上から折居に向かって少し下ったところで1人の浪人に襲われた。 浪人は、逃げる女を追いかけて刀を抜いて袈裟懸けに斬りつけた。切られた女は気を失って倒れた。 女が我に返ると、切られたはずの肩から背中にかけて傷ひとつなかった。
女は、この地蔵様が身代わりになって自分を救ってくれたと信じて、峠の頂上に安置して毎日拝み続けた。すると、不思議なことに長年病んでいた持病も治った。 以来、近在の村人から「身代わり地蔵」と呼ばれ、特に腰から下の病いに霊験あり、とされ信仰されるようになったという。 その後、熱心な信者たちが御堂を建て、そこに石地蔵を安置した。以来、村人から「峠のズドサン」と呼ばれて崇拝されてきた。
※ 年中行事→クリック えぐいシロイモ 昔、晩秋のころ、1人の乞食が村にやって来た。 その日は、雲ひとつない秋晴れであった。 村の北方にそびえる黒姫山は紅葉の盛りで、澄んだ秋空に映えてまことに美しかった。
「誠に申し訳ありませんが、私にこの里芋を2、3個で結構ですので恵んでくださいませんか」と頼んだ。 すると、そこの家の人は 「あげてぇでも、実は、このシロイモ(里芋)は、えごくて食べられねぇのですいね」と嘘を言って断った。 乞食は、悲しそうな顔をして村を出ていった。 ところが、翌年から、そこの家の里芋は、本当にえぐくて食べられなくなってしまった。 それ以来、その家では里芋は栽培できず村の人たちに頼んで毎年わけてもらうより他なかったという。 ※ 硬くて食べられない石芋として語られることもあった 板畑の菩提寺 関東の戦いに敗れた新田義貞の末裔が信州から北陸路を経て板畑の地に根を下ろしたのは、西暦1340年のころと伝えられる。 一族はここで戦力を蓄えて再起をはかっていたがその願いも空しく、この地に土着して姓を中村と改め農民となった。 新天地での生活は厳しく、菩提寺の維持も困難となり、住職は先祖の位牌を抱いて領主のもとを離れ流浪の旅に出た。
ちなみに現在も、大安寺には中村の先祖の位牌が安置されていると聞く。 その折り、寺の住職と行動を共にした者が田麦集落に落ち着き、今日も大平集落に中村の家系に属する家を数戸残している。 また、板畑では、寺の跡地に分家した新宅が「寺屋敷」の屋号を名乗って今日に至っている。 ※ 石黒の歴史 →クリック ※ 関連資料−板畑の菩提寺 花坂用水 昔、板畑の本家に、大野村の娘が女中として住み込みで働いていた。 ある日の夜のこと、村中が本家に集まり、黒姫山の中腹から湧き出るミズアナグチ(水穴口)の水を農業用水として板畑に引くことについての相談がされていた。
話し合いは、夜の更けるまで続き、他の集落に先んじられることをおそれ、早速、翌日にクワダテをしようということに決まった。 このことを小耳にはさんだ女中は、その晩、家人の寝静まるのを待って大野の実家に、走って帰りこのことを家の者に知らせた。
こうして、この娘の機転のお陰で、大野村は豊かな水源を確保できたという。 その後、享和3年(1803)に柏崎の山田為四郎によって資金がつぎ込まれ、この用水を引き10年の歳月をかけて大規模な新田開発が行われた。これが後の花坂新田である。 今日、花坂新田は、農業の機械化にともない1枚あたりの面積は驚くほど広くなったが、平成11年の全国棚田100選に選ばれている。 黒姫山中腹からの棚田の眺望は、背景には戸隠、妙高、火打、焼山など一望でき写真愛好家が多く訪れる。 また、平成6年から、このミズアナグチの湧き水を町営の上水道として石黒の各集落に配水している。 ※ 石黒の歴史・花坂新田 ←クリック 松之山に行った温泉 昔、ある秋の夕暮れ、板畑に1人の貧しい身なりのお坊さんが訪れた。 お坊さんは中後集落への道沿いの畑で働いていた男に 「私は、旅の坊主ですが、この場所の地下にはとても良い温泉の脈が通っています。あなた、掘ってみませんか。」 と言った。それを聞いた男が驚いていると 「ただし、あなた一人で掘らなくてはなりませんよ。でないと、この温泉は隣の松之山に行ってしまうでしょう」と言い残して、どことなく去って行った。 男は、不思議なことを言う坊さんだと思った。 しかし、たった1一人で温泉を掘るなど、とても出来ることではないので、村の若い衆を頼んで掘ってみた。
それから、間もなく、松之山で効能の優れた温泉が掘り当てられたという噂が村に伝わってきたという。 これが、越後三名湯、日本三大薬湯の一つと言われている現在の松之山温泉であるという。 〔後 日 談〕 しかし、板畑に出た鉱泉(冷泉)の評判もよく、その後、近在からの大勢の湯治客で賑わったという。 群馬の法師温泉にも劣らない効能という噂さえもあったと伝えられている。 また、その湯屋の子孫(中村稔さん)の話では、当時の湯治客には素麺が好まれたものらしく、高く積まれたおびただしい素麺箱の記憶があるという。 現在、すでに湯屋はないが、その場所からは、今もこんこんと豊かな鉱泉がわき出ている。 ※関連資料−湯神様−中村治平文書 孝行ネコ 上石黒のある家に、たいそう年取った大きなネコがいた。 その家のおじいさんは、そのネコをとても可愛がっていた。 ある時、おじいさんが重い病気になり、何を食べても美味しくなかった。 「ああ、こんげんどきは、鯉のあらいでも喰ったら、んまかろがなぁ」と独り言を言って寝ていた。
おじいさんはその鯉をあらいにしてもらい美味しい美味しいと言って食べたという。 それから、大分病気が治ってきた頃、おじいさんが、「ああ、あめぇ、ぼた餅が喰いてえもんだ」というと、その翌日、猫がどこからともなくボタ餅をくわえてきた。 不思議なことにそのボタ餅には猫の歯の跡もついていなかったという。 お陰でおじいさんの病気もすっかり治り、そのネコをいっそう可愛がって育てたという。 山犬の恩返し 下石黒の小滝のおばあさんの孫じいさんが、昔、鵜川村に用があって地蔵峠を越えて出かけた。 当時は、石黒の山には山犬(ニホンオオカミ)がいて、夜になると狼の気味悪い遠吠えが村まで聞こえたものだという。 さて、おじいさんが用を足しての夕方の帰り道、マキの沢のあたりまで上ってくると、道の真ん中に大きな山犬がいた。
しかし、どうも様子がおかしい。気を落ち着けてよく見ると、狼の口の中に、3寸(約10センチ)ほどの鋭い山竹がつき刺さって血が流れ出てている。 おじいさんは、おそるおそる近づいたが、山犬は口を開けたまま、おじいさんが近づくのを待っている。おじいさんは、思い切って、口の中に刺さった山竹を抜いてやった。 すると、山犬は、おじいさんの先にたって峠を上り始めた。途中何匹かの山犬が出て来るとその大きな山犬は、大声で吠えて追い払った。 山犬は峠を下って大野集落の入り口までついて来るといつの間にか姿を消したという。 それからも、そのおじいさんが峠越えをするたびに、その山犬がどこからともなく現れて行きも帰りも伴をして他の山犬を近づけなかったという。 これは、実際にあった話だという。 文 坂爪トイ 城山の埋蔵金 石黒城のあった城山には、今日の新道が開通するまでは、石黒と高柳方面を結ぶ旧道が通っていた。 旧道は、落合集落入り口(現在の掘り割り)付近から尾根伝いに上り、本丸跡の南側斜面を通り、再び尾根に出て寄合に至る。 城山の尾根の下は何層かの深い襞(ひだ)が絶壁をなして石黒川に落ち込んでいる。 そこには7月半ばまで残雪があり、石黒川の貴重な水源となっている。 昔、山菜取りに城山に上った村人が、この本丸跡の下の絶壁にあいた横穴を見つけた。 穴はかなり深くて中は少し広くなっていたが、その人が腹這いになって入ってみると、薄明かりの中に千両箱らしきものがいくつか積まれていたという。 その人は、薄気味悪くなりそのまま帰ったが、この話を聞いた東頸城の坊さんが、その埋蔵金を掘り当てようと毎日のように石黒に通って来た。 檀家の屈強な若者を数人連れて来て、何ヶ月もかけてようやく横穴を見つけた。ところが、中に入ってみると千両箱など見あたらず一匹の大スズメバチがいただけだったという。
この穴の跡らしい形跡は、大正の頃はまだ認められたというが、今日では雪崩にこくられて(潰されて)跡形もない。 下石黒の子どもの中には、祖父母からこの話を聞いて、埋蔵金探しのロマンに胸を躍らせ城山に出かけた者もいたが、その場所の見当さえつかなかった。 ※「宝物ではなく大スズメバチがいた」という話は他県の昔話の中にもいくつか見られる。 石黒城・石黒の歴史←クリック 怖い話 その1 下石黒と上石黒の境に「ドドムキザワ」と呼ばれた沢があった。 ドドムキザワは地名アラヤにある下石黒の共同墓地を挟む2本の沢が合流して石黒川に流れ込む沢である。 下石黒から上石黒に向かい、屋号「西」の家の裏を過ぎると道は急カーブをなして山の襞に入る。 道の上のナラやサワグルミの大木がのめりこむように道を覆い、道の下は杉の大木が屏風のように立ちはだかって昼間でも薄暗い。 ドドムキザワが道を割って流れる場所から、沢の上流に目をやると昼間でも洞窟の奥を覗いたように暗かった。
それは、この淋しい場所にまつわる一つの怪談が語り継がれていたからだ。 ある村人が秋の雨の夕暮れ、この道にさしかかると自分の後ろに人の歩く気配を感じ、ふと振り返ると背の丈1尺(30cm)ほどのおかっぱの女の子がきれいな着物を着て下駄を履いて蛇の目傘をさして歩いていたという、ただそれだけの話であった。 その化け物を何人かの人が見たという噂も広がって、ますます子どもたちを怖がらせた。 後をつけてきた化け物が、山姥でもなく三つ目小僧でもなく、30cmほどの女の子というところが妙に怖かった。 子どもの頃、夕方、特に雨の日にここを通ると必ずこの話を思い出したものだ。 怖い話 その2 大野集落は、石黒村では珍しく集落全体が平地にあるが、屋号「まさえん」の先に祀られている親子地蔵のあたりから地形はにわかに傾斜をなして石黒川に落ち込んでいる。 この傾斜と川沿いに、下石黒集落の家々が散在する。
堀切沢は、その名前からして下流の排水路は人工的に造られたものであろうが、長い年月にわたり両側の土砂が崩れ落ち、大川に運ばれブナ林にくさび形の深い谷を形成した。 この谷には初夏になると、沢ガニを求めてタウエドリ(アカショウビン)が住み着いて哀感のある鳴き声を響かせていた。→アカショウビンの鳴き声 この沢には、昔から「アズキとぎ」の化け物が居ると言い伝えられて来た。それも、雨上がりの夕暮れによく出るという。 下石黒の黒姫神社脇から沢にそって上っていくと沢の奥から「サックサック、ササ、サックサック、ササ」という音が谷間にこだまして聞こえてきたという。長い髪の女がしゃがんで小豆とぎをしている後ろ姿を見たという者まで現れた。 しかし、村人の中には、「あれは、ササの葉が流れ落ちる沢の水に打たれて擦れ合う音が反響しているのだ」と得意げに説明する者もいたが、村人は元々そんなことは知っていたのであろう。 今では、かつての変化に富んだ自然の沢は、コンクリート水路に変わって、小豆とぎの音もしなくなった。 そればかりか、沢ガニも住めない環境に変わり果て、それを餌にするタウエドリの「ピヨロロロ、ピヨロロロロ」という鳴き声も絶えて聴くことはない。 ※殆ど同じような話が上石黒にもあった。 大師講様の跡隠し 昔、村はずれに貧乏なおばあさんが一人で暮らしていた。大変親切な人で困っている人がいると放っておけない面倒見の良い心優しい人だった。 年の瀬も迫ったある夜、貧しい身なりをしたお坊さんが訪れ、一夜の宿を乞うた。 「さあさあ、どうぞ、何もおもてなしできませんがお上がりください」と坊さんを家に招き入れた。おばあさんは、入ってもらったは良いが、ひとつまみの小豆ぐらいしかなく、どうもてなしたらよいか大変困ってしまった。 いろいろ思案するけれども名案が浮かばず途方に暮れるばかりだった。 困り果てたおばあさんは、そっと家を出て心で詫び手を合わせ、念仏を唱えながら隣の家の畑から大根を一本抜いてきて大根煮と薄い小豆粥を作って、 「貧乏でこれしかありませんが、たんと召し上がってください」と精一杯もてなした。
そのうち、空が荒れ、雪が降ってきて、昨夜のおばあさんの足跡を覆ってしまい分からなくしてしまった。 おばあさんは、こんな荒れごとになってお坊さんは無事に道中できるだろうかと念仏を唱え、安全を祈った。 それから、おばあさんが、物置に用があって行ってみると色々な野菜が山のように積まれており、米びつは米で満たされていた。おばあさんはびっくりして村の人々に話した。 人々は、「不思議なこともあるものだ、信心深いおばあさんに仏様が授けてくれたに違いない」と話し合った。 その後、坊さんが大師様であることが判明し、お坊さんが去った日(12月25日)を大師様を祀る日とした。その日が、小豆粥を作り新米で作った団子を入れて仏壇に供え、大師様の遺徳を忍ぶ「大師講」という行事となった。 なお、この日は必ず荒天となり、雪が降るため人々は「大師講荒れ」と呼ぶようになったという。 文 大橋信哉 いわしみず(岩清水)の水脈 城山の下石黒側の麓の石黒川沿い(釜淵から50メートルほど上流)の山側、屋号アズマヤの田のウワグロ(上畦)に、湧き水がある。村人はこの湧き水を「イワシミズ(岩清水)」と呼んだ。 当時は、夏になると村人がヤカンや一升瓶を持ってこの水を汲みに行った。特に、昼寝起きの頃には頼まれた子どもたちが水くみに集まった。
それは、今から300年余も前のことになるが、数百年に1度といわれる日照りが続いたという。 百日も雨が降らず、野山の草木は深緑の季節だというのに すっかり葉を枯らしてしまい、山は一面の茶褐色、出穂前の稲も藁クズ同然で火をつければ燃え上がるほどであったという。 勿論、城山の草木も葉を枯らして一面の褐色の山と化したが、不思議なことにこの岩清水の水脈らしき、場所だけが帯状に緑の葉をつけていたという。 この緑地帯は、岩清水から西方に延びて屋号オメェ(現在の屋号かんぼし)の田の上まで伸びていたという。 |