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      天理教入信をめぐる騒動

 
明治34年、突然、板畑集落に高橋由蔵と名乗る天理教布教師がやって来た。布教師は村に泊まりこんで家々を訪ねて精力的に布教活動を行った。その結果、集落の7戸の家が天理教に入信した。
 憲法で信仰の自由が保障された現代では、単なるいっときの話題で終わることであるが、当時、村の一割もの家が宗旨替えをしたという事実はまさに大事件であった。とくに、板畑集落は60余戸すべてが曹洞宗で、石黒村の中でも、本家を中心とした団結の固い誇り高い集落であったからなおさらである。
 また、明治末から昭和の初めにかけては、特に天理教の布教が盛んに行われた時代であったため、石黒のみならず近村でも危機感を抱き対策を講じていることが古文書から知ることが出来る。
参考資料→西照寺檀徒規約書
 なにより、板畑の村人たちは「このまま天理教の信者が増えていくと、集落としての団結がくずれて村の将来は危ういものになる」という強い不安を抱いた。
 早速、これ以上信者を増やさないために、寄り合いを何度も開き対策を話し合った。協議の内容は、どの程度の制裁を信者に与えるか、直系親族の扱いはどうするか、信者との付き合いはどの程度まで認めるかなどで、議論は果てしなく続いた。そして、ようやくにして決議書をまとめた。

 この決議書は板畑集落に今も保管されている。そこには、以下のような内容の決議文がしたためられている。
@五人組の長は組合員を監査し、組合員は組長を監督し、天理協会所へ出張して説教を聞く者を見届けたときには天理教信者とみなし従前の規則で処分する。
A天理教改信の家宅に対しては一切、呼んだり、呼ばれたりはしてはならない。
B部落の必要経費の2分の1は部落人民の負担とするが、残りは天理教信者の負担とする。
 このような厳しい村八分的な天理教対策の中で、再び曹洞宗に改宗する者も出てきた。明36年には7軒の内の4軒が天理教から脱退している。その旨を区長宛に提出した約定書が今も残っている。文書の内容はいずれも下記のような意味のものである

「自分の心得違いにより、天理教に加わり部落の人々にご迷惑をおかけし大変申しわけございません。しかし、これからは決して天理教に加わることはございません。万一、約束を違いましたときには証人が責任をもって処理して村には一切迷惑をかけません。」

 こうして、信者は明治36年末には3人に減り、事件は収束に向かうかに見えたが、翌年には再び7人に戻った。入信者たちの天理教への信仰は中途半端なものではなかったのである。

 村では重立衆を中心に協議を重ね更なる対策を練った。 そして、天理教信者を除いた村民全員の署名連印の約定書を作ることにした。その約条は下記のような内容のものである。

@天理教信者の家には板畑集落民たるものは一切通行してはならない。
A万一、やむをえない事情でいかなければならない場合は区長に届け出てから通行すること。
B右の事項に違反し通行するものは、天理教信者と見なし相当の取り扱いをする。
 こうした厳しい取り締まりの中、先に天理教から脱退後、再び入信し、そして再度、脱退した村人の誓約書も見られる。
〔資料→差入申一札之事〕
 その後も、天理教信者に対する扱いは更に厳しくなり、明治40年ころの古文書の中に、当番制で監視をしたものと思われる区長宛の報告書綴りがある。
 その中に次のような文が見られる。「明治四十年旧四月二日ヨリ、二十日マデ村内見回リ致シ候エドモ、別ニ条約〔上記決議書の条項〕ニ違反セシ者コレナキ候コト」
 その後、天理教信者数は3軒のまま、明治から大正、昭和と推移して来た。
 昭和も30年代になるとわが国は高度成長期に突入し、村の生活もそこに住む人々の生活感情も激変した。
 だが、その後も天理教騒動は、長く村人の
心の奥に癒え難い傷として残った。事実、その後も、事あるごとに、とくに本音が出たがる酒の席では、天理教が話題となったいう。
 一世紀も昔、平和な村に降ってわいたような一つの事件が、いかばかりかにせよ今日の子孫の人間関係にも影を落としているという事実は、とりもなおさず、当時の入信者及び他の人々の心の葛藤、苦しみ、悲しみがどれほど大きなものであったかを物語るものといえよう。

     
      高柳村との合併と高柳町の誕生
 二度目の大規模合併、昭和28年に公布された町村合併促進法は、教育、民生等の増大した行政の財政確保のために市町村規模を8千人規模とすることを目的としたものであった。
 新潟県も翌29年には各町村に合併促進委員会を設置して答申を求め、県の町村合併計画を作成した。これによると高柳村と石黒村が合併して人口1万人の町とする案が示されている。
 しかし、合併の母体となる高柳村は当初、石黒村のみならず、鯖石全村、とくに南鯖石村との合併の交渉を積極的に進めていた。中でも昔から生活圏としての交流が深かった大沢村との交渉は実現のきざしもみられたが結局、大沢村は柏崎市を選んだ。
 一方、 石黒村は、東西南北に行政区の異なる村落と隣接する地理的な位置にあった。
具体的には、北には鵜川村、西南には旭村、南東には松代村、東には高柳村との境界を接し生活の交流はいずれとも密接であった。
落合という集落名は、それらの村からの道が落ち合うという所にその由来があるといわれている
 とくに、鵜川とは近世、女谷村の兼帯庄屋の支配下にあった時代も長く、昭和に入ってからも柏崎に通じる幹線道路として通行も盛んで、石黒校も高柳村との合併までは上条郷に属していた。
 筆者が小中学生の時は陸上競技会、球技大会、写生大会などの会場を、上条郷の持ち回りで行われたものであった。
居谷集落の児童生徒等は、朝早く起きて十数kmもの峠道を歩いて競技場に到着し、徒競走に臨んだことになる
 また、とくに居谷集落などでは、松代との交流の歴史が長く、事あるごとに協力して生活してきた歴史もある。
 このような地理的、歴史的条件の中で、石黒、鵜川、野田との3か村の合併構想も提起されたが、冬季の地蔵峠、小岩峠の困難が身にしみている石黒の望むところではなかった。
 その他、高柳村との合併を決める前年に東頸城郡旭村より合併の交渉を受けた。これには一、二賛成する集落があったものの、すでに高柳村岡野町とのバス運行が実施されていた時期であり、高柳村との合併への流れは必然であった。
 こうして石黒村の住民は、すでに高柳村との合併に合意しており、昭和30年2月24日、当時の田辺伊久村長は村議会で議決を得ている。
 また、当時の石黒村は岡野町より人口が多い大村であり、町制を目指す高柳村にとっては石黒の編入合併は欠くことのできないものであった。
 その後、同年3月13日に高柳村も村議会で当時の石塚伊三右衛門村長は村議会の議決を得て、翌日には両村長連名で県知事宛に申請書を提出している。この申請書には多くの添付書類があり、合併の必要性、両村の概況など、歴史的に貴重な記録であると思われるので資料して別掲したい。
資料→村の廃置分合に関する申請書と添付書類
 そして、3月19日には知事と総務部長名で「刈羽郡石黒村を廃し、その区域を高柳村に編入し、昭和30年4月1日から施行する」との文面の通達が届いている。高柳村は合併の施行とともに、町制の施行も同時に行う予定であったが、町制の施行の方は11月3日まで延期されることになった。
 延期された原因は、突如、3月13日に、役場庁舎がかなりの強さの竜巻に襲われ半壊してしまったことにあった。折しもその時、庁舎内は町制施行問題の協議中であった。会議は勿論中断し後日に再開された。


 

 高柳役場旧庁舎
 余談となるが、竜巻発生時に、筆者は役場隣の親類の家の二階にいたが、竜巻は一瞬にして屋根を持ち上げて数十m先まで飛ばしてしまった。天張りも半分持って行ってしまったので部屋の中から空が見えたのには驚いた。四角の屋根のトタンが50m以上も巻き上げられてゴミのように見えたことを今も鮮明に覚えている。
 このような思いも掛けぬ天災で、町制は11月に延期されたが、町の名称は「高柳町」と決まり、高柳町役場の位置は今までの位置に置き、支所を石黒に置くこととなった。
 こうして、11月3日には、内閣総理大臣の町制とする告示を受けて高柳町が誕生したのであった。
 
なお、高町の発足にともなう町内区域の変更により、旧石黒村寄合と高村寄合の併合が実現した。

資料→門出校への通学の思い出 

    

           過    疎

 過疎は、歴史的事実ではなく、現在も進行中の深刻な問題である。とはいえ、過疎が初めて社会問題としてとりあげらたのは1960年代後半のことである。

 その間、1971年の「過疎地域対策緊急措置法」に始まる過疎対策法次々と作られて
昭和45〜54年度「過疎地域対策緊急措置法」、昭和55〜平成元年度「過疎地域振興特別措置法」、平成2〜11年度「過疎地域活性化特別措置法」平成12年4月からは「過疎地域自立促進特別措置法」が制定)、膨大な国費が投入されてきた。にもにもかかわらず今日にいたっても解決の目途は立っていない。とくに山間地の過疎化はいよいよ深刻化している。

 こうした中にあって我が故郷石黒は現在、限界集落を通り越して「極限集落」と呼びたい崩壊寸前の状況にある。住民の高齢化は進み平均年齢70歳に届こうとしている。田畑は年々、悠久の原野と化しつつあり、地主不在の森林も荒れ放題だ。過疎化の波に流されず石黒に踏みとどまって農業に取り組んでいる人達もすでに還暦をとうに過ぎて、後継者もなく未来の展望はひらけないままである。

 次に提示した過疎化による石黒の戸数と人口の推移のグラフを見れば、過疎対策による成果が認められないことは一目瞭然である。
 人口は年々減少して、平成初めには底をつき、ここからの減少は出生の殆どない住民の老死によるものである。このまま進むと今世紀の半ばには石黒の人口は限りなくゼロに近づく。
資料→昭和40年〜平成20年の戸数・人口の推移
 過去40余年にわたり50兆円を越える国費を投じた過疎対策とは何であったのか、その実態を明らかにすることは今後の指針を得るためにもきわめて大事なことと言えよう。
 まずは、そもそも、ここまで農村を疲弊、衰退させた原因と過程はいかなるものであったであろうか。
 昭和20年の太平洋戦争の敗戦時には日本の工業は壊滅状態にあり、しばらくは機械も原料も燃料もない時代が続いた。
 この時代には石黒でも戦地や大陸から帰還する者が多く、村の人口はピークに達した。石黒校の生徒数は400人に近く、村の青年団員の数も150人を越えた。

 また、出生率も高まり、後に第一次ベビーブームと呼ばれる世代が就学年齢に達した頃は1学年を2クラスに分けるほどであった。
資料→石黒校の児童・生徒数の推移(グラフ
 そして、このベビーブームがピークに達した昭和25年、突然、朝鮮戦争が勃発して日本経済は一気に息を吹き返し高度成長への波に乗る。朝鮮戦争は3年余も続き、日本中が戦争特需によって食うや食わずの生活から一気に脱することができたのであった。
 この頃から石黒の青年団員数が年々急激に減って来ていることからも、都市の工業生産力が増大し、都市への就業率が高まったことがわかる。
 しかし、都会へ出て行くのは次男三男などであり、農家の跡継ぎは村に残り、新田開発をするなど農業に積極的に取り組んでいた。
 そして日本は昭和26年には、講和条約を結び27年から独立国となり、アメリカと安全保障条約を結んで平和憲法の下で通商国家として再出発をした。いわば軍備には金をかけずに経済の発展に専念できたのだった。

 こうして日本の経済は右肩上がりの成長を続け成長率も2桁に達する勢いとなった。とくに、昭和39年の東京オリンピックの開催が決まると一層景気は過熱していった。都市の労働力の需要も景気と共にどんどんふくらみ、農漁村から若者を中心とした大幅な人口移動が起こった。また、農村に定住していた人々の間も出稼ぎブームが巻き起った。
資料→高柳町の出稼ぎ者数の推移(グラフ)
資料→出稼ぎ職種(グラフ)
資料→戸数から見た出稼ぎの割合(グラフ)

 この頃、石黒でも冬期間の出稼ぎが盛んになり、冬期間に村に残っている働き盛りの男子は2、3名しかいないという状態であった。冬の間は老人と女性と子どもが家を守った。
資料→出稼ぎの皆様へ
 そのため、昭和36年や38年の豪雪時には男手がなく、子どもまで動員して毎日が除雪作業の連続であった。
 また、43年は岡野町地区でも380cmを越える豪雪となり、石黒では出稼ぎ先から除雪のために多数が一時帰省している。このように昭和36年から44年頃まで豪雪、豪雨、地すべり、地震と災害の年が続いた。
 この頃から、石黒では離村する家が毎年、各集落に1〜2軒見られるようになる。しかし、それらのほとんどは、特別な家庭の事情による離村であった。
 勿論、この段階ですでに石黒にも過疎化の波は起きつつあったのだが、未だ村人の多くはそれほど危機意識をもっていなかった。
資料→出稼ぎ先から除雪に帰った思い出
 この頃(昭和41年)に、初めて「過疎」という言葉が登場し(経済審議会の地域部会中間報告)、過疎が社会問題として取り上げられた。
 すでに、全国的に地方の人口減少が顕著であったので、地方自治体からの過疎対策の要望もあったものであろう。国は昭和45年に過疎地域対策緊急措置法を制定した。〔※それまでにも「山村振興法−1965」はあったが限定的なものであった〕
 この法律の過疎地域の要件は昭和35年〜40年までの人口対比減少率が0.1以上とされた。高柳町はすでにその要件に達しており、この年に全国過疎地域振興指定町となった。
 これを受けて町は「高柳町過疎地域振興計画」を議決し、「昭和45年単年度実施計画」をつくった。

交通通信体系の整備
 @町道整備  9千80万円
 A農道林道整備 1億3千500万円
教育文化施設の整備
 @教育施設整備計画 1億8千871万円
 A文化施設整備計画 6千249万円
生活環境施設等厚生施設の整備と医療の確保
 @生活環境施設等厚生施設整備 6千835万円
 A医療確保整備計画 140万円
農林水産業その他産業の振興
 @農業振興整備計画1850万円
 Aこの他町以外の事業主体分1億3700万円
            (高柳町史)
 上記は単年度事業費であるが、5億5000万円を超えている。したがって10年間の事業費総額は34億円を超える膨大なものであった。ちなみに、昭和45〜64年〔平成元〕までの国の投資総額は25兆円に上っている。
 また、この法律は10年間の時限立法である
ため、市町村の計画策定は5年ごとに区切られ前期と後期に分けられている。
 とくに、この実施計画の中で注目すべきものに「集落の整備」の項の「集落移転」がある。
 この計画は昭和46年3月11日に議会に提出され可決している。その内容はおおよそ次のようなものであった。

集落整備
現状と問題点
 高柳町は毎年3m余りの積雪を記録する山間豪雪地域で、大小合わせて21の集落が散在している。特に中後、後谷、白倉はいずれも急激な人口減少により20世帯100人未満の小規模集落としての機能維持が困難になりつつあり、立地条件も悪く、集落間の有機的連携も阻害されており、特に冬期間における交通及び医療の確保は深刻化している。
 したがって共同体活動を営むことは不可能となった集落、あるいは文化的生活の享受という点から看過しがたい状況にある。小集落または、なだれ等自然災害の危険性を有する集落を社会経済の発展に即応する広域的な生活圏に住民の意志を尊重しつつ集落移転をする必要がある。
 なお、事業の実施の項目には次の2点が記されている。
 @集落移転期間は原則として1集落2ヵ年以内とする。
 A住宅建設は原則として、個人建設とするが要すれば町内または柏崎広域圏内は考慮する。        (高柳町史)

 上記によれば、集団移転は町内の総戸数20戸以下の集落を対象とするもので、中後、後谷、白倉の3集落があげられいる。そして
翌年の46年に後谷と中後集落が廃村となり、翌47年には白倉集落が廃村となった。

 国指定の時限立法とはいえ、いかにも拙速な事業であった。白倉集落などは昭和40〜42年にわたり「白倉総合整備計画」が実施されて道路整備がおこなわれたばかりであった。また、実に中後集落にいたっては、念願の車道整備が実現したばかりのその年に集団移転させられたのであった
(集団移転の内情を知らない多くの人々は、中後集落の人達は車道開通をまって揃って移転したかのように受け止めていた)

 それにしても、このような時に、突如、集団移転の話を持ちかけられた中後、後谷、白倉集落の人々の驚きと動揺はどれほどのものであっただろうか。それについて今日に伝える資料はない。
 しかし、上記の集落移転計画には記載されていないが石黒の居谷(当時17戸)も集団移転の対象とされ集団移転を要求されたのであった。そのときの居谷集落の人々の衝撃と動揺を下記の田辺雄司さんの手記からうかがい知ることができる。

(前文略)
 私は昭和41年に初めて部落の区長を指名され慣れない会合や会議に出席していました。その頃は毎月20〜23日の間に定例区長会がありました。その頃は、区長と町会議員を兼ねている人も何人かおられました。区長会が終了すると当時は必ず酒が出され議場が即酒席に変わるのが常でした。時には酒席の方が会議の時間よりも長いこともありました。
 昭和41年の3月に私たちの部落に大きな地すべりが発生した際県の土木課より来てもらい色々調査をしていただき最終的には地すべり地帯として認めて頂き、まもなく対策工事が行われることになりました。村の人達も土木工事に使ってもらい日当をもらえるので今までにない活気に満ちていました。農閑期には、老人でも足腰の立つものはみんな家を空っぽにして工事現場に通ったものでした。私は毎日のように出先機関(柏崎土木)が現場や次期工事現場の視察に来られるのでそちらの対応にあたりました。
 わずか18軒の集落地内に毎年5、6千万円の工費の土木工事がおこなわれたのでした。その他道路(現在の353号線)の改修工事などもあり多いときには石黒の人達だけで7、80人もの人が働いておりました。
 この様に集落の全員が満足して平和に暮らしているときに、つぎのような思いもかけない話が舞い込んできました。

 それは、忘れもしない昭和46年のことでした。私は当時、農協の農事委員として農業一般の問題等について1ヶ月1回会合に参加していましたが。その日7月7日は、農事委員の慰安旅行で戸隠方面へ一泊旅行に行っていました。2日目の昼、戸隠神社にお参りして戸隠名物のソバを食べていたときに時に私の隣の席にいた後谷の農事委員だったと思いますが「今日あたり、町長と総務課長が居谷に行って過疎の話をしているだのう」と突然言い出しました。私はいきなり何のことだろうと「過疎の話とは何だ」とたずねたところ、高柳町の20軒以下の部落は、町の方針でどこかへ出て行くか、岡野町の1棟2戸建て住宅に住んで通勤農業をするかという方針に決まったのだとの返事でした。
 私は、大変驚いてしまい、全く何でこんな時に、戸隠神社に参ったばかりなのに、何と悪い知らせなのかと思い居ても立ってもいられない気持ちになりました。そして、一刻も早く帰らないと部落は大変な騒ぎになっていることだろうと心臓が止まるような思いで高柳農協まで帰ってきました。他の委員達はハバキぬぎに一杯飲もうなどと話していましたが、私はそれどころではなく、すぐにタクシーで急いで帰りました。
 案の定、分校で話し合いが行われた後で蜂の巣をつついたような騒ぎになっていました。皆が口々に、こんな時に何処へ行っていたと私に言いましたが、話の内容を区長から聞いて本当に驚いてしまいました。
 区長の話では、国の方針で人口の激減地、過密地があるので、これを平均にするために作られた法律(過疎地域対策緊急措置法)で、指定町になったので、その事業の一環として集落移転をするとのことでした。指定されたのは高柳町と鳥取県か島根県か忘れましたが確か樫谷村とかいう村が選ばれたとのとのことでした。
 私は、この話を聞いて、こんな無体な話があっていいものかと、はらわたが煮えくりかえるような怒りとともに、本当に悲しい、切ないという気持ちになりました。(このときの気持ちは生涯決して忘れることはないと思います)
 町で、この時すでに、昭和46年から順次4集落を集団移転させる計画を条例に記していました。つまり、この年の3月には議決されていたのでした。
 実際、46年の秋には中後集落が柏崎や他県に全戸が転居して閉村となりましたが、その年の夏、板畑から中後まで車道が開通しましたので世間では「引越道路」と呼んでいました。
 また、おなじくこの年に後谷集落も閉村となりました。
 そして翌年の47年には白倉集落が閉村となりましたが、その3年前の夏のこと、白倉集落の区長と理事の方々が4人で分校の建て替えをするため居谷の分校を参考にしたいので見せてほしいとやって来られ私が案内して見て頂きました。お話によると校舎建て替えの要望書はすでに町に提出して予算にあげて頂くことになったと喜んでおられました。ところがその4年後にもう集落はなくなってしまうとは誰も想像しなかったでしょう。
 そして、私たちの居谷集落も49年に集団移転するとされていましたが私たちは承知しなかったため、役場から呼び出され区長の私が行き総務課長に会いました。総務課長は、いかにも私たちが離村しないのが悪いことであるような口ぶりで、第2期対策が昭和55年までだからそれまでに離村するかしないか、文書に名前と実印をついて提出するようにと言いました。私は部落に帰って全員の離村拒否の署名と捺印をもらって役場に提出しました。
 しかし、50年をすぎる頃から居谷でも今年一戸、翌年また一戸と櫛の歯が欠けるように減少はしていましたが、土木工事も夏冬を通じてあり、まだまだにぎやかでした。その後大雪がつづき、地すべりが発生して7戸となりましたが7戸の年月は長く続きました。
 ところで今でも憶えていますが、その頃、石黒の七つの集落が問題や要望を持ち寄り、実状を説明して十箇条ほどにまとめて石黒地区の町会議員と区長で町長,課長宛に要望書や請願書を提出しておりました。その会の折りでしたが議員の1人が「過疎になり、山間地もだんだんよい方向へ進む」というようなことを言い出した。その時私は、何をバカなことをいうのだと怒り心頭に達してその議員の前に行って「過疎が進んで、何がいいあんばいなのか」と言うと、他の2、3人の人もやってきて同調しました。
 すると、その議員は「過疎になると我々が今まで納めていた税金が過疎債によって戻ってくる。立派な総合センターや福祉施設が整備され町の生活も向上する」と主張するのです。我々はいよいよ頭に来て「村が廃村になって人口が激減して何が生活の向上だ。施設整備にしてもそれは集団離村をさせられた小集落を犠牲にしてのことではないか」と真冬の寒い頃でしたが怒りで体中が熱くなったほど怒りにかられたことを忘れません。この集団移転のころから急激に過疎化が進み今に至っています。
私は、今でも、なぜ当時、20戸以下の集団移転の話が、前もって何の話もなく、ある日突然村人を集めて爆弾発言のように伝えたのか理解できないでいます。本当に寝耳に水とはこういうことでしょう。
 このようなやり方で20戸以下の集落を無理矢理といってもよいやり方で離村させたことが、他の集落にも、どうせ出るなら少しでも若いうちに出ようという気運を高めたことも確かだと思います。
                田辺雄司(居谷在住)
 
 この集団移転は、対象集落のみならず他の集落の人々にとっても衝撃的な事件であった。実施計画案には
住民の意志を尊重しつつ」という言葉もあるが、現実には上意下達的な面が多分にあったことが、今日の当事者の話等から推測される。そして、地区全体の人々も上記の田辺さんの手記にあるとおり、「いずれ村を出なければならない、であれば少しでも早いうちに」という気運を高めたことは事実であろう。
資料→ふるさとを後にした日の思い出

 下記の資料は、高柳町の各地区の昭和30、37、47年の人口の推移である。
37年から47年の減少の大きい地区は、門出、栃ケ原、岡田であり、集団移転をした中後、後谷、白倉を枝村にもつ地区である。

 
昭和30年の石黒地区の人口は高柳町で最も多く1600人を超えている。しかし、37年には1450人、更に10年後の47年には930人ほどに激減している。

 石黒にも上記の門出、栃ケ原、岡田と同様の人口激減が見られることは、この時に、閉村にこそならなかったが、居谷集落に多くの離村者があったことによるものであろう。




 
 資料→過疎による人口推移比較 石黒・門出・岡野町
 では、過疎地域対策緊急措置法以後これまで次々と実施された過疎対策が過疎の進行を止めることのできなかった原因はどこにあるのであろうか。そこには、多面的に複数の要因が重なっているように思われる。

 まず、過疎について考える上で、昭和29年に創設された地方交付税制度を度外視することはできないであろう。地方交付税は、言うまでもなく全国の人々に、標準的な行政サービスを提供できるよう、地方公共団体の財源の不均等を調製する制度である。

 また、地方交付税は、いわゆるひも付きの補助金とは異なり、その使徒は地方公共団体が自由に決定することができるので地方にとってはありがたいものであった。
 制度発足時(1954)に20%であったが、1964年には32%まで上昇した。そのうえ、その財源である所得税や法人税、酒税などが景気向上にともない増えていったため交付税額も増大し続けた。特に高柳町など自主財政の脆弱な市町村では町の歳入にりおける交付税の占める割合は驚くほどにまで上昇した。
一方、地方交付税とともに当時、地方の経済を潤したのが莫大な公共投資であった。とくに昭和35年の公共投資は前年度比50%を越えるという莫大なものであった。
 また、石黒地区のほとんどは県の指定する地すべり地帯の範囲であり、各集落で地すべり防止の工事が長年にわたって行われ続けた。居谷における地すべり工事の様子を田辺雄司さんは下記のようにふり返る。
   昭和40年代の地すべり工事について
                    田辺雄司
 昭和40年の3月に残雪2mの中、集落の西側に大規模な地すべりが発生しました。それまでも昔から幾度となく地すべりは起きていました。道路の復旧は役場当局である程度の協力がありましたが、田畑の復旧すべて個人が人足を頼んでモッコと鍬で行ってきました。
 しかし、昭和40年にはテレビがすでに村にも普及したころであり、災害の報道も迅速に行われていました。ちょうどその日は区長が会議で留守でしたので、私は一刻を争う事態であり、すぐに消防、警察等に連絡をしました。チョウナ坂から滑り落ちた土砂が川をせき止めて水がたまりつつあり、決壊した場合は一気に雪上を濁流がながれて、下流にある2戸の家が危険であったからでした。
 その旨、連絡をしたところ、それぞれから問い合わせの電話が次々と来て私は、その対応に追われました。新聞社の記者もこちらに向かって門出地区までは来たが、そこから居谷集落まで来ると時間的に明日の朝刊に間に合わないとのことで、地すべりのその後の状態を電話で詳しく聞いてきました。当時は、農集電話が架設される前で、各集落に公衆電話が一基しかない頃であり電話は切れ目なくかかってきた。警察、消防からもけが人や病人はいないかなど問い合わせもありました。
 水を流すための残雪を掘り割って水路を作る作業が急ピッチで行われましたが若い人達は出稼ぎ中で女性や年寄りの男性がほとんどでした。昼飯は集落で炊き出しをしましたが、夕方になって私が心配していた病人が出てしまいました。とりあえず家に搬送して安静にして医師の診断を受けることにしました。雪の水路を作ったおかげで家屋の被害はまぬがれましたが、寒い中での作業で病人が出たことは大変気の毒なことでありました。
 その後、今までのような地すべり後に自分たちで田や農道の復旧をするのではやっていけないので役場、県の出先機関は勿論、県に直接陳情する事などについて集落で協議しました。重立ちの中には、そうなると集落負担も増えることから、今まで通りがよいという意見もでましたが、当地の地すべりが新聞やテレビで報道された今、県の方でも充分考慮してくれるのではないかと陳情書を提出してその返答を待っていました。
 それは、4月のある夜遅く高柳町町長より電話があり2、3日中に県の出先機関の職員が地すべり地帯の視察に行くから、相応の対応をしてほしいとの連絡がありました。そのことを翌日、集落で話し合いこれできっとよい方向へ進むだろうと喜びました。翌日、山菜のタラの芽やコシアブラの若芽などいろいろ取ってきて山菜料理を女衆が腕によりをかけて作ってきて食べていただくことにしました。視察職員は10人ほどの人数でやって来られました。地下足袋にゲートル巻きで山中を歩き回って調査にあたられた部長さんから国の地すべり地帯として申請すると、今後20〜25年は土木工事が続くであろうから村も協力してほしいとのお話を伺ったときには涙がでるほどうれしく思いました。
 その後、居谷地区は全部で100ヘクタールが地すべり指定地となりました。そして直ちに地すべり地帯の看板が立てられました。
 さて、工事に取りかかるとなると、それまでは道路に砂利一つ入っていない状況でしたから、先ず工事車両が通る道から改修が必要でした。最初は道路表面の整地をしてから砂利をどんどんとトラックで松代方面と上石黒方面から運び込んで敷き詰めロール車で固めて、雨降りでも車両が通ることのできる道路に改修されました。
 その秋の10月ごろから地すべり止めの堰堤(えんてい)を集落の西側の川の上流付近に造ることになり請負業者が工事に取りかかりました。当時はまだ、重機等はない時代であり、すべてスコップや鍬だけの作業で行われました。ちょうど稲刈りも終わった時期の自分の集落内での工事に出れば日当が支給されるので集落では腰の立つものは全員といってよいほど工事に使ってもらいました。冬に向かう頃なので山ギモンや山ノノコなどを着て日中暖かくなると片袖をはずして土掘り作業をしたものでした。
 しかし、最初は工事現場で道具の名前が一切分からない、本当に笑い話にもならないのが現実で、業者の人達も一時は面食らった様子でしたが次第にみんなが仕事に慣れてきました。
 暗渠排水(あんきょはいすい)は深さ2m余りで200mほどにわたって二段に掘る作業でした。また、地下水を抜き取る所は直径4m、深さ15mの井戸を掘り、底辺から二段にわたり、ボーリングの機械を据えて5〜7本くらい、長さ50m、直径5.5pの穴を掘ってその中に水抜き用のビニール管を13本押し込むのでした。水抜き穴からは水の出る穴もありましたが、出ない穴もありました。
 この様な穴の中の仕事は寒い冬季には地中なので暖かいのでやりやすい仕事でした。工期が迫りますと二交替制で徹夜で仕事が進められました。
 砂利を敷き詰めたとはいえ、その当時の道路は幅が狭いため大型車が入らないのでコンクリート打ちなどは移動できるミキサーを使って砂利、砂、セメントをスコップでドラムに入れて混ぜてコンクリートをつくりました。一日に何十回もこの作業を繰り返すので夕方になると若い私たちもくたくたになるくらいの重労働でした。とはいえ、家からすぐ近くの工事現場に出勤して男は750円、女は550円になるのでみんなが喜んで仕事をしていました。
 一方、出先機関である柏崎市の土木出張所の監督さんが3〜5人位ずつ毎日来られ現場の視察をしておられました。時々、集落で酒や山菜料理でもてなし工事の進み具合や次の工事などについてお話をうかがいました。
 一方、道路の幅を5.5mに拡幅する工事もおこなわれ、沢山の人夫を必要としたのですが柏崎や高柳、あるいは大島村の女衆などもやってきて毎日50〜70人もの人がやってきて工事は順調に進みました。晩秋になると寒さが厳しいので立ち話などしているといよいよ寒くなるので懸命にスコップや唐グワを使って仕事をするのではかどり現場監督は喜んでいたことを憶えています。
 時々、当局からお褒めの言葉も頂き、地すべり発生時に速やかに各報道機関等に連絡をしたことは適切であり、それが地すべり地帯の指定認可につながったのだと言われてうれしい限りでありました。
ですが、地すべり発生時に消防団に雪掘りをしてもらった際に急病人が発生したことについては私がその時、独断で連絡をしたので唯頭を下げて謝るより他ありませんでした。
 その後、毎年のように、何千万円という工事が行われ、川には堰堤がつくられ、川の側面もコンクリートで崩れないように固められました。清水が湧くところにはボーリングをして水を引き出す工事など次々と行われました。

 そんな最中に集団離村の話が持ち込まれたのでした。この突然の話は前掲の文で詳しく書きましたとおり大変の驚きと動揺を村の人々に与えました。工事現場でもとかくその話題が持ち上がって盛んに話が交わされたものでした。私は、みんなの気持ちはよく分かりましたが村を出るか出ないかなどの話ばかりしている様子を見て仕事に集中できないで注意散漫による事故も起こりかねないと思い注意したこともありました。
 こうして2、3年後には、地すべり防止工事も道路拡幅工事も順調に進み、大型車や重機も続々と入ってくるようになりました。ミキサー車や重機が入ってくると今までのスコップや唐グワによる作業は重機の届かないと場所に限られるようになり、まるで遊んでいるようだなどと言いながら、どこの家も留守屋同然にして家中で工事に出たものでした。
 降雪期になると現在のような道路の除雪などできなかったので工事現場の責任者はその年の区長宅に約70日間くらいは宿泊したものでした。中には、月曜日の朝に来て土曜日の夜は自宅にかえる責任者もいました。
 工事中は、月末になると厚くふくらんだ給料袋がもらえるので、農協へいって現金を引き出す必要もなくなりました。
 そのように地すべり防止の工事が行われていた真っ直中、昭和51年4月20日だと記憶していますが、ちょうど町長、町会議員の投票日の朝、集落より200m離れた隣村あざみ平地内頂上より居谷地内の傾斜の棚田に大規模の地すべりが発生しました。規模は長さ150m、幅150m、深さ30mにも及ぶものでした。水田の被害は4ヘクタールにも及びましたが、これは田畑の地すべりであり土木課ではなく共済の対象となるものでした。これも予算をつけていただきその年の秋から復旧工事が始められました。その工事でも地すべりの中心辺りに、縦井戸を掘りボーリングで水を抜くのでした。また、直径50p、長さ30mの鋼管パイルと呼ぶものを打ち込み地すべりを押さえる工事が行われました。
 復旧後、田畑は少ない個人負担金で区画整備をしてもらい一枚の田が広くなり特に機械化に向かっていた頃で農作業がやりやすい田に変わりました。
 区画整理が行われた田

 こうして、昭和40年の地すべり以来、集落は集団移転の話が持ち込まれたことを契機に急激に過疎化が進みましたが土木工事は以来25年にわたって続きました。いわば、村人にはその間の働き口が保証されたようなものでした。
 また、地すべりの防止のみならず、ボーリングから出た水を共同で食水として利用するなど現在でもその恩恵に浴しております。
 集団離村の話が持ち込まれたときに他県に移転した人々の中には毎年春の連休に山菜採りにやってきて、「こんなに便利になるのなら急いで離村するまでもなかった」などと言う人もいるほどです。現在では集落を国道が通り家は3軒となりましたが冬の除雪はきれいに行ってもらえるので助かります。


※ビデオ資料→初雪の村めぐり−過疎化の実態2014.12
※ビデオ資料→板畑嶽より大野方面の棚田を望む
  
以下作中