じょんのびの里の棚田

                              中島峰広

         (※著者紹介−日本棚田百選選定委員・早稲田大学名誉教授)

 新潟県高柳町は、2005年5月1日町村合併により柏崎市になったが、全国で最も棚田が卓越する上越市や十日町市(頚城地方)に隣接しており、棚田が多く見られる地域である。町には「じょんのび村」とよぶ評判の宿泊施設がある。その施設の案内パンフに「じょんのび」とは、ゆったりのんびりとした、心(しん)から気持ちのいいという意味を持つこの地方の言葉と書いてある。その言葉どおり、高柳町にはわれわれの心をゆったりのんびり、きもちよくさせる三つの百選の棚田がある。そのうち、磯野辺(梨ノ木田)の棚田は2001年に訪ねすでに紹介しているので、残りの大野(花坂)、門出(大開)を再訪することにした。
 2005年6月上旬、直江津に宿泊、始発の普通列車で柏崎に向かう。柏崎からは1日17便運行の岡野町行き越後交通7時20分発のバスに乗る。バスは市街地を抜けると国道252号をまず東へ。信越線安田駅前を過ぎた辺りから南へ方向を転じ、鯖石川沿い谷底平野を遡って行く。谷底平野はしだいに幅を狭め、大沢辺りまで来ると川岸にわずかな平野が残るのみとなる。乗車しておよそ50分、高柳町の中心岡野町の手前で左折する国道252とわかれ、直進して県道12号に入る。すぐに、岡野町の集落その中ほどにある小さなターミナルに到着する。
 ターミナルで、1日4便しかない越後柏崎観光バスの石黒行きに乗り換える。8時15分の次は12時10分、現地で十分な時間をとるためには始発のバスに乗るしかなく、朝早くからの行動となった。バスは、鯖石川沿いの道をさらに南に向い上流へと遡って行く。川岸段丘上にある2〜3の集落を通過、そのなかで門出(かどいで)は大きな集落。学校と郵便局があり、商店も十数軒、種屋だけでも3軒ある。やがて、鯖石川と石黒川の合流点下流に設けられている鯖石川ダム。ダムを過ぎて右折、県道12号から275線へ。今度は西に向かって石黒川に沿い上流へ遡って行く。
バスの乗客は、柏崎から一緒だったリュックを持った60歳代の男性と2人のみ。何処へ行くのか声をかけられる。大野・花坂の棚田へと答えると、自分も草花写真を撮りに行くので案内してあげるとのこと。男性は大橋寿一郎さん、現在は柏崎の市街地に住んでいるが、「ブナ林の里」と言われる石黒の出身。下石黒の神社手前でバスを降り、大橋さんの山荘によって花坂の棚田へ出かけることになった。
 生家跡に建てられた山荘は県道から数十メートル上がった高台にあり、坂道の途中に大きなサワグルミの木がある。立派な庭は凝灰岩の石が敷き詰められ、中央に中国から輸入したという大きな灯篭、奥まったところに三階建て瀟洒な白壁の山荘が配され、背後がブナ林になっている。その豪華さに圧倒される。
 大橋さんは66歳、栃尾市半蔵金の田代分校を振り出しに田中角栄首相の母校、西山町二田小学校が最後になった教員生活を数年前に終え、現在は自宅と山荘を行き来する悠々自適の生活。昨年、地元の仲間とともに編集・出版された「ブナ林の里歳時記−石黒の昔の暮らし−」を戴いた。447頁、年中行事、四季の農作業、日常の暮らし、子どものくらし、伝説、昔話、神社、方言と俗信などを内容とする大判の報告書、過疎化と高齢化で消えていこうとしている故郷の暮らしを記録し、残しておきたかったと仰しゃる。
 お借りした長靴で足元をかため花坂へ。山荘のある高台の標高は200メートル、黒姫山中腹にある花坂新田の最上段は440メートル、200メートル以上の上りである。花坂新田は、みず山といわれるほど水量の豊富な黒姫山の南西斜面中腹「ミズアヤグチ」からの湧水を引水して19世紀初期に開発された棚田である。歳時記の伝説によれば、「昔、板畑の本家に大野の娘が住み込みで働いていた。ある日村中が本家に集まり、黒姫山の中腹から湧き出るミズアナグチの水を農業用水として板畑に引く相談が夜の更けるまで続き、他集落に先んじるため、早速翌日に鍬立てをしようということに決まった。このことを聞いた娘は家人が寝静まるを待って大野の実家に急いで帰り知らせた。大野では用水を板畑に引かれては一大事と、すぐさま村中集まり夜明け前にミズアナグチの水を引く工事の鍬立てをした。こうして娘のお陰で大野は豊かな水源を確保できたという。」とある。勿論、真偽のほどは判らないが、大野と板畑の間で石黒川支流小沢川上流の水源を巡る争いがあったかもしれない。
 花坂へ上り始めてすぐ、庭にいた隣家のかあさんが大橋さんに挨拶する。かあさんは、トラクターが横転、その下敷きで身体が不自由になった主人を最近亡くした気の毒な人だという。棚田地域でよく聞く事故の話である。道を覆うブナ林は淡い緑から濃い緑にかわり始めていた。葉脈と鋸歯に特徴のあるブナの葉は腐食するのが遅く、厚く積もるので保水力に富むということである。
道の傍らで見られる植物の話が続く、花がガクアジサイに似ているケナシヤブデマリ、葉がニリンソウに似ているので食べて毒にやられるトリカブト。葉の汁を絞って便つぼに入れてウジを殺したことからウジゴロシといわれるハエドクソウ、葉を嗅ぐといつまでも青臭い匂いが残った。花を食べると甘酸っぱくて美味しいヤマツツジ。食べて毒があるのはレンゲツツジ。母親にヘラ(舌)が割れると教えられたそうだ。
ブナ林から棚田の広がる道を上ると、上石黒から大野へ通じる道と交差する。標高292メートル、大野集落を右に見ながら直進、赤い屋根の小さなお堂との間には1枚が10アール近い棚田がゆったりと横たわっている。さらに上っていくと、視界がひらけ円錐形の美しい姿からなだらかで特徴のない山容にかわった黒姫山。それに続く地蔵峠や小岩峠などの切れ込みのある山並みが空を限る。その斜面は、淡紅色のタニウツギに彩られている。タニウツギは、花の時期が田植期と重なるためタウエバナ、またもえにくく火箸に使われたのでヒバシノキともいわれるそうだ。人影はなく、カッコウ、ウグイス、「トッキョキョカキョク」と聞えるホトトギスがしきりに鳴く。大橋さんは、タニウツギの花が咲き、カッコウが啼く季節が尤も好きだと仰しゃる。山側の斜面には地辷り防止のための水抜き工が数か所設けられ、そのボーリング口から水がしたたり落ちていた。このように水の多いことから黒姫山がみず山といわれるのであろう。

 
 標高350メートル辺りから花坂の棚田が現れる。個票によれば、傾斜が十五分の一の急斜面で法面土坡とあるが、斜面は明らかに違っている。西の谷に向かっての棚田は、斜面が四分の一の急斜面で標高450メートル付近までつづいている。法面が大きく、森や耕作放棄地がまじっているので、水を湛えた棚田が全面を覆っているという感じではない。一枚の面積も計算によれば20アールほどになるがそれほど大きな棚田はほとんど見られない。花坂の棚田の最高点付近から全体を眺めると、手前に一枚の大きさが5〜15アールはあると思われる半円形をした棚田が数枚、その先に円形、あるいは細長い形の棚田がそれぞれ段を違えて分布し、さらに行儀よく等間隔に階段をつくり、6〜7段の棚田が水面を光らせている。これらの棚田の背景になっているのがなだらかな稜線を描く頚城の山々であり、全山濃淡のある緑の衣服をまとい、こころ和むやさしい山里の 景色をつくりだしている。
 帰り道は、大野集落のなかを通る。家はL字型の曲り屋。すなわち、座敷、居間、寝室や台所・土間がある母屋の片方から直角に物置となっている馬屋の玄関が突き出ているL字構造。冬の積雪が3〜4メートル、多い年は5メートルを越える豪雪地では「雪堀り」という言葉があるように家を雪の中から掘り出す必要がある。しかし、集落内は、廃屋が点々とみられ、人影がなく物音もしない。歳時記によると1955年当時の人口は、大野26戸(145人)、下石黒50戸(274人)である。これに対して、支所の資料によると2005年の戸数と人口は、大野5戸(14人)、下石黒12戸(22人)である。つまり、最近の50年間に戸数は五分の一、人口は十分の一に減少。消えゆくむらが現実となりつつあることを実感させられる数字である。
 山荘に戻り、さらに石黒の暮らしについて聞いた中で興味をそそられたのが火事の話。大橋さんが中学生の頃、落合で火事があり各集落の消防団が手押しポンプを引っ張って駆け付けた。しかし、消火に使う水がなく窮余の一策として上段の棚田の水を引き落として下段の池に集めて水量を確保して消火作業を行なうことが出来たそうだ。これで棚田のもつ多面的機能がさらに一つ増えたことになる。
 大橋さんの山荘を後にして、最終バスに追いつかれるまで歩くことにした。下石黒を出てしばらくすると、石黒川左岸の崖が剥き出しになっている。中越地震による被害の跡だそうだ。行き交う車もなく悠々と歩いていると、石黒行きの最終バスがやってきた。朝乗ったときと同じ運転手、目で挨拶を交わす。そして、引き返してきたバスに追いつかれたのは鯖石川ダム。お客さんが私ひとりということもあって、宿にした「じょんのび村」まで路線を外れて送ってくれた。
 翌日、門出の大開(おおびらき)の棚田を訪ねる。同じ運転手のバスに乗り、門出宮村で下車。大開の田は門出集落の南の外れ、県道から西へ小さな谷を入ったところにあった。集落南端の崖の上から見下ろすと全体を見渡すことができる。個票によれば、傾斜六分の一、面積12ヘクタール、枚数52枚、法面土坡とある。1980年代後半に圃場整備が行なわれた菱形の整然とした棚田。8段は架けられるハサ木が10
所近くあり、目立つ存在。地区は、4本の縦断する農道により五ブロックに分けられ、一枚5アールの棚田が各ブロックに6〜8だんずつ配置されている。区画が菱形になっているのは、勾配を緩やかにする目的で斜めに農道がつけられているためであり、各圃場の進入路をなめらかにする工夫と思われる。しかし、半分近くが休耕しているか放棄されている。
この状況を憂える門出農青連大開地区の責任者小林康生さん、51歳に会う。小林さんは大開の棚田20アールを耕作するとともに、地元で生紙(靭皮繊維の和紙)工房を営み、国内で生産される楮50トンのうち6トンを消費、作られる和紙の大部分は銘酒「久保田」のラベルになっている。工場で働く人はパートタイムを含めて15名、楮の生産者まで含めると50名の雇用を創出している地域活性化の貢献者でもあり、和紙業界だけでなく、広くその名が知られている有名人である。
大開の棚田については、圃場整備が行なわれて作業全体としては容易になったがコンバインが使用できないほどの湿田であるため、最近50歳台の耕作者が相次いで耕作を放棄したという。そこで門出農青連に属するメンバー8名が復田作業中。先程耕作途中の田が数枚見られたのはこのためである。小林さんのように多忙な本業を持つ人が復田にこだわる理由を聞いて見ると、放棄されていく棚田を見るのは切ないとのこと。子どもの時から、父親の手伝いで牛の鼻をとり、草刈りなど大人並に作業をして
流した汗が染みこんでいる棚田は、苦しいこと、楽しいことを懐かしく思い出させる風景だからと仰しゃる。実際に保全に携わる人の発言には重みがあり、そのような気持ちをもつ人が一人でもいるかぎり、棚田は生き残るのではないだろうかと思いながら、石黒から引き返してくるバスを待った。

(中島峰広著「続・百選の棚田を歩く」 平成18年8月6日発行から)