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         大野の奇石
 昔、大野の屋号「ナカ」のおばあさんが、寄合から板畑集落の下のマンゾウ川(松沢川)を渡り、大野に至る道を歩いていると、小振りではあるが漬け物石に、ちょうどよい石が目に付いたので持ち帰ることにした。
 しかし、小さくても石であるから、重くて上り坂を持ち運ぶには大変であった。
 ようやく、屋号「なかしも」の近くまで持って来たが、余りにも疲れたので、「まあ、ここに置いて明日の朝に取りに来よう」と、石を道の脇に置いて家に帰った。

 そして、翌朝、その場所に来てみると、どうしたことだろう。

伝説の奇石と伝えられる石
昨日、そこまで片手で持って来て置いた石が、百貫目ほどの大石に変わっているではないか。おばあさんは、びっくりするとともに急に恐ろしくなり家に逃げ帰った。
 気味悪く思ったおばあさんは、それから2度と、その石の近くには寄りつかなかったという。

 
今日では、人通りもなく荒れ果てて道の形跡もないが、石だけはそのままの姿で残っている。
                            文 大橋モト



               上石黒の蛇岩

 むかし、黒姫山の頂上にヌナカワ姫のミコトという神様が住んでおられた。
 ある日のこと、ヌナカワ姫のミコトは、神馬にまたがり、住み慣れた黒姫山の神社を後にして、上石黒の神社に向かわれた。
 ところが
地蔵峠を越えて入山(いりやま)が見えてきたころ、にわかに空がかき曇り激しい嵐となった。
 ヌナカワ姫のミコトは、神馬にむち打って嵐の中、道を急いだ

 
 蛇岩〔岩屋〕-2011
 ところが、途中、嶽(板畑)のゴマ畑を通る時、神馬がゴマの堅い茎で目を突いてしまった。片目の見えなくなった馬は険しい山道を歩くことが出来ない。
 困ったヌナガワ姫のミコトは、すぐさま、馬の代わりに呼び寄せた大蛇にまたがって上石黒に向かわれた。
 こうして、上石黒の入山に着かれたヌナガワ姫のミコトは、そこに大蛇を乗り捨て、そこからは、千里をも瞬く間に飛ぶという不思議な風に乗ってあっと言う間に上石黒の神社に入られたと言う。
 それから、村人は、上石黒の神社を「黒姫神社」と呼び、毎年9月1日には、盛大なお祭りをして深く信仰したという。
 また、今日、見られる入山の「ジャイワ」(蛇岩-上写真)は、その時、ヌナカワ姫のミコトが、乗り捨てられた大蛇の化身であるという。




           金の仏像

 むかし、板畑の屋号「ソウエン」の家の人が、タケ(黒姫の中腹)で田堀りをしていると唐鍬に金物が当たった。掘り出してみると金の仏像であった。仏像は、3体出てきた。
 その内の一体を家の神棚に祀り代々崇めて来た。
 数年後に、ソウエンの近所で火事があり周りのすべての家は全焼したが、ソウエンの家だけは不思議と難を逃れた。
 
 黒姫中腹の田(2012)
 ソウエンの家では、それを、この仏像のご加護であると信じ、末永く家の守護神として崇めて来たという。
 外の2体のうちの1体は、鯖石村にあると伝えられたが、後の1体のありかは不明であるという。
 なお、この仏像は延元3年に越前藤島で戦死した、新田義貞の末裔が魚沼を経て板畑に入り城管山に陣をしいたとき、敵の襲撃に備えて地中に埋めた物だと伝えられている。
                       
文 中村モヨ


     
                                 
 めっぱす(ものもらい)治し井戸
 
 上石黒の屋号「利平」の家の裏庭に不思議な井戸があった。この井戸は、「めっぱす治しの井戸」とよばれ、めっぱすのできた子どもがよく訪ねて来ては、おまじないをしてもらったという。
 
 上石黒集落(20010)
 おまじないは、井戸の上に籠を出して、その上から井戸の底をのぞき込むようにして、呪文を唱えてもらうという簡単なものであった。
 しかし、その効験はあらたかで、この井戸でおまじないをしてもらった後には、一度もめっぱすにならなかったと語る人も多い。
 昭和の半ば頃にも、まじないを受けにこの井戸を訪れる者がいたという。
                  
文 田辺久夫
 
        めっぱす治しの井戸の思い出
                        木嶋イシ子
 私が7、8才頃のことです。目に、めっぱす(ものもらい)ができて村の利平(屋号)さんの井戸に、治してもらうためにお願いに行きました。
 おぼろげながら憶えているのは、井戸枠がすっぽり覆われほどの大きな竹かごを当てて井戸の中をおそるおそるのぞき込みながら
「井戸神様、井戸神様、どうか私のめっぱすを治してください」と言うのでした。
 利平さんのおばあさんに「じきに治るよ」と言われうれしかったことを憶えています。それから、2、3日ですっかり治り、その後一度もめっぱすにならずに古希を迎えました。
 今でも、あの井戸はあるでしょうか。
 子ども時代の故郷石黒の事が懐かしく思い出されます。
                上越市在住 旧姓田辺
                                              

      
 
中後の村上

 中後から黒姫山に通じる道沿いに「諏訪神社」があった。
 昔から、8月28日の夜には近在の村人も応援に来て、ここで盆踊りが盛大に行われたという。
 
 中後の神社のあった付近地形(2009)
 この神社を過ぎると磯之辺地内に入るが、社から少し中後よりに下ったところに「村上」という地名がある。
昔の中後の神社
 ここに、新田義貞の末裔が最初に住み着き、次第に下におりて中後集落を形成したと言い伝えられている。



       
 中後の中村姓

 昔、板畑のオヤケ(本家)にまじめでよく働く青年が作男として住み込みで働いていた。青年は、同じ家で女中として働いていた娘と愛し合うようになった。
 ある日、2人は思い切って親家の旦那さんに、自分たちのことを打ち明け、「一緒にさせてください」とお願いしたという。
 すると旦那さんは、「そうか、わかった、だが、所帯を持ったら、お前たちはどこに住むのだ」と訊ねた。
 2人は、「私たちは、この板畑の後ろの山へ行って住み、子どもを沢山生み分家に出して村を作りたいと思います」と答えたという。
 
 中後集落跡から黒姫山を望む(2008)
  それを聞いた旦那さんは、それは、大変よい心がけだとほめてくれて、盛大な結婚式をして送り出してくれた。
 そのときに、旦那さんが、ここまでは板畑、ここから後の方はお前たちの山だと境界を決めてくれたという。
2人は、「旦那さん、すみませんがもう一つお願いがあります。私たちに火種をいただけませんか」と頼むと、旦那さんは、
「火種はやるが、私の言うことは何でも聞くか」
と訊ねられたので、2人は何でも聞きますと答えた。
 すると、旦那さんは、たとえ何軒分家を出そうと必ず「中村」の性を名乗ること、それから、村の名前は、「中村」の「中」と板畑の後ろだから「後」を合わせて「中後」にしなさいと言ったという。

 2人は、喜んで聞き入れて、後に「惣左右衛門」と名乗り、次々と分家を出して過疎で閉村になるまで代々、中後一族の中心的な存在であったという。
                      
文 田辺雄司



    
  寄合の扇ケヤキ

 寄合集落の松尾神社の境内から南東を望むと、山の頂上に扇の形をした見事なケヤキの大木が見える。
 
 扇けやき(頂上の大欅にちなんだ山の名前)
 近くに行って見ると、おそらく樹齢500年は過ぎているであろう見事な巨木である。  
  このケヤキは、寄合の古老に聞くと、昔、門出村の村長が、寄合の松尾神社のオハナギ(神様に供える花)として寄贈したものであるという。

                                
 文 矢沢清吉


   

  タケの天狗さんとハゲ山

 黒姫山の中腹に切り立った岩壁がある。板畑集落では昔からこれを「タケ」(嶽)と呼んで来た。
 このタケにひときわ大きな石があり、村人は、「タケの天狗さん」 と呼んで恐れ敬ってきた。
 このタケの天狗さんの隣に草木の育たない場所がある。村人はここを「ハゲ山」と呼んでいるが、地表は、れき土でザクザクしていてとうてい草木を育てることのできる土質ではない。たまに木は生えてはいるものの、すべて30cm止まりで形も盆栽のような奇形である。
 しかし、昔はここは肥沃な畑で、一面にゴマが植えられていたという。
 
 黒姫山(2005)
 ところが、ある年、弘法大師がこのゴマ畑を通られたおりにゴマの茎で目を突かれ、それからというものは草木の育たない荒れ地に変わってしまったと伝えられている。
 また、このハゲ山の近くにあるタケの天狗さんの周りには、数百年の風雪に耐えて育ったブナの大木が沢山ある。
 昔から板畑集落では、ここの大木を切り出して学校の冬の暖房用の薪にする習慣があったという。
 この木を切り出す日は、テングさんの祟りを恐れ、村の長老が「何月何日は、タケのテングさんは留守だ」と宣言して日取りを決めたという。
 この習慣は昭和30年代まで続いたという。
                     
   文 中村モヨ


           

 
 
山 犬

 昔(150年ほど前)は、石黒にも沢山の山犬(日本オオカミ)がいた。
 とくに、下石黒の田畑のあったホウノキ山からマンゾウ川のあたりには、多くいて、日暮れになるとあちこちで山犬の遠吠えがしたという。

 ある時、マンゾウ川の奥の田で仕事をしていた下石黒の村人が仕事がてまどり遅くなり、帰る頃にはあたりはすっかり暗くなってしまった。
 
 松沢川〔まんぞうがわ〕-2010
 幸い、その晩は月夜だったので、月明かりをたよりに川沿の道を歩いていると、背後に動物の気配がした。振り返ると2匹の山犬がついてきていた。村人は気味悪く思ったが努めて平静を装い歩き続けた。しばらくして振り向くと山犬の数が5、6匹に増えているではないか。
 村人は山犬のただならぬ気配に危険を感じ、思い切って川の中に入って、水の中を歩いて村道まで帰ったという。

              語り 大橋キサ



       

 
 
大谷地きつね

 内山医師が竹平に開業される前は、石黒の人々は、もっぱら蒲生の室岡という医師を頼りにしていた。
 その頃の話であるが、田の倉集落を少し上った所に大谷地という所があり、そこに大谷地キツネがいて人を化かすと言い伝えられていた。
 うっそうとした林の中を通る道は、曇りの日など昼間でも薄暗かった。
 ある年の秋のことだった。蒲生の医者に薬をもらいに出かけた女の人が夜になっても帰ってこないので大騒ぎになった。
 夜通し親類の者が探したがなかなか見つからず、やっと見つかったのは夜明け前であった。
見つかった時、女は、キツネがでると言われる寂しい道から少し入った林の中で、スギの切り株を両手で抱いて子守歌を歌っていたという。
 村人は、これはきっとキツネが近くにいて化かしているのだと思い、提灯のローソクの火をその女の人に近づけた。獣が火を恐れることを知っていたからだ。
 すると、女の腕の中から1匹の狐が鳴き声を上げて飛び出して林の奥へ逃げ込んだという。
 とたんに、女の人も我に返り、目の前にいる大勢の人に驚いて「何事が起きたんですね」と訪ねるので、こうこうこうだと説明をすると、ようやく自分がキツネに化かされたことに気づいたという。
三九郎キツネ石像
 そのときの女の人の話では、夕方ここを通りかかると、林の中から赤ん坊の泣き声がして、自然に足が鳴き声のする方向に向かったが、後は覚えていないということだった。
 当時、石黒から蒲生の医者に行くにはこの道を通らなければならない。年寄りの薬をもらいに行った帰り、夕暮れに通ると大人でも気持ちがよくない所であったという。
 今日では、舗装道路となっているが、道端に「三九郎キツネ」と呼ばれる像が据えられて、わざわざ、それを観に訪れる人もあるという。 
                      
 文 田辺雄司



     
 
蘇我嶺づんねのキツネ

 かつては居谷集落は高柳村に属していて、(居谷、板畑集落は、明治22年に門出村より分離し石黒村に合併した)居谷から鯖石川支流に沿って田代に出る道が盛んに利用された。今日では、ほとんど通る人は居ないが、昭和60年代までは、県道に「居谷入口」というバス停留所があったので利用する人もまだいたのであろう。
 この道の途中に、「蘇我嶺づんね」という小高い山がある。蘇我嶺づんねの名前の由来は、その山の麓で蘇我物語で有名な蘇我五郎、十郎が落命したと言い伝えられ、石地蔵もあったという。(蘇我兄弟の遺跡は全国各地にあり、きわめて数も多いと言われる)
 この蘇我嶺づんねの少し先に、「おがえの」という山がある。この山の近くに、よくキツネの提灯行列が現れたと言い伝えられていた。
キツネの提灯行列が現れるのは、翌日雨になりそうな夕暮れ直後、それも川の対岸に見えることが多かったという。
 
 中の坪への道のある谷(2007)
 ある年の秋のこと、門出郵便局から電報配達の気丈な女性が、配達のため、弓張り提灯を持って居谷に向かって歩いていると、この「おがえの」の近くの川辺で一人の女に逢ったという。
 女は、哀れっぽい声で、「道に迷っています。どこの村でもいいから連れて行ってください。」と言う。
 電報配達の女性は、「んじゃ、おらが先に歩くすけ、ついてこらっしゃい」と言って先に立って歩いて行った。一時も早く電報を届けることが勤めなので女性は無駄口はきかず黙ってどんどん歩いた。
 そして、居谷集落の入り口に来たので、「さあ、居谷の村に着いたが、おまえさんはどこへいぎゃしやるえ」と訊ねしなに後ろを振り返ると、「キャアン、キャンキャン」と人をあざけるような鳴き声を上げて大きなキツネが逃げ去ったという。

 この道も、人通りが絶えてから長い月日がたち、今では、雑木や雑草が覆い尽くして夏になると道も定かではない。
 ましてや、曾我兄弟を祀った地蔵など、拝む人も絶えて無く、その所在さえ確認できない。
                    
  文 田辺雄司

 


       
 
力持ちとぼた餅

 下石黒の屋号仙太郎の先々代に仙蔵という人がおられた。
 がっしりとした体格の人で、村中でも一番の力持ちであった。
 秋に、本家で米俵(65キロ)を倉に運ぶ時には、両手に一俵ずつぶら下げて、鼻歌をうたいながら運んだと言うから、並大抵の力持ちではない。
 これほどの力持ちであるから、食もよかった。
 ある時、風邪をひいて食が進まないので奥さんが仙蔵さんの大好物の「ぼたもち」を作ってあげた。
 仙蔵さんは、ぼた餅に目がない人だから、おいしそうに食べた。
 食べ終わった頃に、奥さんが行って見ると大皿の中に、ぼた餅が1つだけ残っていたので
 「とっつぁ、たった1つ残して、どうしたってがんだえ」と聞くと、
「ばか言え、風邪をしいてて、そんげんに喰われるわけがねぇこてや」と一喝されたという。
 実は、このぼた餅は、米1升分(1,8g)であったという。
 昔の人は力もあったが食欲も旺盛であった。
(※仙蔵さんは、筆者の子供の頃の記憶にもあり誇張した話ではない)



              
   
落合川を流して運んだ家

 寄合集落の屋号「田中」の家は、昭和11年に、落合集落の屋号「東」の家を、解体して落合川を流して運んで造った家と伝えられる。
落合の「東」は、集落一の旧家であり、その構えの大きさは石黒でも屈指の家であった。
 なんにせ、ケヤキのジョウヤバシラ(上屋柱)が尺角(1尺=30.3cm)であるから、サシも上道具もそれ相応に大きいことは言うまでもない。(現在、高柳町で現存する茅葺き屋では、尺角の柱を使った家は他にないであろう)
  解体には、2年を費やし、川端に材料を積み上げて、春の雪解け水で落合川が増水する時季を待った。
いよいよ作業にかかったのは、解体を始めてから3年目の春であった。
 漆塗りの柱は、コモやムシロで梱包して損傷防止をした。
 この材料を流したという川の距離は、約2kmほどあるが、流すといっても川幅が狭く曲がりくねった急流であるから容易なことではない。
 流す材料には縄を結び、鳶口をもった屈強の男が数人ついて操作してやらないと思うように流れてくれない。

 
 寄合集落屋号の田中の家(2011)

 雪解け水で水量の増した川は、近寄るも危険な箇所が至るところにあった。川岸の絶壁の雑木に片手で捕まって体を支え、右手のトビグチで流れに滞った材料を押したり引いたりする命がけの場面もあったにちがいない。
 また、流した材料にはケヤキが多かったが、ケヤキは、固く密度が高いせいか、浮力が少なく、流すのに苦労したという。流した数十本の中には、川底に沈んでしまい遂に見つからない物もあったという。
 こうして、運んできた材料は、ひとまず川に近い向田にまとめた。
 そこから、10mも上の建設予定地に材料を引き上げる仕事も、これまた、難渋を極めた。
 屋号「かすだ」前の杉の大木を基づけにして巨大な2連滑車を使って引き上げることになった。
 村中総出でロープを引く、下の方では、数人かがりで土に食い込む柱の先をテコ棒で持ち上げる。
ふた抱えもあろうかと思われる基づけの杉の木も揺れるほどに、力を結集してもなかなか上がらない特大の材料が多かった。
 そういうときには、学校から帰ってきた子供も総動員をしてロープをひいた。「子供とはいえ、数が集まれば驚くばかりの助けになったものだ」と当時子供だった村の古老は語る。
 短い柱や戸などの小物は、背中に背負って運んだ。屋根カヤは、1締め5銭(アイスキャンデー1本1銭の頃)で落合から寄合まで運んでもらったという。当時、男は1回に1締め背負うことは出来たが女性は2回に分けて運んだという。
こうして、材料が、ようやく集まると、建築に取りかかった。
 大工の棟梁は、上石黒の屋号「さかもと」田辺松太郎氏、屋根職人の頭は、嶺村の屋号「源治郎」の当主であった。
組み立ては、大沢の
テンギを使う建前職人(5、6人)が、テンギやロープなど一式を持って頼まれて来たという。
 テンギは、建てる家のグシよりもかなり高くなければ用をなさいわけであるから、相当の長さの竿を使ったものであろう。その竿の先方に取り付けたロープを八方に広げて地上でしっかりと固定して立て、同じく竿の先に取り付けた滑車で重い材料をつり上げた。

柱の傷の跡

 また、場所を移動するときには、八方のロープを人々が持ってバランスを取りなから動かした。
こうして、組み立て、屋根葺き、壁ぬりと、家の完成までには、解体を始めてから実に3年以上を要した。
 もっぱら人力に頼った当時は、家普請はまさに一大事業であり、多くの人々の協力無くして出来るものではなかった。(
日常の暮らし家普請参照
 特に、この普請の時は、家が特別大きかったことと、寄合が20戸に満たない小集落であったため、通常、全村(板畑を除く)が1戸1日のところ2日手間の協力をお願いしたという。
 その上、寄合の村内では親戚は70日、その他は、35日手間で行われたという。
今でも、この家の柱やサシなどには、その時についた傷跡が無数認められる。(右上写真)
(※昔から、桐のように高価な材木は、買い付け業者が、石黒川から鯖石川を門出まで流して運んだものであるという)
                
文 矢沢清吉

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