昔 の 家 普 請
田 辺 雄 司
昔は家を建てるとなると、まず、親類代表と2人で村中挨拶回りをしました。その後で村の重立衆から集まってもらい酒を出して普請についてお願いをします。その席で床柱によい木があったら譲っていただくように依頼することもありました。
居谷は小集落でありましたので、普請に取り掛かる前に「手うち振舞い」と称して村中の人を招待して酒を出して普請への協力をお願いします。
そして、まず、山林に入りコビキが伐採を始める傍ら共同のソリを使って、村中総出で材木を村まで運ぶダイモチヒキを行いました。
居谷集落はは明治半ばに高柳村から石黒村に移管しましたが、もともと山平村〔松代町〕の莇平や小貫集落と三村共栄の伝統がありました。それで、普請となるとそれらの集落の人たちも頼みました。
また、昔は家普請を、「ヨオッシャ普請」〔普通の改築〕と「災難普請」の2種に分けておりました。災難普請では文句なく皆協力してくれましたが、ヨオシャ普請の場合のダイモチヒキでは特別の心配りが必要でした。手伝い人足の中には難しい人もいて時々重くて動かないなどと言い立てる人が居たからです。そういうときには家から酒を持ってきて一杯飲んでもらって景気をつけて仕事を続けたものでした。
ダイモチヒキは10日間ほどかかりましたが、朝から御神酒と称しダイモチゾリにかけて清めたり、好きな人に飲んでもらったりするので何斗もの酒が入用でした。
また、一日の仕事を終えた夕方には酒と握り飯を出して翌日のお願いをしたものでした。
子どもの頃は、夕方になると普請の家に行くと大釜で炊いたご飯のおこげをお握りにして塩をふったものがもらえました。そのおいしかったことを今でも忘れません。
また、昔は製材所などなかったので、コビキや大勢の大工職人が来てにぎやかなものでした。大工の棟梁は図をかき、土台石を据えるところに棒を立てるなどの着々と作業を進めます。
そして、田仕事も終わった頃に、村人たちが出て、丈夫な柱を三本立て、いわゆる「ヨイトマケ」でシバイシの地固めをするのでした。これをイシバカチと呼びました。とそれは、細長い樽のような滑車に縄をかけて大勢が二組に分かれて綱をひくと大きな木の株が引き上げられ縄を緩めると勢いよく落ちて地面を固める仕掛けでした。
この土台石に使うカナ石〔安山岩や玄武岩〕は居谷にはなかったので前川〔現在の田代集落〕まで拾いに行き背負って来たものでした。
イシバカチがすむと棟梁は丈夫な縄をはり、シバイシの水平を測りました。当時は水平器などない時代でしたから、六尺板の中央に垂線を引き、両方の石に乗せて糸につるした錘によって計測しました。〔下図参照〕
それから、柱を立てる石を据えて、テンギを使って柱をたてて組み立てていくのです。
家の形も出来上がって一番上のグシ〔家の棟〕を上げると「ムネアゲ」といって餅まきがあり、子どもの頃は夢中になって拾ったものでした。餅と一緒に一銭銅貨も撒いたので大人も夢中で拾ったものです。
その後は「ノマかき」と言って一本の縄に藁を一束ずつしばりつけ長く編んだのを家の形をしたサスに巻くのでした。それから、カヤで仮葺き〔のし葺き〕をしてとりあえず3〜5年位雨が漏らないように葺いたものでした。
その後の壁塗りは、よい質の土を選んで、藁を一寸〔約3cm〕ほどに切り刻んだものをよく混ぜます。
まぜるには丹念に足で踏んで粘りをつけるので作業はなかなか大変なものでした。
一方、家の壁の部分は「こまいかき」と呼んで柱と柱の間にヨシを縦横にしばりつけてそこに壁土を塗りこむのでした。器用な人は職人と一緒に作業をしたものです。
そして、その壁が乾いた頃に「砂ずり」と山砂を採取して運んで来て、土と混ぜてどろどろした状態で『通し』という細かい網でこし細かく切った藁をまぜたものを左官職人が塗るのでした。我が家でもその砂ずりの部分が今でも残っています。
およそ、このような工程でしたが、「よおしゃ普請」の場合は、大きな家だと住むことができるまでには2年はかかったものでした。さらに、柱等に漆を塗り最後の仕上げができるまでには5年余の年限がついやされたものと聞いています。
それから、新しい家に入ることができるようになると最初からお世話になった人や身内を招いてもてなして事業の一切が終了しました。
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