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                   秋

            
      上石黒の祭礼



 
暑い夏は8月下旬になってもしばらくは居座っていたが、秋はすでにそこにやって来て身を潜めている。
 ツクツクボウシの鳴き声を耳にすると、子どもたちは夏の終わりを予感した。→ツクツクホウシの鳴き声

 
       上石黒黒姫神社祭礼

 夏休みは8月25日までで26日から新学期が始まった。宿題を残し、憂鬱な気分で登校した子どたちは、久しぶりに仲間と顔を合わせると、すぐさま楽しい気分になった。
何よりもうれしいのは、数日後には上石黒の黒姫神社の祭りがやってくることだ。
お祭りには、出店が並び多くの人でにぎわう。

 
       上石黒神社

 その日は、学校も午前で放課となったが、子どもにとってこの日ほど時間のたつのが遅く感じられる日はない。先生の話などは上の空で、耳に入るのは鎮守の社から聞こえてくる太鼓の音だけだった。
 ようやくにして下校の時が来ると、みんながすっ飛んで家に帰った。帰ると昼飯を食べるのももどかしく神社に向かって走った。
 境内には、オモチャ屋、お菓子屋、古本屋など様々な店が軒を連ねる。

 大きな桶に水を張り沢山のラムネのビンを冷やしている店がある。ラムネのビンが木漏れ陽の中で青い光を放っている。オモチャ屋の前に並んだピストルが白銀色に輝いている。
 子どもたちは、にわかに出現した都会の雰囲気に酔いしれて、神社の献灯に灯がともる頃まで遊んで帰った。
 この日は、恒例の奉納相撲大会も行われ、子どもたちは、自分の集落の力士が出るたびに手に汗を握る思いで見たものだ。また、隣の鵜川村に昔から伝わる綾子舞も奉納された。

 
                祭りの日の上石黒黒姫神社

 9月15日には、下石黒、落合集落の祭礼があった。
 当時は、まだ高度成長期に入る前で、村には大勢の若者がいた。1戸に3人の青年団員がいることも珍しくはなく、青年団活動は活発であった。
 青年団による演芸会もあり、かなり本格的な楽団が組織されていた。ちなみに下石黒青年団が組織していた「そよ風楽団」はドラム、ギター、バイオリン、アコーディオンなど当時としては立派なものであった。

 
  下石黒黒姫神社祭礼準備 2007

 出し物も股旅ものや喜劇、歌謡曲、ジャズ、タップダンスまであった。当時の子どもにはタップダンスがどういうものか分からかったが、その忙しい動きに新鮮な感動を覚えたものだ。演芸会は、神社ですることもあったが、雨天となると、広い民家の座敷を借りて上演した。
 また、青年団がプロの旅回り劇団を招き上演する事もあった。役者は、村の何軒かの家に分散して宿泊した。




          
     稲運びの手伝い

 15日の祭礼が終わると多忙な稲の収穫作業が始まる。子どもにとってもそれは過酷な仕事だった。
 もともと、石黒村は、刈羽郡でも最も高い黒姫山、地蔵峠、鷲の巣山の山系に深く抱かれた地形にあり、山を切り開いて階段状になった水田、いわゆる棚田が殆どである。平成11年には全国棚田百選に花坂新田が選ばれた。(写真 →現在の花坂新田)

 
              花坂新田 2005.5.24

 それも、へやけ田(天水田)が多く、高柳の中でも最悪の環境にあった。それだけに、農作業、とくに収穫作業は過酷であった。
 まず、稲刈りでの子どもの仕事は、刈り取った稲を田から運び出すことだった。田の中から運び出した稲束は、畦にエゴ(8たばを1束とし3束積み重ねたもの)にまとめておく。それから、それをハサ場(稲干場)まで運搬しなければならない。だいたい、ハサ場は高台の日当たりも風通しもよいところに作られたので、そこまで背負い上げるのは並大抵のことではない。

 
         ハサ 上石黒そとやま 

 運搬には牛馬も使われたが、殆どが人の背で運ばれた。
背負いミノをきて荷縄で稲束を背負って細い坂道をはうようにして上る。自分の体重以上の荷物を背負って急勾配の小道を上るのだから、しっかりと道端の低木に捕まっていないと、体が反転してしまう。
 また、田の近くにハサ場を作れない場合は、数百メートル離れたハサ場まで生稲を運ばなければならない。そういう山道には、必ず「ヤスンバ」と呼ぶ休憩場がつ
くられていた。道の山側を削って棚状にし、そこに荷を乗せるようにして腰を下ろし休憩するためのものである。
 長い道のりを重い荷を背負っていくと、荷縄で子どもの小さい胸は締め付けられる。休み場で休むと、一気に胸の中に空気が入るのが分かる。そこで、ほっとして赤トンボの飛び交う青空を眺める。しばらく休むと、また歩き出す。こうして、運ばれた稲はハサに掛けられる。
 ここでも子どもの出番があった。それは、はしごの上で稲をハサに掛ける父親に稲束を投げ渡す仕事だ。もともと、石黒のハサは、杉の木などの立木を利用するためか非常に高い。小学生の子どもの力では、よほどコツを身につけないと投げられないほど高いハサもあった。
 あの生稲の香りと、バリバリした葉の手触りを懐かしく思い出す人も多いに違いない。
 ハサに掛けられた稲は、10日ほどで乾くが、取り入れは雨の日は勿論、雨の直後にもできない。乾燥した頃合いとその日の天気に左右されるのだから、あわただしく忙しい仕事になる。それも朝のうちは朝露を含んでいるので、大抵は午後から始める。その上、アゲ稲はすべて家まで運び込むので、更に大変である。場所によっては2キロもの道のりを背中に担いで運ばなければならなかった。

 あげ稲は生稲よりも軽いが、多く担ぐのでかさばり、担いでいる人の姿が後ろからは全然見えないほどであった。
 今にも雨になりそうな時などは家中がおおわらわで、猫の手も借りたいという言葉の意味が子どもにも実感できるほどの忙しさだった。
 稲刈りの頃には、1週間ほどの稲刈り休みがあったが、アゲ稲の最盛期は休みの後に来るので、手伝いのために多くの子どもが早引きをした。クラスの3分の1の子どもが早退してしまうこともあったが、早引きを申し出ると、担任の先生も心得たもので、「そうか、ご苦労さん」と困った顔もしなかった。
資料→稲刈り休みの思い出
資料→ふるさとの想い出
 また、当時は、そうして家の中に取り込んだ稲は二階などに積み上げておいて、すべての作物の取り入れが終わってから脱穀をすることが多かった。
 晩秋になると二階に積み上げた稲の茎の中にいたニカメイガの幼虫が孵化して小さな蛾となった。家の壁面におびただしいニカメイガがとまって羽を振るわせていた。その蛾を、学校で奨励して子どもたちに採取させたこともあった。(ニカメイガは、すでに目にすることもできない害虫となったが、名前の通り1年に2代を営むので、当時の稲作農家にとってまことにやっかいな害虫であった)
 稲の収穫が終盤に入ると、平行して秋野菜の取り入れも始まる。畑や畔の大豆も5〜6本を一束に藁で結わき、空いた稲ハサにかけて乾かした。
動画資料→大豆の葉柄を使った遊び道具ズゴゴンの作り方
 ハサにかけた稲の取り込みがすむ頃になると山の紅葉が始まる。広葉樹の多い石黒の秋は山々を色彩豊かに彩った。

 

 大根の取り入れなどは、初雪が降ってから行うことも珍しくなかった。時には紅葉の始まる頃に30pもの積雪に被われることもあった。雪の中の大根取りの手伝いは、冷たかったがしばらくすると冷たさを通り越して手がぽかぽか温かく感じたものだ。

 

      
        カヤ刈り

 最後の農作業はカヤ刈りだった。村にはカヤ講のための共有のカヤ場があり、毎年村中総出で、夏の「カヤ場なぎ」、秋の「カヤ刈り」、春の「カヤそい」とカヤ講のための共同作業を行った。カヤは毎年、屋根普請をする家1、2軒に順番に与えられていたが、各戸でも毎年、それぞれがカヤ刈りをして屋根普請にそなえた。
 晩秋の晴れた日に一家総出でするカヤ刈りには、子どもたちには忘れられないものがある。
 それは、お昼のお弁当で、ワッパ(薄い木の板を曲げて作った入れ物)にご飯を入れて持って行き、そのふたの中に取りたての大根とネギを鎌で削って入れ、生みそと清水を入れて作る「冷やし汁」の味である。

  カヤ刈の頃の風景

 秋の日溜まりの中で、雪で白く輝く遠い山々を眺めながら家族で食べたこのワッパ飯と冷やし汁の味は、誰にも忘れがたいものであろう。

 この頃から雪が積もるまではフカグツも履けず、裸足で歩くみぞれ混じりの日、泥道の通学は辛いものだった。とくに霜が降りて、道の凹みの水に氷が張る朝は冷たく足がしびれるほどであった。(しびれるような冷たさも通り越すと冷たさを感じなくなるものだったが・・・)。とくに、4km近い山坂の道を通学した板畑や居谷の子ども達は大変であったと想う。
 また、晩秋の霰が音を立てて降るような日の夕方は、よく小使室を訪れて囲炉裏の火に当たらせてもらったものであった。
 あの慈愛にみちた小使のおばあさん(屋号でんべぇ)
の顔を、当時の生徒はだれも忘れることはないであろう。

資料→小使のおばあさん

資料→通学時かぶり物−カラカサ・トウヨ・マント

 この頃、石黒の自然はしばしば不思議で謎めいた姿を子どもたちに見せた。
 晩秋の晴れた日、澄み切った空気の中を風もないのに無数の長い蜘蛛の糸がきらきら光りながら飛んで行く。どこからどのようにしてこんな長い蜘蛛の糸が飛んで来てどこへ向けて飛び去るのだろうか。
 それは、子蜘蛛が草や木の高い所に上って尻から糸をだして上昇気流に糸を引っ張らせて空中に飛び出し旅立つ姿であるのだが、それを知らない子どもにはまことに不思議な光景であった。
 また、これも晴れた晩秋の斜光の中に白い小さな羽虫の集団があった。その数は、無数で、まるで塵が風に舞う様にも見えた。
 村人はこの虫が見られると厳しい石黒の冬の到来が間近いことを知り、冬支度に精を出した。
資料→稲こきの手伝いの思い出



            

             

        初  雪

 子どもにとって、晩秋の木枯らしの吹く頃は、最もつまらない時季といってよい。ごうごうと山が鳴り枯れ葉が暗い空一面に舞う夕方などは、戸外の好きな子どもたちも家の中に逃げ込んでしまう。
 石黒の初雪は、11月の下旬になって降る年が多かった。昔から、「黒姫山に3回雪が降ると村にも雪が下りてくる」と言われていた。
 ある朝、目覚めると、忽然と出現したまばゆいばかりの銀世界に、子ども達は目を見張る。歓声をあげ、トマグチ(玄関)に走り下駄履きで庭にとびだす。深呼吸して雪の香を冷気とともに脳髄にまで吸い込む。

 
                  初雪  〔2007.11.23板畑〕

 石黒の冬の香りだ。とうとう、待ちに待った初雪が村に下りて来たのだ。

         
      スキーとワラぞり


 子ども達は、さっそくスキーの準備に取りかかる。
 当時の子どもは、村の器用な人が作ったスキーを父親の作ったワラ靴に着けてはいていた。(1枚板のスキーは板にくるいが生じやすく、中には驚くほどゆがんだスキーを履いている子どももいた) 

 
           当時のスキー

 靴先をスキーに皮バンドで固定し、かかとを「スイレン」と呼ぶ締め具で靴を前方に押し出すようにして装着した。

 
       村内の坂でスキーのり

とはいっても、このような装着具は主に中学生のスキー用具で、小学生は麻ひもを使って装着した。かじかんだ手でヒモを縛ったりほどいたりすることが一苦労であった。
 ストックは、小学生はほとんど使わなかった。
 スキーに塗るロウは、仏壇の中のロウソクを持ち出して使った。母親の大切な火熨斗ごてを持ち出してロウ塗りに使い怒られる子もいた。

 
  当時のスキー締め具 スイレン〔方言〕

 スキーに乗る場所は、山村であるから多くありそうなものだが、村全体の地形が石黒川に落ち込むような形状をなしているため、スロープはあるがその先に平地がない。そのため、かなり遠くまで出かけないと格好のスキー乗り場はなかった。

 
        子どもキゾリ

 それで、高学年に連れられて大野っ原(大野集落)などに出かけた。夕方までスキーにのり、帰宅するころは、既に日が暮れている。寒中には服の裾が厚紙のように固く凍っていることもある。凍えた手でスキーを脱ぐのももどかしく、囲炉裏の煙が漂う座敷に入ると夕餉の支度の最中だ。
 夕飯のできるまで、温かいコタツに入って、友達から借りた少年雑誌を読む。
 当時は、ようやく戦後の復興が目に見えてき

 
      早春の朝、キゾリで遊ぶ子どもたち

た頃で、「少年」などいくつかの雑誌が刊行され、子ども向けの本も増えてきた頃だったのだ。
 スケット(スケート)も忘れることの出来ない楽しい冬の遊びであった。それは、下駄ほどの大きさの厚い板の一方の角を削り取り、そこに山竹を並べて打ち付けただけの簡単なもので子どもでも作ることができた。春先のヤブ(雪原)のしみた朝など登校時によく滑ったものだ。

 
             ワラゾウリ

 それから、「ワラゾリ」と呼ばれるソリ(写真)もあった。稲ワラ四束ほどを束ねて穂先の方を折り曲げて縄で幾重にも縛る。
 裏には、カヤの茎を沢山さして滑りやすくする。これを雪面が堅く凍った朝に山の中腹まで引っ張って上り、ソリにまたがってすべりおりる。ワラゾリは、ワラのクッションがよく効き、スピードも制御されるため幼い子どもにも乗れて人気があった。
 時には、ヤブが堅く凍った日曜日の朝、そのワラゾリを曳いて、少し遠い山まで出かけた。
 朝飯用のモチを焼いてもらい2枚重ねた間に味噌を入れサンドイッチ状にして、肌着の間にしっかりとはさんで持っていく。こうすると体温でいつまでも温かで柔らかくおいしく食べられた。

 
     早春の朝、ワラゾリを引いて遠くにでかける子どもたち

 山の尾根に登ると遠く苗場山や妙高山の雄大な姿を見ることができた。
 尾根続きの彼方に、おとぎの国のような美しい景色が見える。子どもたちが30分もかけてようやく到着してみるとそこは何の変哲もない所で裏切られた感じになる。すると、また彼方におとぎの国が見える、懲りずに行ってみて再びがっかりするということもあった。 

 
                  城山の上からの景色

 しかし、そこで食べる味噌を挟んだ餅の味だけは決して期待を裏切ることはなかった。あのほのかに囲炉裏の煙の匂いがして母親の味がした餅の事を忘れることはないであろう。
 こうして遊び疲れて帰るのが、10時頃だったが、その頃になると気温が上がり、堅く凍っていたヤブも柔らかくなり、足が雪にもぐり、時には腰まで雪にはまってしまうこともあった。
 ゴムズボンなどのない当時は、家に帰ると、下着まで水と汗でずぶぬれになってしまっているのだった。


         
     学校での冬の遊び


 また、学校のグラウンドで2組に分かれ雪の塔を作り、塔の先端に立てた杉の葉を取り合う遊びも忘れられない遊びの一つだ。
 合図とともに一斉に攻めて来る者を捕まえて取っ組み合って阻止する、守りを破って塔にかき上る者に飛びついて引きずり落とす、そこでまた取っ組み合いが始まる。男子には、運動会の棒倒し以上の人気があった。 
資料→運動会の思い出
資料→ふるさと

資料→スキーの思い出
資料→板ぞり
 学校でスキー大会も行われた。場所は学校の下のアラヤ地内や大野集落の丸小山付近で行われた。昭和20年代はスキー靴はフカグツ〔藁製の長靴〕だった。

 
     校内スキー大会 大野原〔昭和28年〕

 冬の学校での屋内での遊びは、片足相撲や鬼ごっこ、陣取り、座り相撲などだった。小中併設校で300人以上(昭和25年は小中で387人)の子どもが、遊ぶのだから体育館はいつもひどく混雑していた。 

長距離走一位ゴールイン

 小学校1年生の子どもにとっては、高等科(現在の中学生)の生徒は、見上げるほどの大男に見えたであろう。また、ズックなどはない頃でワラ草履を履いていたが、ほこりが立つので中履きが禁止されたこともあった。
 女の子は、教室や体育館の隅の方で、手まりやお手玉、アヤトリやキシャゴ(おはじき)などをして遊んでいた。手まり唄には、つぎのようなものがあった。
一は越後の一の宮
二は日光の東照宮
三は佐倉の宗五郎
四は信濃の善光寺
五は出雲の大社
六つ村々鎮守様
七つ成田の不動山
八つ八幡の八幡宮
九つ高野の高野山
十は東京新願寺

 
     方言でナンゴと呼んだお手玉

他資料→クリック
 また、お手玉唄にはつぎのようなものがあった。
一匁の一助さん
一の字が大好きで               
一万一斗一斗豆さん
お蔵に納めて二匁に渡した
二匁のニ助さん
二の字が大好きで
二万二斗二斗豆
お蔵に納めて三匁に渡した


 その他、少し難しい動作をともなった次のようなものもあった。
おひとつ、おひとつ、おひとつ、おろしてさーらりん
おふたつ、おふたつ、おふたつ、おろしてさーらりん
おみっつ、おみっつ、おみっつ、おろしてさーらりん
おてのせ、おてのせ、おてのせおろしてさーらりん
おはさみ、おはさみ、おはさみおろしてさーらりん
おちりんこ、おちりんこ、おろしてさーらりん
おはさみ、おはさみ、おはさみおろしてさーらりん
おちりんこ、おちりんこ、おちりんこおろしてさーらりん
おみんなおさらいさーらりん
おてしゃげ、おてしゃげおろしてさーらりん
おひだり、おひだり、おひだり、おあーけあわせて
なかよせ、しもよせさーらりん

〔以下略〕
動作のようす→動画クリック

また、手まり唄には次のようなものもあった。
いちれつ談判はれつして
日露の戦争がはじまった
さっさと逃げるはロシア兵
死んでも尽くすは日本の兵
七月八日の戦いに
ハルピンまでも攻め落とし
クロパトキンの首を取り
東郷大将ばんばんざい

資料→子どもの頃の思い出
資料→遠足の思い出
 
資料→修学旅行の思い出
資料→昭和のはじめの頃の学校の思い出
資料→校医さんの思いで 


資料→お手玉(動画

資料→昭和30年代女の子の学校での遊び

資料→門出校への通学の思い出(下寄合)




      薪ストーブと弁当

 また、教室の暖房は薪ストーブだった。放課後、翌日の薪と焚き付けを配給するのは上級生の仕事だった。
 この焚き付け用の杉っぱや小枝は晩秋の晴れた日に全校生徒が山に出かけて拾い集めた。(写真)子どもにとって半日、教室から解放される焚き付け拾いは、作業というよりも行楽に近いものだった。
資料→焚きもの拾いの思いで
 ストーブはドラム缶の形をしていて、その上に毎日各自が持って来た弁当を積み上げて温めた。3時間目が終わると、日直当番が平均に暖まるように上下を入れ替えた。4時間目になると、弁当の暖まる香りが教室中にただよい終わりの鐘が待ち遠しかった。

 
 石炭ストーブ


 昭和28年頃から石炭ストーブが使われるようになると、ストーブのそばに空き机を置いてその上に弁当を積み上げた。なんにせ、50個もの数であったから、均等に温めるためには日直当番が弁当の位置を入れ替えなければならなかった。
 

     
       道踏みと石臼ひき


 子どもの手伝いは冬になっても、道つけ、雪堀り、ワラたたき、イスシキ(石臼ひき)など色々あった。
 道つけは、ドカ雪の日以外は、子どもの受け持ち仕事であった。朝起きがけにトマグチの戸を開けて降雪量を見てからカンジキをはいて外に出る。
 身を切るような冷気の中に雪に埋もれた村は静まりかえっている。鳥の鳴き声や人の声が聞こえることもあるが、まるで深い穴の底で地上の音を聞くようにおぼつかない。
 踏む道のりは、50メートルほどの家が多かったが、体重の軽い子どもは、何回も往復して雪を踏み固めないと堅くしまった道が出来ないので時間がかかる。終わる頃には指先までポカポカして温かくなってくる。
 ようやく道踏みを終えて、脱いだカンジキとフカグツを持って座敷に入ると囲炉裏で餅が焼かれて、朝飯の用意が出来ている。仕事をした後の朝飯の味は、また格別であった。
 また、屋根の雪下ろしにも子どもたちがかり出された。父親は茅葺きの本屋の雪を下ろしを、母親と子どもは玄関や土蔵の雪下ろしをた。
 当時は、スコップもあったが、屋根の雪は主にコイスキを使って下ろした。2メートル以上もある屋根の雪に、コイスキで切り目を入れてコジル(押し開く)と、1辺が1メートル以上ある立方体状の雪が雪煙を上げて落下する。
 はじめは、子どもも喜んでやるが、掘り進むに従って遠くまで投げなければならない。そうなるとコイスキを使うには技術がいる。コイスキの上の雪がするすると滑って固定しないために遠くに投げることが難しい。それで、スコップを使ったが、金属のスコップは、差し込むときに雪の厚さを見誤ると木羽葺きの屋根を傷つけるので注意がいる。特に、屋根は傾斜が付いているので手加減が難しい。
 初めは、高い屋根に上がることができて喜んでいた子どもも、夕方頃には、疲れるわ、手にまめができるわで厭になる。
 しかし、すっかり雪下ろしが終わって屋根を眺めると、重い雪をきれいに落とした建物が楽になったように見え爽快な気持ちになるのだった。
 そして家の中に入ると、窓という窓は雪でふさがり、夜中同然に真っ暗で電灯をつけないと何も見えない。
 最後に座敷の明かり取りの窓を堀り開けて仕事を終わりにしたものだ。
 このように雪の多い石黒は、雪害による停電も珍しくなかった。それも数時間ならともかく、一晩中の停電もしばしばあった。そんなときには、家族全員が囲炉裏の火の明かりを囲んでじっとしているより他なかった。
 停電のためロウソクをつけて夕飯を食べている最中などに、運良く電灯がぱっと点くと家族全員が、電気のありがたさを痛感し感謝の気持ちでいっぱいになったものだった。
 しかし、当時の座敷の電灯は大抵、30ワットで、ミンジョ(台所)やニワ(作業場)は10ワットが普通だった。お盆や正月だけ座敷の電球を60ワットに替えたがその時の明るさはまぶしいほどに感じられたものだった。
 その頃は、月遅れの正月であり2月1日が元旦であった。1月は、農家にとっては、ワラ仕事など正月までにしなければならない仕事が山ほどあった。ワラ叩き、縄ない、むしろ織り、荷縄や箕つくり、味噌煮、米搗き、など仕事は様々である。子どもたちも石臼ひきやワラ叩きなどを手伝った。
資料→冬の暮らしの思いで
 

 石臼は、クズ米を挽いたダンゴ粉、煎った大豆を挽いて作るキナコ、煎った小豆をひいて作るコウセン、その他ソバ粉作りなど、いずれも初めのうちは粒が粗いので石臼は軽いが、2回、3回と粉の粒子が細かくなるにつれて重くなる。その上、単調な仕事であるためすぐに飽きが来る。
 しかし、どこの家でも、石臼引きは、祖父母の仕事であったので、得意な昔話などを聴かせながら、手伝う子どもの根気を持続させたものだった。
 囲炉裏ばたでイスシキ(石臼ひき)の手伝いをしながら聞いた昔話は、誰にとっても忘れられない思い出であろう。
 石臼のゴロンゴロンという音の単調さを破るように、時々ゴーゴーという茅葺き屋根の雪が落ちる音がする。天窓の障子紙を風が震わせる音が断末魔の叫びの声のようだ。

 
              石臼


 耳を澄ますと風に吹かれたアラレが落とし板の隙間から入り込み障子戸に当たる音も聞こえる。
 オオベヤ(寝室)やミンジョ(台所)からは夜の闇が忍び寄るような気配がする。セイジョ(昔話参照)の話がクライマックスに達すると子供たちは、背筋がゾクゾクするような気持ちで聞いたものだった。
 


      
     年末の大掃除と大晦日


 この石臼引きが終わると、どこの家でも正月を迎えるための大掃除をした。まず下旬に入るとススハキをする。 ススハキの日には、子どもたちは朝から親類の家に宿借りに行く。1日中、よその家で過ごすことなど、子どもにとって物珍しいことであり、この日を心待ちにしていたものだ。
 夕方、家に帰ると天井の煤がきれいに取り除かれたために、声が反響することが子どもには不思議に思われた。
 28日には、大抵の家で餅つきが行われた。前夜から水に浸しておいた餅米を入れたセイロを、幾段にも重ねてカマドで蒸かした。餅つきは多い家では10臼も
ついたため午後までかかった。どこの家らかもドンドンという杵で餅をつく音がしたものだ。
 子どもたちにとって、つきたての餅をちぎって小豆あんをまぶして食べる「おてのこ」がとても楽しみであった。
 こうしていよいよ大晦日を迎える。その日は朝から母親は「年取りの祝い膳」のご馳走作りに取りかかる。
 年取りの献立は、塩鮭の切り身、卵焼き、きんぴら、のっぺ、ゼンマイの煮しめ、黒豆の煮豆、昆布巻き、それに、ウサギかニワトリの肉の吸い物などであった。当時としては、最高の献立であった。
 年取りは、家によって差があったが午後3時頃からする家が多かった。
 その日は午後2時頃から順番に風呂に入り、こざっぱりした着物に着替えた。そして、真っ白な新米を炊きご飯を仏壇と神棚に供えて、家族全員がお参りをしてから年取り膳に着いた。
 遠地にあって帰省できない家族のいる家では、陰膳(かげぜん)を作って神棚の前に供えた。
 年取りの食事が終わって、母親が後かたづけを終えると、家族全員でコタツに入ってカルタをして遊んだ。家族で遊ぶなどということは、当時は1年に1回きりのことであった。遊びそのものの面白さより、家族全員で遊ぶという事自体が新鮮でいかにも楽しいことに思われた。
 もともと当時は、カルタやトランプなどは、正月に限った遊びであり、ふだんはやるものではないという意識があった。だから、子どもは雨に降り込められて家の中で退屈していてもカルタやトランプをやろうなどとは決して思わなかった。



           

       大正月と小正月

 大晦日に2年参りに神社に行く家もあったが、朝早く初詣に行く家の方が多かった。
 冷え冷えとした朝の社殿に入ると、円形の燭台に沢山のロウソクが灯されていたことを思い出す人もあるであろう。
 しかし当時は、月遅れの正月で最も降雪の多い頃であったため、1晩に1メートル余りの降雪も珍しくなく、のんびりと正月を過ごすことのできない年が多かった。
 年によっては、家中で屋根の雪下ろしをしてから年取りをすることもあった。また、年取りの最中に、大人が学校の除雪に動員されることもあった。
 小正月の15日には、色々な行事や慣習があった。
 その一つに、その朝は決して囲炉裏に足を出してはならないという風習があった。囲炉裏に足を出すとカラスが苗代を荒らすと言い伝えられたからだ。子どもたちはいつもの習慣で朝起きるとすぐに囲炉裏に直行して足を出してしまいそうになり、緊張したものだった。
 また、鳥追いもあった。夜明け前に起きて家の玄関先で鳥追いをした。

ヤッホー、鳥追いだ
 滝の淵の田の中に
 子持ちドリが鳴いていた
 なぜなぜ鳴いていた
 腹が減ったと鳴いていた
 15日のアツケェ食って
 にげろ、逃げろ (下石黒の鳥追い歌)


 夜明けの凍てついたような静寂を破る子どもの甲高い声が、あちこちから聞こえた。

 また、「柿の木ぜめ」の行事もあった。朝作った小豆がゆとナタを持ってカンジキがけで庭の柿の木のそばに行く。
 1人がナタで木の幹を傷つけながら、「ナルカ、ナラヌカ、ナラントナタデ、タタッキルゾ」と言うと、もう1人が「ナリモウス、ナリモウス」と言って切り口に小豆がゆを塗る込む。この問答がサルカニ合戦のやりとりに似ているので子どもたちは喜んでやったものだった。
 どこの家にも庭に柿の木があったので、大抵の家で行った。
 14日の花木飾りも小正月の大事な行事であった。13日に餅をついて花餅を作り、翌14日に山からとってきたダンゴノキ(ミズキ)やヤマモミジの枝に飾った。飾りつけた花の木は、一番大きいものをジョウヤバシラに小さいもは、臼やトウミに飾った。飾り終わると、家の中がすっかり華やぎ、いっそう正月らしい雰囲気になるのだった。

 15日はコドシ〔小正月〕と呼び、暮れの年取り膳と同様のご馳走をして食べた。
 暮れの年取りと異なるところは、ご飯を盛った茶碗に皿を被せて置いて、食べ始めるときに皿を傾けて垂れるしずくの数を数える風習があったことだ。その数が多いほど長生きできるといわれ、子どもたちは緊張して数えたものだった。
資料→子どもの頃の冬の遊び
 正月の屋外での遊びには、羽根つきがあった。羽子板も羽も自分で作った。羽子板は握りに移るところの半円の模様切りが子どもには難しかった。

 
 ムクロジ種子

羽は、ニワトリの羽をムクロジ(新潟県はムクロジの北限であり石黒では上石黒に1本しかなかった)の種子に錐で穴を開けて差し込んで作った。

 また、「穴いっちょう」という遊びもあった。雪をみんなで念入りに踏み固め、穴を一カ所つくる。そこにめいめいが持ち寄ったイチョウの実を決められた位置から投げ入れる。穴に入ると周りのイチョウの実が自分のものになる。「穴いっちょう、かっこめ!」というかけ声とともにイチョウの実を神経を集中して投げるのだった。(落合集落)

 
                   春の陽光

 こうして、二十日正月(はつかしょうがつ)が過ぎると、ヤブには、雪虫(セッケイカワゲラ)も見られるようになり、雪深い石黒にも春の気配が少しずつ感じられるようになるのであった。

資料→アナイッチョウの遊びの思い出
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