解 説
この文書には年号が記されていないが柏崎編年誌によれば、文政4(1821)年であることが分かる。文書の概略は代官会所より出火して横本陣の一部の長屋を残し全焼したことを知らせ、ついては火災見舞いには今わざわざ出かけてこないで来月の上納の折にするようにとの内容である。
それにしても、当時の柏崎は大火が多かったことに驚く。本火災以後の柏崎町の大火を拾い出して見ると
〇3年後文政7(1824)年に「ひとっぱ火事」で741軒が焼失 。
〇13年後、天保8(1837)年には中浜、大久保の大火があり陣屋も焼失。
〇7年後の弘化1年(1844)には広小路の大火で211軒が焼失。
〇7年後嘉永4(1851)年に八木大火で348軒が焼失。
※明治4年には、それまでの自身番を廃して、6組人員240人からなる火防組織を設置している。しかし、大火の発生は止まず、
〇明治13(1880)年には扇町の酢屋火事で848戸焼失。当時の柏崎の戸数1860余戸で約半数が焼失。
〇7年後の明治20(1887)年には大久保屋火事で540戸焼失。
〇10年後の明治30(1897)年には日野屋大火で町のほとんどといってもよい1,230戸焼失。(史上最大級の火災)
〇14年後の明治44(1911)年には桐油大火で623戸焼失。
このように、柏崎に火災多い主な原因は、町の地形にあつた。南に米山、黒姫山がり、街並みは海岸の砂丘上を東西に直線状に延びている。この町並みに沿って常に西風が吹き渡るため、一度火事が発生すると大火になる。特に火元が現在の港町あたりであると西風にあおられて炎は一直線に柏崎の街並をなめ尽くすことになる。明治30年の日野屋大火(焼失1230戸)は現在の喬伯園(市民活動センター)あたりからの出火であったが西風にあおられた火は先へ先へと延焼を続け実に比角村でも258戸を焼失している。まさに、史上最大級の大火であった。
柏崎町も、これを機に防火対策の見直しと整備に取り組みはじめ小路幅拡張、消防組織の改善、またしばしば火元となった貸座敷(遊郭)の砂浜(現在の新花町)への移転などを進めた。
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