昭和初めの頃の学校の思い出
                           上石黒 田辺清


 高等科になると「農業」の勉強があった。思い出の一つとして小豆の栽培があげられよう。
 入山〔学校から3km〕の一部を借りて青年学校の生徒と一緒になって草なぎをし、1週間ほどたってから草を焼き払い、そこに小豆まきをした。昼食を持ちクワをかついで起伏のはげしい山道を歩いて目的地に着いた。小豆をまくのは青年学校の一部の生徒に任せられていたようだった。種を蒔き終わってみると沢山の種の余りが出たのでまき直しをするのもめんどうだというので、こっそりと土の中に埋めてしまって知らないふりをしていたという話も聞いている。
 
 その後の管理としては草取りが1回ぐらいであとは収穫を待つばかりだった。収穫の時にはテゴ〔藁を編んで作った入れ物〕をもって行き、小豆のサヤをもぎ取って詰め込み学校へ持ってきて乾燥した。そして、晴天の日をみて小豆おとしをすると沢山の小豆の山ができる。多いときは13俵〔約800kg〕くらいの収穫もあったように記憶している。

 一方では水田実習も行われた。現在の克雪センターの付近に実習田があった。実習のあるときは山着物を持ってきて身支度をし、鍬で一株一株打ち起こす仕事もなかなか容易なものではなかった。泥まみれになった田打ち、腰の痛い田植えや田の草取り、鎌で手をきったりした稲刈りなど・・・。
 収穫祭になるとウスを借りてきて、水田からとれた米とカンノウ畑〔焼畑〕からとれた小豆を使って「あんころもち」を作り、みんなで舌つづみを打ちながら苦しかった思い出話に花を咲かせながら腹一杯たべた。

 このころの稲刈りは、彼岸の中日を過ぎてから始まったようだ。現在は品種改良の技術が進んで来て時期も相当早くなってきている。
 稲刈りが始まると学校で落ち穂拾いをさせられた。学校に来る途中、田の畔を通りながら穂を拾ったり、また道路やよその家のハサ場の下などに行って夢中になって集めたものだった。ひとりで拾う量は少ないが学校へ行ってみんなのものを集めてみるとものすごい量になるので驚きの目がかがやく。まさに「塵も積もれば山となる」であった。

 入学当初は尋常科は2部複式の3学級編成であったが、昭和9年に、1学年50名のクラスになったため狭い教室に児童を収容仕切れなくなったために初めて4学級編成〔5・6年生を単式にした〕になった。以後尋常科4学級編成はかなり長く続いたように思う。

 勉強をやった思い出は頭からうすれてしまったが、体を動かしてやったこと、苦しかったことなどが今のよい思い出といて深く心の奥に刻み込まれている。

            
 「石黒校百年の歩み」より