占領下米国教育映画についての覚書

 ―『映画教室』誌にみるナトコ(映写機)とCIE映画の受容について
                                   中村秀之
1 占領期の教育映画政策

 テレビやビデオの出現以前、フィルムを映写機にかけてスクリーンに投影することによってしか映画が見られなかった時代であっても、そのフィルムは映画館だけで上映されていたわけではない。戦前日本でも、少人数のオーディエンスの娯楽を目的としたホーム・ムーヴィの上映や、学校や公共の場所における(もっぱら)教育を目的とした非商業的上映が盛んに行なわれていた。占領期に入るとGHQが占領政策の一環として「非劇場」型の教育映画の浸透に力を注いだ(ここでの「非劇場」という概念については谷川2002: 172を参照せよ)。日本側に制度・組織の整備を要請し、映写機やフィルムなどの資源を大量に投入して全国的な啓蒙活動を意図したのだ。民間情報教育局(Civil Information and Education Section=CIE)が推進した16ミリ教育映画による民主化促進プログラムである。このとき貸与された映写機はナトコ(National Company製)、フィルムはCIE映画あるいはCIE教育映画と呼ばれた。

この政策についてはすでに教育政策史(阿部1983: 685-742、阿部1992: 139-161)や占領政策史(谷川2002: 172-177、242-250)の見地からの解明が行われている。本稿の目的は、行政側の膨大な一次資料を駆使して政策施行過程全体を視野におさめようとするそうした研究に比べると、きわめて慎ましいものでしかない。すなわち、当時刊行されていたある教育映画専門誌に限定して、その記事に現われたかぎりでのこの政策へのさまざまな反応を紹介しようとするものである。その雑誌は『映画教室』という。いうまでもなく、ナトコとCIE映画の運用の実態を解明するには、たとえば阿部彰が主に新潟県について行ったように、地方レベルでの一次資料の調査が不可欠である(阿部1983: 716-718)。しかし、『映画教室』はナトコとCIE映画の貸与という政策とは独立に教育映画運動を推進していた全国規模の団体の機関誌である。そのような性格の雑誌であるだけに、占領軍当局や日本政府・自治体の政策に対する現場の側からのいきいきとした反応を知る手がかりとなる資料たりえているのだ。そこで、まずこの雑誌が創刊された前後の教育映画政策の経緯を、主に田中純一郎の『日本教育映画発達史』にもとづいて概観しておこう(田中1979: 169-175)。

 戦前から日本で映画教育を行ってきた代表的機関は、文部省の外郭団体である財団法人大日本映画教育会(以下、教育会)であった。CIEのH・L・ロバーツ大尉は早くからこの会に注目し、その組織内容、性格、運用法などについて関係者に面接を行い、次のような結論に達した。@教育映画を急速かつ大量に製作する必要がある。A有効な配給制度を確立する必要がある。B大日本映画教育会は従来の官製団体的色彩を払拭して民主的に改組すべきである。―こうして1945年10月、ロバーツ大尉は文部省と既存の文化映画業者からなる教育映画関係者懇談会に、以上の項目を「示唆」という形で申し入れた。また、大日本映画教育会にはアメリカの教育映画を試写したり改組について意見交換を重ねたりするなど精力的に働きかけたが、46年4月に他部門に転属する(谷川2002: 242によるとロバーツの名前は名簿の上では9月に再び登場するという)。

 既存の文化映画業者(日本映画社、東宝文化部、朝日映画、理研科学映画など)は映画法廃止に伴って文化映画の強制上映が行なわれなくなったことから実質的に仕事を失っていたが、CIEの働きかけに業界再興の望みを託し、46年4月に教育映画製作協議会(以下、協議会)を結成する。協議会は教育映画振興を目的として、官僚的な大日本映画教育会とは別箇に活動を開始した。協会が掲げた活動目標は、@配給網の確立、A機材の大量生産、B優秀作品の計画的大量生産であった。

 文部省からの奨励金交付を受けながらその使途に不明な点があるなど、組織の体質に問題を抱えていた教育会は、協議会側に押し切られ、合同で映教改組委員会を立ち上げることになった。協議会の主導で進められた改革の標的は、教育会が官製の組織であったこと、利用者側の利益を代表していたことの2点に向けられた。まず会員の構成については、それまで学校に限られていた利用者を劇場や各種組合にまで拡大し、これに映画や機材などの製作業者を加える構成とした。次いで、従来は官の財政的な支援を受けていたのに対して、会の運営をすべて会員から徴収する会費でまかなうことにした。それに伴い、全会員は1会員1票の権利を有して運営に参加できるようになった。

こうして46年10月1日、協議会と教育会が合併して財団法人日本映画教育協会(以下、映教)が発足した。11月8日に愛知県で行なわれた中部地区連絡協議会を皮切りに、全国で連絡協議会を開催し、移動映写を行った。映教はまた、47年2月に機関誌を創刊した。これが『映画教室』である。50年6月には『映画教育』と改題され、さらに51年4月『視聴覚教育』へと誌名を刷新して現在に至っている。

映教は47年5月から約2ヶ月間にわたって、CIE、文部省社会教育局、日本教職員組合などの支援を受けて、映画教育振興キャンペーン「映画を見る学童六〇〇万人組織運動」を全国的に展開する。この運動は製品の安定的供給のための体制作りという業者の利益に適うものであった。この計画は、全国50ヵ所にフィルム・ライブラリーを設置し、1映画番組につき2セットのプリントを配給する。利用団体は1回1人1円の料金で500〜600人の学童を対象に100〜120回映写することによって収支相償う、というものだった。この体制づくりのために、映教は各地区府県別に映画教育振興大会を開いていった。振興大会には一会場につき教育関係者が50〜100名参加し、見本映画の有料試写会には1000〜4000名の観覧者が詰めかけて大成功を収めたという。これに伴い、各府県の団体の自主的活動が活発になっていった。しかし、映教の運営にかんしては、その役員構成における業者側への偏りが問題にされ、48年9月6日の会員総会でその是正がはかられた。

こうして、映画教育の担い手の組織化が行われていった一方で、48年2月、CIEは文部省に対し、映写機と幻灯機を大量に無料貸与するので全国に適正に配布し社会教育のために適当な上映体制をはかるようにという要請を行った。阿部彰の論文には翌3月の「米国陸軍省所有十六粍発声映写機及び映画受入要領(文部次官通牒案 一九四八年三月)」が全文引用されている(阿部1983: 690-697)。この映写機はナトコNatcoという名称のアメリカ製16ミリ発声映写機で、米軍が太平洋戦争中、前線や占領地での慰安や宣撫に使用したものである。1300台のナトコの受け入れを担当したのは文部省芸術課課長桧垣良一である。さっそく全国的な組織作りが進められたが、それは、全国8ヵ所に地区視覚教具本部を設け、各都道府県教育委員会社会教育課に視覚教育係を新設し、その下に都道府県中央図書館を設置場所とする視聴覚ライブラリーを所属させるという徹底ぶりであった。このような機構人事編成に各都道府県は年予算平均70万円近い経費の捻出を強いられたが、CIEと軍政部の半ば強制的な命令によって急速な進展をみた。新潟県のように、この命令を無視したために当該主務官が罷免され、あわてて組織作りに取り組むところさえあったという(阿部1983: 706にこのときの「CIEフィルム紛失報告書」の写真が掲載されている)。

48年4月から6月にかけて、文部省とCIEは特別仕立ての専用列車を用い、全国14ヵ所で視覚教育指導講習会を開き、映写技術の普及を図った。映写機は、各府県別の人口、映画館数、学童人口の各比率に準じて配分された。49年12月2日、文部次官から全国都道府県知事に出された「連合軍貸与の映写機映画等の取扱いに関する通達」は、その具体的な運営法を示したものだった。ちなみに、日本の学校教育、社会教育で「視聴覚」という言葉が公式に取り上げられ定着するのはこのときからである。他方、ソフトについては、CIEはすでにそれ以前47年4月から16ミリのアメリカ製短編教育映画の無料貸付を行っていた。これがいわゆるCIE教育映画である。これらのフィルムには、東亜発声社を始めとする日本の映画会社が製作した日本語版ナレーションが吹き込まれた。その数は最終的に406本に及び(谷川2002: 247)、内容もアメリカの政治や経済の紹介、風景、音楽、教育、時事解説など多岐に渡っていた。



2 ナトコの「受け入れ」



本章では映教の機関誌である『映画教室』の記事にもとづいてナトコ「受け入れ」時の問題点とナトコのもたらした影響を整理する。なお、文中では『映画教室』の該当箇所をたとえば[48-6: 16]のように略記するがこれは1948年6月号16頁を意味する。なお、『映画教室』に掲載されたナトコまたはCIE映画に関する記事の一覧を末尾に掲載した(資料A-1、資料A-2)。

まず、ナトコ貸与の経過と実態を簡単に見ておきたい。前章でも述べたように、48年4月から6月にかけて全国14ヵ所で視覚教育指導講習会が行なわれた。4月21、22日の大分市を皮切りに、6月9、10日の札幌市までである。それを受けてナトコの実物が各都道府県に順次発送されていった。6月には北海道[48-8: 23]、8月には関東各都県、さらに東北、東海、中国、四国と続き、近畿と九州はやや遅れたようである[48-10: 10]。

貸与されたナトコの台数は、1300台とも1500台ともいわれるが、『映画教室』49年6月号によれば各都道府県への貸与数は以下の通りである。



北海道80、青森23、秋田23、岩手26、山形24、宮城22、福島34、

群馬18、栃木21、茨城30、埼玉25、千葉25、山梨15、東京44、神奈川18、

新潟36、富山17、石川20、福井14、長野28、岐阜23、静岡28、愛知30、三重22、

滋賀14、京都23、大阪26、奈良16、和歌山19、兵庫29、

鳥取12、岡山25、島根18、広島28、山口21、

香川16、徳島16、愛媛21、高知20、

福岡34、佐賀11、長崎20、大分13、熊本23、宮崎12、鹿児島21、



これを合計すると1084台である。なぜか『映画教室』の一覧表では「計1070台」となっている。どこで食い違いが生じたかは不明である。なお、技術者(学校関係、官公吏、一般指導者)は計13052人、一台当り人数12.8人 [49-6: 10~11]となっている。



さて、ナトコ「受け入れ」に関して『映画教室』で指摘されている問題点は以下のとおりである。(1)天下り的施策と運用面における官僚主義の弊害、(2)映画教育の実践をめぐる抗争、特に社会教育と学校教育との関係、(3)技術的な制約やトラブル、特に日本製フィルムとの相性の悪さ、(4)CIE教育映画の内容に対する不満、以上である。このうち、(4)については次章にゆずる。

(1)官僚主義の弊害

 ナトコ貸与はCIEが一方的に決定し、日本側にその対応を要請したものである。文部省の担当官僚は、これが「日本人の啓蒙と民主化」のための「アメリカの好意」であることを強調し、「日本人が世界人にまで伸びることによって連合軍への心からのお礼にすべき」であると語っている[48-6: 17,19]。こうして、中央から資源が配分され、それを「受け入れる」体制を形式的に整えるために地方の官僚組織が汲々とするという図式が出来上がる。そこから生じる弊害については匿名のコラム(「映教時評」)が歯に衣着せず批判を加えている。ボス支配、つまり情実と利権の構造を排して「受入態勢の民主化」を実現せよ、という提言や[48-7: 5]、末梢的な事情で体制作りがモタモタしているという指摘がある[48-10: 7]。また「ナトコは迷う」と題したコラムでは、視覚教育係が新設されて係長が任命されたがこれが役立たずで、夏の頃にはナトコによって日本の映画教育は黄金時代を現出するかのように説かれていたのに、その後ナトコ講習会のあったことは聞いたがナトコが府県内をフルに動いているという話を聞いたことがない、と指弾している[49-3: 18]。また49年6月号は「ナトコ運営の実態」について総特集を組んでいるがその巻頭言は「ナトコは活かされているか」とし、フィルムの選択が官僚の独善にまかせられていて上映会が単に映画を楽しむ場になりがちで教育的機能をはたしていないと指摘している [49-6: 1]。

(2)映画教育をめぐる抗争

49年6月号の巻頭言はもう一つ興味深い問題提起をしている。「地方での過去の巡回映写屋的な、思想的に古い人々が映写技師として指導の前線に出ていて、はたして新しい国民文化をうちたて大衆の再教育を目指す視覚教育の体系が確立されるであろうか。もっと進歩的な若い人々が欲しい」[49-6: 1]。

「巡回映写屋的な」とあるので、必ずしも実際の巡回上映技師を指しているわけではないが、少なくともここで提唱されているのは、戦前の巡回上映という実践慣行との切断である。つまり、これはCIEの政策と戦前からの日本における地方での映画上映や映画教育の伝統との葛藤を示すものだ。それはナトコ貸与の目的を社会教育のためであるとするCIEと、日本では社会教育も学校が担わざるをえないとする学校教育関係者との対立にも関連している。48年6月号に掲載された「座談会 Natco(米国貸与の16粍発声映写機)の受入体制」に出席した日教組文化部長はこの点を特に強調している[49-6: 17]。ここに見られるのは、思いがけず送られた資源の利用権をめぐる学校と官庁との抗争だけでなく、戦前からの映画教育の担い手たちとCIEとの映画教育の主導権をめぐるより大きな対立である。先に引いた「ナトコは迷う」には、社会教育用だからという理由で学校には貸してくれないという失望の声も聞かれたという指摘がある[49-3: 18] 。しかしまた、ナトコによる映写会をもっぱら学校教員が行っている例も報告されている。そのため、一方ではナトコが本来は社会教育を目的としているという理解が地域の成人に浸透せず、他方では子どもたちがつまらない映画をいやいや見せられるという弊害が生じたというのである[49-6: 20~22]。

(3)技術的な制約やトラブル

 技術的な問題では、電力資源の乏しさや暗幕不足という当時の日本の経済状態に由来するものもあるが、ナトコそれ自体が原因の問題があった。それは日本のフィルムとの相性の悪さである。つまり、従来の日本の16ミリ・フィルムをかけるとうまくいかないという問題である[48-6: 19]。映教は「運営上一番困る点」として次のような声があることを伝えている(回答数152)。電気40(26.3%)、フィルム33(21.7%)、機械28(18.5%)、運搬19(12.5%)、技師11(7.2%)、予算不足4(2.6%)、暗幕不足4(2.6%)、一般の理解不足4(2.6%)、手続きの煩雑さ4(2.6%)、その他3(2.0%)。このうち、フィルムにかんしては、そもそも絶対量が不足していること、日本製映画のプリントの状態の悪さと並んで「日本製フィルムの損傷率の高さ」が指摘されている[48-6: 14]。その原因について「嫌われる「ナトコ」」というコラムには次のような指摘がある。日本製フィルムをかけようとしても映画会社が貸し渋り、せいぜい古いフィルムしか貸してくれない。その理由はナトコにかけるとサウンドトラックの境目に押し板の筋が入ってフィルムが傷むからだというのである[49-10: 11]。

ところで、先に挙げた「運営上一番困る点」に「暗幕不足」とある。当時、ナトコ上映にかぎらず映画館以外の施設で映画を上映する際の大きな障害は、必要な暗闇を人為的に作り出すことだったのだ。もちろんモノ不足が原因ではあるのだが、『映画教室』には何度かこの問題が取り上げられ、新聞紙に墨を塗って暗幕を作る方法が紹介されたりしている。



 以上のような様々な問題点が指摘されているが、今度は運営の実態についていくつかの興味深い事例を見ることにしよう。

(1)1000台を超えるナトコの貸与は、日本における16ミリ映写機の総数をおよそ1.5倍増加させるものだった。官製映画教育政策とはいえ、これによって映画を上映する機会が飛躍的に増大したことはまちがいなく現場の担当者の大きな励みとなった。たとえば、北海道の講習員の意気軒昂な談話はそのことを如実に示している。北海道は広大だけれど「移動映画教室列車を編成、二条の鉄道のあるかぎり奥地にまで巡回していきます」と、この講習員はメドヴェトキンの「映画列車」を思わせるような壮大な豊富を語っている[48-8: 23]。この案は実現されたのだろうか、大いに気になるところである。

(2)先に、ナトコが学校教員によって運営され、そのために弊害が生じた例を紹介した。しかし、この事例を報告した「記者」は、同じ「ルポルタージュ」で次のような試みも紹介している。埼玉県三保谷村では、新制中学の生徒が自主的に映画を選定し、映写機の操作も自分たちで行う。彼らは椎茸やヒマ(唐胡麻のこと、ひまし油の原料)の栽培をテーマとした日本製文化映画を上映し、村に椎茸やヒマの生産を導入する。これによって上がった収益を次の上映の資金に充てるのである。記者はこのルポルタージュを次のように結んでいる。「日本の現状では、ナトコはこういうかたちで、日本の民主化を行うのである」[49-6: 24]。末尾に「編集部 古山高麗雄」と署名があるが、後の芥川賞作家と同一人物であろうか。

(3)長野県下伊那郡では、ナトコが1台貸与されることになったとき、下伊那公民館運営協議会がナトコ特別委員会を設け、この委員会によって巡回上映を行うことに決めた。フィルムの選定や宣伝、鑑賞指導についてもすべてこの委員会の責任で行なわれ、実際の上映においては村民総出で協力するという体制がとられた。たとえば、「巡回日程が村々に通知されると、各戸一枚宛のストリー〔ママ〕をその都度配布して、「今度来る映画の内容」を予備知識として知らせるという徹底した村もあるようになりました。また、映写開始前に、巡回中の技師はその観客層に応じた解説を、マイクロフォンを通じて行っていますが、そのことが村人に大へん親しまれもし喜ばれもしております。そして映写後の批評討論会も行っていますが、この試みは、最初のうちは団体の幹部のみの集りで行なわれていたが、最近では、その幹部が司会者となって次のフィルムを掛換えるほんの十分間くらいの機会を捉えて、活発な討論を催すほど、一大進歩の程を見せております」[49-12: 18]。

だが、農山漁村の人々に映画を身近なものにし、非劇場運動への認識を高めたという声もあるとはいえ[49-6: 9]、上映された映画の内容については、それに対する不満がくりかえし指摘されている。では、そのソフト、CIE教育映画とはどのような映画だったのろうか。



3 CIE教育映画を求めて



CIE教育映画について日本国内で刊行されたまとまった目録としては『USIS映画目録』が現存している。CIE映画は、占領の終結にともない、国務省の管轄の下、米国情報教育交換計画の一環として行なわれる米国文化情報局(United States Information Service)のUSIS映画へと引き継がれた。所管はアメリカ大使館である。『USIS映画目録』はその貸し出し用フィルム目録であり、1953年以後、55、57、63、66年に刊行されている。当然のことながら、この目録には日本の独立以後の映画も含まれているので、これをそのままCIE映画の目録として扱うことはできない。しかし他方で、「連合国軍総司令部民間情報局教育映画課編のCIE映画・目録解説パンフレット類」にもとづいて阿部彰が作成した「CIE映画フィルム一覧(1951年末現在)」は、51年4月1日までの公開作品および同年末までの公開予定作品(CIE番号304まで)の一覧表であるが(阿部1983: 722-729)、両者を照合するとCIE番号とUSIS番号とは正確に一致している。谷川建司によればCIE映画は合計406本ということなので(谷川2002: 247)、USIS目録の406番までをそのままCIE映画とみなしてよいだろう(封切日が講和条約発効後にずれ込んだものも含まれているが)。

『USIS映画目録』の最初の版である1953年版は同内容の英語版と日本語版の合本という体裁になっていて、それぞれ表題のアルファベット順と五十音順で配列されたリストが別々に掲載されている。つまり、原題と邦題の対応は示されていない。そこで、どちらにもUSIS番号が付されているので、これにもとづいて番号順に並べ替え、邦題、原題、封切年月日、上映時間を対照できる簡略なリストを再構成した(本稿の末尾の資料B)。この整理からわかったことは、53年版目録には1番から524番までの番号のついたタイトルが採録されているが欠番が非常に多いということである。タイトルが示されているのは333本、つまり、191本分が欠けている。もっとも、407番から500番までは、CIE(406番まで)からUSISへの移行にともなって番号だけを飛ばしたものとも考えられる。また、USIS目録で欠けていても「CIE映画フィルム一覧(1951年末現在)」に表題などが示されているものも少なくない。これらは何らかの理由でCIE映画からUSIS映画に引き継がれなかったフィルムということになる。



CIE教育映画の内容については、阿部彰が教育学の見地からその傾向ないし概要を整理している(阿部1983: 730-733、阿部1992: 154)。同時代の『映画教室』においては、49年6月号の「特集 ナトコ運営の実態」に「CIE教育映画から何を学びとるか ―その内容の解説と分析―」という記事で、筆者の高萩龍太郎がその目的という観点から次の5つに分類している[49-6: 38~41]。すなわち、

A 日本民主化の角度から、新しい社会相への示唆を多分に含んでいる。

B 新しい教育のあり方について、教えられることが多い。

C 海外事情(主として英米)を多く吸収することができる。

D 民主的な物の考え方や科学的な知識をやさしく分からせてくれる。

E レクリエーションに役立ってくれる。

 高萩はそれぞれ例を挙げて説明しているが、ここではその内容には立ち入ることはしない。いうまでもなく、高萩の記述を吟味するためには実際にフィルムにあたることが不可欠だが、現状ではそのほとんどを見ることはできないからである。



以下では、そもそもこれらのフィルムがどのようにして製作されたものか、あるいはむしろ、どのような映画がCIE教育映画として転用されたかという点を『映画教室』の記事から紹介するにとどめよう。50年1月号(4巻1号)に掲載された赤峰峻「アメリカのドキュメンタリー映画 ―CIE教育映画、教材映画、その他―」はわずか4頁という短い文章だが、貴重な情報をいくつも含んでいる。まず、赤峰は原稿執筆の時点でCIEが「百四十本余りの教育映画」を配布したと述べている。ちなみに赤峰が具体的にタイトルを挙げている作品でCIE番号が最も大きいものは137番である。これはロバート・フラハーティの『ルイジアナ物語』(1948年)である。つまり、CIE映画にはこのような映画史上に名高いドキュメンタリー映画も含まれていたわけだ。フラハーティの作品としてはNanook of the Northも「北地のナヌック」という題で上映された(141番)。また、ヨリス・イヴェンスのPower and Landが『電力と農園』という正確な邦題で公開されている(6番)。

しかし、まとまった量のフィルムを供給したのはシリーズものの商業的ノンフィクション映画である。それは『マーチ・オブ・タイム』(1935-1951)と『これがアメリカだ』(1942-1951)であった。前者はタイム社が1935年から製作していた有名な月刊時事解説映画である。後者は戦時中にRKOパテが製作を開始したシリーズである。『マーチ・オブ・タイム』についてはアメリカでVHSカセットのセットが市販されたこともあり、まだ入手できる可能性もあるので、赤峰が挙げているタイトルをすべて引いておこう。かっこ内はCIE(USIS)のフィルム番号である。

「アメリカの首都」(20番)

「世界の食料問題」World Food Problem(21番)

「アメリカの音楽」(22番)

「ニューカナダ」New Canada(33番)

「明日の医学」Modern Medicine(34番)

「原子力」(36番)

「テキサス」Texas(44番か?)

「ニューイングランド」New England(45番か?)

「合衆国新南部」(46番)

「フィリッピン共和国」Philippine Republic(91番)

「新しい教育」(69番)

「クリーヴランド市」(127番)

「米国西北州」(5番)

このうち、レイモンド・フィールディングによる『マーチ・オブ・タイム』に関するモノグラフの巻末リストでまったく同一のタイトルが確認できるのは「世界の食料問題」(1946年)と「原子力」(1946年)である(Fielding, 1978)。

また、『これがアメリカだ』シリーズのものとしては15本が挙げられている。さらに赤峰の指摘では、ハリウッドの有名な脚本家ロバート・リスキンが戦時中に部長を務めた戦時情報局海外部の製作による作品も含まれていた。「トスカニーニ」(1番)「アメリカの国立図書館」(10番)「青白き騎士」(47番)である。「映教時評」では「マーチ・オブ・タイムのシリーズは歯切れがよくて良いが、官製のものはプロパガンダの形式なのでつまらない」と評されている[48-8: 7]。なお、アメリカの戦時情報局および戦後その業務を引き継いだ国務省国際映画部の活動とCIE映画の関係については谷川建司が行った調査を参照されたい(谷川2002: 172-177)。また、『映画教室』の記事からは離れるが、木村哲人のCIE映画についての回想、特にその演出の作為性(「やらせ」)に対する醒めた感想は同時代の日本側映画製作者の反応の例として興味深い[木村1996: 20-25]。

 

こうして、CIE教育映画はそのほとんどがアメリカ製で、しかも教育映画だけでなく、商業的時事解説映画の流用も含まれていた。これらは主にアメリカ国内の観客を想定して製作されたものである。したがって、「日本の大衆の現状から考えると、理解点からはずれているというのが一番多い批判である」というのは当然だろう。また、「解説も翻訳語を画の尺数に単に合わせてはめ込んだ」ものが多いという日本語版の問題もあった。例外的に好評だったのは日本の製作者のシナリオ、演出により、日本で撮影された映画だったという[49-6: 15]。そこで、アメリカ製のCIE映画と邦画を適宜組み合わせて上映するという工夫もなされ[49-3: 40]、総司令部の担当者が日本の教育映画も積極的に購入するよう地方の視覚教育本部に促すなどの動きもあった[49-5: 30]。しかしまた、ナトコによるCIE教育映画の上映への不満は、そもそも映画を見るという行為を学習の一環として受けとめる用意が観客の側になかったという事情に由来するようだ。その点は『映画教室』の記事でも「映画といえば娯楽という先入観」という表現で指摘されている。また、「堅すぎる、程度が高い」という不満が少なくなかったというが、これについてもノンフィクション映画に対する抵抗感があったとものと推測される [49-6: 15]。実際、大人は劇映画を、子どもは漫画映画の上映を熱望したと伝えられている。一方では日本製教育映画の製作の促進が、他方では現場における上映前後の指導の必要性が早い時期から提唱されていた背景にはそのような状況があったのである[48-8: 7]。
(以下略)

http://www.cmn.hs.h.kyoto-u.ac.jp/CMN6/nakamura.htmより抜粋
※強調文字色は引用者