.
 
       
馬1頭に負わせる荷物の量を1駄として、その数量を数えるのに用いる。江戸時代本馬は36貫(約135キロ)を定量とした。 軽尻(からじり)は本馬の3分の1程度とされた。
荷役に使う馬。駄馬。
 
     太陰暦  たいいんれき  
 月の満ち欠けをもとにした暦。人類史上初めて作られた暦で画期的な発明ではあり、暦上の月や日の概念を人間に与えた暦といえる。これにより、スケジュールをもとに生活するようになった。
 しかし、太陰暦では、新月~新月まで(朔望月)を1月(ひとつき)とし、さらにその12カ月を1年とする暦。新月~新月までの日数は約29.53日であるから29.53日×12月=354.37日ほどになる。太陽暦の1年の日数365日より11日ほど短い。したがって季節に対して3年で1カ月以上の誤差がでることなり季節とのずれが生じる。
 その後、季節とのずれを調節した太陰太陽暦が中国から日本に伝わり、日本に適合するように改良されたものが天保暦として明治維新まで使われた。この天保暦は世界でも最も優れた太陰太陽暦であったといわれている。
 
    代永   だいえい  
江戸時代、主に幕府領で永楽銭の名目で小物成を現物納から金納に替えたこと。
※永1貫文→1両で換算
与板御引渡諸事御用留 
   代官  だいかん    
幕府直轄地を支配した官吏の内、支配地が10万石以上を郡代、以下を代官と呼んだ。代官は幕府の領地を管轄して年貢、警察、裁判等の仕事にあたった。
 
   大勧進様  だいかんじんさま  
元来、勧進というのは、「神仏のための寄付を勧める」という意味であり、「大勧進」とはその元締め的な存在を指す。
つまり、大勧進とは役職名であったが、善光寺ではこの役職名が寺名として残っている。たび重なる火災に遭いながらも善光寺がその都度復興できたのも、この大勧進様の御陰ということになろう。
 弘化4年 大地震
代官陣屋   だいかんじんや  
代官や役人が詰めた陣屋。  代官所
 
   太閤検地  たいこうけんち
江戸時代の検地の根拠となる検地といわれ、おおよそ、天正10年(1582)明智光秀を討った翌月から慶長3年(秀吉没)までの16年間に実施された検地を指す。
(※前時代は自己申請というべき制度であった上、計測の基準となる尺貫法も地方により異なっていた。その計測基準を統一して、田の等級を上中下・下下の4段階に分けて行う画期的な検地であった) 
 
   大師講  だいしこう  
天台宗開祖、中国の智者大師の忌日11月24日に行われる法要。
旧歴11月23日から翌日にかけて行われる民間行事。
※石黒では「でぇしこ」と呼んだ。→年中行事
大師荒(だいしあれ)-この日の夜は悪天候になると言い伝えられる
 
   大赦  たいしゃ  →恩赦  
   大小神社氏子取調ノ儀  
だいしょうじんじゃうじことりしらべのぎ
 

明治4年7月4日には上記「大小神社氏子取調規則」が布達され、従来の
寺院の檀家制度に代わる神社の氏子制度を設けた。この規則は次の通り
である。  

  第322 太政官 明治4年7月4日
 今般大小神社氏子取調ノ儀、左ノ通被定候事。

      規  則
 一、臣民一般出生ノ児アラハ其由ヲ戸長ニ届ケ必ス神社ニ参ラシメ其
   神ノ守札ヲ受ケ所持可致事。
    但社参ノ節ハ戸長ノ証書ヲ持参スヘシ。其証書ニハ生児ノ名・
    出生ノ年月日・父ノ名ヲ記シ相違ナキ旨ヲ証シコレヲ神官ニ
    示スヘシ。  

 一、即今、守札ヲ所持セサル者老幼ヲ論セス、生国及ヒ姓名・住所・
   出生ノ年月日ト父ノ名ヲ記セシ名札ヲ以テ其戸長ヘ達シ戸長ヨリ
   コレヲ其神社ニ達シ守札ヲ受ケテ渡スヘシ。
    但現今修行又ハ奉公或ハ公私ノ事務アリテ他所ニ寄留シ本土神
    社ヨリ受ケ難キモノハ、寄留地最寄ノ神社ヨリ本条ノ手続ヲ以
    テ受クヘシ尤来申年正月晦日迄ヲ期トス

 一、他ノ管轄ニ移転スル時ハ、其管轄地神社ノ守札ヲ別ニ申受ケ併テ
   所持スヘシ。

 一、死亡セシモノハ、戸長ニ届ケ其守札ヲ戸長ヨリ神官ニ戻スヘシ。
    但神葬祭ヲ行フ時ハ、其守札ノ裏ニ死亡ノ年月日ト其霊位トヲ
    記シ、更ニ神官ヨリ是ヲ受ケテ神霊主トナスヘシ。尤別ニ神霊
    主ヲ作ルモ可為勝手事。

 一、守札焼失又ハ紛失セシモノアラハ、其戸長ニ其事実ヲ糺シテ相違
   ナキヲ証シ改テ申受クヘシ。 

 一、自今六ヵ年目毎戸籍改ノ節、守札ヲ出シ戸長ノ検査ヲ受クヘシ。

 一、守札ヲ受クルニヨリ其神社ヘ納ル初穂ハ、其者ノ心ニ任セ多少ニ
   限ラサルヘシ。

右ノ通ニ候条取調相済候ヘハ早々可届出、尤不審ノ廉有之候ヘハ神祗官ヘ可承合候


 御布告留-石黒村文書
   大小之百姓・大小百姓   だいしょうひゃくしょう  
大小にかかわらず百姓全員。  
大小百姓
 卯御年貢割付の事 石黒村

 酉御年貢割付の事 石黒村
   大庄屋  だいしょうや  
村ごとの庄屋の上に、一領あるいは一郡に1~2人おいて村々を掌握させたが、正徳3年(1713)に幕府はこれを禁じた
 
   大神宮  だいじんぐう  天照大神をまつる神宮。 天照大神
※石黒では大抵の家には神棚に大神宮が祀られてていた。→「だいじんぐさま」と呼んだ。
 
   大助郷  だいすけごう  
将軍の上洛など稀な大通行になるときに街道宿駅より4~5里離れた村々からも大助(だいすけ)と称して助郷役を高割で臨時の助郷として課したもの。当分助や加助に相当する。
大助
 
   代助郷  だいすけごう  
指定されている助郷村で人馬の割り当てが賄いきれないなどの場合に他村にも差し出させること。
 
   代銭  だいせん  
年貢として納める収穫物を銭-ゼニでおさめること。 代金。
 
   対談 たいだん   
直接向かい合って語り合ったり、相談すること。
 
  代地   だいち  
領主に返却した土地の代わりに与えられる土地。
 
   退転  たいてん  
家が破産してしまうこと。生活が困窮して他所へ移転すること。 
退転百姓
(語源-仏語)修行を怠り一度得た悟りを失い低い方へ落ちる事
 他御尋に付き恐れながら書付を以って申し上げ候退転百姓
   帯刀人  だいとうにん  刀を帯びることを許された有力な百姓や町人。  
   大道寺隼人  だいどうじはやと  
 
刈羽郡内の天和検地帳に「津軽越中守-大道寺隼人」の名前が見られるのは、津軽藩が、天和2年に大名課役として高田藩の検地を幕府より命じられたからである。この時の津軽藩の検地持ち分は高田24万石の内、刈羽郡・三島郡で6万9千石余、村数72ケ村に及んだという。
 この時の検地帳には「大道寺隼人」とあるが、
年代から見ても隼人の何代も後の時代であり、実はここでの「隼人」は「繁清」であって、天和検地の総奉行に任じられたのは大道寺繁清である。
 事由は、大道寺直英(1614年)という武将が2代藩主・津軽信枚に召し抱えられ、「隼人」を名乗ったため、以後、それにならって
子孫たちが「大道寺隼人」と称したため現在では混同されやすいことになっている。

 
   対読   たいどく  
読書力のある先輩と弟子が、机を隔てて一対一で向かいあって 読む個人教授。明治初期の学校教則にもこの学習法が見られる。  (元は「討論」「看見」とともに松下村塾で松陰が用いた学習法と言われる)
 
   体認  たいにん  
体験して十分よくのみこむこと。
 
   大福帳  だいふくちょう  
商家の売掛台帳。縁起を担いだ名称で、正月10日または11日に作る慣習であった。村の経費出納簿にも大福の文字が使われているものもある(右備考欄資料)    
大帳 根帳
 大福日記覚帳-田辺重順家文書
   大変  たいへん  
大きな出来事。非常に驚くこと。
 
   代米納  だいまいのう  金銭で納めるべき地租を米で納めること。  
    大名  だいみょう   
江戸時代における大名とは、石高1万石以上を有する領主、藩主のこと。「江戸300藩・三百諸侯」と言われるように、江戸時代を通じて300近い大名家が存在したといわれる。ちなみに、石高が1万石に満たないものは旗本とされ、減封や一族への分封(領地の分割相続)などによって1万石を割り、大名から旗本となることもあった。
  大名衆
 
   逮夜 たいや   葬儀の前夜。  
   退役  たいやく  
役職を退くこと。庄屋や組頭の役を引退すること。
 
   太陽暦  たいようれき  
 太陽暦はエジプトで発明され、ローマ帝国のユリウス・カエサルの覇権と共にヨーロッパに広がりユリウス暦と呼ばれた。しかし、このユリウス暦にはわずかずつではあるが季節とのずれが生じるため、1582年にローマ法王グレゴリオが改暦を命じ現在のグレゴリオ暦が生まれた。
 日本では、1872年(明治5)にそれまで使っていた天保暦からこのグレゴリオ暦に改暦した。
天保暦はグレゴリオ暦に勝るとも劣らない暦であったが、不平等条約改正なと対外的な問題解決を優先して外交的な理由から無謀ともいえる改暦を実行した。

 
   大牢  たいろう  江戸時代、戸籍のある庶民の罪人を入れた牢屋。小伝馬町牢屋敷中にあった。  
     たか  
田畑の収穫量。土地の生産量を示す石高。
 
   遞いに  たがいに  
遞いに     ※「遞」は「逓」の旧字。
 
   高入  たかいれ  
新開地を検地して石高を定めること。
   高入れ新田
 
   高受  たかうけ  
検地によって石高を定め村高に組み込むこと。
 
   高尾村  たかおむら
 明治22年から34年の刈羽郡の自治体名。明治34年から高柳村高尾となる。昭和30年から高柳町の大字。昭和10年の家数→182軒、人口→920人。
平成17年(2005)5月、高柳町が柏崎市と合併し柏崎市高尾となる。
平成6年(1994)「道の駅じょんのびの里高柳」が高尾地内に完成し営業開始する。
 大正12年高柳尋常高等小学校第1分教場を設置。同8年に独立。昭和22年に柏崎農業高校の定時制分校を設置。
地内に「じょんのびの里高柳」新潟県立こども自然王国」がある。

                   支配と石高
 慶長3-12  堀氏 春日山藩  宝暦10-13   高田藩 
 慶長12-15 堀氏 福島藩 天明4-寛政10    幕府領
慶長15-19  松平氏 福島藩 寛政10-文化12 井伊氏   与板藩
元和2-4 牧野氏 長峰藩 文化12-文政17    幕府領
寛保2-5 幕府領  天保2-幕末    幕府領

 村高は天和高帳→149石余。天保郷帳→233石余。当時の村は高尾、坪野、磯野辺の3集落からなる。天和3年の家数、人口は135軒、877人。

(参考資料-ウエキペディア・柏崎市史)
 廻状-山中村・高尾村長岡藩に村替え通知
   高掛物  たかがかりもの  
江戸時代、農村の村高に応じて課せられた付加税を高掛物といい,とくに幕府直轄地(天領)に課せられた。高掛三役と呼ばれる、伝馬宿入用、六尺給米、藏前入用はその典型的なもの。   
高掛
 
   他挊  たかせぎ  
村の外で働くこと。出稼ぎ。  旅稼
 
   高瀬舟  たかせぶね  
川船には色々な形式の物が使われたが、その中で高瀬舟は最も大きく、長 さ27m、幅5m)に達し、推定積荷500石に及ぶものもあったといわれる。
 
   田方  たかた  
耕地の内での水田のこと。対語→畑方(はたかた)
 
   高田町・高

田市

  たかだまち・たかだし  
関ヶ原以前は上杉氏の領土であった。江戸時代には松平忠輝が高田城を築いて以来、高田藩の城下町として栄えた。明治の廃藩置県当初は、現在の上越地方(頚城地方)を範囲とする高田県の県庁所在地であった。
豪雪地帯として知られ、1945年2月26日には377cmの深雪を記録し、一部の教科書にも日本一として記載されていた。このため、雁木と呼ばれるアーケード状の軒先など、独特の町並が残る。雪の上に「この下に高田あり」と立て札が立てられたという逸話もある。
1908年(明治41年)11月1日 - 中頸城郡高城村と合併し、高田町を新設。
1911年(明治44年)9月1日 - 高田町から市制施行して高田市となり中頸城郡から離脱。
1954年(昭和29年)4月1日 - 中頸城郡新道村、金谷村を編入。
1955年(昭和30年) 2月1日 - 中頸城郡春日村、諏訪村、津有村、三郷村、和田村(一部)を編入。
4月1日 - 大字愛宕国分・五智国分・毘沙門国分寺・善光寺浜・居多・居田・大場・国分寺・虫生岩戸を分離し直江津市に編入。
6月1日 - 新井市の一部を編入。

1958年(昭和33年)4月1日 - 大字三交(一部)・木田(一部)・中門前(一部)・薄袋(一部)・寺分(一部)を分離し直江津市に編入。
1959年(昭和34年)11月1日 - 中頸城郡高士村を編入。
1963年(昭和38年)8月1日 - 直江津市と境界の一部を変更。
1970年(昭和45年)2月1日 - 直江津市と境界の一部を変更。
1971年(昭和46年) 4月15日 - 新井市と境界の一部を変更。
4月29日 - 直江津市と合併して、上越市となり消滅。
  参考文献-ウェキペディア
 
   高反別  たかたんべつ  

石高とそれ相当の耕地面積。
 高反別預り支配小作証文の事 (田辺雄司家文書)
    高辻  たかつじ   
石高の合計。  ※ 辻は合計の意味。
 
   高直  たかね・こうじき  
値段が高いこと。高値 
 
   高機  たかはた  腰掛に腰かけて布を織る手織機。 →石黒の民具-高機写真  
   高免  たかめん  
年貢の割合が高いこと。  
対語→下免(げめん)
 
   高持  たかもち  高持百姓の事
 
   高持百姓  たかもちびゃくしょう 年貢が課される田畑・屋敷を所持し諸役を負担する義務を持つ百姓。
本百姓のこと。     
高持    高持株 
 
   高役 たかやく 
領主の知行高、百姓の持ち高に応じて課された労役。
 高役金 
 
   高割  たかわり  
年貢・諸役・村入用などを各百姓の持ち高に応じて割り付けること。
 
    焚附  たきつけ  薪を燃やす際に燃えつかせるためのスギの葉などの薪。
※石黒では囲炉裏の焚きつけにはスギの枯葉が使われた。晩秋にはスギ林の中でスギの葉を拾い柴木や薪(まき)等と一緒に保管しておいた。他家の杉林でスギの葉を拾う場合は持ち主に断った。 
 
   滝谷村  たきやむら  
刈羽村に属する。
明治41年、勝山小学校に農業補習学校設置。昭和54年刈羽小学校と統合。世帯数は昭和6年に70戸・414人、同55年には75戸、316人。
 
   他国稼  たこくかせぎ  
冬季の出稼ぎのこと。
 古くは元禄の頃から行われていたことが松之山村家の次の文書
「覚 一、御蔵入り(※幕府領)の百姓,おびただしく江戸へ罷り出、徘徊致し、宿無しに紛れ候段、宿無し御改め衆より御目付衆へ御断りこれあり-以下略」から分かる。
また、「訂正越後頚城郡誌稿」には次のような記載が見られる。
「是につぐは、松ノ山郷にて、ここは女は稀にて、壮年の男子十月(※旧暦)の頃より、翌年四月ごろまで出稼ぎし,米搗き、もしくは石灰焼きに従うもの多し。従来酒造屋は稀なり。その数ほとんど毎戸一名位。金を得ること平均一人、六、七両、明治十二、三年比は、平均十七、八円乃至二十円なりし由、同郷の金融はほとんど旅稼ぎ金をもってすると云うも可なり」
 ※松之山郷石代御書控帳
   但馬国  たじま  現在の兵庫県北部。  
   他出   たしゅつ  
他へ出かけ不在のこと。
 卯御年貢割付の事-石黒村
   太政官  だじょうかん 律令官制の中心で神祇官と並ぶ二官の一つ。
 明治維新政府に設けられた官庁名。慶応4年/明治元年(1868年)6月11日に公布された政体書に基づいて置かれた。当初は、議政官以下7官の総称であり、翌明治2年(1869年)の官制改革で、民部省以下6省を管轄することとなった。
 後に、長官として太政大臣(だじょうだいじん)が置かれた。内閣制度が発足したことに伴い、明治18年(1885年)に廃止された。
 
   他所稼ぎ  たしょかせぎ  
 江戸時代の農村部では出稼ぎが多くおこなわれた。越後からの出稼ぎは米搗き、酒造りなどが主であったと言われている。もともと農村自体が田畑から農作物の収穫に頼る生活であり、凶作や災害などで収穫が少なく自らの食べ物に事欠くことは珍しくなかったであろう。
 かつ、商業が発達して消費生活化が農村にまで及ぶと生活費を稼ぐ必要がある。そこで、多くの家で領地内外に出稼ぎに出かけた。
 とくに、夏稼ぎや年中を通じての出稼ぎも増えてくると働き手の不足を招き農村の疲弊をまねく。そのため幕府は天保14年3月に「人返しの法」を発令した。
 これにより、在方から江戸に移住し人別帳に入ることを禁ずるとともに、出稼ぎや奉公稼ぎで江戸へ短期間出る者は、村役人連印の願書に領主の奥印のある免許状を必要とすることなどを定めた。この法令は荒廃した農村の再建のための農業人口の確保が主な狙いであった。
 しかし、この禁止令が徹底しなかったことは、それ以前から再三にわたりこの趣旨の法令が出されていることからもわかる。

この江戸時代の他所稼ぎによる農村の荒廃は、それから約130年後の昭和40年代、高度成長期の我が国に再発し全国の中山間地に過疎化、高齢化をもたらした。そして昭和45年に発令された「過疎地域対策緊急措置法」以後、次々と切れ目なく出された対策も功を奏せず今日に至っている。
 まさに、ふるさと石黒地区などはその顕著な地域であり現在(2017)、戸数2軒、3軒という集落が大半となった。
参照 ・昭和の年表 ・平成の年表 ・過疎)

 ○差出申一札之事-他所稼ぎ差留め
   田代村  たしろむら   
 
 明治10年に仙納小学校付属田代校を開校する。同12年からは東頸城郡に所属。同22年北山村大字となる。
 明治34年には山平村、昭和29年には松代町、同60年からは刈羽郡高柳町の大字となる。北山小学校田代分校は昭和50年に廃止された。

参考文献 角川地名大辞典

 
   田高  ただか  
田の生産高。
※田高百弐拾五石八斗三升九合
 ※文例 子御高入新田内見合附小前帳
     たたき  
武士以外の庶民に課せられた刑罰。刺青重敲(いれずみおもたたき) ・重敲・敲の3種があった。刺青重敲は腕に二筋の刺青をしその上100回たたく。重敲は100回敲く、敲は50回敲く。盗みの場合は十両までは刺青重、10両を越えると死罪であったという。
 
   糺す  ただす  
罪や真偽・事実などを問い調べる。 「五人組相互ニ糺合・・・」
 
   駄賃伝馬人足 だちんてんまにんそく 
 一般の旅人がつかった有料の伝馬人足。
 
  駄賃米   だちんまい
 米で支払われる駄賃、またはその米。
 
   立毛 たちげ   
収穫前の田畑の作物。その育成状況。  立毛検見
 
   立毛見分  たちげけんぶん   田方立毛(稲など)を見分けたうえ坪刈りをし,稲の豊凶に従い租税を決定する こと。立毛の善悪を見分するばかり坪刈りをしないものは検見でなく毛見という説明もある。ここでは後者であろう。 ※請け作申す田地水入証文の事
   立酒  たちざけ
 旅行に出かける時、婚礼の道具を運んだ人たちが先に帰る時、葬列が出発するときに飲む酒。石黒の婚礼の古文書には「立食」という言葉があるが、嫁の親などの一行が嫁ぎ先の家から帰るときに出される食事のことであろう。          →宮城県民謡「御立ち酒」
 立食→婚礼ノ御客人数控ヘ-大橋一成家文書
   立越す  たちこす  
→立越えるに同じ。「来る」・「やって来る」の尊敬語。
行く・出かける、越えるなどの意味もある。
 書簡 門出村庄屋より石黒村庄屋宛
   駄賃馬  だちんうま  駄賃をとって荷物を運送する馬。  駄賃銭←その運送代金  
   駄賃伝馬  だちんてんま  
 江戸時代に将軍の朱印状によって使用を許可される無賃の人足・伝馬のこと。
これを利用出来る者は公家・将軍名代の使者・巡見使・特権寺院など。人馬数は身分・用務によって異なった。しばしば、将軍の権威を笠に着て宿駅を苦しめることが多かった。
対語→駄賃人馬・駄賃伝馬

 ちなみに古文書によれば、幕府の役人は、無賃で伝馬ばかりではなく有料の馬「駄賃伝馬」も使うこともあったことが分かる。
 
     たっし  
幕府の老中など上役、あるいは明治政府の太政官が支配の者に発した命令や通達。  達状
 例文→達・達状
   脱籍  だっせき
 戸籍から除くこと。戸籍から抜け落ちていること。
 
 
  脱走   だっそう   
逃げ去ること。出奔。        
欠落 。  
 
  竪紙    たてがみ  →立紙   図解  
   建具  たてぐ  
戸、障子、襖、窓など、開閉して空間を仕切るものの総称。
 
  竪縞木綿   たてじまもめん
 画像資料
 
   竪帳  たてちょう  図解  
   立札  たてふだ  
法度や禁制などを書いたものを所定の場所に立てた札。 
建札
 
   店請状  たなうけじょう  
借家人の身元などを保証する書付。
 
   店借  たながり  家を借りて住むこと。 対語→店貸  店銭  店賃    
   棚田  たなだ  斜面に作られた階段状の田。  資料→石黒の棚田  
   店持  たなもち  自家を所有する人  
   谷川新田  たにがわしんでん  
江戸期から明治22年までの新田名。刈羽郡の内、谷川分とも記される。文政年間柏崎町の谷川津兵衛が上条の奥、清水村付近に新田を開発し、幕末・維新期に同村から分村して成立したと思われる。幕府領。「旧高旧領」には17石余とある。明治22年女谷村大字となる。明治22年から現在の大字名。はじめ女谷村、明治34年鵜川村、昭和31年には黒姫村、同43年からは柏崎市の大字。
 
   種下ろし  たねおろし  
田や畑に種をまくこと。稲作のすじまきをすること。
 
  種借   たねかり
 凶作のときに領主から種もみを借りること。
 
   種紙  たねがみ  
蚕卵紙のこと。カイコの卵を産み付させた紙
 
  田野倉村  たのくらむら  
江戸時代から明治22年までの村名。高田藩領、幕府領などを経る。天保郷帳では石高47石、年貢が主に大豆、荏胡麻代金であったことから地すべり地の開拓からの畑作が中心であったことが分かる。
 文久元年に松之山百姓騒動に参加した者に犠牲者が出た記録が残る。また、明治の戊辰戦争では蒲生宿
(松之山街道)の助郷として人足を出している。
 明治12年からは東頸城郡に属す。同22年には北山村大字となる。同34年には山平村、昭和29年には松代村、同10年から松代町の大字となる。北山村の役場所在地。同39年北山尋常小学校となる。昭和23年の学制改革で中学校を設置するが諸事情で北山小学校で臨時中学校が開かれた。現在は、新潟県十日町市田野倉。

 
   頼納  たのみおさめ・らいのう  
田畑を質入れするときに質入主が質地の年貢・諸役を負担し、質取主がその土地の収穫のすべてを自分のものとする田地質入法の一つであり、これを幕府は厳禁した。
 
   頼母子・頼母子講  たのもし・たのもしこう
  中世から近世にかけて発達した民間の金融組合の一種。講員が掛金を定期間に出し合い、入札または抽籤で毎回そのなかの1人が交代で所定の金額を受取る。全員に渡し終えた時点で講は解散する。
つまり、
まず初めに、発起人(講親)が一口あたりの掛け金と総口数を決める。次に参加者-「講中」を募集して講-「組合」を組織する。講は年に1回ないしは数回定期的に開催され、初会では発起人が講金を取得する。2回目以降はクジ引きや入札によって、参加者の一人が講金を取得する。参加者全員が講金を取得すると、講は満会となって解散となる。
 もちろん講金を取得した人は、目的が達したと離講することはできない。それでは講が成り立たない。よって初回に取得した発起人は所定の金額を、いまだ取得していない参加者のために掛け戻し、また取得した参加者も取得額に応じて算出された一定の金額を掛け戻すのである。

 近世から近代の頼母子講は、一村内の閉鎖的なものから数カ村に及ぶ規模のものもあり、その目的も相互扶助的なものから経営資金調達手段に利用されるものも多くり多様化した。その結果、富くじ的なものやねずみ講など本来の目的を悦脱し違法なものも一部で行われるようになった。
 ちなみに、頼母子講は、すでに建治元年(1275)の文書に記載がみられ、とくに近世の宝暦・明和のころから普及したといわれる。一方、頼母子講は現代でもわずかに存続しいるが、その要因は、共同体相互の親睦を深め頼母子によって互いの信頼関係を確かめることができるという精神的な一面が重視されるためであろう。このような視点から頼母子講は
古来からの生活の知恵であり、時代を超えた普遍的な価値をもったものということができよう。
※「頼母子講」由来は、相互扶助、つまり集落共同体の中でお互いが力を合わせて生きていく生活の知恵にあったのであろう。したがって初めは物や労働力を出し合うことから始まり、貨幣経済が発達すると金銭を出し合う講に発展した。
 しかし、茅葺屋根の葺き替えなど膨大な材料と手間を要する普請のための労働力の「頼母子講」は、昭和中期まで行われていた。筆者(1938年生)は、村の「カヤ講」で、カヤ場の草刈り、カヤ刈り、カヤ背負い、そして集落で最後の茅葺屋根普請に参加した世代である。無尽-むじん

※参考資料-屋根普請
 
(参考文献 国史大辞典他)
○嘉永2年 頼母子取極儀定帳-大橋一成家文書 
  玉垣額之助   たまがきがくのすけ  
明治時代(1850-1905)の力士。
嘉永3年生まれ。12代玉垣額之助に入門し三鶴山を名のる。三段目にのぼり「浦の海」と改名。後15代をつぐ。幕下まですすみ病気のため廃業し年寄となる。
 嗣子改籍願之事
   玉込鉄砲  たまごめでっぽう  農作物を荒らす動物を追い払うために百姓に貸し与えられた実弾入り鉄砲。  
   田麦  たむぎ
 明治5年の戸数95。同7年田麦校開校。同12より東頸城郡に所属。同22年に旭村大字となる。
 昭和30年からは大島村の大字。大正12年電灯がつく。昭和28年田麦~石黒~柏崎間にバスが運行。大正11年の世帯数111戸、人口658人。昔から石黒村との交流が深かった、
 
   田畑名寄帳  たはたなよせちょう  
田畑の等級、地積、屋敷、反別、これらの分米等を書き記し、一村合計をして,他村への越石、出作なども記した帳面。
 
   田畑成  たはたなり  田方で用水が不足でやむなく畑として耕作する土地。
 
   旅稼 たびかせぎ   
他地へ出かけての稼ぎ→出稼ぎ。
 記載文書
   多分  たぶん  
多数、おおかた。
 
     す・さす・たり
(返読文字)
①為致候・・・為(な)し致し候
②為認候・・・為(な)し認め候
③可為無用・・・無用(むよう)たるべし
④可為曲事・・・曲事(くせごと)たるべし
⑤為後日・・・後日の為(ため)
⑥為其・・・其の為(ため)
 
 
   垂木  たるき  
屋根を支えるため、棟から軒先に渡す長い木材。
 写真資料
   可為  たるべし
 たるべし  参照→「為」     例→可為停止→停止たるべし
 
   俵入  たわらいり・ひょういり
俵に入れる米の量。江戸時代、幕府は3斗5升入りとしていたが、実際には計り立て2升を加えて3斗7升であった。現代では4斗入り。
 
 
  俵拵え   たわらごしらえ  
まず、村中の百姓が相談の上枡取を定める。名主・組頭の立会いの下に枡取が枡目を吟味して、俵に入れる。少しでも量目が不足すれば補充させる。俵の中には、百姓名・所書・枡取名・名主名を書いた札を入れる。途中荷崩れのないよう厳重に俵拵をして郷倉等の貯蔵倉に格納する。
 また、俵そのものの作り方にも厳しい規定があった。その他、俵の汚れを防ぐために俵を覆う
「外皮」と呼ばれるものも装着した。外皮に対して米を入れる俵を「内皮」と呼んだようだ。
 こうした俵拵えの厳しさは昭和30年代の供出米の時代まで続いた。
※筆者も高校を卒業した年に俵拵えを実際に手伝った経験がある。先ずは風袋の俵及び桟俵(さんだわら-蓋にあたるもの)の検査も厳しかった。 

※参考文
「御年貢米之儀米撰立麁末無之様、縄俵拵戽廻シ等入念津出等無遅滞可致上納事」
御布告留-
石黒村庄屋文書 
   俵物  たわらもの  長崎貿易の輸出品でいりなまこ、ほしあわび、ふかひれの3品。
 俵に入れた物。
 
      たん  
 土地の面積の単位。10反(段)で1町。1反は10畝。
※一町(ちょう)=10反(たん)、一反=10畝(せ)、一畝=30歩(ぶ)
1歩→1坪→3.3㎡ 1畝→30坪→99㎡ 1反→300坪→990㎡ 1町→3000坪→9900㎡
 
   反永  たんえい  
一反あたりの永(年貢)の額。
 
   檀家  だんか
その寺に法要や墓地の管理を頼んで、財政面でお布施などで援助する家。檀家制度の確立は江戸幕府のキリスト教弾圧が契機となり全国的には島原の乱後の寛永15年(1638)ころである。江戸時代は檀家にならないと宗門人別帳に記載されなかった。また、檀家制度の確立により檀家は寺への常時の参詣、年忌、命日法要の施行、盆や春秋の彼岸の寺参りなどが義務とされ、衰退への変遷は見られるが今日まで続いている。   
旦家  檀方     檀越(だんおつ)  関連→石黒の菩提寺 
 
   檀家制度  だんかせいど
 檀家制度(だんかせいど)とは、寺院が檀家の葬祭供養を独占的に執り行なうことを条件に結ばれた、寺と檀家の関係をいう。寺請制度(てらうけせいど)、あるいは寺檀制度(じだんせいど)ともいう。
江戸幕府の宗教統制政策から生まれた制度であり、家や祖先崇拝の側面を強く持つ。
檀家とは檀越(だんおつ)の家という意味である。檀越とは梵語のダーナパティ(danapati)の音写であり、寺や僧を援助する庇護者の意味である。例えば飛鳥時代において、蘇我氏や秦氏といった有力な氏族または一族が檀越となって寺院(氏寺)を建立し、仏教・諸宗派を保護した。ここで特に檀家という場合には、それまで有力者の信仰対象であった仏教が、広く社会に浸透し、氏族単位が家単位になったということである。檀家という言葉自体は鎌倉時代には既に存在していたが、現在の意味合いになるのは荘園制の崩壊によって寺院の社会基盤が変化してからである。そして江戸時代の宗教統制政策の一環として設けられた寺請制度が檀家制度の始まりである。

檀家は特定の寺院に所属し、葬祭供養の一切をその寺に任せ、布施を払う。この布施を梵語のダーナの音写で檀那(だんな)と呼び、檀家(檀越)が所属する寺院を檀那寺という[2]。その意味では、一般民衆である個々の檀家が寺院の経済的な支援者となる。しかし、寺請制度に端を発する檀家制度においては、寺院の権限は強く、檀家は寺院に人身支配されていたと呼べるほどの力関係が存在していた。寺院側は、常時の参詣や、年忌・命日法要の施行などを檀家の義務と説き、他に寺院の改築費用や本山上納金などの名目で経済的負担を檀家に強いた。今日における彼岸の墓参りや盆の法事は、檀家制度によって確立したといえる。

本末制度や他の幕府宗教政策もあって、寺院は社会的基盤を強固な物にすることに成功したが、一方で仏教の世俗化が進んだ。寺請の主体となった末寺は本山への上納など寺門経営に勤しむようになり、仏教信仰は形骸化していく。檀家を持たない寺院は現世利益を標榜することで信徒と布施を集めるようになり、檀家を持つ寺もまた祖先崇拝といった側面を強くしていった。いずれにせよ、このような寺院の強権的な立場、民間信仰(祖霊信仰)とのより強い混合、また堕落は制度ができた当時から批判があり、それらは明治の廃仏毀釈に繋がっていくことになる。

現在では、寺院の権限はほとんど無いにせよ、檀家制度は残っている。いわゆる葬式仏教や、檀家制度によって確立した年忌法要、定期的な墓参りは日本に根付いており、葬儀や先祖の命日法要、墓の管理を自身の家の檀那寺に委託する例は多い。しかしながら、檀家が減っていることも事実であり、檀家制度に拠る寺院の経営は難しいものとなっている。

仏教が伝来した飛鳥時代において、仏教は有力者の信仰対象となった。この時代に建立された寺院は、もっぱら檀越となった有力氏族が建立したものであり、これを氏寺と呼ぶ。例として、蘇我氏の飛鳥寺、秦氏の広隆寺が挙げられる。氏寺は、当然のことながら自分たちを支援してくれる有力氏族のために葬祭供養を行った。この檀越が檀家の源流である。

やがて時代が下がると旧仏教勢力の寺院は所領を持つようになり、荘園領主的な側面を帯びるようになる。有力寺院の主要な収入源は、布施(檀那)から荘園収入に変わる。政治的な権力・権威を持つようにもなり、檀越に依存しない寺門経営が行われるようになる。しかし、それも応仁の乱以降、荘園制の崩壊によって失われていくこととなる。

それら旧仏教勢力に対し、新しく登場した宗派は一般民衆を対象とし、その勢力を広げる。その過程で、仏教は出家的なものから在家的なものへ移行していく。例えば臨済宗・曹洞宗の禅語録は15世紀以降、坐禅関係から葬祭関係へと比重が逆転していき、この頃から仏教が先祖崇拝や「家」と結びついていったと考えられる。「檀家」という言葉自体は鎌倉時代には存在していたが、仏教がより「家」という概念と結びついていったのは、やはり応仁の乱以降である。

つまり、檀家制度の下地は、応仁の乱以降から、江戸時代に寺請制度が施行される約200年間の、荘園制が崩壊して郷村が成立、また広範な「家」の概念が成立した時期にできたといえる。この間に寺院(檀那寺)は、社会的・経済的基盤を荘園や特定の檀越、あるいは外護者から、一般民衆へと移しかえた[3]。

江戸幕府は、1612年(慶長17年)にキリスト教禁止令を出し、以後キリスト教徒の弾圧を進める。その際に、転びキリシタンに寺請証文(寺手形)を書かせたのが、檀家制度の始まりである。元は棄教した者を対象としていたが、次第にキリスト教徒ではないという証として広く民衆に寺請が行われるようになる。[4]武士・町民・農民といった身分問わず特定の寺院に所属し(檀家になり)、寺院の住職は彼らが自らの檀家であるという証明として寺請証文を発行したのである。これを寺請制度という。寺請制度は、事実上国民全員が仏教徒となることを義務付けるものであり、仏教を国教化するのに等しい政策であった。寺請を受けない(受けられない)とは、キリシタンのレッテルを貼られたり、無宿人として社会権利の一切を否定されることに繋がった。また、後に仏教の中でも江戸幕府に従う事を拒否した不施不受派も寺請制度から外され、信徒は仏教徒でありながら弾圧の対象にされることになる。

これら寺請の任を背負ったのは、本末制度における末寺である。1659年(万治2年)や1662年(寛文2年)の幕法では、幕府はキリシタン改の役割の責任を檀那寺と定めている。後にはキリシタンと発覚した人物の親族の監視も、檀那寺の役割と定められた。これら禁教政策にともなって、より檀那寺の権限は強化されていくことになった。

もっとも、寺請制度は世の中が平和になって人々が自分の死後の葬儀や供養のことを考えて菩提寺を求めるようになり、その状況の中で受け入れられた制度であったとする見方もある。例えば、現在の静岡県小山町にあたる地域に江戸時代存在していた32か所の寺院の由来を調べたところ、うち中世から続く寺院は1つのみで、8か所は中世の戦乱で一度は荒廃したものを他宗派の僧侶が再興したもの、他は全て慶長年間以降に創建された寺院であったとされている。また、別の研究では元禄9年(1696年)当時存在した6000か所の浄土宗寺院のうち、16世紀以降の創建が9割を占めていたとされている。こうした寺院の創建・再建には菩提寺になる寺を求める地元の人々の積極的な協力があったと推定され、寺請制度はその状況に上手く合う形で制度として定着していったとみられている[5]。

寺請制度や本末制度、1631年の寺院の新寺建立禁止令などを通して、檀那寺は檀家を強く固定化することに成功する。檀家になるとは、すなわち経済的支援を強いられるということであり、寺院伽羅新築・改築費用、講金・祠堂金・本山上納金など、様々な名目で経済的負担を背負った。1687年の幕法は、檀家の責務を明示し、檀那寺への参詣や年忌法要のほか、寺への付け届けも義務とされている。1700年頃には寺院側も檀家に対してその責務を説くようになり、常時の参詣、年忌命日法要の施行、祖師忌・釈迦の誕生日・釈迦涅槃日・盆・春秋の彼岸の寺参り(墓参り)を挙げている。

もし檀家がこれら責務を拒否すれば、寺は寺請を行うことを拒否し、檀家は社会的地位を失う。遠方に移住するというような場合を除いて、別の寺院の檀家になるということもできなかった。よって一般民衆には生まれた家(あるいは地域)の檀那寺の檀家となってその責務を履行する以外の術はなく、寺と檀家には圧倒的な力関係が生じることとなる。江戸時代における檀家とは、寺の経営を支える組織として、完全に寺院に組み込まれたものであった。

これらは、寺院の安定的な経営を可能にしたが、逆に信仰・修行よりも寺門経営に勤しむようになり、僧侶の乱行や僧階を金銭で売買するということにも繋がっていった。新規寺院建立の禁止も、廃寺の復興といった名目で行なわれ、末寺を増やしていった。また、「家」「祖先崇拝」の側面が先鋭化し、本来の仏教の教えは形骸化して、今日に言われる葬式仏教に陥った。

檀那寺は、檀家制度によって極めて安定的な収入源を得ることに成功した。他方、檀家のいない寺院は現世利益を旨として信徒を集めるようになり、寺院は寺檀関係を持つ回向寺(えこうでら)と現世利益を旨とする祈祷寺(きとうでら)に分かれていくこととなる。

檀家は一方的な負担を強いられることになったが、先祖の供養といった祖先崇拝の側面を強く持つことで、檀家制度は受け入れられていった。日本において、死後一定の段階経るとホトケになる(ご先祖様=ホトケ様)という元来の仏教にないことがあるのは、その代表例である。檀那寺に墓を作るということも半ば義務化されていたが、一般庶民でも墓に石塔を立てる習慣ができたのはこの頃である。檀家は、先祖の追善供養を行い、家の繁栄(守護)を願った。

祈祷寺は、無病息災、恋愛成就といった個人レベルの願い、五穀豊穣、商売繁盛といった家の繁栄の願いなどを寺院参拝の御利益とし、他に祈祷などを行なった。流行仏という言葉も生まれた。また、定期的な開帳を行なったり、縁日を行なうことで布施を集めようとした。ただ、回向寺も檀信徒の信仰心が離れないよう苦心はしていた。祈祷寺と同じく、定期的な開帳を行なったり、檀家の義務と説いた年中行事も祭事や縁日のような興行的な側面を強くする。布教の一環として説教も盛んに行なった。

江戸時代、人々は回向寺で先祖の追善供養を行なって「家」の現在・将来の加護を願い、祈祷寺で自身の現世利益を願った。

檀家制度や本末制度によって生じた寺院の強権的な立場は、上記のように僧侶の乱行というような問題も生じさせていた。どのような名目であれ、その立場を利用して檀家から際限なき収奪が可能となった寺院には当然、批判が起こった。また、その批判者は儒学者・神道学者・国学者など幅広く、数も多かった。これら批判は江戸時代の初期からあり、そのまま明治維新の廃仏毀釈運動まで江戸時代通して存在し続けた。

これら批判を受けて幕府や藩は、何度か寺院への締め付けを行なっている。例えば1665年の時点で「諸宗寺院法度九ヵ条」を出し、寺院から無教養の僧侶を放逐する、檀家の負担を軽減する、寺に女性を泊めない、離壇の権利を檀家に認めることなどをその中で命じている。寺院の整理も行なわれ、水戸藩や岡山藩は早い時期にこれを決行している。

以上の締め付けもあって、中世のように仏教勢力が一大勢力を築くというようなことは起こらなかったが、それでも行政を担った寺院の権益を奪いきることは到底できるわけもなく、寺院の腐敗は続いた。明治最初期、多くの寺院の破壊を伴った廃仏毀釈運動が起こるが、その背景にはこのような要因が強く絡んでいた。

もう少し時代が進み檀家制度に拠る寺院経営に綻びが見えると、各宗派からも体質改善や改革といった声が出てくるようになる。これは本来の教え、仏法に帰るべきだという点が強く主張されるあまり、先祖供養などの否定にも及び、後述する檀家から見た現代における仏教のあり方を必ずしも受け止めているものではない。

寺請制度は、1871年に氏子調に引き継がれて廃止されたが、檀家制度は依然存在している。もっともこれは、寺墓を持つためにそのまま寺と檀家が繋がっているだけというケースが多い。家人の葬儀や先祖の年忌法要といった儀礼でしか寺と檀家は接点を持たない、いわゆる葬式仏教である。しかし、それも経済成長に伴った農村から都市への人口移動などで、農村部は人が減り、廃寺となるケースが目立っている。また、葬儀業者がその一切を手配してしまうという例も多く、ますます寺檀関係は希薄化している。

しかし、檀家制度が作りだした年忌法要・年中行事は現在でも日本人の宗教観や生活に綿密に関係している。曹洞宗は昭和51年から同56年にかけて、檀信徒に意識調査を行なっている。その結果は、墓や位牌といった先祖供養の側面が強く出ており、禅宗の曹洞宗であっても坐禅をしたことがある、あるいはしたいといった教義の側面は低い結果となっている。これは曹洞宗に限らず、現在日本における仏教のあり方、あるいは檀信徒一般が仏教寺院に求めるものが、仏教の教義ではなく、葬祭の司祭者となっていることを示している。

近年、墓所の引越しなど改葬に伴う離檀に関し、寺側から檀家が数百万円~1000万円以上もの高額な「離檀料」を請求される例が増えている。寺側の言い分は、遺族が墓参りに来ないときでも、寺は毎日のように供養したり、年忌法要、月命日にも読経を上げるなどを寺が自主的に行っているというものである。離檀料は、契約書に謳っていない限り法的請求根拠はないが、改葬の手続きにおいて「改葬許可申請書」に引っ越し元の墓の管理者(宗教法人)の署名・捺印が必要になるために、寺側が強気に出るケースが見られる。


(ウェキペディア)
 
   断琴  だんきん  非常に親しいこと。     断琴の交わり  
   短札 たんさつ   短い書簡。自分の手紙を呼ぶ謙譲語。  
   檀紙  だんし・たんし
真弓(マユミ)を原料として作られた高級和紙のこと。厚手で美しい白色が特徴。
※江戸時代以前には
檀=マユミが和紙の原料にされたため出来上がった紙は「檀紙」と呼ばれていた。檀紙は縮(ちぢみ)加工した和紙で高級和紙として祝儀袋や結納品の包紙として使われた。後世では楮(コウゾ)が原材料として使われた。
 檀紙-画
   痰疾  たんしつ
喀痰を生じる疾患や病態のことであろう。
 
 嗣子改籍願之事
    誕生會  たんじょうえ  釈迦が誕生した陰暦4月8日に行う法会。  
   反畝歩 たんせいぶ 
1町=10反  1反=10畝  1畝=30歩(分)   1歩=1坪
 
 
   段々  だんだん  次第に、いろいろと、たいへん。  
   反取  たんどり  田畑の等級。段取  
   檀那・旦那  だんな
 檀家。僧や寺に布施する人 布施。
※古くは、梵語の「ダーナ」が語源であり、ダーナとは、お布施の意味。  
 
   旦那寺  だんなでら
檀那寺の当て字。その家が檀家となっている寺。菩提寺 
 
   丹波の渡し  だんばのわたし
 長野県長野市青木島地区は犀川に面し、北国街道、善光寺街道、松代街道などが通っていて、古くから交通の要衝として栄えた。
犀川には渡し場が設けられ、渡し船は川を横断して綱を張り、船頭はその綱を手繰って客を渡した。
 
   段免  だんめん  
本免地の最下位にありながら、それより劣悪な条件の土地の場合、租税を軽減すること。
段免場
 
   反物・端物  たんもの  
衣服にする織物。鯨尺で長さ3丈4尺、幅1尺4寸で着物1着が作られる長さと幅であった。※現代では体格向上のため1反の丈幅とも多くなった。
 
    丹波国  たんばのくに   現在の京都府中・西部と兵庫県北東部。  
    知音・智音  ちいん  親友。友人。親しさ。  
   知行  ちぎょう  
近世における意味は、幕府や藩が家臣に与えた土地。大名が家臣に俸給として土地の支配権を与えること。また、その土地。
 
知行所    ちぎょうしょ  
江戸時代、一万石以下の武士や旗本の領地をいう。幕府や藩が家臣に俸禄として土地を支給し知行として給与された土地。※知行→家臣に恩給された領地。支配地あるいは知行地のこと。  
 
   知行高  ちぎょうだか  
知行の石高。高100石は、米3斗5升入り俵100俵と決まっていたので、高100石と言えば実質は米35石で、即ち3割5分の計算であった。
 
   知行取  ちぎょうとり
旗本で農村を領地として与えられ、この村から得る年貢米を収納する者。つまり、土地を有する旗本のことで
給人とも呼ぶ。
対語→扶持米取 
 
   筑前国  ちくぜんのくに  
現在の福岡県北部
 
   逐電  ちくでん
 逃げて行方をくらますこと。  ちくてん
 
  千曲川   ちくまがわ
新潟県の信濃川の上流,長野県を流れる部分の呼び名。全長 214km。源流は、秩父山地の長野・埼玉・山梨県境にある甲武信 (こぶし) ヶ岳。佐久盆地で湯川と鹿曲 (かくま) 川,上田盆地で依田川と神川,長野盆地で
犀川,鳥居川,夜間瀬川などを合流して飯山盆地を経て新潟県に入り信濃川となる。 
 
   地券  ちけん  
明治初年の地租改正にあたり発行された土地所有証券。地券には土地の所有者・所在・地目・段別・代価が記載されていて、その目的は民有地の掌握と所有者・納税義務者の確定などである。
 その後、一部改正が行われたが、明治23年(1890)廃止され土地台帳制度へ移行した。
 地券-写真
    知縣事  ちけんじ  慶応4(1868)年に設置された縣の長官の呼称。   
   地券取調べ  ちけんとりしらべ  
明治6年4月9日、村々に下記の内容の「地券取調方規則」が通達された。
  
 1 土地を一筆ずつ検査(地押検査)して、それを記録する「野帳」を作る
   2 これを
検地帳と突き合わせ耕宅地の下絵図を作る
   3 次にこの絵図をもとに
「地所一筆限帳下帳」を作る
   4 ここで出張所役人の検査を受け、
「地所一筆限悉皆取調帳」を作る
   5 これを
村惣代・担当人が立ち会って戸長・副戸長が年貢割付状と突き合わせ、     一筆ごとに「突合せ済」の検印を押す
   6 そしてこの
「地所一筆限悉皆取調帳」を「地券願帳」と共に出張所へ提出して地    券を受けること
 そのほかには屋敷内の林・藪の扱い、地番のつけ方、地引絵図の作成法、検査で面積がふえた場合の書き方などが決められていた。
 この規則によって地券取調べは各地でおこなわれたが、各帳簿、絵図の作成など問題が頻発して調査は困難を極めた。


・「 明治6年 当酉伝馬人足帳-石黒村」→地券調人足の表記が見られる。





 ※ 地券-写真
   馳走舟  ちそうぶね  
巡検使や大名などが領内の川を通過するときに用意されたもてなしの舟。
 
     ちち
一般の意味の外に、暖簾や幟の竿を通す部分のこと-等間隔に並んで犬の乳頭に似ていることに依る。
 
     ちぢみ  
縮織の略称。   参考資料→縮集荷覚-石黒村庄屋文書 
  ※カラムシ
 
    縮糸拵え ちぢみいとごしらえ    
青苧から糸に撚るする仕事 
 資料→苧桶の思い出  
※青苧から糸ができるまでの工程
資料→母から聞いた話
 
 
   蟄居  ちっきょ  
江戸時代、閉門の上、特に一室に閉じこもり謹慎させること。終身に渡るものを永蟄居と呼ぶ。
 
   千鳥印  ちどりいん
 検地帳の一葉と二葉(同じものを作る場合か?)との下部に検地奉行が割印する。この捺印のこと。
 
   知府事 ちふじ   
明治元年(1868)に設けられた府の長官。翌2年に府知事と改称。
 
   地方官  ちほうかん  
明治
時代の都道府県の長官の呼び名。地方官は官吏として都道府県内を統轄した。1868 年(明治1)に直轄府県に知府事・知県事をおいたのに始まる。1871年の廃藩置県によって藩が廃止され全国が府県に編成されて以後,府の長官は府知事,県の長官は県令と呼ばれ,その任免権は太政官がにぎった。ちなみに、このころの地方官には長州・薩摩の出身者が多く,政府の監督下に中央集権政策を強力に遂行した。    
知府事
 
   嫡子  ちゃくし  
家督を継ぐ者。正妻の長男。江戸後期、大名交代、寄合で家督を継ぐ男子。 
嫡孫→正系の後継ぎの孫。
 
     ちゅう・じゅう  
そのことに関係する全員の事  
役人衆中
 
   中陰   ちゅういん  
人の死後49日間。この間草木に霊が宿るといわれた。
 
   中元  ちゅうげん  
陰暦7月15日のこと。道教に由来する年中行事で新暦7月15日または、8月15日に行われていた。現在では、この時期に世話になった人々に贈り物をする習慣が残っている。
 
   中間   ちゅうげん  
武士に仕えて雑務に当たる者。
仲間(ちゅうげん)
 
   中興  ちゅうこう  衰退した物事を再興すること。  
   中刻 ちゅうこく   一刻(約2時間)を3つに分けた中間の時間。  
   中使  ちゅうじ  
江戸時代の村役人。庄屋、組頭の職務を補佐する役。
 
  注進・註進   ちゅうしん  
申し述べること。事件などを報告すること。 
註進
 乍恐以書付御注進申上候
   中追放  ちゅうついほう  重追放と軽追放の中間の刑罰で田畑、家屋敷を没収し住居していた国と犯罪を犯した国への立ち入りを禁じた刑罰。  
   中馬  ちゅうま
 江戸時代中頃から明治初年にかけて,信州で物資輸送のために用いられた馬。また,その馬を用いて行われた輸送のこと。
 信州の伊那地方の農民が副業として始めたもので、宿馬などと度々対立した。 当地は河川は水運に向かなかったために山越えのし易い馬による輸送に依存せざるを得なかった。また五街道などでの伝馬役は隣接する宿場町間のみの往復に限られ、宿場町ごとに馬を替えなければならない、かつ駄賃や口銭を徴収され不便であった。もともと、江戸時代初期頃より沿道の農民が自分の物品を城下町などに運ぶ手馬(てうま)と呼ばれることが行われていたが、寛文年間ころより副業として駄賃馬稼も行うようになった。それが次第に専業化して依頼を受けて顧客の元から相手先の宿場町まで荷物を運ぶようになり元禄年間の初めには中馬と呼ばれるようになった。
 その後、中馬は急激に成長していった。一方、伝馬役を扱う宿場問屋は大きな打撃を受け中馬に激しく反し数度の訴訟問題となったが、物品及び活動範囲を定めること、伝馬制の維持への協力を条件として公認された。
 
     ちゅう・じゅう  
そのことに関係するすべての人々全員の意味。 役人衆中
 
  中老   ちゅうろう  諸藩において家老に次ぐ地位の職名。  
   町・丁  ちょう
 広さ・距離の単位。1町=10反で約99.18a。→広さ

             1丁=60間=360尺で約109m。→
距離
 
     ちょう  
訴えや事情を聞くところ→役所。
 
      ちょう
 銃・槍・鋤-すき・鍬-くわ・棹秤・蝋燭-ろうそく・墨・など、細長い物を数えるのに用いる。また、 輿-こし・駕籠-かご・人力車など、乗り物を数える場合にも用いる。
 
   帳合  ちょうあい  
金銭や商品と帳簿照合すること。記帳や計算のこと。
 
   停止  ちょうじ  
差し止めること。  止めさせること。  禁止すること。
 
   帳除   ちょうのぞき
人別帳から名前を除くこと。→
帳外(ちょうはずれ)
 
    帳外  ちょうがい・ちょうはずれ    
→帳除
 
   丁豆板銀   ちょうまめいたぎん  
 丁銀及び豆板銀のこと。どちらも、江戸時代の銀貨。丁銀は棒状の銀塊で、重量は約43匁、(約165グラム)。
 豆板銀は大豆をつぶしたような形で、目方が5匁 (もんめ) (約19グラム)前後の称量貨幣で、丁銀 (ちょうぎん) の補助として用いた。
 
   丁頭 ちょうがしら・まちがしら
 
肝煎(庄屋)を補佐する町役人。。
※郷村支配としては、元禄8年、これまで称してきた柏崎町の3人の大肝煎を「大庄屋」と呼称し郷中は従前通り「大肝煎」と呼び峻別することにした。これに付随して、柏崎町の2人の庄屋は「町年寄」と呼ばれた。以後、柏崎は、大庄屋・町年寄と呼ぶ5人が町政の最高機関を構成することになった。この役所が「町会所」である。この下に属するのが「庄屋」と「丁頭」である。いはぱ、納屋町・島町・広小路・高畑町には庄屋がおかれたが、他の町内では丁頭が町政を担当した。(柏崎市史)
 柏崎町案内帳(抜粋)文政4
   帳切  ちょうぎり  
家屋の売買で町・村役人に届け出て台帳の名義を書き換えること。
破産によって財産を人に移譲すること。
 
   丁銀  ちょうぎん 不定量の銀貨でその都度に量って使用された。   
   超歳  ちょうさい  新年を迎えること。年賀の祝詞に使われる語。  
   逃散  ちょうさん  
百姓が申し合わせて村から逃げ去ること。(村に数人を残して領主と年貢軽減などの交渉にあたらせることもあった)  方々へ散り逃げること。
欠落
 
   停止  ちょうじ  
禁止すること。止めさせること。  
停止木→伐採禁止した木
 
   鳥目  ちょうもく
銭(ぜに)あるいは、一般に金銭の別称。江戸時代までの銭貨は中心に穴があり、その形が鳥の目に似ていたところからそう呼ばれた。
 
   長州  ちょうしゅう 長州藩の別称。現在の山口縣。  
   徴証  ちょうしょう
 あかしとなる証拠。また、証拠をあげて明らかにすること。
 
   徴兵使  ちょうへいし
 徴兵にあたり各地に赴き事務にあたった役人。
 
   徴兵令  ちょうへいれい
 明治22年1月22日に国民の兵役義務を定めた日本の法令。明治6年に陸軍省から発布された後、太政官布告によって何度か改定が繰り返された後、明治22年に法律として全部改正された。昭和2年の全部改正の際に、題名も「兵役法」に変更され、昭和20年の敗戦後は廃止された。
 
   徴兵一揆  ちょうへいいっき  
徴兵令に対する農民の反対一揆。血税一揆とも呼ばれた。これは、明治5年の太政官の「徴兵告諭」の一節に「およそ天地の間一事一物として税あらざるはなし、以って国用に充つ、しからばすなわち人たるもの固より心力を尽くし国に報ぜざるべからず。西人これを称して血税という。その生血をもって国に報ずる謂れなり」この文章から徴兵令が本当に生血を取るものだとの流言飛語を生み農民を徴兵一揆にかり立てたと伝えられる。中でも岡山県美作地方では数万人が参加して2万6900人が処罰された。こうした一揆の背景には生き血を取られるという風説の他に重税と凶作に苦しむ農民の新政府に対する不満があったことに注目すべきであろう。
 参考文献 国史大辞典
 
   鳥目  ちょうもく  
銭の俗称。銭の中央に穴が開いていて鳥の目に似ていることから呼ばれた。
 
   跳踉  ちょうりょう
 はねまわること。転じて、好ましくない ものが、のさばりはびこること。
跳梁跋扈
 
   勅使 ちょくし  
天皇 の勅命を記した文書を届ける使者。  
勅命 
 
   貯穀  ちょこく  
飢饉等にそなえて穀物を蓄えて置くこと。
 
   一寸  ちょっと  
僅かであること。少し。
ちょこっと(石黒方言) 鳥渡
 
   賃人馬  ちんじんば
 街道の宿場で定められた賃銭や相手との合意で決められた賃銭(定賃銭の2倍が相場であった)で使用する人夫と馬。
 
   賃銭  ちんせん
仕事や物品の使用に対する報酬の金銭。
 
   鎮台  ちんだい  
旧日本陸軍編成の単位で、廃藩置県後は東京、大阪、鎮西(熊本)、東北(仙台)の4鎮台が設けられた。その後、名古屋、広島に新設される。総兵員数約1万6千人であったが、明治21年に師団制が採用されに伴い師団に改変された。
 
   珍重 ちんちょう 
 めでたいこと。お祝い。喜ばしいこと。(書簡によく使われる語)
また、手紙文で自重・自愛をすすめる語としても使われる。
 文例→書簡-石黒村庄屋宛て
   鎮撫総督  ちんぶそうとく  
慶応4年(1868)1月の戊辰(ぼしん)戦争後、地方鎮撫のために明治新政府により任命された臨時征討軍の長官。
 
         港。船の船舶地。船着き場。  
     ついえ
出費。  無駄。

 
 
    追善  ついぜん   
死者の命日に、その冥福を祈り仏事を行うこと。
 
   追儺
 ついな
江戸時代、民間で節分の夜、柊の枝を門戸に差して、炒り豆を屋内で撒く豆打ちの行事。
 
 
  追啓   ついけい  手紙で本文に追加して書く文の頭に付す語  
   朔日  ついたち・さくじつ  月の初日。特に正月1日  
   追年  ついねん  年を追って。逐年。  
   通商司   ついしょうじ
 明治政府の経済官庁。通商司は、明治2(1869)年から廃止される明治4年まで、貿易事務管理機構として設立されたものであった。
 しかし、本来の貿易事務管理業務以外に、国内の商業・金融・開運・物価調整・産業貿易関係法の立案など、広範囲な業務に携わった
 
    通詞   つうじ  
オランダ語の通訳。  通事→中国語の通訳。
  
 
   塚の山   つかのやま  
  明治22年からの大字名、はじめ塚山村、昭和30年からは越路町の大字。平成17年に長岡市に編入。
 
   掴高  つかみだか  
村全体の土地の生産高を概算して見積もった高。
 
     つぎ  
衣服などの、ほころびに他の布を当てて繕い縫うこと。また,それに用いる布。
 ※石黒では衣服などを繕う作業の事も「継」と言った。
 
     継合勘定 つぎあいかんじょう   
勘定を相殺すること。
 
   継送り  つぎおくり  
伝馬宿ごとに人馬を変えて送ること。 順次に送ること。 
継立
 
   継上下  つぎじょうげ  肩衣(かたぎぬ)と袴を別々の生地で作った上下。 武士の略式服。  
   継立  つぎたて  
宿駅ごとに旅客や荷物をリレー式に 送ること。  
次合
 
   継飛脚  つぎびゃく  幕府が各宿駅に置いた公用の飛脚。   宿継飛脚  
   月待  つきまち  
大勢集まって十七夜、二十三夜、二十六夜などに月の出を待って拝む風習。
 
   附荒  つけあれ  
地味が悪く耕作を諦め放置された田畑。
 
   附送  つけおくり  荷物や人を牛馬や駕籠で送ること。物に添えて送ること。  
   附紙 つけがみ 
 添付した紙。 書物や文書の中に目印としてつける紙。
 旅稼ぎ取り締まりについての廻文 (居谷
   付け  つけ  
物品の購入方法で、即金でなく付け(帳面に記入して)後払いで購入すること。

   付け借り
 
  付立帳  つけたてちょう  
付立帳は、本来は演劇に関する用語であるが、石黒の古文書に見られる場合は、いちいち書き記した帳面の意味であろう。
地券取調出勤並下調諸入費附立帳 
    附届・付届  つけとどけ    贈り物をすること。その金品。  
  
 つけたり   
本文の後に補足のために付けた文章。
 
   都合次第 つごうしだい   その時の状況をみてから。   
     つじ
合計。 道路が交差した所。   
 辻高   寅高入辻  
 
   辻高  つじだか  
合計した高
 
   辻番所  つじばんしょ  
江戸府内の屋敷町の辻々に警備のために設けた番所。
辻番   辻番人

 
   辻札  つじふだ  高札  
   対馬  つしま  長崎県の北部沖合の島。  
   津出  つだし  
年貢米を港などへ輸送すること。港から荷を載せた船を出すこと。
津出場
 
  土一揆   つちいっき・どいっき  
室町時代の中期から末期にかけて、畿内の地侍を指導者とする農民連合の支配者の荘園領主や守護大名に対する年貢減免や徳政を要求して起こした一揆。江戸時代には百姓一揆と呼んだ。 
 
   土臼  つちするす・どうす
 壁土で楢の小枝を間に挟んで作った臼で籾摺りに使った。
→石黒の民具-土臼の写真
 
   土目 つちめ   
土壌の性質。石黒の土質は鵜川方面の土質に比べて肥沃であった。
※→資料 鯖石谷は之に反し、粘土質の溶解し易きもの多きを以て、其河流は何れも皆混濁し、延べて其の流域を膏艘(こうゆ-肥沃)の地と成すに至れり。(柏崎文庫)
 
   筒落米  つつおごめ  
俵の米検査の時、
米挿しを俵に差し込み抜き取る時にこぼれ落ちる米のこと。筒落米は窮民が拾うことが黙認されていた。
 
     つつみ  
土手。  堤防。     堤敷
 
   葛籠  つづら  ツヅラフジで編んだ衣類収納箱。  
   葛籠馬  つづらうま  
大名の旅行中、衣服などを入れた葛籠を運ぶ馬。馬の背に葛籠をつけてその上に布団を敷き人を運ぶ馬。
乗鞍馬
 
      つと  
藁で作った入れ物。
※石黒では「ツトッコ」と呼んだ。→石黒の日常の暮らし-食-参考写真
 
   津留  つどめ  港への出入りを禁止すること。  
  潰地  つぶれち  災害などで耕作できなくなった田畑。  
         
   角樽   つのだる  酒を送るときに用いられた入れ物。手樽→石黒の民具参考写真  
   潰百姓  つぶれひゃくしょう  
凶作、災害、年貢などにより破産した百姓。
禿百姓-つぶれびゃくしょう
 
   潰家  つぶれや  
破産した家。倒壊した家。断絶した家の意味で原因は、病気災害、怠慢奢侈、博打等によるもので、その内の多くは、水呑み、無高などの身分に転落したものであろう。
  ・御尋ニ付乍恐以書付奉申上候
   坪検見   つぼけみ  
大検見の前に代官の手代が立毛の善悪を判断すること。 
小検見
   局女郎  つぼねじょろう  最下位の公娼。  
     つま  男女を問わず配偶者を指すことば。近世文書では配偶者の女の方を指す。建物の切妻正面をいう。そこから出入りする家を妻入とよぶ。  
  積金  つみきん
 金銭を積み立てること、またはその金銭。
 
      つむぎ  
紬糸(クズ繭や真綿で作った糸)で織った綿布。
 
   詰メ人馬  つめじんば  宿駅で待機する人馬。  
    詰腹  つめばら   
不徳義の行為をしたため友人より迫られ、無理に切腹させられること。
 
   爪判  つめばん  印判のない時に代わりに指先で押す印 拇印    爪印   
   面扶持  つらぶち・めんぶち  家族の人数に応じて給する扶持米。
   手当  てあて
古文書では「手当米」の意味で使われていることが多い。
 差上奉る御請書之事-石黒村文書
   手当米  てあてまい
災害や凶作による飢饉にあたり支給される米や籾。 
 
    手餘り  てあまり  
耕作者がいないため耕作できないこと。 またはその土地→手余り地
 
    手餘地  てあまりち  
田畑の耕作者がいなくなり荒地となった田畑。 
手余荒地
 
     てい
 風体。 様子。
 
   出居  でい・いでい  居間を兼ねた接客用の部屋。 →出居 
※石黒の昔の暮らし-「でい」

 
   貞観園  ていかんえん  
江戸時代中期に造園された大庄屋村山家の庭園。昭和12年(1937)国の名勝に指定される。
幕府の庭師九段仁右衛門や茶人松村宗悦らも造園にかかわったといわれる。

※詳細→貞観園HP http://teikanen.jp/about/
 ※庄屋村山藤右衛門の名前は、山中村庄屋文書(石塚家文書)に頻出する。山中騒動との関わりも伝えられている。
  庭訓    でいきん  
孔子が,自分の子が庭を走り抜けるのを呼びとめて詩や礼を 学ばなければいけないとさとしたという「論語季氏」の故事から、 家庭で子に親が教える事。親が子に教える教訓。  
庭訓往来
 
   庭訓往来  ていきんおうらい  
往来物の一つで寺子屋で習字や読本として使用された初級の教科書の一つである。 衣食住、職業、領国経営、建築、司法、職分、仏教、武具、教養、療養など、多岐にわたる一般常識について記述されている。
著者は南北朝時代の僧玄恵とされるが、確証はない。
 
   呈上  ていじょう  物を他人に贈ることを敬って言う言葉。  呈覧  
   定時法  ていじほう   
 定時法とは1日を24時間に等分割し、時間の長さは季節によらず一定に分けた時間法で現代使われているもの。太陽暦・グレゴリウス暦と呼ぶ。
 ※一方、不定時法とは、夜明けから日暮れまでの時間を6等分する時間法で明治5年の改暦まで使われて来た時法で太陰太陽暦と呼ぶ。太陽暦と対比して使われる場合は「太陰暦」「陰暦」と呼ばれることもある。→太陰暦
 ※古文書-明治5年の改暦布告
   貞心尼 ていしんに  
貞心尼(1798~1872)は長岡藩士・奥村五兵衛の娘。柏崎下宿の閻(えん)王寺で剃髪して、30歳のころに良寛和尚の弟子になった。一度は長岡に移り住んだものの、再び柏崎に戻り、75歳の生涯の半生を過ごした。
 スイセン
   手板  ていた  
文字など書き消すことのできる板。大工の設計図。  手板図
※参照→石黒の昔の暮らし-手板
 〇新建手板図-北条村文書
   剃髪   ていはつ  婦女の刑罰の一つで離縁状をとらずに他に嫁した女は髪を剃り親元に帰す。仏門に入って髪を剃ること。  
   出入  ていり  
もめごと。争い。  出ること入ること。金銭の支出と収入。
 
   定例   ていれい・じょうれい
 いつもきまりのように行われていること。 ならわし。 じょうれい。
 
手入れが間鋪  ていれがましく  
とりつくろうような、利益をえるような、の意味。
 
   出女   でおんな
江戸時代、江戸から出ていく女のことで、特に関所で厳しく取り調べ江戸在住の大名の妻が帰国・逃亡することを防いだ。 飯盛女のこと。出女に入鉄砲
 
   出買  でがい  直接売り手から買うこと。抜買-停泊中の船から積み荷を直接買うこと。  
    出開帳  でかいちょう  
 他所へ行って開帳すること。
※黒姫山神社出開帳願書 
   手形  てがた
 後日の証として印鑑を押した証書や証文。   手形書-てがたが
 
   手作  でさく・てづくり  
他の村に田地をもちそこに出かけて耕作すること。
 出作
 
   手錠  てじょう  
庶民に課す刑罰の一つ。30日・50日・100日の別があり30日・50日の場合5日ごとに、100日の場合は1日おきに封印を確認した。またはその器具。    てぐさり   てがね 
 
   手自  てずから  自分の手で。自ら。  
   出銭  でせん  支払う金銭。出費  
   手代  てだい
郡代、代官の下にあって事務にあたった小役人。商家で10年ほど奉公しているもので番頭と丁稚との間に位置する者。
 
   手高 てだか 
 低い石盛の土地を高い石盛に名目替えするときに、前よりも増えた石高を呼ぶ。 対語→違引・石間引
 
  出高   でだか
出目高
 
   出茶屋  でぢゃや  街道筋などに店を出す掛茶屋。出店には代官の許可が必要であった  
   手支  てづかえ  支障が起こること。金銭のやりくりが付かないこと。仕事が進まないこと。  
  手つけ金・
手付
 
 てつけきん・てつけ  契約結ぶ際に当事者の一方から相手方に引き渡す金銭または物。引き渡されるものはほとんど金銭であるため、手付金・手金ともいわれる。手付を授受する慣行は古くから行われており,平安時代にはこれを「あきさす」と呼んだ記録が見られる。→手付  文例→鯣書一札之叓
   手拭  てぬぐい  
手や顔、体をふきぬぐう布。現在のタオルのような役目をした。 石黒では「てのご」と呼んだ。
 
   手配  てはい
物事を行なうにあたっての連絡や段取り。  
御手配 
 恐れ乍ら書付を以って願い上げ奉り候
   手判  てばん 関所手形   
   手扣・手控  てびかえ  
後のために手元に残すコピー。
 手扣-石黒村文書
   出歩  でぶ  
土地の再検査をした結果今までより増した反別。
 
   出目高  でめだか
 近世の新検地の結果,表高(おもてだか)より余分に出た分。増した分。 
 出目-でめ  ※出高の表記も見られる
※近世における検地は出目高(出目)の増加を目的としたものと言える。反面、農民にとっては年貢の増加による負担増となった。
 
 
   手元  てもと  
暮らし向き。生計
 
   手寄  てより  
頼り。手がかり。
 
   寺請  てらうけ  
キリシタンではないことを檀那寺に証明させた制度。
寺請制 寺請状・寺手形
 
   寺請証文  てらうけしょうもん   
 江戸時代、寺請け制度に基づき寺が檀家にその檀那であることを証明した文書のこと。
 宗門人別改帳の作成は、町村毎に名主や庄屋、町年寄が毎年、後に数年置きとなった地域もある。
 改帳には、家族単位の氏名と年齢、檀徒として属する寺院名などが記載されており、事実上の戸籍として機能していた。そのため、
婚姻や丁稚奉公などで土地を離れる際には寺請証文を起こし、移転先の帳面に転記することとされた。
 こうした手続きをせずに移動すると改帳の記載から漏れて帳外れ、いわゆる、無宿者扱いになり非人と呼ばれ不利益を被ることになった。
寺請状 宗旨状
 
    寺替え  でらがえ   
離檀することや寺替えすることは寺院側から厳しく禁止されていたが、婚姻により子や孫が嫁ぎ先の寺に替えるときには、生家の菩提寺から「寺替え証文」が出された。
 ・一札-寺替え証文
   寺田(寺田新田)  てらだ  
保倉川下流と潟町砂丘に挟まれた低平地。江戸期から明治22年のの新田名。はじめ北大湊村、昭和32年から頚城村の大字。昭和10年の世帯数4戸・人口26人。
※関係資料→小池村 
 
   寺檀  てらだん   
寺と檀家の意味。
 
   寺泊  てらどまり
  
 寺泊町(てらどまりまち)は、新潟県の中部にかつて存在した三島郡の町。2006年1月1日長岡市に編入された。西廻り航路の港町、北陸街道の宿場町として知られていた町である。本州の中では佐渡島と最短の距離にあり、佐渡との間を佐渡汽船が定期航路を運航していた。
 古くから漁業が盛んであり、市街地の国道402号沿いに海産物の店舗が軒を連ねる「魚の市場通り」は有名。バブル期は数多くの観光客が東京などの都市圏から訪れた。

沿革
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い三島郡寺泊12町、白岩村が合併し、寺泊町が発足。
1901年(明治34年)11月1日 - 三島郡北西越村、西山村、潟村、野積村と合併して、寺泊町を新設。
1957年(昭和32年) 7月5日 - 三島郡大河津村の一部を編入。
11月1日 - 西蒲原郡分水町と境界の一部を変更。
1959年(昭和34年)2月1日 - 大字岩方の一部を分離し、三島郡与板町に編入。
2006年(平成18年)1月1日 - 長岡市に編入され消滅。

(ウェキペディア)

 
   出羽国  でわのくに 現在の秋田・山形県。   
   田札  でんさつ  検見前に検見する田に札を立て刈り取りを禁じた。鎌止札  
   天子  でんし  
天皇の別称。
 
   天竺  てんじく  インドの古称。  
   天習 でんしゅう 
教えを受けて習うこと。  例-
蘭人に航海術を伝習する
 
   點心  てんしん  茶請けの菓子。昼食。  
   天水懸  てんすいがかり  水利が悪く雨水に頼る稲田。天水田  
   天台宗  てんだいしゅう
 わが国の八宗(天台、真言、臨済、曹洞、浄土・浄土真宗西、浄土 真宗東、日蓮)の一つ。日本では最澄が比叡山に開創して以来、平安仏教の中枢となり、日本文化に多大の影響を与えた。
 
   田地永代売買禁止  でんぢえいだいばいばいきんし  
寛永20年(1643)3月田地の永代売買の禁止令が出され、明治5年に解禁となった。主に幕府直轄領に向けた禁止令と考えられているが、実際には、質流れなどで江戸時代を通じて土地の売買が行われていた。幕府も江戸時代中期以後に入ると法令違反の訴えが無い限りは同法違反の取締りを行うことはなかった。
   田地配分制限令  でんちはいぶんせいげんれい
 高10石、地面1町より少なく子弟に分与してはならない、つまり持ち分が高20石、地面2町以上でないと他に分与することはできない決まりであった、後に10石1町に改められる。
 
   田畑永代売買禁止令  でんぱたえいたいばいばいきんしれい  
寛永20年(1643年)に江戸幕府によって出された法令の総称。 代官宛に出された17条からなる「土民仕置条々」のうち、田畑の売買(永代売)を禁止する3条(13条)を指す。
明治5年に廃止される。
 
   天秤・天平 てんびん  棒の両端に皿を取り付けた秤で、秤量貨幣が流通していた江戸時代の両替屋では必備品であった。
   天保郷帳  てんぽうごうちょう
 天保郷帳及び天保国絵図は、天保2年(1831)に江戸幕府が諸国の有力大名に作製、提出を命じ、天保5年(1834)までに上納させ完成した。
 また、天保6年(1835)、国絵図の改訂を命じ、天保9年(1838)までに完成した。
 
   天保両度の飢饉  てんぽうりょうどのききん・てんぽうのききん
 天保3~8年(1832~1837)にかけての全国的な飢饉のこと。前後数年を含めて「7年飢渇」とよばれ享保の飢饉・天明の飢饉と並ぶ近世の大飢饉である。天保初年より天候不順が続いたが、同4年に奥羽地方は6月に大洪水、8月に冷害に見舞われ、山菜を食べてしのぎ犬猫の果てまで食するという飢餓に陥った。
 関東地方も大風雨があり、全国各地とも平年の3~7分作で米価は高騰し各地で餓死人、捨て子、行倒れが発生し騒動が起こった。
 続く同5年、さらに6年と不作が続き一層米価の高騰したが、翌7年はこれまた全国的な凶作となった。
 天候不順・冷害・再三にわたる暴風雨で同7年の作柄は全国平均4分作で、内、古米食い込み高を差し引くと3分作という深刻な状況で翌8年にかけて稀に見る大飢饉の様相を呈した。
 たとえば、奥州仙台藩領では農民の離散餓死や田畑の荒れ様は甚だしく、死者は数万に上り、江戸では諸物価が高騰し、かつ農村よりの流入者や行倒れが止まらず、その惨状は天明の飢饉にも劣らぬほどであった。
 ただし、天明時の経験を踏まえた対策により若干の被害は食い止めることは出来たことは幸いであった。即ち幕府は同年4月に江戸の救民賑給を行い9月と11月に白米5升ないし3升支給し、同7年には7月より9月の間に白米6500余石、銭10万9000余貫を延べ35万人、一人当たり男5合、女3合の割合で10日ずつ給与し、第2次の救済では同11月より翌8年4月の間に白米1万5000余石を延41万人に給与、また、同年3月及び5月に各2万俵ずつ町々に給付した。
 さらに神田佐久間町・花房町・柳原土手など21箇所御救い小屋を設け延べ5800余人を収容し、翌8年には品川・板橋・千住・内藤新宿などの府外にも小屋を建てて行倒れの防止に努めた。この外、酒造制限小売値引き下げ令、囲い米の売却、隠米禁止などの政策を実施した。しかし当然のことながら、諸藩がそれぞれ飯米の確保を図ったため江戸大阪への廻米が激減したため諸政策は十分の効果は上げえなかった。
 大阪においては町々の窮民を調査して川崎・将棋島の囲い米を賑給し富豪たちも協力したが不十分で窮民を救うには不足であった。こうした事態を町奉行の無策と憤慨した大塩平八郎の乱を引き起こした。京都でも困窮者にたいする対策は講じられたが江戸同様十分なものではなかった。
 しかし、奥羽地方をその他各地の備荒策は限度があり、おびただしい餓死者、それに伴う疫病死者が発生した。その数、20~30万人に及ぶと推定されている。
 また、この飢餓を契機とする一揆や打ちこわしは、大塩平八郎を称した能勢一揆や当地柏崎の生田万の乱など奥羽・中部・畿内・中国の各地で続発し幕藩体制の深刻な行き詰まりを露呈した。
 
   天法輪  てんぽうりん 仏の説法のこと。   
   伝馬  てんま 伝馬制は、古代、中世にもあったが本格的に整備されたのは近世、徳川家康の時代で、慶長6年(1601)東海道に伝馬制度を定めた。
 三河・尾張両国内には、二川(ふたがわ、豊橋市)・吉田・御油(ごゆ、豊川市)、赤坂(宝飯郡音羽町)、藤川(岡崎市)・岡崎・池鯉鮒(ちりゅう、知立市)、鳴海(名古屋市)、宮(名古屋市熱田)の九宿が配置され、それぞれ伝馬36匹の常備が定められた。交通量が増えるに伴い、寛永15年(1638)には一宿につき、人足100人・馬100匹に拡充された。
 中山道木曽路木曽11宿では木曽馬を使用し伝馬を行った。各宿場に人足50人、馬50頭を備えなければならなかったが、充足が困難だったために万治2年(1659)幕府に25頭に減らしてもらえるように請願し、万治4年から25頭となったが、寛文5年(1665)再び幕府は50頭とした。
 元禄13年(1700)までたびたび馬の数を減らせるよう請願した結果元禄14年再び25頭体制となったが、勅使、公卿、老中等の往来が多く、重要な通交の際は尾張から美濃馬を借りて伝馬とした。
なお、この伝馬制は明治8年に廃止されている。

伝馬宿 伝馬宿入用 伝馬宿役 伝馬役
(参考文献-ウェキペディア)
 
   伝馬宿入用  てんましゅくにゅうよう    
江戸時代、幕領(天領)にのみ課せられた付加税の一種。五街道の問屋、本陣の給米や宿場入用に充てる目的で、幕府が 村高100石につき米6升の割合で毎年、年貢割付状によって村ごとに賦課し徴収したもの。
卯より辰両歳御年貢皆済目録拝見証文 


寛政元年より文化5年迄御割付写本-石黒村 
   伝馬人足  てんまにんそく  
江戸時代には、公用で旅をする人たちのために各宿では、人と荷物を運ぶための決められた数の人足と馬を常備することが義務づけられていた。例を示すなら、寛永15年(1638)以降、東海道各駅には100疋の伝馬と100人の伝馬人足の設置が義務づけられていた。この制度により、交通網が全国にわたって張り巡らされていた。
 
    天明の飢饉  てんめいのききん
 天明2年(1782年)から天明7年(1787年)かけての全国(特に東北地方)的な飢饉。 原因としては、浅間山噴火、さらにアイスランドのラキ火山等の噴火が重なったこと、その他、エルニーニョ現象による冷害などの影響もあったといわれている。
 日本の近世における最大の飢饉であり、餓死者は東北地方を中心に数万人に達したといわれる。
天明の飢饉における飢え人救済願-山中村文書
   天明義民事件   てんめいのぎみんじけん  
 椎谷藩では第8代藩主・堀著朝の頃になると財政が逼迫した。このため、領民に厳しい御用金や米祖前納金などを命じた。
 ところが著朝は病弱で、分家の堀直基が実際の政務を代行する。直基は天明の大飢饉が起こったことによる米価の高騰を背景にして、蔵米を競争入札にかける。これに激怒した百姓たちが騒動を起こし、天明義民事件に発展した。
 この事件は数年間にわたって農民の直訴と藩の弾圧が繰り返され、遂には幕府の裁定を仰ぐに至った。幕府は5回に及ぶ評定の結果、寛政4年(1792年)に藩主・著朝の隠居と嗣子として三河西尾藩主・松平乗祐の七男・堀直起を擁立すること、領地5000石の半知替え処分が下された。このとき、信濃国高井郡六川村に六川陣屋が設けられている。
 その後、藩内では藩政改革なども行なわれた。しかし嘉永4年(1851年)、家老の斎藤八百四郎による藩主・堀之敏暗殺未遂事件が起こるなど、藩政は常に不安定であった。
(ウェキペディア)
 
   天文方  てんもんがた  
貞享元年(1684)12月、初めて天文方を置く、そこでの仕事は天文、暦術、測量、地誌の4課に分かれ、その他西洋書籍の翻訳の仕事も掌った。また、江戸城吹上にも天文台があったという。
 
   天領  てんりょう
江戸幕府の直轄領の明治以降の呼び名。しかし、「天領」とは本来、朝廷(天皇)の直轄領のことを称したが、明治維新の際、旧幕府領の大半が明治政府の直轄県つまり天皇の直轄領になったともみられたことから、さかのぼって幕府直轄領を天領と呼ぶようになった。正式には御料(御領)御料所公領公儀御料所と呼んだ 
 
        
年号の後につけてその時代のことを表わす語→寛永度-寛永の頃。
 
   道心  どうしん  
13歳ないし15歳で仏道に入った人。また、一般に仏道に帰依した人。仏道を修行して、りを求めようとする志をいう
 
    問屋  といや   
領主と住人の仲介者として宿場町におかれ問屋場(下欄参照)を管理した宿場役人(町役人)の責任者。 品物を買い集めて仲買人に卸す商人。
 行倒れ人についての通知書の追伸と封書
   問屋場   といやば   
街道の宿駅で人馬の継立の仕事をする場所。
 
   当・當  とう  名詞の上に付き「この」「その」「現在の」などの意味の語。
当春、當牛、当月、当城、当年など。
 
   等閑  とうかん・なおざり  
おろそか。いい加減・。手落ち。
 
   堂舎  どうしゃ
 特に寺院の建物について堂は大きい建物のこと。(舎は小さな建物の意味)。
※しかし、石黒では神仏を祀った小型の建物も堂(上欄の堂の意味)と呼んだ。一方、寺の「御堂(みどう)」という場合は仏が安置された大伽藍の建物を指した。
 
   道心  どうしん  
仏を信じて悟りを求めようとする心。または仏道を修めようとする心。
13歳あるいは15歳以上で仏門に入った者。
 
   当山派  どうざんは
修験宗には、
天台宗系の本山派(天台宗系)と当山派(真言宗系)の二派があり、その一派、当山派のこと。
 
   当荒  とうあれ  その年に荒れた田畑。  
    東海道  とうかいどう    
五畿七道の一つ。伊賀、伊勢、志摩、尾張、三河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、相模、安房、上総、下総、常陸の 14ヵ国、のちに武蔵が加えられた。またこの地域を通る街道の呼称でもある。 これらの諸国を結ぶ街道をも指し、30里 (約 120km) ごとに駅を設置し、駅馬を常備した。
 
道具   どうぐ
武家では武具をさす。持ち物という意味で使われることもある。 
 
   堂宮  どうぐう  
御堂や神社 神仏を祀る建物。
 
   唐鍬   とうぐわ  重くて鋭利な開墾用の鍬、作り頑丈で硬い土や木の根なども切断できる。  
   当毛  とうげ  当年の作毛、作柄。  
     とうげ  
明治12年からは東頸城郡に所属。同22年奴奈川村の大字となる。昭和34年から松代町の大字となる。
 
   当合  とうごう  検地の坪刈合を1升とすると、その300倍であり1反歩で籾3石採れることになる。これから必要経費として籾6斗を差し引くと、残りは2石4斗となる。これを300歩で割ると8合となる。これを当合という。
 
   当座  とうざ  
その場 その折 当分。
 
   当作  とうさく  
今年の作柄 その年の作柄。
 
   道心 どうしん
 13才ないし15才以上で仏道に入った人。
 
   東司  とうす  厠(便所)の守護神。便所のこと。  
   道心者  どうしんじゃ
出家しないで仏道を修行する人。仏門に帰依した者。 
 
   唐船  とうせん  江戸時代、長崎に来た中国方面から船。※欧州からの船は紅毛船と呼んだ。  
   道祖神  どうそしん  障の神-さえのかみ。塞の神。村境などの道端に祭られている仏像。  
   当代  どうだい  
今の当主。今の主人。今の時代。 当代様  御当代
代々うけついできた地位・役職を、現在受け継いでいる人のこと。  
 柏崎町明細帳-宝暦11年
   同断  どうだん  
前に同じ。他に同じ。同様。
 
   道中差  どうちゅうざし  庶民の旅行中、護身用に腰に差す脇差。→石黒の民具写真  
   唐箕  とうみ    
米粒や豆粒、小豆粒などを精選する農機具。
→石黒の民具写真
 
   通馬  とおしうま 目的地まで馬を変えずに行くこと。   
   東照大権現様  とうしょうだいごんげんさま  徳川家康の神号の尊称。  
   唐人  とうじん  外国人、中国人、韓国人。  
   同心  どうしん  
与力の下にあって警察事務にあたった下級の役人。
 
   道祖伸  どうそじん  
村境や峠などの道端にまつられるていて、災いや悪霊を防ぐ神。
 
塞の神
 
   道中稼  どうちゅうかせぎ  街道の旅人の懐をねらって盗みをすること、またはその者。  
   道中差し  どうちゅうざし  
町人や農民が旅に出るときに腰に差した護身用の刀。
 石黒の民具-護身用刀
   当番庄屋  とうばんしょうや  
年番制の庄屋。 
年番名主
 当番庄屋-覚-北条村文書
   当分助郷 とうぶんすけごう   臨時に徴発された助郷。  
   胴巻き  とうまき  
金銭や貴重な物を入れ,腹に巻きつける帯状の袋のこと。
道中稼ぎなどの被害にあわないため。
 
   堂宮  どうみや  仏堂と神宮、寺と神社。  
    桐油    とうゆ   
 アブラギリの種子から採取する油で、乾燥が速く耐水性がある。
日本では古くから桐油紙・番傘などに使用された。→桐油(きり2 「桐油紙(がみ)」「桐油ガッパ」の略称。江戸時代の旅用具の一つでもあった。
 ※写真資料
  書簡-嶋田宿での行倒れ者の処理について(嶋田宿での行倒れ人関連文書)
   当用  とうよう  
さしあたりの用事。当面の用事。
 
    十日町  とおかまち
  十日町市(とおかまちし)は、新潟県の南部(中越地方)に位置する市である。
市の中央を日本一の大河である信濃川が流れ、十日町盆地とともに雄大な河岸段丘が形成されている。市の南部には日本三大渓谷に数えられ、上信越高原国立公園の一部である清津峡、西部には日本三大薬湯のひとつ松之山温泉がある。日本有数の豪雪地帯として知られていて、多い年には2m~3mの積雪となり、特別豪雪地帯に指定されている。 十日町市を含むこの地方一帯で人類の活動が始まったのは大変古いと見られていて、河岸段丘上のあちらこちらで旧石器時代の石器類が出土している。笹山遺跡から発掘された火焔型土器・王冠型土器を含む深鉢形土器群は、5,000年ほど前の縄文時代中期に作られたものと推定され、2017年現在、新潟県では唯一の国宝であり、かつ、縄文時代の土器としては唯一の国宝である。 魚沼産コシヒカリの産地として、全域で稲作が広く行われている。また、かつては京都西陣と並ぶ織物の一大産地であったが、近年は需要の低迷により、生産額は往時よりもかなり縮小している。 2000年から3年に1度開催されている「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」は世界最大級の野外アート展として知られ、国内外から多くの来訪者がある。

信濃川の宮中取水ダムは過去70年間、首都圏の鉄道の動力源であったが、そのために本来の信濃川の水量が激減し枯渇寸前となり「河原砂漠」とまで呼ばれるようになった。2008年JR東日本による河川法違反(不正取水)が発覚し、同社は国により水利権を剥奪され、70年ぶりに奔流を回復した。

ケッペンの気候区分では温暖湿潤気候に属す。世界有数の豪雪地帯で年間降雪量は平均で1169cmにも及ぶ。国から特別豪雪地帯の適用を受けており、最深積雪は平年でも2mを超える。妙高市関山(1172cm)、魚沼市守門(1343cm)、津南町津南(1349cm)、湯沢町湯沢(1180cm)などの地域と共に新潟県でも降雪量や積雪量が非常に多い地域。冬の気温が低いため、融雪が起こりにくい。近年では2012年2月11日に最深積雪323cmを記録した。
(ウェキペディア)
 
 
   篩・簁   とおし  米竹または銅線などで作られた籾や米粉や黍粉などを選別するフルイ。→石黒の民具写真   
   遠見検見  とおみけみ  
耕地が遠く離れているなどで実地の検見が出来ないときに、前年までの検見を参考にしてその年の年貢率を決めること。
 
      とが   
罪  罪科  過ち。     
咎(とが)    御科 
 
   科人  とがにん  →咎人 罪を犯した者。  
   時中・時判  ときなか  1時-いっときの半分で今の1時間ほどに当たる時間。半時  
   時水村  ときみずむら
  明治12年北魚沼郡に所属。同22年城川村の大字となる。
明治22年から現在までの大字名。初め城川村、昭和29年からは小千谷市の大字。
 
   時水新田  ときみずしんでん
明治22年から昭和12年の城川村の大字名。昭和12年両新田となる。
※上記参照
 
   特旨  とくし  
君主の思し召し。特別の考え。
 
    徳米  とくまい   
年貢米を差し引いて残った米。小作米。 ※
得米とも書く
 高反別預かり小作水入証文の事
  篤与・得度 とくと   よくよく。念入りに。得与 疾与   
   所請證文  ところうけしょうもん  
婚姻、或いは奉公先より転居する時に、身元保証やキリシタンでないことを証明する證文を所請証文と呼んだ。証文は移転元の庄屋から移転先の庄屋へ提出してもらい、さらに寺院から宗旨離檀証文を移転先の庄屋へ送付してもらった。また、庄屋より宗旨御改の役所に提出した文書も見られる。→所受證文の事(石黒村庄屋文書)    →
所請状     ・所請状之事
所受証文之事
 
   所替  ところがえ   
幕府が大名・小名の領地を他に移し替えること。
移封-いほう 転封-てんぽう
 
   所払  ところばらい  追放刑の一つ。居住している土地から追放して立ち入りを禁止すること。  
   土佐国  とさのくに  
現在の高知県。 
土州-どしゅう
 
   外様  とざま
 関ヶ原の戦い以降に徳川氏に服した大名。外様大名 対語→譜代
 
   歳神  としがみ 年の初めに祀る神様。この神のいる方向を恵方といいその方向に向かって祭壇を設けた。  
   年柄  としがら  
その年の有様や状況る→
古文書ではその年の作柄について使われ事が多い。
 差上奉る御請書之事-石黒村文書
   戸〆  とじめ    庶民に課せられた刑罰の一つ。戸を閉めて釘止めにして謹慎させる罰。  
   土怔  どしょう  土地の生産力の善悪をいう語→土質  
   年寄   としより  
領主と住人の仲介者として宿場町の自治行政を行うと共に問屋場を管理した町役人(宿場役人)の責任者。
行倒れ人についての通知書の追伸と封書
   渡世  とせい
 暮らし、生業、職業。渡世稼
 
   渡世稼  とせいかせぎ  
渡世
 
  斗代  とだい  田畑1反あたりの等級ごとの標準収量。  
  斗立   とだて
→計立
 
 
   栃ケ原村   とちがはらむら
  明治34年からは初め高柳村、昭和30年から高柳町の大字。明治35年の戸数178戸、人口1078人。
 昭和23年中魚沼郡仙田村と2村組合立桐谷小中学校設置。同36年中魚沼郡川西町、東頸城郡松代町、刈羽郡高柳町の3郡3町組合立桐谷小中学校を設立したが、同46年地内の後谷が過疎地域対策緊急措置法で集団離村させられたために解消。同49年統合により栃ケ原小学校となる。
 
  徒党・徒黨  ととう   
強訴・一揆などを企てて集まった群衆。
 
   土人  どにん  土着の人。土地の人。百姓。   土民  
   殿様  とのさま 大名や旗本などの武家の敬称。   
   土橋   どばし  
木などを組んで橋をつくり路面を土で固めた橋
 
   鳶口 とびぐち   棒の先に尖った鉤のついた道具。火消道具の一つ。→民具写真  
   戸前 とまえ   土藏の入口の戸。→石黒の昔の暮らし-住-写真  ※石黒では「とめぇ」と呼んだ。  
   留村  とまりむら  
廻状や触書村継で回覧する時の最後の村。

止村-とめむら 留-とまり
 
   留置   とめおく・とどめおく   
残しておく。  おいて置く。  書き留めておく。
 
   留帳  とめちょう   諸事を書き留めておく帳面。 留記-とめき  
   留村・止村  とまりむら・とめむら  
廻状や触書を村継で送る場合の最後の村のこと。
 
   留場  とめば  狩猟や伐採の禁じられた場所。  留山  
   留山  とめやま  
幕府や藩など、伐採、狩猟などを禁じた山。 
禁山-とめやま
対語→明山 
※留山と明山の間にある帯状に伐採を禁じた区域を置きこれを鞘山-さややまと称した。
 
     ともがら  
その仲間、同輩、集団。  
族-やから
 
  外山  とやま  村里に近い山。  
   土用  どよう
 陰暦で立春・立夏・立秋・立冬の前18日間。                              〇冬土用→1月18日~2月3日   〇春土用→4月16日~5月4日  〇夏土用→7月19日~8月6日  〇秋土用→10月20日~11 月6日
 
   土用明  どようあけ  
土用の最後の日。 春土用明けは5月4日
 
     とら  十二支の寅。  
   取扱  とりあつかい  処理すること。和解すること。示談すること。仲裁。 取扱人₋仲裁者
 
   鳥居断三  とりいだんぞう  
岐阜県出身。明治4年12月、海外視察から帰朝し柏崎県知事となる。その後、東京上等裁判所を経て大審院に入り、10年広島裁判所長に転じ、のちに東京始審裁判所長となる。
 
   鳥追   とりおい  江戸時代の門付け芸人の一種で人家の門口で三味線を弾いて鳥追い歌を唱って金銭を乞う者。石黒の年中行事   
   取箇   とりか  
年貢のこと。 
成箇  取箇帳
 
   取替  とりかえ
 金銭を立て替える事。 物を交換すること。
 
  取沙汰・執沙汰   とりざた  
世間の評判。人々のうわさ。取り上げて処理すること。。
 
   取高  とりだか  収穫の高。収入高。取り分。  
   取潰  とりつぶす  幕府が大名や旗本の家を潰しその領地や知行所を没収すること。  
   取退無尽  とりのきむじん  無尽講の一つで籤で当たった者から退会して、以後は掛け金を払わらないでよいとする無尽講。幕府はこれを禁止した。取除無尽  
    取放  とりはなつ   
手ばなす、引き離す、取り上げる。
 
   取り成す とりなす   
その場をうまくとりはからう。   うまく取り扱い処理する。
  文例→書簡-石黒村庄屋宛て
    取米   とりまい  
年貢として納める米。田畑の年貢を米で上納したもの。→年貢
 
   取実  とりみ  
作物の収穫。作物の実り。
 
   年寄  とりより  幕府では老中、大名では家老、または年寄百姓-庄屋・組頭級の百姓、その他組頭の別称として使われることもある。年寄衆  
   頓死  とんし  急死。  
   豚児 とんじ   自分の息子を謙遜して呼ぶ語。  
   頓首 とんしゅ   手紙の終わりに付け、相手に敬意を示す語。  頓首謹言  
   内意   ないい  
内々の意向。  心中で思っている事。
 
   内応   ないおう  内通する。裏切ること。  
   内見  ないけん
 江戸時代、代官が検見(けみ)を行なう前に、村役人があらかじめ収穫量の調査を行うこと。
 
   内見合  ないみあい
内見にほぼ同じ。   例①→「内見合付書上帳
※例②→「当辰田方立毛
内見合附取調書上帳」  内見合→ないみあい
 ※子御高入新田内見合附小前帳-石黒村
   内済 ないさい   
訴訟などもめごとを裁判沙汰にせず話合で解決すること。  
内済熟談
 書簡 門出村庄屋より石黒村庄屋宛
   内證  ないしょう
 内々に。内密に。
 
   内室  ないしつ  他人の妻の尊称。 御内室  
   内談  ないだん  内々で話し合うこと。  
   内見  ないみ 予め村でその年の稲の出来具合を見て村ごとに等級をつける。   
    内見帳  ないみちょう   
内見の結果得た予想高を見積もって各筆ごとに詳細に字・畝歩・持ち主などを列記し合毛ごとに集計して全部を合計した帳簿(耕地絵図添付)。
これを実際の検見の結果と照らし合わせる。
 
   名請  なうけ  
検地帳に自分名の所持農地として記載され、百姓としての種々の権利が公認される。   名請地 名請百姓
 
   名請人  なうけにん
 一筆の耕地ごとにその所持者と認定され、負担すべき年貢の数量とともに年貢納入の責任者として検地帳に登録された農民のこと。
高請百姓,高持百姓
 
   長岡藩  ながおかはん
 長岡藩は、越後国の古志郡の全域、および三島郡北東部、蒲原郡西部(現在の新潟県中越地方の北部から下越地方の西部)、現在の新潟県長岡市・新潟市を支配領域に含む藩であった。
※山城長岡藩と区別するため、越後長岡藩と呼ばれることもある。
 
   長岡町  ながおかまち  
 長岡市(ながおかし)は、新潟県の中部(中越地方)に位置する市である。新潟県下第2位の人口を擁する市で、国から特例市に指定されていた。
 2000年代に入ってから進められた周辺市町村の編入合併により、市域が拡大した。編入市町村の区域には合併前の市町村名を冠して「○○地域」と呼称している(例:栃尾地域・山古志地域・越路地域など)。旧:長岡市域もこれに合わせ「長岡地域」と呼称しているが、特に信濃川右岸側は「川東地域」、左岸側は「川西地域」と称している。
沿革
明治2年(1869年)5月1日 長岡藩が四郎丸村の昌福寺に国漢学校を開校。
明治2年(1869年)6月22日 版籍奉還し、藩主の牧野忠毅が長岡藩知事になる。
明治3年(1870年)5月 長岡藩に支藩の三根山藩から100俵の救援米(米百俵)が送られる。
明治3年(1870年)6月15日 三根山藩から送られた米を売却して得た資金などをもとに、国漢学校を昌福寺から坂ノ上町(当時の表記)に移設。洋学局と医学局を新設。
明治3年(1870年)10月22日 廃藩置県に1年先立ち牧野忠毅が藩知事を辞任。長岡藩は廃藩となり、柏崎県に編入される。
明治4年(1871年)5月 長岡藩の廃藩により国漢学校が柏崎県に移管され、分黌長岡小学校となる。
明治5年(1872年)11月23日 坂ノ上町(当時の表記)に長岡洋学校(現:新潟県立長岡高等学校)開校。
1873年(明治6年)6月 坂ノ上町に長岡会社病院(長岡赤十字病院の前身)が開院。
1873年6月10日 柏崎県が廃止され、新潟県に合併。
1876年(明治9年)10月20日 信濃川最初の有料橋として木製の長生橋が完成。
1878年(明治11年) 三島億二郎、岸宇吉らによって第六十九国立銀行が設立される。
1879年(明治12年) 士族や有志により長岡城跡が整地され、城跡公園となる。
1879年 郡区町村編制法により、越後国古志郡の領域は新潟県古志郡の管轄となり、長岡町の国漢学校跡に古志郡役所が置かれた。初代郡長は三島億二郎。
1884年(明治17年)4月4日 太平洋戦争初期の連合艦隊司令長官となる山本五十六が、現在記念公園となっている長岡市内の生家で産まれる。
1888年(明治21年)4月 小坂松五郎が北越石油会社を設立。東山油田の開発が始まる。これによって新潟は秋田と並び石油・天然ガスの国内参出地となる。
1889年(明治22年)町村制の施行により、古志郡が51町村、三島郡が43町村となる。
1891年(明治24年)12月19日 長生橋の所有が県に移り、無賃橋となる。
1892年(明治25年)6月23日 松田周平、小坂松五郎、殖栗順平、山田又七が長岡鉄管会社を設立。山田又七は、現在「ENEOS」ブランドを展開しているJXエネルギー株式会社となる前身会社も興した人物で「日本における石油の父」と呼ばれている。
1893年(明治26年) 山田又七、殖栗順平らが宝田石油株式会社を設立。
1894年(明治27年)長岡鉄管会社により、東山油田(浦瀬)と中島の精油所を結ぶ送油用パイプライン完成。
1898年(明治31年)6月16日 北越鉄道(現:信越本線)が延伸し、長岡停車場(長岡駅)開業。
1899年(明治32年)10月 反町新作商店(マルフク証券を経て現:岡三にいがた証券)が創業。
1901年(明治34年)11月1日 長岡本町・長岡町・千手町・草生津町・新町・王内村の6町村が合併し、新しい長岡町となる。
1903年(明治36年)5月1日 長岡町大字新町(現新町1丁目)に古志郡立長岡高等女学校(現:新潟県立長岡大手高等学校)開校。
1906年(明治39年)4月1日 古志郡長岡町が市制施行により長岡市となる。
1906年12月 長岡郵便局内に電話交換局を設置、長岡市内に電話開通。
1907年(明治40年)4月27日 田村文四郎、覚張治平らが稲わらを原料としたボール紙の生産を目的として北越製紙を設立。現在の「北越紀州製紙」。
1908年(明治41年)4月 古志郡上組村大字宮内に古志郡立上組農学校(現:新潟県立長岡農業高等学校)開校。
1909年(明治42年)4月1日 中蒲原郡村松町から長岡市東千手町(現:南町、南中学校)に新潟県立工業学校(現:新潟県立長岡工業高等学校)が移設。
1910年(明治43年)4月 長岡市立長岡商業学校(現:新潟県立長岡商業高等学校)開校。

大正期[編集]
大正時代の長岡市略図(『栃尾鉄道案内』栃尾鉄道株式会社編、大正4年刊より)1915年(大正4年)11月28日 二代目の長生橋が完成。当時、木製の橋としては日本一の長さの約872.73メートル。
1916年(大正5年)1月 長岡鉄道の西長岡~寺泊間が開通。
1916年12月 栃尾鉄道の長岡~栃尾間が開通。
1917年(大正6年)5月20日 長岡開府三百年祭が行なわれる。
1919年(大正8年)5月24日 悠久山公園完成。
1921年(大正10年)10月 宝田石油が日本石油と合併、本社跡地と10万円を長岡市に寄付。本社跡地を宝田公園とする。
1921年12月1日 古志郡四郎丸村を編入。
長岡高等工業学校(新潟大学工学部の前身)(昭和初期の絵葉書より)1924年(大正13年)4月 四郎丸町(現学校町)に長岡高等工業学校(現:新潟大学工学部)開校。
1924年5月1日 栃尾鉄道の長岡~悠久山間が開通。
1926年(大正15年) 古志郡役所廃止。
1926年4月1日 市制20周年を記念し、長岡市歌を制定[注 1]。

長岡市公会堂(昭和初期の絵葉書より)1926年8月 大野甚松が長岡市に公会堂を寄付。
1926年9月14日 中川繁治により、長岡大花火大会で初めて正三尺玉が打ち上げられる。

昭和・戦前戦中期[編集]

建設中の3代目長生橋(1935年頃)[4]1927年(昭和2年)10月27日 関原地震が発生、マグニチュード5.2。負傷者2人、家屋半壊23戸。
1931年(昭和6年)7月11日 長岡操車場が開業。
1931年8月21日 上越線全線開通を記念して、上越線全通記念博覧会が開催される。
1931年9月1日 上越線(宮内~高崎)が全通。
1934年(昭和9年)2月 工業の強化を目的とした「長岡市工業5ヵ年計画」をまとめる。
1936年(昭和11年)12月31日 馬高遺跡で火焔土器が発掘される。
1937年(昭和12年)6月11日 ヘレン・ケラー、長岡聾唖学校を訪問。
1937年10月20日 三代目の長生橋(鉄橋)が完成。
1945年(昭和20年)
8月1日 長岡空襲により市中心部被災。空襲被害では甲信越地方で最大規模。

昭和・戦後期[編集]
1946年(昭和21年)12月24日 日本機械製作所内の精密機械部が独立し、日本精機となる。
1948年(昭和23年)4月1日 三島郡深才村の一部(大字大島)を編入。
1948年7月1日 山通村の一部(大字長倉・鉢伏・大町・高畑・柿)を編入。
1950年(昭和25年)12月1日 古志郡栖吉村を編入。
1951年(昭和26年)1月1日 古志郡富曽亀村を編入。
1951年8月1日 悠久山公園に長岡市立科学博物館が開館。
1953年(昭和28年)3月3日 長岡教育放送が放送開始。
1954年(昭和29年)2月1日 古志郡上川西村を編入。
1954年3月1日 古志郡宮内町(旧:上組村)を編入。
1954年5月1日 三島郡深才村を編入。
1954年9月15日 ラジオ新潟(現:BSN新潟放送)長岡放送局開局。
1954年11月1日 三島郡日越村、王寺川村、古志郡十日町村、山本村、黒条村、新組村、福戸村、下川西村及び六日市村の一部を編入。
1955年(昭和30年)8月1日 長岡駅に地下道が完成、開通式が行なわれる。
1956年(昭和31年)9月1日 古志郡山古志村のうち、旧:太田村の一部(大字蓬平・濁沢)を編入。
1957年(昭和32年)10月1日 三島郡関原町を編入。
1958年(昭和33年)8月1日 表町に「まいまいひめの像」完成。
1958年10月18日 大和デパート長岡店(カーネーションプラザを経て現:ナデック・ベース)が開業する。屋上には遊園地があるなど市内外から多くの人が訪れた。
1958年11月3日 玉蔵院町(現:坂之上町3丁目)に山本記念公園開園。
1958年11月20日 大手通1丁目に長岡市厚生会館竣工。
1959年(昭和34年)11月21日 信越本線浦鉄橋を改修した越路橋有料道路(片田町~来迎寺間)が開通。
1960年(昭和35年)日産化学工業長岡工場(現:長岡市営陸上競技場周辺)が操業開始(1972年3月撤退)。
1960年4月1日 三島郡二和村(大積村と宮本村が合併した村)、与板町の一部(大字成沢)を編入。
1960年12月15日 大手通に丸専デパートが開店。

三六豪雪時の長岡市の様子(1961年)1960年12月(~1961年1月) 三六豪雪で交通機関が麻痺、新潟県は自衛隊に救援を要請。
1961年(昭和36年)2月2日 長岡地震が発生、マグニチュード5.2。被害は死者5人、負傷者30人、家屋全壊220戸。
1961年4月1日 国立長岡工業短期大学(現:長岡工業高等専門学校)開校。
1962年(昭和37年)7月13日 悠久山に県営長岡水泳競技場(後の長岡市悠久山プール屋外水泳場)完成。

三八豪雪時の長岡市の様子。自衛隊による災害派遣活動が行われた(1963年)1963年(昭和38年)1月 記録的豪雪(昭和38年1月豪雪、三八豪雪)。
1967年(昭和42年)2月1日 越路橋有料道路が一般県道区間として無料開放される。
1967年5月31日 長岡市悠久山野球場竣工。
1968年(昭和43年)4月20日 悠久山に長岡市郷土史料館開館。
1968年12月16日 新潟総合テレビ開局。1991年10月まで長岡に演奏所(長岡放送センター)が置かれる。
1969年(昭和44年)2月12日 浪花屋製菓の創業者今井與三郎から譲渡された消雪パイプの特許を長岡市が公開。
1970年(昭和45年)11月3日 長岡セントラルパークが完成。
1970年11月16日 長岡大橋開通。
1971年(昭和46年)6月27日 市外局番が02582から0258に変更される。
1972年(昭和47年)10月7日 長生橋に歩道橋を設置。
1973年(昭和48年)10月24日 幸町2丁目に長岡市立劇場オープン。
1973年12月1日 長岡市営スキー場オープン。
1975年(昭和50年)3月31日 越後交通長岡線旅客営業廃止(貨物輸送は1995年3月31日廃止)。
1975年8月24日 「米百俵之碑」除幕式が行われる。
1976年(昭和51年)6月6日 緑町1丁目に長岡市営陸上競技場オープン。
1976年10月1日 長岡技術科学大学開学。
1977年(昭和52年)9月30日 幸町2丁目に新市庁舎竣工。(現:さいわいプラザ)
1977年10月11日 新市庁舎で業務開始。
1978年(昭和53年)2月20日 新潟県陸運事務所長岡支所(現:新潟運輸支局・長岡自動車検査登録事務所)が設置され、長岡ナンバーが誕生。
1978年6月26日 6・26梅雨前線豪雨で災害発生。
1978年6月27日 信濃川河川敷地域を「千秋が原」と命名。
1978年9月21日 北陸自動車道、長岡IC - 新潟黒埼IC間が開通。翌日より高速バス長岡 - 新潟線運行開始。
1980年(昭和55年)3月31日 学校町にあった新潟大学工学部が新潟市へ移転。
1980年4月17日 長岡駅新駅オープン。
1980年7月2日 長岡駅に県内初の駅ビル「セゾン・ド・ナガオカ」(現:CoCoLo長岡)オープン。
1980年7月3日 西津町に長岡市営希望が丘プールオープン。
1981年(昭和56年)6月 通商産業省(現:経済産業省)による「テクノポリス建設構想」の一環で、長岡市が建設調査地点に選定。
1982年(昭和57年)10月 長岡東バイパスが暫定2車線で全線開通。
1982年11月15日 長岡駅に上越新幹線開通。
1983年(昭和58年)3月 県と長岡市の出資による「長岡テクノポリス開発機構」が発足。
1983年4月1日 新潟県立長岡向陵高等学校が開校する。
1984年(昭和59年)3月 「長岡テクノポリス計画」が、国の承認を受ける。
1985年(昭和60年)7月23日 大手大橋開通。
1986年(昭和61年)3月9日 厚生会館脇広場にて「第1回ながおか100だるま大会」開催。
1986年11月11日 長岡バイパスが暫定2車線で開通。
1987年(昭和62年)3月6日 学校町の新潟大学工学部跡地に長岡市立中央図書館が開館。
1988年 長岡市初の郊外型店舗、ジャスコ長岡店(現:イオン長岡店)が営業を始める。
1988年 越後交通の駅跡地にダイエー長岡店が完成し営業を始める。(現:E‐PLAZA)
1988年(昭和63年)5月 長岡テクノポリス計画の事業圏域が長岡市周辺の15市町村に拡大され「信濃川テクノポリス計画」に改称。
1988年11月25日 城内町2丁目に城内地区再開発ビル(イトーヨーカドー丸大長岡店)が完成し営業を始める。
(ウェキペディア)

 
   中後  なかご
天保13年の「越後国細見図」には、門出、中子(※中後)、板畑、居谷、中坪」が見られる。
地形は、標高約400mの石黒村との境界付近から、男山に面した斜面に家屋が点在した。境界付近の高台には、墓地、諏訪神社、門出小学校中後分校(昭和46年閉校)があった。
 
中後集落は、昭和46年に過疎地域対策緊急措置法により集団移転をさせられた。転出対象は13戸29人であった。
それは、村民の永年の念願であった
県道78号線が石黒より開通した直後であった。内実の事情を知らない者には「引っ越し道路」などと揶揄するものいたが、中後住民にとってはまさに苦渋の選択であった。
ちなみに、この時、高柳では後谷集落が対象となり集団移転で廃村となった。また、石黒村の居谷集落も対象となったが集落の合意がえられず、廃村にはならなかったが村の三分の二近くが離村した。
 
   中小作  なかごさく  大量の小作を請け負って、その小作地を多くの百姓に転貸して小作させること  
   中山道  なかせんどう  
五街道の一つ。江戸日本橋を起点に上野-こうずけ〜信濃〜美濃の諸国を経て草津で東海道と合流する街道。
 
   中丈  なかだけ  
中背。中くらいの背丈。
 
    永尋  ながたずね・えいたずね   日数を限らずに欠落人など捜索すること。※60年を過ぎると不問となった。永之尋  
   長月  ながつき  
9月の異名の一つ。
 
   長局  ながつぼね  江戸時代、妾を置く部屋の呼び名、また江戸城にては大奥の女中達の部屋を長局と呼んだ。  
   中稲  なかて  早稲と晩稲の中間の時期に稔る稲。  中手  
   長年季  ながねんき  享保6年以降、質地の年限は10年としそれ以上は長年季として禁止した。また、奉公人については、寛永10年に10年を限度としてそれを過ぎれば曲事とした。  
   中野村  なかのむら   
保倉川支流中野川流域に位置する。明治12年からは東頸城郡に所属。同22年大島村大字となる。
 
   中浜村  なかはまむら  刈羽郡に属す。明応5年に上杉房能が毛利修理亮清広の所領を承っていたが、同年の文書に、「八津、中浜、河口、神田彼の三か所の証文・・・云々」の文書が見られる。
 江戸期~明治22年の村名。慶長19年より高田藩、天和元年からは幕府領、貞享2年からは再び高田藩領、寛保元年から白河領、文政6年からは桑名藩領。
  明治22年に大洲村の大字となる。当時の戸数は471戸、人口は2,156人。鵜川をはさんで旧市街地と相対し早くから宅地化が進んだ。
昭和40年から現在まで柏崎市の町名。

 
   中札  なかふだ
 江戸時代、年貢米の俵の中に、租米の納め人や枡取・村役人の名を記して入れた名札のこと。
 御廻米諸入用割賦帳
   仲間   なかま   商工業者が結成した同業者団体。  
     ながら  ~でありますが。  →恐れ乍ら  
   長持  ながもち  衣類や調度品を入れる蓋つきの箱。 →石黒の民具写真  
   流地  ながれち 質流れになった土地。   
   長脇差  ながわきざし  
脇差のうち歯渡りが1尺8寸(55㎝ほど)以上のもの。寛政期以降は1尺5寸以上のものを指した。
 
  就中   なかんずく  
とりわけ。とくに。中でも (漢文訓読に由来する語で、多くの物事の中から特に一つを取り立てるさま。
 
   長刀  なぎなた   
「薙刀」とも書く。長い柄のついた刀。
 
   薙畑  なぎはた  →焼き畑  ※石黒の昔の暮らし  
   投検見  なげけみ  
正規の検見をしないで、検見役人と村と談合してその年の年貢率を決めること。
 
   長押  なげし 日本建築で柱と柱の間をつなぐ横材。  
   名子  なこ  
主家の耕地を小作し、種々の労働奉仕を行う者。下人-げにん・家抱-けほう等と同種の身分層。
 
   可被成  なさるべく  ~してください。  
      なずみ  慣れ親しむこと。執着すること。心を寄せる。ぐるになる。  
   夏稼ぎ   なつかせぎ  
他所稼ぎを夏季に行うこと。一般に農村からの他所稼ぎは農閑期の冬季に行うことが多かったが、夏季に行う者もあった。他所稼ぎを制限した時代には農業への影響から特に夏稼ぎについては厳しく対処したのではなかろうか。
 ○差出申す一札の事
   夏毛  なつげ  夏にみのる畑の作物。   夏作    夏成   
   納所  なっしょ
 年貢などを納める所。または、寺院で金銭や年貢などの事務をするところ。
 
   撫物  なでもの  お祓いの具。身体を撫でて災いを捨てるために用いる人形の類。  
   名所  などころ・みょうしょ  
字より小さな地所の地名。検地帳作成時に記入した場所の名前。
※田畑証文には普通に見られる言葉であるが下石黒では「たきのふち」「あらや」「はなさか」「みずあなぐち」「ほうのきやま」「しもっぱら」「へりくろぜ」「どうしんだ」「とまりやま」「おせしみず」「まんぞうがわ」「へ(ひ)がしもろ」などがある

             石黒地区の名所 制作中
 上石黒  下石黒  上寄合  下寄合
 板畑  大野  落合  居谷
 
   何角  なにかと
 あれこれと。色々と。
 
   何敷  なにしく  →何卒  
   名主  なぬし
庄屋・肝煎(きもいり)のこと。
 
 
   七草(春〕  ななくさ
セリナズナゴギョウハコベラホトケノザ・スズナ(かぶ)・スズシロ(大根)。  七草粥    ※七草-石黒の植物-植物用語の手引き
 
   名寄帳  なよせちょう
 耕作者の名前、田畑、屋敷の反別。田畑の等級を個別に帰した帳簿。
(租税の割り付けや村経費などの課税のために検地帳を基に村人が作った帳簿)。
 
   何角  なにかと
 あれこれと。色々と。
 
   何品  なにしな  どんな事柄。  
   名主  なぬし  庄屋・肝煎のこと。 名主衆中 名主見習  名主役  
   名平村  なびろうむら
 初め頚城郡に所属。明治12年からは東頸城郡に属す。明治22年からは北平村の大字となる。明治34年には山平村となる。昭和29年からは松代村。同年10月から松代町の大字。現在は新潟県十日町市名平。
 
   名寄帳  なよせちょう
 耕作者名前、田畑、屋敷の反別及び等級を個別に記した帳面で、村役場に保存した民簿の一つ。年貢の小割りをするときにはこの帳面に基づいて行うので重要な帳簿。  小前帳  一筆限名寄帳
 
     なら コナラのこと。  
   平免   ならしめん  武士の知行所の不均衡を是正すること。  
     なり  
古文書辞典などにはないが、板木や半鐘やホラ貝など、災害時に発生を知らせる用具を指すことばであろう。
※出雲崎町史の五人組帳の解説には「ほら貝や鳴」という記述がみられる。ほら貝の他は半鐘や板木(はんぎ)が考えられるがおそらく後者であろう。
 
   鳴物   なりもの
音曲に用いる鉦・太鼓・笛・三味線などの総称。
 
   鳴物停止  なりものちょうじ  高貴の人の死去の際に布告された、鳴り物、音楽の禁止令。  
   成箇  なりか  納めるべき年貢。  
   ナル    
かや葺き屋根普請で使う2mほどの低木。屋根の骨組みの上にカヤ束を並べてナルを横に充てて縄で屋根裏の横木に通して締めて固定するために使うもの。囲炉裏の燃料にしたボイより少し長い。木はアブラチャンマンサクウワミズザクラなど。ナルは全て防虫のため数年水につけておいて使った。
※衣食住-住-屋根普請
 
   成沢村  なるさわむら  
明治22年に油田村の大字となる。このころの戸数36、人口235。
明治34年に中通村、昭和31年からは柏崎市の大字となる。
 
   馴合  なれあい  不正な行いを共謀すること。  
   縄入  なわいれ  検地を行うこと。   縄打  
   縄請  なわうけ  検地を受けること。  
   縄頭  なわがしら  検地に当たって、縄引きの指揮をする者。  
   縄心  なわごころ  検地の際に割引をして百姓の負担の軽減を考慮しした措置。実測間数の内から1~2割を控除した。 余歩  
  縄弛   なわだるみ  検地のさい水縄に弛みがでるのでその分を考慮して全部の長さから幾分か差し引くこと。  
   縄外   なわそと  測量地の範囲外。  
   縄除  なわよけ  検地から除外された土地  
   南蛮  なんばん  東南アジア方面を指して呼ぶ。その他外国人を指すこともある。  
   南呂  なんりょ  
陰暦8月の異名
 
   南鐐二朱銀  なんりょうにしゅぎん  
江戸時代の銀貨。二朱判ともいう。5匁銀に次いで造られた計数貨幣で、8枚で金一両とした。「金代わり通用の銀」であり、純分比は100分の98という上質銀を素材としているので、「南鐐」と呼ばれた。表面には「以南鐐八片換小判一両」、裏には「銀座常是」と鋳出されていた。
 
 
  新潟奉行  にいがたぶぎょう  
 江戸幕府が天保14年(1843)、新潟に創設した遠国奉行。芙蓉間詰、役高1000石、役料1000俵、席順は佐渡奉行の次。
 配下は組頭二、広間役6、定役20、並役30、手付出役2、足軽20、ほかに新潟で召し抱えた水主頭取10、足留水主30人がいた。奉行所は寺町通にあった。幕府は天保の改革の一環として長岡藩に新潟浜村の上知を命じ初代奉行に川村清兵衛修就(ながかた)を任じ北海防衛のきそとして新潟港に台場建造、密貿易取締、仲(すあい)金の幕府財政への組み入れを行わせた。
 川村在職10年、町政にも治績をあげ、対馬の守に任ぜられ嘉永5年(1852)堺奉行に転じた。そのあとは関行篤・小栗忠高・根岸九郎兵衛・古山善一郎・榊原忠義・白石千別・檜屋義明と続いたが、いずれも在任期間は短く、明治元年(1868)新政府軍上陸直前、新潟は米沢藩預所となって廃止された。
 
   新嘗祭  にいなめさい  
天皇が新穀を神々に供え、自らも食される儀式。近来は11月23日・14日の2日間にわたって行われる。
 
   煮売  にうり  飯や副食物の煮ものを売ること。 荷売 
 ※幕府は食物を煮ながら売ることはとくに防火上禁じたが、禁止令は守られず、その後場所を限定したり鑑札を与えたりしたが、夜蕎麦の屋台など後を絶たなかった。
  煮売船 煮売渡世 煮売茶屋
 
   日限   にうり  
あらかじめ日時を限ること。    
ひぎり
 
   仁上村  にがみむら   
保倉川上流左岸に位置する。同12年から東頸城郡に所属。同22年、市制町村制施行により仁上村となる。
 明治33年の戸数143・人口905。同34年大島村仁上となる。
 
   錦絵   にしきえ  多色塗りの版画浮世絵の総称  
   西丸  にしのまる  
江戸城本丸の西の部分。将軍の世子や大御所の居所とされた。
秀忠の嗣子(しし)竹千代-後の将軍家光を西丸に移したこと
に始まる。
 
   西室西淵新田   にしむろさいぶちしんでん
刈羽郡の鯖石川支流妙法寺川沿岸にあった。天和4年の検地帳によれば反8町歩余、高42石とある。文化5年井岡村の明細帳に
「当村の儀村立御座なく候、百姓の儀白河様御領分井岡村掛持ち百姓に御座候」とあり、明治元年にも無住で、同9年井岡村の一部となった。 
 御申渡 写 文化8年
   二汁五菜  にじゅうごさい  本膳料理の献立の数え方。本膳と二の膳に汁と菜を2品、別膳に焼き物を配したもの。  
    二十三夜  にじゅうさんや   陰暦10月23日の夜、月待をする。 二十三夜待 二十三夜金     
   二重仕置
 にじゅうしおき  江戸時代、重罪の場合に本刑の上に更に刑を加えること。
例-過料の上に戸締手錠など。
 
   二重質  にじゅうじち  
同一田畑を同時に二人に質入れすること。
二重質物
 
   煮染  にぞめ  草花や樹皮などの煮汁で布を染めること。  
   日限  にちげん・ひぎり  
前もって日時を限ること。   
日限尋
 
   日蓮宗  にちれんしゅう  
 日蓮宗(にちれんしゅう)は、
1.日本仏教の宗旨の一つ。法華宗とも称する。鎌倉時代中期に日蓮によって興され、かつては(天台法華宗に対し)日蓮法華宗とも称した。
2.日本仏教の宗派の一つ。 1.1872年(明治5年)、政策「一宗一管長」制に基づいて合同した日蓮門下の全門流の宗号。1874年(明治7年)、日蓮宗一致派と日蓮宗勝劣派に分かれ解散[2]。
2.1876年(明治9年)、日蓮宗一致派が公称を許された宗号。1941年(昭和16年)、三派合同により解散[7][8][9]。
3.1941年(昭和16年)、三派合同により成立した現行の「宗教法人・日蓮宗」。身延山久遠寺を総本山とする。
開祖である日蓮の主要著作『立正安国論』のタイトルから類推して、国家主義的(ナショナリズム)傾向の強い教えと見る者がいる。 本節では鎌倉仏教の宗旨日蓮宗(法華宗)の宗祖日蓮の教えならびに分派の大要を紹介する。

諸経の王とされる妙法蓮華経(法華経)こそが釈迦の本懐にして最勝の教義とする。その最高無上の経典である妙法蓮華経(法華経)を専ら読経すなわち「南無妙法蓮華経」と題目を唱えること(唱題)を重視。
「南無妙法蓮華経」とは「妙法蓮華経(法華経)に帰依する」の意であり、「題目」は経典の表題を唱えることに由来する。

日蓮に対する天台教学の影響
日蓮は、天台の教観二門(教相門・止観門)を教学の大綱とし、
妙法蓮華経(法華経)に対しては天台智顗の本迹分文により、方便品の開権顕実、寿量品の開近顕遠を二門の教意とする。
二乗作仏と久遠実成を妙法蓮華経(法華経)の二箇の大事とする。

末法観と法華経[編集]
日蓮は、鎌倉仏教の他の祖師たちと同様、鎌倉時代をすでに末法に入っている時代とみなしていた。 そして、法華経を、滅後末法の世に向けて説かれた経典とみなし、とりわけ「如来寿量品」を、在世の衆生に対してではなく、滅度後の衆生の救済を目的として説かれたものとみなした。そして法華経にとかれた
久遠本仏の常住、遣使還告の譬、勧持品二十行の偈文等を「末法悪世の相」を説いたものとみなした。そして当時の現実の世相(鎌倉幕府内部の権力闘争、天変地異、モンゴル帝国からの使者の到来、釈迦を第一に尊ばない禅や阿弥陀信仰の盛行など)を、日本において法華経がないがしろにされてきた結果とみなした。 日蓮にとっては「末法における顛倒の衆生」、「末法重病の衆生」を済度しうる唯一最勝の良薬は「法華経」のみであった。「真言亡国、禅天魔、念仏無間、律国賊」と激しく他宗を攻撃する「四箇格言」は、法華経のみが末法において衆生を救済する唯一のおしえであり、他の教えは、かえって衆生を救済から遠ざけてしまう、という確信に基づくものであった。

五綱教判
法華経を唯一の正法であり、時間と空間を超越した絶対の真理とした日蓮は、教・機・時・国・序のいずれにおいても法華経が至高であるとする「五綱の教判」を立てた[15]。つまり、「教」(教え)においては、法華経のうち前半14章を迹門、後半14章を本門とし、本門こそ人びとを救済する法華経であるとし、「機」(素質能力)においては、末法に生きて素質や能力の低下した人間にふさわしい教えは法華経であり、「時」は末法であることから法華経が正法とされ、「国」は大乗仏教の流布した日本国にふさわしいのはやはり法華経、「序」(順序)は最後に流布するのは法華経本門の教えであるとした。 「五綱の教判」のなかで、信仰における重要な契機として「時」(末法の世である現在)・「国」(日本国)を掲げるあり方から、こんにちでも、日蓮宗系の各宗派においては、他の宗派にはあまりみられない政治問題への積極的なかかわりがみられる。

日蓮の一念三千
日蓮は、天台教学を「迹門の妙法蓮華経(法華経)」であり「理の一念三千」と呼んで、その思弁性・観念性を批判し、みずからの教えを本門として「事の一念三千」を説き、実践的・宗教的であらねばならないとした。日蓮はまた、法(真理)をよりどころとすべきであって、人(権力)をよりどころとしてはならないと説いた。かれは、仏法と王法が一致する王仏冥合を理想とし、正しい法にもとづかなければ、正しい政治はおこなわれないと主張したのである。また、王法(政治)の主体を天皇とし、天皇であっても仏法に背けば仏罰をこうむるとし、宗教上での天皇の権威を一切認めない仏法絶対の立場に立った。

日蓮入滅後、教団は六老僧を中心にして拡大していったが、師弟の繋がりによって浜門流(日昭)、池上門流(日朗)、四条門流(日像)、六条門流(日静)、身延門流(日向)、富士門流(日興)、中山門流(日常)などの門流にわかれ、たがいに異なった秘伝・法門を相続し、ときには門流の対立から分派もみられた [39] 。

江戸期に入ると僧侶の養成機関として各地に檀林が創設された。檀林の講堂は高台地に立てられ、学寮は谷間に立てられたが、飯高地方では「谷」を「サク」と呼ぶところから、「谷名(さくめい)」が学寮の異名となった [40] 弟子はその師匠の出た学寮に入るようになり、学系が固定するにつれ、ある寺の住職はどの学寮の出身者に限るとか、修行階梯による出世寺格が定まり、寮ごとに「持ち寺」「出生次第」「出世寺」が固定し、「法類」(法縁・法眷とも)制度が確立されていった。このようにして、従来からあった門流意識に、新たにできた学系意識が加わり、法類制度はきわめて強固なものになっていった 。

檀林は、明治5年(1872年)、太政官政府による学制(日本最初の近代的学校制度)の制定・公布にともない、相次いで廃止された。また昭和16年(1941年)、旧日蓮宗・顕本法華宗・本門宗は、三派合同により対等合併して新「日蓮宗」として再編を行った際、本末制度を解体、法類関係も解消し、行政府としての宗務院が本山にかわって住職の任免を行い、宗費課金を徴収するなど、組織制度を大幅にあらためた。しかし長年つちかわれてきた本山・法類関係は完全には払拭されず、各法類とも法類内の結束をはかり、現在でも住職の移動は基本的に法類の内部だけでおこなわれている
(ウェキペディア)
 
   日光奉行 にっこうぶぎょう   東照宮の営繕と警備、祭祀を行い、日光町の庶政にあたった。  
  日損  にっそん  
日照りによる農作物の被害。
 
   日中戦争   にっちゅうせんそう  
  昭和12年(1937)に盧溝橋事件(ろこうきょう じけん)が何者かにより発生し日中戦争が起こる。大日本帝国政府は不拡大方針を貫こうとしたが、国内の圧倒的な軍部支持の世論に負け戦線が拡大すると追認していった。日本は中国の都市の大部分を占領したが中国はゲリラ戦などを駆使し激しく抵抗する。
  日本軍が中国の首都の南京(ナンキン)を占領した際に市民・捕虜ほりょに多数の死者を出した。なお、 南京事件については、現在残されている資料では規模を完全に把握出来ないというのが実情である。
満州事変以降、関係が悪化し始めていた米英からは反発を買い、中国を援助する政策を取ったこともあり、戦争は長期化する。戦争が長期化するにつれ国民生活も貧窮し始め生活必需品の配給制、物価統制が行われるようになった。また「挙国一致」(きょこくいっち)の一環として1938年に国家総動員法(こっかそうどういんほう)が成立し、議会の同意なく、戦争に必要な人員や物資の動員が行われることが可能になった。1940年には、ドイツやソ連の一党独裁を模倣するために、全政党を解散させて大政翼賛会(たいせいよくさんかい)を結成した。
 その後、日中戦争は太平洋戦争の中に組み込まれることになり,中国での新たな戦いにアメリカ軍の軍事顧問団も加わるなど日中戦争の様相も一変する。そして1945年8月 15日の日本敗戦によって,日中戦争も終結することになった。 1937年7月以来8年間にわたる戦争で,日本軍の死傷者は 133万,中国側は 300万に達したといわれる。
 
   日本橋  にほんばし  五街道の起点となった江戸城外堀から隅田川に流れる川にかかる橋。  
  二毛作   にもうさく  米作の裏に、麦、菜種などを作ることで関西に多く行われた。
  両毛作 
 
   入院  にゅういん  新しく住職として僧が寺に入ること。  入寺  
   入会地  にゅうかいち  
一定の土地を共同で借用、収益できる土地。
 
   入札  にゅうさつ
村役人の名主・庄屋、組頭などを選ぶ時の現在の選挙投票。
 
 
   入定  にゅうじょう  
精神を統一して煩悩を去り、無我の境地(禅定)に入ること。聖者が死去すること、とはいえ聖人の場合、入定=死、というわけではない。例えば、高野山では空海は死んだのではなく禅定に入っているとされている。
 
    入津  にゅうしん   船が港に入ること。  
    女房詞  にょうぼうことば   朝廷に仕える女房が使った隠語 例→酒-ささ 米-うちまき。  
   入用  にょうよう  
必要な経費あるいは出費。 村入用
 
   入用割  にょうようわり  
村役人の給料や紙、筆代などの事務経費、また、道や橋や用水などの普請費用など、村運営上必要とする諸経費は、村民に高割りまたは軒割りで割り当てられ徴収された
 
   如来   にょらい
如来とは、仏教において、真理(如)に随って来た、真如より現れ出た者、すなわち仏陀のこと。
中村元によれば、「タターガタ₋如来」とは本来、「そのように行きし者」「あのように立派な行いをした人」という語義であり、仏教・ジャイナ教・その他の古代インド当時の諸宗教全般で「修行完成者」つまり「悟りを開き、真理に達した者」を意味する語だという。
 
 
     にわ
 「馬屋中門造り」の石黒の昔の家の間取りでの「庭・にわ」は、入口の「とまぐち」の次の間である土間、およびそれに続く間の板張りの作業場を指した。
一般に呼ぶところの庭は「めいめぇ」と呼んだ。→
参照HP石黒の昔の暮らし-衣食住-住
 
   庭銭  にわせん  
宿場・河岸場などで荷物を一時預かってもらう時の代金。
 
   庭帳   にわちょう  
名主の庭などで年貢納入を記録し百姓に捺印させた帳面。
 
 
   庭番  にわばん  将軍の命により諸藩の動静や機密を探り、将軍に面接して報告、意見を述べる役職。吉宗の時代に始まったと言われる。御庭番  
   忍者  にんじゃ 密かに敵の様子を探る者。   
   刃傷  にんじょう  刃物で人に怪我をさせること。 刃傷沙汰  
   人足  にんそく  
荷物の運搬や普請などに従事した労働者。
 
   人足役  にんそくやく  宿駅の住民に課された伝馬役以外の労役。夫役として課された労役。  
   人足寄場  にんそくよせば  加役人足寄場ともいい、無宿者や追放者などを収容して労役をさせた施設。※正しくは加役方人足寄場  寄場  
   人別  にんべつ  
人別帳・人別送り状の略。 人数、人口。
 
   人別送り状   にんべつおくりじょう
 結婚または離縁は人の移動を伴うため村役人や旦那寺は、その事実を隔日に把握しておく必要があった。そのために嫁婿の村から嫁ぎ先の村にあてた文書は、所請け状であり、村送り状、人別送り状、送り一札などと表記される。これに対して、嫁ぎ先の村から嫁婿の村に提出されるものが引取一札で引取手形共い呼ぶ。
一方、嫁婿の家の旦那寺から嫁ぎ先の旦那寺に出される文書が寺請け状である。
寺請証文、寺送り状、宗旨送り状などと表記される。これらは宗門改め帳を作成する上で重要な手続きであった。したがって、一組の縁組にあたっては、所請け状と寺請け状の両方が取り交わされた。
 
   人別改  にんべつあらため  
農村では毎年3月に取り調べて記入し人別帳を作成した。
 
   人別改帳  にんべつあらためちょう  宗門人別改帳  
   人別送状  にんべつおくりじょう  
結婚・養子縁組・出奉公などで他所へ移転する際に旦那寺の宗判を添えて移転先へ出す書状。村役人が発給した。
送状 村送状 村送手形 寺送状
 
   人別割  にんべつわり  人数で割り当てること。  
    抜状  ぬけじょう  江戸時代、早飛脚の中から急便を引き抜いて昼夜兼行で逓夫3人をあてて送らせたもの。 抜早飛脚  
   抜歩  ぬきぶ  一枚の田の中に大きな岩・石その他除くことのできない物がある場合その部分を除いて検地すること。※検見帳に脇書する。  
 抜身  ぬきみ  鞘を抜いた刀や槍の先。  白刃   
   抜商  ぬきあきない  抜け売りや抜け買いなど規則を犯してする商売。  
   抜売   ぬけうり   決まりを破り密かに品物を売ること。  
   抜買  ぬけがい  
禁制を破り密貿易品を買うこと。仲間との約束を破り密かに品物を買うこと。  抜荷
 
   抜貸  ぬけがし  正規の決まりに反して、密かに金銀を貸し付けて利をえること。  
     ぬさ  布や紙で作り、祈願するさい使用する物。  
   布子  ぬのこ  
綿の入った木綿の着物。
 
   布木綿  ぬのもめん  布(麻織物)と木綿のこと。木綿で作った着物。
※庶民の衣類の代表布が木綿。
 
   沼田  ぬまた  深田-ふけた、のこと。泥深くカンジキを履かないと入れない田。  
    願筋  ねがいすじ  
 願事の理由などの筋道、願い出る方面。
 
   願石代  ねがいこくだい  
風水旱虫害のため稲の収穫が著しく少なく年貢米を納めることができないときに、願い出の上、金納にすること。
幕府は、蔵米の不足をおそれ、明和4年(1767)以降たびたび廻米を奨励する触を出して石代納を制限している。
  与板御引渡後諸事御
用留
   願立  ねがいたて  強く願うこと。懇願すること。  
   根伐  ねぎり  木の根元から伐採すること。林野の畑の間に溝を堀り根の侵入を防ぐこと。  
   根取    ねとり  
 1反あたりの年貢収納標準取り米。  根取米
 
   子の刻  ねのこく  
子の刻」は夜中0時を中心とした前後2時間のこと。0時ちょうどをさして「子の刻」という事もある。
また、0時ちょうどを「子の正刻」(正子-ショウシ)ともいう。
 対語→正午
 
   涅槃絵  ねはんえ  釈迦の入滅の日とされる2月15日に行われる法会のこと。 涅槃像  
   年季 ねんき 
契約により決められた1年単位の奉公や金銭貸借の期間。年忌奉公の期間。
 
   年貢皆済  ねんぐかいさい  
年貢を完納しすること。
 
   年貢勘定  ねんぐかんじょう
 年貢を百姓の持ち高に応じて割り当てた額。
 
  年貢勘定帳   ねんぐかんじょうちょう
 年貢を百姓の持ち高に応じて割り当てた額の明細を記した帳簿。
 寛政元年酉年より文化五辰年まで御年貢割付写帳-石黒村
  年貢割付状  ねんぐわりけつじょう
 村当ての年貢及び租税の令状。
 
   年忌  ねんき  人が死去して毎年めぐって来る命日。また、その日に行う法要・  
   年季  ねんき  1年単位の期間。契約により決められた一年単位の奉公期間あるいは金銭借り貸し期間。3・7・17・33年忌など。  
  年季明   ねんきあけ 
奉公の契約期間が切れること。また、土地の質入れや金銭の貸借期限がきれること。
 
   年季切替  ねんききりかえ  
年季明けになっても双方合意のもとに契約期間を継続すること。
 
   年季質物  ねんきしちもつ  期限を定めて質入れした物件。  
   年行司  ねんぎょうじ  1年交代で務める役や当番。 年行事  
   年切・年限  ねんぎり  
奉公人などの契約年限。一年ごと。   
年切中  年切女
 
   年貢 ねんぐ
 領主が百姓に田畑の控え高に応じて賦課した。対象作物は主に米麦で、必ず反別ごとに米または永(金銭)で定納する。反別のないところからの税は年貢とは言わず小物成と呼ぶ。関東では田畑の年貢を本途成-ほんとなり(本免)と呼び、田方は米納で夏成、畑方は永納で秋成と呼んだ。幕府関係は年貢のことを取箇-とりか、あるいは物成などと呼んだ。
※また、小作料を指して年貢と呼ぶこともあった。
 
   年貢米金皆済目録  ねんぐまいきんかいさいもくろく  
幕府領にて年貢米金を皆済した(関東では翌年正月)上で、帳簿をつくり、代官が調印して勘定所の殿中皆済方に差し出す書類。その年の代官支配下にある村々の総合計高と年貢その他の上納米永、また、払下げ物の代金などを合計して書き記す。皆済方で調べが済むと勘定奉行に皆済届書を差し出す。
※村方皆済目録も略して皆済目録というので区別を要する。
 
   年中行事 ねんじょうぎょうじ   一年のうちで、ある特定の時期に行われる行事。
 ※→石黒の年中行事
 
    
年代表
 
ねんだいひょう

 年代表
 
   年賦  ねんぷ  
借用した金銭などを毎年一定額ずつ分割して支払うこと。
年賦切替→合意の上、期限が切れても継続して支払うこと。
 
   念仏踊  ねんぶつおどり  
民俗芸能の一つ。「踊念仏」とも呼ぶ。現代の盆踊りの基礎になった芸能。平安時代に空也上人によって始められた。盂蘭盆や仏事に際して、念仏や和賛をとなえながら鉦や太鼓を打ち鳴らして踊るもので純粋な宗教行事であった。
 中世に一遍上人らによって全国的に広げられ、室町時代になると次第に娯楽化し、盆の行事として風流化した。その性格も亡魂の成仏供養、疫病退散、雨乞い、虫送りなど様々な利益信仰と結びついて、民間の年中行事として発展した。扮装や芸能は多様多彩で、ほとんど全国的に行われてきた。
 その名称も「大念仏」「小念仏」「六さい念仏」「ほうさい念仏」「天道念仏」など、その土地により実に様々であった。
 中世末期に風流踊りの一種となった念仏踊りに「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏」と名号を唱える間に色っぽい恋の小唄を交えて歌いつつ忘我恍惚の境をさまようように踊り狂うものがあり、歌舞伎の始祖に擬される出雲阿国が京に出て踊ったとされる念仏踊りもこの系統であった。
 
    念仏講  おこう   
浄土宗や真宗の信者があつまって念仏を行う講。
 
※石黒の昔の暮らし→お講
   年々引  ねんねんびき  検地村高の内より公共用地となった土地の高について年々徐税されること。  
   年番名主  ねんばんなぬし  

数人の適任者をあらかじめ選出しておいて1年交代で務める名主。
 
    能操  のうあやつり  能と操り人形      能狂言  
   農業之間  のうぎょうのあいだ  農閑期。 農間-のうま   農暇-のうひま・のうかん  
   農隙  のうげき  
農作業の合間。農事のひま。農閑期。
 ※文例-差出申す一札の事
   農事  のうじ
農業の仕事など農業に関すること。 
 
   農間商ひ  のうまあきない  農業の合間に商売をすること。   農間商渡世-のうまあきないとせい  
 納米  のうまい・おさめまい
上納する米。幕府御藏などに年貢米を納めること。    
乃米  
 
   能米  のうまい  
玄米のこと。
 
   農間稼 のうまかせぎ   
百姓身分のものが農業の合間に機織りや商いなどをすること。
 
   之刻  のきざみ  〜の時、~の折の意味。  
   軒役  のきやく  一軒ごと残らず課せられる夫役や負担。  軒割  
   鋸挽  のこぎびき   
江戸時代に科されていた死刑の中で最も重い刑罰。主人殺しにのみ適応された。罪人を1日引廻のうえ上、両肩に刀目を入れ、竹鋸にその血をつけて側に立てて2日間さらし、ひくことを希望する者があれば挽かせる罰であった。しかし、江戸時代には実際に挽く者はなかったという。実際は、その後引き回しの上に磔に処したという。
 記録では、元禄時代に罪人の横に置かれた鋸を挽く者がいて、慌てた幕府はその後、監視の役人を置くようにしたという。(江戸時代以前には極めて稀に実際に行われたとされる)
 この刑は明治元年(1868年)火刑とともに廃された。
 
    野地板  のじいた   
屋根材の下地材のこと。垂木(たるき)の上に張る板材。
 
   野稲   のしね  陸稲で粒の長大で、白い舶来種。南方から渡来したため梵天米とも呼んだ。  
   熨斗目  のしめ  武家の礼装に裃-かみしも素襖-すおうの下に着用した小袖。  
   野銭  のせん  
野原などの採草地や入会地の秣(まぐさ)場などの利用による収益に対して課せられた小物成の一つ。  
野銭場-のせんば
 
   除高  のぞきだか
 村高のうち、寺社の境内など年貢・諸役の全部もしくは一部を除いた高。
 
   能登国   のとのくに  現在の石川県の能登半島部。  
   野袴  のばかま  武士が旅行などに用いた裾にビロードなどの広い縁をつけた小袴。  
   野伏  のぶし・のぶせ  山や野に宿して修行する僧。または野武士。  
  延売買   のべばいばい  代金の授受を即座にせずに一定期限を定めて売り買いすること。
 
延商内-のべあきない
 
  延米   のべまい  
年貢米の目減りを補うため、あらかじめその分を見積もって付加された税。
 
    のぼり  戦陣や祭りなどで立てて目印にする縦長の旗。※石黒の昔の暮らし→資料   
   野米  のまい  
芝地や野原に賦課される年貢。  
野山御年貢
 
   野山銭 のやません   
野山に課せられた年貢   
野山御年貢  野米
 
   乗打  のりうち
馬やかごに乗ったまま、貴人や神社、仏閣などの前を通り過ぎること。下乗げじようの礼を欠く行為。
 
 
    乗掛  のりかけ    
荷物を馬の両脇に振り分け、その上に布団を敷いて人一人を乗せること。街道では16貫(約60㎏)までの荷物を乗せることができた。
 乗掛馬
 
   乗物  のりもの  
乗り物駕籠のこと 身分の高い人が乗る戸がついていて4人で担ぐ駕籠、別名「長棒」。※これに対して駕籠は営業用の簡単な作りのものを指した。
 
   野分  のわき  秋から冬にかけて吹く疾風のこと。