衣
仕 事 着
山ギモン
当時は、田畑仕事に行くことを「山に行く」と言い、仕事着を「山ギモン」と呼んだ。
補記-ヤマ
男は、あわせや山ジャツにモモヒキ(股引)をはいて鉢巻きという姿、女は、あわせにモンペをはいて手ぬぐいでほおかむりというのが一般的な仕事着であった。
モモヒキは、脱着も簡単であり、股の部分を左右を重ね合わせる方式であるためズボンに比べるとはるかに動きやすく活動的な衣服であった。
筆者も一時着用した経験があるが優れた作業着であると思う。女性用モモヒキは、やや腰回りを大きめに作ったという。
履き物は、主にワランジやメェゾウリかゴムソク(地下足袋)をはいたが田仕事は裸足であった。
資料→山着物の思い出
資料→昔の普段着と山着物
資料→昔の衣類のこと
ミノと笠
ミノには、背負い具用と雨具用の2種類があった。
|
ソデナシミノ〔ノメシミノ〕 |
背負い具のミノとしては、石黒で最も多く使われていたのは、ノメシミノ(ソデナシミノ)と呼ばれるミノで笠をかぶれば小雨程度は雨具としての役割も果たした。また、休憩や昼食の時には敷物として活用できた。
そのほかバットリ、セナカコウジ(写真下左)、
|
ゴザ箕 |
ドンボミノ等などあった。 専用の雨具用としてはヒロロミノが使われた。また、田の草取りなどではゴザ箕(写真左)も使われた。軽くて日よけとしても役だった。
|
ヒロロミノ |
ヒロロミノ・マワシミノは、ヒロロ(ミヤマカンスゲ)を編んで作ったもので水はけがよく軽く、降雨期の農作業には欠かせないものであった。(ヒロロは1升マスに差して1升幾らで売り買えされることもあったという)
|
セナカコウチ |
笠には、ズボガサ(ヤマガサ・ズンドガサなど集落により呼び名が異なる)とスゲガサ(ノウガサ-糸魚川市能生町が江戸時代からの生産地であったことによる)が多く使われた。その他、スゲガサより大きいコモリガサ(子守笠−背中の子どもも収まる大きさ)もあった。ズボガサは竹とアアケビづるで作られた笠輪(ゴトクと呼んだ)を取り付けてかぶった。スゲガサは頭の当たる部分に小さな座布団状のものを当てて、
|
菅〔スゲ〕笠 |
下駄の緒のようなヒモ(中に5、6本のワラを入れた)を2本付けてあご下で結んでとめた。
※ビデオ資料−ヤマガサの作り方
|
ワラボウシ |
スゲガサは大雨の時に使い、小雨時や日除けとしては、ズボガサが使われることが多かった。(日焼けを嫌う女性は、日よけに大きなスゲガサを使った) 笠の材料となるカサスゲや、ミノの材料となるカンスゲは、初秋に芯部を引き抜くようにして採取し天日で乾かして置き、冬季に、ミノや笠を作った。 ボウシにはスゲボウシやワラボウシ、ミノボウシがあったが、
|
ミノボウシ |
ミノボウシ→〔民具篇参照〕は、ワラボウシ(写真上)に比べ見栄えがよいばかりか、軽くて、長持ちするため珍重された。上手の人が作ったミノボウシには、正に民芸品と呼ぶにふさわしい風格があった。
|
ミノボウシ |
のみならず、保温もよく、降る雪も表面にとどまることなく滑り落ちるためにワラボウシのように時々雪を振るい落とす必要もなかった。
資料→ミノのいろいろ
民具補説→ヒロロとヒロロミノ
動画資料→スゲボウシの裏の編み方-前篇
動画資料→スゲボウシの裏の編み方-後篇
資料→馬とミノボウシ
寝 具
ヨオゥギ(夜着)
夜着は石黒では「ヨォゥギ」と呼んだ。ヨォゥギは大きな綿入れのような作りの掛け布団(下写真)であり、肩が冷えないという長所はあったが、当時は上質の綿が使われることが少なかったので重いという短所もあった。そのため病人のヨォウギを天井からヒモでつるすこともあった。
|
ヨウギ |
ヨォゥギのえりに当たる部分には、黒や紺の布を当てておいて時々洗って取り替えた。この布を「ハエリ」と呼んだ。 また、そのころは寝具は敷きっぱなしにしておく生活習慣で、布団干しをする習慣もなかった。
太平洋戦争直前から、石黒でもワタ(綿)を栽培した。(戦争で輸入が十分出来ないため政府が奨励したもの)綿畑はそれほど広くなかったが、春に種をまき7月には芽止めと草取りをした。9月にはワタ(実綿)を摘み取り、種を取り除いてそれを業者に売り渡した。
資料→夜着の思い出
資料→ワタつみの手伝いの思い出
資料→布団づくりの思い出
クズ布団
クズ布団とは、稲ワラの鞘の部分をすぐり取り、それを布袋の中に詰めて作った敷き布団で、主に冬季に使われた。クズの入れ替えは一冬に2、3回行う家が多かった。作った時はクッションがきいて心地よいものであったが、じきに圧縮されて薄くなった。 また、クズ布団が使われる以前は、寝間の床いっぱいに敷き込んでその上にムシロを敷いて敷布団の代わりとした。
この場合は、部屋の入り口を、30pほどの板で囲いワラくずが飛び出さないようにして工夫した。
また、家によっては、寝間にワラクズを敷きこみ、その上にゴザを敷いて、特に掛布団というものもなく寝間着をかけた上に直にワラクズをかけて寝たものであるという。
古老の話では「寒中の頃に寝床に入った時のゴザの冷たさが今でも忘れなれない」ということであった。決して大昔の話ではない、昭和二十年(1945)代のことである。
一方、クズ布団はノミの発生源となるばかりか、ほこりが多く出るため衛生的に問題があった。
資料→クズ布団の思い出
資料→クズ布団
蚊 帳
当時は、夏になると、おびただしい蚊が発生した。夏季にはどこの家でも蚊帳を使用した。寝間の四隅の柱に金具を付けて蚊帳の釣り手と結んで張った。(下写真)
出入りには蚊が侵入しないように特に注意した。蚊帳が張られると、子供たちは最初は物珍しく遊び半分で出入りをして、よく大人にしかられた。また、蛍を捕まえて蚊帳の中に放して遊んだりした。
|
蚊帳〔かや〕 |
蚊帳の中から、子供の頃に見た外の景観が霞みがかって妙に幻想的であったことを憶えている。 蚊帳の材質は麻と木綿があり値段に差があった。 色は汚れの目立たない鮮やかな、もえぎ染めのものが多かった。大きさは1帖、2帖と「帖」の単位で表した。 資料→蚊帳と夕立の思い出
資料→古文書にられる蚊帳の祝儀
履 き 物
ワラグツとカンジキ
ワラグツは、冬季の雪道を歩くには優れた履き物であった。
|
ワラグツ |
石黒では、クツと呼ばれた突っ掛けのようなワラグツ(右写真)とフカグツと呼ばれる長靴(下写真)が多く使われていた。
|
フカグツ |
クツは、フカグツに比べ簡単に作れる上に、サンダルのように手軽に使える重宝な履き物であった。大抵の家の玄関には何足か置いてあり、隣近所に行く時などに使われた。
一方、フカグツは、作るには手間がかかったが、降雪時や遠くに出かけるときには欠かせない履き物であった。子供たちの冬の履き物はこのフカグツであった。 当時、ゴム長を持っている子供はごく少なかったうえに、靴底が摩滅すると滑るので危険であった。(ゴム長の底がすり減ると荒縄を巻いて滑り止めにした)それに比べて、フカグツは凍った雪面を歩いても滑らず安全性においても優れていた。フカグツは耐久性にも優れ、一冬に2足もあれば足りた。高等科(中学生)になると自分のフカグツは自分で作った。
また、保温性もよく、靴底に敷き込んだワラを入れ替えて使うと常に履き心地が良かった。
また、スキーやカンジキを履くとき、フカグツはゴム長靴に比べしっかりと固定するという長所もあった。ただ、春先の雪解け時期には、水がしみ込みやすいという短所もあった。
その他、ワラ製の履き物としては、ワラジ、ゾウリ、足中、オソカケ、シブガランジ、ハバキ(参照→民具)などが使用された。ハバキは、乾燥したガマの葉を使ったものが軽くて使いやすいと言われた。
また、道に砂利など敷かれてなかった昔は足中もよく使われた。足中はかかとの部分がはみ出すことにより水の跳ね上がりを防ぐばかりか、体のかかとの部分が直接地面にあたることで体のバランスをとることが出来た。慣れるまでには少し時間がかかるので、履いて見ない人にはその良さはわからないであろう。
資料→ワラゾウリの思い出
資料→ワラグツのいろいろ
カンジキ
カンジキ(下写真左)は、25×30cmほどの小型のものから、30×40cmほどの大型のもの、更により大型のスカリ(下写真右)と呼ばれるカンジキもあった。
スカリは、楕円形と円形の両方の型が使われた。石黒地区で使われたスカリは円形が圧倒的に多いようだ。おそらく、円形スカリは幅が広く歩きにくいが雪を押さえる点では優れていたためであろう。
|
カンジキとスカリ |
いずれも先端に縄をつけて手で引き上げるようにして歩いた。 石黒のカンジキのつくりは単輪〔一本の木や竹で輪を作る〕がほとんどで、用材はヤマダケや柳の木が使われた。
(補記-スカリ)
下 駄
下駄は、夏場の中心的な履き物として、常に玄関に家族全員分が置いてあった。
一般に使われたのが駒下駄(写真下)で、その他、女の子が履くポックリや足駄、雨の日に履く爪革の付いた高足駄などもあった。
|
駒下駄 |
毎年、盆が近づくと門出村から下駄屋が各戸を回って「盆下駄」を売って歩いた。(下駄屋は桐の木の買い付けもした) 子供も毎年、新しい下駄を買ってもらい、お盆の墓参りの日から履き始めることを楽しみにしていた。 しかし、桐下駄は、高価なので子供用の下駄の多くはカワクルミ(サワグルミ)やホオ(朴)材のものが多かった。
下駄の鼻緒もいろいろ取りそろえてあり好きなものを選び、その場ですげてもらった。
また、下駄にはどこの家でも屋号の焼き印を押して大切に使った。
鼻緒のきつい新しい下駄をはいて家族そろって墓参りに行った夏の夕暮れを懐かしく思い出す人もいるだろう。
資料→下駄屋
そ の 他
ツ ギ モ ン
石黒では、「ツギ」という言葉には、布そのものを指す意味と、衣服の破れを繕う行為を表す意味があった。
つまり、「赤いツギ」と言ったり「夜なべにツギをする」や「ツギもんをする」などと言った。
当時の衣服の布は、木綿がほとんどで今日の合成繊維に比べて耐久性に欠け、膝頭などはすり切れて穴が空きやすかった。すり切れて穴があくとツギを当てて繕い、また穴があくと同様に繕った。こうして、衣服はツギハギだらけになるまで修理して使い、最後は雑巾にして使いきった。だから、当時は、小さな布きれも洗濯をして大切に保存しておいた。
その他、家族の布団作りやキモン(アワセギモンと冬季用のワタイレギモン)作りも欠かせない仕事であった。数年がかりで順番に家族全員のものを作り替えた。
綿は、筆者の家では、夏の内に漆島村の綿屋に出して打ち直しをした。打ち直すと量が減るので新しい綿を買って補った。
ほぐした着物の布は洗い張りをして何度も使った。(子供の着物は、縫い上げをおろして身長に合わせた)
キモン作りはイロリ端でもできたが、布団作りは場所をとるので火の気のない部屋ですることが多かった。布団つくりを手伝った子供のころ、綿を包む真綿が、母の手のアカギレに触れるたびにパチパチと草小豆のはぜるような音がしたことをおぼえている。
ツギは、女の仕事で、山仕事と炊事仕事の合間に夜なべ仕事として行われたが、特に山仕事のできない冬季や雨の日などにまとめて行うことも多かった。
資料→ツギハギをした衣服の思い出
資料→布団作りの思い出
民具補説−裁ち板
みしぼし(虫干し)
ミシボシは、秋の土用(立秋前の18日間)の晴天続きを選んでおこなった。
|
長持ち |
ヘヤ(寝室)とクラ(土蔵)のタンスや長持ち(右写真)の中にしまって置いた衣類をニワ(家の前の広い場所)に張り巡らした縄に掛けたり、地面に敷いたムシロの上に広げて干した。
高価な衣類は開け払った家の中で陰干にした。
また、座敷や寝室の畳やムシロをはいで床板の上を掃き、畳やムシロを天日に当てる「ノンバキ」と呼ぶ大掃除も一家総出で行った。 天日で乾かしたムシロは二人で端を持って棒で叩いて埃を取り除いた。 夏の昼下がり、パンパンとムシロをたたく音があちこちから聞こえて来るのも忘れられない土用の風物詩であった。当時は「ノンバキ」の語源が「ノミ掃き」と誰でも思うほどノミが発生した。 しかし、終戦直後に、殺虫剤のDDTがアメリカから入って使われるようになり、床一面にDDTを撒いてムシロを敷くようなるとノミは姿を消した。その効果は実に驚くべきものであった。当時は人畜無害と言われて学校でもシラミ退治のため児童生徒の頭からシャツの下までたっぷりと散布された。筆者もその一人であり背中に吹き込まれる冷ややかな粉の感じを今も覚えている。
こうして、DDТは当時の衛生環境の改善に著しく貢献したが、その後、その毒性が分かり1981年より製造と輸入が禁止されている。
資料→虫干しの思い出
資料→DDTについて
衣服の洗濯
衣服の洗濯は、タライの中でセンタクイタ(洗濯板)を使ってした。
水は、つるべや手押しポンプで汲み上げた。赤ん坊のオシメなどの汚れ物は川で洗濯をすることが多かった。 石鹸は固形の洗濯石鹸が使われた。
当時の洗濯は、このようにすべて手洗いで大変に時間がかかったので、下着なども今日のように頻繁には洗うことはできず、5、6日に一度くらいであった。
|
炭火アイロン |
とは言え、大家族であったから洗濯物は毎日あったし、幼児がいればオシメ洗いもあり、洗濯は女性の毎日の仕事であった。 農作業と炊事仕事、ツギ仕事のあいまに洗濯までしなければならない当時の主婦の労苦は並大抵ではなかった。
外出用のワイシャツなどのアイロンがけは、炭火アイロン(上写真)や火のしやコテを使った。
また、着物は、解きほぐして洗い、糊付けをする洗い張りも行われた。
資料→洗濯の思い出
資料−ホウノキの股木を使った洗濯干し竿
|