縮布および、かせ〔桛〕等の集荷覚書-下石黒 大橋正男文書



〔解読文-前文抜粋〕
     

覚 
 
一、  縮一反 上之 五郎左衛門殿 . 覚  
一、  〃        平右衛門殿
                 外 
  一、縮一反      大野
                 甚助殿
                  分□ 
一、  〃        同人 よめ    一、  〃          長右衛門   
一、  〃       〇吉右衛門殿    一、  〃          同人      
一、  〃        庄右衛門殿    一、  〃         〇源八殿
一、  〃        同人    一、  〃          元衛門
一、  〃        〇小兵衛殿    
一、  〃        〇徳左衛門殿     
一、  〃          久次郎殿            〔解読文責 大橋寿一郎〕 
一、 〃      六助事 七兵衛殿     
一、  〃         同人     
一、  〃         同人     
一、  〃         喜左衛門殿     
一、  〃        〇傳左衛門殿     
一、  〃        久米之助殿
   外 織縮一反
 
   
一、かせ玉縄半 〃  〇長八殿
       
□□※解読不可   
   
一、よこ 二拾□    〇同人    
一、かせ二なわ     同人
            よめ
 
   
一、  〃 十五□     惣兵衛殿     
   〆て     
右の通り、御世話様ながら御銘々御取集め下さるべく頼み上げ奉り候 以上
  卯十二月 高野茂八


大橋市太郎様
                             
 .  
   


   



















             考      察
 上記文書は下石黒の屋号「おめえ-母屋〔大本家〕、大橋正男文書で、縮織と、かせの集荷依頼の文書である。近世の高柳や石黒では縮織は米につぐ産物であった。
 当時、岡野町では11月初旬に青苧の市が開かれ賑わったものだと伝えられる。
 石黒でも、冬期における主に女衆の仕事として縮織は盛んにおこなわれたことは上の古文書にても分かるが、各戸が一反と記されていることから一冬1反が目安であったと思われる。
 織り作業の前の作業である、苧から縦糸と横糸を紡ぐ仕事に1反分が一人では2か月を要したといわれている。


 
 

  原料となる苧〔カラムシ〕は各村に苧畑があり、現在でもその地名が各集落に残っている。
 高柳町史によれば、安永9年〔1780〕の石黒の青苧高は3石9斗1升で、岡野町村の1石2斗3升を大きく上回っている。
 このことは、石黒は当時は当地区で最も戸数が多い村であったことに加え、人口に比して農耕地に恵まれなかったこと〔天和検知では五割が下田〕も縮生産に力をいれた理由であろう。