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     終   戦
          
     終戦直前のころ

 (※小学生向け→「太平洋戦争の頃の子どもの暮らし」←クリック)

 昭和17年6月のミッドウェー海戦で敗退した日本軍は、次のガダルカナル作戦の失敗で完全に守勢にまわった。さらに昭和19年6月のマリアナ沖海戦、10月にはレイテ沖海戦で敗北、世界最強を誇った艦隊を完全に失ってしまった。

 
                     爆撃機の編隊

 この頃、村では毎朝のように出征兵士の見送りがあった。親に連れられて行ったのか、ついて行ったかはわからないが、子どもが多数その場にいたように思う。
 まず、区長または在郷軍人会の代表と思われる人が、祝辞を述べる。「○○君は、このたび御国のため目出度く出征の・・・」などという言葉は、子ども心にも、集まった人々の気持ちとはかけ離れていることが感じとられた。
 そのあと、出征兵士の挨拶がある。「不肖○○、皇国のために一命を捧げ戦地にて戦って参ります」というような勇ましい挨拶であった。

 まだ、成人したかしないかの若者もいれば、一家の大黒柱もいる。戦局の悪化によって徴兵検査での丙種合格者を含む若年者の徴兵が実施されたからだ。
 出征兵士の挨拶が終わると、万歳三唱をしたあと村人たちは、日の丸の旗を振り、軍歌を歌って出征兵士を村はずれまで送って行く。下石黒では、滝の淵まで送ると、そこで兵士が見えなくなるまで見送ってから帰った。
資料→おもいで
資料→忘れ得ぬこと

 
  学校のグラウンドでの竹槍訓練(高柳−想懐)

 また、この頃、在郷軍人会(補記-在郷軍人会)による本土決戦に備えた訓練の一つとして、村の女性による竹槍訓練も行われた。竹槍を持って、「かまえ!」「つけ!」の号令が飛ぶと、女性たちは「やあ!」というかけ声とともに一斉に突きの動作をする。
 子どもたちは、よくその様子を見物に出かけたが、子どもの目にさえ、ひどく頼りないものとして映った。
 「近代装備の米軍を竹槍で迎え撃つ」という軍部の竹槍主義は、ハナを垂らした子どもにさえ信用されなかったということになろうか。
 昭和20年になると戦局はいよいよ敗色が濃くなった。3月には、硫黄島の日本軍が玉砕、4月には沖縄本土に米軍が上陸した。
 5月には、大空襲で首都東京が焼け野原と化し、8月2日には、長岡市もB29爆撃機
(補記→B29爆撃機の空爆を受け千数百名の死者がでた。
資料→長岡空襲

 
     一年生の国語教科書 昭和19年

 数十キロ離れた石黒でも北東の夜空が赤く染まり、爆弾の音が窓ガラスをふるわせるほどであった。
 石黒村でも灯火管制がしかれ、電灯の笠に黒い布をかけたり、高窓に上げ下ろし式の覆いを取り付けたりした。高窓の覆いは、木枠に黒い厚手の紙を貼ったものであったので、その上に跳びのった猫が紙を破って座敷に落ちて来るというようなこともあった。
 また、灯火管制用の電球も奨励され、多くの家で使われた。
資料→灯火管制及び警報伝達実施計画概要
 



         
   学校生活のようす

 学校では空襲避難訓練も行われるようになった。低学年は、学校のすぐ下の林に、高学年は落合集落に近いブナ林に避難をした。
 当時は、すでに日本は無抵抗に近い状態にあり、全国至る所で戦争の悲劇が繰り広げられていた。
 そこでは多くの子どもたちが命を奪われたり、身寄りを失ったりしていたことは言うまでもない。それにくらべ、ブナの若葉の間から編隊を組んで飛ぶ白銀の爆撃機を美しいものでも見るように眺めていた我々は運がよかったと思わなければならないであろう。
 

 
    一年国語教科書 1941〜1945

 当時、小学校は国民学校と改められ、戦時体制下の教育が行われた。高学年には勤労奉仕の時間が設けられ、農繁期には農作業の手伝いに動員された。
 また、学校には訓練用銃身が備えられていて、軍事教練も行われた。秋の運動会には、紅白軍に分かれて軍事競技が行われ、突撃場面も展開された。
資料→運動会の思い出
 また、日常でも軍事色が強まり、教務室に入るときには、「1年○○、○○先生に用事があって入ります」「帰ります」などと入り口で大声で断ることや、下校時に校門前に横隊に整列して「校舎に対して敬礼!」などと礼をする事を指導された。 

 
  修身の教科書

 教科書も国定教科書であり、軍事色の濃いものであった。音楽の時間には軍歌を歌わされ、家でもよく歌ったものであった。
 当時は、文字を片仮名から平仮名へという順に習った、最初のページは「アカイ、アカイ、アサヒ、アサヒ」だった。旧仮名遣いだったので、「学校」を「ガクカウ」、「蝶々」を「テフテフ」、「今日」を「ケフ」と書かねばならなかった。漢字も旧字体で「学」を「學」、「国」を「國」などと習った。 

 
   修身の教科書 教材文キグチコヘイ

 体育の時間は「体操」と呼び、低学年から整列や行進が厳しく訓練された。「気をつけ」の姿勢では、指の先までピシッと伸びていないと叱られた。
資料→軍歌の思い出
 また、校庭すみの方に直径数メートルのすり鉢状の穴が掘ってあり、その斜面を全速力で円を描くように走った。穴の底には水がたまっていて落ちると大変なので、遠心力を働かせて必死に走る。これは単なる遊びではなく、飛行士になるために必要な能力の訓練とのことだった。

 
              当時の新聞広告

 「修身」の教科では、親孝行や忠君愛国を教えられ、特にかしこまって授業を受けなければならなかった。
 また、当時の学校では、高等科の生徒が勤労奉仕として、出征兵士のいる家の農作業の手伝いにでかけた。(写真)
 そのほか、学校で、出征兵士への慰問袋
(補記→慰問袋)も作った。
 高等科の生徒には職業指導という教科があり、国家総動員のための教育が行われた。
資料→国民学校職業指導教科書−高等科2学年用
 昭和19年には学徒勤労令が出され、中等学校以上のほぼ全員が、軍需工場などに産業戦士として動員されることになった。

 
      高等科生徒の勤労奉仕(高柳−想懐)

資料→学徒動員
資料→終戦の頃の思い出〔学徒動員〕
 また、19年頃から石黒にも、親類を頼って疎開してくる子どもが多くなった。もともと1学級50人近い多人数学級へ、次々と編入する児童があり、60名近い学級も出てくる始末であった。
 都会からやってきた子どもは田舎育ちの子どもには物珍しかったが、疎開してきた子どもの方は慣れない田舎の生活にとまどったであろう。みすぼらしい着物を着て鼻汁をたらした子どもに取り巻かれ、「んな、どっからきたがん?ねら家はどごでぇ?」(君はどこから来たの?どこの家に居るの?)などと聞かれたら言葉も分からず困ったに違いない。
 その上、特に昭和19年から20年の冬は稀にみる豪雪で7メートル近い積雪となり、5月下旬になっても1メートル以上の残雪があった。
 ちなみに高柳町史には、
「12月ハジメカラ降リ出シタ雪ハ、ヤムコトナク降リ続キ大豪雪トナッタ。除雪作業ノタメ村民ハ皆疲労困憊ノ極ニ達シタ」、続いて「春ハ遅ク、厚イ雪ヲ割ッテノ植エ付ケトナリ、山間ノ田圃ニハ、6月中ニ植エ付モデキナイ所モ多数アッタ」と記されている。
 このような稀にみる豪雪の年に、石黒の冬を初体験しなければならなかった疎開の子どもたちの苦労はいかばかりか察するに余りある。ワラ製のフカグツを履きミノボウシに身を包んで、吹雪の道を必死に村の子どもに遅れまいと歩く彼らの姿を誰もが忘れることはないだろう。
資料→戦時中の思い出

資料→疎開
 このころの子どもの遊びは、戦時の影響を色濃く受けたものであった。特に、男の子は毎日のように戦争ごっこに明け暮れた。木の枝の刀剣を腰に差し、カモフラージュの木の枝をかざしながら敵陣めがけて突撃するというような遊びが多かった。
 その頃は、常に敵とはアメリカであり、それは子ども心にも憎むべきものの代名詞であった。雨の日は、神社の杉の大木の下でサイダー瓶のなかに、クロオオアリとアカオオアリを入れて戦わせて遊んだ。このときにもクロオオアリは日本軍であり、アカオオアリはアメリカ軍と決まっていて、アカオオアリが全滅するまでクロオオアリの数を増やすのが常であった  


資料→昔の子どもの遊び

 戦局はいよいよ悪化し、石油や鉄などの資源の供給を絶たれた政府は、軍需物資となり得るあらゆる金属を供出させた。
 一般家庭には金属製の火鉢や金だらいから真鍮の仏具のはてまで献納させた。学校の庭から二宮尊徳像が消えたのもこの頃であった。
 村の道ばたの空き地にこれらが集められ、村人によってハンマーで運びやすいように圧縮する作業が行われた。子どもたちは、その様子をよく見に行った。
 渋い光沢のある銅の火鉢や金色の仏具が無惨に変形していく様子を見ていると、子ども心にも情けない思いがしたものだった。
 その作業中に、「こんげな、のうのさまのもん〔仏具〕まで潰してしまうようじゃ、もう日本は終わりだて」と嘆いた村の老人の言葉は、今も筆者の心に残っている。
〔資料→ラジオが村に入った頃のこと〕


    
   敗戦と物資の不足


 そして、20年の8月には、広島、長崎に原子爆弾が投下され、ソ連が参戦し戦争は終局を迎えた。15日の正午に玉音放送があり、敗戦を知らされた。
 子どもたちも、夏休みの正午の放送だったので家族全員で聴いた者が多かった。
 雑音の多いラジオから伝わる聞き取りにくい天皇の声に耳を傾けたが、子どもには皆目理解できなかった。ただ、祖母から「おまえたも、今までみてぇに学校へ行けるかどうかわからんぞ」などといわれ事の重大さを察し、ただ驚くばかりであった。
 新学期からは、それまでどおり学校へ行くことができたが、進駐軍の占領政策により、教育方針は大きく変わった。

 
             教科書の墨塗り

 1学期になるとまもなく、教科書の墨塗りがあった。それは、教科書の軍国主義的な文章を墨で塗りつぶす作業だった。先生がその理由をどう説明したかは記憶にないが、それまで教科書は、またいでもいけないと教えられてきた子どもにとっては誠に異様な体験であった。国語の教科書などは、130ページのうち80ページを塗りつぶしたというから教科書のほとんどを否定したようなものである。
 そして翌年になると新しい教科書が配られたが、これが、新聞紙大のざら紙に16ページ分が印刷された粗末なものであった。低学年の子どもには、どう切り、どう組んだらよいのかわからないので家に持ち帰って親にやってもらうよりほかなかった。
 教科書の内容も、それまでの軍国主義的なものは一掃されて、詩のような文がやたらと多く、子供心にも何とも気の抜けたような感じを受けたものだった。6年生国語の「ありが、ちょうの羽をひいて行く、ああ、ヨットのようだ。」などという詩を憶えている人もいるだろう。

 昭和22年には教育改革が行われ、国民学校は小学校と改称され、6・3制が発足した。それまでは小学6年を卒業すると、女子の多くは紡績工場に行っていたが、中学校3年まで修学出来るようになった。
資料→東洋紡績で働いた思い

 
 昭和28年通知表→クリック拡大写真

 また、新制高等学校も発足し、県立柏崎農業高校高柳分校が高尾地区に開校した。

資料→昭和23年 小学6年国語教科書
資料→昭和23年 中学2年国語教科書
 この頃は、あらゆる生活物資が不足したが、子どもの学用品も例外ではなかった。学校で使うワラ半紙は、薄く灰色がかっていて藁の繊維がそのまま見えるほど粗末なものだった。
 その上、鉛筆もそれまであった「トンボ」「ヨット」「地球」「コーリン」などのメーカー品が姿を消し、商標もない粗悪品が出回っていた。芯が劣悪で舐めないと濃く書けない、すぐに紙が破れる、芯が折れたので削ろうとすると木部が裂けてしまうという粗末
なものであった。昭和23年ごろになるとようやく使える鉛筆が出回るようになった。当時、鉛筆は1本5円ほどであった。
 鉛筆削りは切り出しナイフを使った。その後、「肥後守〔ひごのかみ〕」と呼ばれる折り畳みナイフが多く使われるようになった。
 また、消しゴムなどもなく、仕方なく指をなめてごしごしこするが、指が汚いのでかえってノートが汚れる、はては破れるという始末であった。 

 
  子ども時代に筆者が愛用した筆入れ
  ※この筆入れを手に入れた思い出(付記)

 仕方がないので、家の縁の下にもぐって、古長靴を探してかかとの部分を切り離して消しゴムの代用とした。ところが、このかかと部分を小刀で切り離すことが子どもには至難の業であった上、消しゴムとしては全く役に立たなかった。
 ゴムといえば、この頃ゴム長靴の特配があった。ゴム長靴など持っている者はほとんどいない時代だから、みんな長靴がほしい。しかし、配給になるのは、学年で2、3足であったから抽選で決めた。当たると宝くじが当たったように喜んだ。家に持って帰ってうれしさの余り、長靴を履いて座敷を歩き回って親に叱られた。
 ところが、それほど子どもを喜ばせた長靴も、履いてから1週間もたたないうちに、ずたずたに切れてしまうような粗悪品であった。

資料 学習机

資料→昭和初期の頃の学用品のこと

資料→石黒校の思い出
ほとんどの子どもは、ワラ草履を履いていて登校していた。しかし雨の降る日は、しっぱね(はね上がる泥水)が背中まで上がるので、裸足で歩くほかない。当時の道は砂利も敷いてなかったし、足の皮も厚くなるのか、裸足もそれほど苦にならなかった。学校に着き入り口の足洗い場で足を洗う時、靴を脱ぐ手間もなく校舎に入れることを「便利だ」とさえ思っていた。
 ただ、途中の道に牛馬や動物の糞が雨に溶けて流れ出していると、少し気持ちが悪くよけて歩いた。

 
        ゴザボウシ

 雨の日の傘はだいたい山笠をかぶったが、ゴザボウシという畳表のようなもので作った雨具もあった。これは軽い上に、雨風の時は前をあわせることができたので便利なものであった。しかし、激しい雨になると雨が裏まで通ってしまうという難点があった。
 通学では板畑集落や居谷集落の子ども達は苦労した。冬季は集落の分校で勉強したが、夏期には4kmの山道を歩いて通学した。道も今日の車道ではなく、砂利も敷いてない山道同然の道であった。板畑の子ども達は、集落から谷底〔松沢川上流〕まで下りてから、急な坂道を大野集落まで上り、そこから再び本校のある谷間を目指して下りるという険しい通学路であった。
 居谷の子どもたちも下校時は、学校からブナ林を上り、落合集落に下りて更に落合坂を上り、そこから眼下に見える自分たちの集落に向けて急な坂道を下りていくのだった。
資料→昔の通学路の思い出
資料→板畑からの通学の思い出 
〔資料→居谷からの通学の思い出
〔資料→冬の通学の思い出

 
  体育館新築工事の基礎用ぐり石運び 寄合川

 終戦直後には生徒児童数が400名を越え、校舎も校庭も手狭になり、校舎の増築やグラウンドの拡張が村人の勤労奉仕により行われた。青年団も協力し、子ども達も作業参加した。体育館の基礎に使う川石も、子ども達が川から拾って背負って運んだ。背負い籠で運ぶ者、木の箱を荷縄で背負って運ぶ者、様々であった。川から、道路まで一列に並んで手渡しで石を運ぶこともあった。〔写真昭和29年〕

 
  石運びの途中で一休み 下石黒地名タキノフチ

 冬になるとフカグツにワラボウシやミノボウシという出で立ちに変わったが、これは雪国の冬の履き物、雨具としては優れたものであった。
 フカグツは軽く且つ保温性にすぐれていた。特に靴底にワラを敷き込むと抜群の履き心地であった。

通学用カバン

 その上フカグツは、凍った雪上でも滑ることはなく安全で耐久性にも優れ、ひと冬に2足もあれば活動的な子どもでも十分であった。また、自家製であるから履く人の足に合ったものを作ることができた。
 それから、ワラボウシやスゲボウシは、脱着が簡単であり、けっこう保温性もあった。特にスゲぼうしは、

 
 縄ない大会−石黒校

民芸品にふさわしい美しさがある上に、降る雪を留めないないという特性もあった。更に耐久性も抜群で十数年にわたって使用できた。
 子ども達も高学年になると自分のワラグツを自ら作る者もいた。学校でも冬休みの宿題にフカグツ作りの課題が出した。小学生の縄ない授業も体育館で実施した。

資料→昭和20年の通知表
資料→昭和23年の通知表





          
    寄生虫とシラミ


 

 こんな時代だから、子どもの衛生環境はよくなかった。大抵の子どもは回虫をもっていた。朝起きると肛門から10pほどの回虫がぶら下がっているということは珍しいことではなかった。(その代わり今日の花粉症やアトピーなどのアレルギーはなかった)中には、たくさんの回虫を嘔吐する者もあったと聞く。
 駆除対策として、学校では一斉に、サントニン、カイニンソウ(海人草)などの虫下しを服用させた。サントニンを飲むと白いもののすべてが黄色く見えた。カイニンソウは、回虫駆除効果のあるマクリという海藻を煮出した汁で1口2口はともかく飯茶碗に1杯は苦痛だった。
 翌日、登校すると下った回虫の数を先生に報告する事になっていた。低学年のうちは、得意げに「なげぇのが6匹」などと発表する子もいた。

 しかし、学校でいくら駆除対策を実行しても、どこの家でも畑の野菜に糞尿を撒いていたので、回虫と人とは共生せざるを得ない時代であった。
 寄生虫といえば、衣ジラミ〔写真上〕や頭ジラミ〔写真下〕が特に終戦前後に蔓延した。ほとんどの女の子の髪には頭ジラミがいて、仲間と互いに卵を潰しあう光景が見られた。女の子の頭ジラミは昭和の半ばごろにも未だ少しは見られたようだ。→資料
 衣ジラミは、発疹チフスを媒介するため定期的に

 
      コロモジラミ

学校で下着を脱がせて検査をした。シラミがいた子どもには家で衣類を煮沸するよう指導していたが効果は少なかった。
 終戦後、DDT粉剤が進駐軍によりアメリカから持ち込まれ、学校でも使用した。えり首から散布器を差し込んでDDT粉剤を吹き込んでもらった時の粉の冷ややかな感触を今も忘れない人が多いだろう。
 女の子は、髪の毛にも散布してもらい、姉さんかぶりをして帰宅した。そして、母親から目の細かい櫛で丹念にすいてシラミの死骸や卵をすき取ってもらった。
 蚤もいたが、シラミほど嫌われなかった。朝起きて寝間着を広げると10匹ほどはいたものだ。抜群の跳躍力をもった蚤を大騒ぎをして捕まえて爪でつぶすのは一種の快感があった。 
 しかし、シラミも蚤もこの画期的な殺虫剤であるDDTの出現により間もなく姿を消すことになる。「DDTの歌」が作られ当時の小学生の愛唱歌となったほどであるから、DDTの劇的な効果が人々に与えた印象はよほど強いものであったにちがいない。(当時、人畜無害とされたDDTの危険性がレイチェル・カーソンの著書「沈黙の春」で、初めて明らかになるのは約20年後のことである)
資料→カイニンソウとDDTの思い出
資料→ハエ、ノミ、シラミ


        
   少年雑誌の発刊


 国内経済はようやく復興に向けて動き出し、
小学生向けの雑誌なども続々と創刊された。

 
 少年たちに人気のあった長編絵物語

 主なものに、「少年」「漫画少年」「おもしろブック」などがある。また、「砂漠の魔王」や「少年王者」などの単行本も発刊された。
 その後、これらの少年雑誌は年々分厚く豪華なものになった。3大付録とか4大付録とか、付録も年々エスカレートしていった。
 とはいえ、当時の石黒では、子どもが毎月雑誌を購読することなど考えられないことだった。
 子どもたちは、たまに買ってもらったものをお互いに回し読みをしていた。1回りして持ち主に戻ってくる頃は、本はすっかり傷んでいるのが常であった。それでもお互いに貸しあって読むことが当たり前のことと思われていたし、途中で本が紛失してし

 
       当時の人気雑誌

まうことはほとんどなかったから、貸すことをいやがる子どももいなかった。
 本の貸し借りといえば、この頃は学校の教科書も、兄弟のお下がりを使うことが普通だった。兄弟のいない子どもは近所の友達から借り受けた。
 新しい教科書もよかったが、先輩のぬくもりの感じられる借りた教科書にも、それなりの良さがあったように思う。
 子どもたちは、学校の図書室にあった、少年少女世界文学全集の「十五少年漂流記」や「三銃士」「ああ無常」などを夢中で読んだものだった。しかし、終戦前後の五、六年間は物資の無い時代で、図書館の蔵書の補充などなかったであろう。
 当時小学生であった筆者は、昭和24年に高田市街の本屋を親に連れられてまわったが、子供向けの本などほとんど見当たらなかった。
 また、昭和22年から昭和25年までラジオドラマ「鐘の鳴る丘」が放送された。子ども達は夕方の放送時間になるとラジオのある家に集まって聞いた。
今もリズミカルなこのテーマ曲を聞くと、70年前の頃が鮮やかに蘇えるようだ。

資料→私の読書の思い出
資料→少年倶楽部
  

       
     食糧難の時代


 また、終戦前後は、都会では極端な食糧不足に陥っていた。「農村だから不自由はなかった」かと言えばそうではなかった。当時は、米の供出の割り当てが厳しく、特に耕地面積の狭い石黒では食生活は貧しいものだった。その上、食料政策の一環としてカテ飯が奨励されたためどこの家でもカテ飯を食べた。
 よく食べたものに、キビ飯、いも飯、菜飯、大根飯、豆飯などがあった。キビ飯やいも飯はおいしく感じられたものだが、豆飯や大根飯は、大抵の子どもは喜ばなかったであろう。
 その他、チャノコや粉餅もよく食べた。どちらもぱさぱさして粘りけがなく味もよくなかった。粉餅は一見、現在の草餅に似ているが、材料も味もまるで違うものだ。
 冬の朝飯は、毎日、粉餅かチャノコであった。いろりのホド(火床)の近くにワタシをおいてその上に粉餅やチャノコを載せて焼いた。直接、ホドのワラ灰の中に入れて焼くこともあった。
 チャノコの中に入れるものは様々である。細かく刻んだ漬け菜を入れる時もあれば、鰯のコヌカ漬けを入れることもあった。栄養価に優れ腹持ちも良い食べ物であったが、子どもには好まれなかった。
 たまに、米のモチを食べると、たまらなくおいしく感じた。しかし米の餅ばかり食べるわけはいかないので、子ども達は先においしくない粉餅を食べるようにしていた。餅には、豆醤油(しょう油の実)やスイコ(味噌豆の煮汁を煮詰めたもの)や黄粉をつけて食べた。砂糖の入らない塩味のきいた黄粉であった。

 こんな時代だから、 おやつにお菓子などはあろうはずがない。どこの家でも子どものおやつは、ゆでたサツマイモやカボチャだった。たいての家では、それらをざるの中に入れ、囲炉裏の上の火棚に上げて置くのだった。
 春には、サツマイモの苗床で苗を採った後の種芋まで茹でて食べた時代であった。
資料→たながらイモ
 子どもたちは、学校から帰ると、まず、そのおやつを食べ、普段着に着替えてから野良仕事の手伝いや遊びに出かけた。
 また、どこの家でも柿やクリの木を植えておくので秋になると採って食べた。
資料→子どもと柿

 
             ツノハシバミの実

 しかし、自然に恵まれた石黒は、天与のおやつが四季を問わず豊富にあった。
 春には、スッカンポスイバナワシログミ、サクランボなど、夏には、キイチゴクワイチゴ、秋には、アケビや、ミヤマツエビヅルヤマボウシ(下写真)、ガマズミブナの実ヤマグリツノハシバミ(上写真)やアキグミイガホオズキなど、冬には、独特の甘さをもったケンポナシの実などがあった。
(石黒の動植物参照)

 
         ヤマボウシの実

 当時の子どもには「試しに食す」という冒険心もあったのか、オカトラノオチガヤの穂の付け根の部分なども食べた。その他、ミズナラの葉についた虫コブまで食べた。虫コブは少し苦みがあったがシロップのような味がした。(下写真)

 
         ミズナラの虫えい

 中にはヤマフジの種を煎って食べ、食べ過ぎて激しいめまいをおこした子どももいた。 
 ガムはなかったが、子どもたちは松ヤニをとって、ガムの代わりにした。しかし、石黒には松の木は少なく、簡単に手に入るものではなかった。代用に杉ヤニを噛んでみたが、柔らかすぎて歯に付着してガムの代わりにはならなかった。
 また、どこの家でも5、6月に身欠きニシンを1、2束買って、ミンジョ(台所)などに天井からぶら下げておいた。ぶら下げておくのは猫に盗られないためであったが、子どもはアシツギ(踏み台)を使って時々これを盗って食べた。
 しかし、子どもとてニシンが貴重な事は知っていたので親の許容範囲を越えた量を盗ることはしなかった。親の方もその程度はしょうがないと見て見ぬ振りをしていたものであろう。
 あの青光りのするねじれた身欠きニシンは、やや渋みがあったがなかなかの味だった。今も忘れられない人が多いに違いない。
 盗って食べると言えば、竹ざるに入った土用干しの梅も、なんとしても2つ3つは食べたい絶品だった。
資料→草花と遊んだ頃のおもいで             





   
   補   遺
       
     少年団による火の用心の夜回り

 当時、今日の子ども会にあたる少年団が組織されていて、様々な活動をしていた。その一つに、防火のための夜回りがあった。
 

火の用心夜回り拍子木

 これは、昭和24年に始められた活動であるが、始めた当座は夜間の活動であることから親たちには賛否両論あった。結局、子どもたちの自主的な活動として認められ、以後長い間続いた。隣近所の子どもが6、7人で1つの班となり1週間交代で行なった。
 夕飯を食べると家を出て、集合場所に集まる。揃ったところで出発する。石黒の村道は坂が多く、当時は砂利も敷いてない道だった。長雨の後などはぬかるみができ、足下に気をつけながら1列になって歩いた。
 拍子木を打って「マッチ1本、火事のもと、火のよーじん」とメガホンを口に当てて一斉に声を張り上げて歩いた。
 春は、のどかな蛙の鳴き声のまっただ中を歩いた。今も、心地よい芽吹きの香りを忘れない。
 夏は、壮大な天の川の真下を歩いた。時々、暗闇を渡る涼風の心地よさを今も忘れない。
 秋は、虫の混声合唱の真ん中を歩いた。秋風が運んできた、稲の甘酸っぱい香りを今も忘れない。
 こうして11月になると夜回りは翌春まで休止となり、拍子木などの用具は、区長の家で保管してもらった。子どもたちは、区よりノート1冊ずつ駄賃としてもらった。


        
    危険物の処理

 どこの集落にも、村道の傍らに危険物入れの箱が3カ所ほど置いてあった。
 当時、そこに捨てられるのは割れたガラス瓶ゃ窓ガラスくらいなものであった。針金やトタンは小さな切れっ端も大切に保存された。
 チャワンカケ(欠けた茶碗)などの壊れた瀬戸物は、縁の下に保存しておいて、時々、鶏に細かく砕いて食べさせた。鶏のスナブクロ(砂嚢)での消化を促進するためだ。
 それは、子どもの仕事で、縁の下からチャワンカケを取り出して、金槌で細かく割って鶏に与えた。すると、鶏は飢えたように食べ、後日に糞に混じって瀬戸物の角がとれて円くなったものが出てきた。そのことが子どもには大きな驚きであった。
 少年団の仕事は、その危険物入れの箱を3ヶ月に1度ほど、村はずれの石油掘削の古井戸(明治の頃に帝石の石油掘削の第1号井は明治3年に石黒で掘られたという記録がある)に捨てることだった。
 集落の戸数は50軒ほどであったが、危険物入れ箱が満杯になっていることはほとんどなかった、のみならず大抵半分にも満たない量であったように思う。
 ともかく、現在と比べると当時のゴミの量は、限りなく無に近かった。



         
       村の葬礼

 当時(昭和20代まで)は、病気になっても滅多に医者にかかることはなかった。医者に診てもらう時にはすでに病状が手遅れのことがほとんどであった。
 したがって、自分の家で最期を迎えることはごく普通のことであった。重い病人がでると、村人たちは「カラス鳴きが悪いから、あの人は、もう長くない」などと噂して気にかけた。
 家で話題となるので子どもたちも、病人のことをいろいろ知った。病気のことばかりではなく、その人の人となりや生き方についても、それとなく伺い知ることができた。
 そして、病人が亡くなると、ノゴシラエ(焼き場の準備)をする人、金銀の紙で蓮の花を作る人、家の片づけや掃除をする人、お斎の準備をする人など、葬式の準備に村中が関わった。
 長い葬列が村はずれの火葬場に向かう様子を、子どもたちはどこからともなく見ていた。嫁取り行列のように近くによって見ることはしなかった。なぜか、葬列のよく見える少し離れた場所から眺めていたように思う。
 行列は終始無言で、連打される鐘の音だけが静かな村に冴え渡って響いた。
 年老いて足腰が弱って葬列に加われない老人も、遠くから手を合わせて見送っていた。
 葬列が出るのは、午後、それも夕暮れ近い頃であった。葬列が火葬場に着くとまもなく、ヤマ(遺体を火葬する仕掛け)に火がつけられる。

 参列者が家に帰る頃には、火葬場から白い煙が上がり、やがて煙の色がくすんでくる頃になると、強い異臭が村中に広がる。 
戸外ばかりか家の中の座敷や寝間にまで異臭は侵入した。
 (火葬場の煙は、必ず死者の家の方に向かってなびくものと聞いていた私は、毎度、煙の行方に注目したものだが、確かに、その通りであったように思われた)
 村人の多くは、そんな時、多かれ少なかれ死について考え、人生について考えた。
 子どもたちとて同じことで、未だ死は遠い先のこととはいえ、家族、とりわけ病みがちの祖父母の死について不吉な想像に捕らえられたものであった。
  こんな夜は、夕食のあと囲炉裏の周りに集まった家族の胸中には、自分たちの息災を喜び、生きていることへの感謝の念が自ずとわいたものであろう。

資料-昔の葬式
参照→衣食住・葬式

※資料→太平洋戦争のころの子どもの暮らし(小学校6学年社会科学習資料-南鯖石小)