椎谷陣屋跡 
 
    椎谷陣屋跡は、柏崎市大字椎谷打越に所在する。江戸時代に椎谷地区ほか刈羽郡の一部などを領した椎谷藩(1616~1871)が設けた陣屋の跡である。
  藩租の堀直之は、草創期の幕閣に参画し、江戸町奉行や寺社奉行などの重要な役職に就いた。歴代の藩主も若年寄りや大番頭、奏者番などの要職を務めている。
 石高は5千5百石であったが、のちに1万石となった。藩主は江戸定府であったため、領内の統治は陣屋でおこなった。当初、椎谷藩は西山町妙法寺の超願寺を仮陣屋としていたが、元和5年(1619)には椎谷に陣屋を設けた。その後、元禄年間には椎谷字「唐見の前-からみのさき」に移されたという。現在の字「打越」に構えたのは、正徳5年(1715)、5代直央(なおなかの時代である。
 陣屋は日本海を望む独立丘陵上にあり、麓には北國街道(現国道)に沿って展開した椎谷の町屋が広がっている。丘陵は約150m×300mくらいの大きさで内部には状の平坦地が造成されている。約30坪の範囲に、かっては陣屋を構成する各施設が築かれていた。
 陣屋の中心となるのは、丘陵頂部の平坦面である。平坦面は53m×70mと広く、現在石碑のある付近に藩邸が構えられ、その左手に砲術稽古場、正面に馬場などが設けられていた。海側は長さ90m、高さ4mほどのL字状の土塁によって囲まれている。敵襲や浜風に備えたものであろう。また、中心部に隣接して階段状に郭が設けられている。上から武器蔵、籾蔵、役所、長屋などが続いていた。長屋は藩士等の住居地であり、上級藩士の屋敷などと共に陣屋の中心を取り巻いている。そのほか、陣屋には表門・裏門があったとされる。表門は、砲術稽古場のちかくにあり、石段を下ってクランク状(S字状)の通路を経ると街道に至る。裏門は武器蔵の海側にあり、斜面を下ると同じく街道にいたる。
 慶応⒋年(1868-明治元年)、陣屋は戊辰戦争によって全焼したため、当時の建物などは残されていないが稲荷神を祀った堂と鳥居がある(写真)
 現在でも、地元では「お屋敷」と呼ばれている。また、土塁や郭の遺構が良好に保存されており江戸時代の面影を見ることができる。
(現地案内板による)
 
 
 撮影 2017.10.11