明治22年頃の学校の思い出
                  上石黒  田辺甚太郎


            
小さな校舎
 校舎は今の寄宿舎〔役場跡地のあたり〕の所に建てられていた。コバ屋根〔杉の木の正目を薄く割いた板で葺く屋根〕で二階造りの小さなもので階下が運動場で二階が教室になっていた。階下のケタが低いので飛び上がると二階の床板に届くほどのものであった。校舎だけで屋外運動場などは勿論なかった。生徒の総数は20名前後のようだった。

        
教科書と学習の様子
 学校は4年生まであって教科書としては読本・算術・書き方だけのようだった。
 読本は「新定読本」と名前がつけられ、1年に上下2冊の本を習った。1年生の時の読本は1ページに字が一つだけ、たとえば「キ」という字であれば大きい「キ」が一字だけ書いてあって、周りにはきれいな木の絵が描いてあった。読本は読むことと書くことが主なるものであった。
 3年生頃から漢字を少しずつ習うようになってきた。算用数字は2年生になってから教えてもらい、数字を使ったたし算や引き算も同じ学年になってから勉強した。
 書き方は毎日あり、一枚の紙に月曜日から金曜日まで同じ字を練習し、土曜日には必ず清書をして先生の所へ出した。習字の紙は学校では準備をしてもらえなかったので手漉きのキガミ〔和紙〕を家からみんなが持ってきて行った。清書をした残りの墨があるとみんなで黒板に塗ることになっていた。

      
石版を買ってもらったときのうれしさ
 学習に使った道具には石板と石筆があった。店は石黒には一軒もなかったので柏崎まで行って買い求めるよりいたしかたなかった。
石 板

 居谷、落合、上石黒、大野を経て鵜川に出る道は松之山街道といって大切な道路とされていた。自給自足ができて他からはほとんどといってよいほど買い物をしなくても生活できた。ただ、日常生活に欠くことの出来ない塩とクソーズ〔灯油〕だけはここでは手に入れる事ができないので柏崎まで出かけたものだ。柏崎に買い物に出かけるという話を聞けば石板や石筆を買ってきてもらうことを頼んだものだ。
 遠い柏崎に出かけることのなると午前3時頃に出発して夕方遅くならなければ帰ってこれなかった。その待ち遠しいことと言ったら口や言葉に表すことができなかった。
翌朝起きてみると頼んでおいた石板や石筆があるのを見ると、とてもうれしくてたまらなかった。

       
 楽しかったしみわたり
 体操は狭い校舎ではできなかった。しかし、3月頃になると雪が一面に固くなるのでしみ渡りができた。その時、アレ〔欅の木で作った小さなツチのようなもの〕をふりながら、「みやさん、みやさん、お馬の前に、キラキラするものなんじゃいな、トコトンヤレトンヤレナ」(→参照)と歌いながら元気よく歩いたものだ。みんなで、「いい歌だなあ、面白い歌だなあ」と思いながら時の過ぎるのも忘れてしみ渡りをしたことは忘れることのできない思い出の一つである。

              
 「石黒校の百年の歩み」より