松之山郷石代御願書控帳       (大橋一成家文書)  用語の手引き
   
松之山郷


石代

物成



皆金納
 



     松之山郷石代御頼み書控帳



     恐れながら書付をもって願い入(上)り候
一、高四千七百七十五石六斗七升六合
      家数三千ニ百ニ軒
      人数八千七百五十ニ人
  右は、当御代官所、越後国頚城郡松之山
  郷六十六ケ村の義は当国無類の山中厳地村々
  御物成米の義は皆金納仰せつけられ、御値段の義
 
 


恩沢 


高値段→特に米の値段を指す。金納の場合は納金額が増える。


旱損


破免御検地


引方


夫喰


貯穀


連々


違作


安石代



○御沙汰→ここでは安石代願いの不認可の通知
 
 深山村方百姓御救いとして、魚沼郡米穀安き
 場所三ケ所、高田今町へ御加え申し置かされ御恵沢を
 もって相続罷りあり候處、近年打ち続き凶作、高値段にて
 困窮詰まり仕り、去丑年の義は、夏中稀なる長照りにて
 田畑共、旱損仕り破免御検地入り願い上げ奉り御引き方
 なし下され、その余村々とても同様の義、御廻村御見
 仰せ下し置かされ候通りの次第、夫喰御座なく貯穀
 御拝借願い上げ奉り、御慈悲をもって願いの通り仰せ
 附けられ一同在り難く幸せに存じ奉り候えども、連々遺作
 にて取り続き兼ね候、同年石代御値段存外高値に
 相成り候所、相場より多分引違い百姓弁え御上納
 相立て皆済仕りかね候に付き、御救い安石代仰せつけ
 られたく、追々嘆願奉り再応御取調べの上
 伺いなし下し置かれ候様、御認め難き御沙汰に及ばされ
  一統 


冥加


利解→理解






承伏→承服



去丑年地震は弘化4年3月24日の
善光寺地震


弥増


小前



村役人


重立

 仰せ渡され一統愁嘆仕り、御嘆願願い上げ奉り候所、村々へ
 申し添え御恵沢冥加の程、相弁え御上納仕るべく旨
 再応、御利解の趣は承伏候得共、何分
 以前と引き比べ候えば倍余の高値段に相成り並びに
 御上納仕り去丑年地震災害以来困窮
 弥増し百姓一同相衰え当日凌ぎ兼ね候義に付き
 小前ら取立様御座なく、拠無く村役人並びに重立ちの
 もの立て替え、あるいは質物などの才覚をもって御上納
 仕り候義にて百姓衰え果て、未納金取立べく
 様御座なく迷惑罷りあり候所、同郡同御支配
 所の内、里方村々は去々、子辰両年石代
 の義、御伺いなし下され候ては一斗二升せり増し
 御免をもって御上納仰せつけられ候趣、村々一同
 承知仕り同郡の内にても私共村々の義は 
  里方→ここでは山方の対語としての意味 


ここでの9月は旧暦であり、新暦11月下旬にあたる。


畑勝り→田に比べて畑が多いことを指す。しかし、この言葉の意味するところは山地で田が極端に少ないことを伝えたもの。


山越え谷超えの田畑耕作→当時の作場は家から徒歩で1時間以上離れた所にあることは珍しいことでなかった。→石黒村の遠山作場





縮糸拵え


他国稼


縮布



下直
 
 松之山郷唱え信州境険しき谷間、里方へ
 引きくらべ候ては雲泥の違い畑勝り田方少なく例
 年九月下旬より雪降り積り(続き)、翌四月漸く
 消し払い冷水の懸かりし田方年々慈作これなく
 山越え谷超えの田畑耕作仕り手数多にて
 夫喰米引き足り申さず、他郷村の余米を買い
 入れ、粟・稗・菜・大根の葉・草の根を取り交ぜ食物
 仕り候、冬中は男は他国稼ぎ罷り出で、女は縮布
 糸拵えいたし、その外、家根の雪おろし種々
 難渋必至の有様、四月中縮布織立払い
 代金稼ぎの余分をもって御上納並びに買い入れ米代金
 相払い来たり候所、当年はこれ迄聞き伝えもこれ無き
 縮布の下直にて必至の差支え遺作□作は
 出来申さず、もともと困窮村々御座候所、里方は 
 
御免


※御割り→年貢割り
 


小前


添え方→力を貸して解決する方法の意味か



御触
 一斗二升せり増し安石代ごめん仰せつけられ、松之山は
 御沙汰及ばず、あまつさえ御調べ直しの上一斗二升余
 高値段に相成り候はよんどころなき御義に候えども大小
 の百姓一統、天仰ぎ仕り紅涙に沈み罷りあり候、往
 古より御救いを)蒙り候、難渋松之山郷は御沙汰には及ばず
 畢竟、村役人共添え方これなくいよいよ小前治まり
 申さずこの上未納金取立べく手段これなく、この度
 御上納金御触れ辻の所、月廻し御願い申し上げ度存じ
 奉り候得共、寅年越しには御延べ難く仰せ下され旨
 兼て厳重の御触れ恐れ入り奉り候義につき村役
 人並びに重立の者共、寄合い、立て替え上納方種々
 に工夫仕り候得共、去々子御年貢金も多分
 立て替え置き候義に付き、調達方行き届き申さず百両
 金程不足に相成り右の分松之山郷内にて何共 
 


※詮方敷閑と読みたいところであるが読解できない。


郡中惣代


川浦→川浦村-現在の三和村の大字。江戸期、頚城郡・魚沼郡地方を支配する代官所がおかれた。また、明治元年には柏崎県川浦民生局がおかれた。



才覚



熟作という言葉は辞書には見当たらないがここでは普通の作柄のことであろう。


開発(かいほつ)


石代


○未


藤原新田→魚沼郡藤原村のことか。藤原新田という地名は見当たらない。


松代村


出府


代官

 詮方なし果て候に付き、御陣屋こい罷り出郡中
 惣代川浦下鳥富次郎殿へ相願い候所
 同人義、才覚をもって百両金調立いたし
 くれ漸く御上納仕り候えども、去る未地震災害
 前後引き続き熟作御座なき昨今両年は
 別して不作仕り郷内一同、極々相衰え来たり□の
 開発迄の夫喰にも差支え候ほどの義につき
 右富次郎並びにその外より追々他借の分返済
 高手段御座なく候。然るところ当寅石代御値段
 当たり又案外の高値段にて来度皆済御
 上納仕り兼ね候は歴然にて百姓一同必至に難
 渋差し迫り候あいだ、恐れながら今般藤原新田村庄
 屋彦右衛門、松代村庄屋兼太郎義、村々
 惣代として出府仕り御代官様へすがり上げ奉り。子丑 
 
※文頭の
は寅の異体字


連印
 



村々三役→各村の百姓代、組頭、庄屋。



江戸表


 寅三ケ年御値段一斗二升□頃もって御上
 納仰せつけられ下し置かれ候様願い上げ奉りたく候
 あいだ何卒、格別の御慈悲をもって右両人、江
 戸御役所迄御差出し置かされ、村々連印を
 もって御仁恵の御救いと一統畏まりて有り難く仕合せ
 と存じ奉り候 以上

   嘉永七年寅年十二月
           松之山郷六十六ケ村
               村々三役 連印
          郷中惣代 江戸表出府人
           藤原新田村 庄屋彦右衛門
           松代村   庄屋兼太郎
 
   
読み下し文・用語手引き文責 大橋寿一郎