活動写真の思い出
                          田辺雄司
 小学校4年生になると、私たちは、それまで通った居谷分校ではなく、上石黒にあった本校に通うことになりました。
 4月いっぱいは未だ深い残雪のある4kmの雪道を通いました。雪消えの早いところの道ばたにはフキノトウセリが生え始めていて、それらを取りながら家に帰ったものでした。
 5月、6月もすぎて7月になると先生から、何日の何時から学校で活動写真があるから家に帰ったら家の人に伝えなさい、そして家の人と必ず一緒に見に来なさいと言われました。
 その日は、学校が午後は放課になるのでみんなが早く家に帰って中飯を食べて昼寝をしました。そして、いつもより早く夕飯を食べて大勢の友達とワイワイ騒ぎながら夕方のうす暗い林の道を歩いて学校に行きました。
 学校の外の運動場にはすでに大勢の観客が集まっていました。 観客は地面の上に腰を下ろして足を伸ばして活動写真の始まりを待っていました。中には、キュウリやナスなどを持っていって食べている人もます。空き缶を持っていってキセルでタバコを吸っている人もいました。
 校舎の二階から白い大きな幕が下げられて指揮台の上に映写機が据えられ、映写機と幕との距離を測ったりして準備が進められる。 そのうち、活動写真が始まりました。写真が幕に映し出されると一斉に拍手が起こりました。そのころは未だ、活動弁士が写真をみながら解説をするのでした。
 映画の内容は、戦争の写真、それから、満州開拓団で働く人たちの様子、馬に乗って広い土地に機械で豆を蒔く様子などでした。とくに機械による豆の種まきには驚きました。石黒では、山のカンノに鍬で穴を掘って一粒ずつ蒔いているのにその大規模な農業の様子は信じられないほどでした。地平線が見えるほどの広大な畑を見て「あの先はガケになっているがんだろうかなえ」などとワイワイ話しているものだから弁士が「黙って聞け」などと注意する始末でした。
 しばらくは静かになりましたが、巨大な桶をいくつも重ねたような見慣れないものが映し出されると「あのアッパ桶(人糞溜めの桶)を積んだような物は何だろうなえ」などと騒ぎ出すと弁士が「あれは、サイロといって馬や牛に食べさせる細かく切って入れておく場所だ」と説明する。続けて「満州へ行けば、あんな広々したところで農業ができるのだ。どうだ、諸君もこんな山の中にいないで満州へ行きませんか」などと言って活動写真は終わるのでした。今にして思えば満州開拓移民の勧誘の活動写真だったと思います。
 その後、中後集落から3戸ほど満州へ移住したという話しも聞きました。そのほか17、8歳で満州に渡った人も多くいたとのことです。
 活動写真はその後も何度がありましたが、日露戦争の写真や当時勃発した支那事変(昭和12年)で日本軍が進軍していく内容で、いわば、戦意高を図るための巡回活動写真だったと思います。