補   記 1
*ビー玉 
 終戦前後は、もののない時代でガラスのビー玉が買ってもらえない子供たちは、粘土を丸めてビー玉を作った。粘土のビー玉には、打ち当てたときのあの快い音はなかったが、遊びの楽しさには変わりがなかった。
(パッチも同様、菓子箱などの厚紙で自分で作った)
※筆者の家の西側の「堀切沢」の周辺にはビー玉を作るに最適の青色の粘土の薄い地層があり、友達を誘って採取してビー玉を作った。両手のひらで丸めているとほのかに石油の匂いがしたことを憶えている。堀切沢の上流には慶応から明治にかけて石油の採掘が盛んに行なわれた場所があった。


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イヌワシ
 当時は、イヌワシはいたが、もともとテリトリーが広いため、どこでもいつでも見かける鳥ではなかった。両翼にある白い斑点が戦時中の子供の目には、飛行機の日の丸のように見えるのが印象的であった。参照→石黒の動植物-イヌワシ
 今日、このようにタヌキやキツネが増えたことの原因の一つにイヌワシの減少をあげる村人もいる。
 板畑集落の古老の話によると昔は嶽(板畑集落内の地名)で農作業していると一日の一定の時間になると決まってイヌワシが姿を現したものだという。


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在郷軍人会〔補記1〕
 在郷軍人会は日清戦争前後から郡長や町村長によって各地に組織され始め、軍人精神の鍛錬、軍事知識の浸透等などを目的とした。しかし、1930年(昭和5)頃から軍部の戦争政策や国家改造の方針に沿って各種の運動を行ったことがファシズム体制の形成の大きな推進力となった。1936年(昭和11)には在郷軍人会令が公布され陸海軍の監督統制下に置かれた。太平洋戦争末期には本土決戦に備えて、在郷軍人による国土防衛隊も組織され、その一環として竹槍訓練などが行われた。
1945年(昭和20)8月、敗戦とともに帝国在郷軍人会は解散(下資料)した。
 
資料→石黒村在郷軍人会会長解散訓辞





田辺賢治家文書 

出征兵士への慰問袋
 袋は、晒し木綿、または手拭い二つ折りであった。中に入れられた物は、日用品(ちり紙、手拭い、石鹸など)、衣服付属品(シャツ、腹巻きなど)、食料品、薬品、写真、絵画、お守り札などであった。 戦地の気候や戦況を考慮すべきであるとされ、また場合によってはお金を贈ることもできた。差出人の住所、氏名を記した手紙を添えた。
 送達方法は、寄贈者が居住地の市町村長を経て陸軍恤兵部(りくぐんじゅっぺいぶ)へ寄付申込書を添えて、内容の検査を受けて指定された陸軍倉庫へ発送された(無賃輸送)。
 個人を指定したものは受理されないが、部隊を指定したものは所在地の陸軍官衙、部隊などを経て送達された。
(Wikipedia百科事典より)

B29爆撃機
 主に、第二次世界大戦末から朝鮮戦争で使われたアメリカの主力爆撃機。航続距離4500km余の長距離爆撃機。爆弾の搭載量は最大9t。
 低高度から夜間に東京、大阪を始め日本各地の都市を絨毯爆撃をして焦土化した。東京大空襲の死者は約8万4000人、負傷者約5万人と伝えられる。
 昭和20年(1945年)の8月1日の夜の長岡空襲もB−29による焼夷弾爆撃であった。投下された焼夷弾は925t、16万3千発におよび、長岡の市街地の8割が焼き払われ、1,470名をこえる市民が死亡した。