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   下石黒の黒姫神社祭礼(15日)
   居谷黒姫神社祭礼(15日) 

14日の早朝に村人が集まり、参道の入り口に幟竿を立てた。(補記→幟について) 
 竿の長さは15メートルほどもあり、竿の先には、杉の葉とススキを束ねて取り付け、基を固定してロープで左右から引いて立てる。無事立ち上がると「奉納 黒姫神社」と書かれた左右の幟が風にはためく。

下石黒集落黒姫神社

 こうして氏神を迎える幟が立つと、村は俄然として十五夜祭りの風景に変わった。
 15・6日は境内に露店が出た。古雑誌を売る店が出て子どもたちを喜ばせる年もあった。その他、集落で庭の木になった梨を売る家もあった。
 15・6日の夜は盆踊りが行われた。16日には仮装盆踊り大会が行われたこともあった。(下石黒)
 また、当時は青年団活動が盛んで青年団による演芸会も催された。

居谷集落黒姫神社

 神社の境内に仮設の舞台を造り、歌や踊り、寸劇などが上演された。
 楽団も組織されドラム、ギター、アコーディオン、バイオリンなどによって構成され、物のない終戦直後としては豪華なものであった。
 年によっては、青年団によって、旅芝居が招かれて上演されることもあった。
(下写真)

青年団演芸会(高柳−懐想)

 演芸会や旅芝居は、雨に降られると村の広い家を借りて行われた。仏間のある奥のデイが舞台となり、デイと座敷に入りきれないほどの観客が集まった。 
 十五夜祭りには、どこの集落でも盆踊りが立った。踊りは、お盆と同様、ションガイヤと甚句であった。
 踊りは、祭りに招かれた親類の人や旅先から帰省した人に加え他集落の若い衆も応援にやって来て、何重もの輪が出来るほど賑わった。
 神社の参道から石段の両脇には沢山の行灯が立てられ、通る人々の顔がはっきりと分かるほど明るかった。どの行灯にも墨で絵が描かれていた。
 秋の深まりを告げる、かしましいほどの虫の音に包まれた祭りの夜であった。 

ササ餅

また、十五夜には、どこの家でも餅をついた。 餅は十字に重ねたササの葉に包んでカビの発生を防いだ。石黒ではこれを「ササモチ」と呼んだ。(写真 ササ餅)食べた時の仄かなササの香りを懐かしく思い出す人もあるだろう。
資料→ササ餅の思い出
 17日は、青年団が後かたづけをした。太鼓など祭りの道具を、消防小屋などの二階に収納したあと慰労会をした。
 十五夜祭りが終わると、つかの間の祭りのにぎわいが去って、村は、実りの秋の深い静寂の中に戻った。
 そして、どこの家でも、稲ハサ作りなど収穫の準備に取りかかる。この先の2ヶ月は、待ったなしの過酷な農作業が続くのだった。



     彼岸の中日
 
 青田刈りをして彼岸団子をつくり、仏様に供える家もあった。
 春の彼岸から行われてきた昼寝もこの日で終わりとするのが慣例であった。
 日も短くなり、収穫作業も忙しくなる季節と暮らしの節目の時でもあった。





        10   月

   板畑熊野社秋祭り(10日)

  秋の農繁期の最中であったが村中が神社に集まり、岡野町より神主を招き祝詞をあげてもらい、その年の収穫を神に感謝した。各家では餅をついてご馳走をして祝った。
 しかし、秋の収穫期のため、戦後は、神主も呼ばず、簡略に行うようになった。




 
     11  月

    刈りあげ

 稲刈りの終わった日に、過酷な収穫作業も一段落したことを祝い、家族で、ぼた餅や赤飯を作って、仏前に供えて食べた。



     カヤ刈り

 11月の初め頃に共有カヤ場のカヤを村中総出で刈り取った。受給者が2軒の場合は2日間にわたって刈った。
刈り取ったカヤは、カヤ場に翌年の春まで置いて乾燥させた。

 
 村の共同カヤ場

刈ったカヤを立てて、まとめてたものをカヤマルと呼んだ。〔補記−カヤマルの作り方〕
 カヤマルは、束ねたカヤを支え合うように立てて穂の部分を縛って雨水が入らないようにして作る。

カヤマル

大きいものは周囲が5、6メートルもあった。   冬、ヤマの尾根に立てられたカヤマルを遠くから見ると、頭の小さな雪だるまがいくつも並んでいるように見えた事を思い出す人もあるだろう。
資料→カヤ場のカヤ刈り



   馬の血とり・馬餅

 どこの集落にも「チトリバ」と呼ばれる地名がある。そこが村の牛馬の血とり場であった。(集落図参照)当時、そこには太い丸太で組まれた枠があった。この枠の中に牛馬をひき入れて動かないようにして獣医によって血とりが行われた。
上石黒では、獣医を大平(東頸城郡)から呼んだ。 

血とりとは、牛馬の健康観察を行うとともに蹄の手入れや、焼きごてで膝頭の外側を焼くなどの予防医療であった。
 板畑では、秋に、各戸を獣医がまわり、蹄鉄を外した後ひずめの手入れなどの作業をして廻った。
 この血取りの後で餅(馬餅と呼んだ)をついて全員で慰労会をした。
 馬餅は、馬を飼育している家が持ち回りで1戸あたり餅米1升ずつ集めて餅をつく。アンコ餅、きなこ餅、雑煮餅にして全部平らげるまで互いに競い合って食べる風習もあった。馬餅は、餅好きの人が楽しみに待っている年中行事であった。
資料→馬の血とり
資料→蹄鉄




          12・1月


   デェシコ(大師講)・冬至

 12月23日のデェシコには、新米で作った団子を入れた小豆がゆを作り、仏壇に供えてから食べた。
 冬至もこのころ(22日か23日)で、この日、カボチャを食べると1年中健康で過ごせると言われ、どこの家でもカボチャを煮て食べた。
 また、この日から毎日米1粒分ずつ昼が長くなると言われたが、石黒では、いよいよ本格的な雪との戦いが始まる長い冬の入り口であった。



   庚 申 講(おかねさま)

 庚申の信仰は江戸時代の中頃に全盛となり全国に広まったと伝えられる。庚申信仰の由来は中国の道教にあり、庚申の夜に早く寝ると体の中のサンシという虫がその者の悪事を天帝に告げると言い伝えられ夜通し飲食したと伝えられる。石黒では収穫をもたらしてくれる作神様としてもあがめられたという。

おかねさまの掛け軸

 板畑集落では、全戸が庚申講の講中となって、60戸の集落が3つに分かれて、それぞれが庚申(かのえさる)の日(1年6回)講元の家に集まった。
  講元の家では、猿や鶏が遊んでいる掛け軸(※参考資料)を床の間に掛けて、米の粉で作った団子や精進料理を供えた。

寄合の庚申塚

 そこで全員が般若心経を読経して豊作祈願をし、その後は酒と精進料理で飲食しながら夜を徹して談笑した。娯楽の少ない当時の暮らしでは60日ごとにおこなわれた庚申講は楽しみのひとつであったのであろう。
 現在(平成15年)では、過疎化により戸数が7戸ほどに激減したが、村の有志によって庚申講は受け継がれているという。寄合集落でも今日でも続けられている。
資料→板畑・庚申講(おかねさま)についての考察
(法政大学学術紀行研究会)




     トウドヨビ

 トウドヨビは、春以来トウド(手伝い)に来てくれた人を招いて慰労するとともに親類や近所同士の親睦を深める行事であった。 

五合徳利と一升徳利

子どもたちも招待されるので楽しみにしていた。
 ご馳走は、芋の煮物、ゼンマイの煮しめ、きんぴらゴボウ、ニンジンの白和え、煮豆、のっぺなど食べきれないほどあった。残ったご馳走ははワラヅットコ(写真下→藁製のトレイ)に入れて持ち帰る習慣であった。 

       ツトッコ

 お酒は、1升徳利や五合徳利(上写真右 一升徳利、左五合徳利)でお椀に給仕の女衆が注いで回った。五合徳利は、ブドウの絵が描いてあるため「ブンドドックリ」とも呼んだ。 
 女衆や子どもには甘酒が出た。また、集落によっては、翌朝に、子どもや年寄りを招いて小豆かゆに団子を入れた料理でもてなす慣習もあった。
資料→トウドヨビ



    お正月の準備

     す す は き

 12月の下旬には、どこの家でもススハキをした。この日は、子どもたちと年寄りは、朝から親類の家に弁当持参で宿借りに行った。子どもたちは、この日を楽しみにしていた。
 毎年、宿借りする家は決まっており、前もってすすはきの日が重ならないように配慮した。
 すすはきの時は、屋内の家具等で動かせるものは全部片づけ、動かせないものはムシロなどで覆った。囲炉裏も煤が落ちないようにムシロで覆った。
 スス払いする人を「ススオトコ」と呼び一家の親父がこれに当たった。ぼろぎもんを着て、ほおかむりに山笠という出で立ちで梁の上を伝って天井のウワドウグ(ブナなどの横木−写真)に付いたススを藁で作った箒でまんべんなく払う。
 1年中いろりで薪を炊くために、固形状になって付いたススが音を立ててはがれ落ちた。落ちたススは集めて保存して置いて作物の肥料とした。
 また、この日に座敷のムシロを新しい物と敷き替える家が多かった。
資料→ススハキの思い出



      大 掃 除

 すす払いの数日後、どこの家でも家中総掛かりで大掃除をした。その日は朝から風呂をわかし湯を手桶に汲んで、家中の座敷やデイの戸や柱を念入りに拭いた。年中焚く囲炉裏の煙で柱やサシ(差鴨居)や帯戸が煤けるため、手桶のお湯はたちまち真っ黒になった。
 サシから上の高いところの漆塗りの柱(写真)も男衆が梯子を掛けて拭き、女衆や子どもは帯戸や柱を拭いた。大寒の最中の一家総出の作業であった。

 
 磨き上げられたジョウヤ柱とサシ


 また、子どもたちには、普段、見えない鴨居の上やホロ(戸棚)の奥でビー玉やパッチなどの思いがけない遊び道具を発見する楽しみもあった。 座敷の中切り(座敷を二つに分ける)の鴨居の上も普段、

 
 座敷の中切りの鴨居の上

色々な小物の置き場となっていたが、子どもにとっては思いもかけな発見が期待される場所であった。




     餅 つ き

 餅つきは、29日は「苦餅」、28日を末広がりと縁起を担ぎ28日につく家が多かった。
 前日、もち米を大きなハンギリオケの中に浸しておいて翌日、セイロ
(写真左下 角セイロ)を3、4段重ねを使って蒸した。また、大きな鍋を使って丸セイロで囲炉裏で蒸かす家もあった。

セイロ〔蒸篭〕

 28日には、朝から家中に餅米の蒸けるいい香りが漂った。たいての家では五〜六 臼、多い家では七臼もついたので昼過ぎまでかかった。(1臼は4〜5升)
 最初の餅は、お供え餅にし、後の餅は切り餅にした。
 切り餅は、餅のし板の上に置き、トリ粉をふりかけながら、餅のし板一杯に四角形になるように伸した。そして翌朝、定規板を当てて切り、餅箱の中に入れて保存して置いた。餅は、コメノモチとコナモチ、家によっては粟モチやキビモチもついた。 

ほしもち

また、もち米をふかすときに大豆や海苔を入れて塩味をつけてついて、薄目に伸ばして五oほどに切ったホシモチがどこの家でも作られた。ホシモチは、藁で編んで天井からぶら下げて保存しておき、(写真左 ほしもち)春夏のヘラスミオキ(昼寝起き時)などにいろりで焼いて茶うけに食べた。子どものおやつとしても好まれた。
 また、つきたての餅を手でちぎって小豆あんをまぶして食べる「オテノコ」のおいしさは格別であった。
参考資料→昔の暮らしと餅文化
参考資料→昔の暮らしと餅文化−BOOK式



     そ の 他

 その他、正月を迎える準備は色々あった。
 とくに、オンナショは正月用のご馳走の下ごしらえなど、暮れの忙しい中で行わなければならない仕事が多くあった。
 コンニャクやエゴをねる、ナットウをねせる、ニシン漬けを作るなどの正月料理の準備の他に、家族の正月ギモン(着物)づくりもあった。
 オトコショの正月準備としては、当時、酒は自家製であったので、「トシトリ酒」の仕込みがあった。酒は、モト作りから始め、麹と蒸かしたご飯と混ぜて数回にわたって熟成するので手間がかかった。(衣食住−食 参照)
 また、正月の食肉用に飼っていたウサギや鶏をしめて肉にする仕事もある。ウサギの毛皮は、自分でなめ(鞣)し防寒着に使った。座敷のナカキリの障子貼りも正月前の仕事であった。
 山に入って門松用の松の枝を切ってくることは、子どもの役目であった。暮れの穏やかな日和を選んで仲間と連れだって出かけた。
 石黒は松の木が少なく家の近くで取ることはできず、かなり遠くの山まで出かけなければならなかった。マツはすべて赤松で、ほとんどが大木であった。たまに若木に出会っても決して芯を折り取ることはしなかった。マツは杉とともに大切な用材であることを子どももよく知っていたからだ。



    ト シ ト リ(年越し)  
             
 大晦日は朝から家族総掛かりでトシトリの準備をした。父親はお世話になった家に挨拶まわりをしたあと、神棚にお供え餅を供え、サカキの代用にハイイヌツゲユキツバキなどを飾り灯明をあげた。そして庭先の雪を掘り年始客が来ても恥ずかしくないように整える。
 母親は、朝からトシトリのご馳走を作った。下ごしらえするミンジョと煮炊き場をする囲炉裏が離れているため、文字通り走り回っての馳走作りであった。
 年寄りは仏壇の仏具磨きをした。火の気のない仏間に正座して一心に仏具を磨く祖父母の姿を思い起こす人もいるであろう。
 この日は午後2時ごろ風呂をたてて入った。風呂から上がると正月ギモンに着替えて仏壇と神棚に御参りをしてお膳についた。 
(補記→とりしり)
 昔から、トシトリは、早いほうがよいとされ大抵の家では昼飯を遅らせて三時ごろ祝い膳についた。
(写真 年取りの風景)
 吸い物には、椀種として、飼いウサギやヤマドリの肉を使い、ツマとしてヤマユリコオニユリの鱗片を添えた。吸い口としてセリの芽を使うことが多かったった。

おかずは、塩鮭の切り身 昆布巻き、ゼンマイの煮付け、のっぺ、なます、煮豆、きんぴら、卵焼きという、当時としてはこの上ない贅沢な献立だった。
 汁物も、澄まし汁にウサギ肉のシズミ(汁の実)とユズの吸い口をあしらったスイモン(吸い物)の他に、豆腐、人参、ゴボウ、白菜入りの味噌汁も出たから、2汁8菜というところであろうか。米も普段の六分ヅキの古米ではなく、真っ白なそれも新米(当時は収穫の翌年夏まで古米を食べた)であったから御飯からして特別であった。
 出征中や出稼中の家族のいる家庭では、必ず、陰膳を作って据えた。昭和19、20年ころは、戦地での安否のつかめない家族のいる家庭が多く、中には陰膳を3人分も作る家もあった。
 トシトリの後は、こたつで家族そろってカルタや花札などした。1年中でこのように家族で遊ぶことは大晦日しかなかったので、子どもはこの時を楽しみにしていた。
 また、大晦日の夜は、分家が本家に挨拶に行くしきたりがあった。手みやげにわらぐつを持っていく家が多かったが、集落によっては、ツトッコにトシトリ料理を詰めて持参するところもあった。
 また、その年の豊作を祈願したり、作物の出来や天候を占う家庭行事もいくつかあった。
 板畑集落では、トシトリの夜、囲炉裏の灰をジョウナでならして苗代をかたどり、ろうそくをつけて来春に良い苗が育つよう祈ったという。
 その他、囲炉裏のオキを12個灰の上に並べて、その色の変わり方でその年の月ごとの天気を占う習慣もあった。オキの表面が白くなる月は晴れ、白い部分が少ない月は雨や雪、崩れてしまう月は風が吹くなどとその年の天候が占われた。
(補記→炭おき)
 当時は月遅れのトシトリであったから、大晦日の1月31と言えば、寒の最中であり、豪雪の中でのトシトリとなる年が多かった。
 猛烈に降る雪の中、朝から自家の屋根の雪堀を終えて、祝い膳に向かっている最中に村の学校の除雪に動員のかかることもあった。

村の学校の雪堀−石黒校

 月遅れの正月が改められたのは、田辺伊久村長の時代であることから昭和27年(1952)ころであろう。 〔板畑集落は、月遅れの正月が改められたのは、その一年後であったという〕
 資料→小正月の思い出
 資料→民俗調査寄合 1975(昭和50年)法政大学
 資料→民俗調査板畑 1975(昭和50年)法政大学
 
資料→昭和初期の1年の暮らし
  資料→昭和27年の年賀状