備考
本文は明治23~25年頃の石油(当時は草生油)の売り渡し帳面である。24年には一升の代金が10銭とある。買い主の大橋与三次という人は4月から12月までに6升の石油を買っている。用途はおそらく灯火用であろう。そのことは、昼の長い5月から8月頃は購入量が少なく隔月に買っているが、9月から12月までは毎月買っていることからも推定できる。最も日の短い11月から12月にかけては1か月たらずで1升5合を買っている。
それにしても、一升の石油を一か月も、もたせるとは余ほど倹約して使ったものであろう。夕飯時とか、来客の時とか特別の場合のみに石油ランプは使わなかったのかもしれない。
藁仕事などは囲炉裏の周囲でたき火の灯りで十分にできたものであろう。(筆者の経験では、昭和の前半まで石黒では、冬季に雪のための1~2日間ほどの停電がしばしばあったが、そんな時には家族全員が肩が触れ合うように囲炉裏端に寄って、就寝までの時間を過ごしたものである)
ところで、幕末のころから明治の初めに、石黒では大野地区をはじめ下石黒や上石黒に多くの油井が掘られている。最初の掘削は、安政6年に油田村の幸左衛門という業者が入って村庄屋と契約を取り交わしている(田辺重順家文書)。
その後、石油資源開発会社が刈羽郡や東頸城郡など一帯で試掘をしている。昭和38年の長岡市の「市政だより」には「石油掘削の記録は明治3年、石黒の1号井にはじまり・・・・」とある。
現在残っている大日本帝国油田リストの石黒の部によれば上石黒や大野地区には、最盛期の日産5石(900ℓ)の油井もあった事が記されている。→資料
膨大な石油消費社会の現代にあっては、日産900ℓの油井など油の匂い程度のものに過ぎないが、石油が灯火用しか用途のなかった当時にしてみれば馬鹿にできない量であったであろうと思われる。ましては、1升の石油を倹約しながら1ケ月余も使ったという石黒では、日産5石は莫大な量であったに違いない。 |
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