明治6年 地券取調べ出勤並び下調べ諸入費付け立て帳 田辺重順家文書 |
用語の手引き |
|
〇地券
〇付け立帳
〇明治六年 |
亥8月29日
地券取調べ出勤並びに下調べ諸入費附け立て帳
明治6年 |
|
〇銭
※蝋燭l代→33貫280文から夜勤も行ったものであろうか。
〇 貫,、文
〇戸長
〇飛脚料
※名寄→名寄帳か
〇出役
〇女谷
〇折居
〇清水谷 |
|
|
〇郷宿
※勤宿料→宿泊料のことであろう。 |
|
|
〇出宿料→見舞い出宿料の意味不明。 |
|
|
※惣斗→総計の意味か
〇一筆限り
|
|
|
〇一筆帳
※荷夫→担夫(たんぷ)のことであろう。
|
|
|
〇勤斗→「これより地券割り立会人日数並びに勤斗共□□□」は、これ以後の記載事項の内容を示す文。勤斗は支払った賃銭のことであろう。日数は延べ人数で書き表されている。 |
|
|
〇勤料→勤務報酬
※上欄の勤斗は勤料のことではないか。 |
|
|
〇郷宿 |
|
|
〇勝願寺→市内大久保の勝願寺であるかどうかは分からない。
〇浄興寺
〇印税割り
※地券価金割り→地券に示された地価金額を基にした割り当て法であろう。
〇高割り→各人の持高にに応じた割り当てでうろか。 |
|
|
〇地券元区高割
〇鐚
〇旧高割り
※関連文書-当酉伝馬人足帳-明治6年-石黒村 |
|
〇地租改正と地券作成作業について
※ 「明治6年 地券取調出勤並下調諸入費附立帳」(石黒村)
明治政府は、前年(明治5年)における壬申地券(じんしんちけん)の制度の挫折を受けて、翌明治6年(1873)7月、下記の事項を骨子とした地租改正例を公布し、地租改正に着手した。
① 民有地の地券交付による所有権の確認
② 土地所有者は地下の3%を地租として貨幣で納める。
③ 土地の所有者を納税者とする。
これらを実現するためには新潟県は広大な耕地と割地(村の耕作地を 一定期間ごとに分割して村民に割り当て、期間が来ると割り当てなおす習慣)。永小作権(一般には普通小作とは異なり永小作人の地位は独立しており、それは分割所有権的性格をもっていたとされる)など複雑な土地所有権をもつ農村県であったため改租改正作業は困難を極めた。
主な作業内容は、「土地測量と所有権の確定」と「土地の等級と反当たりの収穫量の決定」であったが、とくに土地の等級と反当たりの収穫量の決定では官民の厳しい対立が生じた。
また、地租改正の諸作業、会合、出張などの費用はすべて農民の負担であり、地租改正に費やした民費は実に全国一であった。その原因としては
① 壬申地券(明治5年発行)調査から地租改正への移行に混乱 があったこと。
② 冬季の実地測量ができなかったこと。
|
|
③ 減額運動の長期化。
④ 事業の最中に柏崎県、佐渡県の新潟県との合併が行われたこと、などがあげられる。
この作業は多くの労力と日数、費用を費やして進められたが、直接、個々人の利害にかかわることであり、それをまとめる責任者である戸長の役割は大変なものであったと思われる。まさに、それは、はじめに政府の予定地粗(旧貢租水準を保つ)ありきの、上からの押し付けのもとに行われた作業であった。
本古文書「明治六年 地券取調べ出勤並下調べ諸入費附立帳」(石黒村)は、当時の作業に要した費用の明細を記入したものであるが、勤宿料、人足料、飛脚料、はては筆墨、蝋燭代まで、実に支出総額は金92両余、銭730貫は明治初めのインフレ時で1両7000文としても100両をこえているのではなかろうか。 両者合わせると200両を越えているということになろう。換算等に自信はないが維新時1両が2万円としても400万円余の出費であったのではなかろうか。
こうした強引な地租改正であったために農民の激しい抵抗を受けながらも県の示した地価、地租を実現して事業は終了した。
全国的には6%の減租となったが、新潟県では田畑の面積は2倍以上となり地租総額は16%の増額となった。結果としては、柏崎が属する西半部(現在の長岡以西)では30%の増徴となりで農民への負担は増大したのであった。
(参考文献 国史大辞典 県民百科事典 柏崎市史)
関連文書-当酉伝馬人足帳-明治6年-石黒村 |
|
読み下し・用語手引き・備考文責 大橋寿一郎 |
|
|
|