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      電   灯

 居谷、寄合を除く石黒地区に電灯が灯ったのは、大正12年であった。
 岡野町が大正11年、漆島、門出が13年であったのに奥地の石黒が意外に早く配電されたのは、保倉電気株式会社の虫川発電所より嶺村(東頸城郡)経由で配電線が引かれたためである。嶺集落で上石黒集落方面と落合集落方面に分けて配電した。当時の文書は板畑集落に残されている。〔資料〕 しかし、居谷集落と寄合集落が、その後20年も待たされたのは、いかなる事情によるものであったか。また、その実現までには、どのような苦労があったのであろうか。 居谷集落の田辺雄司さんによれば、およそ次のような事情であったという。
 当時、他集落に電灯が灯って20年になろうというのに、居谷集落では未だ石油ランプやカンテラ等にたよる生活を強いられていた村人の不満と焦りは極度に達していた。
 
            居谷集落 撮影日2005.8.29 
 そこで、昭和16年の暮れに、同様な境遇にあった隣村の莇平や小貫(現在松代町)の3集落の理事が寄って話し合い、電気会社に早期の配電を陳情する事を決めた。正式に、電気会社との話し合いが始まったのは、年が明けて17年の2月であった。
 しかし、3ヶ村合わせても戸数は百戸足らず、交渉は難航し、深い雪の中を浦川原にあった中央電気まで何度も通わなければならなかった。
 最後に、会社が出した条件は、「3月末までに工事費1000円を支払うこと、電柱は各集落で提供すること、電灯の数は経済的に豊かな家は5灯と国民型ラジオ1台、その他の家は電灯3〜1灯を設置すること」という当時としては厳しいものであった。
 しかし、配電は村人20年来の悲願であり、いかに厳しい条件をつけられても諦めるわけにはいかない。3集落には、すべての条件をのむより他に道はなかった。こうして、ようやく契約が結ばれたのは3月の初めであった。
 さて、工事費を各戸から集めることになったが、当時、村人が出稼ぎ先から金を持って帰るのは4月に入ってからであり、金の工面のつかない家が多い。
 仕方なく、当時区長であった田辺宅が一時立て替えて支払ったという。
 そして、4月に入るとすぐに電柱用材の伐採が始まったが、太さ、長さのほかに真っ直ぐという条件にかなう木はどこにでもあるというものではない。莇平、小貫には適した木が少なかったため、居谷集落では15本も提供した家が数軒あったという。
 また、切った木を山からダイモチゾリで引き出し、残雪を掘って電柱を立てる作業は、村中総出でなければ出来ないことであり。18戸の小集落にとっては誠に大きな負担であった。 
 こうして、ようやく5月半ばに念願の配電が始まり、待ちに待った電灯が居谷集落に灯った。
 その時の村人たちの喜びようは、いかばかりであったであろうか。
 村を挙げての祝いの席で子どものように跳んだりはねたりして喜ぶ親たちの姿を、当時、高等科2年であった田辺さんは、今でも忘れることが出来ないという。


資料→石油ランプの温もり 昔の生活のひとこま
資料→保倉川電気株式会社

資料→カンテラ−民具補説


             
      医     療

 当時は、よほど体の具合が悪くならないと医者の診察を受けることはなかった。それだけに病状が悪化して手遅れになることも珍しくなかった。
      内山英世医師 
 どうしても医師の診察を受けなければならなくなると、たいていの人は旭村竹平の内山医師(右写真)に診てもらった。
 内山医師は、大正3年、嶺村
〔補記〕大字竹平の医師の長男として生まれ、東京の専門学校を卒業し、外科・産婦人科医となった。当時は、前途有望な医師として長岡赤十字病院に勤めておられたが昭和13年に父親が急逝し、郷里旭村のたっての要望があり、無医村となった故郷に戻り父の後を継いだ。
 しかし、交通機関も発達していない頃のことであり、とくに、石黒への往診は並大抵のことではなかった。冬季にはカンジキばきで嶺坂を越え、無雪季には専ら馬に乗って往診されたという。
 また、衛生に対する意識も低い頃であり、村人たちの保健指導から始めなければならないという悩みもあったであろう。
 時には、手に負えない患者を橇に乗せて自らはカンジキばきで病人に注射を打ちながら柏崎病院の迎えにバトンタッチしたこともあったという。
 冬季には病人の搬送もままならず、患者の家で盲腸の手術や帝王切開をされることも何度もあった。
 その後、石黒に診療所が開設されると担当医となられ、多くの人たちが恩恵を受けた。当時の石黒の人々にとって内山英世医師は誠に貴重な存在であったと言えよう。 
 また、東頸城の山平村(現松代町)蒲生(かもう)の室岡医師も、内山医師同様の存在であった。特に、居谷と落合集落の人たちは、室岡医師にかかる人が多かった。
 室岡医師は、石黒校の校医も勤められ、温厚篤実な人柄で村人から敬愛され人望の厚い人物であった。
 また、東頸城の岩瀬に眼医者がありそこにかかる人もいたという。
 骨折や火傷などは、加納の藍沢医院に行って治療を受ける人が多かった。
 しかし、当時は県道開通前であり、上石黒から行くには、城山を越えて寄合から釜坂峠を越え門出に出てバスに乗らなければならない。そのバスも冬季には不通となるので加納まで徒歩で行くよりほかなかった。
 怪我や火傷で泣き続ける子どもを交代して背負って20キロにも及ぶ雪道を歩く苦労など、今日では想像もできない。

資料→校医さんの思いで


        
  オ(苧)の利用・青苧と縮布 


 
カラムシ()は、大昔から繊維をとりだして布を編んだり、縄に綯(な)ってオナワ(苧縄)として使われてきた。
 石黒では
昭和の30年代までは、どこの家でもカラムシ(下写真)の繊維でなった縄や繊維(青苧)のまま保存しておいて必要に応じて使った。
 
         カラムシ 
 
 青苧の作り方は、7月頃に刈り取り2、3日水につけておいた後に上皮をはぐ。
 
        タネ(家脇の池)に浸す
更に、はいだ皮についている茎の周辺部の繊維(甘皮)を薄い鉄板の付いた道具(→民具画像)でしごいて取り除く。そして乾かす。→〔注2〕
(皮をむいた後の茎は乾かして焚き付けに使った。また、高橋義宗著「鵜川の話U」によれば、この掻き取った甘皮も布団や着物の中に入れて麻綿として使ったと伝えられている。おそらく石黒でも同様であったと思われる)

 
        カラムシの茎をはぐ
 カラムシは、昔、越後縮布〔注1〕の材料として石黒村でも盛んに栽培されたこともあり、今も家の周りや野山に自生している。
 石黒の古文書、天和三年(1683)の「越後国苅羽郡石黒村御検地水帳」には、青苧畑の3反9畝3歩あり、「古高四十三石一斗六升一合、
他白布高三石六升・・・」とある。この文書は、反町茂雄文庫「越佐郷村の古文書」にも掲載され、「石黒村が古来から縮布の生産地であったことが分かる」と記載されている。
 また、有名な「北越雪譜」には「紺の弁慶縞は高柳郷に限り・・・云々」とある。

 
 
     越後布を織る地ばたの用具 
 下石黒の大橋正男家文書に、縮布の出荷台帳〔大橋正男文書-縮布集約依頼覚〕がある。その古文書によれば、下石黒と大野集落のみで一冬に86反の出荷をした記録が見られるのでほとんどの家で1反は織ったものであろう(下写真)。これをもとに推察するに石黒村全体では毎年、数百反の縮布を出荷したものと思われる。
 縮布(86反)取集め依頼書  下石黒 大橋正男家文書
 
 また、寄合の「請け山絵地図」には「山苧畑」の地名が見られる。
 居谷集落でも、昔、村の北側の茅場の先に広いカラムシ畑があった。現在も川向こうの山を「オッケ」と呼んでいるがこの地名は「苧畑」からきたものだという。
 
   糸巻きと苧繊維 
 昭和の初めの頃になると、石黒では縮布まで織る人はほとんどなかったが、青苧から糸にする仕事は女の人の冬仕事として盛んに行われたという。つないだ糸は玉にしておいて、定期的に村を訪れる買い付け商人に売り渡したものだという。
 


資料→縮布集約依頼覚@
資料→縮布集約依頼覚A
資料→青苧から糸ができるまでの工程
(資料→母から聞いた話)

資料→オの皮のカスとり具−民具補説
資料→苧桶の思い出
越後国苅羽郡石黒村御検地水帳(越佐郷村の古文書)
参考資料→カラムシ街道市の名前の由来について
越後国苅羽郡石黒村御検地水帳控(青苧高)-矢沢繁徳文書



                
      ホ ウ キ

 当時の掃除に使うホウキには、ニワボウキ、ザシキボウキがあり、ザシキボウキ
 
  ホウキキビで作ったホウキ 
には、ムシロの上をはくホウキと板の間を掃くホウキがあった。
 ムシロ敷きの部屋を掃くザシキボウキは、ホウキキビ(草丈2mほどで実は食べられない)やホウキグサを使って作った。
 
           ホウキ草 
 板の間を掃くホウキは、ヨシの穂を束ねて作った。また、餅をのすときのトリコナを広げる粉ボウキワラのヌイゴの部分で作ることもあった。
 
 ホウキ草の乾燥
 ホウキキビは、8月末頃花が咲いている頃に切り取り、陰干しをしてホウキの材料とした。食用キビも脱穀後の穂を使ってホウキを作る人もいた。
 
            キ ビ 

 また、ニワボウキは、竹の枝を束ねて作ったが、ホツツジヤマモミジの枝の先を束ねてまに合わせに作って使うこともあった。
資料→昔のホウキの色々


 
公休日(農休日)

 居谷集落では、昔から6月6日は、「マンガヤスミ(馬鍬休み)」と呼び、馬を使って田カキなどをしてはならない日とされていた。この決まりを破ると、その後何年も村中の話題とされ一種の制裁になったという。
 また、7月の1日は、「タエウェヤスミ」と呼び、植え直しまで終わったところでゆっくり休んだ。
 8月はお盆、9月は十五夜祭りで休みがあったが、10、11月は休みが無かった。
 昔は、公休日に野良仕事をすると、その日の仕事分を村の若い衆が元に戻すこともあったという。朝起きてみると、昨日家の近くまで運んだ薪ニオがもとあった山に戻っていたという話も伝わっている。
 戦後、生活改善運動の一環で、それまで月1回(15日)の公休日が1日と15日の2回に改善された。
 公休日は、とくに農家の嫁にとっては有り難い制度であった。普段は、野良仕事に追われて子どもの世話も姑に任せきりであったが、この日ばかりは1日中、子どもと共に過ごすことが出来たからだ。
 ただ、公休日の翌日は、野良に出かける時に子どもが後追いすることが辛かったと話す人もいる。
 しかし、この公休日も昭和30年代後半になると高度成長期の中、村人の働き方が多様になるにつれて自然消滅した。
資料→田休み
資料→高柳村定休日一覧表-大正9年
 
            
        和   紙


  今日、どこの集落でも野生化したコウゾの木(下写真)に出会うことができる。
 村の古老の話によると、石黒村でも昔は多くの家で紙漉が行われたものであるという。

 
            コウゾ 
 原料には主にコウゾが使われ各家にコウゾ畑があった。コウゾは極めて繁殖力が強く、山の傾斜地でも栽培できた。
 紙漉は晩秋から早春にかけて行われ、コウゾは秋に刈って長さを揃えて束にして蓄えた。そして平釜の上でオケをかぶせて蒸し、適当に蒸し上がった束をむしろの上に取り出し、水をかけ、手早く皮をはぎ取った

 はぎ取った皮は黒皮(粗皮)と呼び、乾燥して貯蔵した。この黒皮から黒い表皮を取り去るには、更に水に浸けて柔らかくしてから用具を使って削り取った。
 石黒では晩秋の川の浅瀬に浸して足で踏みつけて表皮を洗い流したものだという。こうしてようやく和紙の原料ができあがった。紙漉の際には、この原料を必要なだけ取り出して半日ほど水に浸し釜の中に入れて灰汁で煮た。
 1時間ほど煮て白皮が指でつまみ切れるほどになったら流水の中で水洗いする。さらに漂白するために雪の中に埋めることもあった。これを「雪さらし」と呼んだ。
 さらに、少しずつ水の中に漬けながら荒皮や堅い筋やゴミを手で取り除いたが、これは根気の要る仕事であったという。こうして精製された繊維を丸い塊にして堅い木や平らな石の上に置いて槌で叩いた。
 寄合集落などでは、しんしんと雪の降る村道でかすかに聞こえるトントンというコウゾ打ちの音は藁たたきの音と共に雪深い冬の風物詩であったという。
 また、このコウゾ打ちによって和紙本来の強さと美しさが生まれるものだといわれる。
 こうしてできあがった紙の原料を漉き舟に入れて水を加えてよくかき混ぜて簾ですくい上げるのが紙漉の作業である。
 
          門出和紙 
 漉いた紙は紙床(漉いた紙を積み重ねたもの)から一枚ずつはがして干し板に貼って、日光に当てて自然乾燥をする。晴れた日なら1時間ほどで乾くので、板からはがして枚数を揃えて、紙包丁で裁断して製品となった。
 昭和に入ると自家で紙を漉く家はほとんどなかった。隣村の門出から買って使う家がほとんどであった。

 
リンク→HP越後門出和紙
 ビデオ資料→コウゾの育て方と収穫
 資料→古文書「楮覚」