家普請の思い出
                          矢 澤 シ ヨ
 私の家は昭和35年に建てました。普請は新築ではなく上石黒から柏崎に転出した方の家を譲り受け解体して翌年に運んで建てたのでした。幸いなことにこの年に農協にトラックが初めて入り、運搬はそのトラックでしてもらったのでした。もちろん、私の家でも補充の木を前年の春に山で伐採して、村中の人達から「だいもちひき」で屋敷の近くまで運んでもらいました。

 普請は雪消えを待って4月から始められました。私たち家族は、普請の間住むところがありませんので本家の家(下写真)にお世話になりました。本家は昔、村庄屋をした家でとても大きな家でしたので、馬屋造りの馬屋の部分とそのつづきの一部を借りて住みました。一階はニワ(作業場)と下部屋(しもべや)があり二階も馬屋の上に一部屋ありました。
 私たち若夫婦と子どもは下部屋、親夫婦は二階で寝起きをしました。職人達は本家の座敷に寝泊まりしておりました。
 ニワには囲炉裏もありましたから不自由なく住むことが出来たのでした。
 普請が始まると大工などの職人と村の人達が大勢手伝いに来てくださって、そのまかないも大変なもので本家の方に毎日お手伝いをしていただきました。
 当時は、石黒村内の職人も現場に泊まりがけで仕事をしたものでした。大工さんは本家に寝泊まりして、朝は早いうちに起きてカンナやノミの刃を研いでおられたのを憶えています。特に小僧見習いの若い大工は休む間もなく働いていたことを忘れません。私の家の普請では毎日、4、5人の職人が泊まっていたように思います。
 建前と、その前後や屋根普請(のしぶき→仮葺き)近くになると各集落からタノモシトウド(普請頼もしの手伝い)が数十人も来てくださるので昼食時は本家の広い座敷を開け放っても坐る場所が足らない位で落とし板をお膳代わりに置いて背中合わせに並んで食事をしてもらったものでした。もちろんご飯も半端な量ではありません。一食に何斗もの米を炊くのですから大変です。その日は朝から五升ガマでお昼のご飯たきを何度かして大きなおひつに移しておくのでした。献立は、ご飯、味噌汁、それに豆の油味噌いため、タクアン、漬け菜、くらいものでした。
 お汁も大きなシッチョナベで煮て片手桶に移して給仕をしました。
 普請には、昔からの慣例もあり村の人達も縄の他に野菜などももってきてくださり有り難かったことを憶えております。漬け物などはもちろん前の年から普段の何倍もつくって用意して置いたものです。また、普請には酒もつきものでしたので当時は地酒を隣村の商人に頼んで売ってもらいました。当時は清酒や合成酒など経済的にも買えない時代でしたのでもっぱら密造酒が飲まれた時代でした。

 私も嫁いで間もない頃で、乳のみ子もおりましたから、今、思いだしてみると家の出来る半年間はただ夢中であったように思います。
 それにしても今でも家普請で何から何までお世話になった本家をはじめ、春の農作業の忙しい中、石黒の各集落から全戸の方が手伝いに来てくださったことを有り難く思い出します。
 また、普請が終わった翌年、36年の秋は第2室戸台風で高柳町で死傷者がでて全壊家屋が37軒もありました。その上、冬は柏崎市街地でも180pも積雪になるほどの大雪でありました。私のもとの家は200年以上たち老朽化が進み危険であったので家を改築してもらったことはほんとうに幸運なことであったと今でも有り難く思っています。
 現在の家普請にくらべ当時の(昭和35年頃まで)普請はほんとうに大変なものでした。後年、私の家の普請が石黒で、昔からの慣例による家普請の最後であったというお話も聞き、改めて有り難いことと感謝しています。