恐れ乍ら書付を以て嘆願奉り候 - 御料所継続願  
  本       文
 
恐れ乍ら書付を以て嘆願奉り候
   越後の国刈羽郡当時
松平越中の守柏崎御預り所
 高 八百五十石二斗三升一合  山室村
 高 三百七十三石三斗六升九合 大沢村
 高 五百三十三石一斗五升六合 岡野町村
 高 二百十一石八斗八升五合  高尾村

 
 
 
高 百五十五石九斗九升一合  山中村
〆高 二千百二十四石六斗二升九合
右村々先前より御料所に罷り在り村々、平穏に相続罷り在り候處、去暮中より会津様御領分の内、奥州並びに
安房国にて五万石程御上知に相成り、右御替地当国に
おいて御村替に相成り候趣且つ又久世様この度一万石御加

増、村上様一万石御村替に相成り候趣、且つ又一昨年中
長岡様最寄替えの義、品々風聞これ在り右御三方様
御村替当領所村々の内にて過半御私領御引き受け
相成り候由、去卯より専ら風聞仕り候に付き当郷願惣代
追々出府その筋々へ嘆願奉り候得共見越の義に付き
御取用いに相成難く未だ安心の御沙汰にも之無く候に付き

用語
御料所→ごりょうしょ江戸時代には支配所または支配処と呼んだ。また通称で御料-ごりょう、御料所-ごりょうしょ、御料地-ごりょうち-などとも呼ばれた。したがって「天領」という呼称は江戸時代には使われなかった。明治になってからの呼び名

止むを得ず事恐れ顧みず出府嘆願奉り候、当組の義は往古
より御料所の處、
(※)文化の度一旦、伊井兵部少輔様御私
領に相成りわずかに十
年の間、村々変□悲嘆仕り候處
間もく無く御料所へ御引き戻し相成り
蘇闊致し重々有難く
仕合せに存奉候その砌、岡野町村、高尾村両村三分御値段
惣米七升せり増しを以て皆金納永久御料所に居(※据)置

下され置き度願上げ奉り候處、その御筋へお伺いの上願の
通り御下知に相成り小前一同有難くこれ迄永続罷り在り候
山中村の義は右両村御書下し通り□山中松之山郷
地続きに付き同郷同様往古より御料所にて三分の一御値段
を以皆金納仰せつけられ置候且つ又山室大沢両村の義は

用語
蘇闊→
そかつ→蘇生の意味か
(※→)天領の年貢率は4公6民を標準としていた。
これに対し、私領(大名領)では、江戸時代初期は4公6民であったが、参勤交代、幕府からの手伝普請等の負担が増え結局年貢率そのものを上げざるを得ない。江戸時代中期は5公5民、末期は6公4民が当たり前となったといわれているが年貢率の最高は高崎藩の8公2民だといわれる。
 

 
 佐州御用相勤め御私領渡さざるに相成旨仰せ渡され候、前
申上奉候通り、当組の義は別廉の義に付き御私領渡すには

相成間敷存奉候得共、万々一御私領に仰せ付けられ候ては
村々離散仕るべく、勿論、村々小前永久御料所御据え
置かれ候旨,是迄承知罷在り候處。小前諭し方之無く心配

仕り候右別廉の御恩沢相心得られ凶年違作の年柄にも

先々より破免等相願候義これ無く候、岡野町村村山
藤右衛門、度々御上金御願申上げ有難く相続罷り在り候
その外、品々に寄せ持ち之在に付き其御筋より品々御称美
仰せつけられ候、一体私共村の義は極山中にて難渋村に
之在り万々一御私領渡に相成候はば立行き難く、第一用水
路堰揚げ差支え、その外、迷惑筋多分これ在り田畑旱


用語
破免→災害による凶作の年に限り定免を検見取として年貢率を下げること 
 
 損荒地に相成り候義は歴然これまで御料所御威光を以て
他領より用水引取差し支え無く耕し罷り在り候、何卒右前
廉々義、御取調の上これ迄の通御居置下され置き之により
岡野町村、高尾村両村永久御料所皆金納御下知
判物本紙並びに山室村、大沢村、佐州御用相勤め候証
拠物相添え願いあげ奉り候、この上不安堵の御沙汰にては

村役人共上にて愚昧の百姓取慎み方これ無く小前一同
罷出嘆願奉度き旨これを申候、格別の御仁恵を以てこれ迄
の通り御居置き成し下され置き永続仕り御仁政御国恩の程
有難く相弁え農業出精の上荒地起こし返すは勿論新
田畑開発等仕るべく候間、何卒右願の通り御下知下し置かれ度願上げ奉り候 以上



用語
判物→将軍や大名の花押がすえてある文書
本紙→巻物や掛け軸で本来の書画が書かれていた紙

 備考
 江戸時代の石黒村を始め高柳村の領主はめまぐるしく変遷している。石黒村は幕府直轄地(天領は俗称)の期間が最も長い。
 本文は文久2年に山中村と高尾村が長岡領となることになり、それについての取り消しの願書の下書きである。取り消し願いの理由は、上の備考欄にも記載したように、幕領の年貢率が四公六民であるのに対して私領では六公四民であった。
 のみならず、参勤交代、普請等の負担等で実質はそれ以上の年貢率になったといわれている。また、本文に記述されている田の水利権などの問題が発生する恐れも確かにあったものであろう。ちなみにこの年の領地替えでは石黒は幕領桑名領所であった。
 また、これはあくまで筆者の想像であるが、幕府直轄地であることには、村人は多少の優越感や誇りのようなものも持っていたのではないだろうか。


     山中村古文書  読み下し・用語・備考文責 大橋寿一郎