畔草とりの思い出
                          田辺雄司
 「学校からけってきたら、屋敷の上の田の畔草取りをしろや。カマ研いでおくからな」と言われて「あい」と返事をして登校するのでしたが、帰り道は、わざと道草をくってゆっくと帰るのでした。
 しかし、ニイニイゼミの鳴き出す日の最も長い頃で、家に帰ってもまだ陽は高く、冷たいご飯に冷たいお汁をかけておやつ代わりのチュウハン(中飯)を食べて、まず、受け持ちの石油ランプのホヤ掃除をしました。それが終わると妹と一緒にと雑巾がけをすませてから、屋敷の上にある田の草取りに行くのでした。
現在の居谷の棚田

 畔には1尺(30p)ほどの間隔で豆が植えられており、鎌で豆を切らないように注意しながらの作業で大変でした。 また、しゃがんでする仕事なので子どもとて腰が痛くなります。
 棚田ですから、草を取るのは畔の両側だけで畔のつづきの地面の草は「クロナギ」と呼んで父母が刈り取るのでした。
 屋敷の上の田は、小さな田でしたが12枚ほどあったと記憶します。雨が降らない限りは毎日、学校から帰ると畔草とりをやらせられたものでした。
 ある時、畔に、ジバチ(クロスズメバチ)が地中に巣をつくり穴から出入りしているところを鎌で削ったので急に沢山の蜂が出て来て2、3ヶ所刺されて痛いので家に戻ってきました。
 祖父に蜂に刺されて止めて来たというと、「バカ野郎、蜂に刺されたら小便をつけておけばすぐに治るんだや」などといわれて怒られそばで妹や弟がそれを聞いて、おかしそうに笑っているのを見て腹が立ったこともありました。
 しかし、祖父はそう言いながらも、どこからか黒いアメ玉を持ってきて私たちに2つずつくれるのでした。そのアメ玉の美味しかったことを今も忘れません。
 夕飯のときに父に蜂に刺されたことを話すと、父が翌日、ワラとマッチを持っていって蜂退治をしてくれたのでした。
 石黒の田はすべてが棚田で小さく沢山の数の田が方々の山に散らばっているので畔草とりも手間がかかり、夏休みになっても草取りが続きました。
クロスズメバチ
時には、自分の家の田んぼの多いことが恨めしく思えることもありました。20ヶ所以上もある山(田のあるところ)の名前を覚えることからして子どもには大変なことでした。
 現在ではその大半の場所は原野にかえっていますが、その名前を懐かしく思い出す事もあります。