石黒村のあけぼの

 石黒の地に初めて人が住み着いたのはいつ頃のことであろうか。
 高柳町史によれば、1060年(庸平3)の「越後の国古図」に高柳、岡ノ町、石黒、山中、黒姫尾上(高尾か?)の地名が見られる。
資料柏崎文庫(関甲子次郎が生涯をかけてまとめた地誌的郷土史)
 これを論拠にすれば、石黒村には1000年前にすでに人が住み着いていたことになる。
 では、その我々の最初の祖先は、どのような人で、どこから来て、何処に住み着いたものであろうか。そこまでさかのぼると古文書はもとより出土資料もほとんどない。
 ただ、言えることは、その頃の人々は、氾濫しやすい川沿いを避けて、豊かな日光と水と沃土に恵まれた山の中腹に住み着いたであろうということである。
   黒姫中腹標高約450mほどにある板畑集落の嶽のソバ畑
 特に、水山〔みずやま〕と呼ばれるほど豊かな湧き水に恵まれた黒姫山のまわりに、人が住み着いたことは、ごく自然のことであったであろう。
 
資料→鯖石川について

 また、我々の最初の祖先が、山伏であったとか、侍であったとかなどの多くの伝説はあるが、確たる史実に裏付けられたものではない。  
 落人伝説はどこにでもあるものであるが、高柳町内にも多い。石黒にも、足利勢に破れた新田軍の一部が板畑の嶽(タケ)に住みつき帰農し中村を名乗ったという言い伝えや、上杉景勝が会津に移封される折りに一部の武士が何らかの理由で黒姫山麓に住み着いたのが大橋の祖先であるなどの伝説がある。
 
また、大昔の道は修験者の道として峰伝いにつくられていたので、人々は高いところの平坦な土地に居を構えたととも考えられる。高柳でも、板畑や白倉や山中などは古い歴史をもった村落であることがその証拠である。
 その後、水稲栽培が盛んになると人々はだんだんと麓に下りて、川に近い場所に居を移して農業に励んだのであろう。
 しかし、石黒川を源流とする鯖石川は、鵜川に比べ流域に大した平地も形成せず
(資料)、石黒は平らな農地や宅地に恵まれない村落であった。
資料→寄合の落人伝説

 
 現在の中村家家屋 撮影2005.12.4
 板畑中村家については「刈羽郡舊蹟志」〔明治42年刊〕の中で刈羽郡十二家の中の一家に上げられている。記述によると中村家の家伝の刀槍などの銘から、中村家の祖先は新田義貞から7~10代後裔であろうとされる。
資料
-中村家
資料-板畑 中村家
資料-板畑 中村家新築工事工程
資料→民俗調査板畑 1975(昭和50年)法政大学
ビデオ資料-中村治平家

 それはさておくも、石黒の地で、1000年以上前から人が生活を営んでいたとすると、その頃からの祖先の暮らしを物語るものには、どのようなものがあろうか。





   昔(中世)の道と城館

 その一つに、今日、まさにその姿を茫々たる原野に戻しつつある古道がある。高柳の主たる古道は、町史によれば、次の資料の通りであるという。
          資料地図高柳の古道

 石黒は、中世においては、交通の要とも言うべき位置にあったと言われ、「落合」という集落名も道が落ち合う場所という意味で付けられたものと伝えられている。
 石黒の古道では、とくに、通称「松之山街道」の脇街道(松代←小貫←居谷←落合←石黒→大野→地蔵峠→鵜川→柏崎)が重要な道路であった。
 この路を、年貢米をはじめ多くの穀類が馬の背に乗せられて柏崎に運ばれた。帰路はカマスに詰めた塩を鞍につけて帰ったものだという。「塩の道」と言われる所以である。
 ちなみに1950年頃まで、これらの道のほとんどは毎年手入れをされて、日常的に使われていた。 
資料地図 石黒の古道 

 一方、古道と深く関わりのある城館の古跡も、我々の祖先の暮らしを物語るものの一つとして忘れてはならない。
 高柳町には、現在、13カ所にわたり城趾が確認されている資料地図 高柳の城趾 
 中世は、混乱と動揺の時代である。いうまでもなく越後も、戦国の武者たちの生き残りを賭けた戦いの舞台であった。
 石黒地区には、城山の石黒城と板畑の上官山の板畑城がある
参照図石黒城趾推定図・写真 城とは言っても山城であり、当時の村落領主が有事の際に避難、籠城するための、また、見張りのための建物であった。したがって、平素は平地の集落の館に住み、一朝事あるときは、この山城にこもったのである。
石黒城址から東南を望む   撮影日2004.12.4   
 板畑城は、鵜川荘の最南端あたりに位置し、地蔵峠越えを押さえて佐橋荘との境界を守備した。(板畑城の位置と現在の様子)
 石黒城は、通称松之山街道及び高柳方面の防備としての重要な位置にあった。
 今日、石黒城趾の繁茂した立木に上って眺めるに、東西南北に展望がひらけ息をのむほどの絶景である。〔上写真〕
 また、本丸跡の南北は石黒川と落合川に落ち込む絶壁、東は馬の背のような急勾配な尾根、比較的なだらかな西側には、空堀の跡が今もはっきりと認められる。さぞかし堅固な城であったであろう。
    石黒城址の北側絶壁 
 初冬の寒風がかすかな音を立てて木立をわたる。
 百年にわたる争乱の時代を逞しく生き抜いてきた我が祖先の魂に触れる思いがする。

資料→柏崎・刈羽の城跡地図
越後国-(自作-古文書読解の手引き)





 人口の推移と領主の変遷    

     人口の推移


 次に、幕藩体制が確立してからの石黒の領主の変遷と入山地争議について、桑山省吾著「石黒の歴史」と「高柳町史」等を参考に記してみたい。
 江戸時代の石黒村は、上石黒、下石黒、大野、落合、寄合の五つの集落から構成されていた。(現在の板畑と居谷は、明治22年の町村合併で石黒村に編入され、門出寄合は昭和30年の高柳村との合併に伴い石黒寄合と併合された→
「板畑及び居谷集落の編入合併」参照)     
 江戸時代の石黒村の戸数と人口は、当時の名寄帳によれば、1683年(天和3)(※天和検地)には、「屋敷が26筆、但し内1筆は境目番所」とあるが、1702年(元禄14)には、60戸の381人で20年間で倍増している。更に1754年(宝暦4)には、126戸の684人と更に倍増している。
 その後、戸数、人口とも横ばい状態から徐々に増えて、1806年(文化3年)の資料によると140戸の644人で、
〔資料→一紙目録〕1831~1847年(文政~天保)には、実に174戸の873人となっている。
〔資料→宗門御改め帳文政4~12による〕
 150年にわたる長い年月の変化とはいえ、これだけの人口の増加が、耕作地に恵まれない石黒村の暮らしをどのように変えていったかは「200年以上続いた寄合村の入山地争議」からも知ることことができよう。
 ちなみに、天和検地時の石黒村の戸数は26戸であったが、検地帳によれば村の田の面積は4町8反12畝14歩で石高は53石1斗6升2合である。これに基づいて概算するに一戸当たりの田の面積は約1反7畝、石高は1石8斗である。勿論、人口の増加に伴いその後も新田開発が盛んに行われた。総面積総石高は増えたが、1戸当たりの石高にはほとんど変化はなった。とくに、寄合集落は地理的に石黒川の下流にあたり、河床も深く水田用地に恵まれない場所であった。
資料→石黒-角川日本地名大辞典



     領主の変遷

 さて、江戸時代の領主の変遷は、徳川幕府の大名統制策として改易が行われたため目まぐるしいものであった。
 1616年(天和2)高田藩主松平忠輝が改易(補記-松平忠輝)となってからは小藩分立の時代で、高田藩、長峰藩、牧野藩、藤井藩、椎谷藩の5藩に分割され、石黒は、牧野領となった。   
 1618~1624年に、松平忠昌が高田藩主となり石黒は高田領になる。続いて1624~1681年は、松平光長が藩主となった。
 光長(補記-松平光長)は治世57年間にも及び政治上の功績も大きかったが、1679~1681年(天和1~3)越後騒動(補記-越後騒動)がもとで改易となった。このころ刈羽郡を統治した陣屋は今の西本町旧公会堂付近だとされ「橋場陣屋」と呼ばれていた。
 光長改易によって、1681~1685年は、高田藩4郡(頸城、魚沼、刈羽、三島)は幕府直轄地となった。
 1682年(天和2)には幕府の命令により高田藩4郡の検地(天和検地)が行われ、名寄帳が作られた。これらの名寄帳は石黒村に現存している。この検地帳によれば石黒村は「別俣郷の女谷村」に属していた。〔後述の「兼帯庄屋からの独立」参照〕
 さらに、1686年(貞享3)には稲葉正通が高田藩主となり、幕府直轄地から再び、高田藩に変わった。
 そして1700年(元禄14)に稲葉氏が下総国に移封となり、再度、石黒は幕府直轄地となり幕末まで続いた。
資料→幕府直轄地(天領)について-山中村文書から




   兼帯庄屋からの独立

 1663年〔寛文3〕の検地帳
〔補記-検地帳〕の末尾には「庄屋、五郎太夫・案内人、次太夫」の名前がある。
 この五郎太夫とは女谷村〔現在の鵜川の女谷〕の庄屋で石黒村の兼帯庄屋であり、当時石黒村は女谷村庄屋の支配下にあった。(天和3年の検地帳写しにも「苅和郡別俣女谷村之内石黒村」の文字が見られる)→資料
 庄屋が石黒に分離されるのはそれから約80年後である。1768年〔明和5〕に女谷村から出された「庄屋分離証文」
資料済為取替証文之事によって初めて石黒村庄屋が誕生する。しかし、この時代の
 
    庄屋分離についての願い書
石黒村の戸数は天和検地の頃の二十数戸から百数十戸にまで増えている。軒数が六倍にもなり共同体としての力もつき、自治意識が高まっていたことはいうまでもない。上の文書は、実に長さ1m20㎝にも及ぶ紙に書かれた庄屋分離独立を嘆願した文書の書き出しである。
 この資料「乍恐以書付奉願候」の文書の中で石黒村は、兼帯庄屋の指図で年貢や諸役など収めてきたが、根拠となる負担率は示されず法外なる負担を強いられた事を訴えている。その具体例として、石黒は定免地
(補記-定免法)になっているが、その年貢率については百姓はもとより組頭も知らせられていなかったことや、年貢の三分の一金納について兼帯庄屋は米価を高く見積もり、過分の金を取り立てている事などをあげている。
 このような年貢の不当なる割り当ては当時の石黒村にとっては我慢のできることではなかった。なぜなら、もともと田畑にできる土地が極めて狭い村での人口増加はそのまま、一軒あたりの収穫高の減少につながっていたからだ。
 桑山省吾氏の「石黒の歴史」によれば1858年〔安政6〕石黒村の総収穫高は170石余りで一軒あたりの平均収穫高は1石余であったと記されている。 
 当時の年貢率を6公4民として年貢六割とすると残りは4斗にすぎない。7人家族として一人当たり5升余りということになる。若干の隠し田というものがあったとしても信じ難いほど少ない量である。このような窮乏生活の中で兼帯庄屋の年貢割り当てについての不法なやり方を許すことは出来るわけはなかった。
地蔵峠 
 その外、庄屋独立願いの理由として、地理的に石黒から女谷までの道のりは三里〔約12km〕あり、特に冬季の山越えが困難であることもあげている。
 こうして石黒村の兼帯庄屋からの独立の悲願は、1768年〔明和5〕に127名連印のもと近隣4ヶ村の代表を仲介者に立てての証文の取り交わしにより、ようやく実現した。※下に示した庄屋独立の参考資料は庄屋年暦書上帳の届書の下書きと想われるが、これによると『宝暦年間より庄屋役相勤め・・・」とある。
※→庄屋年暦書上帳届下書き

資料→地蔵峠の秋 石黒の旧庄屋を尋ねて

資料→兼帯庄屋分離願い書全文




  入会(いりあい)地争議

 昔は、門出寄合と石黒寄合は、隣接しているが行政区は門出村と石黒村に分かれていた。石黒寄合の東側を流れる落合川対岸から扇欅(350m)山頂へのなだらかな山腹は、昔から草刈り場やボイ切り場として両村が自由に使ってきた。
 この頃は、さしたる争いもなく入会地としてこの一帯を利用をしてきたであろうことは容易に想像できる。なぜなら、当時は、まだ両村の原野の境など問題とならず、本入会(同等の権利を有する集団の入会)に近いものであり、また、両村とも人口は少なく、入会地の活用も限られたものであったと思われるからだ。
 紛争の種は、後世、「慶長の苛法」と呼ばれた幕府の検地によって蒔かれたともいえよう。江戸幕府の検地は、秀吉の検地では除かれていた山林・原野までも評価対象にしたからである。
 この検地で、両村にまたがる入会地も当然検地の対象となった。そこで、両村で話し合い、中世からの慣行等と照らし合わせて、門出村の山野と決め石黒寄合の受け山とした。
 
  寄合集落から入会地の「ナガオモテ」「ヨコマクリ」を望む 
言うまでもなく、この時点で門出村は村高が増加しそれに見合った年貢を納めることになる。石黒村は、他村の山に入会する形となり、山の所有者である門出村へ用益料である「山年貢」(補記→山年貢)納める立場になった。
 
 天保3年石黒寄合山年貢受け取り証-門出村庄屋→読解文クリック
この時の両村合意文書が現在も残っている。
資料-1
1664(寛文4)証文之事
 内容は、両村の境を確認した上で石黒寄合が山手年貢米八斗を毎年、門出村に差し出すこと等を具体的に明記している。ちなみに、この証文は現存する争議に関わる文書の中で最も古いものである。
 次に、天和2年〔1682〕の文書を見てみよう。
資料-21682(天和2)証文之事この証文で門出村は入会地の地名を一々掲げ、この地に限り石黒村に年8斗の年貢米で入会を認める事、更に、この地は検地帳上で門出村の領山であることを、石黒村に再確認させようとする意図が見られる。前述の1664年の合意文書から20年近く経過し、門出側に現状への不満と将来への懸念が生じていたのではなかろうか。
 この懸念が、後に次第に現実化し、50年後の享保8年〔1723〕には、入会地をめぐる大争議となるのである。
 まず、当時の紛争を門出側の文書から考察してみたい。なお、この文書は、寛政101798〕に門出村が脇野町代官所へ宛てた訴状である。
資料-31798(寛政10)願上証文1
 ここには石黒側の暴挙として次の事が記述されている。
享保8年に、門出村庄屋の死去に乗じ兼帯庄屋〔女谷村〕が中心になり近隣庄屋を仲立として、石黒村は入会地を一つ増やし、そのうち三箇所を石黒寄合だけの入会地にしてしまった。
 
この地は、検地により門出村の石高に組み込まれているものであり納得できない。のみならず、代金も支払わないばかりか、ここ数年間、山年貢も雑年貢も支払っていない」
 この文書で注目すべき事は、享保8年〔1723〕頃には、すでに両村の関係は相当険悪化していたという事実である。おそらく、もはや一触即発の状態まで達していたとも見ることが出来る。
 このままでは、容易ならぬ事態になると危機感を持った両村は、同年のうちに話し合いによって事態の収束をはかったものと思われる。その事を裏付ける証文
資料-41723(享保8)「為取替申定請山扱証之事」および請け山絵図が石黒村庄屋〔当時は与頭〕に残されている。絵図には、請け山8箇所の境界をはじめ、田畑の位置、宮川用水路が記入されている。
資料-5「請山絵図」と現地写真
 その内容の概要は次のようなものである。
(1) 寛文4年に交わした証文の入会地7箇所にヤヒツ山を加えた8箇所の境を明確にする。
(2) 8箇所のうちセイダ山、ヤヒツ山、山芋畑の3箇所は、石黒寄合に貸し与えるので自由に開墾してよい。
(3) 他の5箇所は、今までどおり両村で入会する。
(4) 8箇所のうちにある田は、今までどおり門出寄合の支配とするので石黒村は一切関与してはならない。
(5) セイタ山より門出へ引いている宮川用水路の取り口等破損した場合は、石黒側で修理する。
(6) 請け山八箇所の山年貢8斗は、毎年門出の蔵所に納めること。もし、納入が遅れる場合は、請け山を取り上げてもよい。
 
   入会地 ヤヒツ山 セイタ山を下石黒から望む  
 以上の事項から両村がお互いに、譲歩をするところは譲歩し、何としても長年の争論に終止符を打ちたいという決意が伺われる。※ビデオ資料→上記入会地ビデオ
 しかし、この近在庄屋10余人連判のもとに交わされた取り決めは抜本的な解決策とはならなかった。
 その後も入山争議はくすぶり続け、70年後の寛政10年〔1798〕の実力行使の騒動へと進行していくのである。
 なぜ、このような事態にいたったのであろうか。
 まず考えられる理由として、両村は人口増加に伴う食糧の不足を解消するために、入会地における田畑の開発行なったが、生活の困窮が改善されなかったことがあげられる。狭隘なる山地で常に豪雪、旱魃、水害、地滑り、害虫,冷害等に脅かされていた両村の暮らしの貧しさは、今日我々の想像を遥かにこえたものであったに違いない。
 ちなみに安政年間の一軒あたりの米の平均収穫高は、納税分を入れて1石(180リットル)ほどであったという。若干の隠し田はあったにせよ、平均値であるから大半の家はこれに満たない収穫高であったにちがいない。
 その上、門出側にすれば、石黒寄合が2軒であった寛文年間に取り決められた山年貢8斗が、16軒に達した天明年間まで、そのままに据え置かれたという事実も納得し難い事であったに違いない。しかも、その8斗の山年貢もしばしば納入が滞ることがあったと想われる節がある。
 言うまでもなく、この67年の間には、何度か山年貢の値上げ要求は門出側からあったであろう。しかし、石黒寄合はかたくなに拒否し続けた。
 では、門出村の要求を承諾しなかった石黒寄合の村人の心底はどのようなものであっただろうか。安易な推量は、慎むべきであるが、一つ考えられる事は、最初の証文には、8斗の山年貢の加増についての条約が無いこと、8斗の山年貢納入も儘ならないという現状で、ひとたび年貢加増要求を飲むと前例を作ることになり、後世に禍根を残すことになるという恐れを持っていたのではなかろうか。
 しかし、天明年間に、検地よる村高の加増を根拠に門出村は山年貢を1石に増量することを要求し、石黒寄合はやむなくこれを受諾している。(下写真 山手米受領書 門出庄屋より石黒寄合矢沢松右衛門宛)
 このときに、この先、同様の山年貢増量が求められる事を予想した石黒寄合は、山年貢の一部負担を石黒の他集落にも求め、承諾を取っている。
資料-6 1781(天明1)「一札証文之事」
 実は、入会地の三カ所は、落合、下石黒、板畑に隣接しており、これらの集落でもボイ(芝木)やカヤの採取を入会地でしていた事実があった。
 ところが翌年に突如、石黒寄合は石黒村の他集落に対して山割りを要請している。その動機は、山年貢を石黒村全体が負担することになると他の集落が、どんどん入会地に入り、自分たちの入会地が脅かされるという不安を持ったからであろう。
 しかし、石黒村の他集落はこれを拒否している。その理由の1つには、あくまでも一部負担援助という形ですませ、紛争の渦中に入ることを避けたい気持ちがあったのではないか。
 こうして、結果的には、石黒寄合は、石黒の他集落ともこの問題で内輪もめを起こしてしまった。
 そして石黒寄合が予見したとおり、寛政10年、門出村は、従来の山年貢の他にこの年より臨時増米を含め2石4斗を支払うように要求してきた。門出村も一歩も譲れない断固たる決意であったことが文書からもうかがわれる。
 しかし、石黒寄合は、この要求を拒否した。2年おきに大凶作の続いた天明年間でのことでもあり、16軒で2石4斗の山年貢を払っていく事はとてもできることではなかったのであろう。
〔補記-5〕
 この、石黒寄合の要求拒否に激怒した門出寄合の村人がついに、同年4月に石黒村寄合の耕作地に乱入し植えたばかりの作物を荒らすという暴挙にでたのであった。
 石黒村寄合は、直ちに、この乱入事件を脇野町代官所に訴訟している。
資料-7 1798(寛政10)「乍恐以書付願奉上候」(差出人・石黒村寄合)
資料-7の2-1798(寛政10.6「乍恐以書付御訴訟□□□」

 これに対して、門出寄合は、先述したように脇野町代官所取り調べに応じ石黒寄合の理不尽を事細かに訴えている。
資料-1798 恐れ乍ら返答書を以て申し上げ奉り候
資料8-1798(寛政10)「乍恐以書付願奉上候」(差出人・門出村)
 この時も、両村の主張は平行線をたどり決着がつかなかった。業を煮やした石黒寄合は、同年6月には、江戸町奉行所にも嘆願書を提出している。
※石黒から江戸までどのような経路で往復したものであろうか。近郷の山中村文書「江戸道中入用日記」を参考に掲載した。→参考資料「江戸道中入用日記 
 しかし、脇野町代官所および江戸町奉行所からの返答はなく、両村は抜き差しならない状況に陥ってしまった。
 しかし、一年後の享和1年(1801)、ようやく、佐藤池新田庄屋の仲立ちを得て和解をすることになる。
資料出入り内熟済み口絵図表書き証文の事(全文)
 この和解の折りに作った畳二枚分の大きさの地図と裏書き証文が残っている。
 裏書き証文の内容は、概略次のようなものである。
○石黒村から門出村にかけて広がる入会地については、裁判中であるが、ヤブツの板畑1町8反については、享保年間に作った改帳を元に実地検分をした。しかし、地所が入り乱れて検分ができない。よって、後年争いが生じないように、取扱人が中に入り次のように決めた。
資料-9 1801(享和元)別紙為取替熟談証文之事
○ヤヒツの内、西の山等通りの沢頭境は、大沢より西の方へ動かして板畑5418歩と畑の道7間通りも添えて石黒村に請け山として渡すことを審議して決めた
よって境は次の通りである。
○ヤヒツの内、西の山等通りの沢頭境は、大沢より西の方に動かし小沢水落しを境に取り決め、塚も築き、杉の木も植える。下の方の境にも塚を築き杉の木も植える。峰の通りは、板畑水分け〔沢の流れの分かれ〕をもって境とし山裾は沢をもって境とする。
 
以上のように両村そろって決め、塚をつくり木を植えたので古くなった亨保年中の絵図面は使用しないことにする。今後は、お互いが取り決めを守り、境界の地所外に踏み込み開墾したり伐採したりすることは一切しない。勿論争いがましいことはしないようここに証文を取り交わす。

 しかし、その後も、山争いは、終結することはなかった。半世紀後の文久1年(1861)には、両村代表が、また証文を取り交わしている。この時の証文内容は次のようなものである。
(1)上風張り、下風張り、横まくり、上屋敷、下屋敷の五カ所は、昔から入会地なので今後も双方で支配する。
 新しく畑として開墾するときには、前もって重立ちの承認を得て切り開くこと。

(2)入会地には、果樹や杉の木、あるいは雑木などに至るまで植えてはならない。
(3)田を掘ることは決していけない。もし理由なくして新しく田を作ろうというのであれば両部落が相談して両村へ願い出て指示を受けること。
(4)山芋畑の境のことは、大沢通りをもってやり、両村の重立衆が立ち会って昔の通りに決めること。
資料-10 1861(文久1)「証文之事」
 また、下の古文書は、明治2年に門出寄合村より、請山の地名「屋びつの沢」に新田開発の話が申し込まれたときに、石黒寄合が、そこの土地は昔から自分たちの請山であり承諾してはならないと、村中の一致団結して反対するために作った「村中約定一札」である。
 
上古文書「村中約定一札」解説
 また、翌年(明治3)石黒寄合の6人の者が、門出寄合の入会の空地に入り、堆肥にするための草刈をして積んだことについて訴えられて、念書を送っている。
→差上申一札之事
その後、明治7年(1874)に始まった地租改正を契機に山年貢の債務者は石黒寄合から石黒村に移管された。


 そして、明治44年(1911)に石黒村が入会地の契約期間が切れることを機に入会地返還の方針を打ち出した。これに対して石黒寄合は、生活権に関わる問題と村役場に陳情したが受け入れられず、やむなく柏崎町の郡役所に請願するにするに至った。
 まさに、石黒寄合は、入会地の持ち主である門出村と250余年にも及ぶ入会地争議を繰り返す中、身内の石黒本村との山年貢の債務をめぐる内紛にも悩まされてきたのであった。
 寄合の矢沢松右衛門文書に昭和7年5月9日に門出村と取り交わされた定約書の写しがある。内容は山年貢を年8斗とし門出村に直納すること。貸借年限は昭和7年より昭和16年までの10カ年とすること。 更に、引き続き貸借を要するときには16年12月までに改めて定約を締結すること。期日までに定約が成立しないときは請け山を撤去することとしている。その上、定約中においても山年貢の納入を怠る場合は年限中でも請け山を撤去するという厳しい条目を設けている。
 この他に「田地卸受定約書」を取り交わし、入会地での新田開発について、すでに開発された田地と現在開発中の田地に分け入附米についての定約を詳しく定めている。
 ところで、これとほぼ同様な内容の定約書が、すでに明治27年に取り交わされている。本定約書に
「御受年限、満ル時ハ当然御受ハ解除消滅スルモノトス。尤モ期明後、引続キ御受ヲナサントスル時ハ更ニ両村立会実地反別ヲ査定シ将来ノ入附額ソノ他一切ヲ定約スベキモノトス」とあるように、入会期限を決めて定約をその期限で解消し、新たに実地の査定をした上で定約を更新したものであろう。本定約の前文によれば、この取り決めは明治15年7月27日に両村協議の上、合意されたと記されている。
 
資料 1932(昭和7)「昭和7年卸地定約書写し」 石黒資料館所蔵
 そして、石黒村は、昭和21年(1946)に第一次農地改革の実施にあたり、この入会地を門出村か
   
ら21万円(※昭和21年米1俵210円)という当時では莫大な金額で買い取った。買収費の負担分担、買収地各人明細、更に買収地の登記申請が終わったのは実に昭和29年2月であった。
 こうして入山地争議に、完全な終止符が打たれたのは、寛文4年(1664)に入会地契約を結んでから実に290年後のことであった。
   


    花坂新田の開発

 江戸時代前期には全国各地で新田開発が急速に進められ、現在の高柳町の殆どの村々でも開発が行われた。
 高柳地区で特に辺鄙なところにある石黒でも少しずつ新田開発が進められていたが、安永5年(1776)に、両隣の折居村、嶺村と共に出雲崎代官所に「当地には、もはや開発の余地は無い」という趣意の文書を提出している。
 水穴口水源→沢の下に白く水流が見られる
 ところがその18年後の寛政6年に柏崎町の山田為四郎と文書を取り交わして新田開発を計画した。
資料「為取替申書付之事」

 それは、黒姫山に連なる西峯の中腹に「水穴口の一升口」(上写真 一升口とは出水の断面が一升枡ほどという意味)と呼ばれる豊かな地下水の水源を持っていたからである。長い用水路さえ作ることができれば、石黒には黒姫山沿いに新田開発ができる余地があったのである。
〔補記-花坂新田〕
こうして花坂新田は十年余の歳月をかけて享和3年(1803)に完成し、その後も更に拡大されてきた。
 「柏崎編年誌」には「柏崎山田甚次郎は石黒村花坂新田を開拓」とある。甚次郎は爲四郎の子である。
資料→山田為四郎家について
資料→山田為四郎
 花坂新田  2008.11.13
 高柳町史によれば花坂用水の水上、水下合わせて灌水面積は16町歩に及び、その江丸(用水路)の規模はおよそ幅2m、長さ3kmにも達した。
 こうして開かれた新田は、その後、除々に村人によって買い求められてきた。「相譲申田地証文之事」の表題の山田為四郎名義の古文書が、今も多くの家で保存されている。
〔資料→相譲申田地証文之事〕
 村の古老の話によると、昔は花坂新田を「山田新田」と呼び、この田で地主に納める米の値段が、その年の石黒での米相場の基となったという。
花坂新田水路 2011.4.21
 開発されてからおよそ200年後の今日(1999)、花坂新田は日本棚田百選にも選ばれるほど管理が行き届き、全国からカメラマンが早春から初冬まで絶え間なく訪れている。(上写真上方に水路が認められる)
 しかし、耕作者が高齢化しているため、この景観がこの先いつまで保たれるかということになると、憂慮されるところである。

※附記-板畑の雪積〔ゆきづもり-中後への道路下〕の田は、小林嘉兵衛により開発された。また、同じく板畑の前沢〔まえざわ-雪積の続きの下、門出の入り口に至る沢沿いの田〕は宮川才策によって開発されたと伝えられる。 
板畑 雪積〔ゆきづもり〕
          
スライドショ-→現在(2007.5)の花坂新田
スライドショ-→クリック昭和30年代の花坂新田と耕作者

○板畑 雪積りの新開用水の文書と思われる(年月日無)
※参考文献 -水穴口- 平成21年度 柏 崎 市 湧 水 調 査 報 告 書
柏 崎 市 (財)新潟県環境衛生研究所
※柏崎の水 石黒 花坂用水
    
      

   石黒村の石油掘削

 筆者が子どもの頃に、大野地区の親子地蔵の辺りの水田で沸々と天然ガスが湧きだしている様子を見たことを憶えている。このような光景は上石黒など他村でも所々に見られた。
 高柳町史によれば、安政6年ごろに草生水(石油)が少し湧き出て、井戸掘りに精通した油田村の請け人、幸左衛門と願い人である村庄屋との間で採掘、採油の約条が交わされたとある。
 その後も、慶応元年~2年の文書に同様の内容のものが数点見られる。慶応期の文書を参考のために下記の掲載する。
乍恐以書付御伺奉申上候
・草生油井戸規定書之事

乍恐以口上書御願奉申上候
・差上申内熟済口御届奉申上候
乍恐以書付御伺奉申上候伺奉申上候2
乍恐以書付御伺奉申上候3
・御用-呼び出し状(油井関連文書)
 これらを読むと油田の利権をめぐって村内でもめごとが発生し、村中連判の規定書も見られる。また、その説得を役所に頼んだことによる役所からの呼び出し状や、菩提寺を仲裁人として合意した文書もある。
 その後、明治になって石油の需要が増加すると石黒でも一時期、盛んに油井が掘られている。参考資料→石黒村産油地図
 明治31年2月10日の長岡市政だよりの「郷土の産業」欄には「石油掘削の記録は明治3年、石黒の1号井に始まり、現在7000本を数え・・・」との記述が見られ、各地で石油掘削が行われことが分かる。また、第1号井が石黒であったことから、石黒での石油掘削は早くから始まったことが分かる。
参考資料→石黒で掘られた石油資源開発会社第1号井
 では、当時の産油量は、いかほどのものであったであろうか。下記の資料によれば掘削当初は日産5石という井戸もあったが、その殆どは2~3年で減少し採算が取れなかった。しかし、中には掘削当座は日産5石(約900ℓ)、その後減少しながらも7年以上も継続して湧出した井戸もあったことが分かる。
 また、資料によれば油質は良好で一時期は西山方面に出荷もされている。
参考資料→石黒村産油量等資料
 いずれにしても、当時の石黒での石油の用途は専ら、石油ランプ万年など夜間の照明であり1升(1.8ℓ)あれば1か月は倹約しながらも使われた時代であった。参考資料→石油通帳
 高柳町史では「恐らくは掘っても臭気が漂うくらいの微量で採算はとれなかったと考えられる」と、「草生水」の節の記述を結んでいるが、確かに、業者側の採算は取れなかったにせよ、住民にとっては驚くほどの量であったにちがいない。
 ちなみに、当時の石黒村では、掘削地の地主には産油量の2割程度の配分があったため、それによって財をなした家もあると今に伝えられている。
 手元にある大正5年の「石油鉱試掘□図」によれば帝石が試掘のために借り受けた土地は36ケ所に及び、総面積は71万坪を越えている。
(油井資料提供-石黒始)



       石黒校の創立

 石黒小学校の創立についての明確な記録は今のところ見当たらない。
 閉校記念誌によれば、明治6年6月に女谷校の付属校として設置されたとされている。しかし、柏崎市史によれば、鵜川校(女谷村)は明治7年の開設となっている。したがって、その付属校である石黒校の開設は7年以降とすることが妥当であろう。
 開設当初は、それまで庄屋であった田辺重五郎宅の物置を仮校舎として授業を開始したと伝えられる。
明治36年頃の石黒校 校舎の敷地は現在の小中学校跡
 そして、明治8年10月に新校舎を建て、明治13年には 女谷校から分離独立した。
 さらに明治22年、門出村の板畑と居谷集落を学区に加えた。
 また、翌23年には学制改正により「村立石黒尋常小学校」と改称している。
資料→明治22年頃の学校の思い出
 これによって石黒村は7集落、総戸数267戸で人口は1735人、学齢児童の人数は292人となった。
 また、学齢児童のうち就学児童は118人で就学率40%、全国の平均就学率45%〔明治20〕に比べ低かった。
 そのうえ、出席児童数〔明治31〕はこのうちの50%にも満たず、特に女子児童の出席率はきわめて低かった。
 しかし、注目すべきは当時、すでに石黒校には補習科〔上級課程〕が設置されていたことである。明治31年の補習科の在籍児童は24人である。高柳町史に掲載された修業証書〔下写真〕の年月日は明治28年とある。石黒校の補習科設置は小学校令が公布された明治23年から、おそらく数年後であったと思われる。
         補修課修業証書〔第6号〕
 町史には「掲載の修業証書の番号-6号」から設置年を推察いただきたい」とあるが、つまり石黒校の補修科設置は明治28年とみてよいということであろう。
 また、石黒小学校の修業年数が3年から4年に延長されたのは明治31年度からで同年8月に正式に認可されている。
 しかし、当時の学校では女子の就学率が低く、農繁期には家業の手伝いで児童の出席率が著しく低下する状況があり、村民の義務教育に対する意識はまだまだ低いものであった。
 また、特に女子児童では、子どもを背に子守をしながら登校する姿も珍しくなかった
資料→昭和の石黒校の全景
資料→明治27年頃の板畑校の思い出
資料→明治35・6年頃の学校の思い出
資料→大正時代の学校の思い出
資料→子守をしながら学校に通った思い出
資料→明治のころのお弁当の思い出
資料→昭和の初め居谷分校の冬の準備
資料→大正の初めころの学校

資料→明治43年尋常高等科6年生の修学旅行
資料→明治5年公布-小学校教則
資料→訓導(教員)月給受領書
資料→簡易科小学校



  板畑及び居谷集落の編入合併

 わが国では明治以来、平成18年の大合併までに、明治22年、昭和28年の2回にわたって大規模な市町村合併が行われている。
 板畑集落と居谷集落が門出村から分離し、石黒村に合併したのは明治22年〔21年市町村制公布〕の合併であった。
 この時の合併で全国の市町村数は実に六分の一に激減したと伝えられる。この合併の目標は、旧来の小規模の村々に「町村の治務を十分に挙行しうる力」を持たせるための適正規模とすることであった。
 当時の町村は徴税、戸籍、徴兵、教育、衛生など膨大な事務を、過重な経費負担の中で遂行しなければならなかった。その上、交通機関も発達していなかった当時は、一枚の証明書をもらうために命がけで雪の峠越えをしなければならないことも多々あった。
 板畑集落や居谷集落も門出へ行くよりは石黒の方が距離的に近かった。居谷の場合は門出までの旧道の道のりは1里半〔約6km〕で、石黒までは1里までなかったといわれる。
 また、もともと行政区は異なるとはいえ、昔から石黒との交流は深かった。
 このような事情で合併以前から板畑や居谷集落の人々は石黒村との合併を望んでいたのであった。
 板畑文書には合併に関する願書や約定書が複数残されている。→資料〔合併願書→クリック〕
 また、当初は、中後集落を加えた三カ村で石黒への合併を合意していたといわれるが、結果的には中後集落は合併しなかった。中後集落は板畑集落より約2km北東に位置し、門出集落により近かったためであろう。ちなみに、中後集落は昭和46年に、板畑から車道が開通して間もなく集団離村により廃村となった。
 こうして、明治22年7月に次のような約定書を交わし合併が行われた。→資料-約定書
 ちなみに、「刈羽郡舊蹟志」には「石黒村は元石黒に高柳村の内、門出の支部、板畑、居谷を加えて成る、黒姫を山背に在り、之を本郡の最南端とす」とある。

 しかし、合併が行われても板畑、居谷集落から、上石黒にある学校や役場までの道のりは4㎞余もあった。さらに上り下りの激しい山道であったため通学は大変であった。
 とくに降雪期の子どもの通学は難渋をきわめ、村人数人が順番でカンジキをつけて雪道を引率した。
 昭和30年代の「中学校送り人夫順番帳」〔上写真〕が板畑集落に今も残っている。

〔資料→板畑からの登下校の思い出〕

高柳村の合併と高柳町の誕生→


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