寛政11年「出入り内熟済み口絵図表書き証文の事」写し    矢沢茂家文書 
 本         文 読み下し文と注釈 
 
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  出入り内熟済み口絵図表書き証文の事
一、刈羽郡石黒村枝寄合村百姓一同
 御訴訟申し上げ候は、同郡門出村より
 山八カ所往古より米八斗相斗(はか)り
 請け山に享保年中、出入りに及び取り扱いを
 以て右八カ所の内字「せいだ山」 「やひ
 つ」「山芋畑」右三カ所を石黒村枝寄
 合村限り進退致し外、字「風張り」「大風
 張り」「横まくり」「上屋敷」下屋敷」
此の
 五カ所の儀は石黒村枝寄合と門
 出村入会の定めにて往古より米八斗にて
 定受けにつかまつり候ところ去る丑の御検地後
 米五斗増米致され猶(なお)また去る辰年より
 右八カ所山の内にて、天和御検知御竿
 受け畑高五石余その後追々御竿追々御竿
備考
〇出入り→もめごと
〇済み口→訴訟で和解が成立すること 

 
 
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  請け高これ有る由申し立て右高御上納
 米一石増米さなく候はば取
 場山に致すべく由申し立て相定めの
米辻
 斗入り候ても増し米一同斗り納め致さず候ては
 受け取り間じき由にて辰巳両年の分
 共斗り米請けとり申さず殊に当年の四
 月門出村百姓大勢罷り出で私共
 作付致し候畑を強勢理不尽に切り返し
 必至の当惑仕り候、右請け山の内前
 段古畑受けの場所と申すは享保以来
 門出村追々皆田に田に切り開き候、然る上は
 彼等□上納と申すはこれ有るまじく

備考
 米辻→まいつじ→辻は合計の意味で総高の意味
 
 
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  と存じ奉り候、之により先規相定め候通り
 仰せ附け下し置かれ度段その分□□
 御訴訟申し上げ奉り候、門出村御答え申し
 上げ候は往古より石黒村枝寄合へ
 卸山に仕り置き候所、享和八卯年
 出入りに及びそのみぎりは双方人少なきに付
 き八カ所
 山それぞれに手入れも行き届かざる場所も
 これ有り彼是差しふくみ内(納)得仕り置き
 その後
 石黒村枝寄合は増家増人に
 相成候に従い切り添い切り開き畑は勿論
 門出村本畑休畑の分迄年増しに切
 取候に付き門出村
進退場格別相
 減り、あまつさえ取替えさせ証文に「屋ひつ
 備考
 進退場→しんたいば→自由にできる場
 
 
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  山」の内門出村持ち畑拾九枚、畑くろ
 七間通り相除き永々石黒枝寄合より
 差し障らず筈の場所迄も近年までに
 残らず奪い取りせしめ仕り候故入会場所も
 七分通り余りも石黒村枝寄合皆
 畑に仕りにつき以来増米致すべき旨懸けあい
 候處漸々米二斗増米致しなお追々
 増米致すべき由申し立てその後増米仕らず
 年毎門出村作付仕るべき地所へ建て出し
 入会場は八九分通りほど彼等
 休みなく作付仕り、且つ門出村畑高七石余
 外に冥加米地これ有り右場所の内
 一分通り余も
本畑御高請け
 これ有る分共全く右八カ所山の内に紛れ
 御座無く候、往古より石黒枝寄合村
 備考
 本畑→検地帳に記載され年貢を納めている畑
 
 
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 与三右衛門、金重郎両人に限り入会に
 作付致させ米八斗宛て請け取り候上は
 両人だけの作場に付き少分の米辻請け
 取置き其の余御上納諸役共米一石
 余は門出村上納わきまえ難儀至極仕り候
 所去る辰巳以来、元米増米とも相
 納め申さず候間、私共作付致すべき分へ
 近年致すなどより建込候分は切り返し
 申し候、然る所すべて彼等より御訴訟申し
 上げ候はかどかど彼等より相納め候様仰せつけ
 下され置き度趣その外品々お答え申上げ候
 右出入り御糺し中先だって澤田清作

 
 
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  様、石井勇八様場所御見聞御分間
 これあり候上一件深く相争い候ては
 軽からざる趣、格別御考弁を以て刈羽郡
 佐藤が池新田庄屋新伍、三嶋郡吉崎
 村庄屋吉兵衛へ取扱い仰せつけられ即ち双
 方一同立会い場所意味相ことごとく相糺し
 右争い候弁米一石余は扱い両人引き
 受け出方相償い以来共米辻相違なく
 門出村へ相渡し申し定にて畑反別
 員数を双方共これまで持ち来たり通り
 を以て申し分なく扱い人へ相任せ納得内
 済仕り即ち右八カ所山以来双方進
 退仕り来取り極め左の通り
 一、米一石一斗三升六合
   門出村天和以来追々畑高請け御上
   納米並びに山手切り替え畑冥加米廉
 
    
 
 
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      廉□右村申し立て候弁え上納米辻
   この度償い米
  右は扱い人取償いを以て金十三両二分也
  門出村惣左衛門、弥五左衛門同枝寄合村
  源右衛門、長左衛門四人へこの度相渡し
  候に付き、即ち四人引請け地所買い置き右
  
作徳米を以て豊凶に拘わらず米一石一
  斗三升六合年々門出村へ相渡し
  申すべき極め勿論後年に至り右買い置き候
  地
変地等仕り候ても石黒村枝
  寄合へ右米に付きいささか申し分仕らず永々
  米一石一斗三升六合滞りなく右
  四人より門出村へ相渡し申すべき事
 一、今般場所御分間(検)絵図面の通り受け
  所入会論外境通り相守り以来相争い 
 
備考
 作徳米→年貢米を納め残った分
 変地→災害等で耕地の地味が衰えること
 分間絵図→実測を基に作成された絵図
 
 
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  申しまじく且つ八カ所山の内字「せだ山」
 「やびつ」「山芋畑」三カ所は享保年中
 取極めの通り石黒村枝寄合に限り
 進退致すべく候、字「上屋敷」「下屋敷」「上
 風はり」「大風はり」「横まくり」五カ所は
 入会山双方鍬入れ畑反別今般扱い
 人歩数相改め長面(帳面?)双方取替えさせ置き
 候
 上は右反別の通り以来
進退
 致すべき候、たとえ右畑休畑に致し置き候共門
 出村分へは石黒村枝寄合より鍬入れ
 致すまじく石黒村枝寄合分へは門出村
 より
鍬入れ致すまじき事
 
備考
 進退→意のままに取り扱う事
 鍬入れ→開墾のことか
  
 
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  附けたり、この度相改め候畑反別の外藪 
 の分は双方入会入精(請?)次第切り替え
 畑成共木
切り刈り稼ぎ致すべき事
一、右八カ所山の内天和以来御検地毎
 畑高御竿請けの高反別並びに山手冥
 加米かどかど相記し石黒村枝寄合へ
 心得の為相渡し候間。相互に疑惑これ無き
 様相交わり申すべき事
  附けたり、享保年中取り交わされ絵図面
  字「清だ山」「大風張」とこれ有る名所は検
  地帳には「すわた山」「風張」とこれある名
  所同名所に付き以来御検地通り唱え
  申すべき定めのこと
一、定請け山三カ所の外、入会山五カ所の内
  双方共勝手を以て門出村にて田方
 備考
 菅→茅を指すものと思われる。茅葺屋の当時
   代は茅は必需品であった

  
 
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  切そえ開き候か、石黒村枝寄合において
 畑方切そえ開く等致し候節は双方対
 談の上この度相改め候畑歩増減差し
 障り申さず用に取り極めの上新開致すべき事
一、享保年中仕来りの通り右山の内
 石黒村枝寄合にて
田方切り開き致す間
 じき候事
一、字「屋ひつ山」の内門出村枝板畑
 切り替え畑1町8反18歩の分は亨
 保年中相改め取り替わせ帳面の通り
 門出村枝板畑
永々進退致すべく石黒
 村枝寄合より差し障り申しまじき事
一、字上屋敷の内長面小豆畑一枚

 
備考
 田方→耕地の内水田の分
 
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 与三右衛門持ちの場所別紙扱い人相
 改め畑歩数三百七十一歩の外立林共
 古来の通り石黒村枝寄合与三右衛門
 永々所持致すべき勿論立林の外畑に成り
 共林に成り共勝手次第に致すべき事
一、右八
所山の内双方田畑差しさわりに
 相なり候所は立木まじき候たとえ
 これまで生木(はえぎ)これ有り候共畑際田際は
 障りに相ならず用朝四
より八までの
 間日陰に相成る差しさわり候生木は双
 方立会い切り払い申すべき候、且つかくの
 ごとく取
 極め置き候ても格別差しさわり申さず場所
 
異知悪く切り払い申しまじき事
 右の通り双方ことごとく熟得内済仕り候
 所相違御座無く候、然る上は以来右一件
備考
 
異知悪く→意地悪くの意味

  
 
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  に付き聊か違乱致しまじき候、之に依り今般
 場所御分見絵図面これを写し抱え合い
 後証の為連印前段絵図四枚裏書
 相認め双方並びに扱い人所持致し候所よって
 くだんの如し

   寛政十一年未七月
        越後国刈羽郡石黒村
         訴訟方 庄屋 重五郎
             与頭 清五郎   
           百姓惣代 傳左衛門
          枝寄合村
           百姓惣代 覚左衛門
           右同断  孫衛門 
      
 
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         同国同郡門出村
          相手方 庄屋 惣左衛門
              与頭 弥五左衛門
            百姓惣代 喜兵衛
           枝寄合村
            百姓惣代 源右衛門
            右同断  長右衛門

        同国同郡佐藤池新田
          取扱人   庄屋 新吾 
        同国三嶋郡吉崎村
          同断    庄屋 吉兵衛 

               
             備   考
 門出村寄合と石黒村寄合との入会地争議は寛文年間に始まり明治に及ぶ、実に二世紀半余にもわたる長い争いであった。
 とくに、寛政10年には門出村の実力行使にまで激化し、石黒寄合が脇野町代官所に訴えるという事態に至った。(この後、江戸町奉行所へも訴えを出している)
 この容易ならぬ事態が、佐藤
池新田の庄屋新吾並びに三嶋郡吉崎村庄屋吉兵衛の取扱人の下に克明な絵図面と裏書をもって一応の解決を得たのが本文書である。
 左写真の通り、畳三枚分もある長大な文書である。本書は寄合村矢沢茂家(上記百姓惣代覚左衛門家)写しであり、原文は田辺重順家で所蔵されている。
                                             読み下し・備考文責 大橋寿一郎