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     6   月

       節 句  5日
 
 石黒では節句の前夜を「ヨイゼック」と呼び、4日の夕方少し早めに風呂をたてショウブヨモギを一緒に束ねたものを湯に入れた。

しょうぶ湯のショウブ

 昔から、端午の節句にショウブ湯に入るとデキモノができない、中風にならない、マムシに噛まれないなどと言い伝えられたからだ。
 また、この日は男児の節句とされたことから、健やかに育つ事を願って子どもを一番風呂に入れる家が多かった。
 夕暮れの村道で遊んでいる子どもに、家に帰ってショウブ湯に入るようにという迎えが来て帰る子が何人もいたものだ。
 石黒では、このショウブをアヤメ科の花菖蒲と区別して「ヨウタテショウブ」と呼び、タネ(家の周りにある池)の縁などに植えておく家が多かった。
資料→菖蒲湯の思い出



 マンガ休み 8日
(集落によっては7日)

 居谷集落では、この日を「マンガ〔馬鍬〕休み」と呼び農休日とした。
 この頃は、まだ、田かきの最中であり、人も馬も連日の重労働に耐えかねている頃であり、この日はありがたい休養日であった。
 日の長い頃の重労働であることから、過労に陥ることを防ぐための生活の知恵から生まれた行事であろう。 



         7  月

       雨 乞 い

 石黒に多い天水田(別称→雷田−カンナリダ)は、その名の通り専ら雨水に依存するために干ばつに見舞われると深刻な事態となった。出穂前の稲が火をつければ燃え上がるほどに枯れてしまうことも珍しいことではなかったという。
  昭和26年(1951)の8月上旬からの大干ばつの被害は、全水田の3割にも達したという。
 天水田でなくとも日照りが続くと、乏しい農業用水を自分の田に引き込むために徹夜でヨミズヒキ(夜、用水を自分の田に引く)をしたり、水の奪い合いから争いが生じたりと、渇水による影響は様々なところに現れた。 居谷集落の古文書〔1706・宝永3〕に代官所に出された水争いの訴訟文がある。
資料→夜水引きと水の番
 農業用水ばかりではない。石黒は、生活用水にも恵まれない家が多く、渇水期には近くの沢の水をカズキオケで背負い上げる姿を見ることも珍しくなかった。
 このような渇水時には、集落をあげての雨乞いが行われた。
 板畑集落では、村人が地蔵峠に登り、マキの沢の水を汲んで地蔵尊に供え太鼓を打ち鳴らして祈願した。
 また、寄合集落では、水神が住むと伝わる大島村板山にある「こえみ(小海)池」(写真)まで出かけて池の水を一升瓶にくんできて村の神社に供えた。そして一週間、昼夜2人組で寝ずの番をして、雨が降ると礼参りに行き水を池に返してきたという。

板山の池

 雨乞いは、主に8月に多く行われたが、作付けの頃に行われることも稀にあったという。
板畑集落古文書の昭和16年(1941)度区費附込取立帳の中に雨乞いに使われた費用の記帳が見られる。
古いものでは天保14(1843)年の雨乞いに関する文書が山中村文書に見られるので参考までに掲載した。(下記資料)
資料→区費附込取立帳
資料→山中村-雨乞諸懸帳-古文書



        稲 虫 送 り
 
 未だBHCやパラチオンなどの強力な殺虫剤のない時代であり、ウンカ、ニカメイガなどの害虫が稲作に甚大な被害を与える事がしばしばあった。特にウンカによる被害は深刻であった。
 当時のウンカ駆除法といえば江戸時代からの、田に石油(当時は原油)を撒き水面に油膜を張り、そこに竹の棒でウンカを払い落として窒息死させるという原始的な方法だった。
 しかし、このような方法で、群をなして太平洋を渡るほどの移動力を持ったウンカを駆除できるわけはない。

 かつての享保や天明の大飢饉はこのウンカの大発生が原因であったという事からもその恐ろしさが分かる。 
 桑山省吾氏の「石黒の歴史」には、明治30年(1897)の害虫(ウンカと想われる)による大凶作の後の窮状を物語る資料が見られる。
 資料は大凶作を乗り切るための倹約の村決め書(板畑集落公民館所蔵)で、
「正月ノ茶、餅ナキコト」
「十五夜ハスルコト、タダシ御客ナシ」
「祝言ハ日延ベスルコト」
 など14箇条の決まりの他、違反者処罰の但し書きまである。その他、文政6年に石黒村が代官所に提出した凶作よる難渋者救済願(田辺重順文書)などがある。
補記→救済願い書
 もともと、稲虫送りは、このようにすさまじい害虫の被害を怨霊の祟りと信じ、その悪霊を村境まで送り出す行事であった。
(補記 虫送りと盆踊りの起源
 石黒でも昭和25年(1950)ころまで全集落で行われていた。(戦時中は中断)
 上石黒の稲虫送りは、イリムキに勢揃いして一列に並んでアラヤを通りドドムキ沢(下石黒集落図参照)へ向かった。ワライナムシ(藁でかたどった大きなイナゴ)に、提灯、松明を持ち、太鼓を打ち鳴らし「虫送ろう、虫送ろう」と唱えながら進んだ。下石黒との境界であるドドムキ沢にくるとワライナムシを川に投げ捨てた。
 下石黒では、神社前から出発し、ワライナムシをつけた竿や提灯を掲げ、太鼓を打ち鳴らし村はずれの小沢川まで行進してワライナムシを流した。また、タキノフチまで行進してワライナムシを焼く年もあった。
 板畑では、松明を持って、村の中心から村はずれのマンゾウ川まで「稲虫ほうい、ほうい」などと唱えながら行進して松明を川に流した。
 上寄合では、マツエン(屋号)の上の二十三夜塔前から出発して、「送れや、送れや、稲虫送れや」などと唱え太鼓を叩きながら行進した。村中をまわって松尾神社まで行進し石黒川に松明を流した。その後、松尾神社で御神酒をいただいた。
 大野では、モミジの枝を持って、笛を吹きながら庄見(屋号)の前から村下の沢田まで行進した。
 村中が参加し、若い衆の中には、天狗の面をかぶるなどして仮装する者もいたという。



    峠の地蔵様の草なぎ 1日

 9月4日の峠の地蔵様祭りが近づくと、毎年、地蔵峠に通じる道普請が行われた。いくつかの集落の信者が分担して自発的に奉仕活動としておこなった。
 草なぎの区間の割り振りは、上石黒は上石黒〜大野入り口、下石黒は下石黒〜大野の村はずれ、大野は大野の村はずれから峠まで、板畑は板畑から峠道の合流点までおこなうのが慣例であった。
 7月ともなると、峠の道端のノアザミは赤紫色の花をつけ、オオイタドリの群生は草丈2メートルにも達し、道は草の中に埋もれて見分けがつかないほどであった。

地蔵峠のオオイタドリ


 信者たちは、厳しい残暑の中、大鎌を振りかざして草を刈り払った。眼下には出穂間近の花坂新田の棚田が山裾を巻いて階段状に谷川まで下りている。峠に連なる黒姫山に目を転ずると、初秋の青空に切り立った黒い岩肌を、あらわにそそり立つ。
 作業は草刈りに止まらず崩れた道の改修もあり夕方までかかる年もあった。
 平成14年に、この道は、県のトレール事業の一環として花坂新田から地蔵峠に至る旧が「塩の道トレール」と名付けられ道幅3メートルに改修された。
(補記→ 通称松之山街道の脇街道)



   峠の地蔵様春祭り 4日
 
 今(2001)も、祭りには、石黒、鵜川、門出のみならず東頸城の松代からも信者が毎年参拝している。

地蔵峠の祭り

松代に信者が多いのは、通称「松之山街道」(歴史上一般に松之山街道は上越市高田〜南魚沼郡塩沢町の道を指すが、柏崎・刈羽では松之山から岡野町・小清水を経由し柏崎に至る道を「松之山街道」と呼び、石黒、地蔵峠を経て柏崎に至る道を「松之山脇街道」と呼んだ。)の脇街道が地蔵峠を越えて松之山、石黒、折居を結んでいたからであろう。

峠の地蔵堂の御神体

 この地蔵尊(写真)には、次のような言い伝えがある。
昔、板畑の女の人が峠越えをする途中、頂上付近で浪人に襲われた。女の人は恐ろしくなって逃げ出すと浪人は追いかけて刀で斬りつけて逃走した。斬られたはずの女の人が気がつくと我が身には傷一つなく、傍らに袈裟懸けにひびの入った石地蔵が倒れていたという。女の人は、自分の身代わりとなったこの石地蔵を峠に安置して毎日拝み続けると長年の持病も治たという。(石黒の伝説参照)以来「身代わり地蔵」と呼ばれ、とくに腰から下の病いに霊験ありとされ近郷の多くの人々から信仰され続けている
 ※昔は毎月4日、14日、24日に地蔵峠の地蔵尊にお参りに行ったものだという。その後、春祭りは7月4日、秋祭りは9月4日と決めて行ってきたが、昭和の終わり頃から秋祭りのみ行われるようになって現在に至っている。

 

 黒姫山 鵜川神社祭礼(7月15日)
 
 当時、神社に近い板畑集落では、この日を田休みとし、村中で鵜川神社(写真)に参拝した。

黒姫山

 ちょうど春繭の出荷も終わり、田の草の一番ごも終わった頃で、15日には、集落全員が参拝し、16日には、各家の当主が参拝することが板畑の昔からの習慣であった。
 居谷など他の集落からも、若い女衆が特に多く参拝したという。
 黒姫山上に建つ、この鵜川神社は、古来、機織りの神、養蚕の神、水の神、馬の神、女性の病気を治す神として信仰されてきた。
 特に、昔は、縮布の生産が盛んであったことから、機織りの技を身につけない女性は嫁にも行けない時代で、機織りの熟達を祈願する若い娘の参拝者が特に多かったという。

 
 黒姫山の鵜川神社

 祭礼には昔から刈羽柏崎はもとより、東頸城、小千谷、栃尾、見附、十日町、魚沼からも参詣者が続々と訪れ「14日の夜から15日の早暁にかけて、参詣者の提灯が延々と麓まで続いた」と高柳町史に記されている。
 別掲資料の山中村庄屋文書「乍恐以書附奉願上候」〔安政4年-1857〕は、信者が柏崎、刈羽にとどまらず広範にわたって居たことから、柏崎町の遍照寺にて出開帳〔出張して開帳すること〕を行うために柏崎御役所に宛てた願書である。
 また、高柳町史によれば、この神社は機織りの神とともに御神馬〔神が山から下りる時に乗ったと伝えられる〕が祭られており参拝者はこの神馬に草を供え、それを持ち帰り自家の愛馬に与えて息災と安全を祈ったと伝えられる。
資料−山中村庄屋文書「乍恐以書附奉願上候」



       カヤ場なぎ
 
 共有カヤ場の草なぎは、7月上旬にカヤ葺き屋の全戸が出ておこなった。カヤ場なぎは、下草を刈り取りカヤの成長を促進すると共に、カヤ場の周囲を刈り払うことによって雑草や雑木の侵入を防ぐ目的もあった。
(石黒の地名地図を参照)
資料→カヤ場なぎ




  
      8   月

   お盆 (8月13日〜16)
 
 8月に入ると、どこの家でもお盆を迎えるために家の周囲から小路にいたるまできれいに掃除をする。それを「ボンソウジ」と呼び、主に年寄りや子どもの仕事だった。
 また、7日には、オショライサマ(御精霊様)を迎えるために墓掃除や仏具磨きをする。仏具磨きは年寄り、墓掃除は子どもの役目であった。
 子どもたちは7日の朝、ラジオ体操が終わると会場から揃って墓場に行き、めいめいが自分の家の墓を掃除をした。低学年の子供には高学年の子供が進んで手を貸した。
 大人もこの日を村道普請日と決め、村中の道だけでなく墓場へ通じる道や墓場の周りの草刈りもするのが慣例であった。
(補記 盆草刈り・盆道つくり)
 お盆は、14日の午後から16日まで休むことが村のしきたりであった。
 どこの家でも、15・16日分の牛馬の餌となる草を14日の午前に刈っておくなど仕事のやり繰りをして盆を迎えた。

墓場(下石黒)

 お盆の13日と14日は、夕方早く家族そろって、オハナギとロウソクと線香を持って墓参りに出かけた。(写真 下石黒墓場)
 花は、ツボドコ(花壇)で育てた百日草、キキョウ、ボンザクラ(オイランソウ)、チョウセンギク、ヒョッコジマなどが多かった。墓場では親戚の家の墓にもロウソクと線香をあげた。
 ヒグラシの鳴く夏の黄昏時、墓場に何百というロウソクが灯り、盆泊まりの帰省客を含めた大勢の人々でにぎわう墓参りの光景は誰にとっても懐かしい思い出であろう。
 16日は午前中に精霊送りの墓参りをした。
また、15・16日には、村の神社の境内で盆踊りが行われた。
(写真 盆踊り風景)踊りは、昔から伝わる「しょんがいや」と「甚句」だった。
(補記 盆踊りの起源について)
 しょんがいやは、「小夜の中山」とも呼ばれる敵討ち物で、各集落により若干異なる箇所があるが大体、次のような歌詞であった。

(補記→ しょんがいやの言葉の由来)
 
(補記→ションガイヤの文句全文について)

盆踊り桐沢-1959(高柳−懐想)

o上音頭
 しょんがいやー、踊りがいの ハァー アリャ サ コリャサ 
 ヤレ、そろたらお願いだー ヨイヤナー ヨイ コラセー
文句の違いや仮名違い ハァー アリャサ コ リャサ
 しばらく御辛抱願います ヨイヤナー ヨイコ ラセー
 それでは、ぼちぼち読み上げる ハァー アリ ャサ コリャサ
 昔の昔の物語 ヨイヤナー ヨイコラセー

さよの中山通るとき ハァー アリャサ コリ ャサ
身ごもりおなごにひょいといきょた ヨイヤナ ー ヨイコラセー
こちらへなびけと言い寄りし ハァー アリャ サ コリャサ
 何とてなびかりょう旅の人 ヨイヤナー ヨイ コラセー
私は帰れば殿持ちだ ハァー アリャサ コ リャサ
あなたも何処にゃ妻もあろ ヨイヤナー ヨイ コラセー
なじょしてなびかりょ旅の人 ハァー アリャ サ コリャサ
なびけやなびかばその身体 ヨイヤナー ヨイ コラセー
刀の試しにしてくりょか ハァー アリャサ  コリャサ
 身ごもりおなごは逃げまどう ヨイヤナー ヨ イコラセー
おなごの後ろを切りつけり ハァー アリャサ コリャサ
 おなごはその場に崩れたる ヨイヤナー ヨイ コラセー
苦しみもだえる様を見て ハァー アリャサ  コリャサ
 一目散に姿消す ヨイヤナー ヨイコラセー
そこへと坊さん通り来て ハァー アリャサ  コリャサ
 赤子の泣くよな声がする ヨイヤナー ヨイコ ラセー
流るる清水で産湯をし ハァー アリャサ コ リャサ
 衣の裾へとかいくるみ ヨイヤナー ヨイコラ セー
門前寺へと急がれる ハァー アリャサ コリ ャサ
 あちらへこちらへもらい乳 ヨイヤナー ヨイ コラセー
1年、2年、みとせ過ぎ ハァー アリャサ  コリャサ
 月日のたつのは早いもの ヨイヤナー ヨイコ ラセー

o中音頭
これからだー、エンヤラヤー ハレランリャ ヨイヤセー
岩に咲いたる山野のつつじ ヨイヤサ ヨ イヤサ
 なんぼ色好く咲いたるとーても ヨイヤサ ヨイヤサ
人がおらなきゃ、
ハ、ヤーレーサーそのまま果てる ヤレコラセ ー
ヤレサー松と石の サ ヨイサ ヤレコラサ ヤレセガネー

o下音頭
月日のたつのは早いもの ハァー アリャサ コリャサ
 13歳の明けの春 ヨイヤナー ヨイコラセ ー
正月2日の正夢に ハァー アリャサ コリ ャサ
 どこの何処の人じゃら ヨイヤナー ヨイコラ セー
枕許にと立ち寄りて ハァー アリャサ コリ ャサ
 親の敵をとりたくば ヨイヤナー ヨイコラ セー
都に上りて、研ぎ屋しろ ハァー アリャサ コリャサ
 研ぎ屋をしながら敵をおば ヨイヤナー ヨイ コラセー
今か今かと待ちわびる ハァー アリャサ  コリャサ
 1年待てども現れず ヨイヤナー ヨイコラセ ー
2年経ってもまだ来ない ハァー アリャサ  コリャサ
 3年3月明けの春 ヨイヤナー ヨイコラセ ー
刀を持ってきてあつらえた ハァー アリャサ コリャサ
 よく見りゃ刀に傷がある ヨイヤナー ヨイコ ラセー
なじょしてできた傷なのか ハァー アリャサ コリャサ
 その訳聞かずば研がれよか ヨイヤナー ヨイ コラセー
何を隠そう白状しょう ハァー アリャサ コ リャサ
 私が以前の若いころ ヨイヤナー ヨイコ ラセー
さよの中山通るとき ハァー アリャサ コ リャサ
 身籠もりおなごにひょいといきょた ヨイヤナ ー ヨイコラセー
私もそろそろ声づかれ ハァー アリャサ コ リャサ
 後にも御先生が控えおる ヨイヤナー ヨイコ ラセー

o囃 子
もう一つあげまょうや、音頭とりー様はーヨ、 ヨーヨ
サァーサ、えも疲れましょう、エヘンヤーノ サー

o音頭の交替時
今取った、御先生の声疲れ ハァー アリャサ コリャサ
 私がちょいの間 読み上げる ヨイヤナー ヨ イコラセー
文句の違いや仮名違い ハァー アリャサ  コリャサ
 しばらくご辛抱願います ヨイヤナー ヨイコ ラセー
それではぼちぼち読み上げる ハァー アリャ サ コリャサ
 昔々の物語 ヨイヤナー ヨイコラセー


※ションガイヤは、呼び名や歌詞や振付に若干の違いはあるが、現在の上越市や十日町方面の各地でも昔から盆踊りとして伝わっているという。
 また、昭和30年代に石黒から出稼ぎに行っていた人の話によると九州からやってきた同僚がションガイヤと唄も踊りもほとんど同じ盆踊りを披露したのにはいたく驚いたとのことであった。
料→旧東頸城郡松代町に伝わるションガイヤ


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 甚句の歌詞は次のようなものであった。

さあさ 一座の皆様方よ
私のようなる三角やろが
四角四面の櫓の上で
音頭とるとはおおそれながら
八十婆さん 豆かむように
ぽつりぽつり読み上げまする
上げる文句は何やと聞けば
鈴木もんどのその物語
花のお江戸のそのかたわらに
さめてめずらし心中話
ところ四谷の新宿町で
紺ののれんのキキョウの紋は
音に聞こえし橋本屋にて
あまた身内のそのおる中で
音に知られる白糸こそは
歳は19でとおせ育ち
愛嬌好ければ皆様方が
我も我もとながして上る
わけてお客はどなたと聞けば
春は花咲く青山辺の
鈴木もんどという侍が
女房持ちにて2人の子ども
日にち毎日遊んでござる
見るに見かねた女房のおやす
ある日わが殿もんどに向かい
これよりわが友のもんどさんよ
19,20歳の身じゃあるまいし
かわいい2人の子どものふびん
言えばもんどは腹立ち顔で
何をこしゃくな女房の意見
おのが意見でやめないものを
それがいやなら2人の子ども
連れて出ていけそなたが里へ
あまり長いのは踊り子にさわる
ここらあたりで音頭も終わる
ここらあたりで音頭もやめる

 このほか、上石黒では「かみ(上)甚句」と呼ばれる次のような甚句もあった。

アーアア 甚句ならいたけりゃあよ山にござれ
よ山甚句は踊りよい
アーアア 来たら寄りなよおら家はここだ
よれば茶も出すョー酒も出す
アーアア 佐渡へ佐渡へと草木もなびく
佐渡はいよいかョーすみよいか
アーアア うすい峠でカラスが鳴けば 
かぁかが身持ちでョー気にかかる    
アーアア お前百まで私九十九まで  
ともに白毛のョーはゆるまで 
アーアア おらが山行けばいばらがとめる
いばらとめるなョー日が暮れる
アーアア あんちゃ来るなら裏からおいで
前は車で音がする
アーアア 可愛いあんちゃと
夏吹く風はそよといわれたいョー蚊帳の中
アーアア あんちゃ来るならぞうりはいておいで
下駄じゃ二の字のョーあとがつく
アーアア お医者様でも草津の湯でも惚れた
やまいはョーなおりゃせぬ
アーアア あまり長いのは踊り子にさわる
ここらあたりでョー踊り止め
(甚句は各集落で踊られていたが文句は即興的に思い思いに歌詞を創作したものが多く卑猥な歌詞もあった)
 
 家々の夕飯の済むころ、神社で打ち鳴らす寄せ太鼓の音がするとちらほら人が境内に集まってくる。最初は小さな輪ができ次第に大きな輪となり、ついには三重にもなる。
 音頭取りには、踊りの場を盛り上げリードするという役目もあった。輪の内側を静かに歩き、右手に持った団扇で調子をとりながら音頭をとった。
 踊り子たちは「サーァサヨイサ、サーァサエンヤコラサー」(しょんがいや)「ソウダロウ、ソウダロウト」(甚句)と声を揃えて囃子を入れた。
 また、音頭取りの疲れたころを見はからって、踊り子の中の1人が、音頭歌を2節3節代わって歌い、返し歌で音頭取りに引き渡すこともあった。
 音頭とりは各集落に数人おり、交替しながらつとめた。
 賑やかなうちに次第に夜も更け、終わりの時刻になると仕舞い太鼓が威勢よく打たれて盆踊りは終わる。
 盆踊りの世話役は村の青年団で、14日の朝飯前に神社に集まり社殿の飾り付けや灯籠や提灯をつけるなどの準備をした。また、17日は、祭りの後かたづけをした。

 こうして、「盆よ盆よと待つのが盆よ、盆が過ぎれば夢のよう」という一口唄のとおり、村人が待っていた盆の三が日はあっと言う間に過ぎ去った。
資料→墓参りの思い出
資料→お盆の思い出
資料→盆踊りの思い出



    板山不動尊祭り

 現在の上越市大島区板山にある板山不動尊の祭りが、8月15日に行われた。この日はお盆でもあったが、落合集落などから大勢の人が参拝に出掛けた。

板山不動尊

祭りでは寄合相撲や盆踊りが行われ出店が並び賑わった。落合集落では集落の川向こうに、作場「おっちゃだけ」を通って旭村に至る山道があり、子どもの足でも1時間余りで行くことが出来た。
 板山不動尊は、とくに目の病に霊験あらたかであると伝えられ、昔から近郷近在の人々の信仰も厚く、参詣者が絶えなかった。
 不動尊は、間口30メートル、奥行き13メートル、高さ平均1.8メートルの洞窟の中に百数十体余の石仏が安置されていた。

相撲や盆踊りが行われた場所

 並んだその石仏はその数の多さから、何度数えても数が合わないという言い伝えがあり、子どもたちは訪れると必ず仏像を数えた。
 また、洞窟の近くに「不動滝」と呼ぶ滝があり、そこは昔、修験者が修行をした場所であるとも伝えられている。
※板山の不動尊祭りの思い出


  おばな祭り (27日)

 朝、穂の出たカヤを採って来て2本を葉でからめて神社と仏壇に供えた。カヤの穂は雄花でなければならなかった。

ススキの雄花

このころはまだ出穂の時期に入ったばかりで、穂の出たカヤは少なく雄花を探すのは大変であった。
 採ったカヤは、〔生米をすって作った団子〕とともに、まず仏壇に供えてから、神社に持って行って入り口の格子戸に差してお参りをした。
 仏壇には、団子を添えて供えた。団子は、浸しておいた米をスリバチですり、片手でつかみとり、そのまま釜に入れて蒸かした。

 おばな祭りは「カヤの祭り」で、昔から茅葺きなどの用材としてカヤが大切なものであったのでカヤに感謝するための行事であったと思われる。
 また、この頃はカヤの茎が充実して様々な用材として使えるようになる時期でもある。
※この日、栃ケ原ではカヤの穂と線香を神様に供えカヤの箸で赤飯を食べたという。〔高柳町史〕

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