天和癸亥年閏五月越後国苅羽郡寄合村検地水帳〔控〕 寄合 矢澤繁徳家文書 |
1683年の天和検地は、1681年の越後騒動により、刈羽・頚城・魚沼・三島の四郡が高田領から天領に変わった時期に幕府が行った検地である。 検地役人は刈羽と三島には弘前城主津軽越中守家臣の大道寺隼人が任じられた。 この検地によって、当時の石黒村の戸数は26戸で、田は4町8反7畝14歩、畑は6町5反8畝5歩、山は69町1反6畝20歩であることが分かる。ちなみに、最も多い「山」はほとんどが柴山〔低木を中心とした雑木林〕であった。 ところで、この田畑の面積をもとに一戸当たりの耕地面積を算出してみると、田は1.8反、畑は2.5反ほどになる。両方を合わせた耕地面積は4反3畝〔40a余〕に過ぎない。 |