本文書には、年月日の記載がないが、村の家数と干支、庄屋名などを基に調べてみたい。
高柳町史のP-383に天和~明治の各村の戸数と人口の一覧表が掲載されている。この表にある「石黒村戸数、174軒、役家1、潰棟13」のキーワードで調べると天保2年が該当する。
ここでの「潰棟」とは「無田」ないし「水呑み」を指すものであり、また、「役家壱軒」とは具体的には庄屋を指すのではないかと思うが、御指導を仰ぎたい。
次に、残160軒の高、つまり田畑の収穫量であるが「高1石2斗以上が27軒、高1石2斗以下が133軒」とある。1石2斗は12斗であり米3俵に過ぎない。
さらに、調べて見ると天保2年の石黒村の総石高はおよそ170石である。これをもとに年貢が差し引かれる。
文政期の資料では、田畑(本途物成)のみに限っても47石7斗余の年貢額(28%)であり総高170石から差し引くと残りは123石となる。
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さて、ここから、1軒平均を算出すると実に0.7石に過ぎない。当時の家族は5~6人というところであろうから、2俵足らずの米ではどこにも足りなかったであろう。いわゆる石黒では「隠し田」と呼ばれた隠田もあったであろうが極めて劣悪な場所にあり、収穫量も少ない田であった。筆者は実際にそうした田の跡を巡ってみたが山の中腹に雪解け水を頼りに作られ、7月の半ばに未だ残雪の見られるような場所もあった。余談であるが、その田の持ち主は、7月入ってから田の近くで山菜のウドを毎年採ったという古老の話も聞いた。
ちなみに、筆者の手元にある資料を基に算出した近郷の村の平均値は、女谷村は5.4石、折居村は1.3石、野田村は6.2石である。
土質は肥沃であったが地形的に耕地に恵まれない石黒は、刈羽郡内で最も貧困な村の一つであったと思われる。
それゆえに、カラムシの栽培をして青苧から白布を織る仕事がほとんどの家で古くから盛んにおこなわれたものにちがいない。
参考資料 石黒の動植物 カラムシ
刈羽郡石黒村検地帳
(読み下し・文責 大橋寿一郎) |