ハエ・ノミ・シラミ ハエは、イエバエがほとんどで鶏小屋、牛馬小屋など発生源が多く、初夏の頃からおびただしく発生した。 どこの家でも座敷(食事をする部屋)にはたくさんのハエが旋回していた。その数は、「ウォー」という羽音がはっきりと聞こえた程であるからも半端な数ではなかったであろう。
昼食時など、うっかりしていると盛りつけたご飯が黒く見えるほど沢山とまった。 もともとイエバエはあまりにも多かったせいか、それほど気にかけなかったが、動物の死体や汚物にたくさん集まるキンバエは汚いハエとして非常に嫌った。
発生源は、馬屋、鶏小屋、山羊小屋、ウサギ小屋などと、当時の家の内外に無数に存在した。 駆除のために、どこの家でもハエ
なんにせ、イエバエは、卵から10日で成虫になるという旺盛な繁殖力を持っていたからだ。 ハエと同じく夏季におけるノミ(上絵)の発生にも悩まされた。夏の昼寝の後、老人がネギモン(寝間着)をガンギに広げてノミ捕りをしている光景はどこの家でもよく見られた。 抜群のジャンプ力(体長の約100倍)をもつノミは、捕まえるのも簡単ではなかったが、それだけに、捕らえたときには快感もあった。年寄りのノミとりに子どもまで助っ人を申し出たものだ。 発生源の主なものは、当時のくず布団などの敷きワラにあったのであろう。 終戦のころ、女の子はアタマジラミに悩まされた。またコロモジラミの発生もみられ、学校で下着の検査が行われた。 しかし、ハエもノミもシラミも強力な殺虫剤DDTの出現で激減し昭和30年代半ばには、ほとんど姿を消した。この画期的な殺虫剤の出現は、その後の農村の環境衛生を著しく向上させたのであった。 資料→ノミとシラミ 資料→ガラス製ハエとり器−民具補説 はかりの単位 当時、度量衡は尺貫法が使われていた。 長さや距離では、 寸(すん)-1寸 →約3.03cm 尺(しゃく)-1尺 →10寸→約30.3cm 間(けん)-1間 →6尺→約181.8cm 丈(じょう)-1丈 →10尺→約303cm 里(り)-1里 →約4km などが使われた。また、布をはかる時に限り「鯨尺-くじらじゃく」が使われた。曲尺(かねじゃく)では1尺が約30.3cmであるのに対して鯨尺では1尺が約37.8pである。 面積では、 歩(ぶ)-1歩 →1坪→約3.3u 畝(せ)-1畝→30坪→99u 反(たん)-1反 →300坪→990u 町(ちょう)-1町→10反→9900u などが使われた。 また、田の広さについては、その収穫量により十束刈り、百刈り、千刈り(古文書でも田の広さを表す単位として使われている)などと言い表す事もあった。 容積では、 合(ごう)-1合→0.18L 升(しょう)-1升→10合→1.8L 斗(と)-1斗→10升→18L 石(こく)-1石→10斗→180L など、その他、重量では、斤(きん)、匁(もんめ)、貫(かん)などが使われた。 米などの穀類を量る計器としては、1合枡、5合枡、1升枡(右写真)、1斗枡などがあった。
重さの計器は棒ばかり(下写真)や台ばかり(左写真)が使われることが多かった。
(参照 民具オオバカリ) 資料→皿つき棒ばかり−民具補説 資料→斗マス−民具補説 . 鍋釜の炭取り 当時の炊事は、専ら薪を燃料にしてイロリやかまどでおこなっていたため、鍋や釜の底にはススが付着し長い間に堅い層をなしてこびりついた。 そのまま使っていると熱の伝導効率が落ちるので、定期的に鍋釜の炭取りをしなければならなかった。 炭取りは、古い菜切り包丁の先の平らな部分で押し削るようにして取る人が多かった。そのときの摩擦音が伏せた空の鍋に反響して甲高い音を発する。 天気の良い冬の日に、カリカリという甲高い音が村のどこからともなく聞こえて来たことを今も思いだす。 資料→ナベの炭取り 交 通 . 昔の道路 昭和20年(1945)代の石黒から柏崎、東頸城郡に通じる主な交通路として次のものがあげられる。 @上石黒→〔城山〕→寄合→釜坂峠→門出→ 岡野町→柏崎 A地蔵峠→鵜川→野田→柏崎 B小岩峠→鵜川→野田→柏崎 C板畑→漆島→岡野町→柏崎 D板畑→中後→門出→岡野町→柏崎 E居谷→中の坪→門出→岡野町→柏崎 F上石黒→嶺→旭→大平 G落合→嶺→旭→大平 H居谷→莇平→松代 (参照→石黒村の昔の道) . そのほとんどは、幅の狭い山道であったが、いずれの道も昭和20年代までは、毎年、道普請をおこない大切に管理され利用されていた。 とくに、地蔵峠を越えて鵜川を経て柏崎に通じる道は昔から、松代と柏崎をつなぐ重要な街道で、主に松代方面から馬によって米が運び出され塩が運び込まれる「塩の道」であったと伝えられる。〔参考資料〕 また、昭和の初めまでは、郵便物も地蔵峠や小岩峠経由で運ばれた。多くの出稼ぎ者も、この峠を越して行き来をした。 古老の話によると、現在の国道353のトンネル上の小岩峠は、降雪期は危険なため、比較的安全な地蔵峠が冬期の交通路であったという。 しかし、地蔵峠とて、標高640mで冬季の悪天候時に越えることは命がけであった。 冬の遭難の話は昔から語り継がれてきた。特に、出稼ぎの3人が正月に、村のすぐ近くまで来て吹雪のため亡くなった話は、何度も聞かされ、子どものころから吹雪の恐ろしさを教えられたものであった。
重い荷物を担いで釜坂峠を越えて門出まで運ぶ時に、屈強な人は1日4回も運んだものだという。急こう配の坂道が多い5km余の道のりであり、今では信じられないような話である。 昭和20年代前期は、ようやく車道が開削されて、夏季は中ノ坪から柏崎市まで乗り合いバスが通っていたので1時間ほど歩けばよかったが、冬季は、やはりそれまでと同様、下寄合の村はずれから釜坂峠を上り2時間余りかけて門出村に出なければならなかった。(下写真)更に岡野町まで歩くには、3時間以上を要した。 釜坂峠の石黒側の上り道は険しい坂道である。今日、県道から眺めても正に胸突き八丁というべき難所であることがよく分かる。 牛の背に荷物を乗せてこの坂を上る時には、牛の背の荷物をできるだけ前方の低い位置につけて牛が反転し転落しないようにして運んだとい聞いたことがある。
また、厳冬期に柏崎まで出るには、安田駅まで歩いて汽車に乗らなければならなかった。雪の山道を過ぎれば平地の道に変わりホッとするが、平らな雪道もそれほど楽ではない。 特に「加納のバカ1里」と呼ばれた延々4キロの直線路では、荷橇に出会うたびに道をあけながら歩かなければならなかった。 結局、冬季に雪の釜坂峠を越えて柏崎に行くとなるとその日の内に安田まで着くことはできず、南鯖石の旅館で1泊する事が多かった。 その他、当時の東頸城郡の嶺〜旭を経て浦川原方面に至る道路も当時は、主要な道路として使われた。浦川原まで直江津市の新黒井駅とつなぐ「軽便-けいべん」とよばれた小型の鉄道が通っていたからである。 供出米などもこの道を人や馬によって運ばれた。 また、戦争中には出征兵士や軍馬もこの道を通って戦場に赴いた。 寄合から下石黒間も通称「やさんぐら」付近の道が冬季間は雪崩の危険があり通れず、城山の尾根を通る時代が長く続いた。三代目の入之島橋竣工後、道の防雪柵の設置が行き渡るまでは冬季は城山の旧道が使われた。 (参照写真→クリック) 資料→出稼ぎ者遭難の話 資料→ふるさとへ 資料→駄賃とり 資料→足谷の一軒家 車道開通 石黒村を初めて自動車が走ったのは昭和25年で、東頸城郡嶺集落経由で入って来た小型乗用車のダットサンであった。
(参照写真) この車道は、県道高柳-板山線で、構想はすでに明治30年代からあり、認可へ向けて運動が営々と展開されてきたのであった。 当時、高田の第十三師団と小千谷の工兵大隊とを結ぶ軍事上の要路である事などを訴えて、ようやく県道荻ノ島-浦川原停車場線としての認可を得るに至った〔資料1〕。 そして、大正4年には中の坪まで開通したが、大正2年の政変などにより工事は中断して、石黒までの開通は実現しなかった。 石黒村は、その後、再三の請願を続けた。大正7年の請願書が当時、村長であった大橋益之丞文書に見られる。→〔資料2〕 だが、その後、時代は大正12年の関東大震災を契機に不況の時代が始まり、さらに昭和の世界恐慌から太平洋戦争へと暗転を重ね昭和20年の敗戦に至った。 敗戦から復興への第一歩を踏み出した昭和22年、陸の孤島と言われた故郷石黒の道路整備を青年時代からの畢生の事業とした田辺伊久村長が誕生した。長年の願いであった、中之坪と石黒間の車道開削が24年から本格的に始まった。 そして、遂に昭和26年6月に中の坪〜石黒間の車道が開通した。 バス開通式には岡田正平県知事も来村し、全村あげてバスを出迎えた(写真下)。古老の話によればこの日県知事の乗った乗用車は釜坂峠の車道を上ることができず消防団がロープで引き上げたという。 開通式当日の石黒村民の喜びの気持ちは、下記資料「車道開通式の思い出」に余すところなく記述されている。 資料→車道開通式の思い出
その後、昭和30年に、高柳町と合併してからは特に門出や岡野町との交流が盛んになり、まとまった買い物をするときは門出や岡野町までバスに乗って出かける人が多くなった。
その後、昭和40年代に入り雪上自動車が導入された。 さらに、山間部の道路除雪に適したロータリー除雪車の普及と、雪崩止めの整備により冬期間の車道の確保が可能となった。 その後中之坪地区にスノーシェッドが設置され、冬季間のバス運行も実現した。その後、寄合地区の地名「やさんぐら」の橋梁による道路付け替え工事が行なわれ 資料→高柳〜板山線〔町史記載文〕 資料→写真集車道開通 資料→地蔵峠の秋 車道開通 資料→県道改修請願に対する返書 資料−中之坪〜石黒間で2020/11月現在未改良箇所 国道353号線 現在の国道353号線の構想は、県道高柳〜板山線の開通前からあった。 最も古い記録としては、1939(昭和14)年に田邊伊久氏を中心とした有志数名が小岩トンネルルートの実測を行ったという記録がある。
そしてその翌々年1952(昭和27)年に、柏崎市と高柳町が中心となった「柏崎-湯沢産業開発道路期成同盟会」が発足し実地踏査が行なわれ、本格的な運動が始められた。 この頃、鵜川側は拝庭を基点とする林道を石黒方面に向けて開削し、石黒側も上石黒から地名「オオヌゲ」を通って鵜川方面に至る農道の開削を始めた。道路開通への布石とするための林道開削であったと伝えられる。
草木に覆われてはいるが現在(2005)も、その道を見ることができる。(上写真) この道路は、1961年(昭和36)黒姫松代線(基点女谷終点松代町小池)として県道に認定されている。 そして、1965(昭和40)年には、沿線21市町村による「柏崎〜湯沢間小岩峠開発期成同盟」が結成されている。 また、1968〔昭和43〕年には、国道への昇格のための結成同盟会を東京で開催し、関係方面への陳情を行った。(理由は分からないが、1972〔昭和47〕年には柏崎津南線と改称されている) その後、1974〔昭和49〕年にようやく国道への昇格が決まり、翌1975〔昭和50〕年に国道353号線〔起点柏崎市街、終点群馬県渋川市〕と認定される。しかし、認定され地図上に表記されているにもかかわらず鵜川から小岩峠、石黒間の道路は未だなかったので「幻の国道」などと呼ばれた。 そして、いよいよ、1983〔昭和58〕年に石黒〜折居間が建設省の直轄工事として着工の運びとなった。 工事着工に向けて田中角栄は、建設省官僚に「トンネルの利用者が150人しかいなくとも、その人たち日常の暮らしに欠かせないものならば、億単位の金をつぎ込み、トンネルをつけるのが政治だ。都会ではトンネル一本、橋一本が地域住民の生活の明暗を左右するようなことはない。山間僻地と都会では全く違うということを君たちは、考えたことがあるか」という意味の言葉で説得したと伝えられている。
実に石黒で初めて開通に向けての運動が始められてから半世紀あまり後のことである。 これによってそれまで2時間余りもかかった石黒から鵜川までの所要時間は数分に短縮された。 ※ビデオ-小岩トンネル経由-上石黒〜女谷までの所要時間 小岩トンネル石黒側入り口には、田辺伊久村長の開道へ向けての積年の努力を讃える碑が立てられている。碑には、田中角栄直筆の賛辞が彫られている。 →田辺伊久氏を讃える記念碑写真 資料→小岩峠 資料→柏崎〜湯沢産業道路 資料→旅立ち 資料→国道353開通記念写真 資料→大林の掘り割り工事の思い出 資料→田中角栄元首相の小岩峠越え 資料→元町長-石黒50年の回顧 道路災害 石黒は、県下でも有数の地すべり地帯であり、〔資料→石黒の地勢〕昔から土砂崩れによる道路災害が絶えなかった。 また、冬季には「やさんぐら」付近の道は雪崩の危険があるため、上石黒との通行路を城山の尾根を通る旧道に変更せざるを得ない時代が長く続いた。 →参考資料−城山の旧道位置写真)
〔資料→寄合からの通学の思い出〕 東西にわたり位置する城山は馬の背のような尾根伝いの道で、石黒川と落合川の両側から吹き上げる寒風が雪道を堅く凍らせるため、すべりやすく足下はおぼつかない。崖を見下ろすと遥か下方に大川の濁流が見える。 この難所2箇所には、寄合の屋号田中の矢澤松次郎さんが毎年自費で取り付けた太い命綱があった。しかし、子どもには身がすくむほど怖かったという。 また、昭和19年7月の大洪水では落合集落では落合橋が流失し、下石黒橋(屋号エゼェンとハシヅメの付近)も流失寸前に陥った。屈強の若い衆が激流の中、命綱をつけて橋脚にダイモチ綱を固定するなど村中総出の騒ぎとなった。小学生であった筆者はこの時の光景を今も憶えている。 幹線の橋がこの通りであるから、山道にかかる小さな橋はもっと頻繁に流失したことは言うまでもない。 寄合地内の作場への道中にある落合川には、大木を二つに割いて並べた橋(屋号マツエンの西下、作場「カザハリ」への上り口)があったが、雨期に入るとダイモチ綱で川岸の大木に、しっかりつなぎ止めて置いたものだという。 また、今も語り継がれる話によれば、上石黒の上流の川辺の杉の大木が下石黒まで流されたこともあったというから、出水時の石黒川の暴れぶりも相当のものであったのであろう。 ましては、下流の南鯖石地内では江戸時代から度々大洪水が発生している。(※鯖石川−森近村誌) 資料→粗朶かき 資料→昔の橋 資料→寄合橋〔写真〕 資料→人力に頼った昔の道路工事の記録 |