石黒の古文書用語の手引き   

                          ○和暦・西暦換算表←クリック    ○近世郷土歴史年表←クリック

※これは「HP石黒の古文書」の読解のために素人が作成中の手引きですのでご承知ください
(作成-大橋寿一郎 )

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 索引   用     語  意          味   備 考 
 用 語   読み方
   あい
動詞の上につく接頭語→「相済」、「相極め」、「相納め」など。 
 
      あい  
タデ科イヌタデ属の一年生植物で、別名は、タデアイ(蓼藍)、アイタデ(藍蓼)。紀元前より世界各地で青色の染料として用いられてきた。近世の日本においては四木三草の一つ。
 
  相掛かる
 
 あいかかる  
関係する。 争う。  目に留まる。   例-村役人江相掛御直訴
 
   相川県 あいかわけん 
 慶応4年(1868)に佐渡国一円の幕府領を管轄するために明治政府によって設置された県のこと。管轄地域は現在の新潟県佐渡市。
 鯣書一札之叓
   相給  あいきゅう  
二人以上の旗本や大名の家臣が一村を分割して知行(所領・支配)すること。
※刈羽村正明寺は宝永6年高田藩と旗本安藤氏の相給、この後高田藩領分は寛保元年に白河藩領、文政6年からは桑名藩領となる。
「旧高旧領」によれば安藤氏知行215石で桑名藩領28石とある。また、白河風土記」によれば家数41軒、白河領の家は僅か3軒とある。
 
 
   相作  あいさく  
農作物の畝の間や作物の間に他種作物を栽培すること。   
間作
 
   挨拶人  あいさつにん  
仲介人。  仲介者。
 
  藍沢南城   あいざわなんじょう  
 藍澤南城は、通称を要輔といい、寛政四年(1792)、三島郡片貝村(現在小千谷市)にあった朝陽館の教授の藍澤北溟の長男として生まれた。同9年、父が病没したため、母の郷里である刈羽郡南条村(現在柏崎市)に移った。
 その後、一時朝陽館に学んだが、15歳の時に江戸に出て、父と同門の松下一斎の葛山塾で折衷学(江戸中期の儒学の一派)を学んだ。文政2年(1819)郷里に戻り、翌年、学塾をこの地に開き、三餘堂(さんよどう)と名付けた。三餘とは、年の餘りの冬、日の餘りの夜、時の餘りの雨の時を学問の好機とするという意味で、民間にあっての儒学者として、生きた南城の考え方の適切に表した言葉といえる。
 文政6年(1823)に刈羽郡高柳村山中の石塚広右衛門の長女リキ(理幾)と結婚する。
 弘化3年(1846)8月、妻リキ(理幾)没、47歳。夫人を失った悲しみを五言五詩二首に述べる。
 南城の質実な学風、厳格な教えが人々に慕われて、越後の諸郡からのみならず、会津・能登・備前等からも門人が参集した。
 文政3年より万延元年(1860)までの門人録には、723名の門人が記されている。後年、三餘堂は明治政府から蒲原郡粟生津村(あおうずむら・吉田町)の長善館(ちょうぜんかん)と並び、北越の文教を振興した、私学の双璧と認められた。
 また、詩を好んだ南城は、生涯に2千編に及ぶ詩作を試み、その内から精選されたものが『南城三餘集』2巻である。
 開塾以来、ほとんど南条の地を離れずに教育に没頭した南城は、万延元年(1860)、69歳で没した。ちなみに、
岡野町の国指定名勝庭園「貞観園」は天保年間に藍沢南城により選定された。
 南城没後は、養子朴斎(ぼくさい)によって引き継がれたが、明治5年(1872)、学制の公布に伴い塾は閉鎖されたが、南城の孫の雲岫(うんしゅう)は再興を期して、明治27年4月に藍澤義塾を発足させ明治三十年まで続いた。
※柏崎市史(上)には「藍沢南城とその時代」の88頁にわたる詳細な記載が見られる。
(参考文献 新潟県人名辞典他・柏崎市史)
〇藍沢南城書簡-1 



〇江戸時代後期 刈羽郡絵地図-藍沢南城作
   会津御領所   あいずごりょうしょ
 小千谷陣屋は、天和元年ごろ、江戸幕府直轄領の魚沼郡内の天領を統治するために設置された。その後、享保9年に徳川幕府直轄領会津藩預所となり、会津藩が自領、越後魚沼領として支配し明治に至った。 
 幕末期の会津藩預所は、陸奥国(岩代国)河沼郡67村、大沼郡104村、耶麻郡68村、越後国魚沼郡81村などがあげられる。
 
   相済  あいすます  
物事を終わらせる。解決する。。
 
   相対  あいたい
 互いに話し合って合意すること。  互いに納得すること。 
 
   相糺  あいただす  
糾明する。理非を明らかにする。※相は接頭語
 
     あいだ  
接続助詞のように用いられる言葉。→ ~之間 ~候間など。  意味は。~なので。~によって。
 
  相果   あいはつ  
死ぬ。終わる。 「相」は接頭語
 
   青米  あおごめ  
年貢納入の前に選別された成熟しないため青色がかった米粒。
 
   青苧   あおそ
カラムシやチョマを成長したものを刈り取り水に浸して茎の中のカスを取り去った繊維のこと。
カラムシは、石黒では苧(オ)と呼んだ。チョマ(苧麻)も同種とされるがチョマはカラムシより大型のナンバンカラムシを含めた呼称であるとされる。
現在、青苧(アオソ)=カラムシとの解釈も見受けられるが正確には上記のように区別すべきではないかと思う。とはいえ、古文書などには「青苧畑」などという言葉が使われていて、呼称の混乱を生じる原因の一つとなっている。
 
  青苧高   あおそだか
青苧の生産量を米に換算したもの。
 
   青立  あおだち
 稲が冷害などのため成長が遅れ秋の実りの時期になっても青々していること。当然、稲の籾の発育も不稔で終わる。
 
   赤田村   あかだむら
 (掲載準備中)
 
   秋毛 あきげ  
秋の作物。   
 
   安芸国  あきのくに  現在の広島県西部。  
   秋成  あきなり   
悪江戸時代、秋季に納める田の年貢のこと。
 御布告留
   悪作  あくさく
 凶作、不作のことであろう。→文例 「別而悪作仕候、 浅間大焼ニ付、砂石押埋」 
 文例資料 ※石黒庄屋文書
   悪所  あくしょ
江戸時代、遊里や芝居町のことを指した。 
悪所場  
吉原   飯盛り女
 
   悪心  
あくしん
 
悪事をしようとする心。他人に危害を加えようとする心。
 
   悪水  あくすい  
排水。 下水。  汚水。   排水の悪い田の溜まり水。
 
   悪水吐樋  あくすいとひ  
排水のための樋(木や竹でつくったトイ)

※用語出典-安永2石黒村指出明細帳
 
   悪田村  あくだむら  
 東は春日村、西は海、南は柏崎町、北は鯖石川・悪田川を挟んで荒浜村。
 江戸時代から明治22年までの村名。刈羽郡に属した。
支   配
 慶長3-12
堀氏 春日山藩 寛永元-天和元 松平氏 高田藩
慶長12-15 堀氏 福島藩 天和元-貞享2 幕府領
慶長15-19 松平氏 福島藩 貞享2-元禄14 稲葉氏 高田藩
慶長19-元和2 松平氏 高田藩 元禄14-宝永7 戸田氏 高田藩
元和2-元和4 酒井氏 高田藩 宝永7-寛保元 松平氏 高田藩
元和4-寛永元 松平氏 高田藩  寛保元-文政6 松平氏  白河藩
       文政6₋幕末  松平氏  桑名藩

 村高は正保国絵図によれば20石、元禄郷帳によれば61石余、天保郷帳によれば66石余。隣村の荒浜村と境界争いがあった。
 白川風土記によれば、家数102軒、北國街道が通り、男は漁業、女は農業に従事した。
 北端の鯖石川に渡し船場があり、渡し守家数14、渡し守給・造船料は領主負担、強風時は一里ほど川上の橋場村より渡船した。安政年間渡し守たちが自費で橋を架け(今の安政橋)通行人から一定料金(天正14年、船賃5文との記載文書あり)を徴収した→

 郷蔵は2ケ所で土合・土合新田・下大・正明寺・曽地・曽地新田・吉井・大塚・井岡・剣、そして当村悪田の11ケ村の貢米を納めた。修理費用等はこの組合より出した。
 産物は鰯と千鳥、千鳥は11~12月初旬で網で捕獲し焼き鳥に使われた。昔はアシ原が広がり水鳥が多く訪れた→

 明治34年からは西中通村、昭和23年からは柏崎市の大字。


主な産物に千鳥(チドリ)が上げられているが、猟期が11~12月のとなるとハマシギシロチドリなどと思われる。

柏崎の民謡「三階節」の歌詞には悪田の渡しが登場する。
    柏崎から椎谷まで 
    会いに(間に)荒浜荒砂
    
悪田(芥多)の渡しが 無きゃ(仲良)よかろ
    ハア 無きゃ(仲良)よかろ 
    会いに(間に)荒浜荒砂
    
悪田(芥多)の渡しが 無きゃ(仲良)よかろ
    (ハ ヤラシャレ ヤラシャレ)


   参考文献-角川地名大辞典・柏崎市史
 
 
   悪地   あくち  
耕作に向かない地味や水はけの悪い土地。
 
   上米   あげまい
財政再建などのために幕府が諸大名に、または藩主が家臣に上納させた米。
 
 
     あさ
広義にはアサは麻繊維を採る植物の総称であり、アマ科の亜麻やイラクサ科の苧麻-カラムシなどを含むものと思われる。
 ちなみに、古来から日本で栽培されてきた麻は麻薬成分をほとんど含まない。
 
     あさな・あざ  
近世での地名の細かい名前。「小名」「名所-みどころ」などとも呼ぶ。明治以降市町村合併以降は、それまでの部落を大字、それ以下の小名を小字とよぶようになった。
 
   麻苧  
あさお
 
麻や苧(カラムシ)の繊維から取った糸※石黒の植物→苧(カラムシ)
石黒の昔の暮らし-日常生活-その他-苧
 
   浅黄色  あさぎいろ   
浅葱色と同一とすることが多いが、時には浅黄色と分けて使う場合もある。
昔は浅葱色の染料としてクサギの果実が使われたと伝えられる。
 
→資料参照
 
   浅黄木綿  あさぎもめん
浅葱木綿は経糸、緯糸共に浅葱に染めた糸で織った無地の木綿織物。
石黒の昔の野良着の股引などに、この布が用いられていたようだ。
→資料
 
   浅草御藏   あさくさおくら  
江戸浅草におかれた幕府の米蔵。幕領から運ばれてきた年貢米、買上米が保管されて、旗本や御家人の俸禄とされた。 
  
浅草蔵  
 
   浅草御藏入用 あさくさおくらにゅうよう 
 浅草の御米蔵の運用にかかる費用。
 
   莇平村  あざみひらむら  
江戸期から明治21年までは頚城郡の莇平村。明治12年からは東頸城郡に所属。同22年北山村の大字となる。明治34年山平村、昭和29年3月から松代村、同年10月から松代町の大字となる。現在では十日町市莇平。平成27年(2015)人口50人、戸数20軒。
 
   旭村  あさひむら  
旭村(あさひむら)は、かつて新潟県東頸城郡にあった村。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い東頸城郡田麦村、板山村が合併し、旭村が発足。
1901年(明治34年)11月1日 - 東頸城郡嶺村と合併し、旭村を新設。
1955年(昭和30年)3月31日 - 東頸城郡大島村、保倉村と合併し、大島村を新設して消滅。
(ウェキペディア)

 
   足軽  あしがる  
雑役などに従う江戸時代最下級の武士。
 
   足中   あしなか  かかとの部分がない短い草履。 → 石黒の民具→足半(あしなか)  
   預かり証文  あずかりしょうもん  
物品や人を、預かった証拠として渡す文書。
 
    預所  あずかりどころ
幕府が幕府領の内で遠国奉行や近隣大名に支配を委託した領知の事。 領主に代わって土地や年貢を管理する役。→
桑名藩預所刈羽郡石黒村など。
○所請状之事 
   預地  あずかりち 
 江戸時代に、大名が、幕府から所領の近隣の天領を預かり地(預所)として、その統治を委託される例が少なからずあった。
※石黒村を含め、刈羽郡の幕府領は幕末のころ全域が桑名藩の預地であった。→桑名藩

対語→領地
 
   畔屋村  あぜやむら
 ※掲載準備中
 

 
   被為遊  あそばさせられ  
「被遊→あそばされ」に「為-せ」の使役の助動詞「せ」がついた言葉。
 
     あだ  
仕返し。  仕返し。
 
   扱人・噯人   あつかいにん  
和解の調停人。
 
   充行・宛行  あてがい・あておこない   
領主が家臣に、領地や俸禄を与えること。
 
   跡々  あとあと
 のちのち。 従来。  以前。
 
   跡株  あとかぶ
百姓が欠落などした後に村に残した田畑や屋敷などの百姓株のこと。
 
 
   跡式  あとしき  
家名や財産または職業を相続すること。 後継者。 
跡職
 
   跡役  あとやく  
前任者の権利や役目を受け継ぐこと、またはその人。  
後役
 
   姉崎村  あねさきむら
 千葉県市原郡にかつて存在した村である。現在の千葉県市原市の北西部に位置している。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い、
姉崎村・椎津村・深城村・豊成村・立野村・不入斗村・片又木村・迎田村・畑木村が合併し市原郡鶴牧村が発足。
 許状-石黒村文書
   案内  あんない  
案内→古くはあないと読む。
 
  案内帳 あんないちょう 
通知、伝達、または道や場所、あるいは村の概要を知らせる帳面
門出村御案内帳-石黒村庄屋文書
    阿父   あふ  
父親を親しんでいう言葉。 阿母、阿兄-あけい、阿姉-あし、等。
 
   油座  あぶらざ  
鎌倉~室町時代に灯油用の油をエゴマ (荏胡麻)から製造,販する商人たちの座組織。荘園領主や寺社,大名などからその特権が与えられ保護されていた。

 
   油田村  あぶらでんむら  
 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い刈羽郡油田村、黒川村、五十土村、成沢村、小黒須村が合併し、油田村が発足。
 1901年(明治34年)11月1日 - 刈羽郡吉井村、曽地村、東城村(一部)と合併し、中通村となり消滅。
 1956年(昭和31年)9月30日 - 中通村が三分割された際、旧村域の大字黒川・油田は刈羽郡刈羽村に、大字成沢・小黒須・五十土は柏崎市にそれぞれ編入。

※石黒の草生水関係の古文書に「油田村の請け人、幸左衛門」の名前が見られる。

(参考文献-ウェキペディア)
差出申す取極め規定書の事-安政3



草生油井戸規定書の事
   油屋   あぶらや  
油を取り扱う問屋の総称。この時代、油市場の中心は大坂であった。江戸市中での照明用として灯油の需要を満たすためには、大坂およびその周辺地域での絞油業がいかに盛んであったかは言うまでもない。したがって原料であるナタネや綿実を扱う問屋と共に油問屋も発達した。
 越後など地方においても食用や照明に使う菜種油は日常生活必需品であり製油を生業とする者も多くいた筈であり、それに課せられた役銀が油屋御役銀であろう。

 
    あまつさえ  
そればかりか。 その上に加えて。
 
  綾子舞  あやこまい
新潟県柏崎市女谷に伝わる民俗芸能。
越後国守護上杉房能の自刃後(1507年)、当地へ逃れて来た妻の綾子によって踊りが伝えられたという伝承があり、500年の歴史を持つとも言われる。中世の風流踊や初期の歌女性舞伎の様相を伝えていると考えられており、芸能史的にも価値が高い。 1975年(昭和50年)の文化財保護法の改正によって制定された重要無形民俗文化財の第1回の指定を受けた。
 綾子舞は女谷の黒姫神社の祭礼に際して演じられる。(以前は9月15日の敬老の日に演じられていたが、現在は9月の第2日曜日)
女性による踊り、男性による囃子舞、狂言の三種からなる。
折居では「文子舞」と呼ばれたという。→資料参照
 
昭和の初めごろまでは石黒の黒姫神社祭礼には綾子舞を招いて奉納した。
 
 ビデオ資料-1-女性による舞


ビデオ資料-2-囃子舞


ビデオ資料-3₋狂言


参考資料-文子舞
   怪しき体・怪敷体  あやしきてい  
不審な様子。    怪敷者→あやしきもの。 
 
 
   操り あやつり 
 操り芝居 慶長の頃に京都で生まれ、江戸へ移り、特に大阪で盛んとなった人形劇。  
操り芝居  操り浄瑠璃  操り狂言等。 
 
   誤証(證)文  あやまりじょうもん  謝罪の証文のこと。  
   荒浜村  あらはまむら
  ※掲載準備中

 
   有毛検見  ありげけみ  
実際の稲の出来具合を調べて、その年の収穫量を算出する検見法。
 
     あれち  元は耕地であったが、種々の原因で耕作できなくなりそのまま放棄されている田畑。   
   荒所  あれしょ  
災害などで荒廃した農地。  付荒-当荒-永荒など程度により区別した。
   有付・在付  ありつく
 
その場所に住み着く。
 
   有米  ありまい  
現在、手元にある米。    
在米
 
   荒地 (荒)  あれち(あれ)   
荒地には太閤検地のころより「
永荒」「年々荒」「当荒」「付荒」の区別があった。 永荒は洪水や山崩れなどの災害により、半ば永久的に荒地となったもの、年々荒も同様長期荒地となったものを指した。
 当荒は凶年などにより一年限りの荒地を指した。
付荒はこれらとは異なり、こうした災害などの事情がないにも関わらず荒廃にまかせられた土地を指した。これには農民の窮乏・離村から耕地が行われずにいる土地も含まれる。江戸時代中期における関東・東北の荒村状況は、この荒地の代表的なものである。
 
また、領主側は、この荒地の再開発を奨励した。これを「荒起し」「荒返し」「起こし返し」と呼んで年貢や賦役の上で優遇した。
荒地取調帳-石黒村
   荒地起し返し あれちおこしかえし   
各領主は、江戸時代中期にとくに多く見られた田畑の荒地の再開発を奨励した。これを「荒起し」「荒返し」
「起こし返し」と呼び、一定の費用を与えたり、当座は無年貢にするなどの恩典を与えて荒地起こし返しを奨励した。
 
   荒地引  あれちびき  
荒地となったため年貢の対象から除外すること。
 
     あわせ
 裏地のある和服のこと。当時は、10月から5月までの間に着るものとされ、春冬秋までの最も長い期間にわって着用さた。
対語→単衣(ひとえ) 
※真夏は夏着物-「薄もの」が使われた。
 書簡-嶋田宿での行倒れ者の処理について(嶋田宿での行倒れ人関連文書)
  安房国   あわのくに  現在の千葉県南部。  
   粟稗  あわひえ  
救荒作物として栽培された粟と稗(ひえ)
※ 粟稗、特に稗は稲に比べて冷害、旱魃(かんばつ)にも強いので凶作に備えて作られていた。
 
   庵室  あんしつ  
尼僧の住居。
 
   安全  あんぜん
手紙の前文に「家内安全」の意味で使われることが多い。
文例→弥御安全被成御座、珍重之至御座候
 
   案文  あんもん  
文書の下書き、または案として作る文章、書式。
 
       
 十二支では12番目。  〇時刻では午後10時または午後9~11時の間。  方角では北から西へ30度・北北西。 
 
   飯山市  いいやまし
 長野県の北東部にある市。 長野県においては最小人口の市で、近年は人口減少や高齢化、市街地の空洞化などの問題も多い。
 1954年(昭和29年)8月1日 - 下水内郡飯山町・秋津村・常盤村・柳原村・外様村・下高井郡木島村・瑞穂村が合併して発足。
1955年(昭和30年)4月1日 - 大字瑞穂のうち前坂が下高井郡野沢温泉村に編入。
1956年(昭和31年)9月30日 - 下水内郡太田村・岡山村を編入。
 
   飯山藩   いいやまはん
 飯山は、信濃国(現在の長野県飯山市飯山)を支配した藩。藩庁は飯山城。
概要
慶長8年(1603年)、松平忠輝が北信濃4郡を支配したとき、その付属大名である皆川広照が4万石で飯山に入ったことが、飯山藩の始まりである。しかし慶長14年(1609年)に広照は忠輝のもとで敏腕を振るっていた家老・花井吉成を讒言したために徳川家康の怒りを買い、改易されてしまった。翌年、越後の堀一族が改易されると、その一族の一人であった堀直寄が飯山に入る。直寄は千曲川の治水工事や新田開発を積極的に推し進めて藩の支配体制を固めようとしたが、元和2年(1616年)に直寄は越後長岡藩へ移封となる。代わって近江国内より佐久間安政が3万石で入る。安政は織田信長の家臣で「鬼玄蕃」の異名を取った佐久間盛政の弟である。安政の後はその子・佐久間安長、そして安長の子・佐久間安次が継いだが、寛永15年(1638年)に安次が夭逝したため、佐久間氏は無嗣断絶で改易となった。
翌年、松平忠倶が遠江掛川藩から4万石で入る。忠倶・松平忠喬の二人は地方巧者の野田喜左衛門を登用して用水路開設や新田開発、税制の確立に努めて藩政を安定化させた。宝永3年(1706年)に松平氏は掛川に戻され、代わって播磨赤穂藩から永井直敬が3万3,000石で入る。しかし直敬は5年後の正徳元年(1711年)に武蔵岩槻藩へ移封され、代わって摂津尼崎藩から青山幸秀(幸侶)が4万8,000石で入る。しかしこれもわずか6年後の享保2年(1717年)に丹後宮津藩に移封された。代わって越後糸魚川藩より本多助芳が2万石で入る。この本多氏は、本多正信に近い系統である。
しかし助芳は糸魚川1万石から1万石加増されて2万石になったが、実質的には千曲川の水害のために糸魚川1万石よりも収入が少なかった。このため、家老の本多弥五兵衛の献身的な忠義が幕府に認められたこともあって、享保9年(1724年)に替え地が用意された。また藩領を城下・外様組・川辺組・山之内組に分けて支配した。明治元年(1868年)の戊辰戦争では、越後高田藩から旧幕府軍の衝鋒隊が飯山に侵入し、城下は戦火に見舞われた。その後北越戦争、会津戦争に参戦した。翌年、第9代藩主・本多助寵は版籍奉還により飯山藩知事となる。そして明治4年(1871年)の廃藩置県により、飯山藩は廃藩となって飯山県となり、同年末には長野県に編入された。
(ウエキペディア)
 
  家持     
いえもち
 
 借家人に対して家や屋敷を所持する者のこと。
 
   家跡  いえあと  
先祖から伝わる家の名。名跡 (みょうせき) 。前に家が建っていた跡。やしき跡。
 
   家居  
いえい
 
 家を建てて住むこと。   住居のこと。 
 
   家株 いえかぶ   
その家が代々持っている権利や役目。
 
   伊賀国  いがのくに  現在の三重県北西部。  
   如何にも  いかにも  
どうしても。  何としても。 まことに。
 
  如何敷   いかがわしく  
よくない。   疑わしい。  
 
   異儀  いぎ  
相手と違う考え。  異常。    
異義
 
   壱岐  いき  現在の長崎県北部  
  委曲  いきょく  
委細。 詳細。
 
   幾重にも  いくえにも  
かさねがさね。 繰り返し。
 
   生田万の乱   いくたよろずのらん  
天保8年(1837)6月に国学者の生田万が越後国柏崎で貧民救済のため蜂起した事件。 
 生田は、柏崎で塾を開き学問を講じていた。天保8年2月、天保の大飢饉が厳しい中、大坂で大塩平八郎の乱が起こり、幕府や諸藩に大きな衝撃を与えた。生田万の乱は、同年6月にその波紋として起こった事件といえよう。
 生田万は、凶作に苦しむ町民を救うため同士6人で柏崎陣屋を襲ったが敗れ、海岸で自害し妻と2児も捕らえられ自決した。
 襲撃は成功しなかったが、翌日から米価は下がり始め、目的は達せられ多くの人々が餓死を免れたと伝えられる。
 墓碑は現在、柏崎小学校の脇にある。
写真→

 
   居久根  いぐね
屋敷林。主に防風、防火のために植えられた林。また、屋敷続きの自分の持ち山のこと。
 差し上げ申す一札の事-荻野嶋島村
   居検見  いけみ
 実地に田畑の作柄を見ずに、平均収穫量などで年貢額をきめること。
 
   異見  いけん  
意見。  説教。  
 
   石黒村地名地図     →石黒村地名地図 
※古文書に田畑の項に「名所〇〇」と書かれたものが多い
 
   違作  いさく  
不作  凶作 平年より作物の収穫量が大幅に少ないこと
 
   石黒村  いしぐろむら  
 元禄2年の御料地面割帳に三島郡大窪組石黒村との記載がみられる。また宝暦4年村明細帳に別俣郷女谷村のうち石黒村との記載も見られることから、当村はその後、女谷村折居から独立したものであることが分かる。

 初め高田藩領、元和2年、長峰藩領、同4年高田藩領、天和元年幕府藩領、貞享2年高田藩領、元禄14年からは幕府領。
 村高は「天和高帳」では99石・新田16石余。「天保郷帳」では170石余。元禄14年の家数は60戸、人口381人。
 安永4年の番所跡が上石黒にある。同6年に草生水(石油)採取についての業者から庄屋への一札がある。→
石黒村の石油掘削
 寛政10年、門出村寄合と石黒寄合との間で入会地23町歩に関して訴訟となり、天和2年以来の係争が再燃した。→
200年以上続いた寄合村の入山地争議
 神社は上石黒に黒姫神社、下石黒・大野に黒姫大明神、落合に白山権現。
 明治2年の凶作では41軒、197人の極窮人をだした。同4年の戸数165戸、人口1085人。同7年女谷ほか7カ村組合で当村に女谷校の付属校を開校。同12年独立して石黒校となる。
 明治22年門出村の板畑、居谷を合併して、市制町村制施行により石黒村となる。
 昭和30年高柳町石黒となる。その時の各字の世帯数と人口は上石黒59戸・328人、下石黒50戸・274人、大野26・143、落合29戸・169人、板畑58戸・303、居谷18戸・112人、寄合47戸・278人の計287戸・1607人であった。 〇石黒村の地形 〇石黒村の歴史
  ※石黒村の田畑・屋敷等地名 ※石黒村地名地図
2005年(平成17年)5月1日 - 柏崎市に編入。
(参考文献 高柳町史・角川全国地名辞典)

 越後国刈羽郡石黒村御検地水帳



資料-石黒村地図-昭和16年





刈羽郡石黒村五人組持高帳
   石地町
(石地村)

 いしじまち   
 新潟県中西部、柏崎市(かしわざきし)西山町(にしやまちょう)の一地区。旧北陸道に沿う漁村。
 また、明治・大正時代旧西山油田の中心をなし、有名な石油王と呼ばれた内藤久寛の邸宅であった久観荘(市文化財指定)がある。

 太平洋戦争後は遠浅の海岸線が海水浴場としてシーズン中は関東圏からの海水浴客でにぎわう。

1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い刈羽郡石地村、尾町村が合併し、石地町村(いしじまちむら)が発足。
1890年(明治23年)4月1日 - 町制施行し石地町に名称を変更。
1901年(明治34年)11月1日 - 刈羽郡大田村と合併し、石地町を新設。
1956年(昭和31年)9月30日 - 刈羽郡内郷村と合併し、朝日町となり消滅。
2005年(平成17年)5月1日 - 柏崎市と合併、柏崎市西山町石地となる。

(参考資料-ウェキペディア)
 ※内藤久寛書簡
   石曽根村  いしぞねむら  
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い刈羽郡石曽根村が村制施行し、石曽根村が発足。
1901年(明治34年)11月1日 - 刈羽郡森近村、山室村、大沢村と合併し、南鯖石村となり消滅。

現在は柏崎市南鯖石石曽根(大字)。
 
   石俵  いしだわら
 小石を俵詰めしもの、現在の蛇籠(じゃかご-太い針金製の籠に砕石や玉石を詰めたもの)と同じようなものと推測されるが、正確なところは分からない。(調べ中2018.9.17)
出典文書-大地震-弘化4年 
   違失・異失  いしつ  
あやまり。 過失。  落度。 
 
   石塚大五郎  いしづかだいごろう
近世の高柳の山中村の第9代庄屋。慶応元年(1865)山中騒動のため父徳兵衛は庄屋役を取り上げられ蟄居を申しつけられたため、13歳のきに庄屋を申し渡される。幼少であったため叔父初衛門が後見人となる。
筆者が古文書により調べたところでは、明治2年(1869)まで庄屋石塚大五郎の名前の文書が見られる。→山中村古文書と近世年表
  参考資料 高柳村山中村庄屋文書
   意趣・遺趣  いしゅ  
 考え。  理由。  遺恨。      
 
     いず  
現れる。  外へ行く。   去る。
 
   何方迄も   いずかたまでも
 
どこまでも。
 
   出雲崎町  いずもざきまち
 ※掲載準備中
 

 
   出雲崎代官所  いずもざきだいかんじょ
 出雲崎代官所跡案内板には「出雲崎は、文明年間(約500年前)上杉家によって、佐渡征伐の拠点と海岸鎮護のため陣屋が置かれた。元和2年(1616年)に徳川幕府は出雲崎代官所を幕府直轄地(7万石)とした。以後、出雲崎は唯一佐渡からの金銀荷揚げ港として栄えるようになった。代官所は町内の石井町、羽黒町、稲荷町と変遷し文化5年(1808年)にこの地に移転した。以後、明治に至る
まで存続、歴代代官の中には、教育や港湾の築造に力をそそぐなど名代官がおられた。今でも松の大木と屋敷神社稲荷社が往時を物語っている。
 代官所は町を見下ろす高台に位置し、目だった遺構はなく跡地には石碑が建立されている。また、代官所には付属施設として牢獄や刑場が設けられたが、戊辰戦争が起きると、代官など役人は施設
一切を焼き払って逃げたと言われており、資料らしきものは現存しないという。」と記されている。
 しかし、近くには「尼瀬獄門跡」の案内板があり、次のように記されている。
 「当町は元和2年(1616年)徳川幕府の直轄地となり、代官所が置かれた。附属機関として牢屋もつくられた。ここは極刑の執行をする刑場であった。おそらくは幾千もの斬首がなされたことであろう。特に重罪人の生首は浜辺の方にさらされたと伝えられている。供養塔は天明年間の建立であり数体の地蔵尊と老榎は当時を偲ばせるものがある。」
※獄門は江戸時代の死刑の6種のうちの一つで、罪人を獄内で斬首したのち、罪状を記した木札を立て、その首を3日2夜台木の上に晒す刑罰。 
 




資料→獄門跡-(柏崎日報)
   伊豆国  いずのくに  現在の静岡県東部、伊豆半島部。  
   井堰  いせき  
水を田に引くために川などせき止めた所。  用水路。    
 
   伊勢国  いせのくに  
現在の志摩半島および南部を除く三重県北・中部。   
勢州(せいしゅう)
※桑名藩の所在地
 
○往来一札の事
   伊勢参り  いせまいり
  伊勢神宮への参拝のこと。伊勢詣でともいう。 
 伊勢神宮は本来皇室祖先神を祀る場所として一般の参拝を禁じていたが平安時代末期、朝廷の財政上の支持が困難となると一般の参拝が解禁され、広く国民各層の信仰を集めるようになった。
 当初は貴族が使僧を遣わして行う代三参の形式であったが、鎌倉時代後期には尾張・美濃を中心に広汎な層による伊勢参りが行われるようになった。南北朝時代の動乱期を経てもこの動きは増大する一方で、室町時代に入るころには御師(おし→下級神職で参詣などの世話にあたる者)の側では旦那株を売買すること、参詣者集団の間では伊勢講、または神明講を結成することも盛んにおこなわれた。
 中世末の激しい政治上、社会上の変動を経た直後、慶長19年(1614)に激しい伊勢踊りの流行という爆発的な現象が起こった。これらがいよいよ伊勢参りを盛大にしたのであった。
 この傾向は江戸時代の民衆に引き継がれて東国の民衆の間では一生に一度は伊勢参りと上方巡りを兼ねた大旅行に仲間数人ともに行くものだという通念が広まった。
 参考文献-国史大辞典
 ○往来一札の事
   己前   いぜん それより前。    以前     
   夷則  いそく  
陰暦7月の異名
 
   徒者   いたずらもの  
粗暴で良くないことをする者。 村の取り締まりの対象者。
 
   鋳立   いたて
 
溶かした金属を型に流し込んで製品を作ること。
 
   居谷   いだに
門出村の字であったが明治22年に、市制町村制施行により門出村から分離し石黒村に合併し石黒村居谷となり、昭和30年高柳町居谷となる。 
 
  板橋   いたばし
 板を使って作られた橋・木の橋  対語→土橋
 
   板畑  いたばたけ
 門出村の字であったが明治22年に、市制町村制施行により門出村から分離し石黒村に合併し石黒村板畑となり、昭和30年高柳町板畑となる。
 
   板屋  いたや  
板葺きの屋根の家。板葺屋。
筆者の育った石黒ではほとんどのすべてが茅葺屋であったので、板葺きの家は珍しかった。下石黒では50軒のうち板葺屋は3軒しかなかった。子どもの頃には、板葺の建物は学校、役場、農協、駐在所など公共の建物の造りという固定観念のようなものがあったように思う。上石黒に「板屋旅館」という宿屋があった。
 
   板山村  いたやまむら  
 
※掲載準備中
 
   一圓  いちえん  
あたり全体。 全体。  
一円
 
   逸々  
いちいち
 
→ 一々。
 
   一貫文  いっかんもん

 金1両=銀60匁=銭4貫(4000文)

金1分=銭1000文=1貫 

※現在の貨幣価値に換算して25,000円程度か。

 
   一期 いちご   一生涯  
   一丈・壱丈 いちじょう   
10尺→約3m。
 
    一条  いちじょう  
 ひとすじ。一本。
 
   市立  いちだち  

市が立つこと。  市場をひらくこと。
 
   市振村  いちぶりむら  
※掲載準備中
 
   一里塚  いちりづか  
街道の両側に一里(約4㎞)ごとに土を盛りその上に1本ないし数本の樹木を植えて里程の目印とした。植えられた樹は、エノキケヤキサイカチヒノキなどであった。
 
   五日市大池  いつかいちおおいけ  西山町五日市にある農業用水ため池。
明治以前に作られた農業用水池で広さは約8ha余で柏崎刈羽では最も広く、満水時の貯水量は12万tに及ぶ。
 
   一向宗 いっこうしゅう   
門徒衆。  浄土真宗の別称。
 
   一作引  いっさくびき
 災害などで作物が出来なかった田畑の年貢を、その年に限り免除すること。
 
   一紙目録   いっしもくろく
  年貢を納めた後、小手形と引き換えに発給される年貢受納書。 
 
年貢皆済目録
 一紙目録-石黒村古文書
    一宿  いっしゅく  
 一泊すること。 一晩。 一夜。 一つの宿場。
 
   一洗  いっせん  
きれいに洗い流すこと。すっかり取り除くこと。一掃。
 
   一村限   いっそんぎり  
一村ごと。
 
   一町   いっちょう
〇広さ
1町→10反(100a)  1反→10畝(10a)  1畝→30歩  1歩→1坪  

〇長さ
  1町→60間(およそ110m) 1間→6尺(およそ180㎝)  1里→36町(およそ4km)
 
   一統  いっとう  
全体、一同、一家。
 
  一筆限り   いっぴつぎり
 検地帳など田、畑、屋敷など一区画の地番、地図、地主など詳しく一つ書きに記すこと。
読み方例→一村限→いっそんぎり
 
   一筆限地引帳   いっぴつかぎりじびきちょう  
明治6年以降の地租改正のさいにつくられた調査簿の名称。
 
   一筆帳  いっぴつちょう
 一筆限り→一筆限地引帳であろう。
 
    一儀  いちぎ
 一つの事柄。一件。 ※「~及ぶ」→性交の意味もある。 
 
   市野新田  いちのしんでん
  ※掲載準備中
 
   市ノ宮  いちのみや
 ※掲載準備中
 
   一分   いちぶ  
1寸の10分の1→約3mm。  1分金の略。   一歩とも書く。
 
   一類  いちるい  
親類。 同族。  仲間。
 
   一揆  いっき  
 
本来は「揆(方法・やり方)を一にすること」で「道をおなじゅうする」というほどの意味であったが、その後『一致団結する」という意味に変わり、南北朝時代には主として「国人₋土着武士」の地域的な結合、つまり国人一揆を指すようになった。
 他方、このころ畿内・近国農村では名主を中心とする団結が成長し、不法な代官の罷免や年貢減免を領主に要求する強訴が見られるようになる。
 さらにこれが発展し正長元年(1428)以来、山城・大和・近江など各地の土一揆は、国人が指導組織した在村の名主・地侍を中心とする農民に牢人武士、浮浪者などが加わったものであった。これらの土一揆を指導しつつ次第らに農民にたいする支配力を高めた南山城の国人は文明17年(1485)に国一揆を結成、ほぼ8年間南山城を支配した。それが破れて以来、土一揆は急速に衰えた。
 それに反して一向一揆はいよいよ盛んになった。加賀では長享2年(1488)守護富樫正親を倒し、以後ほぼ一世紀にわたり一国を支配、その他、北陸・東海・近畿の各国で勢力をふるった。もともと一向一揆は本願寺を頂点とする門徒の一揆であるが、門徒だけの信仰で結ばれたものではなく、やはり農民を踏み台にした国人の一揆であったと認められている。
 しかし、土一揆・国人一揆・一向一揆の関係については未だ解明されていない。
 いうまでもなく、信長の全国統一に最も頑強に抵抗したのは一向一揆であり信長はそれを徹底的に弾圧解体することでいわゆる兵農分離への道を開いた。豊臣秀吉の刀狩りも土一揆、一向一揆の根絶を目指したものであった。こうして全国統一後に封建支配(幕藩体制)が確立するとそれに対抗して起こったのが百姓一揆である。百姓一揆は全国各地にわたって起こった点で土一揆とは異なる。
 百姓一揆の大部分は享保の改革以前以後に起こり、特に寛政の改革・天保の改革直前、または幕府滅亡前後に著しい。初めは名主などの村役人が村民に代わって年貢減免、検地中止を越訴するのがするものが多かった。
 しかし、次第に一般農民を主力とする大規模な強訴に発展し、その要求も幕府・諸藩と結ぶ特権商人の商業利益の独占や専売制度の反対などを加え複雑化した。さらに後には地主・富農・高利貸しに対する小作人を中心とする小規模の、いわゆる村方騒動が数多く起こるようになった。
 こうして百姓一揆は幕藩体制の動揺・崩壊の原動力であったと考えられる。
   
(参考文献-国史大辞典)
 
   一向一揆 いっこういっき  
 一向一揆は、戦国時代をとおして
真宗本願寺教団によって組織された武士門徒・農民門徒・坊主による反体制運動といえよう。
 年代的には応仁の乱後の戦国乱世の始まりから織田信長の時代までおよそ1世紀にわたる。
 舞台は北陸・近畿・東海などの先進地域からその後、中国地方まで広がった。そして組織の力が強大となると村々の支配者に反抗する行動が見られるようになる。一方の村の支配者である武士はそれを逆手にとって戦国大名との戦いに利用しようとするものもあらわれた。
 これが文明6年の加賀の一向一揆に始まる戦国大名に対する戦いであった。とくに長享2年の加賀の一揆では武士門徒と有力坊主の合議制支配の国が誕生したのであった。いわゆる「百姓の持ちたる国」と呼ばれる、本願寺門徒が実質的な支配権をもつ共和体制ともいえる時代で、約1世紀、後に信長によって占領されるまで続いたのであった。
 ここまで、布教と組織ができたのは蓮如による
本願寺教団の講の組織であった。この組織が団結して一たび戦いとなると強大な力を発揮し、三河では徳川家康が命運をかけるほどの激戦となり、後には信長を11年にわたって苦しめるほどの力を発揮したしたのであった。
 しかし、教団のその強大なエネルギーが
社会の政治経済のルールや価値観などに抵抗する反体制運動になることは蓮如の望むところではなかった。当時、こうした教団の傾向を制止する御文が多くだされている。具体的には「守護・地頭を軽視するな」「年貢・公事を完納せよ」「他宗教を否定するな」等々の内容のものであった。
 だが、信長と石山本願寺の戦いでは当時の法主顕如は「信長との戦いに命を投げ出せ、これこそ念仏者の理想的な姿だ」と一揆をあおるような諭告を頻発している。ついに本願寺の軒に戦火が移るに至って、本願寺教団は法主ぐるみの一揆に立ち上がったのであった。
 ところで、
門徒を反体制の一揆にかりたてた強大なエネルギーの源は何であったか。それは法主の説教の中にも、また親鸞の教説、経典の教義の中にも見られない。
 もし今強いて真宗の教説との関連を求めるならば
同朋・同行の人間平等の精神ではなかろうか。弥陀の前においては念仏者は総て平等であるという信念が戦国時代の下剋上の風潮と相まって門徒の反体制の言動となって現れたものと見ることができよう。
  (参考文献-国史大辞典)
 
   一札   いっさつ  
一通の文書・証文・手形。
 
   一紙  いっし  
一枚の文書。     
一紙目録→※古文書石黒村一紙目録
 
  一銭 
 いっせん
 
一文銭のこと。
 
   一村限  いっそんぎり  
一村ごと。
 
     五つ  いつつ   
時刻の呼び方では、午後と午前の8時頃。
 
   一体  いったい  
そもそも。総じて。全体。
 
   一統   いっとう  
一同。 一家。  同様。
 
   一筆限   いっぴつぎり
検地帳などに田畑・屋敷を一区画ごとの地番・地目・地種・地主など詳しく書き記すこと。
一筆限名寄帳
明治9年 一筆限名寄帳-地租改正にかかわる文書 
    一筆啓上  いっぴつけいじょう    
男子が手紙の書き出しにに用いた言葉。
 
    厭う  いとう   
嫌がる。   きらう。   出家する。
 
   和泉国  いずみのくに  現在の大阪府南西部。  
   出雲国  いずものくに  現在の島根県東部。  
   糸車  いとぐるま  
繭や綿や青苧などから糸をとり撚り合わせるための車。 
→石黒の民具写真
 
   暇・遑 いとま   休暇。  離縁。    暇状(いとまじょう)→離縁状  
   因幡国 いなば  現在の鳥取県東部。   
   稲扱 いねこき 
脱穀。  稲の穂から籾をとること。    ※江戸時代前期は「コキバシ-2~3本の棒で穂をはさむようにして手前にひいて籾をとる」後期はセンバが使われた。  
 石黒の民具→センバ  
 
    違背  いはい
  命令や規則を守らないで背くこと。
 
   違犯   いはん・いぼん  
命令や規則、協定、契約などを守らないこと。 
 
   違変・違反   いはん  
契約や規則に違反すること。  背いて拒否すること。
 
   今町  いままち  
※掲載準備中
 
   移民  いみん
他郷、他国へ移り住むこと。 
 
   居村   いむら  
もとから自分が住んでいる村。   
対語→出村-でむら
 
   鋳物師 いもじ・いものし  
鋳物を造る職人。日本では平安時代から全国に存在、官職の名前としても使われた。
 
※石黒では筆者が子どもの頃(1950代)には鍋釜の修理に村々を廻る職人を「えもじ」と呼んでいた。
 
   居屋敷  いやしき
住居している屋敷。
 
 
   弥増  いやまし  
いよいよ。  ますます。   たしかに。 
 
   伊豫国  いよのくに  現在の愛媛県。  
   弥・愈  いよいよ  
ますます。 いっそう。  その上。    弥以→いよいよもって 
 文例→書簡-石黒村庄屋宛て
   以来・己来   いらい
以後。 今後。 それより後。     
  
 
   違乱・異乱  いらん  
取り決めに違反すること。  不服・苦情をいう。
 
   入会  いりあい  
一定地域内の住民が、山林や原野などを共同で利用し、燃料の薪や牛馬の飼料、焼き畑などによる収益を得ること。→入会地
 
   入会普請  いりあいふしん  
複数の村が共同で行う普請。両村にまたがる橋の普請など。
 
   入上米  いりあげまい  
年貢、小作米の搬入、または貯蔵中に生じがちな欠損を補充するため、小作人から余分に納めさせる米のこと。3斗5升入り1俵につき2升程度を普通とした。  
欠米 込米
 
    入会地  いりあいち   
入会の場所→石黒では各集落にあり「入山→いりやま」と呼ばれた。  →
入会野   入会山

※ 参考資料→石黒の歴史-門出村と寄合村の入山争議
 
   入込  いりごみ  
許可を得て他村の山に入り芝や草を採取すること。
 
   入作  いりさく  
村に他村の者が入って来て耕作すること。
 
  入立米   いりたてまい  
年貢と諸掛と小作料を含むもの    
100歩(約100坪)あたの米4斗(1俵)ほどが普通であった。したがって1反歩では米1石2斗(3俵)となる。     入立米帳  
 ○高反別預り支配小作証文の事
  入地   いりち  
大名や家臣の知行の全部もしくは一部が没収されて幕府や大名の直轄地となること。
 
   入樋  いりひ
水を引き込むための水門に取り付けた木や竹で作った水路 
※石黒では「とよ」と呼んだ。  
 
   入目  いりめ  
経費。  費用。   出費。
 
   入和田村  いりわだむら  
明治2年勝山村大字となる。明治34年からは刈羽村の大字。
 
  入置申  いれおきもうす   
約束、保証のために差し出しますの意味。  
~一札の事
 
   入札 いれふだ   
現在の入札の意味。  村役人の選挙。  犯人摘発のための投票。
 
    いろ・しき   
品物。     
 
   色高  いろだか  
青苧(あおそ)高・(こうぞ)高・高、そのたや茶などの穀物野菜以外の作物に課せられた小物成の総称。
 
   色取検見   いろどりけみ  
 上田・中田・下田の区別なく1筆ごとに実際の収穫量を査定する検見のやり方。
 
   異論 いろん 
他と異なった意見。      
違論
 
   石見国  いわみのくに  現在の島根県西部。  
   隠居   いんきょ  
父親が若くして結婚し、父親が40歳前後で長男が立派に成人した様な場合など、父親が他の子どもを連れて分家することを「隠居」と呼んだ。今でも石黒の「隠居」という屋号の由緒はこのいきさつに依るものと思われる。この場合は財産は等分するが家の格は長男の方に残るのが慣例であった(参考文献-高柳町史)→集落図‐上石黒、居谷
 
  隠居料   いんきょりょう  
隠居する者の生活費として分けられる財産、または生活費。
 
   音信  いんしん  
音信物の略。 賄賂。  便りをする。
 
   員数  いんずう・いんすう  
人数や物の数。  金銭の額。  
 
   印判  いんばん  
印鑑。  印形
 
   陰暦  いんれき  
陰暦(旧暦)は、正確には太陽太陰暦のこと。
陰暦は月の満ち欠けをもとに日にちを決め、太陽の動きをもとに年の境を決めその差は閏年を設けて調節する。
 
   音物  いんもつ・いんぶつ  
贈り物または賄賂。    
音信物(いんしんもの)  
 
   上様   うえさま  
天皇や将軍または領主など身分の高い者の尊称。
 
   上田  うえだ  
長野県東部にある市。東信地方および上小(じょうしょう)地域の中心都市で、長野県内では長野市、松本市に次ぐ3番目の規模の都市である。日本国内で現在53都市が指定されている国際会議観光都市に指定されている。
 千曲川右岸の旧市街は、戦国時代に真田氏が築いた上田城を中心とする城下町。千曲川左岸の塩田は鎌倉時代の執権北条氏の一族塩田北条氏の所領で、安楽寺、北向観音などの多くの文化遺産が残されており「信州の鎌倉」の異称で呼ばれている
 
参考文献-Wikipedia
 
   鵜川村   うかわむら
 明治34~昭和31年の刈羽郡の自治体名。女谷村・折居村が合併して成立。女谷村の4字に折居を加えた5大字を編成。役場は女谷に設置。
 昭和31年、黒姫村の一部となり、当村の5大字は黒姫村の大字に継承される。
 
※HP「鵜川だより」

 
   浮田  うきた  
泥の深い田。
 
浮役   うきやく  
小物成のうち毎年決まって納めるもの以外の雑税の総称。

  
浮所務-うきしょむ 
 
   請合・承合 
 うけあい  
 保証すること。 引き受けること。  請合証文
 
   受印・請印  うけいん
承諾の印。  保証の印。
 
 
  請作   うけさく     
地主から田を借り受けて耕作すること。
 
   受書・請書
 うけしょ  
命令や依頼にたいして承知した旨をあらわす書類。
 
   受状   うけじょう  
受け人が雇用主や家主などに渡す身分引き受け書。
訴訟で原告・被告が奉行所に差し出す誓約書        
請証文
 
    承届  うけとどけ   
承知すること、聞き届けること。
 
  請人   うけにん  
保証人のこと。   
請人手形
 
   請払  うけはらい
 金銭の受け取りと支払い。
 
   請免  うけめん
 稲を植え付ける前にその年の租税を決めて村に年貢を納めさせる定免の一つ。
 
  請山   うけやま  
江戸時代に、領主の持つ山林で、一定条件のもと に家臣や村または個人に貸与されたもの。または、他村の持つ山林の草木をとる ことを許されて、毎年小作料を納めるもの。また、その山。→
宛山(あてやま)請負山。※石黒では門出との請け山争議が200年以上も続いた
 
  羽後    うご  明治元年(1868)に出羽国を二分して成立する。  
   氏神  うじがみ   
同じ地域の者が共同で祭るその土地の守り神。
 初めのうちは、家の守護神として祭られたものが、後に分家または隷属の関係で本家の神を共同で祭り、同族全体の守護神となり更に地域の産土神に発展したものといえる。
 また、祭りは古来の農耕儀礼を継承するものであり春秋に行われるのが普通である。 
※参考資料→石黒の神社
 
  薄萌黄    うすもえぎ  
画像資料
 
   宇内  うだい
天下。世界。
 
 
   打毀(壊)  うちこわし
 凶作などによる飢餓や物価高騰の時に、百姓・町人が豪農や高利貸しなどの家屋家財を破壊すること。
 特に天明7年、続いた飢饉によって起こった打ち壊しは江戸・大阪をはじめ長崎・博多・下関・広島・尼崎・伏見・淀・堺・奈良・郡山・和歌山・福井・駿府・甲州・岩槻と全国の主要都市で発生し近世最高
の34件が発生している。
特に江戸での打ちこわしは町奉行による混乱収拾が不可能な状態であったと伝えられている。
 また、その打ち壊しの激しさは、同じく、長年の凶作の中におこった天保7年の三河加茂の打ち壊しでは「
酒蔵をはじめ居家、戸障子、屏風、膳、椀、小道具の果てまで打ち壊した」と伝えられる。
   (参考文献-国史大辞典) 
 
  打出   うちだし  
改めて検地をした結果、以前よりも石高が増えること。   
 内出
 
   内引  うちびき  その内の幾分かを差し引くこと。村の総石数に含まれているが収穫のない土地については差し引くこと。郷蔵屋敷は郷蔵屋敷引きとして年々村高から内引きとなる。  
   内見帳  うちみちょう・ないけんちょう  
内検見の結果を書き代官所へ提出する帳簿。
 
   打寄合 うちよりあい 
 一家や親族、または五人組や村中が寄り集まって相談すること。
 
   内割   うちわり  
村への年貢負担額を割り付け状をもとに個々に割り当てること。
 
  有徳   うとく  人格の優れた人。  富裕の人。     有徳者-うとくもの   
   産神  うぶがみ・うぶすながみ
出産にあたり妊婦や乳児を守る神様。 氏神。 鎮守の神。 
 
   馬大豆  うまだいず
 古語字典・国語大辞典には見当たらない。筆者が子どものころ(1945頃)に「馬キビ‹トウモロコシ›」と呼ぶ粒の大きなトウモロコシがあり豊産であったが食味は悪かった。しかし、この類の大豆があったという話は聞いたことはない。あるいは、「馬の餌用の大豆」の意味か不明である。今後聞き取りを続けたい。
 
   馬草  うまくさ・まぐさ  
牛馬の飼料となる草。  肥料(堆肥)用の草。   
 
   馬沓  うまくつ  
馬のわらじ。  馬のひずめを守るためのワラグツ。
 
   馬指  うまさし  
宿駅で人馬を用立て、指示する宿駅下役人。
 
   馬継・馬次  うまつぎ
宿駅で馬を乗り継ぐこと。  馬による荷物の継送り。  
馬継宿
 
 
 
   午の刻  うまのこく  
明治の改暦まで使われた時法で、現在の昼12時前後2時間頃を指す語。12時ちょうどを「正午」という
 
  馬の筋のばし うまのすじのばし 
 いわゆる「こしらえ(拵え)馬」の中の一つで、馬の腹などの筋を伸ばして見た目をよくすることであり、生類憐みの令では馬虐待の理由で禁止されている。
 馬の筋のばしは古くからあったものではなく当時の流行の一つとの説もある。筋のばしの目的は、尻と足の基部のあたりの形を美しくみせるためになされたものとの説が見られる。
 また、暴れ馬の脚のアキレスけんを切る事、また
当時の馬を乗り心地よくするために馬の筋繊維に切れ込みを入れるなどの説もある。
などの説もあるが何れの説も確証はない。(現在のところ定説はないようだ)
 「拵え馬」としては、その他、馬のたて髪を切りそろえたり、尻尾を切りそろえて焼き鏝(こて)で固めるなどして形を整えることが行われたと伝えられる。これらも5代将軍綱吉の時代は禁止されたが6代将軍家宣の時代には復活した。
 
   馬踏  うまふみ
河川の堤防を強化するために堤の上に作られた道路。 
 
   馬屋   うまや  馬を飼うための家屋の中の一郭。馬小屋。

 ※石黒の昔の暮らし-馬屋
 
   馬役 うまやく 
宿場の伝馬役で馬や馬士(まご)を提供する夫役。
 
 
   海高 うみだか   
漁業の収穫を石高であらわしたもの。
 
  裏街道  うらかいどう   
公式な街道以外の往来。
 
   裏書 うらがき   
表面に書かれた事項を承認・保証するために裏に書かれた文。
 
裏付
 
   浦川原村  うらがわらむらむら  
  かつて新潟県の南西に位置していた村。東頸城郡に属していたが、2005年1月1日に上越市に編入し、村域は 地域自治区。
 1916年に直江津からの頸城鉄道の終着駅が置かれ、東頸城郡の玄関口、経済の中心地として栄えた。駅名は字名をとって浦川原とされ、1955年に安塚村の一部と下保倉村が合体した際に新村名に採用された。1971年に頸城鉄道は廃止されたが、1997年北越急行ほくほく線が完成し、虫川大杉駅がある。
 石黒から高田に行くときには浦川原まで歩いて頚城鉄道で直江津経由で利用された。
 
    浦佐宿  うらさしゅく   
 六日町盆地を流れる魚野川の西側に位置し、魚沼丘陵の山麓に町村状に分布している。
 魚野川の河港で栄え、現在で商業と兼業農家が主体である。一部民家は氾濫原に建てられている。また浦佐宿は三国街道起点高崎から26番目、終点寺泊から11前の宿場でもある。会津藩の陣屋があった。
 真言宗豊山派の寺院、吉祥山普光寺があり、毎年3月3日の大祭には裸押し合い祭り(国の無形民俗文化財)が行われや雪深い魚沼の春が告げられる。
 対岸(東側)には広大な八色原扇状地が広がる。昭和37年に東、薮神、大崎が合併し大和村から大和町となった。
 参考文献-県民百科事典・ウェキペディア
 
   浦田  うらた  
渋海川上流域。浦田口に対して、当地方一帯を浦田と呼んだとの由来がある。明治6年から22年の村名。はじめは頚城郡、明治12年からは東頸城郡の内、東浦田村、西浦田村、北浦田村、中立山新田、無民戸の藤原新田・本山新田・南浦田新田が合併して成立。明治8年に阿弥陀仏堂を借りて室野校付属分校が開校。のちに大厳寺を借館、同17年に校舎新築、同22年浦田村の大字となる。
 
   裏判  うらはん  
「裏書」と同じく表書きの内容を保証する署名・花押や印。  
 
   浦触  うらぶれ  
海岸地域で起こった重要な事件を浦々に伝えるための触れ。
 
   胡乱  うろん

疑わしい事。  怪しげなこと。 不審なこと。  乱雑なこと。
 
 
   売掛  うりかけ
代金後払いで商品を売ること又はその代金。 
 
   閏年  うるうどし  
太陽暦で1年が366日ある年、2月29日(閏日)のある年のこと。
〇明治維新まで日本で使われていた太陰太陽暦には閏年には13月あった。
※西暦が400で割り切れる年。
※明治5年のの改暦布告 
   漆島村   うるしじまむら
 掲載準備中
 
   漆高  うるしだか  
漆(ウルシ)の木にかけられた小物成-雑年貢の一つ
 
   上借  うわがり  
一度借りた人から再び借りること。
 
  上荷船    うわにぶね  
大阪に運び込まれた物産を近郷へ運んだ小型船。
 
   上乗  うわのり  
積荷と共に廻船に乗って荷主の代わりに荷物を管理する責任者。
 
   運上   うんじょう
小物成のひとつで、商・工・漁猟・運送の業者に課した雑税のこと。 
運上金 運上銀      鮮魚御運上柏崎町御案内帳
 
 
    荏 (荏胡麻)   え (えごま)   
エゴマ(荏胡麻)のこと。性質はシソと類似する。葉腋及び茎の頂部から花穂を伸ばし、多数の白い小花をつける。果実は成熟すると風など少しの刺激で容易に脱落する。東南アジア原産。
 日本では古くから栽培された。石黒でも作物として栽培されたことが古文書から分かる。右欄の「門出村御案内帳」には、栽培作物の列挙で蕎麦や牛蒡や里芋より前に記されている。
 荏は果実を搾り油を取って食用や灯用に使われた。また、乾燥性が優れているため雨傘、提灯、油紙、雨合羽の塗料としても利用された。さらに、搾りかすは肥料や家畜の飼料とされた。そのた果実は小鳥の餌としても用いられた。種実の含油量は40~50%といわれる。
 野生化したものが各地で見られるようだが、石黒や市街地周辺では出会ったことはない。1981版の「柏崎の植物」にも見当たらない。「栃尾の植物」には一部の地域に見られる植物として掲載されている。
門出村御案内帳
      えい  
永楽銭の略→
永銭-えいせん  畑年貢などに用いられた銭貨の呼称。→ 永高・永取

 
   永銭勘定  えいせんかんじょう  
小判1両→永1貫文 1分→永250文 1朱→62文5分

四進法を十進法に換算すること←永銭勘定。
江戸時代から明治初めまで行なわれた特殊計算法。
金1両→永1貫文→銀60匁を規準とするもので、金1分は永250文、銀12匁は永200文というように、金貨、銀貨、銅鉄銭を交じえての計算を簡略化したもの。永勘定とも呼ぶ。
 
   永荒れ  えいあれ  
自然災害で田畑や屋敷が復旧できないほどに損壊すること。
永荒地  永荒場  永川成 
 
    永定免 えいじょうめん    
永久的な定免のこと。  
定免
 
   永世 えいせい   
永久。将来いつまでも。
 
   永銭  えいせん  永楽銭のこと。中国の明朝第3代皇帝の永楽帝の時代に銅製銭貨。日本では室町時代に日明貿易で大量に輸入され、江戸時代初頭まで流通し永楽銭、永銭、永などと呼ばれた。  
   永銭勘定   えいせんかんじょう  
小判1両=永1貫文=永1000文 1分=永250文 1朱=62文5分
四進法を十進法に換算することを永銭勘定と呼び、主に関東方面で畑方年貢換算に使われた。
※年貢割付では、米2石5斗→永1貫文→※2石5斗の割であった(関東)
※江戸時代から明治初年まで行なわれた特別な計算法。金1両=永1貫文=銀60匁を規準とするもので、金1分は永250文、銀12匁は永200文というように、金貨、銀貨、銅鉄銭を交じえての計算を簡略化したもの。

 
   永代売買  えいだいばいばい  
期間を限らずに永久に売り渡すこと。  
永代売
 
   永代証文  えいだいじょうもん  
期限を限らず代々にわたって効力をもつ証書。
 
   永納  えいのう  
年貢を金銭で代納すること。→
※永は永銭の意味
 
   永引   えいびき  
荒れた田畑が復旧不可能の場合、その土地の年貢を永久に免除すること。
 
   駅・驛
 えき
近世では、宿・宿駅・宿場のこと。
 
 
   依怙   えこ  
一方だけをひいきにすること。不公平。依怙贔屓。
 
   江敷引  えしきひけ  
手元の古文書字典にはみらなれないが、江桁敷引(エゲタシキヒケ)、土手敷引(どてしきひけ)等が見られる。このことから用水の敷地の年貢減免措置のことであろう。
 
 堰敷引-せきしきひけ  土手敷引-どてしきひけ  溝敷引-みぞしきひけ  
 寛政元年より文化5年迄御割付写□本 石黒村
   江筋  えすじ
 用水路のこと。
※証文の御事→宮川堰の門出との取り決め 
   穢多 えた   
身分制度のもとで士農工商の下に位置した身分の呼び名。
※その下が非人。
 
   枝郷  えだごう  
一つの村から分かれてつくられた村→枝村  ※母体となった村を
親村ともいう。   
 
   越後国  えちごのくに  
 大化の改新(645)の以前には、中央より遠く離れた越後の経営は、地方の豪族に任されていた。
 しかし、大化の改新以降は中央政府の手に移り、大化3年(647)に蝦夷の叛乱を防ぐための柵として、渟足柵(ぬたりさく)が翌4年には、磐舟柵(いわふねさく)が作られた。
そして越(高志))の農民が柵戸(城柵を護るためにその中や周辺に配置された人々)として送り込まれた。
 当時は阿賀野川から北方の制圧が朝廷の重要課題であった。だが越国守であった阿部比羅夫(あべのひらふ)が
白村江(はくそんこう)の戦い(下※参照)で敗れると北境拓殖は一頓挫をきたした。
※663年、朝鮮半島南西部の白村江(はくすきのえ)の河口で行われた海戦のこと。唐・新羅に攻略された百済を救援するため、日本は662〜663年に2万7000人あまりの兵を送ったが、唐・新羅連合軍に敗れた。この結果、4世紀以来行われていた大和政権の朝鮮半島進出の足場は失われた。

 
このあと,中大兄皇子(後の天智天皇)等は唐・新羅の侵攻おそれて,北九州に防人をおき,水城を築くなど、海辺の防備をはかることに専念した。
 そして、ようやく天武朝になって東北経営は再び軌道に乗り始める。持統天皇3年(685)から同6年までの間に、越は、
越前、越中、越後の3カ国に分かれる。この越後の国は沼垂、つまり信濃川と阿賀野川の河口から北方の夷境で、磐舟柵に居たらしい越後城司が支配した。
 文武天皇の大宝2年(702)
3月越中国の四郡を分けて越後国に入れた。この4郡は、頸城・魚沼・古志蒲原郡で、古志郡にはのちの三島(みしま)郡が含まれている。
 和銅元年(708)には出羽郡を設置し、翌2年の越後蝦夷の討伐を経て同5年出羽郡を昇格させて出羽国をつくり越後の境域はようやく定まった。天平15年(743)佐渡郡を併合したが天平勝宝4年(752)に元に戻した。
 「延喜式」「和名類聚抄」では頸城・魚沼・三島・古志・蒲原・沼垂・石(磐)船の7郡を記している。しかし、中世では沼垂郡が蒲原郡に入り、三島(みしま)郡は苅羽郡、古志郡は山東(さんとう・西古志)郡と古志(東古志)郡になったとらしく、磐船郡は瀬波(せば)郡とも呼ばれた。 
 そして頸城郡と魚沼郡を上郡(かみごおり)、苅羽・古志・山東・蒲原(阿賀野川以南)の諸郡を中郡、阿賀野川以北(揚北-あがきた)を下郡と呼んだ。近世に入って苅羽を刈羽に定め、山東を三島(さんとう)、瀬波を岩船としたといわれる。
 明治12年(1879)に頸城郡を西・中・東の3郡に、蒲原郡を東、南、中、西、北の5郡(東蒲原郡は福島県の管轄下にあった)に分けた。そして同19年に東蒲原郡が新潟県に編入され、古志・三島・刈羽・岩船と合わせて15郡となった。

 政治支配の面では越後城司威奈(猪名)大村が慶雲3年(706)に越後守となり、平安時代後期になって平維茂(これもち)の流れをくむ城氏が越後守となった。鎌倉幕府によって安田義資が越後守となるが関東御分国として、越後国はやがて北条氏の手に握られる。
 建武中興で
新田義貞に与えられるが、建武2年(1335)足利尊氏の自立によって上杉憲房が上野・越後に攻め入り、その子憲顕が守護となり、ついで犬懸上杉家が守護職を継いだが、やがて血統では山内上杉家が守護に世襲した。
 戦国時代に入ると長尾為景が実権を握り、その子の景虎は関東管領山内上杉家を継いで上杉謙信となるが、その養嗣子景勝のとき、慶長3年(1598)会津に移り、春日山に堀秀治(45万石)が封ぜられ、与力として新発田に溝口秀勝、村上に村上義明、三条に堀直政などが置かれた。
 同12年堀忠俊のときに春日山から福島に移り、15年忠俊改易のあと、徳川家康の子松平忠輝が越後に封ぜられ、19年高田に移った。元和2年(1616)忠輝も領地を没収され、酒井家次がそのあとわうけ、さらに松平忠昌・松平光長と目まぐるしい領主の変遷のあと
越後騒動※(参照-越後騒動)によって天和2年(1681)光長は城地をとりあげられた。
 このような領主の変動は村上領・長岡領にも見られ、この結果越後の雄藩は消滅し、小藩分立の状態を招いた。高田藩領はその後も、稲葉、戸田、松平の諸氏を経て、寛保の初め榊原氏が入封し、明治維新に至った。
 明治元年の越後諸藩は高田に榊原(15万石)、長岡に牧野氏(7万石)、与板に井伊氏(2万石)、村松に掘(3万石)、糸魚川に松平(1万石)、黒川(現在の胎内市黒川)に柳沢(1万石)、三根山(みねやま-現在の西蒲区峰岡)に牧野(1万石)、新発田に溝口(10万石)、村上に内藤(5万石)、椎谷に堀(1万石)の11藩で新潟・水原は幕領、
柏崎は桑名藩預領、塩野は米沢藩預領、小千谷は会津藩預領、東蒲原は会津藩領というふうに天領、私領が交錯していた。 同4年には岩船郡と蒲原郡(東蒲原を除く)に新潟県、頸城・刈羽・魚沼・三島・古志の5郡に柏崎県を設置、同6年に柏崎県を新潟県に合併した。また前述のように東蒲原郡は同19年福島県から新潟県に編入された。しかし、南北に細長い大県であるため、頸城地方を上越、古志・魚沼地方を中越、蒲原・岩船地方を下越と呼ぶ慣習は今も残る。
※近世では、頸城・古志・三島(みしま)・苅羽・魚沼・蒲原・岩船より成る。
※石黒、高柳、柏崎などは、古代→高志・三島。  中世→三島。  近世→苅羽。
(参考文献-国史大辞典他)
 
   越後府  えちごふ
 1868年(慶応4年)および1869年(明治2年)に越後国内の幕府領・旗本領を管轄するために明治政府によって設置された府。管轄地域は時期によって異なるが、現在の新潟県全域に及ぶ。
養老の典は(表題なし) 
   枝村  えだむら
 →枝郷
 越後府発行文書
   越後縮  えちごちぢみ  
 越後上布と小千谷縮の発祥時期や地域が同じため、江戸時代は「越後縮」と呼ばれていた。
 縮布は、撚りが強い糸で織った布を雪で晒すことで、撚りが水分を含んでほどけて布に「しぼ」が出来るのを利用した織物である。糸は植物カラムシの皮から取った青苧を細く裂き糸に撚ったものを使う。 石黒村は天和のころから白布の生産が盛んであった(参考資料)。
 
   越後府  えちごふ
慶応4年(明治元年-1868)に、越後区内の天領を管轄するために置かれた府。
 
   越前国  えちぜんのくに
弘仁14年(823年)3月1日に、現在の石川県南部にあたる加賀郡と江沼郡を割いて加賀国を建てた。これ以後領域に変更はなく、現在の福井県のうち南部 (若狭国)を除く部分を範囲とした
 
   越石 えっこく   
他村に所有する耕地。 江戸時代、領主が家臣の 給人知行割をするさい、不足分を補った方法
 
   越中国  えっちゅうのくに  現在の富山県。  
    越年  えつねん   
新年を迎えること。  年越し。
 
   江戸表  えどおもて  
政治・文化の中心である江戸を、地方からさして いう言葉。
白河表
 
   干支  えと・かんし  一覧表。    干支順位表  
   江戸御廻米 えどおかいまい   
江戸へ輸送される米穀。
  与板御引渡後諸事御用留
   江戸表 えどおもて   
江戸の方。  江戸。
 
   江戸五里四方  えどごりしほう
 日本橋を基準とした東西南北5里の外のことで追放刑の一つ。
江戸十里四方    江戸十里四方御構-えど10りしほうおかまい
 
   江戸詰  えどづめ  
大名が参勤交代で、その家臣とともに江戸に住むこと。
 
   江戸町御奉行所  えどまちおぶぎょうしょ  
江戸町方の行政司法及び警察に係わるすべての事務を扱う役所。
 
   閻魔堂  えんとう 島流しの刑罰。  追放よりも重く死罪より軽い刑。   
   閻魔堂  えんまどう
 閻魔堂は、正式の名前を金砂山円光寺閻魔堂といい、戦国時代の頃までは半田村にあったといわれる。その後、江戸中期に東本町(旧柏崎町の東の木戸外)に移ったものと伝えられている。戦国時代には半田村にあったと伝えられている。
 また、 「えんま市」の起源となった馬市が下町から移ってお堂の境内で開かれるようになったのは、明和年間(1764~1771)の頃からで、およそ70年間ほど続き、その後は節季市の形で受け継がれ今日のえんま市なったといわれる。 お堂は数度の火災で類焼し、現在の土蔵造りの建物は明治29年に、4代目篠田宗吉によって建てられたもの。 平成19年の中越沖地震でも甚大な被害をうけたが修復された。
(筆者が、高校生のころには、境内に隣接して映画館は「柏盛座」があった。「ローマの休日」などが上映された)
 
          植物名のカラムシ。  青苧(アオソ)とも呼んだ縮布の原料。青苧は荷縄をなうときに強化のために使ったりその他、現在のナイロンロ紐のような役目も果たした。どこの家でも、筆者の子ども時代(1945)の頃には一掴みほどは常備しておいた。  
   往々  おうおう  
時々。しばしば。折々。所々。よくあることの意味。
 
    往還  おうかん   
街道。  往来。  行き帰りの道。
 
   往還筋  おうかんすじ
 街道に沿った地域
 
   往古  おうこ
昔。  大昔。    
往古ゟ→おうこより 
 
   奥州  おうしゅう
 奥州(おうしゅう)、陸奥国の別称。 陸奥国と出羽国の両者を統括する機関につけられた例があり、転じて両国の総称に用いる場合もある。この場合、一般的には奥羽を用いる。

 奥州市 - 2006年2月20日に岩手県の沢市・江刺市・胆沢郡前沢町・胆沢町・衣川村の市町村合併によって誕生した市の名称。
(ウェキペディア)
 
  横死    おうし
天災などの災禍により突然に死ぬこと。不慮の死。非業の死。

※善光寺地震→「横死人遺骨納所」の上に築かれた「地震横死塚」が現在も善
光寺境内に見られる。
 
 弘化4年 大地震
   応仁の乱  おうにんのらん
 室町時代の応仁元年(1467年)に発生し、文明9年(1477年)までの約10年間にわたって続いた内乱。
 8代将軍足利義政の継嗣争い等いくつかの要因によって発生し、室町幕府管領の細川勝元と室町幕府侍所所司の山名持豊ら有力守護大名が争い、九州など一部の地方を除く全国に拡大した。乱の影響で幕府や守護大名の衰退が加速したため、いわゆる戦国時代に突入するきっかけとなった。
 とくに、十数年に亘る戦乱によって、主要な戦場となった京都は灰燼と化し、ほぼ全域が壊滅的な被害を受けて荒廃した。
 一般に応仁の乱と呼ばれるが、戦乱期間の大半は文明年間であったため「応仁・文明の乱」とも呼ばれる。
 
  往返   おうへん  
往復すること。
 
  近江国  おうみのくに  現在の滋賀県。  
   青梅縞  おうめじま  
青梅地方(東京都青梅市)で江戸時代から作られた格子や縞柄の綿織物。
藍染めの木綿と梅の幹材で染めた絹の赤茶色の縦縞が美しく、見る角度によってわずかに光沢があり手触りもよいといわれる。江戸時代から幕末ころまで普段着に広く用いられた。
→画像資料
 
   往来手形 おうらいてがた
用事や参詣などで他国に出かける百姓や町人が諸国の番所・関所を通るときの通行許可書。発行者は庶民の場合は村役人や菩提寺。
江戸時代に庶民が旅をするときは身分証明書と通行許可証としてた往来手形を必ず携行した。
往来一札とも呼ぶ。内容は、手形所持者の住所と名前、宗旨名、旅の目的が記されている。また、泊まる場所がなく途方に暮れている場合は宿を提供してもらいたい、病死した場合はその地域の作法によって取り扱いを決めてもらいたいという内容である。
(※武士の場合は藩庁に申請した。また武家の女性は移動について庶民よりも厳しく、女手形が必須であった)   

※その他、往来一札之事  差上申手形之事 往来手形之事 往来証文之事 船往来一札之事 宗門往来手形之事 差上申一札之事、一札 など様々の表題が見られる。
 
往来一札之事


一札


往来一通の事
   往来物  おうらいもの  
 往来百姓往来は、「往来物」と呼ばれるこれらの書物の一つで江戸後期に刊行されたものであるが、著者の名前は不詳といわれている。(国史大辞典によれば1766年に江戸の鱗形屋孫兵衛により上梓されたものが最古のもの)       
 内容は、30頁余にわたって、農機具に始まり、新田開発と検地、水損旱損などの手当、検見・年貢納め、肥料、巡見の際の心得、荷物の貫目、家屋の造作、機織り具、農家の常食、農家の副業、牛馬の種類、名所旧跡の観方、農民としての生活の心得について記されている。
 今日、こうして読んでみると「百姓往来」は、農民の使う言語や文章の教科書であったとともに、身分制社会における被支配者の大多数であった百姓に己の身分を弁えた生き方について説いた書物のようにも思われる。
 実に、こうした往来物の種類は近世を通して寺子屋で独自に作られたものなどを合わせると7000種類に及ぶといわれ、これらの普及が近世における我が国の識字率を世界の中で突出して高めた原動力となったことは明らかであろう。
 ※資料→その他の往来物
 
.ちなみに、私が初めて「百姓往来」に出会ったのは、60年余り前の中学生のころである。生家の土蔵の中の木箱に古文書や明治、大正時代の教科書などが詰めてあったが、その中に百姓往来があった。土蔵の小窓の薄明かりをもとに見たページの上段に描かれた参照の絵も、ぼんやりと記憶に残っている。また、内容は読む気もなかったのだろうが、文字面を眺めて「百姓往来」の「往来」という言葉に一種の違和感を感じたことを憶えている。(その由来を知る先刻までそうであったが・・・)。
 特に貴重な古文書などはなかったと思われるが、これらのすべてを、40年前、離村したときに捨てて来たことが今にして残念に思われて仕方ない。
○追記
 昨日(2012.12.10)に柏崎図書館で所蔵の古文書資料から「百姓往来」を探してもらったところ一点だけあったので見せてもらった。しかし、それは「百性
(※原文のまま)往来全」という題名であるが、内容は一般に見られる「百姓往来」に比べより詳細に記されたものであった。
 いわば、上級向けの内容であり、畑についての箇所には「菜種」に始まり、「麻、苧」から「自然薯」の果てまで70余種の作物の名前が見られる。また、山林の箇所でも「梅、杏子」から始まり「桑の葉」まで30種もある。
 さらに、興味を覚えたのは本の扉に書かれた「百性往来序」の内容であった。
 そこには、
「この書何人の作という事知らざりし、古き反古のうちに得たり、これを読むに農家日用の文字を尽くしぬ、はやく梓(※あずさ-版木)にちりばみ、幼童の便にもなれべしと
思うものしかなり」と書かれていた。
 大意は、「この書の作者は分からないが、反古のなかから見つけた。読んでみると農家日用の文字が網羅されている。早く、版木に彫って子どもの学習のために出版したいことしきりである」というほどのものであろうか。
 また、奥付の部分には「浪□ 本細工所」とある。
 おそらくはこのようにして、重版や異版が次々と世に出たものであろう
 
   大痛  おおいたみ  
旱魃の被害などでの被害の程度  大痛・
中痛
恐れながら書付をもって御注進申し上げ奉り候 
    大肝煎  おおきもいり   
大庄屋のことであり榊原藩時代に大肝煎と改称した。江戸時代における地方役人の一種。
 地方支配は村が単位であり、村には庄屋(肝煎)、または名主と呼ばれる村役人がいて村の事務を行っていた。天領や藩領ではいくつかの村を組み合わせて組を作り、それに大肝煎を置いて組下の村々を総管させた。
 その職務は郡奉行や代官の指揮監督を受け布達命令などを組下の村々へ触れ流し、また村方から代官や郡奉行へ願書や書上帳に奥書を書き取り継ぐこと、更に村の訴訟の調停、川除その他普請など人夫や資材の調達等の業務も負わされ、なかには士格の待遇お帯刀を許されるものもあった。
上条組(高田藩のころ石黒はこの組に属した)・鯖石組など。
(参考文献-新潟県民百科事典)
 〇御用-石黒村庄屋文書


〇元禄14年石黒村切支丹宗門改帳
   大窪村  おおくぼむら
 ※掲載準備中
 ・半鐘注文の事
   大蔵省(明治4年)  おおくらしょう  明治元年旧1月、朝廷に政府運営のための資金調達の機関として、金穀出納所が設置された。名称が何回か変更されて、太政官制が導入された時に会計官と名を改めた。この時期に太政官札が発行された。出納、秩禄、造幣、営繕を管轄する事を目的に、明治2年旧8月、二官六省制になった事を機に、「大蔵省」と改名された。(ウエキペディア)  
   大河内新田  おおこうちしんでん  
※掲載準備中
 
   大御所  おおごしょ  
江戸時代、将軍の父の居所。またはその人の敬称。
 
  大埼村  おおさきむら
 
※掲載準備中
 
   大沢村  おおさわむら
 かつて新潟県刈羽郡にあった村。
 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い刈羽郡大沢村が村制施行し、大沢村が発足。
 1901年(明治34年)11月1日 - 刈羽郡森近村、石曽根村、山室村と合併し、南鯖石村となり消滅。
                       支配と石高
 慶長3-12  堀氏 春日山藩  宝暦10-13   高田藩 
 慶長12-15 堀氏 福島藩 天明4-寛政10    幕府領
慶長15-19  松平氏 福島藩 寛政10-文化12 井伊氏   与板藩
慶長19-元和2 松平氏 高田藩 文化12-文政17    幕府領
 貞享2-元禄14  稲葉氏  高田藩  天保2-幕末    幕府領
 元和2-4  牧野氏 長峰藩      
 寛保2-5   幕府領      

石高は、正保年間250石余。光長時代323石余。元禄年間431石余。天保年間355石余。

(参考資料-ウェキペディア・柏崎市史)
 
   大庄屋  おおしょうや  
代官と庄屋の中間にあって法令の伝達や年貢などの割り付け、訴訟の調停などを行った。
 
   大隅国  おおすみのくに  現在の鹿児島県東部。  
   被為仰付  おおせつけさせられ  命じられ。  命令され。    例-御赦免被為 仰付候様奉願上候  
   被仰渡候  おおせわたされそうろう  仰せ渡された  
  被為仰渡候 おおせわたしなされそうろう   
仰せ渡しになられた
 
   大平村 おおだいらむら    
※掲載準備中
 
   大積り  おおつもり  
おおよその見積もり。概算。
 
   大判  おおばん  
大判とは、広義には16世紀以降の日本において生産された延金の内、楕円形で大型のものをいう。小判が単に「金」と呼ばれるのに対し大判は特に「黄金」と呼ばれた。
 金貨として規格化されたものは、天正16年(1588年)、豊臣秀吉の命で後藤四郎兵衛家が製造したのが始まりとされる。以後時の権力者の命により文久2年(1862年)まで後藤家が製造し続けた。量目(質量)は、万延年間(1860年)以降に製造されたものを除き、京目10両(44匁、約165グラム)と一貫していた計数貨幣であったが、その後は品位(純金含有量)が時代により変化したため秤量貨幣の性質を帯びた。幣価は「金一枚」であり、小判の通貨単位「両」とは異なり、小判との交換比率は純金量を参考に大判相場が決められた。
 ちなみに、小判との交換比率は大判の純金量により時の相場に従ってなされました。ただ、享保10年(1725)に大判1枚につき金7両2分の使用割合とすべし旨と公示しています。
(参考文献-ウィキペディ・他)
 
   大湊村  おおみなとむら   
 椎谷観音岬に近い砂丘地の海岸に位置する村。明治13年から22年の村名。 刈羽郡に属する。十日市村のうち十日市新田と称する日本海に面する集落が分離して生まれる。戸数20余の小村。明治22年に宮川の大字となる。
 昭和20~30年代海岸にて砂鉄採鉱が行われた。

参考文献-角川地名大辞典
 
   岡田村  おかだむら  
 ※掲載準備中
 
   岡野町村  おかのまちむら  
江戸期~明治22年の村名。明治22年に町村制施行に伴い刈羽郡岡野町村が発足し刈羽郡の自治体名となる。明治34年刈羽郡岡田村、高尾村、漆島村、荻ノ島村、門出村、栃ヶ原村、山中村と合併し、高柳村大字岡野町となる。
昭和30年高柳町の大字となる。昭和30年の世帯数298戸、人口1,606人。
平成17年 西山町とともに柏崎市へ編入され、柏崎市高柳町岡野町となる。
 
   尾神村  おがみむら   
 尾神岳の南南西に位置する。江戸期から明治22年までの村名は尾神村.尾上村とも記した。同12年からは中頸城郡に所属。
 同16年東本願寺建用材の巨大木を運搬中に尾神岳中腹より雪崩が発生し27名の犠牲者が出る。※参考資料-ダイモチゾリ
 同21の世帯数及び人口は戸数94、人口635人。昭和30年からは吉川町の大字。

 
    岡村  おかむら   
 ※掲載準備中
 
 
   岡引 おかっぴき   
奉行所の同心が私的に抱えて、罪人の探索にあたった者。
 
     おきて  
公の決まり。取極め。
 御掟條目-明治3年
   沖之口口銭
 おきのくちこうせん

 江戸時代に、諸藩が港津の移出入品に課した関税。
 柏崎の大窪の鋳物原料は大半が輸入に頼り、その原料は西廻り海運が、直江津の今町や出雲崎で陸揚げされたものを更に船便で運んでいた。文政10年(1829)にはすでに柏崎湊でも「沖ノ口運上銭」徴収されていた。
沖ノ口運上銭とは港に積み下ろされる品物に掛ける税金である。
 沖之口口銭   沖の口役銭   沖之口御役銀
 
   隠岐国  おきのくに  現在の島根県隠岐島。  
   荻ノ島村  おぎのしま  
 荻ノ島村(おぎのしまむら)は、かつて新潟県刈羽郡にあった村。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い刈羽郡荻ノ島村が村制施行し、荻ノ島村が発足。
1901年(明治34年)11月1日 - 刈羽郡岡田村、岡野町村、高尾村、漆島村、門出村、栃ヶ原村、山中村と合併し、高柳村となり消滅。
現在は柏崎市高柳の大字。
 
   置籾  おきもみ  
凶作に備えて貯えて置く籾。
 
 奥印 おくいん
文書の内容を保証し承認するための印(普通左側)。
 
   奥書  おくがき  
文書の左側の部分に書かれた記事。本文の内容の保証する文。
 
   御藏米 おくらまい   
各地の幕府米蔵に納められた米。
 
   御藏前入用  おくらまいにゅうよう
 高掛三役(御伝馬宿入用・六尺給米・御藏前入用)といわれた付課税の一つ。 
課税率は、100石につき250文。250文は1分であることから「百石壱分掛け」などと呼ばれた。使途は浅草御蔵前の維持
費。 
   藏前入用  
 卯より辰両歳御年貢皆済目録拝見証文


寛政元年より文化5年迄御割付写□本 石黒村
   送り一札   おくりいっさつ
 
人別送り状のこと。
寺請制度では、毎年1回の調査及び申告によって宗門人別改帳が作成された。これに基づいて寺請証文が発行され、人々が結婚や奉公でその他の理由でほかの土地に移る場合には、移動する者の年齢・性別・所属・宗旨などを記載して村役人の送一札とともに移転先にある新たな檀家寺に送付して移転の手続をとった。移動元から移動先に送る証文を
宗旨送・寺送状と呼び、本人確認後の証明として移転先から移転元に送る証文を引取一札(ひきとりいっさつ)と呼んだ。
 
   送り手形 おくりてがた   
村送り証文や人別送り状のこと。
 例-宗旨送り手形被相渡候
 
   起こし返し  おこしかえし  
地滑りなど災害で荒れた土地を耕地に復旧すること ※幕府の資金貸費、年貢減免の制度があった。 
   
おきかえり おこしかえり
 
   奢ケ間敷  おごりがまし
奢りのような。  奢りみたいな。
 
 
   苧さ・筬  おさ  
 機織りの部品の一つで普通、筬と表記する。筬(おさ・オサ)とは機織りを行う際に、経(たて)糸に通された緯(よこ)糸の目を詰める作業に使用する櫛状の道具のこと。
 筬には、経(たて)糸が絡まないようにすること、経糸の間に通された緯糸を強く織り込むこと、また櫛の歯にあたる筬羽の間に経糸を通すことで織幅を一定に保つこと、といった役割がある。
 明治の頃まで使われた筬には竹製の竹筬(たけおさ)と金属製の金筬(かなおさ・かねおさ)があった。日本では竹製のものが古くから使用されてきた。
 ※石黒で筆者が見た筬はすべて竹製であった。昭和20年代には、村では機織りはされていなかったので、時々、それ(筬)だけを見ると何に使わたものか分からなかった。ただ、その櫛の目よりも細かい精巧な造りに驚いた記憶がある。
 
  御定人馬  おさだめじんば  
宿場で用意しなければならない幕府指定の人足と馬。
 
   納合 おさめあわせ   
年貢の皆済目録で用いる言葉で納入合計額のこと。
 
  長百姓  
おさびゃくしょう
 
近世の村落での主だった百姓のこと。多くは名主・庄屋に次ぐ地位にあった。
 
   押移  
おしうつる
 
時間や考えが移り変わる。
 
   押買  おしかい  
売主との合意がないのに買い取ること。
 
   御直  おじき  
他の人を介さず、貴人が直接かかわること。ごじき。
御直支配
 
   押切印形  おしきりいんぎょう
 継ぎ足した2枚の紙の間に押す印章。   押切印判  押切印
 
   押取  おしとる  
むりやり取ること。
 
   御十夜   おじゅうや
 10月~11月にかけて浄土宗寺院でひろく行われる 念仏会-ねんぶつえ。   
十夜法要  十夜講  十夜念仏
 
  御救夫食  おすくいふじき 
飢餓や災害にあった者を救済するための食料。
 
 
  御巣鷹山   おすだかやま  狩猟用のを繁殖させるために、領主が保護をくわえた山。  
   乍恐  おそれながら 恐縮ですが、の意味で庶民が提出した願書などの表題に多く見られる。   例-乍恐以書付奉申上候   
  御代官陣屋  おだいかんじんや   代官陣屋  
   御臺(台)場  おだいば  
幕末に四国船の攻撃に備えて海岸に造られた砲台。
 
   苧高  おだか
 苧(青苧の原料-カラムシ)にかけられた小物成-雑税
 
   御館の乱  おたてのらん   天正6年(1578)御越後国守護代の上杉謙信が病死する。謙信には実子がなく、後継者も決めていなかったため、4人の養子のうち、上杉景勝(実父は長尾政景)と上杉景虎(実父は北条氏康)が後継を巡って起きた内乱。
 景勝は、謙信の死後すぐに春日山城の本丸を占領し、金蔵に保管されていた3万両を手中にして景虎との戦が始まったが、出遅れ劣勢となった上杉景虎は城から脱出し、前の関東管領上杉憲政の館である「御館」に立て篭もった。内乱の名「御館の乱」の由来である。
 戦いは長期化して越後を二分するまでに発展した。
 養子には刈羽郡の上条城の上杉義春(実父は畠山義隆)は景勝に味方している。その他、赤田城主斎藤朝信、安田城主安田顕元、刈羽郡佐橋荘領主北条高定なども景勝側についた。
 上杉景虎は、実家の相模国の北条家と同盟を結んでいた甲斐の武田家の援軍を招くが、上杉景勝は金1万2千両と上野国の一部の割譲を条件に武田勝頼との和睦に持ち込み、まずは強敵の武田家の調略に成功した。
 しかし北条家は越後国に入り、坂戸城など上杉景勝の支城を攻撃し次々に占拠するが、慣れない雪のために北条軍の援軍も期待できず、御館は孤立状態となった。
遂に、3月17日、御館は炎上し落城する。その後和議を斡旋するために、上杉憲政が上杉景虎の子、道満丸(人質に出し降伏しようとした)を伴い春日山城へ向かうが、途上上杉景勝方に討たれてしまう。
 御館を落とされた上杉景虎は、実家の相模国へ落ちる途中に立ち寄った越後国鮫ヶ尾城で、城主堀江宗親の謀反にあい自害。これにより乱は集結し、上杉家は上杉景勝が継ぐことになった。
 
   御立山  おたてやま
 材木を保護するため伐採を禁じた山。
 
   御伝馬宿入用 おてんまじゅくにゅうよう   
御藏米入用、六尺給米とともに高掛三役といわれる付加税 幕領にかぎり私領にはない。村高百石につき米6升宛て徴収し五街道の諸費にあてた。 
 ごてんまじゅくいりようとも呼ぶ。
 寛政元年より文化5年迄御割付写□本 石黒村
   越度 おちど   
過失。 あやまち。 罪悪。 罪。   →
「おつど」「おっと」とも読む。
 
   無落目  おちめなく  
もれなく。 わすれずに。
 
   小千谷町  おぢやまち  
※掲載準備中
 
   越訴  おっそ
所定の手続きを経ないで上級官庁へ訴え出ること。違法行為とされた。
 
 
   追って  おって  
のちほど。附け加えて。
 
   御伽  おとぎ
 身分の高い人に仕えて話し相手になること。  夜に添い寝をすること。
 
   長百姓  おとなびゃくしょう  おさびゃくしょう  
   女谷組  おなだにぐみ
女谷村
(石黒村を含む-兼帯庄屋)、清水谷村、折居村、嶺村、市野新田村、谷川新田の刈羽郡の組
女谷組(文書一部) 
 
   女谷村   おなだにむら かつて新潟県刈羽郡にあった村。 明治22年の戸数223戸、人口1,106人。
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い刈羽郡女谷村、市野新田、清水谷村、谷川新田が合併し、女谷村が発足。
1901年(明治34年)11月1日 - 刈羽郡折居村と合併し、鵜川村となり消滅。
昭和31年黒姫村。同43年からは柏崎市の大字。
慶長3-12  堀氏 春日山藩  寛政10-文化12 井伊氏 与板藩
慶長12-15 堀氏 福島藩 文化12-幕末 幕府領
慶長15-19  松平氏 福島藩
慶長19-元和2 松平氏 高田藩
元和4-元和4  稲葉氏  長峰藩
寛永元-天和元  松平氏  高田藩
天和元-貞享2    幕府領      
 村高は「正保国絵図」によれば181余石。「天和高帳」366石余・新田62石余、「天保郷帳」によれば751石余。延宝7年高帳によれば高414余石、番所4か所。頸城・刈羽堺とある。現在も小字名に番屋・元番屋が残っている。天和3年石盛帳には、端村として折居村・清水谷村・石黒村・峰村の記載が見られる。明治元年惣高家数取調写帳(柏崎市図書館)には戸数100とある。
 鵜川上流域に位置する。地名の由来は永正6年に果てた越後守護職上杉房能の奥方綾子をはじめ老幼婦女子を、加納毛利家当主が知行所の山間に潜居させたことによるとの説がある。その折、綾子舞が高原田・下野に伝えられ、文化・天保年間2回目の興行記録がある。現在は宮原の黒姫神社で9月15日の祭礼に上演。
 綾子舞-ビデオ資料
   御成  おなり  
将軍・皇族・五摂家(近衛・九条・一条・二条・鷹司)の人が外出や来着時に用いる尊敬語。
 
   御野立公園  おのだちこうえん  
 柏崎市鯨波にある公園。慶応4年の戊辰鯨波戦争と明治11年明治天皇北陸御巡行の際、御野立所(休憩所)となったことでこの丘陵地が北陸の名勝地となった。「清水窪御野立」とも呼ばれる。石碑のある所に天皇の「玉堂」があり、さらに左手の平地に右大臣岩倉具視らの「随行員棟」がある。
 その後、大正2年に柏崎町早津半次郎が御野立遺跡一帯の土地2,4haを寄附し郡立公園となる。大正11年郡制廃止により柏崎町・鯨波村に下付、両町村の共同管理となる。昭和5年北越新報の県下新八景の投票に入選、一躍世に知られるようになった。
 写真
   苧はた・〔※苧機であろう〕  おばた
苧(カラムシ)から取り出した青苧を糸に紬ぎ縮布を織る仕事。※石黒では昔から縮布の生産は盛んであった。
参考資料→縮集荷覚  参考資料→御献上縮の古文書

参考資料→カラムシ街道市の名前の由来について
 安永2年石黒村指出し明細帳
  御林  おはやし  
幕府や領主が管理保護する林。
 
   御林守  おはやしもり  
幕府直轄林の管理人 落葉かきや下草刈りの代償として落葉銭・下草銭を課した。 対語→百姓林  
 
   御捻  おひねり  
白紙に銭など包んでひねり神仏に供えたもの。

 
     おぶ
着用する。  刀を腰に差す。  例→長脇差を帯し喧嘩口論をこのみ 
 
   御触書  おふれしょ  
幕府・藩主から一般民衆に向けて公布された公文書。
 
     おぼえ
後々のために書き留めておく文書の総称。 →覚書         ※古文書で、この表題の文書は多い。
 
   思召(食) おぼめす   
思う・考えるの尊敬語→思いになる・お考えになる。
 
   御町 おまち・おちょう   
江戸時代、町役人の集会所。町会所 (まちかいしょ) 。
 
   尾町村  おまちむら  
 
※掲載準備中
 ・恐れながら書付を持って嘆願奉り候 明治3年
   御目付  おめつけ
他人の行動を 監督する役割、またはその人。
 
 
   御目見  おめみえ  
謁見  将軍に直接謁見すること、またはその身分。  御目見得
 
  おもむき
様子。事情。 内容。 意味。趣旨。
 
   重立  おもだち  
村の有力者。  中心になる人。   
主立
 ※石黒では昭和半ば頃までは「重立-おもだち」「重立衆」などと一般に使われていた。
 御申渡-文化8
     表(御表)  おもて
 役所向き、政務向き  対語→奥向き

 
江戸表→江戸方面
 考資料-文例
     おもむき  
事情。内容。意味。趣意。 
例-昨日川原表ニ而御意之 皆々存留
 
   慮る  おもんぱかる
周囲の状況などをよくよく考えること。思いめぐらすこと。
 
    親村  おやむら  
村高を分割して新しく村をを作った時、元の村を指す。
 
親郷・元郷・本郷
 
   折居村  おりいむら  
 ※掲載準備中
 
   折紙
おりがみ
 

 古文書の用紙の形状の一つ。 →説明資料
  折本   おりほん  
古文書の用紙の形状の一つ。 →説明資料
 
    卸作   おろしさく  
 江戸時代、小作のことをいう。→請作、下作、掟作ともいう。
 
  卸山・おろし山   おろしやま
 江戸時代、焚き木用低木や刈り草の共同採取する山を持たない村が、広い入会地を持つ村に区域を定めて山手米(山手銭)を払って柴木や草を採取する山のこと。
※石黒村寄合と門出村との山争議-石黒の歴史
 書簡 門出村庄屋より石黒村庄屋宛
   尾張国  おわりのくに  現在の愛知県西部。  
   畢・了・訖  おわんぬ  
終わった。 文章の語尾につけて意味を強調する。
 
   遠国  おんごく  
遠く離れた土地。  遠い辺鄙な土地。
 
   恩沢 おんたく   
恩恵 情け 恵み
 ※御恩沢を以って罷り在り候處
 
   隠田  おんでん  
百姓が隠して耕作した田畑(年貢を払わないで)。
 
   女馬  おんなうま  
昔は農耕馬として飼われていたが、大人しい雌馬がほとんどであった。
 
   女手形  おんなてがた  
女性が関所を通過するときに必要とした通行手形。 
女関所手形
女手形  女切手
 
   御縄  おんなわ  
検地のこと。
 
   御坊  おんぼう  
死体の取り扱いや墓穴掘りなどをした被差別民。
 
   隠密  おんみつ  
主君などの密命を受けて秘かに情報収集などにあたる者。  
 
   陰陽師
おんようじ・おんみょうじ 
 
近世では民間で加持祈祷をした者。
 
          
~か。 ~であるか。  ~であろうか。
 
   我意   がい  
自分一人の考え。自分の思うままにしようとする心持ち。我儘。
 
   買上米  かいあげまい  
幕府や諸藩がや凶作に備えた備蓄のために米市場から買い入れた米。
 
   外夷   がいい  
外国人または外国を卑しめていう言葉。
 
   改易  かいえき
江戸時代においては大名・旗本などの武士から身分を剥奪し所領と城・屋敷を没収すること。 蟄居より重く切腹よりも軽い刑→お家断絶。  
除封 
 
  海関  かいかん  
元の意味は、中国の清朝が海港に設けた税関のこと。 海港の関税。
 
    蓋棺  がいかん   
棺の蓋をすること。  人が死ぬこと。
 
   開基   かいき  
仏寺を創建すること。  宗派を創始すること。また、物事の成り立ち。-町や村の成り立ちについても古文書では使われているようだ。→
「柏崎町開基之儀慥成儀相知不申候
 
   皆金納  かいきんのう  
 年貢のすべてを金納ですること。→金納
 近世では海上輸送の発達や年貢米の商品化が進み物納を基本とした。しかし、高柳村や石黒村、松之山村などは、翌春に年貢米を柏崎や直江津まで運搬することは地理的に大変な労力であったので、次第に金納が多く行われるようにようになった。
※→松之山郷石代御願書控帳

 
   買掛  かいがけ・かいがかり  
代金を後日支払う掛けで品物を買うこと。
 
   買懸ケ銀  かいかけぎん  
代金の未払い金額。
 
   飼草  かいぐさ  
牛馬の餌にする干し草。
 
   廻郡      
 皆済   かいさい・かいせい
 年貢の完納のこと。また商売上では借用金の全額返納のこと。完納とも呼ぶ。 
   皆済目録 かいさいもくろく   
年貢を完納した際に領主から村方に公布される領収證。※村方の手に渡るのは翌年の3~5月。 

 年貢皆済目録・皆済証・皆済証文
 
   開作  かいさく  
荒地・空き地などを切り開いて田畑を作ること。新田を開発すること。
 
   開作夫食米  かいさくふじきまい  
この言葉は開作、つまり新田開発という意味ではなく、通常作を続けるための米という意味で使われることも多いように思われる。
 年季連印形借用申す金子証文の事(居谷)
   開削  
かいさく
 
土地を切り開いて道路や運河を作ること。
 
    開山 かいさん    寺院を建立することまたは、その寺を開いた僧。  
   会所  かいしょ  
近世においては、主として町方において商人組合や 地域の公的な集会所。

 
   会所詰  かいしょづめ  
郡会所のもとに各組大庄屋が年番で郡会所詰を勤める体制などの例もあった。
※会所詰大庄屋衆
 
   回章  かいじょう  複数の人が回覧する文章。返事の書簡のこと。 廻状  
   廻状  かいじょう  
領主が村々や宿場へ年貢や諸役などあるいは法令などを通達するために廻した書状や文書のこと。
※各村の庄屋は書状を写し取り村名の下に捺印して次の村に渡し、最後の村は代官所など発信元に戻した。
二人以上を宛名人とし、回覧にする文書。  
   
廻文   廻章  回章 
参考資料-藤井堰に関する廻文
   改正掛  かいせいがかり
 明治2年11月18日(1869年12月20日)に民部省に設置された部局。明治3年7月10日(1870年8月6日)に大蔵省に移管され、明治4年7月27 日(1871年9月11日)の大蔵省と民部省の再統合の際に廃止。
 
   廻船  かいせん
 近世、沿岸の港を結び人や物資を運んだ大型船。特に大阪-江戸間を運航した菱垣(ひがき)廻船・樽廻船を指した。そのほか北前船などがある。
 
   廻船問屋  かいせんといや  
近世、海運業者と荷送り人との間に立って、貨物運送の周旋をした店。廻漕問屋 船問屋
 
   替銭  かいせん・かえぜに  
為替のこと。元々は中世の為替の一。遠隔地へ送金する時に、替銭屋・割符屋 (さいふや) と呼ばれる商人に現金を払って、為替手形を組ませて送金するもの。いわば、後世の為替と両替の両面の機能をもつ。
かいせん。かえぜに。かわしとも呼ぶ。
 
   廻村  かいそん  
幕府や藩の役人が村を視察してまわること。 菩提寺が村の檀家をまわること。
 
   改替  かいたい  
規則や役割を改めて替えること。
 
   回達・廻達  かいたつ・かいだつ
次々に送り届ける事。廻して知らせる事。 
※ 御用留-廻達(石黒村庄屋田辺家文書)
   開帳   かいちょう  
仏教寺院で本尊をはじめとする仏像を安置する仏堂や厨子の扉を開い一般に拝観できるようにすること。
開扉 (かいひ)
※善光寺御開帳
 弘化4年 大地震
  街道   
かいどう

宿駅間を結ぶ主要な陸路 江戸時代の日本橋を起点とした五街道
→東海道・中山道・日光街道・甲州街道・奥州街道。(官道・国道とも呼んだ)。
 ※海道とも書かれた文書もある。
 
 
   改年  かいどう  年があらたまること。 新年。  ※年賀状によく使われる。  
   会読   かいどく  
生徒相互が集団研究する学習、今日のゼミに近い学習法。
 
   皆納  かいのう  
納めるべき金品をすべて納め終わること。
 
   買納  かいのう
 自村の産米の質が劣るとき、納所で他産米を購入し、貢米を納付すること。
 御布告留-石具村
   甲斐国  かいのくに  現在の山梨県。  
   廻文  かいぶん  
廻状
 
   海防  かいぼう  
敵の攻撃にそなえ自国沿岸を守ること。
 
   開発  かいほつ  
荒地や山林を切り開いて農地にすること。
 
   廻米   かいまい
米穀を生産地から江戸や大阪などの消費地に海路で送ること。幕府領から上がる御城米。 高柳の場合は鯖石川で柏崎港まで出した。
 
   皆無引  かいむひけ  
凶作のため全然米の収穫のない時に、被免願を出して1カ年限り年貢を免除してもらうこと。翌年も続く場合は続皆無といって引き続き免除を受けることが出来た。
 卯御年貢割り付けの事 ₋石具村
   皆免  
かいめん
 
債務・債権を全部帳消しにすること。
   海容  かいよう
寛大な心で過ちを許すこと 手紙文によく使われる用語。
 
 
   抱田地  かかえでんじ  
その村の百姓ではなくて、他よりその村の田地や屋敷を所持する田地。このような出作百姓へも、その年の年貢を割付け、なお諸役割帳なども本村百姓と同じように見届けさせる。田地ではなく屋敷の場合は抱屋敷というが
いわゆる武家が近郷に私的に所有した「抱屋敷」は別の言葉である。抱持ち田地
抱持田地高→
掲載古文書№55
 請作申す田地の水入り証文の事
   加賀国  かがのくに  現在の石川県南部。
 越国が689年-692年(持統天皇3-6年)越前国、越中国、越後国の三国に分立し、718年養老律令制定により能登国が越前国から分離し、その後823年、さらに越前国から江沼郡と加賀郡を割いて加賀国が設置された。
 同823年6月4日に、江沼郡の北部から能美郡、加賀郡の南部から石川郡が分けられた。加賀郡は後に河北郡と呼ばれ、大海川は現在も加賀と能登の両地方の大まかな境界となっている。
 大化の改新の頃までは加賀郡は賀我、加宜、香我、賀加とも言われたとされる。
加賀国は、令制国の中で最後に建てられた国である。その建国への提案は越前守の紀末成による。末成は、加賀郡が国府から遠く往還に不便で、郡司や郷長が不法を働いても民が訴えることができずに逃散し、国司の巡検も難しいといったことを理由にあげた。太政官はこれを受けて弘仁14年 (823年) 2月に、越前の二郡を割いて加賀国を建て、中国にすることを奏した。3月1日に太政官は符を下して加賀国を作り、中国と定めた。
 同年6月4日に、江沼郡の北部を能美郡とし、加賀郡の南部を石川郡とすることを、加賀守を兼任した紀末成が言上し、これによって四郡になった。天長2年(825年)1月10日に、課丁と田の数が多いという理由で、加賀国は上国に変更になった。
 中世には熊坂荘などの荘園が置かれていたが、戦国時代初頭に一向一揆が守護富樫氏を滅ぼして以後100年近くにわたって一揆による支配が続く(加賀一向一揆)。
江戸時代には、加賀藩(金沢藩)、大聖寺藩(加賀藩支藩)、大聖寺新田藩(大聖寺藩支藩) が置かれた。

(ウェキペディア)
 
    懸り物  かかりもの    
幕府領に課せられた高掛り3役などの付加税。
 
   抱屋敷  かかえやしき
江戸の近郊に武家が私的に所有する屋敷地 別荘地。 
 
   花翰・華翰  かかん
 相手の手紙を敬って呼ぶ言葉。
 
   書上帳  かきあげちょう
ある事柄について調べ上申した報告書。
 
 
   書入金  かきいれきん
 田畑や屋敷を担保にして借りた金。  書入証文。
 
   書付 かきつけ   
書き記した文書。  幕府や藩が発給した公文書。
 
   過金  かきん  
払いすぎた金銭
 
   如斯  かくの如し
前述のとおり。  その通り。  
例-此度開発 畑ニ成候ニ付如斯ニ御座候  
 
   学僕  がくぼく  
師の家や塾などに住み込み、雑用を務める かたわら学問をする人。
 
  角間   かくま  
 大島村大字嶺(閉村)の北部、落合川の最上流部にある。
 角間村史には、昭和の初期には30軒近くもあったが高度成長期に入った昭和30年代後半より過疎化が始まったとある。平成3年ころには数戸の老人世帯が夏季のみ生活する現状であった。神社は黒姫神社。
 明治22年23戸、昭和30年26戸で人口160人、同35年26戸で人口134人、同40年25戸で人口107人、同50年7戸で人口18人、同60年5戸で人口7人。田麦寄りの三軒角間は、昭和47年全戸移住した。
 かつては、は旭小学校角間冬季分校があったが昭和48年に閉校した。
旭小学校角間冬季分校は、へき地等級2級、児童数13名(S.34)記録が見られる。

 ※お寺、京徳寺があって、西方寺と連携があり葬式などでは前寺のような役目を果たした。また、角間は北条に比べ地理的に近かったため祥月命日などの法要には角間のお寺に依頼していた。
 
   掛合・懸合  
かけあい
 双方が談判交渉して合意にいたること。  
   嘉慶  かけい
喜び祝うこと。  年賀状慣用語の一つ。
 
 
   欠落  かけおち  
田畑・家屋敷を捨てて逃亡し行方をくらますこと。奉公人が奉公先から逃亡すること。 →家出、出奔。
駆落・駈落・掛落・缼落  欠落者 欠落人-かけおちびと。
 
   懸紙  かけがみ  
文書を包む紙。
 
   懸金  かけきん  
後払いの代金。  定期的に積み立てた金。
 
    暇隙  かげき  
ひま。 いとま。
 
   駆込  かけこみ  
離縁を望む女が縁切り寺に駆け込むこと。  訴願のため寺院に入ること。
 
  賭け勝負   かけしょうぶ  金品を賭けて勝ち負けを争うこと。  
   欠付・駆附  かけつけ  
急いでそこに到着すること。 手助けすること。
 
   掛札  かけふだ
その年の年貢高・租率など書いて高札場にかけて置く札→村人に割り当てる年貢の透明性を図るためのもの。
 
 
   欠米 かけまい・かんまい  
年貢米廻送の際にはふけ米が生じるとその分は正米と取り換えるか金納としなければならなかった。これらを見込んで加えて送った予備の米のこと。  損毛した米。
 
   掛戻金  かけもどしきん  
頼母子講で、初回に取得した発起人は所定の金額を、いまだ取得していない参加者のために掛け戻し、またその後籤で取得した参加者も取得額に応じて算出された一定の金額を掛け戻差なければならない。それを掛戻し金という。
 
   駕籠  かご  
営業用の簡単な作りのも作りの駕籠 ※
これに対して身分の高い人が乗る駕籠は戸がついていて4人で担ぐ駕籠、別名「長棒」。
 
  囲人馬   かこいじんば  
東海道の宿駅に火急のために使用しないで常備しておく人足と馬。初め5人と5匹であったが後に30人20匹となる。
 
   囲穀 かこいこく   
豊作の年に貯穀して凶作時に備えること。 
囲米・囲籾   御囲置籾
※江戸時代,幕府や諸藩が領内に貯蔵米をとくに、凶作や災害に備えたもの。米より籾で保管するみことが有効であるため囲い籾が一般であった。
卯より辰両歳御年貢皆済目録拝見証文 
   囲山  かこいやま  
幕府や諸藩が公用に確保し伐採を禁じた山林。
 
   籠出   
かごだし
 
川の流れを変えたり堤防の決壊を防ぐために竹篭に石を入れて並べたもの。
 
   家作  かさく
家を建てること。 建てた家。
 
   重頭・我拶・我卒  がさつ
粗野。乱暴。ぞんざい。    
我察 
 
   風祭甚三郎  かざまつりじんざぶろう  
出雲崎代官所代官。石黒の古文書によく登場する人物。
 
   奉畏 かしこみたたまつる・かしこまりたてまつる   
ひたすら恐れ入ります、の意味。  例-被仰渡承知奉畏候   
 
   加地子  かじし  
地主に納める小作料。
 
   貸人馬  かしじんば  使用料をとって貸す人馬。  
   家職  かしょく
家代々の職分(武士)。  家業。
 
   華宵・花宵  かしょう・はなよい  
「花宵道中」と題する映画あり、江戸末期の新吉原を舞台に花魁(おいらん)として生きる女の恋を描いたもの。「花宵」と言う言葉は辞典では見あたらない。読み方も「はなよい」か「かしょう」か。
 
   加州   かしゅう  
日本の令制国の一つ、加賀国の別称。
 
   加宿  かしゅく  
人家が少なく人馬継立に支障がある宿場はその近くの村に宿役をつとめさすこと。 このような宿場には助郷割り当てはない。
 
   鍛冶御役銀  かじおやぎん  
農具や刃物など、金属製の用具を作る鍛冶職人に課せられた役銀。
 
   頭百姓  かしらびゃくしょう  
平百姓のうち主だった百姓。
 
   柏崎県  かしわざきけん  
1868年(慶応4年) 戊辰戦争で新政府軍が柏崎を制圧。
7月27日 - 刈羽郡柏崎(現在の柏崎市大久保二丁目5-1)の桑名藩柏崎陣屋に柏崎県(第1次)を設置

1868年(明治元年) 11月5日 - 柏崎県を廃して新潟府に合併することが布達される(実行されず)。

1869年(明治2年) 2月22日 - 再度柏崎県を廃止する布達が出され、越後府(第2次)に合併。同日柏崎県(第1次)廃止。

8月25日
- 水原県(旧越後府)から上越・中越5郡を分離して柏崎県(第2次)を再置。

1870年(明治3年)10月22日 - 長岡藩の大部分を編入。
1871年(明治4年)11月20日 - 第1次府県統合により柏崎県、高田県、与板県、清崎県、椎谷県が統合され、
改めて柏崎県を設置。上・中越5郡全域を管轄
1873年(明治6年)6月10日 - 新潟県(第2次)に合併。同日柏崎県廃止。
  参考文献-Wikipedia
  記(信濃川掘割入用-石黒村分)-柏崎県庁発行文書他2点
   柏崎殿(柏崎権頭勝長)  かしわざきどの  
鎌倉時代の柏崎の領主と伝えられる柏崎権頭勝長の館跡は島町にある、祖の館跡が鵜川の河口に近いことから、柏崎氏は港津の支配に関係ある人物と推定されている。
 
なお西本町のにある香積寺は建長年間柏崎権頭勝長が建立したといわれ、市指定文化財に指定されている。
 また、勝長は、室町時代に作られた謡曲「柏崎」に登場する「柏崎殿」であると云われているが詳細は不明。
 ちなみにこの謡曲は、榎並左衛門五郎作で、後に世阿弥が改作して完成したものと伝えられている。
 
柏崎権頭勝長

〇 国立能楽堂公演 2018.7.29
中世のおもかげ- 「柏崎」  
   主計  かずえ
 もともと経理や予算を預かる主計寮のことであるが、江戸時代に入ると実際にその官職とは関係なく、朝廷でしかるべき手続きを経れば名乗ることが許さた武家の官名・通称。
 
   かすがい  戸を閉めておくための金具。 建材の合わせ目に使うコの字形の釘。  
   春日村  かすがむら
 ※掲載準備中
 
   加助郷 かすけごう   
交通の増大にともない新たに増やされた助郷。
 
   上総国  かずさのくに  現在の千葉県中部。  
   掠取  かすめとる
盗み取る。  奪い取る。
 
 
   苛政   かせい
残忍で厳しい政治。
 
 
    綛糸 かせいと     
 綛(かせ)からはずした糸。綛は紡錘で紡いだ糸をかけて巻く工字形の道具で綛車は綛糸をかけて回す車。この車20線を巻いた糸束を1ひびろと言い、50ひびろを1綛と呼ぶ。
 
   風返し  かぜかえし  
垂木の先端部(切り口-鼻)を隠すために取り付けられる。鼻隠し板・風返しなどともいう。
風返し(鼻隠し)が妻(側)にまわると、破風(はふ)板へと呼び名が変わる。
 写真資料
   稼・挊  かせぎ   
生活のために働くこと。 生業。
 
    風立   かぜだつ    
風が吹くこと。
 文例→差し上げ申す一札の事
   過銭   かきん  
 過失の償いに出させた金(罰金)の事。  科銭 過金 過料
 
   柏崎(能)  かしわざき  
 『柏崎』(かしわざき)は、能楽作品のひとつ。四番目物、狂女物に分類される。元は摂津猿楽の榎並左衛門五郎の作品だが、世阿弥によって改作され、善光寺の浄土信仰や仮の世という世界観に立脚した作品になっている。

あらすじ
越後の国に住む柏崎殿の身内の小太郎と言う男が、鎌倉から急ぎ故郷の柏崎に向かっている。柏崎殿とその子息の花若殿は、訴訟のために鎌倉に滞在していたが、急な病気で柏崎殿が亡くなられ、また、それを嘆いた花若殿は遁世してしまわれたので、そのことを柏崎殿の妻に告げるために故郷に戻って来たのであった。さめざめと泣きながら話す小太郎からの悲報を聞いた柏崎殿の妻は、我が夫が臨終の最後のときまで気にかけてくれていた事を知り、夫の形見を見ながらあふれ出る涙を抑える事ができなかった。小太郎は子息の花若殿から預かった手紙を柏崎殿の妻に渡すと、そこには父を失くした子の苦悩と、それを機に出家に至った花若の心情と母への気遣いが綴られていた。母は子の出家した気持ちに理解を示しつつも、恨めしくも思われ、また同時に子の無事を神仏に祈らずにはいられなかった。

一方花若は、信濃の国の善光寺を頼って行き、そこの住僧と子弟の契りを結んでいた。住僧は毎日、善光寺の如来堂に花若を連れて参っていた。またそのころ柏崎の妻(花若の母)は、人が見てもわからぬほどのみずぼらしい姿となって、狂ったように、夫や子のためにとの思いで善光寺へ向かっていた。善光寺の阿弥陀如来に死別した夫を導いてもらいたいとの思いであった。そして善光寺の住僧が、狂ったように柏崎の妻が御堂に入ってくるのを見るや、そこから出て行くように告げる。狂女のようになった柏崎の妻は、極悪人でも阿弥陀如来の誓いにて救われるとあるのではないですか、この如来堂の内陣こそは極楽浄土の最上であるのに、そこに女人が参れないというのは阿弥陀如来が申された事ですかと住僧に問い返す。そうして如来堂の阿弥陀如来に夫の形見を捧げて、哀しみを忘れると同時に、夫の死後善所を祈りたいと願うのであった。さらに形見を出しては,生前の夫の姿や所業を懐かしく思い出しつつ、踊りを舞うのであった。そのうち狂女は、この世は仮の世と心得て入るのですが、その仮の世の親子関係すら添い遂げる事ができぬとは、これも憂き世のならわしなのでしょうかと言い、哀しみの涙で溢れ、子や夫を思う妄執に胸は満ちてくるのであった。そして、思えば三界に流転しながら、なおも人間の妄執から抜け出すことができず、月光の輝く台に生まれなくても嘆こうともせず、煩悩にとらわれる様は悲しい事と思いますが、この生涯のうちに身を解放しようとしても、罪障は高い山のごとくあり、悪業は多くありて、それも叶わないというのであった。それで、仏が説いた教えにも心以外に特別な法など無いとあるように、阿弥陀如来は唯、己の身の中にあり、また、浄土は己の心にありと言うように、願わくばこの寺の阿弥陀如来を頼って念仏を唱え、黄金の岸へと救われたいのですと言う。阿弥陀如来が全ての衆生を救いたいと言われた誓願に誤りなければ、きっと願いを叶えてくださるであろうから、かの浄土で夫との縁が結ばれますようにと、阿弥陀如来に帰依し明方まで称名を唱えようとするのであった。

その時、住僧が涙を流しながら、この子こそがあなたの子どもですよと言った。花若の母はそれを聞いて、堪えられない程の嬉しさであった。お互いにあれがそうかと思いながらも母は狂人のようであり、花若は出家姿であったためにすぐには二人ともわからず、しかしよく見れば間違いなく母と子の姿であった。親子がここで逢えたことは、まことに嬉しいことであった。

作者・典拠
申楽談儀に、「鵜飼、柏崎などは榎並の左衛門五郎作也。悪き所をば除き、よきことを入れられければ、皆、世子の作なるべし」とあるように、摂津猿楽の榎並左衛門五郎の原作を,世阿弥が改作したものが本作品とされる。原作では、後半の仏教の宗教的な教えの部分が無く、夫との死別や子どもとの離別から、そのまま再会へとつながる人情物として描かれていたが、世阿弥によって、宗教的な世界観や複雑な深い心理を描いた作品へと変わっている。その加えられた部分のなかには、世阿弥自作の『土車』から一部がそのまま移されている。またそのことから、世阿弥の関心が『土車』のような男物狂物から、『班女』のような狂女物へと移っていく過程としても注目される。

現在の演目との相違
奈良県生駒市の宝山寺に、世阿弥の自筆本が現存しているが、現在演じられている『柏崎』との間に若干の相違がある。
(ウェキペディア)

 
   春日村   かすがむら
 槇原村
 
   かせ (綛)  
取り扱いに便利なように、一定の大きさの枠(車型)に糸を一定量巻いて束にしたもの。また、それを数える語。1綛は綿糸76m、毛糸512m。
紡錘 (つむ) で紡いだ糸を巻き取るH形またはX形、車形の道具。かせぎ。

 糸車
   楮畑  かぞばた  
楮を栽培した畑。
 
   過怠  かたい
 過失。 あやまち。  過失に対する軽い罪→過怠銭のことをいう。
 
   旁(々)以  かたがたもって  
いずれにしても。 どっちみち。 且つ。  
例-旁以同意被成候由ニ而
 
   肩衣  かたぎぬ  
袖なしの胴衣(どうぎ)。 武士の公服の一つ。
 
   片毛作  かたけさく  1年間に稲作しかできず裏作のできない田。   対語-両毛作  
   片口済  かたくちすみ  
金銭貸借の訴訟で原告と被告で和解した際、原告だけが裁判所に報告することで解決すること。
 
   帷子  かたびら  裏布をつけない衣服のこと。  麻・木綿などの夏用衣服。
 
 
       かため   
 固く守ること。堅い約束。
 主従や夫婦などが結びつきが緩まないように約束すること。
 御掟條目-明治3年
   徒行・徒  かち  
歩いていくこと。 歩いて主君の友をする武士。 下級の武士行列で行列の先導を勤めた武士。

 
  徒目付   かちめつけ  
武士の身分・職名のひとつ。  騎乗を許されない身分の低い武士。
 
   勝手作 かってさく   百姓が稲作の裏作として自分の都合次第で色々な作物を植え付けること。  
   勝見村  かつみむら
  明治22年からの大字名、明治37年からは出雲崎町の大字。
   
 
   嘗以  かってもって  今まで一度も。  全然。 まったく。  
     
かど
 
数え立てるべき箇条。 理由として挙げられる事柄。
 
   廉々  かどかど  
それぞれの箇所。部分部分。
 
   家督  かとく  
武士では主君から与えられた世襲の封禄(ほうろく)。   庶民では家の財産のこと。
 
   門出村   かどいでむら  
鯖石川上流域にあり地名の由来は、東頸城郡清水に豪族清水釆女正(うねめ のしょう)の居城があり、当地はその城門の方角に当たることに因むことから「門出」の名前がつけられたとされる。天王山には山城の跡がみられる。
 門出村は、江戸期から明治22年の村名。刈羽郡に属し初め高田藩領、元和2年長峰藩領、同4年高田藩領、天和元年幕府領。文政2年からは桑名藩領。
 村高は214石余・新田20石余「天保郷帳」によれば234石余。越後国細見図」には門出・中子・板畑・居谷・中坪が見られる。天和3年の家数が76。同年検地には口留番所が書き上げられている。
 亨保5年柏崎の宮川四郎兵衛が石黒川から取水して門出用水(宮田堰)を開削した。同14年・天明元年・弘化2年に新田検地が行われている。天保2年の家数は257・人数1124とある。
 和紙(伊沢紙)製造の家内手工業は、宝暦年間から始まり、40軒ほどが従事していた。また、縮織が盛んで、「北越雪譜」に「紺の弁慶縞は高柳郷にかぎれり」とある。和紙づくりの伝統は現在まで伝えられ「越後門出和紙」として
 神社は黒姫神社・諏訪社・寄合(下寄合)に神明社、板畑に熊野社、中後に諏訪社、居谷に黒姫大明神がある。ほかに曹洞宗の観音堂・阿弥陀仏堂がある。
 明治4年戸数325・人口1882。明治7-8年頃から桑の栽植が行われ養蚕が普及。明治9年門出校開校。同16年独立校となり同1818~22年漆島校、荻ノ島校を分校。明治10年門出新田を併合。同22年大火で住家76、土蔵等10、学校1が灰燼に帰した。同年地内の板畑・居谷が石黒村の一部となり、残余は市制町村制施行による門出村となる。
→石黒の歴史-板畑・居谷の編入
 門出村は、明治22~34年の刈羽郡の自治体名。江戸期の門出の一部地域をもって成立。大字は編成せず。明治34年高柳村門出となる。昭和30年からは高柳町の大字。昭和10年の世帯数310・人口1538。明治41年黒姫神社は諏訪神社を合併し門出神社と改称。
 昭和8年改良和牛を広島県・島根県から導入して品種改良増殖をはかる。同9年青森県から種牝綿羊をいれ150余戸で飼育。同13年145戸で家兎門出種を生産飼育。同37年栗団地を造成。県雪害試験圃を設置。同年鶴間の開田、鯖石川多目的ダムが完成。
 同46年中後集落過疎法全国過疎地域振興指定町となった高柳町の「高柳町過疎地域振興計画」により集団移転をさせられる。

門出村御案内帳-田辺重順家文書

(参考文献 角川地名大辞典 高柳町史)
  門出村御案内帳-田辺重順家文書
   門出和紙   かどいでわし
門出和紙について

門出地区で伝統的に漉き続けられてきた伊沢紙(1尺×1尺4寸)は厚紙で傘紙、凧紙など主に加工用紙に使われてきた。小国紙(9寸×1尺3寸)は薄紙で大福帳や障子紙に、ふわた紙(8寸×1尺1寸)は寸法がやや小さく風の強い海岸よりの障子紙として漉かれていた。我が家では伊沢紙とふわた紙を漉いて私が五代目である。古老より聞いた話ではこの門出で40戸程(大正時代門出は200戸程ある)が冬の副業で漉いていたという。1973年、私が紙を志した時には我が家1戸のみであった。

私は小国町山野田の恩師、木我忠治氏より用具や教えを頂き、その後大判の紙に取り組み、父は工芸紙に取り組んだ。父と私は自然の摂理に従った中でそれを現代にどう生かすか試行錯誤の連続であった。その後私は地域おこし運動に傾注することとなり、我が、ふるさとの名前を生かして、1986年、「越後門出和紙」と命名したのである。


雪国の紙漉き

新潟県柏崎市高柳町門出、そこは平年積雪が3メートルというたいへん雪多い村である。農業のかたわら、和紙の原料である楮を育て降雪前に刈り取る。大釜で楮を蒸し、家族総出で皮をむき、その後包丁で一本一本表皮を削り取り、白皮にして軒先に吊して干す。
正月を終えると紙漉き場は、すっぽり雪におおわれて、まるで地下牢のようになるが、小さな明り窓をたよりに、もくもくと漉き続けられる。冬の紙は外が見えず気が散ることもなく一心に漉くので整った紙が生まれる。

3月に入って青空の覗く頃になると、家々の回りには、長いなげしに紙板が並べられる。雪中より「かんぐれ(紙を積み重ねた紙床)」を掘り出し、女たちは競って紙を張り付ける。またこの頃は楮の白皮を雪面に並べて雪さらしをする。楮の皮に含まれる灰汁を雪が吸いつくし、雪面のオゾンの働きと冬の日ざしが雪のような白さを創り出す。
4月に入って、残雪の中からブナの若葉が芽吹く頃に紙買いがやってきて、両手で紙をかざしては、めくり返す。

HP「越後 門出和紙」より
 
   廉々  かどかど  
それぞれの箇所。  部分部分。
 
   門田  かどた  
耕作に便利な近くにある田。 
 前田
 
   門付  かどづけ  人家の門前で芸能を見せて金品をもらうこと。  
  家内   かない  
家の内。  家族。  自分の妻の謙遜語。
 
   曲尺  かなじゃく  
大工が使う定規を兼ねた金属製の定規。  石黒では「まがりじゃく」と呼んだ。
 
    加納村  かのうむら  
  ※掲載準備中
 
   加判人  かはんにん
 証文に保証人として連判した人。
 
   下婢 かひ   
下女。女中。
 
   娥眉山下橋 がびさんかきょう  
中国四川省中部の娥眉山(3099m)は奇勝に富み、中国仏教三大霊場の一つとして国民の信仰が厚い山である。その峨眉山の道標であろうか、何かの原因で海に流れ出て文政8年(1825)12月、椎谷の海岸に漂着した。
 現在は柏崎市高柳町岡野町の貞観園に保存されている。木身には「娥眉山下橋」の五文字が刻まれており、「北越雪譜」や「良寛詩」によって広くしられている。

※良寛は、このことに 感激して、「娥眉山下橋杭 に題す」という七言絶句の詩を詩をつくった。
不知落成何年代
書法遒美且清新
分明娥眉山下橋
流寄日本宮川浜
        
知らず落成 何れの年代ぞ
書法 遒美(しゆうび)にして且つ清新
分明なり 娥眉山下の橋
流れ寄る 日本宮川の浜

(高柳町教育委員会-高柳の文化財)


 峨眉山下橋の標本画像





貞観園
     かぶ  
加身・資格・業務・家格などの権利。   
百姓株 御家人株など。
 
   下聞  かぶん・かもん  
目下の者に物事をたずねること。
 
     かまえ
 横合いから文句を言うこと。差支え。
 
   構無之  かまいこれなし  
無罪。   
例-御構無之事ニ候
 
   ケ間敷   がましく  
~らしく。  ~のように。   例-徒党ケ間敷儀不可仕候事  
 
   
 かます

 藁ムシロを袋状にしたもの。 ※穀物や炭などを入れた
 
  喧敷 かまびすしく   やかましく。さわがしく。  
     かみ
 
もともと律令制の四(し)等官の最上官を指す言葉。四等官は上位から長官-かみ、次官-すけ  判官-じょう 主典-さかんである。
近世では、例えば「越前守」など、正五位下などの位階に合わせてついてくる称号のようなもの。つまり、越前守は越前のトップを指すものとは限らない。
同じく律令制の四等官再上官をあらわすものに、正(かみ)→主膳司-しゅぜんのかみ頭(かみ)→雅楽頭-うたのかみ などがある。
 
   上方  かみがた
江戸時代、京都や大坂を初めとする畿内を呼んだ名称 。天皇の 住む京都を「上」とする考えに基づいた呼称。
 
   上方筋  かみがたすじ  上方方面。  
   上下 かみしも   
武士が着用した公用服。 
 
  上高町  かみかたまち
江戸時代から明治22年までの村名。元和2年から旗本安西氏知行。土田家が代官として管理。知行目録(寛永2)によれば848石。うち360石余が上高町。村高は元禄郷帳、天保郷帳ともに513石。明治9年大沼村を合併。同22年刈羽村大字となる。同11年に下高町との組合立小学校を設立。
昭和54年刈羽小学校に統合され廃校となる。。
 
 
   上総国  かずさのくに
現在の千葉県中部にあたる。 
 
   家名  かめい  家督。  家の名称。    
   鴨居  かもい  
和室の襖や障子などの建具を立て込むために引き戸状開口部の上枠として取り付けられる横木。建具を滑らせるために溝を彫られる。下部に取り付ける敷居と対となる。
 
   蒲生村  がもうむら  
※掲載準備中
 
   課役  かやく・かえき
 年貢や夫役など支配者から課せられた負担の全体をさす。  
 
   カヤ一〆  かやひとしめ
 カヤ一〆は、6尺(約180㎝)の縄でカヤ根元から90㎝上を束ねたもの。普通の大きさ(梁間4~6間)の家の屋根を葺くに7~8百シメ使ったという。
※石黒の昔の暮らし-日常の暮らし-住
 
   蚊帳の祝儀   かやのしゅうぎ
蚊帳は「蚊屋」とも書き、かつて一枚の蚊帳をつくることは、一家の主婦にとって男が一代に家を建てる。
ことに匹敵する大仕事とされた。 また、蚊帳は1日で縫い上げないと凶事が起こる俗信があり、大ぜいの女たちで縫い上げられた。
 そして、出来上がると、その蚊帳を吊って、その中で女だけで酒を飲んだり餅を食べたりしたという。
これを「蚊帳祝い」「蚊帳祭り」「蚊帳仕立て祝い」「仕立て祝い」などと呼んだ。
 また、「蚊帳(かちょう)の祝儀」とよばれる嫁入り道具の一つとしての蚊帳の新調祝いも、江戸時代には大切な行事として各地に行われたという。 
(参照-日本大百科全書) 
 
   萱野・茅野   かやの  茅(かやの生え茂ったところで村高にははいらないが少しの運上金を納めた土地。  茅畑    
   通帳  かよいちょう  
幕府領では、代官が年貢を受け取るときに通帳を渡しておいてこれに記入させた。 掛売買のときに品名・代金・日付などを記して後日代金請求や支払いのときの覚とした帳簿。  通い
 
     から  
朝鮮や中国、さらには外国から渡来した物や人を語の上につけて唐傘・唐金・唐人などと表わす。
 
   搦みて  
からみて

一緒に。  くるめて。   
「不審成者寺社堂宮搦居候茂難斗・・・・」
 
   搦め捕る  からめとる  
捕縛すること。  
 
   搦手  からめて  
人を捕縛する人。  城の裏門。
 
   軽尻  からじり  
宿駅におかれた旅人専用の馬で、主に人を乗せた。また3貫目以下の布団と中敷、5貫目までの手荷物も載せることが許された。人を載せない時には20貫目までの荷物を載せることが出来た。賃金は一里(約4㎞)につき30文ほどであったという。  
軽尻馬
売尻 穀尻
 
   からむし  
カラムシ  苧-オ。
→石黒のくらしの中の苧
 
   搦置  からめおく  
罪人を捕らえて捕縛しておくこと。
 
  唐物   からもの  
舶来品の総称。
 
   狩衣  かりぎぬ  
江戸時代では武士の正装または礼服のこと。
 
   刈敷   かりしき  
初夏の頃に、山林から刈り取って水田の肥料にするイネ科の植物。
 
   刈敷山  かりしきやま  
刈敷を採取する山林。
 
   過料  かりょう  
軽い刑罰での一種で金で償わせるもの 罰金。  
過料銭
 
   仮免状  かりめんじょう  
正式の徴収令状の前に田方の租額を各村に知らせて準備に供するもの。
 資料→当未仮免状之事
   刈羽郡  かりわぐん
〇古代~近世

刈羽郡の地域はかつては越中国古志郡に属していた。大宝2年(702年)に越後国に割譲され、平安時代に三島郡(みしまぐん)として古志郡から分離した。
その後、中世に古志郡からさらに山東郡(さんとうぐん、のち三島郡)が分離した頃から、三島郡(みしまぐん)は刈羽郡または
苅羽郡と称するようになった。江戸時代初期に幕府は当郡の呼称を旧に復すると称して沼垂郡(ぬったりぐん)としたことがあった。しかし、沼垂郡は本来、越後国北部の阿賀野川以北を指した郡名であり、この改称は誤りであった。

〇近代~
「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での支配は以下の通り。幕府領は全域が桑名藩預地。(1町194村)
幕末の知行
慶応4年 閏4月29日(1868年6月19日) - 戊辰戦争で新政府軍が桑名藩の陣屋がある柏崎を制圧。
7月27日(1868年9月13日) - 幕府領・旗本領・桑名藩領が柏崎県(第1次)の管轄となる。
明治元年11月5日(1868年12月18日) - 柏崎県を廃して新潟府に合併することが布達される(実行されず)。
明治2年 2月22日(1869年4月3日) - 再度柏崎県を廃止する布達が出され、越後府(第2次)に合併。
8月25日(1869年9月30日) - 旧・柏崎県の管轄地が柏崎県(第2次)の管轄となる。
明治3年10月22日(1870年11月15日) - 長岡藩が廃藩となり、領地が柏崎県の管轄となる。
明治4年 7月14日(1871年8月29日) - 廃藩置県により藩領が椎谷県、上山県、与板県、高田県の管轄となる。
11月20日(1871年12月31日) - 第1次府県統合により全域が柏崎県の管轄となる。
明治初年 - 山谷新田が堀村に、小池新田が半田村にそれぞれ合併されたとみられる。(1町192村)
明治6年(1873年) 6月10日 - 新潟県(第2次)の管轄となる。
北川原村・城川原村が合併して上条村となる。(1町191村)
明治8年(1875年) - 別山新田が別山村に合併。(1町190村)
明治9年(1876年)(1町187村) 原新田村が上原村に、大沼村が上高町村にそれぞれ合併。
西室西淵新田が井岡村に合併。
明治10年(1877年) - 善根村下組が善根村に、黒橋新田が橋場村に、南条新田が南条村に、桜井新田が下方村に、門出新田が門出村に、新保新田が新保村に、増沢村が原村に、島屋敷村・島新田が諏訪井村にそれぞれ合併。(1町178村)
明治12年(1879年) 4月9日 - 郡区町村編制法の新潟県での施行により行政区画としての刈羽郡が発足。郡役所を柏崎町に設置。
嶺村の所属郡が東頸城郡に、谷根村の所属郡が中頸城郡にそれぞれ変更。(1町176村)
明治13年(1881年) - 十日市村のうち日本海に面した十日市新田と称する地区が分村して大湊村となる。(1町177村)
明治14年(1882年)(1町180村) 長鳥村が東長鳥村・西長鳥村に分村。
北条村支村のうち今熊村・十日市村・鹿島村・赤尾村が分村して本条村となる。
北条村支村のうち上光安村・下光安村・深沢村・家則村・兼則村・笹川村が分村して東条村となる。
明治20年(1888年) - 飯塚新田が飯塚村に合併。(1町179村)

〇町村制以降の沿革
明治22年(1889年)4月1日 - 町村制の施行により以下の町村が発足。特記以外は現・柏崎市。(4町67村)
明治30年(1897年)1月1日 - 新潟県で郡制を施行。
明治32年(1899年)4月14日 - 二田村・長谷村が合併し、改めて二田村が発足。(4町66村)
明治33年(1900年)2月23日 - 森光村・小栗山村が合併して森山村が発足。(4町65村)
明治34年(1901年)11月1日 - 下記の町村の統合が行われる。いずれも新設合併。(3町29村)

〇明治34年の合併
大正12年(1923年)3月31日 - 郡会が廃止。郡役所は存続。
大正13年(1924年)8月10日 - 下宿村・大洲村が柏崎町に編入。(3町27村)
大正15年(1926年) 6月30日 - 郡役所が廃止。以降は地域区分名称となる。
9月10日 - 比角村が柏崎町に編入。(3町26村)
昭和3年(1928年)12月1日 - 枇杷島村が柏崎町に編入。(3町25村)
昭和15年(1940年) 4月1日 - 鯨波村が柏崎町に編入。(3町24村)
7月1日 - 柏崎町が市制施行して柏崎市となり、郡より離脱。(2町24村)

昭和23年(1948年)11月1日 - 西中通村の一部(悪田)が柏崎市に編入。
昭和24年(1949年)7月1日 - 中里村・横沢村・武石村・七日町村が合併して小国村が発足。(2町21村)
昭和26年(1951年)4月1日 - 北鯖石村の一部(田塚・長浜・新田畑)が柏崎市に編入。
昭和27年(1952年)7月1日 - 上小国村が中魚沼郡仙田村の一部(現・長岡市小国町大貝)を編入。
昭和29年(1954年) 4月1日 - 西中通村が柏崎市に編入。(2町20村)
7月5日 - 荒浜村が柏崎市に編入。(2町19村)

昭和30年(1955年) 1月10日 - 山横沢村が小国村に編入。(2町18村)
2月1日 - 北鯖石村・田尻村・高田村が柏崎市に編入。(2町15村)
4月1日 - 石黒村が高柳村に編入(2町14村)
11月3日 - 高柳村が町制施行して高柳町となる。(3町13村)


昭和31年(1956年)9月30日(4町7村) 上条村・野田村・鵜川村が合併して黒姫村が発足。
石地町・内郷村が合併して朝日町が発足。
小国村・上小国村が合併して小国町が発足。
中通村の一部(赤田町方・赤田北方・油田・黒川および飯塚の一部[8])が刈羽村、一部(吉井の一部[9])が北条村、残部が柏崎市に分割編入。

昭和32年(1957年) 4月1日 - 高浜町および黒姫村の一部(上条・宮之窪・山口・佐水・芋川・古町・小田山新田)が柏崎市に編入。(3町7村)
7月5日(3町4村) 中鯖石村・南鯖石村が柏崎市に編入。
千谷沢村の一部(原小屋・千谷沢・鷺ノ島)が小国町、残部(菅沼・小坂・袴沢)が三島郡越路町に分割編入。

10月1日 - 北条村が町制施行して北条町となる。(4町3村)

昭和34年1959年)4月10日(4町2村) 二田村の一部(井岡)が刈羽村に編入。
朝日町および二田村の残部が合併して西山町が発足。

昭和43年(1968年)11月1日 - 黒姫村が柏崎市に編入。(4町1村)
昭和46年(1971年)5月1日 - 北条町が柏崎市に編入。(3町1村)
昭和60年(1985年)4月1日 - 高柳町が東頸城郡松代町の一部(田代)を編入
平成17年(2005年) 4月1日 - 小国町が長岡市に編入。(2町1村)
5月1日 - 高柳町・西山町が柏崎市に編入。(1村)
(ウェキペディア)
 
  刈羽村    かりわむら  新潟県刈羽郡にある村。
村内には東京電力の柏崎刈羽原子力発電所を有している。柏崎市への通勤率は54.8%(平成22年国勢調査)。
黒川・油田の2大字が飛び地になっている。また、2005年(平成17年)5月1日に柏崎市が刈羽郡西山町を編入したことにより、飛び地以外の区域が柏崎市に囲まれている。なお、柏崎刈羽原子力発電所が海の程近くに存在するが、実際には海岸部分だけが柏崎市に属する形になっており、刈羽村に海岸線はない。
河川: 別山川
湖沼: 大池

歴史の概要
1901年(明治34年)11月1日の第2次町村合併で、高柳村、石地町、内郷村等と共に刈羽村が誕生する。新設の刈羽村はそれまでの(旧)刈羽村と勝山村及び東城村の一部を含む。
1956年(昭和31年)9月30日に中通村の一部を編入。
1959年(昭和34年)4月10日に二田村の一部を編入。
1979年(昭和54年)高町・赤田・勝山小学校が廃校になり、刈羽小学校へ統合される。
1985年(昭和60年)9月18日に柏崎刈羽原子力発電所の1号機の運転が開始される。
1997年(平成9年)7月2日 柏崎刈羽原子力発電所が7号機が営業運転を開始。世界最大の原子力発電所となる。
2005年(平成17年)5月1日 柏崎市が西山町と高柳町を編入したことにより、刈羽郡に属するのは刈羽村だけとなる。
2007年(平成19年)7月16日 柏崎沖を震源とする新潟県中越沖地震が発生し、最大震度6強を記録する。

人口(平成30年)
世帯数  1,614
人口   2,390


(ウェキペデア)
 
   軽井川村  かるいがわむら
 江戸期から明治22年の村名。刈羽郡に属し、初め高田藩領。天和元年幕府領。
村高は、正保国絵図では160石余。天和高長では357石。新田175石余。天保郷帳では585石余。
明治22年鏡里村の大字となる。明治34年田尻村。昭和30年からは柏崎市の大字となる。
 
   彼是・彼此  かれこれ  
とやかく。 あれやこれや。   
例-若彼是申 もの御座候ハヽ
  
左右
 
   家老  かろう  
武家の家臣の中で最重職で家中の武士を統率する職。
 
   家禄  かろく  
家に代々伝わる俸禄。
旗本御家人や藩士の家にたいする俸禄、世襲であり、これに対して一時の職務に与えられるものは職禄と呼んだ。
 
  川欠・川缺  かわかけ   
大雨や洪水などで堤防決壊で田畑が耕作の見込みがなくなること。その土地を川欠地と呼んだ。
 
   川瀬違  かわちがい  
湾曲した川の流れをトンネルを掘り直線状にして、湾曲の内部の土地を田に開墾ること。用水を取り込みが容易に出来るメリットもある。 川瀬替-かわせがえ
 
   川越  かわごし  
川を歩いて渡ること。 人を肩車または蓮台に乗せて川を渡すことを生業としている人夫。
 
   川下ケ  かわさげ  山で伐採した材木を筏を組んで下流に運搬すること
※石黒川でも昔は門出村まで水量の多い時期に木材を流して運ぶこともあったという、また、
落合から寄合まで茅葺きやを解体したものを流して移築した例もある。

 
   川敷  かわしき   
増水の時に河川の流域となる敷地。
 
  川瀬違   かわせちがい
ヘアピン状に蛇行した川の流れを山に狭いトンネルを堀り流れを直線状に通して橋の要らない農道や村道にしたり、湾曲した元の川とその内側に新田開発をすることも大きな利点であった。。そこに開発した田を瀬替田とよんだ。重機のない昔は長年かけて流水の力を借りてトンネルを拡張した。また、それによって洪水の害を防ぐこともできた。
※現在、南鯖石地区の山室と大沢の間に川瀬替の跡がよくわかる場所がある。  川瀬替 
 ※取替せ申す川瀬違い取極め証文一札の事
(石黒村と門出村-矢沢繁徳家文書)
   河内  かわち  現在の大阪夫東南部。  
    川留・川止  かわどめ  
 川の増水で徒歩で渡ることが危険な場合には禁止された。
大井川では水深4尺(約120cm)になると川留となった。川留は普通2~7日ほどで1年に50日ほどあったという。川留になると足止めを食う人間が数百人〜1000人を超したという。
 
   川成  かわなり  
洪水で田畑がすべて水に押し流されて川原となること。
  
川成場
 
   川成引  かわなりびき  
洪水で耕作できなくなった土地の年貢を免除すること。
 
   川札  かわふだ
 川越え時に人足一人に付き1枚買う札。更に蓮台に乗るときには1枚買わねばならなかった。この札ことを油札とも呼んだ。
 
   川徐  かわよけ
 洪水を防ぐための堤防工事や川底さらいなどの治水工事。

川除御普請
 
   河原者   かわらもの  
歌舞伎役者などを卑しんで呼んだ語。
 
   かん  
尺貫法における質量の単位の外に、江戸時代以前の通貨の単位として使われた。
通貨の単位としては、銭貨と銀貨の単位としては、
 
銭貨→1貫文=1000文
 銀貨→1貫目→1000目(匁)
※秤で計量して使用目(め)=匁(もんめ)
 
  官員   かんいん
官吏。役人。  明治時代に使われた語 
 
   鰥寡孤独   かんかこどく   
よるべのない独り者
 
   雁木   がんぎ  
雪国の茅葺屋の前面のひさし下に、取りつけられた廊下状の場所。幅3尺程で小羽葺き、冬期は前面に落とし板を取りつけ雪害から本屋を守る役目をする。(但し、一般に雁木は雪国の町屋のガンギ通りのことを指す)  →参考写真
 
   艱苦  かんく  
悩み苦しむこと。つらく苦しいこと。
 
   官軍  かんぐん  
政府方の軍隊。朝廷の軍勢。  官軍御用人足
 ・官軍人足一件についての連絡文書 門出→居谷
   観世音  かんぜおん  
仏教の菩薩の一尊。観世音菩薩(かんぜおんぼさつ)または観自在菩薩(かんじざいぼさつ)ともいう。救世菩薩(くせぼさつ・ぐせぼさつ)など多数の別名がある。一般的には「 観音さま」とも呼ばれる。
(ウェキペディア)
 
   観世音菩薩  かんぜおんぼさつ  
 世間の人々の救いを求める心を観じて、その苦悩から救済する菩薩。救う相手に応じて大慈悲を行ずるところから千変万化の相となるといい、その姿は、千手、
、十一面。如意輪、准胝 (じゅんてい) 、馬頭、不空羂索の六観音の他、三十三観音などに表される。
 また、勢至菩薩とともに阿弥陀仏の脇侍で、宝冠に化仏 (けぶつ) をつけ、独尊としても信仰される。
観音菩薩。観自在菩薩。観世音。
※観世音菩薩は鳩摩羅什 (くまらじゅう) による旧訳で、玄奘 (げんじょう) の新訳では「観自在」とされる。

(ウェキペディア)
 
馬頭観音
   勧化  かんげ
 仏教を説いて人を導く。 寺社の建立のために信者に金品の寄付をもとめること。
 
   干支   かんし  
十干と十二支を組み合わせて年、日を表すこと。→干支順位表
 
   勧進  かんじん
 →勧化の意味に同じ。    勧進相撲   大勧進様  
後世になると寄付を集める方法として興行を催し、観覧料の収入をもってこれに当てるという意味としても広く用いられた。
※石黒の方言では「かんじん」は物乞いと同等の意味で用いられた。

 
   勧進帳   かんじんちょう  
勧進のために金品を募る趣旨を示した帳面。
 
   眼精  がんせい  
目つき。眼光。眼力。
 
   貫属 かんぞく   
明治時代、地方自治体の管轄に属すること。
 
   旱損・干損  かんそん  
日照りで農作物の収穫が減る被害。 旱損地   
旱魃-かんばつ 
 
   関東御取締出役  かんとうおとりしまりしゅつやく 幕府の役職の一つで関八州(武蔵・相模・上野・下野・上総・下総・安房・常陸)の幕府領・私領の区別なく巡回し無宿・賭博などの取り締まり、逮捕にあたった。八州廻  
    管内 (官内の表記も見られる)  かんない  
その役所が管轄する区域の内。 
管内
 
   願人  がんにん  
訴訟状を提出する人。 訴願する人。  願人坊主の略。
 
   関八州取り締まり出役  かんはっしゅうとりしまりしゅつやく  
寛政から文化の頃、関東地方の治安は乱れていた。その原因は、支配者が小さい単位で村を統治していたために、取り締まりが徹底しないことにあった。そのため、徹底をはかる方策として関東一円(関八州-武蔵、安房、上総、下総、常陸、上野、下野、相模)を、40~50ケ村を一つの単位として大組合とし、その中の3~6ケ村を小組合として組み合わせた。こうして「関東取締出役」という警察機関を設置して取り締まりに当たらせた。
 
   勘弁  かんべん  
よく考えてわきまえる事。  許すこと。  相談すること。   我慢すること。
 
   貫目  かんめ  
重さ。 目方。
 
   貫文  かんもん
 金貨計算の補助単位。
永銭勘定→金1両=永1貫文。
   
1分=永250文
   1朱=62文5分
  (小判1両=4分=4朱) 
 
    儀・義貫  
 こと。わけ。~に関しては。~は。
 
   帰依  きい
 神仏を信仰して、その教えに信じること。
 
  紀伊国  きいのくに  現在の和歌山県と三重県南部。  
   祇園神社・祇園社   ぎおんじんじゃ・ぎおんしゃ  
祇園神社(ぎおんじんじゃ)は、牛頭天王・スサノオを祭神とする祇園信仰の神社。他に祇園信仰に基づく神社名称としては、八坂神社(八阪神社・弥栄神社)、広峯神社、天王神社、八雲神社、須賀神社、素盞嗚神社などがあり、時代や資料によって通用される。
名称は、神仏分離以前に現在主祭神とされているスサノオが祇園精舎の守護神である牛頭天王と同一視され祀られていたことから来ている。同様の信仰を持ち、「牛頭天王社」と称する神社も多かった。
 明治に神仏分離が行われた際、仏教の神である牛頭天王は祭神から外され、神道の神であるスサノオが残ったが、同時に多くの神社名から仏教用語の「祇園」や「牛頭天王」が外され、総本社である京都の祇園社も
八坂神社と改名された。しかし神社の名前が変更されても、地名としての「祇園」「天王」や、奉納される祭の「祇園祭」「祇園御霊会」といった呼称、また神社の愛称としての「祇園さん」「(お)天王さん」等が残っている地域は多い。

〇八坂神社→八坂神社(やさかじんじゃ)は、京都府京都市東山区祇園町北側にある神社。22社(下8社)の一社。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。
全国にある八坂神社や素戔嗚尊を祭神とする関連神社(約2,300社)の総本社である。通称として祇園さんとも呼ばれる。7月の祇園祭(祇園会)で知られる。


(ウェキペディア)
 
   机下
 きか
 
相手を敬い手紙のあて名の下に書く語句。医者がよく使うようだ-紹介状など見る

限りでは。
 
    貴下  きか  手紙の宛て名、一般には姓のみの脇に相手への敬意を表して書き添える言葉。

   
侍史  
 
   飢渇  きかつ
飢えと渇き。また、飢え渇くこと。
 
   貴顔  きがん  
相手の顔を敬って言う言葉。
 
   亀鑑  
きかん
 
手本。 模範。
   聞済 ききすます 
聞き届ける。  承知する。  納得する。
 
   聞召  きこしめす
お聞きになる。  お思いになる。  お許しになる。
※被為聞召訳→きこしめしわけさせられ (意味→お聞きくだされ)。
 
 
   肌骨  きこつ  
身体の表面の肌一番内側の骨。→全身
 
   貴札  きさつ
相手の手紙を敬って呼ぶ言葉。
 
 
  貴様   きさま   
江戸時代後期以降は同等か目下の人に対して用いた語。
 
     きざみ
〜のおり。 ~の時。  ~の場合。
 
   木品   きしな
材木の品質。また、樹木・材木の種類、ヒノキケヤキなど。
 
 
   貴所  きしょ  
相手の居所を敬って言う言葉。
 
   貴書  きしょ  貴相手の手紙を敬って呼ぶ言。  貴札  
   起請  きしょう  
神仏に誓をたてて自分の言動に嘘偽りの内ことを誓うこと。
 
   議定・儀定・規定  ぎじょう  
合意して事をきめること。 取り決め。 約束。
議定書 議定証文
 嘉永2 頼母子取極め儀定帳 
  起請文   きしょうもん
 守ることを記した文書、違背すると神罰を蒙る旨を記した文書
江戸時代、官吏の拝命や特命の要務を受ける場合はその職務を全うするように誓の言葉を奉る慣例があった。その誓文の最後に起請前書を書き写し、氏名の下に血判を押すことになっていた。
 
  寄進   きしん  
社寺に金品を寄付すること。 貧民や巡礼などに金品を与えること。
 
   期す  きす・ごす  期限を定める。  期待する。  約束する。  
   木銭宿  きせん
 旅人が自炊するための薪代のみで泊まった宿。
木賃銭  木賃     対語→旅籠 
 
    北条村  きたじょうむら
 〇位置
東→広田村・武石村・小広田村。西→安田村、南は南条村。北→平井村・小島村また、村内は11ケ村に分かれていて、北条という場所はなく11ケ村をまとめた呼称であり、町方村を中央とする。
〇支配
 慶長3-12  堀氏 春日山藩  慶長12-15 堀氏 福島藩
 慶長15-19 松平氏 高田藩 慶長19-元和2 松平氏 高田藩
元和2-6  稲垣氏 藤井藩 元和5-寛永1 松平氏 高田藩
寛永1-天和1 松平氏 高田藩 天和1-貞享2 幕府領
 貞享2-元禄14  稲葉氏  高田藩  元禄14-宝永7  戸田氏  高田藩
 宝永7-寛保1  松平氏  高田藩  寛保1-文政6 松平氏  白河藩
 文政6-幕末  松平氏  桑名藩      

〇元禄→2,050石余、天保→2,107石余。
〇戸数→313戸 (町方-95 家則-20戸 笹川-13戸 上光安-18戸 下光安-19 兼則-12戸 深沢-41戸 赤尾-40戸 鹿島-14戸 十日町17戸 今熊24戸) ()
 人口→127人 馬71 牛4
〇産物→蕨(わらび)ぜんまい、薯蕷(しょよ)→ヤマノイモ
〇用水→谷川出水を用い、用水堰22ケ所。
〇歴史→鯖石川支流長鳥川流域。小高い山に中世から戦国期の北条城址がある。地名の由来は佐橋荘域の北部にあることによるといわれている。
 寺院は、禅宗普広寺、浄土宗西雲寺、日蓮宗本覚寺、浄土真宗西方寺、時宗専称寺、神社12、堂4。

明治6年普広寺に北条校を開校、同20年北条小学校となる。
〇沿革-明治以降
1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い刈羽郡北条村、本条村、東条村が合併し、北条村(きたじょうむら)が発足。
1901年(明治34年)11月1日 - 刈羽郡南条村、小澗村、広田村、長鳥村と合併して、北条村を新設。
1955年(昭和30年)11月1日 - 刈羽郡中鯖石村と境界の一部を変更。
1956年(昭和31年)9月30日 - 刈羽郡中通村の一部を編入。
1957年(昭和32年)10月1日 - 町制施行し北条町となる。
1971年(昭和46年)5月1日 - 柏崎市に編入され消滅。

   
(参考文献 柏崎市史)
 一村限り地税表-柏崎県
   北前船  きたまえぶね  
幕末から明治にかけて年1度北海道・北陸地方から海産物・肥料などを中国・関西方面に運び、その地の物産を積んで帰航した船。
 
名称の北前とは上方の人間が北陸など日本海沿岸の北国方面をさしていう歴史的地域名称であり、北国の物資を運んでくることから北前船と呼ばれた。北陸では北前船のことを「弁才船-べざいせん」と呼ぶが、これは、もともと瀬戸内海で発達した弁才船が北国と上方を瀬戸内海でむすんだ西廻り航路の発達によって日本海沿岸にも進出していき全盛期の北前船の主力となったことによる。    北国船 北国廻船
(ウェキペディア)       

 
   木戸  きど  
江戸市中の町々の境界に立てた保安や取り締まりのための門芝居興行の時の出入り口。 木戸番四ツ時(午後10時)以降は木戸を閉めた。
 
    気取違 きどりちがい 
考え違い。 
 
   吉慶
 きっけい
 
祝うべきこと、めでたい事
 
   吉左右 きっそう  
吉報。良い便り。
 
   急度  きっと
必ず。 厳しく。 しっかりと。 是が非でも。 急いで。  
屹度 
 
  忌日  きにち  命日に回向すること。  
   帰入  きにゅう  仏教を信仰しその教えにしたがうこと。  
  生布   きぬの  晒す前の布。  
   帰府  きふ  
江戸府内にもどること。  役所にもどること。
 
   貴方   きほう  
相手の居場所をうやまって言う言葉。 男子が同等の相手に用いる敬称。
 
   儀明   ぎみょう  
 ※掲載準備中
 
   気村  きむら  気むら。 むら気。 気が変わりやすいこと。  
   究置   きめおく  決めて置く。  
肝煎   きもいり
庄屋(名主)の別称。  幕府の職制の一つ。 世話をすること。
  
肝煎役

 
 
   逆心  ぎゃくしん  主君に対する謀叛。  
   客殿  ぎゃくでん  
寺院などで、客を接待するために 造られた建物。または、広間。
 
   脚絆  きゃはん  
 脛の部分に巻く布や革でできた衣服。日本では江戸時代から使われ、現在でも事故防止などで職種によっては使用している。→画像資料
 
   伽羅  きゃら  香木のひとつ。    
  休意   きゅうい  
安心すること。 
※手紙文に現在も使われる→「御休意または御休心ください」。
 文例→書簡-石黒村庄屋宛て
   給々  きゅうきゅう  それぞれの知行所。  
   旧藩公債  きゅはんこさい  
 明治 4(1871)年の廃藩置県によって、著しい財政制度の混乱が発生したことは、成り行きとして想像できる。いはば、廃藩置県により各藩の債務(旧藩債)は明治政府に移譲されたことは当然である。
 その上、秩禄制度と後の秩禄奉還にともなう奉還償金など、当時の財政は、今日の日本の財政に劣らない借金財政であったであろう。その危機を如何に乗り越えたのかは、現在、筆者は学習中であるが、その一つには地租改正による税制改革正があげらげられよう。更にそれまでの密かなニュアンスの御用金から公の国債の発行による税収に転換したことも大きな進展であった。また、貨幣制度の改革も必要不可欠の要件であったであろう。
 また、各藩から引き継いだ債務については、天保以前の債務は切り捨てられ、弘化元年以降の藩債は開国期の海防等の負債とみなし旧公債として受け継いだのであった。また、大政奉還から廃藩置県までの藩債は新公債として国債で支払われた。
 その後、新旧公債の発行にあたって明治6年(1873)に新旧公債条例が公布され発行規定とともに国債の他人への譲渡、質入れ、売買など「
勝ってたるべし」と規定されている。
 
右資料の石黒の庄屋の布告留め明治4年(1871)の文書では「転売いたし候儀堅く差し止め・・・咎申しつけ云々」とあるのは、条例公布の2年前(明治4)の文書であることによる。
 ちなみに、旧公債の償還が完了したのは、大正10年(1921)とのことである。

  参考文献 富田俊基著 明治維新期の財政と国債
 
   給地  きゅうち  
幕府の旗本、各藩の藩主に対して知行として年貢の取り立てを認めた土地。旗本の場合は知行所と呼んだ。    
地頭
 
   急廻状  きゅうかいじょう・いそぎかいじょう   
急用のため急いで回覧しなければならない廻状。 
 急廻状 石黒資料館文書
    急速   ゅうそく  
急ぐこと。すばやい。 
急速に→急いで 
 
   急飛札
きゅうひさつ   
急飛脚によって送った急ぎの書簡。 急飛脚 飛札
 
   旧幕  きゅうばく
 旧幕領。  旧幕惣代(石黒村文書)
 ・恐れながら書付を以って嘆願奉り候-m.3
   給米  きゅうまい  
下級武士に給付する米。  村役人に手当として与えられる米。
 
   窮民  きゅうみん  
困窮のため生活に苦しむ民衆。
 
  休門  きゅうもん  
後継ぎの絶えた百姓株を暫時保留しておくこと。
 
   久離・旧離・旧里  きゅうり
 兄姉・伯父伯母など目上の者から弟妹など目下の者と縁を切ることを申し出ること。欠落した目下の者との債務などの連帯責任を免れるために縁を切ること。  久離帳
 
   恐悦至極   きょうえつしごく  この上なく喜ばしい事(目上の人に対して使う言葉。  
    狂歌  きょうか   
 滑稽や諧謔を込めて歌った短歌。 ※江戸後期盛んになった
 
   行基   ぎょうき  奈良時代の日本の僧。寺と僧侶を広く仏法の教えを説き人々より篤く崇敬された。そして行基集団を形成し、道場や寺院を49院、溜池15窪、溝と堀9筋、架橋6所、国家機関と朝廷が定めそれ以外の直接の民衆への仏教の布教活動を禁じた時代に、禁を破り畿内(近畿)を中心に民衆や豪族など階層を問わず困窮者のための布施屋9所等の設立など数々の社会事業を各地で成し遂げた。朝廷からは度々弾圧や禁圧されたが、民衆の圧倒的な支持を得、その力を結集して逆境を跳ね返した。その後、大僧正(最高位である大僧正の位は行基が日本で最初)として聖武天皇により奈良の大仏(東大寺)造立の実質上の責任者として招聘された。この功績により東大寺の「四聖」の一人に数えられている。

 その後も、天平2年(730年)9月、平城京の東の丘陵(天地院と推定)で妖言を吐き数千人から多い時には1万人を集めて説教し民衆を惑わしているとされた(続日本紀)[10]。しかし、行基とその集団の活動が大きくなっていき、指導により墾田開発や社会事業が進展したこと、豪族や民衆らを中心とした宗教団体の拡大を抑えきれなかったこと、行基らの活動を朝廷が恐れていた「反政府」的な意図を有したものではないと判断したことから、天平3年(731年)に弾圧を緩め、翌年には河内国の狭山池の築造に行基の技術力や農民動員の力量を利用した。天平8年(736年)に、インド出身の僧・菩提僊那がチャンパ王国出身の僧・仏哲、唐の僧・道璿とともに来日した。彼らは九州の大宰府に赴き、行基に迎えられて平城京に入京し大安寺に住し、時服を与えられている。天平10年(738年)に朝廷より「行基大徳」の諡号が授けられた。(日本で最初の律令法典「大宝律令」の注釈書などに記されている。)

(ウェキペディア)
 
   形儀  ぎょうぎ  →行儀。  
   恐々謹言   きょうきょうきんげん  
恐れ乍ら申し上げますの意味で書簡の最後に記す言葉。
 
恐惶敬白    恐惶謹言  
 
    凶作飢餓の手当 きょうさくきがのてあて    
飢餓を防ぐために、幕府は享保の大飢饉以前から御城米・城詰米などの名称で貯穀を行ってきたが、享保以降も幕領や諸藩に対してたびたび貯穀令を発してきた。
 宝暦3年(1753、)幕府は諸大名に対し租税収入の10分の1の貯米を命じ、郷村集団を一単位とする貯穀を始めさせた。「郡中貯」と呼ばれる凶荒備蓄制度もその一つである。
 御掟條目-明治3年
  供出・供出制度  きょうしゅつ・きょうしゅつせいど
 戦時体制下などで、法律により食糧・物資などを政府が民間に一定価格で半強制的に売り渡させること。
※食糧管理法→米や麦などの主要な食糧について、農家の自家用以外は政府の定める条件で強制的に政府に売り渡す制度のこと。1940年に戦時下に始まったが、戦後、食糧事情が好転すると、芋・雑穀・麦類が次々とこの制度からはずされ,1955年度からは米も生産者が自主的に政府に売渡予定数量を申し込む予約売渡制に変わった。
 
   経蔵  きょうぞう  仏教寺院における建造物のひとつで、経典や仏教に関する書物を収蔵するもの。経堂・経庫などとも呼ばれる。  
   教導職  きょうどうしょく
 明治初期の宗教政策で大教宣布のために設置された宗教官吏。明治5年(1872)から明治17年(1884)まで存続した。
教導職は、無給の官吏で、当初は全ての神官(当時は神職はいない)と神道家や僧侶が任命された。また、民間の有識者も任命された。
教導職は「三条の教則」(敬神愛国、天理人道、皇上奉戴)に基づき、各地の社寺で説教を行った。講じられた内容は国家・天皇への恭順や、敬神思想を中心としたが、そのほか、家族倫理、文明開化、国際化、権利と義務、富国強兵についての講義
(※説教執行)がなされ、国民教育の一端を担うことが期待された。
(引用-ウェキペディア)
 
   京都府下人民告諭大意  きょうとふかじんみんこくゆたいい  
これは、明治元(1869)年、徳川将軍の大政奉還よよって王政復古となり、時代が明治に変わったことを、京都府が府の人々に説明するためにつくった文書。町の世話役や、新政府の布告を人々に読んで聞かせる会所に配られたもの。
 
   行人  ぎょうにん  
修行僧。  乞食僧。
 
  教部省  きょうぶしょう  
明治5年(1872)、神祇省に代わって置かれた宗教関係を所管する官庁のこと、。社寺の廃立、神官・僧侶の任命などを扱った。同10年に廃止 となり事務は内務省に引きつがれた。
 
   京間   きょうま
 建築の寸法基準の1つ。1間=6尺5寸(曲尺)、もしくは、畳の寸法→ 6尺3寸×3尺1寸5分(191cm×95.5cm)としたもの。
京都を中心とした西日本で広く用いられたために京間と呼ばれるようになった。
※石黒で使われたものは、 5尺8寸×2尺9寸(176cm×88cm)の江戸間、関東間、田舎間などと呼ばれる寸法で関東地方と全国各地で 使われている寸法。
 
  京枡  きょうます  
江戸時代京都で作られた桝。寛文9年(1669)江戸桝を京桝に同じくして以来これを用いた。
 
   去々月  きょきょげつ  先々月。  
   清崎町  きよさきまち  
現在は糸魚川市の大字名。明治12年ごろに糸魚川町7町とは別に清埼町をつくり戸長・町会が置かれたが、その後再び7町・上刈村に吸収合併された。
※清崎県→明治4年7月14日~11月20日の県名。廃藩置県により旧清崎藩領をもって成立したが、明治4年11月20日に柏崎県に編入された。

・新紙幣発行についての布告-明治4.12
 
   許状  きょじょう
罪を許すことを記した文書。赦免状。 禁令や願いを許す旨を記した文書。
※関所手形の表題として用いられた文例も見られる。 
→許状 (石黒村庄屋文書)
 
   切起・伐起  きりおこし
新しく荒地や原野を開拓すること。
 
 
   切替畑  きりかえはた
 作物を数年栽培して来て土地がやせた時に、他の場所に新しい焼き畑をつくること。 
 ※主に焼き畑に限って使われた言葉と思われる。昔の石黒では焼き畑でソバや大豆を作ったが数年後には他の場所で焼き畑をして地力のある畑に替えた。石黒の昔の暮らし-かんの(焼き畑)
 
   切紙・剪紙  きりがみ  
→説明資料
 
   切添 きりそい 
 田畑の周りの土地を開墾すること。 本田に隣り合った新田。
 
   吉利支丹・切支丹・喜利支丹・切死丹  きりしたん  
キリスト教とその信者のこと。  切支丹宗旨  切支丹宗門
 
   切支丹ころび者  きりしたんころびもの   
キリスト教を捨てて仏教に改宗した者。   →
転之者  
文例1 
   切坪  きりつぼ  
田の中の適当な所を一坪決めて、そこの稲を刈り取り収穫量の見当をつける検見法の一つ。
 
   切畑  きりはた  
山の斜面や林野を開墾して作った畑。
 
    切畑免  きりはためん  
 切畑の租税を免除すること。
 
   切開 きりひらき   
既にあった田を広げるのではなく、新たな場所に田を開拓すること。新田開発
 
    
切棒
 
きりぼう
  
短い駕籠かつぎ用棒。  切棒駕籠
 
  切米  きりまい   
旗本、御家人に年3回に分けて支給された扶持米のこと。
 
  切餅   きりもち 一分銀100枚、つまり25両を四角形に紙に包んだもの。   
   得貴慮  きりょをえ  貴方の御考えを伺って。    例-近日可得貴慮  
   木和田原    きわだはら  
 鍋立山東麓ある村で、古来、落葉高木キワダの繁る原であり、それが地名の由来と伝わる。
 江戸期から明治22年の新田名、木和田原新田。はじめ高田藩領,天和元年から幕府領、村高は正保年間8石、天和年間25石、天保年間で38石余。十二神社あり。元禄11年堂宮除地にも木和田原村とある。安永9年新田検地高8石余。
 天明・天保に飢人扶食米願いを足している。天明3年の松之山百姓騒動では犠牲者がでた。戊辰戦争では蒲生宿出役があった。
 明治12年からは東頸城郡に所属する。昭和5年から現在の大字名、はじめ奴奈川村、昭和34年から松代町の大字。

(参考文献 角川地名大辞典 上越市史)
 
     きん  
約600グラム。 1斤→160匁。  ※→重さの単位表
 
   金座  
きんざ
 
江戸・佐渡・京都に置かれた金貨を鋳造した役所。         
 銀座→※東京銀座の名前の由来となる。
 
   金札  きんさつ
諸藩が発行した金貨代用の紙幣。慶応3年幕府が発行した江戸銀座金札。

   
銀札
 
   金主  きんしゅ  
。興行や事業などに資金を出す人。金方-キンカタ。 近世,大名に金を貸した者。
 
   金子  きんす  
金。  金銭全般を指す言葉。  
金銭
 
  金納  きんのう  
貨幣で年貢を納めること。
 三分一金納→年貢米の三分の一を金納すること。
※享保初年代、金納値段は地域ごとの相場を基準に定められた。代官が相場書きを勘定所へ提出すると、勘定所が一定の割り増しを加えて「せり上げ値段」を決めた。享保7年には代官が「せり上げ値段」を決めて勘定所へ伺うものとしたが同地域で代官によって異なる値段が決められることもあった。享保19年勘定所は国ごとにせり上げ高と相場調査場所を定めた。越後国のせり上げ高は享保7年から10か年分を検討して、
金1両に米1斗2升とした。また、相場算定場所を沢海領・出雲崎領・頚城郡・魚沼郡の4か所に分け、頚城郡は高田、今町・糸魚川の3個所の上新米の10月15日より晦日までの平均値段を基にせり上げ高を算定した。
しかし、地理的に恵まれない僻村にとっては、この3個所の調査場所から算定される相場は低い地元相場との差額が大きいことが多くその弁納に苦しめられた。
いうまでもなく廻米(米穀で納める)となると、高田・柏崎までの道のりは長く険しく米代より諸経費が高くなるほどであり皆金納に頼るより他なかった。
 このような事情はその後も長く続き村人を苦しめたことは今日残っている村文書からも明らかである。他国稼ぎが多かったことからもこの辺の事情をうかがうことができよう。

(参考文献-松之山町史)
 
   金秤  きんばかり  
金銀や薬などのきわめて微小な貴重品の重さを計るために使う棹秤(さおばかり)形は小さく5匁(約19g)を最大限とする。 銀秤 
 
   銀秤  ぎんばかり  
金秤と同様小型の秤で最大限度100匁(375g)のもの。 
金秤
 
   吟味  ぎんみ  
罪状を調べただすこと。  物事を調査すること。  
詮議
 
   近来  きんらい  
近頃。この頃。    近来の内→近いうち
 
    愚意  ぐい  自分の意見や考えをへりくだっていう言葉。  
   喰初  くいぞめ  子どものために、生後100日目または120日目あるいは110日目に行われる民俗行事。  
   空米  くうまい・からまい  
帳簿上に記載さているが実際には存在しない米。
 
  空米先納  くうまいせんのう
 諸大名の蔵屋敷に現物の米がないにもかかわらず米切手による売買を行うこと。来年の入荷を見込んでの取引することを空米先納と呼んだ。
 
   空米切手 くうまいきって・からまいきって   
こちらにも米の現物はなし先方にも買う意思もないにも関わらず米の取引きを行うことをいう。大阪堂島で行われたが後に幕府は禁止した。しかし幕府は亨保の米価暴落ではこれを奨励したため後に禍根を残すこととなった。
 
   公家  
くげ

 天皇を中心とする朝廷又は、そこに仕える朝臣。
 
  愚札   ぐさつ  
自分の手紙をへりくだって呼ぶ言葉。
 
  草高    ぐさだか  
領内で収穫される米の総高。
 
 公事  くじ  
訴訟、民事裁判  朝廷の公務。
 
   公事出入  くじでいり  
裁判沙汰となるもめごと。またはその手続き
 
  公事方   くじかた  幕府の訴訟関係の仕事を扱ったところ→公事奉行。  
   鬮金
くじきん
 

頼母子講で入札または抽籤で当選したものが受け取る金銭のこと。
 
   公事訴訟  くじそしょう 
 民事裁判、つまり犯罪を罰する裁判以外の裁判のこと。
 
   俱生神  くじょうじん  公倶生神(くしょうじん)は、人の善悪を記録し死後に閻魔大王に報告するという2人の神のこと。
 倶生とは、倶生起(くしょうき)の略で、本来は生まれると同時に生起する煩悩を意味する。
 人が生まれると同時に生まれ、常にその人の両肩に在って、昼夜などの区別なく善悪の行動を記録して、その人の死後に閻魔大王へ報告する。左肩にある男神を同名(どうめい)といい、善行を記録し、右肩にある女神を同生(どうしょう)といい、悪行を記録するという。
インドでは冥界を司る双生児の神であったが、仏教が中国に伝わると、司命などの中国固有の思想などと習合し、また中国で成立した偽経の中において様々な性格を付加されるに至った。また日本に伝えられるや、十王信仰と共に知られるようになり、絵画や彫刻などでも描写されている。
(ウェキペディ)
閻魔堂に関する文書-柏崎市 
   公事宿 くじやど 
 農民が訴訟や願書などを持参して出府した時の宿泊する宿。
 
   鯨尺 くじらじゃく   
1尺が曲尺(かねじゃく)の1尺2寸にあたる物差しで和裁に使った。
※昭和の中期までは家族の着物は自家で作ったため、どこの家にも鯨尺の物差しがあった。
 
   鯨波村 くじらなみむら 
 北鯨波は戦国期から見える地名。江戸期~明治22年の村名。
 北側は日本海に面し、東は柏崎市街、西は米山三里を経て鉢崎に至る。
その昔は桂浜(かつらはま)と呼ばれていたが、ある時、鯨が浜にあがったことにより鯨波というようになったという伝説がある。
 1598年(慶長3年)堀秀治が春日山城に入城。河内村を鯨波村に編入合併。
1610年(慶長15年)北国街道 (信越)の「宿」に指定される。北国街道は佐渡の金を江戸に運ぶために整備された。次の鉢崎宿までは米山三里という難所があり住民は賦役に難渋した。
 1710年(宝永7年)松平越中守家領。(高田藩)
 1741年(寛保元年)松平定賢が白川に移封、白川藩飛地領となる。
 1823年(文政6年)松平家の転封に伴い桑名藩飛地領となる。
 1868年(慶応4年)閏4月27日 - 戊辰の役・鯨波戦争、新政府軍と桑名藩士が鯨波で激突。砲火により民家炎上。
 1878年(明治11年)9月10日 - 明治天皇巡幸、下條家で小休止の後、海の見える高台で野立てをおこなう。(現在の御野立公園)
 1889年(明治22年)4月1日 - 町村制施行に伴い刈羽郡鯨波村が村制施行し、鯨波村が発足。
 1904年(明治37年)4月1日 - 北越鉄道(現在のJR信越線)の駅として鯨波駅が開業。後に鯨波海水浴場が人気となり夏の観光地として賑わう。
 1940年(昭和15年)4月1日 - 刈羽郡柏崎町に編入され柏崎市鯨波となる。
(参考文献-ウェキペディア)
 
  鯨波戦争

(鳥羽伏見の戦い以後鯨波戦争までの経過を含む)
 
 くじらなみせんそう  
鳥羽伏見の戦いで勝利した討幕派は1月4日に仁和寺宮嘉彰親王( あきひとしんのう)を征夷大将軍に任命した。そして山陰、東海、東山、北陸と中国、四国、九州のそれぞれに
鎮撫総督を任命し薩摩長州の藩兵をつけて派遣した。
 北陸道鎮撫総督は1月5日に設置され、高倉永袺が任命された。また、本願寺に命じて同寺宗門の僧を派遣して人民の教諭にあたらせた。
 この時期は北陸道は積雪期であったため、鎮撫総督の派遣に先立て北陸各藩に対して恭順を促す書状を勅書として順達した。勅書は、柏崎町を6日に通過して椎谷藩に向かった。柏崎町役人は、総出で裃を着用して中浜の勝願寺まで出迎えたという。
 総督軍は1月20日に京都を出発して小浜、敦賀、2月15日には福井城下に到着した.その間、総督は各藩に対して
①藩主が総督の軍営に来て勤王を誓うこと。
②重臣を上京させること。
③領国の図面と総高水帳を差しだすこと。
④旧幕領の領地を調べ前年の貢租納入状況を報告すること。
⑤窮民の撫育に努める事。
などを命じている。
 一方、2月9日には東征大総督府を設置し有栖川宮熾仁親王ありすがわのみや たるひとしんのう()を大総督とした。そして、江戸城総攻撃を3月15日と定め東海道、東山道、北陸道各軍に進撃を急がせた。東海道先鋒総督軍は3月12日に品川に、東山道軍も14日に板橋に到着した。
 しかし、北陸道先鋒総督軍は冬の北陸道進軍は難行したが3月11日から糸魚川に入った。
11日の若狭小浜藩の392人をはじめ次々と到着して、その数1400人も達し糸魚川藩は近郷から1000人以上の助郷人夫を出勤させるなどその応接に忙殺された。 
 総督軍は13日から高田に到着し、高倉、四条両督は15日の夕刻に到着し翌16日に越後11藩の重臣を招集して上記①~⑤について改めて命じた。
 また、会津藩を抑えるために高田、新発田藩は政府に協力するよう命じられ高田藩は総督の下越進行に従うことになった。その他の藩も誓書を提出して勤王を誓わされた。
 ところが、そのころ大総督府から北陸道先鋒総督軍に対して、即時転進するよう命令が届いた。この時、越後諸藩の動向を探っていた柏崎町の郷士星野藤兵衛らは、今総督軍が越後を離れれば諸藩が賊軍に走ることは必定であるとして、せめて軍1隊でも越後に留め置くよう進言したが聞き入れなかったという。こうして総督軍が去ってしまうと、恭順を誓った諸藩も、星野が危惧したように越後は不穏な状況になった。
 一方会津藩は小千谷陣屋へ500人、酒屋陣屋に300人、新潟町へも300人の兵を出して新政府にたいして行動を起こした。また、古屋作左衛門に率いられた旧幕府歩兵第11.12連隊の集団脱走兵が藩から軍資金の略奪などを始め、新発田藩を脅迫して1千両を献納させる、そのほか、与板藩に対して城を明け渡すか、10万両を差し出すかと脅迫して1万両と米500俵を略奪した。
柏崎には16日歩兵隊570人ほどが到着して17日には柿崎方面に向かった。
 当時の高田では勤王佐幕かの議論が決定せず曖昧な立場にあった、しぜん、旧幕府歩兵隊への対応も、粗暴の行動は一切しないという条件で古屋隊の城下通過を黙認した。その結果、後にこの高田藩の措置が新政府の大きな疑念となったのであった。
 4月22日に古屋隊は信州飯山へ向かって新井を出立した。飯山藩は2万石の小藩であり藩論は勤王に決まっていた。しかし、古屋隊を恐れ佐幕の方針であると欺いた。
 信州の旧幕府領は勤王の尾張藩が支配していたので、同藩は領内各所を固め、松代藩と連合して飯山藩を応援する態勢をとっていた。4月25日尾張、松代等の諸藩兵は古屋隊に対して砲撃を開始して飯山藩兵も城内から砲撃を加えた。古谷隊は多数の死傷者を出して新井に逃げ帰った。この結果をみて高田藩は古屋隊が勝手に民家に泊まることを許さず新井別院に止宿させた。
 そして、翌26日、古屋隊に対して旧幕領の川浦代官所へ移動するよう要請した。しかし、尾張、松代、飯山、松本など東山道総督軍が新井に迫ってくると高田藩も行動を起こさない訳に行かなくなり、川浦の古屋隊に対して砲撃を開始した。古屋隊は到着して夕食も半ばに高田藩からの攻撃をうけて安塚、小千谷に向かって退却した。飯山藩や高田藩の動静は4月27日には柏崎に伝わった。夜には敗残の歩兵隊が30人ほど泊り、6日には50人ほどが通過した。
 尾張、松代、飯山などの藩兵は信州から新井に入ると、高田藩が古屋隊に対してとった処置を糺すための糺問所が設けられ高田藩の重臣が呼び出しをうけた。一方この報告を受けた江戸の北陸道知鎮撫総督は、高田藩の態度に不審な点があるとして総督軍に従属していた高田藩兵の帰藩を命じた。事の重大さに気付いた高田藩は総督府に数回にわたり弁明書を提出しするとともに松代、加賀藩にとりなしを依頼した。そして明確に勤王の態度を表明し新政府軍の先鋒として働くことを示したのである。

 将軍慶喜は江戸に帰ると、上野寛永寺に蟄居してひたすら謹慎の意を表、桑名藩主松平定敬(さだあき)も深川霊岸寺にこもって謹慎した。さらに、慶喜が3月に入り水戸に引退すると,定敬も越後の分領柏崎に退隠する決意を固めた。これより先、本藩桑名では激論の末、謝罪恭順に藩論を統一して定敬の義弟万之助を擁して嘆願書を提出し1月28日に桑名城を無血開城し、万之助は四日市の法泉寺に預けられた。
 つまり、4月に至るまでの定敬の心境は、慶喜の内意を体し、ただ謝罪恭順にあったようだ。ロシア船コリア号に乗り品川沖を出発し津軽海峡を経て新潟に上陸、そこから北陸道を通って藩士220名とともに3月晦日に柏崎に到着した定敬は、剣野山に用意された御殿楼には入らず大久保の勝願寺で謹慎したのであった。
 藩主に遅れて4月4日に来柏した吉村権左衛門をはじめ服部半蔵、沢采女(うねめ)、政事奉行久徳小兵衛など一行20人も謝罪恭順節で勝願寺、極楽寺、西光寺等に分宿し謹慎した。
 一方、西郷と勝の会談で江戸城の無血開城が成功したが、新政府の朝敵に対する処罰は、罪状を五等にわけて、第1等は徳川慶喜、第2等は鳥羽伏見の戦いの主力となった会津藩主松平容保(かたもり)、桑名藩主の松平定敬(さだあき)等とし、彼らに対しては妥協を許さぬ激しい態度であった。例えば、会津藩討伐の厳命を受けた仙台、米沢両藩が会津藩に降伏をすすめ、退去謹慎、削封などの降伏条件をまとめたが新政府は一蹴した。会津藩をはじめ奥羽列藩は、その私怨的行動にでる薩長の態度によって次第に硬化していったのであった。
 柏崎に滞在する桑名藩主松平定敬が抗戦の決意をしたのは、閏4月初旬であるが、それは会津の硬化と密接な関係があった。だが、在柏の藩士は恭順派が圧倒的に多数を占め藩主の、謹慎を要求していた。そこで定敬は在柏の恭順派を強行突破するため、その中心にいた吉村権左衛門を4月3日の夜に斬殺したのである。吉村は柏崎陣屋より勝願寺に行く途中の栗鳩小路端において不意打ちされ落命した。
 将軍および会津、桑名両藩の恭順にあきたらず脱藩した2千余人の主戦強硬派は互選をもって大島主介を首領に撰び、各地には転戦4月19日には宇都宮城を落とし、前橋、高崎をも席巻したが、その後、桑名脱藩士80人余は分進して閏4月4日に会津礎村に至った。たまたま、隼太郎の父、軍事奉行山脇十左衛門が会津藩に発信した柏崎の情勢を知り、松浦秀八外7名が直ちに柏崎に急行した。それは、吉村の暗殺に激昂した恭順派が定敬の封じ込みを策しつつあったからである。閏4月11日、主戦強硬派の本隊が到着する、両派の対立は最高頂に達した。
 当時、柏崎には総宰である藩老久徳隼人、服部半蔵、沢采女(うねめ)らがいたが藩論をまとめる器量に乏しく内ゲバの様相さえ呈するに至った。しかし、幾度か死線を越えてきた主戦強硬派の主張の前に多数を誇る恭順派も押し切られてしまった。
 こうして、閏4月13日、直ちに軍事体制が確立した。軍事体制確立するにあたり各隊の長は投票で選んでいることは越後の諸藩中にあっては稀有なことであった。それは鳥羽伏見戦以後歴戦の勇士が台頭し、その実績が重んじられた事、各地における脱藩士混成軍の首領が衆評でえらばれたので主戦強硬派の経験が採用されたとみてよいであろう。この点は薩長の指導者が実力のある下級武士で固められたのと同様である。
 雷神隊の隊長立見鑑三郎はこの時24歳、性は沈着豪気にして聡明、宇都宮戦争、鯨波戦争で実戦で活躍し信望を集めた。降伏後、西南戦争に新選旅団参謀副長、日清戦争には歩兵第十旅団長、日露戦争にも従軍し中尉から大将に昇任した。さらに、近衛連隊長、男爵に列せられている。賊藩の隊長としては,五稜郭の榎本武揚(たけあき),大鳥圭介らとともに特異な存在といえよう。また、吉村を暗殺した山脇隼太郎は20歳、高木順二郎は22歳、両人は会津戦争後箱館に走った松平定敬のもとに参じた。降伏後藩庁は多聞をはばかり渡米させ滞米10年の後、京浜実業界で活躍した。また、藩主定敬も22歳の青年であった。柏崎の主戦強硬論はこのような若者たちの血気によって演出されたものと言える。
 この柏崎勢は軍事総宰服部半蔵を総督とし、軍事奉行山脇十左衛門等が軍事方を構成し本営を柏崎陣屋に設けた。次に雷神隊隊長に立見鑑三郎、副長富永太兵衛、致人隊隊長松浦秀八、副長馬場三九郎、神風隊隊長町田老之丞、副長大平九左衛門、大砲隊師範役頭梶川弥左衛門、師範役三木十左衛門、首藤金右衛門、器械方取締高松源五左衛門と決定した。
 閏4月14日、柏崎は藩主定敬の根拠地としては、関東方面から三国峠が攻略された場合に孤立するため不適と判断して預領加茂に移動することになった。定敬は16日政事総宰沢采女(うねめ)外80余人とともに柏崎を発った。定敬の服装は馬乗袴、割羽織、白の草履履き、紙製の笠に黒塗金紋をほどこし、従者はすべて徒歩で陣笠をかむり、鉄砲を所持した。一行は田尻、北条、塚之山を経て小千谷で1泊し加茂に退いた。
 藩には明治元年4月14日、大総督府は、薩摩、長州、加賀、富山、郡山、小浜などの諸藩に越後出兵を命じた。また、新発田、村上、村松、与板、三根山、糸魚川、黒川、三日市氏の越後8藩には薩摩藩兵に加勢するように命じた。19日、高倉永帖を北陸道鎮撫総督に任命し、黒田了介(清隆)、山県両参謀の率いる本隊の海道軍約2500名は、薩摩、長州、加賀等6藩兵で、高田藩家老竹田十左衛門が先鋒となって柏崎市に向かった。途中柿崎で黒岩口、鉢埼で谷根口に兵を割き本隊は米山峠を越えて青海川に至った。
 これに対して東軍は桑名350人が鯨波に陣取って北越本道に備え、会津藩士松田昌次郎の率いる後衡隊200人はともに隊会津藩士木村大作の率いる浮撃隊100人は谷根口を守った。
 かくして閏4月27日未明(4時ごろ)両軍の戦闘が開始された。薩長の攻撃に対し、松浦の率いる致人隊が鯨波入り口で応戦、多勢に無勢、ついに致人隊は支え切れず退き、雷神隊、浮撃隊とともに小河内山、嫁入り坂に防御線を布いた。この間新政府軍は洋式の大砲2門を猛烈に発射して、東軍は大窪製の旧式砲で応戦し威嚇するため村民を徴発して一発ごとに歓声を挙げさせた。鯨波の人家は両軍の砲火で炎上、しかも風雨激しく潜血は泥にまみれた。
 薩長に後れを取っていた高田、加州の兵は鯨波の浜から蘭穴(鬼穴)の前に出て山上の東軍と激しく銃撃戦を展開した。また、小河山の立見率いる雷神隊、木村の浮撃隊は地の利を得て善戦、薩長軍を苦しめた。しかし、夕刻に至って東軍は番神堂に退き、新政府軍は進んで東の輪を占拠したが将兵は疲れて鯨波に後退した。
 山県有朋は京都の広沢兵介に宛てた書簡に「柏崎口は、加州勢の狼狽により、我が兵の先登を討ち候など仰天、榊原は却ってよく働き候」と高田藩を褒め加賀藩の臆病をののしっている。しかし、戦勝者をみると長州戦死2人も負傷7人、高田藩戦死者3人、負傷者8人、加州戦死者3人、負傷者24人で加賀藩が最も多い。当時の鉄砲は振動が大きく心身ともに困憊し、一人で平均180発を射込んだ加賀勢は夕刻が迫ると発砲と同時に気絶、これを後方に運んで水を注いだり気付け薬を飲ませたりして正気に返し、また鉄砲をとり射撃したと加賀藩庁に報じている。こんな状態であったので突貫する長州軍の背に命中し山県を憤慨させたのであろう。
 これに対して東軍は、桑名藩の記録に討ち死に1人、負傷8人、脱走1人とある。しかし、
負傷の平野吉二郎は28日半田村、三宅厚は5月1日妙法寺村で死亡している。また、肥木根元は東の輪で戦死、首級は同じ致人隊の小寺清若が薬師堂に葬った。別に鯨波村民の目撃談によれば立見の雷神隊の1人が重傷を負い介護人もなく切腹したという。
 また、負傷者は致人隊隊長松浦秀八以下、佐藤理助、西条従蔵、梅林善次、石井勇次郎、相馬芳右衛門等がいる。負傷者は、鉄砲隊の結果銃創が多く、石井は不運にも鯨波で尻を討たれ、運悪く再度8月2日加茂戦争でも尻をうたれた。
 一方、北陸支隊の山道軍は、22日魚沼郡千手村(中魚沼郡川西町)に到着し、ここで二手に分かれて進撃することにした。一隊は十日町を経て六日町に進み、一隊は雪峠から小千谷に向かった。三国峠では新政府軍に備えて早くから会津藩が防備を固めていた。
 閏4月21日関東方面の東山道郡は進撃を開始し、前橋、高崎、沼田等の上州諸藩兵約1500人を率いて、翌22日には永井村入った。そして、盤石隊に陣地を築いた会津軍と対陣した。24日明け方、濃霧の中を上州諸藩兵が突撃を開始した。激戦は午後3時頃まで続いたが、会津軍は東山道の攻撃に抗しきれず遂に全軍総崩れとなって敗走した。東山道郡は会津軍を追って、26日に六日町に入った。入れ替わりに前日到着の北陸支隊の山道軍は翌27日小出島に向かって進軍した。このため、会津兵200余人は、60里越えを越えて会津領へ敗走した。
 また、26日に千手を出発し、小千谷を目指した山道隊の一隊は、その日のうちに真人村(小千谷市)に兵を進めて雪峠を死守する会津軍および古屋作左衛門の率いる衡鋒隊と戦った。守備していた軍・旧幕府歩兵隊は約200人で、およそ3倍の新政府軍を迎えて勇戦したが、午後5時ころ小千谷へ退却した。さらに、その日のうちに兵をまとめて信濃川を下り、片貝方面に撃退した。そして柏崎方面にある会津、桑名、旧幕府歩兵隊との連絡を計った。
 磐若塚、雪峠の敗報は交戦中の東谷軍にもたされた。もはや、柏崎はその戦略的意義を失った。桑名軍は翌28日早朝までに刈羽郡妙法寺に撤兵し、小千谷を放棄した会津軍と合流した。以後桑名藩主戦派は箱館戦争の終結まで苦難の転戦を続けた。
 閏4月の戦争は、会津、桑名、幕臣による中越死守の戦闘で、鳥羽伏見の戦いの延長戦である。武士の意気地にかけて寡兵よく戦った。これに対して長岡藩を始め中越以北の諸藩は拱手傍観の謗りを免れ得ない。したがって、5月に入って自藩の向背を迫られると、奥羽越列同藩同盟と新政府の板挟みに合い,あるいは戦意を失い、または、敗北に陥った。薩長を中心とし統制のとれた新政府軍と自藩主義から脱し切れない不統一な同盟軍では大局的な戦略体制に大きな相違があったのであろう。

 
参考文献 柏崎市史、ウェキペディア
 
 
   曲事  くせごと
法に違反すること。また、それを処罰すること。
 
 
  草生水   くそうず  
石油のこと。草生津、草生水油、臭水とも呼んだ。
※「くそうず」は筆者(1938年生まれ)の子どもの頃は日常語として使われていた。くそうずランプ「」も使われていたが、照明度は低く黒い油煙が多く発生した。
 関連資料
石黒の歴史-石油掘削
   砕米  くだけまい
 籾摺りや精米などで砕けた米。
 
   下置  くだしおく  申し渡しておく。  与えて置く。  
  口達   くだつ  
もともと口頭で伝える意味であるが、役所などから法令や命令を文書に書き記して知らせること。
 
   如件  くだんのごとし  上記のとおりである、の意味。     例- 一札如件    
   口入  
くちいれ

奉公口や縁談また金銭の世話あるいは訴訟の仲裁などをする者。
 
     口永  くちえい
年貢を金納した場合の口米にあたるもの。  口銭(くちせん)ともよばれるが銀で納められた場合は「口銀」。
卯より辰両歳御年貢皆済目録拝見証文
   口銭  くちせん・こうせん
江戸時代の商業利潤。中世の問丸における問米、問銭、などが,近世問屋の発展につれて口銭と呼ばれるようになった。
その内容には仲介手数料、運賃、保管料が含まれる。 
水上口銭  
 
   口米  くちまい  
江戸時代、米納の本租である年貢米のほかに加徴された税米。年貢の減損などを補うためのもの。
 卯より辰両歳御年貢皆済目録拝見証文
   口書  くちがき  
裁判や訴訟で当事者の申し立てを記録し本人に読み聞かせ捺印させた文書。
 
   口留  くちどめ  領内の物資を領外へ出すことを禁ずること。  口外することを禁ずる。  
   口留番所  くちどめばんしょ
 江戸時代に各藩が藩の境界や交通の要所などに人や物の出入りを監視するために設置した小規模の関所。また、通行する品物への税金(口役銀)を徴収する役目も果たした。境目番所
※石黒村では現在の郵便局辺りに口止め番所があったと伝えられている。石黒の昔の暮らし-参考資料
※しかし、安永2年の石黒村明細帳下書きには、口止め番所の項目に、「御座無く候」と記されているので、安永2年以降に設けられたという事になろう。しかし、天和3年の検地帳には「刈羽郡別俣郷女谷村之内石黒村」とあり94石4斗7升4合の村で「屋敷は26筆、内1筆は境目番所」とある。
 
   国役金  くにやくきん  
幕府が国・郡を限って課した臨時の税金、その使い道は特に諸国の堤防構築、修理などであり、越後では関川、阿賀野川、魚野川、信濃川、飯田川が国役普請の指定河川としてあげられている。
国役普請-こくやくぶしん
 
   頸城郡   くびきぐん・くびきこうり  
 古代~近世の越後国の郡名。越後国の西南部にあった郡。現在の上越・新井・糸魚川市、西頸城・中頸城・東頸城郡にあたる地域。
 日本海に面し、南と西の信濃・越中との国境は高い山岳地帯をなして中央には関川(荒川)が流れて平野を形成している。
 郡名の由来については「国引き」説、「古志(腰)」に対して「頸→首」説、蝦夷を防ぐための「杭柵-くいき」説など多い。
 当初は越中国であったが、大宝2年(702年)3月、古志郡・魚沼郡・蒲原郡とともに越後国に譲られた。
 所属町村の変遷は、東頸城郡発足までの沿革、中頸城郡発足までの沿革、西頸城郡発足までの沿革は下記のとおりである。
〇後の東頸城郡域(173村) - 幕府領(出雲崎代官所・高田藩預地・川浦代官所)、越後高田藩
〇後の中頸城郡域(2町783村) - 幕府領(高田藩預地・川浦代官所ほか)、越後高田藩、越後糸魚川藩
〇後の西頸城郡域(7町170村) - 幕府領(高田藩預地)、越後高田藩、越後糸魚川藩
〇慶応4年7月27日(1868年9月13日) - 幕府領が柏崎県(第1次)の管轄となる。
〇明治元年11月5日(1868年12月18日) - 柏崎県を廃して新潟府に合併することが布達される(実行されず)。
〇明治2年 2月22日(1869年4月3日) - 再度柏崎県を廃止する布達が出され、越後府(第2次)に合併。6月24日(1869年8月1日) - 任知藩事にともない、糸魚川藩が清崎藩に改称。
8月25日(1869年9月30日) - 旧・柏崎県の管轄地が柏崎県(第2次)の管轄となる。
〇明治4年 7月14日(1871年8月29日) - 廃藩置県により藩領が高田県・清崎県の管轄となる。11月20日(1871年12月31日) - 第1次府県統合により全域が柏崎県の管轄となる。
〇明治6年(1873年)6月10日 - 全域が新潟県の管轄となる。
明治12年(1879年)4月9日 - 郡区町村編制法の新潟県での施行により、安塚村など167村に東頸城郡、高田城下など3町771村に中頸城郡、糸魚川町など7町167村に西頸城郡が、それぞれ行政区画として発足。同日頸城郡消滅。

(参考文献-国史大辞典・角川地名辞典・Wikipedia)
 
   公方  くぼう  元の意味は天皇・朝廷のこと。江戸時代は将軍を指す。 公方様  
   工米  くまい  
造営工事に使役する人夫に給与し糧米。各地に賦課して徴収した。伊勢神宮造営の役夫工米は有名。
御布告留 
   愚昧  ぐまい  
おろかで道理に暗いこと。
愚昧の小前。
 
   組合村 くみあいむら 
 村々の自主的な連合体。江戸時代の村は、さまざまな契機によって、周辺の村々との間に多様な連合関係をもっていた。 
※高柳村古文書には「鯖石組」の組合組織が見られる。石黒村は「上条組」に属した時代があった。また、「郷」の連合体もあり石黒村は「別俣郷のうち」と記された文書も見られる。
 
   組合割り  くみあいわり  
江戸時代の村は、年貢米の輸送や触の伝達、村役人の役所への出勤など領主支配に関わる諸経費を共同負担するため、周辺の村々との間に多様な連合関係をもっていた。 そこに発生する「郡中入用」「組合村入用」等の費用の各村々への負担額(「郡中割」「組合割」等)の算出ために庄屋が立ち会った。
・ 廻状₋組合割り
   組親  くみおや
五人組のまとめ役・組長。  ※筆者が子どもの頃(1945のころ)の隣組のまとめ役も「くみおや」と呼んでいた。その後「班長」で現在に至っている。
 
   組頭・与頭
 くみがしら
 
村役人の役名のひとつで庄屋または名主を補佐する役職。 五人組の筆頭を指すこともある。 武家の職制の一つで鉄砲組・弓組などの長を指す。
 
   組頭給米  くみがしらきゅうまい  
村役人の組頭の手当として与えられる米。 
庄屋給米
 
   蔵組  くらぐみ  
郷村に設置された倉庫を共同で使う村で構成された組のことであろう。
 
   位付  くらいづけ  
検地によって田畑の等級を決めること。それにより石盛(こくもり)を決めた。
貞享3年以降は、上上・上・中・下・下下の5つの位に分けられた。
 
   公役  くやく  
幕府が藩主へ、また藩主が領民に課した課役のこと。  
公役金
 
   蔵組 くらぐみ   
※古文書辞典にも見当らないが御用の米蔵管理に当たる人々を指すのではないか。
 
   蔵前入用  くらまえにゅうよう  御藏前入用  
  庫裏  くり  
寺院で食事を作る建物、または住職やその家族の住む場所。
 
   車連判状  くるまれんぱんじょう
一揆などで用いられた円環状の署名形式。→傘形連判状、車連判状、藁座廻状とも呼んだ。
首謀者が分からないような形式として用いられものであろう。
文例→
徒党並車連判等いたし 
 村中約定一札 門出村と石黒村との入会地争議
   郭・曲輪  くるわ  
城の内外を土塁、石垣、堀などで区画した区域の呼び名。 遊。遊里。いろまち。
 
   黒滝村  くろたきむら  
 ※掲載準備中
 
   黒姫山   くろひめやま  
 上越地方とその周辺には三つの黒姫山がある。柏崎市にある黒姫山(890m)と糸魚川市青海町の南方にある黒姫山(1222m)、それと、長野県上水郡(かみみのちぐん)の黒姫山(2050m)である。
 柏崎市の黒姫山の山頂に建つ鵜川神社は、古来、機織りの神、養蚕の神、水の神、馬の神として信仰されてきた。
 昔は、縮布の生産が盛んであったことから、機織りの技を身につけない女性は嫁にも行けない時代で、機織りの熟達を祈願する若い娘の参拝者が特に多かったという。昔から地元のみならず、遠く十日町、栃尾、見附など機業地から機織り娘たちの参籠、登拝で有名な山であった。高柳町史によれば、祭礼の7月15日は
「14日の夜から15日の早暁にかけて、参詣者の提灯が延々と麓まで続いた」と記されている。
 また、黒姫山の西嶺の地蔵峠には俗称松之山街道の脇街道として現在の上越市、十日町方面、(東頸城郡)から石黒を経て柏崎に通じる重要な街道が通っていた。昭和二十年代には未だ石黒では生活道路として使われていた。その後も山頂にある地蔵尊の春秋の祭礼が石黒地区、鵜川地区の人々を中心に行われて来た。現在(2017)も秋の祭礼が行われている。
 昔から黒姫山は、「水山・水がめ」などと呼ばれるほど豊かな水源に恵まれた山であった。全国棚田百選に選ばれた「花坂新田」も黒姫山地蔵峠付近の「水穴口」と呼ばれる水源を利用して開田されたものである。

〇参考資料
黒姫山の生成について
黒姫山と昔の石黒の暮らし 
地蔵尊まつり2014.9.4
ビデオ-地蔵峠地蔵尊御堂の改修

民具-馬の鈴
 資料-山中村庄屋文書「乍恐以書附奉願上候」
   黒姫大明神  くろひめだいみょうじん  
 黒姫大明神は、はじめ鵜川神社と称していたが垂迹神として「黒姫大明神」と呼ぶようになった。また、本地仏を如意輪観世音菩薩とした。その理由は定かではないが次のような文献が見られる。
 『本来、この地方はヌナカワ郷と呼ばれ式内社奴奈川神社の位置は現在も明確ではないが古代文化の中心であった。この地方に、このような神社が伝わっていることは、文化史上、重要な意義がある。
 さて、何時ごろからか、この一の宮に神官寺ができることになる。能登の石動山神社天平寺の配下であったという。つまるところ、神仏習合の「一の宮」別当寺ということであろう。近世まで配下に蜜藏坊、成就坊、如意坊、不動院があったとのことである。」-「越佐と謎の石造文化」から抜粋。
 また、高栁村史には、「黒姫大神は伝説によると西頸城郡一の宮村黒姫山鎮座の奴奈川姫命であって、越佐の国を経営された大国主命の妃で建御名方命(諏訪の大神)の御母である。
 その昔此の地に殖民を図られ機織りなど土民に教えられたので後年、住民の敬愛の情が高まり機織りの神として合わせ祀る」と記されている。
(※機織りの神をまつる神社は各地に多いが、近郷では松代の松苧神社、仁上の棚機神社などが見られる)
 すなわち黒姫山鵜川神社に如意輪観音を奉り、麓の黒姫神社でも同観音を御神体としている社が多いのは、熊野修験と深くかかわりを持つものとされている。
(参考文献-高栁町史)
 
    黒椀  くろわん   
黒色の漆塗りのお椀。 膳椀一式としては葬祭に用いられた。→関連資料
 
   鍬下  くわしたねんき  
荒地を田畑地にするまでの開発に要した費用や手間を見積もり、期間を決めてその間年貢を少なくすること。
 
   桑名藩  くわなはん  
 伊勢国(三重県)桑名を藩庁とした藩。永禄10年(1567)、織田信長はその部下滝川一益をして、北勢地区を攻略せしめ、長島の願証寺を中心とする一向一揆を討滅して、北勢5郡の守護に任じて、長島城・矢田城を押さえ、ついには桑名を領治させた。
 豊臣秀吉は、天正11年(1583)その四天王の一人本田忠勝を桑名藩主に任じて、町割りを断行するなど、よく創業の功を尽くした。ついでその子忠政が継承し、元和3年(1617)播州姫路藩に移封されるまで、2代15年桑名を領した。
 ついで松平隠岐守定勝が桑名藩主となり、、寛永12年(1635)その子定行が伊予松山藩に移封されるまで、2代19年桑名を領治した。定勝は家康の異父同母弟である。以来、当藩主はいずれも御家門が任命せられた。定行の移封後はその弟松平越中守定綱が美濃大垣より就封し定良・定重と継承3代、寛永12)年より宝永7年(1710)まで、76年領治した。この松平氏を他の松平氏と区別して、久松松平という。定綱は鎮国公と讃えられ、定信(白川藩主)とともに、鎮国守国社の祭神である。歴代藩主の中で最も民治・産業開発・文芸の振興に尽くした功績は偉大である。
 3代定重の治政中、桑名藩には二大異変が起こった。その一つは元禄14年(1701)の大火で城郭をはじめ多くの侍屋敷・寺社・町家などが千数百軒が焼失した。
 
その二は宝永7年(1770)、郡代野村増右衛門吉正なる者が罪に問われ、その一族44人をはじめ、関係藩役人370人が、死刑もしくは追放・罷免に処せられるという前代未聞の刑事事件が起きた。その責任を問われ藩主定重は越後高田藩へ移封となった。増右衛門については、毀誉褒貶半ばして資料の消滅した今日、事の真相は不明である。なお、定重の越後高田藩移封後は、その子孫定逵・定輝・定儀の3代31年を経て定賢に至り、寛保元年(1741)、さらに奥州白川藩に移封となり、定邦・定信を経て、定永が桑名へ複封になるまで、およそ111年の歳月の歳月が流れた。定重の転封後に宝永7年、代わっての松平下総守忠雅が、備後福山から移封しきたり、忠刻・忠啓・忠功・忠和・忠翼と相継ぎ、忠堯に至り、文政年(1823)に武蔵国忍藩に移封されるまで7代110年桑名藩主となった。右のうち忠和は数学者として令名高く、また漢詩をよくして著書伝わっている。忠堯の移封後、文政6年、松平越中守定信の子定永が奥州白川藩より転封してきて、久松松平氏は、再び桑名藩主となった。
 その後、定和・定猷・定敬・定教と相継ぎ、明年4年(1871)廃藩置県に至るまで5代48年桑名藩主となった。

(※幕末の柏崎は桑名藩の越後国における飛地領の中心都市で、同藩の陣屋が置かれていた。1868年(慶応4年)の戊辰戦争の際には、伊勢の桑名藩本藩が新政府軍に恭順して以降も藩主松平定敬らはこれに従わずに飛地領の柏崎に移り、会津藩兵および旧幕府歩兵とともに新政府軍に抵抗した。これに対して上越地方を掌握した新政府軍は高田(現上越市)を拠点にして刈羽郡、魚沼郡方面への侵攻を進め、柏崎を制圧下に置いた-鯨波戦争。)

参考文献-国史大辞典・Wikipedir
 
   郡代  ぐんだい  
幕府直轄地を支配した官吏の内、支配地が10万石以上を郡代、以下を代官と呼んだ。郡代は租税の徴収、領民の裁判等にあたった。
 
   郡中  ぐんちゅう  
郡規模の村の連合組織。     
郡中入用  郡中割  
 
    郡中割   ぐんちゅうわり  
郡中の村の連合組織に普請等の経費を付加すること。江戸時代の地方税ともいえよう。   郡中割合
※恐れながら書付を以って御請け申し上げ奉り候-藤井堰 
    郡中惣代
 ぐんちゅうそうだい
 
郡代支配の村から選出された郡中の代表者
 
 
    頃日  けいじつ  近頃。 この頃。  
   啓上  けいじょう  
申し上げる事。  
※一筆啓上
 
  慶長金  けいちょうきん  
慶長6(1601)年から幕府が発行した大判、小判、一分金の金貨のこと。
 
   恵投   けいとう    
他人からもらうことを敬って表現する言葉。
 
   下下田  げげでん  田を等級に分けた最下位の田で石盛は下田の2つ下がり。    下下畑  
   下向  げこう  京都から関東や地方に下ること。
 
   下穀  げこく
幕府は寛政改革で貯穀を奨励し、飢饉の続いた天明8(1788)年には農民側の貯穀の20分の1を年貢より与えた。これを御下穀と呼んだ。この制度は以後2年間継続しその充実をはかった。  
御下穀
 ○夫食貯穀一村限帳-石黒の古文書
   下直  げじき  
値段が安いこと。 安値。
 
   消口  げしぐち
火事で、最初に消火にとりかかる場所。
ある消防組が、他に先んじて消し口をつくり、組の名を記した纏(まとい)を立てる場所。
 
   桁行  げたゆき
住宅などの建物は大概は長方形をしているが、この長い辺の方向を桁行と呼ぶ。(短い辺の方は梁間)
 
   下知   げち  
上から下への指図や命令。
 
   毛付  けづけ・けつけ
田や畑に稲などの穀物を植え付けること。収穫高。   毛付高
 
   結構  けっこう  
構造や組み立て。
 
   下田  げでん  
田を等級に分けた下位の田で石盛は中田の2つ下がり。  
下畑
 
   下田  げでん  
田を等級分けしたうちの下級の田地。  ※石盛は中田の二つ下がり
 
 下人  げにん  
身分の低い者、年季奉公人のこと。
 
   家抱  けほう
 本百姓が譜代の下人に耕地を分け与えて耕作させること。または、主家の本百姓に従属していて未だ自立していない者。
 
  検見   けみ  
稲の収穫量を収穫前に、役人を派遣して
坪刈りなどで調査させ年貢高を決めること。  ※毛見に比べて、検見は作物の豊凶鑿ではなくその村の実状なども加味するした総合的な評価を行ったもの。   検見取(けみどり)
 
   毛見  けみ 田の出来具合を坪刈りによって見分ける。   
  検見引 けみびき 
 検見で規定量に取れ高が達しないときに減った分を年貢より引くこと。
 
   検見取  けみどり
田畑の収穫高に応じて年貢量を決める徴税法。検見取法(けんみどりほう)ともいう。 検見は、元は毛見と称し、作物の出来具合、いわゆる、成長した稲を見分すること。 
 寛政元~文化5年御割付帳写-石黒村
   家来  けらい  
家臣。従者。家人。
 
   権威ケ間敷  けんいがましく おごり高ぶった態度。
 
 
   玄英  げんえい  
冬の季節を表す語
 
   厳科  けんか  
厳罰。
 
   源海上人  げんかいしょうにん
弘化4年3月24日の善光寺地震で大倉山の大崩壊により、犀川が21日間堰きとめられた。そして4月13日の大水害で塚とともに源海上人即身仏が下流の唯念寺境内の親鸞聖人お手植えの大杉まで流されたと伝えられている。現在、本堂前には弘化5年建立のお墓がある。
 
○弘化4年 大地震
   建言  けんげん  
上役などに対して意見を申し立てること。また、その意見のこと。
 
    間竿  けんざお   検地で用いた測量用竿、長さ6尺3寸(太閤検地)、江戸時代には6尺1寸が用いられた。
 
   見参  けんざん  訪問して会うこと 武士が対面すること。  
   検使  けんし
江戸時代に、殺人・傷害事件、または、行倒れ人などを調べる役人。
○行倒れ人についての書状-北条村宛て 
   兼日   けんじつ
かねての日。 あらかじめ。 以前。
 
 
   顕然    けんぜん  
はっきりと表れること。明らかなさま。  顕然たる
 
   険阻  けんそ  
地勢のけわしいさま。※→石黒は、まさに地形の険阻な村であると言えよう
 
   兼帯  けんたい
 いくつかの役職や役目を兼任すること。 兼用すること。

兼帯庄屋 ※石黒の歴史-兼帯庄屋からの分離独立
 ・恐れながら願い上げ奉り候-兼帯庄屋について
  兼帯庄屋    けんたいしょうや  
江戸時代、村高が100石に満たない小さな村を統合して治める庄屋を兼帯庄屋と呼んだ。
 
   検地  けんち  
土地の境界をもとにその面積を測量し反別を明らかにして、耕地の地味から田畑の位付け(上・中・下・下下または上上・中・下・下下)に査定し石盛を出し石高を決めること。また屋敷地も査定して一村の総面積、総石高を調べ明らかにする作業。  
検地竿
 
     検地帳  けんちちょう
  一村の検地の結果を一筆ごとに記載し村高を明らかにした土地台帳。   
 水帳  検地水帳  竿帳  縄帳
石黒村検地水帳から
   県治報知  けんちほうち  
明治6(1873)年7月、県令楠木正隆は活字印刷による公報の必要性を考え、県に活版局を設置して新潟県治報知の頒布を開始した。当初の内容は、官省及び県の布告・指令・賞罰・官吏の任免・賞罰・物価等である。同23(1890)年1月より「新潟県公報」が発行され、さらに同35(1902)年2月からは「新潟県報」と改題された。県政の歴史をたどる最も重要な公文書の一つである。(以下略)」
  参考文献-新潟市立図書館HP
 
   検地奉行  けんちぶぎょう  
検地を担当する役人。
 
   元服  げんぷく  
男子が12~16歳頃に行った成人の儀式。   女子成人の儀式-髪上・初笄など。
 
   見分・検分  けんぶん  
立会って検査すること。   取り調べること。  
 見分帳
 
  間縄   
 けんなわ
 
1間(約180㎝)ごとに印をつけた縄で、検地や測量にもちいた。
 
  倹約令    けんやくれい
 一般に倹約令とは江戸時代に実施されたものを指すが、それ以前にも奢侈の禁止や制限は行われてきた。これを「過差(贅沢の意味)の制と呼ばれた。
 江戸時代になると倹約令は繰り返し公布され、幕府や諸藩の政治改革にはつきものの法令であった。江戸時代の比較的早いものでは寛永5(1628)年の衣服制限令であり、武家奉公人には絹・紬以上を禁止し、百姓町人には布、木綿に限られ、名主や百姓女房には紬までが許された。しかし、同18・19年の大飢饉を機に衣食住・家作・祭礼仏事など日常生活全般にわたって質素倹約が奨励された。
 下って寛文8(1668)年には諸大名に対して参勤での祝儀、将軍への献上品または、下々への贈り物に至るまで格に応じた金銀の額を決めている。
 また、都市への倹約規定も町触によって度々出されている。その内容は、長刀・大脇差の禁止、衣服についての規定、駄賃馬の装束制限、羽子板の華美禁止に至るまで多方面にわたっている。特に幕藩体制が解体過程に入った18世紀以降は政治改革が頻繁に行われるようになり、同時に諸経費倹約、生活での倹約の令も発令された。
 江戸時代の三大改革といわれる享和・寛政・天保の改革は後になるほど、その内容は厳しいものとなった。
 農民に対しても衣食住・冠婚葬祭・年中行事から休養や娯楽を兼ねた催しもの、遊芸に至るまで禁制の対称となった。
 こうした倹約令には、もともと士農工商の身分制度を維持つまり奢侈が幕藩体制秩序の解体を進めることへの恐れと、日本人の儒教による禁欲主義がその根拠となったといえよう。
(参考資料-国史大辞典)
※五人組御仕置帳-石黒村田辺重順家文書
 
 
    小網船 こあみせん
刺し網漁(さしあみりょう)に使われた船。別名「どうしゃか船」
 
     こう  
 講はもともと寺院で行う法会を意味したが、その後の変遷により、一般に金銭的な助け合いの組織と機能を指す言葉となった。
※石黒では年中行事として各集落を菩提寺の僧が訪れ法話を行い、これを御講と呼んだ。
 
   甲掛け  こうがけ・こうがけ  
手の甲や平足の甲を覆う布製衣類。  →画像資料
 
   後鑑   こうかん   後々の手本。      後監  
   広済寺  こうさいじ  
 後曹洞宗 円通山広済寺。所在地は、新潟県柏崎市高柳町高尾。
 創建は嘉吉2年(1442)と伝えられる。当時の領主佐橋朝広が父親の菩提を弔う為、不琢了圭和尚を招いて開いたのが始まりと伝えられている。
 古くから黒姫山信仰である鵜川神社と神仏習合し祭神として罔象女神(ミヅハノメノカミ-黒姫大明神)が、本地仏として如意輪観世音菩薩が祀られてきた。
 明治時代初めに発令された神仏分離令により鵜川神社から分離した。その後、廃仏毀釈運動により如意輪観世音菩薩像が谷底に落とされ、仏像は大破し村人により発見されたが、細部は発見できず困っていると1人の老僧が残りの部分を探しあてた伝えられる。
 如意輪観世音菩薩像は広済寺から黒姫山山頂方面に4キロほど離れた観音堂に安置されていいる。
 現在の本堂は安永7年(1778)に建てられたもので寄棟、銅板葺、平入、桁行11間、外壁は真壁造り白漆喰仕上げ、棟梁は出雲崎の名工、小田与七と副棟梁山崎武士と伝えられる。
 第19世住職であった直翁祖超大和尚は徳のある人物で、二人の勤皇倒幕の志士をかくまっていた。その一人は、日本画家の菊池容斉(1788~1878年)である。後に多くの門人を生み、近代日本画家系譜に「容斉派」の名を残した画家。51歳のころ2年間ここに隠れた。地元の人に絵を教えながら、勤皇倒幕の地下運動をしていたという。容斉の作品、襖絵などはこの寺と貞観園に保存されていている。
 広済寺は、越後三十三観音霊場第9番札所。
※天保7年(1836)の大飢饉には、当山20世孝道順大和尚は、施米をなし、遠く石黒村まで慈悲の手を伸ばしたと伝えられる。
参考文献 高柳町史・案内板等
 
    高志  こうし  古代における北陸地方(福井・石川・富山・新潟)の呼び名。→越の国  
   高声   こうしょう  
高い声。大声。こわだか。 
文例→ 「鳴物高声停止」
 
  郷村取締役   ごうそん(きょうそん)とりしまりやく  藩が農村支配の徹底のために配置していた役職 郷村御取締役  書簡-庄屋重左衛門宛て-御用向き
   合力  ごうりき・ごうりょく
力を貸すこと。助力すること。 金銭や物品を与えて助けること。
 
 
 小以  こい
小計。 検地帳で石高を集計して、その小計。    小〆(こじめ)
 
     こえ  
 作物の肥料にした人糞のこと。石黒では「しもごえ-下肥」と呼んだ。
 1950年代までは、馬肥とともに重要な肥料であった。筆者は中学生の頃に背負い桶の中に詰めて田や畑まで運び柄杓で撒いた記憶がある。春のセンゼ(家の周りの畑)に野菜を植え付けるころになると、人糞を撒くため村のあちこちで人糞の匂いがしたものであった
 新潟県史の資料編には、村上在の地主が寛延2年(1749)に人糞尿を119荷と大量に買い付けている文書が記載されているといわれる。
 
   小以高  こいだか  
小以高は、高の名前ではなく「高の小計」のこと。その他、石高に限らず、金、品物でも、幾つかのものを区切って集計したものを「小以」と書き、小計の意味。
 
   小池村  こいけむら
 ※掲載準備中
 
   小池新田 こいけしんでん    
 江戸期から明治初年の新田名。刈羽郡の内、小池分とも書き旧高田旧領。鵜川下流域。はじめ高田藩領、天和元年幕府領。貞享2年高田藩領、後再び幕府領となる。村高47石(天和高帳)、59石(元禄郷帳)、「天保郷帳」では半田村枝郷と注記され65石余。明治初年に半田村に合併。
 
   後音  こういん・ごいん  
後で送る手紙。  この後で送る手紙。
 
     こうがい  
女性用の髪飾りの一種で髷(まげ)等に差す。   
 →石黒の民具-写真
 
   郷替  ごうかえ  
村の分離統合または境界の変更。
 
   後鑑  ごうかん
 後々の手本。 
 
  溝渠  こうきょ  
水を流すための溝。  
 
   公儀   こうぎ  
幕府・将軍を指す。 (近世)
 
   向後  こうご・きょうご  
これから後。この後。
 
   郷蔵・郷倉  ごうぐら  
年貢米を搬出するまで保管するために村々、あるいは数か村ごとに建てられた藏。また、郷倉に庄屋の米蔵を利用する村もあった。
 郷蔵屋敷
  与板御引渡後諸事御用留
   郷蔵番給米  ごうぐらばんきゅうまい  
郷蔵を管理する者に与えられる手当米。
 
   合毛  ごうけ  
検見が行われる前に村の者で各田地の収穫量を調べること。
 
   高下なく  ごうげなく
区別なく。差別なく。公平に。
 
卯御年貢割付の事 石黒村 
   広済寺   こうさいじ  柏崎市高柳町坪野の寺山の麓にあり、円通山広済寺と称し、曹洞宗に属す。
現在の建物は3度目のもの。創建から94年後の天文5年(1536年)に兵乱にあい、壮大で美しい建物は灰燼に帰してしまったと伝えられる。その後建立したものの、延宝8年(1680年)3月の豪雨で裏山の土砂が崩落し、全ての伽藍が倒壊、埋没してしまった。
 現在の地を選んで安永4年(1775年)に起工し、3年後の6月に棟上式を挙げたのが現在の伽藍である。

 現在の伽藍は、本寺である柏崎市善根の浄広寺(現存する一代前の伽藍)を
模範として建造されたものであると伝えられている。
(左資料参照)
 この本堂を造った棟梁は小田与七、副棟梁は山崎文七といい、二人とも出雲崎の名工であった。山崎文七は貞観園の建物も造ったと伝えられている。
 ちなみに、天保7年(1836)年の大飢饉には、当山二十世孝道祖順和尚は、布米施薬をなし、遠く石黒村まで慈悲の伸ばされたと伝えられる。

資料→石黒村浄土真宗人別宗門改帳 
   高札   こうさつ・たてふだ  
掟、条目、法度などを書いて村の繁華な所など要所に立てたもの他人の手紙を敬って呼ぶ語。  高札場
 
   糀・麴   こうじ  
 米と麦と大豆などを蒸してねかし,これに麴カビを加えて繁殖させたもの。酒や味噌などの醸造に用いる。→
糀のつくり方(糀屋)
 
   郷士  ごうし  
江戸時代、城下町に住む武士に対して、農村に住む武士のこと。
 
   郷士格  ごうしかく
郷士の下の階層の武士。
差上奉る御請書之事-石黒村文書 
   高直  こうじき
 高値。  物価が高いこと。  
   講釈  こうしゃく  
教師の指導で、教科書を熟読吟味して 、その意味 を読み取る学習。購読ともいう。
 
   香積寺  こうじゃくじ 〇所在地 新潟県柏崎市西本町3-4-3
『当寺は元天台宗であったが、応永年間(1394~1428)金沢市宗徳寺(現在弘前市に移転)二世竜伝恵金大和尚(永平寺九世の法孫)が当寺に住し、曹洞宗に改宗し開山第一世となり、寛正五年(1464)九月六日遷化、爾来今日に至って四十一代である。別記の水引き、袈裟は三十一代円明会成和尚が下賜されたものである。
 なお開基勝長公については、幕府の苛酷な租税に対し減税運動のため建長元年(1254)に出府して獄死したと伝えられている。一説には後鳥羽天皇の第四皇子清見原親王を邸内に囲った罪により、出府を命ぜられ鎌倉に行き、投獄されて獄死したという。
 いずれにしても勝長公は死を覚悟して出府されたもので、出向に先立ちその屋敷を菩提所の香積寺に寄附し、更に火防神秋葉三尺坊を邸内に勧請している。
 一子花若丸は長野善光寺に行って出家し金蓮坊法印となり、その悲劇の顛末は謡曲「柏崎」に謡われていることは識者の知るところである。』
(https://hotokami.jp/area/niigata/Hkstm/Hkstmtm/Dmrpy/56420/
より引用)

 寺の境内に入ると右手に秋葉神社と称する小さなお堂が見られ、お堂の前に柏崎権守勝長、妻と子の墓碑と勝長の石碑、および妻の尼像が見られる。
 近くにある案内板には下記の様に書かれている。

                 謡曲「柏崎」と香積寺
謡曲「柏崎」は、越後国柏崎の豪族が訴訟のため鎌倉に滞在中に病死した。一子花若はこれを悲しみ出家してしまった。その臣小太郎は形見の品々を持って柏崎に帰り、花若の母に事の次第を告げる。
二重の悲しみに母は狂乱の体となり、わが子をたずねて迷い出る。信濃善光寺に辿り着いた女は、夫の後生前所と、わが子との再会を祈ると、折よくこの寺に居た花若と再会を得るという物語である。
香積寺境内には柏崎親子三人の墓と供養塔がある。近くにある質素なお堂は、柏崎勝長が鎌倉に出向く際に火災のお守りとして祀った秋葉神社で、それが今もなお守り続けられているのを見ても、庶民の辛苦を訴えた領主の優しい心を連綿と受けついでいる姿がほほえましく思われる。また花若地蔵尊が長野市新町にある。  謡曲史跡保存会  

 画像資料
   後證  こうしょう・ごしょう  後日の証拠。  
   口上  こうじょう
 口頭で申し述べること。また、その内容。または、口頭で述べるほどの略式の書簡の表題にも使われる。
 口上
   口上書  こうじょうがき・こうじょうしょ
 口頭でのべることを文書に認めたもの。  訴訟で関係者の口述を記したもの。
 
   為後證  こうしょうのため  後日の証拠のため。    例-為後證一札依而如件  
   庚申講・庚申待  こうしんこう・こうしんたい  
 庚申待は中国の民俗宗教である道教の伝説に基づくものである。主に男性がその行事に当たる。人間の頭と腹と足には三尸(さんし)の虫いつもその人の悪事を監視しているという。三尸の虫は庚申の日の夜の寝ている間に天に登って閻魔大王に日頃の行いを報告し、罪状によっては寿命が縮められたり、その人の死後に地獄・餓鬼・畜生の三悪道に堕とされると言われていた。
 そこで、三尸の虫が天に登れないようにするため、この夜は村中の人達が集まって神々を祀り、その後、囲炉裏を囲んで寝ずに酒盛りなどをして夜を明かす、これが
庚申待(こうしんまち-庚申の祭事)である。
 60日に1回は庚申(かのえさる)の日が巡ってくるので場所によっては6回または7回行うところもある。
また「庚申様」は月のモノや出産の汚れを嫌うというので、女性は主に飯の準備や片付けが役目であった。
 庚申待を3年18回続けた記念に建立されたのが庚申塔・庚申塚で、今も各地に残っている。
※石黒の昔の暮らし-おかねさま(庚申講)
  
 (参照-ウェキペデア)
 
   港津  こうしん
 港。 船着き場。
 
  庚申塚   こうしんづか
庚申待を3年18回続けた記念に建立する慣習があり沖縄を除く各地にみられる庚申を祭った石碑が庚申塚・
庚申塔である。
石黒では寄合集落の入口(門出よりの)にある
 
 
   荒神祭 こうじんまつり   かまどを守る神さまの祭り。  
   上野国  こうずけのくに  
現在の群馬県。
 
   強訴  ごうそ  
百姓が徒党を組んで領主、代官などに対し強引に訴えること。
 
    口銭  こうせん   
問屋や仲買人がとる手数料。  諸港で商品に課した通行税。
 
   公訴  こうそ  
幕府、領主などに訴えること。
 
     こうぞ
 石黒の植物-コウゾ。  和紙の原料となる。     ※「四木三草」(茶・桑・ 漆・楮)近世を代表する商品植物。→楮高
 
   郷村  ごうそん
田舎の村。 村里。
江戸時代には封建支配のための行政機構、つまり幕藩体制の基底をなした農村社会の存在形態。
惣村
 
  郷村取締役   ごうそん(きょうそん)とりしまりやく  
藩が農村支配の徹底のために配置していた役職。  
郷村御取締役
 書簡-庄屋重左衛門宛て-御用向き
   広太 こうだい   広大に同じ。  
   郷帳  ごうちょう  
幕府領で村ごとに作られた年貢台帳。 
村明細帳の集成。 郷村高帳
 
  貢米   こうまい  
年貢として納める米のこと。
 
   高免  こうめん
 年貢率が高いこと。高い年貢率。
相手を敬って、その人が許すことをいう語
 
   講元  こうもと
頼母子講などを発起して管理にあたる人。  
講親 
 
   郷中役人  ごうやくにん  郷(数村を合わせた郡内の一地域)の役務を扱う者。  
   郷宿  ごうやど
 村役人や百姓が訴訟などで城下町代官陣屋に行った時の宿泊所で願書の書き方や手続きや代筆などの便宜もはかった。
 
   合力  ごうりき・ごうりょく   力を合わせて協力すること  金品を与えて助けること。
   
合力米  合力人
 
   幸便  こうびん
 好都合のついでの便。
 
   郡奉行  こおりぶぎょう  
各藩で藩内の地方行政にあたり、主に徴税・訴訟などを受け持った。
郡方奉行(こおりがたぶぎょう)
 
   公領・公料  こうりょう  
改易などで領主がいなくなったところを、暫時、他の大名に治めさせること。または大名の領地が隣接しているため便宜的に幕府から管理を任せられている領地のこと。
御公料
 
   五海道・五街道  ごかいどう  

東海道、中山道、甲州街道、日光街道、奥州街道のこと。
 
   小廻船  ごかいせん
小型の廻船。 
 
  五箇条の御誓文   ごかじょうのごせいもん  
 慶応4 (1868) 年3月 14日に、天皇が天地の神々に誓うという形式で示された明治新政府の基本方針。5ヵ条より成るのでこの名がついた。
 内容は
「一、広ク会議ヲ興シ。万機公論ニ決スべシ。一、上下心ヲ一ニシテ、盛ニ経綸ヲ行ウべシ。一、官武一途庶民ニ至ル迄、各其志ヲ遂ゲ、人心ヲシテ倦マサラシメン事ヲ要ス。一、旧来ノ陋習ヲ破リ、天地ノ公道ニ基クべシ。一、知識ヲ世界ニ求メ、大ニ皇基ヲ振起スベシ。」というものであるが、会議とは列侯会議のことであり、また庶民とは豪農や豪商であって、全体としては国民の政治参加は極めて限定的なものであったといえよう。
「教育勅語」「軍人勅諭」と共に昭和初期まで国民の指導理念とされてきた。
 
   小頭  こがしら  
火消組など小集団の頭。
 
     こく
1石=10斗≒180ℓ。  木材の容積量1石=10立方尺。
1石(こく)=10斗、1 斗(と)=10升(しょう)、1升(桝)=10合(ごう)、1合=10勺(しゃく)、1勺=10才(さい)

※昭和初期に生まれた筆者の世代にとっては、これらの単位がℓより身に付いた単位。 
 
    国人 ごくじん 
 南北朝・室町時代に活躍した在所性の強い領主層であり、「国衆-こくしゅう」とも呼ばれる。土着領主として、幕府権力・荘園領主・守護などの外来勢力に対抗して独自の支配権の確立をめざいた。 
 
   石代  こくだい・こくがえ  
田畑の年貢の米納分を金銭で代納すること。 石代金  石代納
 卯より辰両歳御年貢皆済目録拝見証文
   石代金  こくだいきん  
田畑の年貢を時価に換算して納める金銭のこと。  
→石代金納
 
  石高   こくだか  
検地して、その土地の生産量を米の収量高として表示した高の全村分を合計したものを石高・村高・高辻という。
石盛に面積を乗じて算出される→(石高=石盛×面積)。
 
   刻付  こくづけ
文書の回覧の時に、発信、到着、取扱い時刻を書き記すこと。
 
 
   石盛  こくもり  
石盛とは、それぞれの等級に応じた1反当たりの標準収穫量のこと。耕地・屋敷などを上中下などの等級に分けて、これに基づいて石高を定めた。斗代(とだい)とも呼ぶ。
いはば、石高を定めるために決められた田畑などの1反あたりの生産力のこと。

※江戸幕府の石盛りの基準 上田→1石5斗 中田→1石3斗 下田→1石1斗 上畑→1石1斗 屋敷→1石1斗。
  獄門   ごくもん
江戸時代の刑罰のひとつ。牢内で死罪になった囚人の首を獄門台に三日二夜さらし、さらに田畑・屋敷・家財を没収すること。
→出雲崎代官所-獄門跡 
 
   国体国是  こくたいこくぜ  
国の体裁と政治上の方針。
 
   石代納  こくだいのう   
 年貢を金銭で納入すること。「
石代」とも呼ぶ。
 田方は、土地の生産力を石高に換算して租率を掛けて米で納めるのが原則であったので、主に畑方の年貢に石代納が用いられた。また米の品位が良くない場合,収穫米が不足した場合,輸送に不都合な場合などにも石代納が認められた地域もあった。
 また、別の意味としては、「
田畑のいかんにかかわらず年貢全額を貨幣で代納する」ことを石代納と呼ぶ場合もある。
 
   石高  こくだか   
米を基準とした土地生産高表示方法。(玄米換算) 草高(くさだかとも呼ぶ)。
 所領の規模も面積ではなく石高であらわされた→例、加賀120万石、越後高田15万石等。
 
   後家倒し  ごけだおし
 千歯(石黒の民具-写真)の別名  千歯による脱穀が行われるようになり,人手が要らなくなり、手間代がもらえなくなり困る人が出た事による。やもめ倒し
 
   御家人  ごけにん  
江戸時代初期では徳川家譜代の大名・旗本。江戸時代中期以降では将軍直参のうち御目見得以下の武士。
 
   小検見
 こけみ

幕府直轄領で代官が検見をする前に手代などが予め行うこと。
 
 
   古検  こけん  
古検と新検の区別には、
①天正・慶長年間(1573‐1615)に行われた太閤検地を古検,その後徳川氏の検地を新検という②江戸時代1690年(元禄3)2月,幕府の検地条目公布を基準としてその前を古検、その後を新検という。
③1726年(享保11)6月,幕府の新田検地条令公布を基準としてその前後に分ける。
があり、①は主に畿内では適用できるが他の地域では正確には当てはまらない。
②③は、それぞれの時点での区分であるが、現実には新検に当たる元禄・享保年間以降に総検地を実施している地域はごく例外でこれも当てはまらないといわれている。
参考文献-平凡社世界大百科事典他
 
   沽券状  こけんじょう
 農村の水帳に相当するもので都市における土地家屋台帳。
 
   五公五民   ごこうごみん
 総収量の5割を年貢に、残った5割を百姓の収入とする年貢率。
 
   五穀  ごこく
米・麦・キビ・アワ〔またはヒエ〕・豆の5種の穀類を指す。
 
   爰元  ここもと
 こちら。 このあたり。 私の方。 私。  爰本 爰許
 
   心得方  こころえかた  
考え方。
 
   巨細   こさい  
委細。 詳しく。
 
   小作  こさく  
地主から土地を借り受け小作料を払って耕作すること。
 
   小作証文  こさくしょうもん  
地主と小作人の間で小作契約を結ぶ際に取り交わす証文
○ 高反別預り支配小作証文の事
   御座候得共御  ござそうらえども  ~でございますが    例-殘暑甚敷御座候得共  
   御座候哉  ござそうろうや  ~でしょうか       例-如何之趣ニ 御座候哉
 
   御座候處  ござそうろうところ  ~でありますところ    例-御百姓ニ相立候者四拾弐人御座候處  
   御座候得者  ござそうらえば ~でございま        例-道中丈御座候得者爰元ニ而者    
   越石   こしこく  
他村に所持している石高。知行割りの時、必要な石高に不足が生じた場合、他村の高から不足分を補うこと。
 
   御朱印  ごしゅいん  朱印  
   故障  こしょう  
さしさわり。さしつかえ。不服。不満。
 
  後證(証)    こしょう・ごしょう
後日の證明。
 
   御状  こじょう  
他人の書状を敬って呼ぶ語。
 
  期す    ごす・きす
期待する。 約束する。 覚悟する。
 
  戸籍吏   こせきり  
戸籍に関する事務を取り扱う吏員のこと。
※旧制上の名称で、市区町村長をさす
 参考資料-文例
  五節句 ごせっく
1月7日(じんじつ)、3月3日(じょうし)、5月5日(端午)、7月7日(七夕)、9月9日(ちょうよう)の一年5度の節句。
 
   後醍醐天皇  ごだいごてんのう  
 第96代天皇。在位は1318~1339。後宇多(ごうだ)天皇の第2皇子。名は尊治(たかはる)。天皇親政や人材登用など政治の改革に努め、鎌倉幕府打倒を図ったが、正中の変(1324)・元弘の変(1331)に失敗し、隠岐(おき)に流された。
 後に脱出して建武の中興に成功したが、足利尊氏(あしかがたかうじ)の謀反により2年余で新政府は倒れ、後村上(ごむらかみ)天皇に譲位、吉野で死去。編著に「建武年中行事」などがある。
 
   古高  こだか  
古検地高のこと。だいたい天正〜慶長期の検地による高をいう。
 
   小高   こだか  
僅かな田畑のこと。 持っている田が少ない百姓。
 
   戸長  こちょう  
明治4年の戸籍法の発令し翌5年2月1日の実施にあたりこの事務を担当する者として幕藩制のままの各村に戸長が置かれた。したがってこの時にはまだ村の長である名主が存在した。
 その後明治11年に旧来の郡・町・村を復活させ民選による戸長を選出し役場も設置せした。戸長はかつての名主などがえらばれることが多かった。戸長の仕事は戸籍の管理と地券管理・国税徴税、義務教育、など多くに及んだ。
 そして明治17年には、戸長制度を改革し戸長を知事の任命による官選に切り替えた。これにより政府は国策に忠実な行政官を戸長を任命することが出来るようになっった。

 
   小帳  こちょう  
小形の帳面。  簡単な控え帳。
 
   骨柳  こつごうり
柳行李-ヤナギコウリ」は明治の中頃まで「骨柳-コツゴオリ」と呼ばれていた。柳(コリヤナギ)の細い枝や麻や絹糸を使って主に長方形に編まれた小型の行李のこと。軽くて丈夫な容器で、江戸時代に旅行具として大いに利用された。
古文書-「久平所持の品」 
   小貫村











 こつなぎむら

 石黒村居谷と隣接する松代町の集落で昭和63(1988)年に閉村し、現在「小貫閉之碑」が建てられている。この碑は元小貫村住民の東京在住の小山直治さんが、旧屋敷跡にに建てられたものと伝えられる。
 そこには、小貫集落の18戸の屋号が刻まれている。碑裏には「
小貫は開村以来四百年。私共の祖先は原野の此の地 に庵を建て殖拓に汗を流し小貫村を創立し発展に努力さ れた。戦後所得倍増論国策に共鳴され村を離れる人後を断たず遂に昭和六十三年秋に閉村と成った。 依って石碑を建て長く十八戸の屋号を残します」という文が刻まれている。
 屋号は
干場・家持・前・家の下・かみ・東・下・新屋敷・きかんの・田中・西・水上・隠居・林・新宅・上・大下・石地とある。
(※2010年ごろに筆者が本HP掲載の写真撮影で訪れた時には、関東方面から移住されたという方がおられた。人の住んでいる家はその家一軒だけであった。
 閉村の碑は道路沿いにあった。小貫村には筆者の親類の女性の嫁ぎ先もあり、20歳の頃の冬にスキーを履いて訪れたこともあった村であり、また、わが故郷石黒の行く末も思い、しばらく碑から離れることはできなった)→(写真)
写真-小貫閉村碑
   小手形   こてがた
 村方の分納年貢を受け取った領主側が発行す仮受取証書  完納時(翌春)には年貢皆済目録が村に渡された。
 
   捂縄   こでなわ(?)
「西方寺屋根替え諜(帖)附け並びに年忌帳」によれば、その意味は石黒で「こでなわ」と呼んだ縄を指すように思われるが確証はない。「捂」は漢音「ゴ」とあるが捂縄という言葉は見当たらない。
 
 
   小入用  こにゅうよう  
(小入用夫銭の略) 幕府、諸藩の課役、村方の負担すべき夫役を免除される代償として納めた金銭。
 
    五人組   ごにんぐみ
  幕府が五人組をその領内に施行した時期は明白ではないが元和元年(1615) ~寛永初年と考えられている。この制度が全国規模で実施されたのは寛永10年(1633)代である。しかし、五人組はすでに足利時代末期の天文の頃の文書にその名が見られ、戦国時代には民間の組織、特に犯罪等の防止の組織として全国的に普及したと伝えられる。また、江戸時代の五人組についても、初めは武士対象として治安対策を目的としたものであった。
 江戸時代の五人組の編成方法は、町では家持(地主)と家主(家持の代理人)とを以てこうせいされた。村では本百姓または高持百姓をその構成員とした。組み合わせは家並みに最寄り次第5人ずつ組み合わ
せるのが普通であったが百姓の持ち高の大小を考えて平均するように組むところもあった。
 ただし中のよい者や親類ばかりを組み合わせてはならいと限定したところもある。この五人組の頭は、五人頭、組頭、組持などと呼んで農民にとっては名誉職でそれになることを望んだという。
 五人組の極まりは、組中に、悪者、キリシタン信者がいれば申し出ること、欠落ち人(逃亡者)のないよう注意すること万一発生した場合は探し出すこと、病人などが出て田畑が耕作できない場合は助け合い年貢不納が発生しないようにすること、それでも年貢を完納できない者が出た場合は組中で変って納めることなど厳しい相互検察・連帯責任が課せられていた。
 この外五人組の役割としては公事訴訟の付き添い、連判、その他証文の保証や立会いなどもあった。
 また、「五人組帳」を作り組合員の名前を記して領主に提出する。その帳面の初めには農民の守るべき極まりが箇条書きで書かれていた。これを「五人組帳前書」と呼んだ。
 内容は数か条のものがら百か条に及ぶものもあり様々であった。詳しいものは農民として守るべき事柄も加えて法令集の体をなすものであった。このような場合は新しい法令が出るたびに五人組寄合を開いて読み聞かせ更に各組でも各戸に理解をはかり順守されるように取計られた。
 とくに、百姓一揆の発生が多かった宝暦、明和年間は五人組の役割は一層強化された。
   (参考資料-国史大辞典)

※五人組御仕置帳
-石黒村田辺重順家文書
五人組仕置き帳




刈羽郡石黒村五人組持高帳
   五人組帳・五人組仕置帳  ごにんぐみちょう・ごにんぐみしおきちょう  
江戸時代、五人組制度の施行されていたところでは、村ごとに五人組が作成されていた。五人組帳は農民の守るべき事柄を記した前書とこれを守ることを誓約した組合員の連名・連印部分からなり、毎年1通は領主に提出し1通は村役人のもとに保存されていた。前書部分は一種の法令集でありその条目は時代により変化し農民支配の動向をみることが出来る。
初期の寛永・正保・慶安・承応・明歴・万治年間の前書は十数項目程度で、とくに農民の逃散や離村・転住の禁止という土地緊縛規定と徒党の禁止などが強調されている。
寛文・延宝・天和・貞享・元禄・宝永年間のいわゆる近世の小農村落の確立期には、前書の条もクモ60~70項目に急増し、キリシタンの禁制、遊民・牢人の取り締まりの他に、とくに年貢納入に関する詳細な規定と連帯責任制の強調が目立つ。
※また、この時代後半には綱吉の生類憐みの令を反映した条も多く見られる。
(田辺重順家文書-五人組仕置帳)
享保年間の前書では公儀及び法度の尊重や身分観念の確立といった条項が強調され捨て子の禁止「悪風取り締まり」などが見られる。
宝暦・明和・安永年間には農村内における商人・職人の増加の抑制、物価、手間賃の値上げの禁止など、農村の商品経済の浸透を防止する条項が目立ち近世中後期の小農村落の変質に対応してくる点が注目される。
天明・寛政・享和・文化・文政・天保年間にかけて伝統的な条目が淘汰され新しい条目が多数登場し全体に教化的色彩が濃くしていることに特色がみられる。天保7年幕府代官山本大膳の編成した五人組帳は前書147条からなり木版刷りで流布され、この時期の五人組帳の前書を集大成したものである。
五人組帳は、前書部分を庄屋が毎年4月または正月、5月、9月というように定期的に村人に読み聞かせ、あるいは五人組寄合において朗読によってその法令の徹底がはかられた。また、寺子屋の教材として用いられれるなどその浸透が期されたのであった。
 ちなみに、五人組帳の名称は、「五人組連判帳」「御仕置五人組帳」、「五人組書上帳」「五人組約定」「石高別五人組御改帳」「惣百姓五人組連印帳」「御制禁被仰渡五人帳」等々、その数二十数種に及ぶといわれる。また、その内容の表記は「前書き」「請書」「連印」が基本であるが、幕府直轄領、譜代大名領などによって異なっていた。幕府直轄領では最も詳しい記述のものが見られる。
 ※五人組御仕置帳-石黒村田辺重順家文書                                                   
       (参照-国史大辞典・その他)

 五人組仕置き帳刈羽郡石黒村五人組持高帳
   五人組持高帳  ごにんぐみもちだかちょう
 五人組帳の構成員の持高を明記した帳面。
 五人組の重要なねらいの一つに年貢納入における連帯責任があるが、これを機能させるためには、各組にそれに見合った持高がなければならない。そのためには五人組の編成においては、持高の均等も重要な条件であったと思われる。
刈羽郡石黒村五人組持高帳 (田辺重順家文書) 
    五人組頭   ごにんぐみがしら   小人組の筆頭者。  
   此者儀  このものぎ  この人は。   こちらの人は。  
   小白布  こはくふ
 
古い時代の縮布のことで「白布、小白布」と呼ばれ縞模様もなく糸も太くて組織も荒いもの。
 その後、明石本縮の製法に倣い、緯糸に強度のよりを掛け織り上げた後、湯もみをしてしぼをだすようになった。また、白布という後染めから、先染め(糸のうちに文様を想定して糸を染め模様を織りだす技法)の織方に改良された。

 
    御法度   ごはっと   
法令、主に禁令、禁制の意味で使われることが多い。 →法度
 
 
   御法度の宗門  ごはっとのしゅうもん
 慶長17年(1612)に 江戸幕府によって天領にキリスト教禁教令が出される。翌年には禁教令を全国に拡大する。
 寛文4年(1664)には、幕府が諸藩に毎年の宗門改と宗門改を専門に行う役人の設置を命ずる。また、寛文5年(1664)には不受不施派が禁制となり、宗門改の対象となる。
 慶応3年(1867)大政奉還後の翌明治元年(1868年)、明治政府はキリスト教禁止を続けることを明言し明治6年(1873)まで続いた。
 
   小判  ごばん   
 江戸時代に流通した金貨の一種。金座で用いられた公式な呼び名は小判であるが、古銭書では小判金(こばんきん)と呼ばれている。
 慶長6年(1601年)に徳川家康が後藤家に命じて鋳造させた慶長小判を初めとし、万延元年(1860年)発行の万延小判まで10種が発行された。全国通用を前提とするものであるが、金山が主に常陸、甲斐、伊豆および佐渡などに位置し、金貨の一般通用は家康により新たに取り入れられた政策であったため主に関東地方を中心に流通した。
 基本通貨は計数貨幣である金一両の小判と、その1/4の量目の一分判であるが、元禄期には小判の1/8の二朱判が登場し、江戸時代後半には小判に対し金含有量の劣る五両判、二分判、二朱判および一朱判も発行された。
 さらに明和期に登場した南鐐二朱銀を皮切りに一分銀および一朱銀など本来金貨の単位であった、分および朱を単位とする計数貨幣が発行されるに至った。これらは「金代わり通用の銀」あるいは金称呼定位銀貨とも呼ばれる
 なお、明治以降新貨条例が施行され、1両は1圓(円)と等価とされ(万延二分判2枚の金銀含有量の実質価値と1圓金貨の純金含有量の価値がほぼ等しかった)、古金銀はそれぞれの含有金銀量に基づいて定められた交換比率で新貨幣と交換された。
(参考文献-ウィキペディア・他)
 
    木挽  こびき
 丸太を材木にする仕事をする人。製材が機械化が普及する昭和初期までは、木挽き職人が、 太い原木から柱、板、棟木などの材木を大鋸一丁で挽き割って作り上げていた。  木挽御役銀
資料→木挽き道具   衣食住-住→家普請
 
   小人  こびと  武家で雑用をする者。  
   小百姓  こびゃくしょう  
村役人以外の百姓〔
小前百姓・平百姓・脇百姓
水呑百姓とは区別された。
 
  小普請組   こぶしんぐみ
 幕府の職名の一つで病身や老齢などのため役職を免ぜられた御家人の編入された組織。
 
   御普請 ごふしん   
公におこなう御普請のこと。 
対語→自普請(村人が自分たちで金を出してする普請)
 
   御普請役  ごふしんやく  
幕府の職名の一つで、河川の灌漑や街道・橋などの工事を担当する役職名。
 
   古法   こほう  
昔からのしきたり、きまり。
 
   胡麻  ごま  
日本にゴマが伝わったのは、遺跡調査から縄文時代晩期(紀元前1200年ごろ)とされている。当時の胡麻はどんなふうに使われていたのかは実際に定かではない。
 胡麻が食用として利用されるようになったのは、仏教の伝来と関連がある。つまり、仏教では殺生や肉食が禁じられていたので、代用としての役割を果たし食材として使われてきた。
 ゴマは、昔の日本ではとても高価に取引されていました。
石黒の安永期の古文書をみてもそのことは明らかである。
 農業技術がまだ十分発展していなかったため生産量が低かったことにもよるが、万能調味料であった胡麻の価値が高かったこともある。
そんなわけであるからゴマは庶民の口にはなかなか入らず、貴族や大名・寺社・寺院の身分の高い人達の食べものという時代が長く続いた。胡麻が庶民の間に広がったのは江戸時代からである。
   
※ゴマ畑画像-石黒の昔の暮らし
 
   木舞   こまい  
土壁の中にある竹や木で編んだ下地。   ※石黒の昔の暮らし-住居
 
   小前  こまえ
 長百姓と区別した一般の百姓。  水呑み百姓を指す場合もある。
  小前百姓     小前末々    小前帳  
 
  小前末々迄   こまえすえずえまで  
一般の百姓末々までの意味であるが、水呑百姓を含んだ意味であろう。
 
   込米  こみまい  
江戸時代、年貢米の俵詰めにあたり定量に上乗せして詰める余分の米。当時、定量不足俵があった場合には全部の俵数に対して追徴米が課されたため、その防止のために込米を加えた。 
合米→ごうまい・あわせまい
 
    小棟  こむね  
曲り屋などで棟が複数ある時に一番長い棟にたいして小棟と呼ぶ。→資料
 
   小村峠  こむらとうげ  中頸城郡と旧野田村の境を越える峠が小村峠である。「当時は、縦には頸城と柏崎を結ぶ峰道、横には北陸道の柿崎と刈羽郡の鯖石街道を結ぶ十字路の地点」(「鵜川の話Ⅱ」)であった。米山登山の野田口でもあり、米山越えの「峠越し」と言われるルートの通過点でもある。かつては、峠の行き来の人々をあらためる「番屋」と呼ばれる建物が存在したという。
 四十八曲がりと言われた旧道は急勾配を直線的に登る険しいものであった。かつて、この道を通って米山をめざした人々の苦労は伺い知ることはできないが、麓から峠を見上げたときの急勾配が困難さを物語っている。しかし昭和46年、沢を大きく迂回する自動車道の完成によって旧道はその役割を終えた。
 峠の頂には一本の大杉がそびえていた。そこは集落の人々の寄り合いの場であったという。大杉を中心に人々は家を建て、地理的にも精神的にも集落の中心であった大杉ではあったが、明治初年頃に落雷によって枯れてしまい、大正初年ごろにはわずかに根株のみが残った。また、大杉の脇にはお堂が建っていたが、これも明治期に焼失してしまい、この峠の歴史を語る多くの資料もまた焼失したという。また、小村峠では近隣の農民の現金収入の術として炭焼きがさかんに行われていた。麓から峠を眺めると、いくつもの炭焼きの煙が立ち昇っていたという。
 参考文献-柏崎市立図書館-柏崎の峠(抜粋)
 
   小者  こもの  身分の低い奉公人。 武家につかえて雑役をする者。  
  小物成   こものなり   
江戸時代における雑税のこと 。山林、原野、河川、海などからの収穫物や産物に課せられた雑税の総称。
対語→本途物成(ほんとものなり)
 卯より辰両歳御年貢皆済目録拝見証文
   御門長屋  こもんながや  →門長屋  
   米差  こめさし  
米俵に差し込み中の米をしらべる先の尖った竹筒。 または農家の飯米を天井からぶら下げて保存し、取り出す時に用いる道具
(石黒の昔の暮らし-(日常の暮らし-食)       
米刺・米挿-こめさし
 
   御免  ごめん  許可すること。 免職すること。 容赦すること。 (尊敬語)  
   小役  こやく  
夫役の一種。江戸時代の幕領で地方(じかた)三役(六尺給米・伝馬宿入用・御蔵前入用)に相当する私領での高掛物=付加税のこと
※文政年間の文書によれば、桑名藩領では、金納年貢は、
小役、縄代、藁代、棟役と、代米の荏代、胡麻代、営業税にあたる紺屋役、鍛冶役、鳥役、油屋役、水酒運上、請売り酒屋役、大工役。
金納年貢は、永で表示され、永は1000文で1貫文・金1両と決められ、金や銭に換算された。
※寛政元年の幕領であった石黒村年貢割付帳に小役の項目で永700文余の記載があるが、本来小役が幕領の三役に代わるものとされているものされることから、重複課税ともいえるが如何ななものであろうか。

 寛政元年酉年より文化五年辰年迄御割付帳写-石黒村
   肥養・肥し  こやし  
肥料のこと。昭和中期までは石黒では肥料は堆肥や人や牛馬などの糞尿、草木灰などが主に使われ化学肥料は「金肥-きんぴ」と呼ばれ貴重な肥やしであった。
 
   御用  
ごよう

幕府や宮中などの用事・入用・命令。  犯罪者を逮捕すること
御用帳   御用筋  御用金  御用人足
 
   御用金 ごようきん   
幕府、諸藩(国)が公用遂行のために町人や百姓に課した金銭。
覚-御用金-居谷村-安政6 
   御用筋  ごようすじ
主君や主人の命による仕事。
 
 
    御用書  ごようしょ   
御用の書状。 
御用状
 
   御用留  ごようどめ  
江戸時代、幕府や諸藩の役所または町村の役人の手元で記録された公用の文書控え簿のこと。   御用留帳
与板藩引渡後より諸事御用留 
   御用留帳  ごようとめちょう
 江戸時代。代官や旗本奉行といった役人御達しの文書が、庄屋宛に回って来たものを書き留めた綴ったもの。この留帳は、御用(公儀の命令)を書き留めるということで「御用留」と呼ばれた。したがって行政制度の変化や生活環境の実態を知る史料の宝庫ともいえる。
(石黒村庄屋の文書にも数点見られる。明治維新時には「布告留」の帳簿名)
 
御用留覚帳
御用止め覚え帳
   紙捻・紙縒り  こより  
和紙をひも状に撚ったもの・帳面を綴じるときに使われた。
※石黒村などでは昭和の中ごろまで文書綴り紐に使われていた。現在100年以上以前のものと思われるものに出会うが、驚くことに強度は保たれている。役場などの職員にになった者が、まず身に着ける事に紙縒りの作り方であったという。 
 
   御領  ごりょう  
御料所・御領所の略
 廻状-山中村・高尾村長岡藩に村替え通知
  御料所   ごりょうしょ  
料所のこと。 幕府や諸大名などが所有した領地のこと。2 皇室所有の土地。御料地。   幕府直轄領   御領   天領 
(注→「天領」は明治以降に使われた言葉で明治以前の時代劇に使われているのは誤使用)  
 与板御引き渡後より諸事御用留
   御領所   ごりょうしょ  御料所に同じ。   
   五輪  ごりん  宇宙を構成する地・水・火・風・空の五要素。  
    五輪之道 ごりんのみち    
 自然と迷いの雲の晴れた至高の境地、という意味か。※辞典には見当たらないようだ
 
   転之者  ころびのもの 転びキリシタンのこと。江戸幕府の弾圧の中で棄教したキリシタンをさす。
初めは請人手形で済んだが後には踏み絵をさせ、誓詞血判をもって転びを確認した。のみならず立ち返りを防ぐために本人だけではなくその親族も厳しい監視下においた。
 
   窮人  きゅうじん
生活に困っているもの。困窮生活に苦しむ人  窮民    
極窮人
 
    紺地   こんじ   
紺色の織り地。または染め地。
 
   言上  こんじょう  
目上の人に申し上げる事、またはその文書。