家普請 昔も今も家を一軒建てるということは並大抵のことではないが、とくに当時は、一生一代の大事業であった。用材の切り出しから運搬、コビキ(木挽き)、基礎づくり、建前とすべて人力に頼ったので、職人をはじめ村人の物心両面の協力を得て初めて出来ることであったからである。 当時、新築があると、石黒村全戸が1日、村内は10〜30日、親類は30〜60日ほどトウド(手伝い)に出なければならなかった。(村内のトウドの日数はその集落の戸数によって異なる)また、トウドに行くときは、縄2束(1束は25ヒロ→1ヒロ約1、5メートル)を持参するのが慣例であった。 玄関など増築の場合、下石黒(49戸)では、全戸が1日、親類が3〜4日が決まりであった。 いよいよ新築することが決まると「テイタ(写真下)を引く」といって棟梁と相談して板の上に設計図をかく。(テイタとは手で持って移動し、どこでも見る事ができるよう板に描かれた設計図という意味)
そして、雪の降り止まった頃に用材となる木を伐採した。伐採した木は、4月にダイモチ橇で運び出し製材して製材所や大工小屋で乾燥させる。 特に、コビキは大きな鋸(写真)を使って原木をひき割って角材や板にする根気と力の要る仕事であった。 コビキが用材の乾燥を待って仕事を始めるのは、お盆過ぎであった。梁(ハリ)や桁(ケタ)などの用材は、主にヨキやチョウナを使って仕上げられた。 資料→チョウナ 工事に取りかかる前には、大安吉日を選んで地祭り(地鎮祭)をした。 それが済むとチョウハリをかけ、タコアシを使って地固めを行った後イシバガチを行う。(写真) 綱の引き手は5、6人でかけ声で丸太を引き上げては落としてシバイシの置きを場を固めていった。「この作業をヨイトマケとも呼び、掛け声は、 「父ちゃんのためなら エンヤコラ 母ちゃんのためなら エンヤコラ もうひとつおまけに エンヤコラ」 というのようなものであった。 資料→石黒校の思いで 昔は、イシバカチの昔から伝わる音頭があったと聞くが、昭和になると建築の方法も変わり、たまにイシバカチは行われたが上記のような即興的なものであった。 昭和23年に石黒校の体育館の新築でのイシバカチの思い出を当時の校長霜田時平さんは次のように書かれている。 「屋内運動場の新築では、毎夜、村の方々が集まって月明かりで菅田様(屋号)の音頭で行われたイシバカチ(土台の地固め)の音が今でも耳に残っています。」 そして、イシバカチと大工の柱の刻みが終わると建前に取りかかる。 昔の住宅は用材が今日とは比べものにならないほど大きい。丸太梁は直径が70センチにも及ぶケヤキやブナが使われることもあった。それを柱の上に据えるのだから並大抵のことではなかった。この作業もテンギと滑車を利用して大勢で引き上げた。 引き上げられた用材を組む作業も、また大変であった。アタリという特大のカケヤで力一杯叩いて溝にはめ込んだ。 建前には、沢山の人足の他、賄いの女性の手伝いも必要であり、家内親類だけでなく隣近所の人たちも手伝った。 建前が終わると屋根葺きをする。ほとんどの家は、最初はノシブキという仮葺きをしておいて数年後に本葺きをした。本葺きにするには、7〜8百締めに近い膨大なカヤ(1締めは周囲1、8メートルの茅束)を必要としたからだ。 その後、トウド人足でカベ塗りに取りかかる。土カベは小さな池を作ってその中に土を入れ、細かく切ったワラを混ぜて足で踏んで練り混ぜた。それを4、5日ねかせて置いて使った。 一方、カベを作る場所には、柱と貫(ぬき)の間を細かくヨシを組み合わせ、更に細縄で編み目を作る。(木舞掻き)その編み目に、ねかせておいた壁土を大きな半切りに入れて塗った。あらかべ塗りである。 資料→ヨシ刈り
あらカベ塗りが終わると吉日を選んで棟上げ式をした。棟上げ式をあらカベ塗りの後に行うのは、普請に関わったすべての人に上棟式と祝宴に参加してもらうためである。 棟上げには、式の後で見物人に切り餅がまかれた。四隅からまく餅はスミモチといって特別大きく作った。また、5円玉もまいたが、これを拾うと縁起がよいと言われた。 その後、棟梁を主客にして竣工祝の宴が開かれた。祝宴が終わると「大工送り」がにぎやかに行われた。棟梁を先頭に7、8人の人が手板を叩き、歌いながら棟梁の家に向かった。 また、家が完成すると、菩提寺の僧侶を招いてワタマセ(ワタマシ〔移徒〕→新しい家に先祖の霊を入れる儀式)がおこなわれた。ワタマセにも棟梁のほかに近い親類を招待した。
当時は、200年以上経った家も珍しくなく、家の改築は、100年から150年に1回というところであったという。 このように、当時、家を建てるという事は、親類のみならず村のすべての人々の力を借りなければ到底できない大事業であった。それだけに気苦労も多く心労から完成後に家人が病に倒れることもしばしばあったことから「家を建てるとその家に死人がでる」と言われ俗信として今日まで伝わったものであろう。 資料→昔の家普請 資料→家普請の思い出 資料→チョウナ造りの家 木挽きの仕事 木挽きは、普請に使う柱や板を手引きの鋸で作る仕事であった。木を伐採した山の中で行うこともあれば、丸太を家に運んですることもあった。山でするときには木挽き小屋を建てて、その中で仕事をした。小屋といってもカヤで覆った屋根だけの仕事小屋であった。 仕事順序は、まず、木を伐採する。そして枝を落とし、幹を長さ6尺2寸に輪切りにする。輪切りにした丸太を地上に横たえた状態で鋸の歯を地上と平行に入れて縦割りに挽く。この作業は腰を下ろした状態ですることになる。 そして、二つに分けた切り口半円のものを、ハの字の支柱で斜め30度ほどに立てて縦挽きをして板にする。その時、一枚一枚その都度切り離すことはせずに元の部分は最後に切り離した。勿論、挽くときには何れの場合も四面に墨を入れて行う。墨入れにあたっては、木挽きは、木の曲がりやクセ、キズ、さらには、表面から見えない部分まで考慮して、墨壷で線を引いたものだという。いわば、「木を読む目」が木挽きには必要であった。 さらに、下写真右のような幅の広い鋸を使っても途中で曲がりたがるので、その時には鋸の歯の目立てよって調整するなど、熟練の手加減が必要な作業であった。 民具補説−各種のノコギリと用途
鋸は、写真の右から三番目までは縦挽きで、4・5番目は横挽きで丸太を輪切りにする時に使われた。 特に4番目の柄の部分が長く作られた鋸は大木の伐採時に使われたという。6〜7番目の鋸は横挽きで枝を落とす時などに主に使われた。8番目の鋸の歯の部分を覆ったケースは物差しとしても使われたものであるといわれる。 このほか下の写真の向かって左から6番目の鋸のように歯の所々に窓のある鋸を「窓鋸」と呼んだ。この鋸はおがくずを引き出すために効率的であったという。
木挽き作業は非常に重労働であったため、木挽き職人は昼飯にワッパ〔メンツ〕の実と蓋の両方に飯をつめて合わせた弁当を持って山に入った。このやり方でワッパにつめると大体一升の米で炊いた御飯がほとんど入ったものだという。信じがたいほどの話であるが、それほど木挽きは重労働であったということであろう。 「木挽(こび)き一時力(いっときぢから)」と昔から言われるとおり大木を動かすときなどには、重機のなかった昔のことであるから、まさに満身の力を要したものであろう。 宮本常一著「忘れられた日本人」に引用された木挽き唄 「何の因果で木挽きをなさる、 若いみそらを山奥で、 木挽き木挽きと一升飯くろて、 松の本口ないたげな」 にも「一升飯」という文字が見られる。 資料→木挽き 資料→スミツボ−民具補説 屋根普請・カヤ葺き屋根の葺き替え 当時の石黒の家屋のほとんどはカヤ葺き屋根であった。石黒ではカヤ葺き屋を「クズヤ」と呼んだ。
このように茅葺きは長持ちはしたが、葺き替えとなると膨大なカヤが必要となる。 カヤは6尺(約180p)の縄で根元から90p上を束ねたものを1シメとしたが、普通の大きさ(梁間4〜6間)の家の屋根を葺くに7〜8百シメ使ったというから並の量ではない。 そのため、当時はどこの集落にもカヤダノモシ(カヤ講)が行われていた。(年中行事篇参照) カヤダノモシにはカヤ葺き屋全戸が参加し、カヤバナ
茅葺き材にヨシ(葦)も使われ、(主に屋根の四隅を葺く)ヨシは、4尺(約120センチ)の縄で根本から4尺の所で束ねたものを一シメとした。 カヤ葺き屋根の葺き替えは、3月から4月にかけて多く行われた。この時期が選ばれるのは農閑期であることの他に、残雪を利用して工事の足場が作れたからだ。 茅葺き用具(屋根屋職人矢沢清吉氏所蔵)には、写真のようなものがあった。(下写真)
足場は、コツラ下に6尺間隔に出ているカモイバナから腕木をとって、立てたハサ竿を固定する。腕木の上に梯子を置きその上に落とし板を敷く。 こうして、カヤめくりにかかる前にカヤの束を作っておく必要がある。 カヤ束は、9尺のナガカヤ(刈ったままの長さのカヤ)の束と、二つ折りにしたオリガヤの束を作った。カヤは藁で作ったツナギ(四季の農作業写真参照)で結わえた。 このカヤの束作りは、その日の作業の最初に行った。この仕事を「カヤゴシレエ」と呼んだ。
葺き替え作業は、ノキ(軒)からグシに向けて葺いていく。 まず、軒の土台となるダイヅケからコツラヅケをする。 コツラヅケは、屋根で最も厚く葺く部分でヤネヅラのカヤの厚さは2尺5寸(約75p)もある。 この部分の基部であるダイヅケには、古カヤを使用することが多い。ダイヅケの上には、下にオリガヤを並べその上にナガガヤを並べて2段にして、その上にカゴワ(ナリ・ナル)を横に渡し、屋根裏のサオに掛けてカヤをしっかりと締めて固定する。
こうして通された縄は「カメクグシ」という下記図のような独特な結び方でナルに結ばれ力いっぱい締て固定した。この作業をハリトリと呼んだ。 コツラヅケが終わると、
こうして、1段1段、
5段目までは、カヤを2段重ねにする二重張りで葺き、6段からは一重張りにする。グシに近づくと折りガヤを使い、最後はグシにキリガヤを差し込んでフキドメとなる。 そして、いよいよヤガリ(屋刈り)に取りかかる。ヤガリは、表面に出たカヤの茎を刈そろえゴミを払い、足場をはずしながら刈り下りる。最後に軒先のカヤをケシキで引っ張り出して雨水がはけやすいように調整する。そして、地上に立てられた足場を解体して仕事は終わる。 カヤダノモシで1回受給すると、平均的な大きさの家で屋根全体の3分の1ほど葺き替えることができた。職人は、3、4人で手伝いも同人数ほどで行われることが多かった。
職人の養成は、15、6歳で弟子入りして親方について現場で仕事をしながら修業した。 茅葺職人は弟子入りした当初も些少ではあるが賃金が与えられた。茅葺職人の賃金が1円25銭のころ、新入り弟子は15銭の賃金が貰えたという。 また、土蔵や玄関の屋根はコバブキ〔小羽葺き〕であって、コバブキ職人が杉の木からコバを作って葺いた。
その他、雪によるカヤ屋根の損傷は毎年のように生じたのでその都度、サシガヤ(部分的にカヤを差しこんで修理する)をして修繕した。こば葺き屋根も同様であった。 資料→コバヘギ 資料→昔の家普請 資料→茅葺き道−民具補説具 資料→茅葺き屋の大天井のつくり 資料→屋根葺き職の思い出 住宅の除雪 石黒では、住宅の除雪を「雪下ろし」ではなく「雪堀り」と呼んだ。 豪雪の冬は、屋根の雪を下ろす作業より、下ろした雪の始末の方が大変な仕事であったからだ。 自分の背丈以上の高い場所まで、スコップで雪を投げ上げるという作業は想像以上の重労働であり、正にそれは雪堀りであった。 また、戦時中は男子が出征中であったり、戦後は出稼ぎ中であったりして、女衆が母屋の雪堀りまでしなければならなかった。 大雪の年など雪堀りに明け暮れ、「顔が雪焼けで前うしろ区別がつかなかいほどだったいね」などと当時の想い出を語る年配女性もいる。 カヤぶき屋根に積もった雪は、イロリの熱が天井裏にまわり屋根を暖めるため少し積もると音を立てて落下する。 しかし、厳しい寒気がくるとなかなか落ちないで1メートル以上も積もってしまう。一定量を超えると雪は自らの重さに耐え切れず落下する。 その時、雪に凍り付いた屋根茅をごっそりと引き抜いてしまう危険があった。それを防ぐためには、雪が落ちる前に除雪しなければならない。 茅葺き屋根の雪は、まずグシの雪を真ん中から割って左右に落とし、上の方から順に一巡りずつ〔1mほどの厚さ〕掘り下げる。最後は落ちた雪の始末、つまり雪堀である。 切り妻造りの玄関や土蔵の除雪は、周りから掘って上部へ向かって掘っていくので、茅葺き屋と反対である。上に進むほど雪を投げる距離が長くなる。軒端が地上の雪とすぐにつながってしまう。そこの雪堀が必要となる。
特に、雪堀りで苦労するのはダキと呼ぶ本屋と玄関のつなぎの部分で、しかも下にはガンギの屋根があり一番骨が折れる所であった。 ガンギなどオロシの屋根の上に落ちた雪をそのままにしておくと、雪の重量のためばかりか、春先に雪がとける時に下方へ働く強い力がタル木を折ることもあった。それを防ぐためにガンギの屋根を掘り出さなければならなかった。屋根を掘り出し、雪と切り離すと「ギツッ」という大きな音と共に、しなったタル木が元に戻った。 また
雁木の上の窓を覆っていた雪を除けると高窓から座敷に微かな光が差し込みかろうじて家の中の様子が分かるのであった。(下写真) 正に石黒の除雪は「雪下ろし」ではなく「雪堀り」であった。
豪雪地の石黒では、多いときには一冬に14、5回もこのような雪堀を行わなければならなかった。雪降りの中での雪堀は、ヒロロミノにスゲガサやズボガサという身支度で行った。
板屋作りの玄関などは、雪が積もるとその重さで軋む。雪がしんしんと降る真夜中に「ギシッ、ギシッ」という不気味な音で目が覚めたときは、すぐにでも屋根に上がって雪を下ろしたい気持ちになった経験は筆者にもある。
高柳町史には「除雪作業ノタメ村民ハ皆疲労困憊ノ極ニ達ス」とある。記録にはないが、石黒では、おそらくは6mに達する積雪であったであろう。5月20日に2メートルの残雪があったという。 ちなみに、効率的なスノウダンプが普及したのは昭和30年以降であった。 資料→スノウダンプを使った除雪 資料→Tさんの便り ようやく乗り切った冬 資料→茅葺き屋の雪堀り 資料→出稼ぎ先から家の除雪に帰ったときのこと 資料→雪流しトヨを使った除雪の思い出 道つけ(道踏み) 降雪期には、毎日のように道つけ(写真)をしなければならなかった。 道つけは早朝起きがけの仕事だった。カンジキをはき、ヒロロミノに山笠、手ぬぐいでほおかむりといういでたちで何回も往復して道を踏みしめた。 1晩に1メートル余りの降雪があったときにはコイスキで前の雪をかき分けながら道つけをした。 また、普通のカンジキの上にスカリと呼ぶ一回り大きなカンジキを着けた。スカリは、つま先に縄が付いていて手で足を引き上げる式になっていた。(写真) 道つけをする距離は、家によって異なるがおおよそ20から50メートルの間であったであろう。私道は勿論それに続く村道も隣近所で分担して踏まなければならない。 時には、終日激しく雪が降り続き、1日3回もの道つけが必要なこともあった。
また、通学路の道つけも村人が輪番で行った。子どもたちが登校する前に集落によっては数キロもの道程を道つけしなければならなかった。 板畑や居谷集落は4キロにも及ぶ山坂の通学路であったから道踏みの苦労は並大抵ではなかったであろう。 資料→雪の思い出 資料→道つけ 資料→カンジキの履き方〔動画〕 |