藤井城(別名・豊岡城)
 松平忠輝は大阪冬の陣には江戸留守居を命じられたが、翌年の夏の陣には家老衆を率いて出陣した。しかし、その年8月に家康の勘当を受け、翌2年には秀忠により所領を没収され伊勢国朝熊に流された。
 この忠輝改易の理由は、大阪出陣の際に近江森山で秀忠の家臣を殺害したこと、大阪夏の陣に遅参したこととされているがその背景には忠輝の付け家老大久保長安と家康との関係の冷却など複雑な原因があったと伝えられている。

 忠輝改易によりその遺領は6大名と1旗本に分与されたが、その一人に伊勢崎城主稲垣重綱がいた。
 重綱は、 元和元年(1615年)、大坂の陣で戦功を挙げたことにより、翌年に上野国伊勢崎藩1万石から刈羽藤井2万石に加増移封されたのであった。そして、現在の城址に城主の館と周囲に城下町の造営が進められていた。
 しかしその4年後、元和6年(1620年)に城主重綱は3千石加増の上、越後三条藩へ移封され藤井藩は廃藩となった。
 城址には今日、戦没者忠霊塔が建てられ周りに桜が植栽されて、毎年、美しい花を咲かせている。(下写真)
 
 
 
撮影 2011.4.22 文責大橋寿一郎