明治6年 地券取調べ出勤並び下調べ諸入費付け立て帳  田辺重順家文書  用語の手引き
  地券


付け立帳


明治六年  
       亥8月29日
      地券取調べ出勤並びに下調べ諸入費附け立て帳
       明治6年 
 


※蝋燭l代→33貫280文から夜勤も行ったものであろうか。


〇 貫,、文


戸長


飛脚



※名寄→名寄帳か


出役


女谷


折居



清水谷
 
     記
 一 銭 二十一貫七百五十文
    これは筆墨印肉㈹

 一 〃 三十一貫二百八十五文
    これは蝋燭の㈹

 一 〃 十六貫七百吾十文
    これは組合戸長三夜付け
     夜食料

 一 〃 四貫七百吾十文
    これは飛脚二度領

 一 〃 四十五文
    これは名寄町出役頼み料

 一 〃 十五貫文
    これは柏崎にて女谷 折居 清水谷
     てま(手間)料  
  郷宿


※勤宿料→宿泊料のことであろう
 
 一 九十八貫五百九十九文
    これは地券下調べ請け調べ
    内山ふくた(意味不明)代

 ※この二行抹消

 一 五十二貫五百文
    これは地券取調べの節郷宿
    払い方取り替え利足

 〆て二百八十五貫六百三十四文

 一 金 十四両一分也 田辺重五郎
  これは二月七日より三月二十四日まで二十五日勤宿料

 一 金 六両一分也  田辺重才門
  これは二月二十八日より三月二十四日迄二十五日勤宿料

 一 金 十三両一分也  小山宇才門
   二月七日(より)四月一日まで五十三日勤宿料 

 一金 十二両一分也 田辺九郎次
  二月九日より三月二十九日迄四十九日勤宿料
※この行は次頁と重複   
  〇出宿料→見舞い出宿料の意味不明。 
  
 一 金 十二両三分也   大橋与三次
   これは二月九日より四月一日まで五十一日勤宿料

 一 金 八両三分也    田辺孫八
   これは二月十六日より同二十五日迄同二十八日より三月二十四日迄
                       三十五日勤宿料

 一 金 二両二分也    大橋庄五郎
   これは三月十四日より同二十四日迄十一日勤宿料

 一 金 一両二分也    田辺三平
   これは二月二十五非より三月二日まで六日勤宿料

   これは二月二十五日より三月二日迄六日勤宿料
 一 金 一両二分也    矢沢松平

 一 金 二分一朱也    小林名之平 二泊り
   これは両人三泊り    々 源八 一泊り

 一 金 二分二朱也    大橋四五平
   これは地券の節見舞い出宿料

 一 金 二分也      小林名之平
   右同断

 一 金 一分也      大橋庄五郎
   右同断
  惣斗→総計の意味か

〇一筆限り
 
 
 一 金 二分也      大橋文蔵
     右同断

 一 金 一両三分也    田辺重五郎
    これは惣斗(総計?)書上げの節 七日謹宿料

 一 金 二両二分也    同人
    これは惣斗書上げ並びに一筆限り帳書上げの節
    四月二十四日より五月三日まで十日謹宿料

 一 金 三分也      同人
    これは丙の辰年出生人書上げの節
    四月二十四日より五月三日まで十日謹宿料

 一 金 一両一分也    同人
    これは八月四日より同八日迄五日謹宿料

 一 金 一両也     小山宇才門
    これは八月四日より七日まで四日謹宿料
    若者(?)呼立ての節謹宿料

 一 金 三分也     田辺清九郎
    これは若者呼立ての節八月四日より七日まで
    四日謹宿料
  一筆帳


※荷夫→担夫(たんぷ)のことであろう。


 
 一 金 一分二朱也 小三郎
   これは町地券の節町向(迎)え
       一泊り二日謹宿料

 一 金 一分ニ朱也    同人
   これは一筆帳 書上げの節町荷夫謹宿料

 一 金 二分二朱     重栄
   これは地券の節町向(迎)え荷夫謹宿料

 一 金 三分三朱也    長八
   これは地券の節御用荷夫五泊り謹宿料

 一 金 三朱也      半次郎
   これは一筆の節町一泊り二日謹宿料

 一 金 四両二分也    小山宇才門
   これは名寄者 かえ名賃(?)
 合 金九十両三分三朱也 
   〇勤斗→「これより地券割り立会人日数並びに勤斗共□□□」は、これ以後の記載事項の内容を示す文。勤斗は支払った賃銭のことであろう。日数は延べ人数で書き表されている。
  これより地券割り立会い人 日数並びに謹斗共
               □□□□
 一 銭 一貫五百八十五文   重五郎
     これは六人

 一 銭 一貫百三十五文    九郎次
     これは五人

 一 銭 九百八文       宇才門
     これは四人

 一 銭 六百八十文      孫八
     これは三人

 一 銭 九百八文       庄五郎
     これは四人

 一 銭 二百二十七文     伝三郎
     これは一人

 一 銭 九百八文       名之平
   〇勤料→勤務報酬
※上欄の
勤斗勤料のことではないか。
  
 一 銭 一貫三百六十二文 与三次
     これは六人

 一 銭 二百二十七文   三平
     これは一人
 〆て 九貫八十文
  〇銭 十一貫五百七十七文
     〇十五貫三百文
    内
 一 五人
  一貫百三十五文     重五郎

 一 五人         宇才門
  一貫百三十五文

 一 九百八文       九郎次
   これは四月勤料  
 一 一貫百三住五文    与三次
    右同断

 一 一貫百三十五文    庄五郎
    右同断
 
   〇郷宿
  一 一貫百三十五文   孫八
    右同断

 一 一貫百三十五文   四五平
    右同断

 一 一貫百三十五文   松平
    右同断

 一 一貫百三十五文   伝三郎
    右同断

 一 一貫
 一 四百吾十四文    重代
    右同断

 小以 十二貫五百七十七文  
    これは米一俵   清九郎

 一 四十二貫五百文
    これは地券取調べの節郷宿
    払い方取り替え利息
 
  〇勝願寺→市内大久保の勝願寺であるかどうかは分からない。


〇浄興寺


〇印税割り


※地券価金割り→地券に示された地価金額を基にした割り当て法であろう。


〇高割り→各人の持高にに応じた割り当てでうろか。 
  一 金 一両也     九郎次
    これは一筆帳の節書き上げ納三泊り共
                  謹宿料

 人数百二十四人
 一 銭六十四貫二百文
    これは地券取調べの人速料

 一 金 一両也
    これは

  合  金 九十二両三分三朱
     銭 五百五十一貫九百五十九文

 一 永 二百七十二文五分    勝願寺

 一 永 六寛三百八文五分    浄興寺

 一 永 二貫百六十文六分    印税割り

 一 永 三貫六百五十文一分   同追割り

 一 永 三貫三百四十九文五分  地券価金
                   割り
 一 永 三貫九百に十三文三分  高割り  
  〇地券元区高割





〇旧高割り











関連文書-当酉伝馬人足帳-明治6年-石黒村
 一 永九百十二文  地券元区高
              割り

             右同断
 一 永 一貫三百二十五文二分 価金割り

 〆て 永十七貫九百十一文
 鐚にて
  百七十九貫十七文
   これは組合拝賦の表(?)

  合 金九十二両三分三朱也
    銭七百三十貫九百七十一文
     鐚にて千六百七十貫□□□□

      内
     八百三十五貫百七十六文
             旧高割り
     八百三十五貫百七十六文
             代価割り
       但し 高一石に付き
          銭四貫九十文

  外に
  金二分二朱也   仲使い荷夫 
 
      〇地租改正と地券作成作業について 
※ 「明治6年 地券取調出勤並下調諸入費附立帳」(石黒村)
 明治政府は、前年(明治5年)における壬申地券(じんしんちけん)の制度の挫折を受けて、翌明治6年(1873)7月、下記の事項を骨子とした地租改正例を公布し、地租改正に着手した。
 ① 民有地の地券交付による所有権の確認
 ② 土地所有者は地下の3%を地租として貨幣で納める。
 ③ 土地の所有者を納税者とする。
 これらを実現するためには新潟県は広大な耕地と割地(村の耕作地を 一定期間ごとに分割して村民に割り当て、期間が来ると割り当てなおす習慣)。永小作権(一般には普通小作とは異なり永小作人の地位は独立しており、それは分割所有権的性格をもっていたとされる)など複雑な土地所有権をもつ農村県であったため改租改正作業は困難を極めた。
 主な作業内容は、「土地測量と所有権の確定」と「土地の等級と反当たりの収穫量の決定」であったが、とくに土地の等級と反当たりの収穫量の決定では官民の厳しい対立が生じた。
また、地租改正の諸作業、会合、出張などの費用はすべて農民の負担であり、地租改正に費やした民費は実に全国一であった。その原因としては
 ① 壬申地券(明治5年発行)調査から地租改正への移行に混乱   があったこと。  
 ② 冬季の実地測量ができなかったこと。
   ③ 減額運動の長期化。
 ④ 事業の最中に柏崎県、佐渡県の新潟県との合併が行われたこと、などがあげられる。
 この作業は多くの労力と日数、費用を費やして進められたが、直接、個々人の利害にかかわることであり、それをまとめる責任者である戸長の役割は大変なものであったと思われる。まさに、それは、はじめに政府の予定地粗(旧貢租水準を保つ)ありきの、上からの押し付けのもとに行われた作業であった。
 
本古文書「明治六年 地券取調べ出勤並下調べ諸入費附立帳」(石黒村)は、当時の作業に要した費用の明細を記入したものであるが、勤宿料、人足料、飛脚料、はては筆墨、蝋燭代まで、実に支出総額は金92両余、銭730貫は明治初めのインフレ時で1両7000文としても100両をこえているのではなかろうか。 両者合わせると200両を越えているということになろう。換算等に自信はないが維新時1両が2万円としても400万円余の出費であったのではなかろうか。
 こうした強引な地租改正であったために農民の激しい抵抗を受けながらも県の示した地価、地租を実現して事業は終了した。
 全国的には6%の減租となったが、新潟県では田畑の面積は2倍以上となり地租総額は16%の増額となった。結果としては、柏崎が属する西半部(現在の長岡以西)では30%の増徴となりで農民への負担は増大したのであった

(参考文献 国史大辞典 県民百科事典 柏崎市史)
 
 関連文書-当酉伝馬人足帳-明治6年-石黒村
 読み下し・用語手引き・備考文責 大橋寿一郎