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      主食
  
       ご 飯

 当時は、今日のような真っ白なご飯を食べるのは、お盆や正月などに限られ、普段は6、7分づきを食べた。

 
     俵に入れた飯米の保存法

6分づきともなると見た目も口当たりもよくなかったが、米そのものの味わいや栄養面では優れていたと言えよう。
 米は、冬の間に1年分を精米し、それを俵に入れてハリ(梁)につるして保存した。(上写真・脚注3俵の下げ方は家によっては縦に下げた。

 
         サシ〔竹製〕

 そして、必要に応じて俵から米を取り出すときは30センチほどの「サシ」(写真右)をつきさして(み)にとり、米びつに小出しにして使った。筆者も中学生のころにこの仕事を言いつけられてしたが、アシツギの上で大きなを肩に載せて俵にサシを差し込む時は緊張したことを憶えている。ときには、ノシメマダラメイガという虫が米に糸を出して巣くうために米が塊となりサシをスムーズに通らず片手で俵を叩かなければならなかった。その他、コクゾウ虫なども発生し、俵から床に白い粉が落ちた。米も黄色に変色し、いうまでもなく風味も落ちた。

 
        精米箱

 昭和25年頃、ブリキ製の米タンク(下写真)が岡野町の高橋鍛(たん)工所から売り出され、多くの家で使われるようになった。
 タンク、密閉保存ができるため虫が発生しないなど俵に比べ優れていたが、当時は、秋に、全部精米して、翌年の暮れまで食べる家が多かったので、やはり品質の劣化は避けられないことであった。

 
   ブリキ製米貯蔵タンク

 しかし、それだけに新米のおいしさは格別であった。
資料→昔の精米と保存
資料→昔の食事



 
    かて飯〔かてめし〕

 かて飯は、ご飯の中に他の穀類や野菜を混ぜたもので、昔から常食とされてきたものだが、特に、戦中戦後の食糧難の時代には米節約のために毎日食べた。
 当時は、学校でも、かて飯弁当が奨励されたため、白米の弁当を持って行った子どもは肩身の狭い思いをしなければならなかったという。

 
           菜飯

 かて飯には、サツマイモを混ぜた「芋飯」、細かく刻んだ大根を混ぜた「大根飯」、アワを混ぜた「アワ飯」、細かく切った菜を混ぜた「菜飯」(写真)、大豆を炊き込んだ「豆飯」、トウモロコシを炊き込んだ「キビ飯」などがあった。
 食味は好みにもよるが、菜飯やキビ飯、芋めしは、比較的好まれたのに対し、粟〔あわ〕飯や豆飯は評判が良くなかった。大根飯も食味はよくなかったが、秋に掘ったヤマノイモでトロロ汁を作り大根飯にかけて食べると美味しく食べることが出来た。

芋ご飯

 家によっては、粟を2石(360ℓ)も収穫したという。精白すると、ほぼ半分に減るとはいえ大量である。また、もっと昔には、大野集落で入山のカンノ〔焼畑〕で大豆を栽培し40俵も収穫した家があったという話も伝わっている。どこの地域でも同様であろうが、特に水田の少ない石黒では昔からカテ飯は常食であり、米だけの御飯の方が特別であった。

資料→学徒動員でのカテメシの思い出


 
   ズスイ(雑炊)とオケェ(お粥)

 3度の食事のうち1度はどこの家でもズスイ(雑炊)または、オケェ(お粥)を食べた。(農繁期は除く)石黒では、朝飯と昼飯のどちらかに食べる家が多かった。
 ズスイもオケェも米から作ることは滅多になく、冷や飯をお汁やお湯に入れて作った。
 ズスイには米の節約のために具をたくさん入れた。具には主にシロイモ(里芋)、干し菜、大根、ナスなどが使われた。
 ズスイとオケェを比べると、圧倒的にズスイが多く食べられたが、その理由は、具を沢山入れるため、おかずを必要としなかったからであろう。
 また、腹持ちをよくするために、ドンブリモノのように熱いズスイを冷や飯にかけて食べたり、粉モチを入れて食べたりした。同じようにオケェの中に団子を入れて食べることもあった。
 特に寒い冬季に、ズスイやオケェが多く食べられたのは、体が温まることと農繁期のように力仕事が少なかったことによるものと思われる。
 また 石黒では、正月の七草にも七草カユより七草雑炊を食べる家が多かった。



 
    チャノコ(アンブ)

 チャノコは、タテセンノシタ(くず米)を挽いた粉(ダンゴゴナ)を、適量の湯と混ぜてコネバチ(下写真)の中でこね、にぎりこぶしほどの大きさに丸めて作った。

 
 こねばち

 チャノコの中に入れる具は家により様々であったが、イワシのコヌカ漬け、塩あん、漬け菜などが多かった。
 それをイロリのホド(藁灰)の中や、ワタシの上で焼いて食べた。食味はよくなかったが腹持ちはよかった。

 
       ふるい〔粗通し〕

(現在、観光地などで売られているお焼きなどに比べると著しく味は落ちた)
 その他、イモダンゴも食べた。サツマイモを輪切りにして煮て潰し、ダンゴゴナを混ぜ、更に煮てから団子にしてワタシの上で焼いて食べる。同じようにして食べるカボチャダンゴもあった。
 当時、団子粉は、多い家では1石(180ℓ)も挽いたものだという。大型の石臼を仕立てて何日もかけて挽いた。石臼は、長い取っ手を取り付けて天井張りに固定(空回りするように)して、立って2人がかりで廻した。大きな土臼となると4人がかりで廻したものだという。
大型石臼のひき方←クリック
 挽いた粉はフルイ(上写真)にかけてもう一度挽いた。上等の粉をとるには絹フルイにかけたという。
  挽いた粉はの中に入れてヨコヅツで突いて、堅く詰め込んで虫の発生を防いだ。それを、土蔵の中か、家の一番涼しい所において保存した。
 また、凶作の年などは、モミのままで粉にひいてダンゴゴナを作ったこともあるという。
 石臼の目立てをする石屋は、寄合集落に1軒あった。

資料→チャノコの思い出
資料→柿アンボとサツマイモアンボ




コメノモチ・コナモチ・アワモチ・キビモチ

 年の暮れの餅つきには、コメノモチ(餅米だけの餅)の他にコナモチもついた。コナモチはウルゴメ(うるち米)のタテセンノシタを挽いた団子粉と餅米を半々くらいに混ぜてヨモギを入れてつく。食味は粘り気がなくチャノコの味に近かった。
 

 
          ワタシ

 餅はイロリでワタシ(写真)を使って焼いた。焼いた餅は、豆醤油、スイコ(味噌煮豆の汁を煮詰めたもの)ゴマ味噌、きな粉などをつけて食べた。(たいていの家ではゴマは1升、きな粉は3升くらい消費したという

 
  キビ 撮影2005.9.16上石黒屋号せんなびろう畑

また、多くの家でモチ粟を栽培しアワモチもついた。アワモチは粘りもあり味もよかった。色合いが鶯の羽根の色に似ている事から「ウグイスモチ」とも呼ばれた。
 キビモチもついたが、粟餅に比べ味が良くないと言われた。

資料-しょうゆのみ
資料→餅のし板





     そ  ば 

 当時、ソバは、ご馳走であり特に正月には、たいていの家で作って食べた。
 作り方は、そば粉をぬるま湯に入れ、こね鉢の中で耳たぶほどの柔らかさになるまでこねる。

 干したヤマゴンボウ(オヤマボクチ)の葉(下写真)の繊維を入れてつなぎとしたり、摺ったヤマノイモを混ぜて歯触りをよくする。
 こね上がったソバは、餅のし板の上でノシ

 
  オヤマボクチの葉

棒にくるくる巻くようにしながら伸ばす。
 適当な厚さに伸したら折りたたんで端からソバ包丁で細く切る。
 切ったソバは煮立てた湯の中に、パラパラと落とし、沸騰したら煮こぼれしないように水を少しずつ加えながら程良い堅さにゆでる。ソバは、このゆで加減が肝心であるという。

 
 スイノウ〔ゆでたソバをすくい上げる道具〕

 ゆであがったところで、スイノウ(写真)を使って一気にすくい上げて冷水にさらす。
 

 
 主にソバ温めるときに使った道具

 それを、ヤマドリのシタジ(すまし)とアサヅキの薬味で食べるのが当時の最高のご馳走であった。
 冬は上写真の用具でソバをお湯に浸けて温めて食べた。
 したがって、ソバは、多くの家で栽培された。

 
     ふるいの種類〔荒目~絹目〕     

 栽培した家では粉にして5升から1斗は、食べたものであろう。
 そば粉は、石臼で皮ごと挽いてフルイにかけて皮と分け、更に挽いて細かくした。フルイには粗目のものから絹目といわれる細かい目のものがあった。(写真・右のものが絹目)
資料→ソバ作りの思い出
資料→山芋掘りとトコロ掘り
資料→ヤマゴボウ-石黒の植物補説 

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