石黒の歴史 補記 1

 松平光長 補記-2
松平越中守光長(仙千代)は1624(寛永1年)越前国北庄(きたのしょう・福井市)からわずか10歳で、それまで高田藩主であった叔父松平忠昌と入れ替わって藩主として高田にやって来た。
それから26年後〔1650〕には、光長の知行は26万石にも及び、越後国の頸城・刈羽・三島・魚沼4郡から信濃国の川中島逆木郷まで及んだ。
光長は高田在封の57年間に中江用水の開削、魚沼銀山の開発、大湊郷の新田開発、高田町の整備などを進め高田藩の最盛期をもたらしその功績は大きかった。





 松平忠輝 補記-1
忠輝は、幕府が慶長19年北国街道支配する高田の地に築いた城に移された。
しかし、大阪への途上将軍秀忠の家人を無礼打ちにしたことで家康の不興を買い1616(元和2)年に伊勢国に改易となった。
改易の原因として、翌年の夏の陣で大した軍功もなかったことや、キリシタンとの関係を上げる説もあるが、要するに将軍権力確立に支障を来す者として除去されたと見るのが妥当であろう。






 越後騒動 補記-3

1679〜1681に高田藩に起きたお家騒動。
光長は、家康の次男秀康を祖父とする名家で知行26万石の尾張、紀伊、水戸の三家につぐ家柄。
光長の高田在封は57年間だが、その大半は江戸にあって国政は国家老に任せていた。 
 当時、家老であったのは小栗美作(おぐりみまさか)・次席の荻田主馬(おぎたしゅめ)、とくに小栗美作は家柄、手腕において他を圧し重臣たちのねたみを持たれることが多かった。そのため主家横領の野心があると噂され美作派と反美作派に分れて対立した。折しも藩主の後継問題が生じたため両派の対立は一層深まった。
 そして遂に反美作派が延宝7年正月530人余が武装して美作邸に押し寄せ騒動が本格化した。しかし、美作邸は武力行使をしなかったので武力衝突は避けられたが美作は騒動の責任をとって家老職を辞した。
 この騒動は幕府にも達して越後家親類で相談の上穏便に計らうようにと覚書が届き一応の決着を得た。しかし、その後も反美作派は、この覚書が美作派の偽作だとし騒動が再燃激化した。これが遂に幕府評定所の詮議となり反美作派の主立ったものは他家お預け、追放となった。
 この判決に対し反美作は美作の幕府大老へ贈賄による片手落ちの判決と憤り争いは激化した。この事態に絶望した藩士250名が自殺、他国への流出をしたという。
 天和元年6月、江戸城大広間において綱吉自ら審理裁決が行い、美作とその子掃部〔かもん〕は切腹、永見大蔵は八丈島へ流刑となる。その他両派の多数が流刑追放となった。これにより、藩主光長も家臣統率力欠如を理由に改易され伊予松山城主松平定直に預けられ越後家はつぶれ天領となった。
 (参考文献・国史大辞典他)






検地帳について 
補記-4
 この検地では1反を300歩とし田・畑・屋敷などを検地の対象としている。
@ 延宝5年から、田畑は地味の善し悪しにより一般に、上上、上、中、下、下下の五等級にされていた。そして帳面に
 な池  
 下下田   八間
        六間   壱畝拾八歩      権左右衛門
 


    と記されてあれば、「ないけ」という地名の所に「権左右衛門」という人が下下田を1畝18歩(8間×6間)持っているということである。ちなみに石黒には上上田の記録はない。 このような記載方法は、田のある場所の地名、田の等級、面積、所有者が記載されて田の合計反別と米の取れ高が下のように記載される。
田方 四町八反七畝十四歩
    分米 五十三石一斗六升二合

※分米→石盛×面積
 更に「内訳」として上、中、下、下下の四等級にわけ「上田・・・・拾三」  中田・・「拾一」と記されているがこれは反あたりの米の取れ高を示すもので「石盛」と呼ぶ。
A 畑の検地についても田と同じ記載方法をとっている。但し畑の等級による石盛は田より一段低い。また、山畑とは山の斜面の条件の悪い畑で一反につき二石と見積もっている。

B 屋敷は「四壁引-しへきびき」といって屋敷の四方一間通りを検地から除外している。
C そのほか山、青苧、漆などにも課税された。石黒では、青苧(カラムシ)の栽培は特に盛んであり、天和検地のころから青苧から白布を生産が盛んであった。
参考資料→「カラムシ街道の名前の由来
参考資料→石黒村天和検地水帳

D 神社はその土地の産土神(うぶすながみ)であり守護神であったので検地から除外された。
参考資料→石黒の神社





 天明の飢饉 補記-5
天明天保ノ飢饉ニハ、雨フリ、度々風吹キナドシテ穀物実ノラズ、国民餓エテ死スルモノ多カリケリ、松之山ノ村々、サテハ中子村〔中後村〕板畠〔板畑〕ナンドハ、松ノ皮ヲヘツラエテ命ヲツギケルトゾ、シラセ給フ殿ヨリモ、助ノ米トテ村々ヘイタクイデヌ、云々
                 柏崎文庫より抜粋
資料→飢え人救済願い(山中庄屋文書)


 天明年間〔1781-1789〕の諸国大飢饉をいう。凶作飢饉は全国各地にわたったが、中でも天明2年の北日本を中心とした各地の被害はすさまじいものがあった。
 4月下旬より風雨の日が続き、土用になっても冷風が止まず霜が降り綿入れの着物が必要であった。麦は腐り稲は青立ちという状態であった。翌年3年も同様な冷害が続いた。その上、この年7月には浅間山が大噴火して甲信越から奥州にかけて灰が降り冷夏となった。
 とくに、津軽藩は飢饉対策を誤り40万俵の米を江戸・大阪に廻米して上納はすべて米納を強要したため、全土で食料が尽き草根はもとより牛馬や犬猫、果ては死人の肉まで食い、餓死者が続出して目を覆う惨状となった。
 実に、藩内の死者は13万とも20万人とも言われている。このような状況は程度の差はあれ北日本各地に見られた。
 天明5年に東北地方を訪ねた菅江真澄は、草むらに白骨が散乱し窮民が打ちひしがれている様子を遊歴記に記している。
 しかし、天明の飢饉がこのような惨状となった原因は、続いた異常気象の他に限度を超えた貢租の収奪があった。  
  参考文献 国史大事典



花坂新田 補記-6
 水穴口の湧き水は、花坂新田が開発される前にすでに大野用水〔花坂用水の下段に作られた用水路〕として引かれ、大野原までの田の水源となっていた。また、大野用水の下段の「モウギヒラ用水」も石黒川の源である水穴口の下から用水を引き水田が開かれていた。
 花坂用水の水源は一升枡ほどの太さで水が出ると伝えられるほど豊富な湧き水であった上に、夏の渇水期にも水量に変化はなかった。しかし、用水路が1kmにも達するため、夏はコンクリートのU字溝のなかった頃だから水のロスが多く夏には水不足をきたしたものだという。また、引かれた用水をたよりに新田を開発する者もあり、用水の下流では夜水引など行われ水による争いもあったと伝えられる。
 〔写真2005.9大野原の水田 耕作者大橋富治〕

定免法 
 検見(けみ)取法と並ぶ徴粗法のひとつ。検見取法は稲の収穫前に役人を派遣して作柄を調査し年貢を定める。
 これに対して定免法は、あらかじめ年貢量を決めておき豊作、凶作に関係なく一定量を3、5カ年という一定期間年貢を徴収する年貢の取り方(定免年季)。その算出の仕方は過去5〜20カ年の平均年貢によって算出される。
 天領の定免法は享保の改革の一つとして享保7年(1722)に全面的な実施に踏み切った。しかし、当初から定免法は凶作の年は検見取法実施するなどの特例条項があり、これが適応基準を変えながら幕末までつづいた。
 当時の幕府の年貢収入の悪化の原因は、主に代官などの地方役人の年貢査定の不正、年貢米の横領等の不成行為にも原因があった。
 また、定免法の実施は、農民にとっては、検見役人の接待と経費の節約。稲刈り時期に検見が行われるために手間暇を失わないですむ。年貢量が一定となるため計画的な農業経営や蓄積が出来るなどの利点もあった。
                  参考文献 国史大事典
参考資料→御検見諸入用割賦帳

山年貢
 江戸時代に百姓もちの山に課された小物成(田畑に対する年貢を本途物成と呼ぶのに対し山年貢、野年貢、草年貢等の呼び方)。山年貢が課せられる山には反別がつけられているものもあったがそうでないものもあった。
 また、所有者のきまっているものもあったが、総村入会となっているものもあった。郷帳(徴租台帳)には山年貢も記載した。金額も定額が多かったが年季を限り年によって増減のあるものもあった。
 その他、山年貢と似たものに山役(やまやく)というものもあった。これは木柴(たきぎ)を切るので課した。
参照文献 国史大事典他