大正時代の学校の思い出
                    板畑  中村三一

 私は、大正15年4月に分教場に入学した。3部複式の25名ほどの生徒だったように思われる。
 先生は当地出身の中村先生であった。休み時間には私たちが遊ぶ様子を教務室から、いつもじっと見ていなさる方であった。当時は1日4時間の授業で午前3時間午後1時間で放課でその後、掃除をしたように憶えている。
 当時の思い出のひとつに学年末の3月に学芸会をやる習わしになっていた。いっさい先生の指導は受けずに子ども達が自主的に作ったものを披露したものだった。内容は、朗読、歌、劇などで放課後毎日練習をした。劇は修身を要約したもので親孝行や人に親切、人を助けるといったものが主であった。
 学校での練習は勿論だが帰り道にも暗記したものを朗読したり、歌を歌ったりした。学芸会当日は朝から村人たちが大勢やってくる。劇の最中に婦人たちの涙をさそう一幕もあったことを記憶している。小さな校舎の中は観客でぎっちりで後ろの人は立って見ているほどのこみようであった。
 昭和4年に初めて本校に通いはじめた。校舎の素晴らしく大きかったこと、見たこともない教材用具が沢山並べてあったこと、大きな生徒が沢山いたことなどで、最初のうちは校舎の隅に小さくなっていたものだった。先生は校長先生他3名であった。家から4q余りの坂道を通学するのは大変だった。1ケ月ほどは家に帰るとすっかり疲れて一眠りするほどだった。

 また、思い出としては、7月に入ると下校途中の「ド」と呼ぶ用水池で毎日、水遊びをやったものだ。ため池の持ち主に見つかるのを防ぐために作戦をねった。まず、高学年の生徒がこっそり様子を見に行く。他の者は途中で待避している。先発隊の異常なしの声でドに向かって走ったものだった。
ド〔用水池〕
 用水池でも、左右2人の見張りを交替に立たせ異常があるときにはいつでも逃げられる態勢で遊んだものだった。
 しかし、運悪く突然持ち主がやってくると大声で怒鳴られる。さあ、大変、素早く衣服を持って逃げ去る者、逃げ遅れてこっぴどく叱られ、やっと許されて帰った者もいた。勿論、教科書などは途中の草むらに隠しておいたものであった。お陰で当時はほとんどの者が水泳を憶えた。

 6年生の時だった。満州事変が勃発し村人達は召集を受けた。その人たちを送るために校庭に大人や子どもたちがこぞって日の丸の旗を手に集まったものだった。そして郡境の旭村まで旗をふりながら姿が見えなくなるまで万歳、万歳で送ったことを今でも忘れられない。
 また、当時、青年訓練という組式で週3回校庭で演習が行われた。きびきびした行動を窓ガラス越しに見ていて憧れたものだった。また、恒例の雪の城とり合戦が行われた。校庭に紅白に分かれて雪の城を作り、城の頂上に旗を立てて、それを早く取った方が勝利となるのだ。軍艦マーチを合図に攻め寄せ、よじ登る人、よじ登る人の足を掴んで引きずり下ろす者、大変なもみ合いになるのであった。

                   
「石黒校百年の歩み」より