1 師範学校の設立

 明治5年4月22日文部省は学制発布に先だって小学教師教導場建立の伺いを正院に提出した。これは、従来の教育の欠点を五幣にわたって批判し、特に寺子屋師匠について「大概流落無頼ノ禿人自ラ糊スル不能ルモノニシテ素ヨリ教育ノ何物タルヲ不弁其筆算師ト称シ書読師ト称スルモ纔ニ其一端ニ止ルノミ而其教亦浅々タトヒ之ヲ習フトイヘトモ以テ普ク物理ヲ知ルニ不足其不学ルモノト相去ル不遠」と指摘した。これに対して、新しい教育制度の実施に必要な小校教師の養成機関を設立する趣旨について次のように述べている。

 教育之道ハ其本必ス小学ニ成ル而テ小学ノ教ノ能ク完全ナルヲ得ルユヘンノモノ小学教則ノ能ク斉整スルニアリ小学教則ノ能ク斉整スルユヘンノモノ小学教師ノヨク教則ヲ維持シテ之ヲ教ユルノ正シキヲ得レバナリ夫レ師ノ生徒ニ於ル形ト影トノ如シ形不直シテ影直ナランヲ求ム不可得各国已ニ師表校ノ設アリ宜シク先ツ急ニ師表学校ヲ建立スヘシ。

 この伺いに対して5年5月10日三正院から許しがあって、東京にわが国最初の師範学校を設置することを決定した。文部省は、「東京ニ師範学校ヲ開キ規則ヲ定メ生徒ヲ募集ス」る件の布達を発して、新たに設けられるべき師範学校の趣旨について次のように明らかにした。

 今般東京ニ於テ師範学校ヲ開キ候師範学校ハ小学ノ師範タルヘキモノヲ教導スル処ナリ全体人ノ学問ハ身ヲ保ツノ基礎ニシテ順序階級ヲ誤ラス才能技芸ヲ成長スルニアリ依テ益々小学ヲ開キ人々ヲシテ務テ学ニ就カシムルノ御趣旨ニ候処差向小学ノ師範タルヘキ人ヲ養ヒ候義第一之急務ニ有之且外国ニ於テモ師範教育所ノ設ケ有之ニヨリ其意ヲ取り外国教師ヲ雇ヒ彼国小学ノ規則ヲ取テ新ニ我国小学課業ノ順序ヲ定メ彼ノ成法ニ因テ我教則ヲ立テ以テ他日小学師範ノ人ヲ得ント欲ス。

 五年八月師範学校では、入学試験を実施して合格者五四人の入学を許可し九月から授業を開始した。これよりさき、文部省は学制創定に当たって着手順序を明らかにしたが、その中にも「速ニ師表学校ヲ興スヘキ事」として、「速ニ師表校ヲ興シ小学ノ教員ヲ植成シ順次四方ニ派出セシメ益以テ之ヲ増植シ其教規ヲ正シ以テ務テ小学ノ教員ヲ完斉セシメンヲ欲ス是当今著手第一中ノ尤急務トス」と述べている。「学制」の第39章には、師範学校について小学校ノ外師範学校アリ此校ニアリテハ小学ニ教ル所ノ教則及其教授ノ方法ヲ教授ス当今ニ在リテ極メテ要急ナルモノト此校成就スルニ非サレハ小学ト雖モ完備ナルコト能ハス故ニ急ニ此校ヲ開キ其成就ノ上小学教師タル人ヲ四方ニ派出セントコヲ期ス」と規定している。このように学制頒布に先だって師範学校の設立を具体化したことは、新しい国民教育制度を実施するに際して教員養成の重要性を明らかにしたものであり、学制による教育企画に着手した第一歩が正しく師範学校であったことを示している。

2 創設当時の師範学校教育

 明治五年五月の小学教師教導場建立の伺いにはすでに師範学校教育の形態が明らかにされているが、これに基づいて「東京ニ師範学校ヲ開キ規則ヲ定メ生徒ヲ募集ス」る件の布達には師範学校立校の規則が次のように定められている。

 〇 外国人1人ヲ雇ヒ之ヲ教師トスル事

 〇生徒24人ヲ入レ之ヲ師範学校生徒トスル事

 〇別ニ生徒90人ヲ入レ之ヲ師範学校附小学生徒トスル 事

 〇教師ト生徒ノ間通弁官1人ヲ置ク事

 〇教師24人ノ生徒2教授スルハ一切外国小学ノ規則ヲ以テスル事

 〇24人ノ生徒ハ90人ノ小学生徒ヲ6組ニ分チ其1組ヲ4人ニテ受持チ外国教師ヨリ伝習スル処ノ法ニ因り彼ノ「レッテル」ハ我ノ仮名ニ直シ彼ノ「オールド」ハ我ノ単語ニ改メ其外習字会話口授講義等一切彼ノ成規ニ依り我ノ教則ヲ斟酌シテ之ヲ小学生徒ニ授ク右授受ノ間ニ一種良善ナル我小学教則ヲ構成スヘキ事

 〇生徒ハ和漢通例ノ書及ヒ粗算術ヲ学ヒ得テ年齢20歳以上ノ者タルヘシ然レトモ成丈ケ壮者ヲ選ムヘキ事但試験ノ上入校差許ヘキ事

 〇生徒ハ都テ官費タルヘキ事 但24人ハ1ケ月金10円宛90人ハ1ケ月金8円宛ノ事

 〇生徒入校成業ノ上ハ他途ヨリ出身スルヲ要セス小学幼年ノ生徒ヲ教導スルヲ以テ事業トスヘシ故ニ入校ノ節成業ノ上必ス教育ニ従事スヘキ証書ヲ出スヘキ事

 〇成業ノ上ハ免許ヲ与フ速ニ之ヲ採用シ四方ニ分派シテ小学生徒ノ教師トスヘキコト

 師範学校は右の規則に従って、4年8月に来日して大学南校の教師であった米国人スコットを教師として招聰した。スコットはアメリカにおける師範学校の方法にならって教員養成を開始することとなった。しかし、当時は小学校教則もまだ確定していなかったので、欧米の授業法をもととして小学校教育の方法を確立することと、生徒にこれを伝習することとが師範学校教育の第一歩となった。そのため師範学校においてはアメリカの小学校そのままといってよい教育方法がとり入れられ、スコットが英語で教授をし、坪井玄道が通訳の任に当たった。当時アメリカの小学校で使用していた教科書・教具・機械等をとりよせ、また教場内部の様子も全くアメリカの小学校と同じくして授業を行なうこととした。師範学校生徒の中で学力の優等な者を上等生とし、教師がこれを小学児童とみなして小学校の教科を教授した。上等生はこれにならって下等生を小学児童として教えたのである。当時師範学校校長であった諸葛信澄が六年に出版した「小学教師必携」には、スコットによって伝習された学級教授法が明らかにされている。

 6年2月師範学校に練習小学校を付設した。同年6月には学科を本科と予科に分け、本科は修業手限1年の師範科で予科は余力あるものに高度な普通教育を授けるものとした。7年4四月には本科、予科の名称を廃し、在学期限を2年とした。8年3月には予科教則を設けたが、同年7月にはこれを廃止し、予科生徒の代わりに試験生をおくこととなった。

 文部科学省HPより