大正の初め頃の学校
                          中村寿平
 大正4年4月1日に板畑分校に男子6名女子3名で入学した。入学式の服装は、母親の手作りのシャツ、モモヒキ、ツボ袖の着物、チャンチャンコの上着という出で立ちであった。
 分校は1年から4年までで30名ほどであり、1人の先生から全員が教えていただいた。先生のご苦労は大変であったと思う。
 1年生は教科書は無く、掛け図に文字と絵が書いてあるのを先生が説明をし、それを石盤に石筆で書いては消し書いては消す繰り返して勉強をした。
 冬になると本校から5、6年生が分校に来て運動場に一つしかない囲炉裏を占有され下級生は、素足にワラゾウリ履き跳び回って体を温めた。
 3年生になって、読本、算術、修身、書き方の教科書とボロ紙の手帳をもらい初めて鉛筆による記述をした。
通知表は甲、乙、丙、丁の4段階評価であった。5年生となり石黒の 本校に通学することになり、あの山道を雨の日はスゲ笠に着ゴザで素足という今では考えられない姿での通学であった。本校では高等科3年生までで270名ほどの生徒を4人の先生で教えておられた。(後文略)
                 
閉校記念誌「くろひめ」より